2026年3月1日 マルコの福音書10:35~45「神の国を受け入れる」
ゼベダイの息子たち、ヤコブとヨハネが、イエスのところに来て言った。「先生。私たちが願うことをかなえていただきたいのです。」イエスは彼らに言われた。「何をしてほしいのですか。」彼らは言った。「あなたが栄光をお受けになるとき、一人があなたの右に、もう一人が左に座るようにしてください。」しかし、イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、自分が何を求めているのか分かっていません。わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができますか。」彼らは「できます」と言った。そこで、イエスは言われた。「確かにあなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることになります。しかし、わたしの右と左に座ることは、わたしが許すことではありません。それは備えられた人たちに与えられるのです。」ほかの十人はこれを聞いて、ヤコブとヨハネに腹を立て始めた。そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められている者たちは、人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。しかし、あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」( マルコの福音書10:35-45 )
今年のテーマは「神の国を受け入れる」です。前回、金持ちの青年のお話をしました。当時金持ちは神の祝福されている人、それゆえ救いに近い人だと思われていました。しかし彼は神よりも財産に執着したゆえに、神の国に入ることができないとイエスに指摘されました。
神、すなわちイエスが支配されておられる神の国の規準は、私たちの常識、価値観、規準とは「逆」「反対」であるという一つの例です。 本日の聖書箇所は、神の国の規準、すなわちイエスの規準が、人間の規準とは異なる最たるものです。共にみ言葉から見て行きたいと思います。
本日の聖書箇所は、弟子たちの願いから始まっています。
10:35 ゼベダイの息子たち、ヤコブとヨハネが、イエスのところに来て言った。「先生。私たちが願うことをかなえていただきたいのです。」イエスは人の心を見抜かれます。彼らの願いがどういうものであるかを御存知でした。しかしあえて彼らに願いを語らせました。
10:36 「何をしてほしいのですか。」心にあるものをことばに登らせることによって、イエスは彼ら自身が何を考え、何を願っているのかをはっきりさせました。しかし彼らが口に出したことは神の、すなわちイエスの規準の逆、反対のものでした。すなわち御心に適わない願いでした。
10:37 「あなたが栄光をお受けになるとき、一人があなたの右に、もう一人が左に座るようにしてください。」彼らは神の国を地上の王国のように考え、地上と同じような地位と栄光を求めました。主イエスが王となられる時に、自分たちを右と左に座らせてください、すなわち主イエスの側近く、最も高い地位につけてください、と願いました。ヤコブとヨハネは、他の弟子たちよりも偉くなりたいと思った訳です。 これを聞いた他の10人の弟子たちは腹を立てました。二人に出し抜かれたと思ったようです。彼らも権力や栄誉を求め、自分が最も偉くなり、イエスと共に高い地位につきたい、と思っていたことが分かります。かつてイエスの弟子たちは誰が一番偉いかと論じあっていたことがありましたが、全く変わっていません。それに対してイエスは38節で、
10:38 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、自分が何を求めているのか分かっていません。わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができますか。」
10:39 彼らは「できます」と言った。そこで、イエスは言われた。「確かにあなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることになります。
この杯とは何を指しているのでしょうか。イエスは十字架の直前、ゲツセマネの園でこのような祈りを献げられました。「父よ、もし出来るならばこの杯を私からとりのけて下さい」主イエスでさえ、断りたくなるような杯です。
