ライブ配信

礼拝のご案内

偉大なる神さまを賛美し、その祝福に与りましょう。

・分級:日曜日 午前10:00~10:30
・礼拝:日曜日 午前10:40~11:50
 (オンライン礼拝も同時刻) 

主日礼拝 2026年8月23日(日) 10:40~ 

「あなたはどこへ向かおうとしているのか?」 

聖書:ルカの福音書 9章57~62節

証し:佐藤兄

「エホバの証人からキリストの証人へ」

聖書:ヨハネの福音書 19章38~39節

証し:長江兄

♪礼拝賛美曲♪
↓クリックすると、Youtube動画で視聴できます ↓

 

ほめたたえよ 造り主を 新聖歌 11番

主よ、終わりまで 讃美歌21 510番

天つみ民も 新聖歌 62番

🌈今月のワーシップソング🌈

Still(静まって知れ) 作詞作曲:Reuben Morgan

🌈聖書引用

 新日本聖書刊行会 聖書 新改訳2017 (新改訳聖書センター)


ゴスペルカフェ可児のご案内

毎月第1金曜日にすてきなカフェ「樹の萌」さんでギタリスト トム兼松とゲストによるライブが開催されています。演奏を聴きながらアフタヌーンティーはいかがですか?

次回:2026/9/4(金) 14:00~
出演:トム兼松(ギタリスト)&ゲストによる演奏

場所:珈琲 & ギャラリー 「樹の萌」
   可児市禅台寺1丁目17
   ℡ 0574-62-4164

ゴスペルカフェ可児 ライブ風景

「樹の萌」にて(撮