旧約聖書、エレミヤ書、25章15節にはこのような神のことばがあります。まことにイスラエルの神、主は、私にこう言われた。「この憤りのぶどう酒の杯をわたしの手から取り、わたしがあなたを遣わすすべての国々に、これを飲ませよ。」従って杯とは、神の怒りが満たされているものの象徴であることが分かります。その怒りを飲ませるとは、神を信じない、神に従わない国々に、神の裁きが下るということが表されています。 先週出エジプト記を見ました。イスラエルが金の子牛を神として作り、崇め、不品行を行い、神に裁かれました。 しかし今の日本を見ても、また世界を見ても、イスラエルと全く変わりはありません。同じです。 偶像を作り、それを拝み、仕え、従っています。ですからイエスが言われる杯とは、神を信じない、従わない人類に対する神の怒りであり、その怒りは、罪ある全ての人間に向けられているということになります。
ではイエスが言われた、わたしが受けるバプテスマとは何を意味しているのでしょうか。イエスはルカの福音書の中でこのように語られています。ルカの福音書12:50 わたしには受けるべきバプテスマがあります。それが成し遂げられるまで、わたしはどれほど苦しむでしょう。
イエスが言われた受けるべきバプテスマとは、苦しみであることが分かります。そしてそのためにどれほど苦しまなければならないのか、というイエスの責任、義務、そして使命を感じさせることばです。 本日の聖書箇所には、私が受けるバプテスマと、神の怒りが満たされている杯とが結びついています。従って私が受けるバプテスマとは、杯、つまり神の怒りを飲む-すなわち神の怒りをその身に受ける、十字架の痛み、苦しみ、苦難を表していることが分かります。本来であれば犯罪者が架けられる十字架ですが、イエスは神の怒りを人類の身代わりに十字架で受け、その身代わりの苦難のことを、イエスは「私が受けるバプテスマ」と呼ばれました。
ですからイエスが「わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができますか。」ヤコブとヨハネに尋ねられた本当の意味は、あなたたちは神の怒りに触れることが出来ますか?
神の怒りに対して神と人との間に立ってとりなすことが出来ますか?神の怒りを宥めることができますか?神の怒りをその身に受けることができますか?そのように聞いておられるということです。途方もないことをイエスは二人に問われた。ヤコブとヨハネはもちろんそのようなことは分かりません。いや、どのような人間であっても分かるはずがありません。ですから彼らは分からず、その重大な意味を理解できなかったゆえに、簡単に「できます」と答えました。答えることができました。罪に対する、また神の怒りに対する人間の無知、理解の乏しさを弟子たちが代表し、また表していると言えます。 イエスは彼らの無知や無理解を承知の上で、「確かにあなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることになります。」と言われました。
それはイエスがあじあわれる十字架の苦しみとは比べることはできませんが、イエスのために、福音のために彼らが将来受けることになる迫害、痛み、苦難、そして死を予知、預言していることばでもあります。 実際に彼らは苦難や痛みをこれから経験して行くことになります。ヤコブはエルサレムで迫害のためにヘロデ王に殺害されて殉教します。(使徒12:2)そしてヨハネはローマ皇帝ドミティアヌスの迫害によって、パトモスという島に、島流しになりました。(黙示録1:9)
イエスはヤコブとヨハネの将来に起こることを踏まえながら、人間の願いと神のご計画が異なるということを40節で語られました。
10:40 しかし、わたしの右と左に座ることは、わたしが許すことではありません。それは備えられた人たちに与えられるのです。」このような名誉を意のままに与えることはイエスに任せられたのではなく、父なる神にのみ属するということです。 神の子であるイエスですら、父なる神の御心に、ご計画に従っている。そしてそれが人類の身代わりのための十字架である。従って自分の願いや計画よりも、神の御心、ご計画に従って生きることが一番大切である。栄誉や栄光を求めて生きることは重要ではない、ということをイエスは彼らに諭されています。 さらにイエスはここで、彼らが願っている栄誉、求めている栄光が、この世の規準、そして神を知らないで歩んでいる者たちと同じ-ここでは異邦人を代表させて-であることを42節で警告として語られ、そうあってはならない、そのように歩んではならないと43節、44節で語っておられます。
10:42 「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められている者たちは、人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。
10:43 しかし、あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。
イエスは異邦人世界の規準、すなわちこの世の規準と、神の国の規準、イエスご自身の持っておられる規準とを、明確に対比されました。それは自分のためではなく、他者のために仕え、尽くしていくことを使命とする生き方です。 さらに44節においてこのように語られました。
10:44 あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。
しもべとは、自分の身柄(仕事も生活も)が他者に属するいわゆる奴隷の意味です。従ってイエスは、神の国の価値観や生き方、規準はこの世のものとは全く反対で、偉い人、人の上に立ちたいと思っている人はむしろ徹底して仕えなさい。そして先頭に立つ者、支配者は、しもべのように、そして奴隷のように人々のために生きるべきだ、と言われました。 実際にイエスは、弟子たちに教えられたとおりに生きたお方です。45節にそのことが述べられています。
10:45 人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。
イエスの弟子たちがなぜ、仕える者の姿をとるべきなのかという理由、そして根拠が語られています。それはそもそもイエスが、仕えられるためにではなく、仕えるためにこの世に、この世界に来たからだ、ということです。そしてイエスが人々に仕えるためにこの世に来たということが具体的に表されているのが、「十字架」への歩みであり、また「十字架」で成し遂げられたことでした。
「十字架」への歩みと、「十字架」で成し遂げられたことをイエスはここで「贖いの代価」ということばを使って説明されておられます。
何度かお話していますが、贖いとは、戦争の捕虜や奴隷、負債者を解放するため、自由にするために、誰かがその人を買い戻すための身代金を意味します。「多くの人のため」とありますが、これは一部の人ではなく、人類を包括する、人類全てと理解して良いでしょう。イエスが人間として歩まれた今から2000年前の時代を超え、今を生きている日本人も、全ての国、民族も含まれます。イエスは、神を信ぜず、自分勝手に歩んでいる人間に対する神の怒りの杯を、十字架で全て受け止めて下さいました。またイエスが十字架で受け止められたのは神の怒りだけでなく、私たち人間の罪と、罪から来る死でした。さらにイエスは悪魔、サタンが人間の罪を足場にして、人間を奴隷にしているその私たち人間を、十字架を通して解放して下さるお方です。それら全てが十字架の贖いを通して成し遂げられました。 罪に束縛されている人間を解放し、神の怒りを宥め、またサタンの奴隷からも解放する業が十字架です。それもご自身が私たちを生かすためにしもべになり、奴隷となって仕えて下さったからです。 またこの45節には「贖い」という思想だけではありません。「いのちを与えるために来た」とイエスが語られた「いのち」にも深い意味があります。
「いのち」は、新約聖書の原語のギリシャ語で「プシュケー」ということばが使われていますが、いのちという意味の他に、魂、生涯、自分自身などを意味することばでもあります。 イエスは私たちたちを罪と死と、サタンの奴隷から解放するために私たちを贖って下さいましたが、その代価、すなわち私たち人類に捧げて下さったのはいのちだけではない-心、感情、意志などを含む魂、イエスの歩まれた全生涯、そしてイエスご自身。すなわちイエスは、イエスが持っておられるすべてを、私たちのために与え尽くして下さった、ということが表されていることばです。 そしてその全てが、十字架に集中、結集していると言えます。イエスの十字架の死は、「多くの人の身代金」としての、死でした。捕えられ、捕虜となっているのは私たちのことです。自分たちを右と左に座らせてくださいと願った二人の弟子たちも、それに憤慨した他の弟子たちも、そして人と自分とを見比べることによって一喜一憂している私たちも、すなわち罪の中に足を取られ、身動きできない私たち一人一人の人間のための、身代金でした。イエスが十字架に架かるほどに父なる神の御心に、またご計画に従順に従われました。それほどまでに私たち人間に仕えて下さったゆえに、今私たちはイエスの十字架の贖いを信じることによって罪赦され、神の子とされる特権に与ることができました。そしてイエスによって救われた私たちもまた、イエスが人々に仕えられたように、人に仕えていく者として召されています。どれだけ仕えることが出来るのか、他の人と比べてどうなのか、などということは問題にはなりません。不十分にしか出来ないかもしれませんが、それでも喜んで、感謝しつつ、自分に出来ることを通して人に仕えていく。イエスを模範として。
イエスの仕える姿は、この世、この世界の規準の逆、反対です。そしてその反対の規準にある神の国に、私たちはイエスを通して入れて頂けました。イエスに感謝しつつ、神の国、すなわちイエスの規準によって歩み、人々に仕えていくことができますように。
祈ります。
「神の国を受け入れる」
人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。
ゼベダイの息子たち、ヤコブとヨハネが、イエスのところに来て言った。「先生。私たちが願うことをかなえていただきたいのです。」イエスは彼らに言われた。「何をしてほしいのですか。」彼らは言った。「あなたが栄光をお受けになるとき、一人があなたの右に、もう一人が左に座るようにしてください。」しかし、イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、自分が何を求めているのか分かっていません。わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができますか。」彼らは「できます」と言った。そこで、イエスは言われた。「確かにあなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることになります。しかし、わたしの右と左に座ることは、わたしが許すことではありません。それは備えられた人たちに与えられるのです。」ほかの十人はこれを聞いて、ヤコブとヨハネに腹を立て始めた。そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められている者たちは、人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。しかし、あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」( マルコの福音書10:35-45 )
今年のテーマは「神の国を受け入れる」です。前回、金持ちの青年のお話をしました。当時金持ちは神の祝福されている人、それゆえ救いに近い人だと思われていました。しかし彼は神よりも財産に執着したゆえに、神の国に入ることができないとイエスに指摘されました。
神、すなわちイエスが支配されておられる神の国の規準は、私たちの常識、価値観、規準とは「逆」「反対」であるという一つの例です。 本日の聖書箇所は、神の国の規準、すなわちイエスの規準が、人間の規準とは異なる最たるものです。共にみ言葉から見て行きたいと思います。
本日の聖書箇所は、弟子たちの願いから始まっています。
10:35 ゼベダイの息子たち、ヤコブとヨハネが、イエスのところに来て言った。「先生。私たちが願うことをかなえていただきたいのです。」イエスは人の心を見抜かれます。彼らの願いがどういうものであるかを御存知でした。しかしあえて彼らに願いを語らせました。
10:36 「何をしてほしいのですか。」心にあるものをことばに登らせることによって、イエスは彼ら自身が何を考え、何を願っているのかをはっきりさせました。しかし彼らが口に出したことは神の、すなわちイエスの規準の逆、反対のものでした。すなわち御心に適わない願いでした。
10:37 「あなたが栄光をお受けになるとき、一人があなたの右に、もう一人が左に座るようにしてください。」彼らは神の国を地上の王国のように考え、地上と同じような地位と栄光を求めました。主イエスが王となられる時に、自分たちを右と左に座らせてください、すなわち主イエスの側近く、最も高い地位につけてください、と願いました。ヤコブとヨハネは、他の弟子たちよりも偉くなりたいと思った訳です。 これを聞いた他の10人の弟子たちは腹を立てました。二人に出し抜かれたと思ったようです。彼らも権力や栄誉を求め、自分が最も偉くなり、イエスと共に高い地位につきたい、と思っていたことが分かります。かつてイエスの弟子たちは誰が一番偉いかと論じあっていたことがありましたが、全く変わっていません。それに対してイエスは38節で、
10:38 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、自分が何を求めているのか分かっていません。わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができますか。」
10:39 彼らは「できます」と言った。そこで、イエスは言われた。「確かにあなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることになります。
この杯とは何を指しているのでしょうか。イエスは十字架の直前、ゲツセマネの園でこのような祈りを献げられました。「父よ、もし出来るならばこの杯を私からとりのけて下さい」主イエスでさえ、断りたくなるような杯です。
旧約聖書、エレミヤ書、25章15節にはこのような神のことばがあります。まことにイスラエルの神、主は、私にこう言われた。「この憤りのぶどう酒の杯をわたしの手から取り、わたしがあなたを遣わすすべての国々に、これを飲ませよ。」従って杯とは、神の怒りが満たされているものの象徴であることが分かります。その怒りを飲ませるとは、神を信じない、神に従わない国々に、神の裁きが下るということが表されています。 先週出エジプト記を見ました。イスラエルが金の子牛を神として作り、崇め、不品行を行い、神に裁かれました。 しかし今の日本を見ても、また世界を見ても、イスラエルと全く変わりはありません。同じです。 偶像を作り、それを拝み、仕え、従っています。ですからイエスが言われる杯とは、神を信じない、従わない人類に対する神の怒りであり、その怒りは、罪ある全ての人間に向けられているということになります。
ではイエスが言われた、わたしが受けるバプテスマとは何を意味しているのでしょうか。イエスはルカの福音書の中でこのように語られています。ルカの福音書12:50 わたしには受けるべきバプテスマがあります。それが成し遂げられるまで、わたしはどれほど苦しむでしょう。
イエスが言われた受けるべきバプテスマとは、苦しみであることが分かります。そしてそのためにどれほど苦しまなければならないのか、というイエスの責任、義務、そして使命を感じさせることばです。 本日の聖書箇所には、私が受けるバプテスマと、神の怒りが満たされている杯とが結びついています。従って私が受けるバプテスマとは、杯、つまり神の怒りを飲む-すなわち神の怒りをその身に受ける、十字架の痛み、苦しみ、苦難を表していることが分かります。本来であれば犯罪者が架けられる十字架ですが、イエスは神の怒りを人類の身代わりに十字架で受け、その身代わりの苦難のことを、イエスは「私が受けるバプテスマ」と呼ばれました。
ですからイエスが「わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができますか。」ヤコブとヨハネに尋ねられた本当の意味は、あなたたちは神の怒りに触れることが出来ますか?
神の怒りに対して神と人との間に立ってとりなすことが出来ますか?神の怒りを宥めることができますか?神の怒りをその身に受けることができますか?そのように聞いておられるということです。途方もないことをイエスは二人に問われた。ヤコブとヨハネはもちろんそのようなことは分かりません。いや、どのような人間であっても分かるはずがありません。ですから彼らは分からず、その重大な意味を理解できなかったゆえに、簡単に「できます」と答えました。答えることができました。罪に対する、また神の怒りに対する人間の無知、理解の乏しさを弟子たちが代表し、また表していると言えます。 イエスは彼らの無知や無理解を承知の上で、「確かにあなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることになります。」と言われました。
それはイエスがあじあわれる十字架の苦しみとは比べることはできませんが、イエスのために、福音のために彼らが将来受けることになる迫害、痛み、苦難、そして死を予知、預言していることばでもあります。 実際に彼らは苦難や痛みをこれから経験して行くことになります。ヤコブはエルサレムで迫害のためにヘロデ王に殺害されて殉教します。(使徒12:2)そしてヨハネはローマ皇帝ドミティアヌスの迫害によって、パトモスという島に、島流しになりました。(黙示録1:9)
イエスはヤコブとヨハネの将来に起こることを踏まえながら、人間の願いと神のご計画が異なるということを40節で語られました。
10:40 しかし、わたしの右と左に座ることは、わたしが許すことではありません。それは備えられた人たちに与えられるのです。」このような名誉を意のままに与えることはイエスに任せられたのではなく、父なる神にのみ属するということです。 神の子であるイエスですら、父なる神の御心に、ご計画に従っている。そしてそれが人類の身代わりのための十字架である。従って自分の願いや計画よりも、神の御心、ご計画に従って生きることが一番大切である。栄誉や栄光を求めて生きることは重要ではない、ということをイエスは彼らに諭されています。 さらにイエスはここで、彼らが願っている栄誉、求めている栄光が、この世の規準、そして神を知らないで歩んでいる者たちと同じ-ここでは異邦人を代表させて-であることを42節で警告として語られ、そうあってはならない、そのように歩んではならないと43節、44節で語っておられます。
10:42 「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められている者たちは、人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。
10:43 しかし、あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。
イエスは異邦人世界の規準、すなわちこの世の規準と、神の国の規準、イエスご自身の持っておられる規準とを、明確に対比されました。それは自分のためではなく、他者のために仕え、尽くしていくことを使命とする生き方です。 さらに44節においてこのように語られました。
10:44 あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。
しもべとは、自分の身柄(仕事も生活も)が他者に属するいわゆる奴隷の意味です。従ってイエスは、神の国の価値観や生き方、規準はこの世のものとは全く反対で、偉い人、人の上に立ちたいと思っている人はむしろ徹底して仕えなさい。そして先頭に立つ者、支配者は、しもべのように、そして奴隷のように人々のために生きるべきだ、と言われました。 実際にイエスは、弟子たちに教えられたとおりに生きたお方です。45節にそのことが述べられています。
10:45 人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。
イエスの弟子たちがなぜ、仕える者の姿をとるべきなのかという理由、そして根拠が語られています。それはそもそもイエスが、仕えられるためにではなく、仕えるためにこの世に、この世界に来たからだ、ということです。そしてイエスが人々に仕えるためにこの世に来たということが具体的に表されているのが、「十字架」への歩みであり、また「十字架」で成し遂げられたことでした。
「十字架」への歩みと、「十字架」で成し遂げられたことをイエスはここで「贖いの代価」ということばを使って説明されておられます。
何度かお話していますが、贖いとは、戦争の捕虜や奴隷、負債者を解放するため、自由にするために、誰かがその人を買い戻すための身代金を意味します。「多くの人のため」とありますが、これは一部の人ではなく、人類を包括する、人類全てと理解して良いでしょう。イエスが人間として歩まれた今から2000年前の時代を超え、今を生きている日本人も、全ての国、民族も含まれます。イエスは、神を信ぜず、自分勝手に歩んでいる人間に対する神の怒りの杯を、十字架で全て受け止めて下さいました。またイエスが十字架で受け止められたのは神の怒りだけでなく、私たち人間の罪と、罪から来る死でした。さらにイエスは悪魔、サタンが人間の罪を足場にして、人間を奴隷にしているその私たち人間を、十字架を通して解放して下さるお方です。それら全てが十字架の贖いを通して成し遂げられました。 罪に束縛されている人間を解放し、神の怒りを宥め、またサタンの奴隷からも解放する業が十字架です。それもご自身が私たちを生かすためにしもべになり、奴隷となって仕えて下さったからです。 またこの45節には「贖い」という思想だけではありません。「いのちを与えるために来た」とイエスが語られた「いのち」にも深い意味があります。
「いのち」は、新約聖書の原語のギリシャ語で「プシュケー」ということばが使われていますが、いのちという意味の他に、魂、生涯、自分自身などを意味することばでもあります。 イエスは私たちたちを罪と死と、サタンの奴隷から解放するために私たちを贖って下さいましたが、その代価、すなわち私たち人類に捧げて下さったのはいのちだけではない-心、感情、意志などを含む魂、イエスの歩まれた全生涯、そしてイエスご自身。すなわちイエスは、イエスが持っておられるすべてを、私たちのために与え尽くして下さった、ということが表されていることばです。 そしてその全てが、十字架に集中、結集していると言えます。イエスの十字架の死は、「多くの人の身代金」としての、死でした。捕えられ、捕虜となっているのは私たちのことです。自分たちを右と左に座らせてくださいと願った二人の弟子たちも、それに憤慨した他の弟子たちも、そして人と自分とを見比べることによって一喜一憂している私たちも、すなわち罪の中に足を取られ、身動きできない私たち一人一人の人間のための、身代金でした。イエスが十字架に架かるほどに父なる神の御心に、またご計画に従順に従われました。それほどまでに私たち人間に仕えて下さったゆえに、今私たちはイエスの十字架の贖いを信じることによって罪赦され、神の子とされる特権に与ることができました。そしてイエスによって救われた私たちもまた、イエスが人々に仕えられたように、人に仕えていく者として召されています。どれだけ仕えることが出来るのか、他の人と比べてどうなのか、などということは問題にはなりません。不十分にしか出来ないかもしれませんが、それでも喜んで、感謝しつつ、自分に出来ることを通して人に仕えていく。イエスを模範として。
イエスの仕える姿は、この世、この世界の規準の逆、反対です。そしてその反対の規準にある神の国に、私たちはイエスを通して入れて頂けました。イエスに感謝しつつ、神の国、すなわちイエスの規準によって歩み、人々に仕えていくことができますように。
祈ります。
「神の国を受け入れる」
人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。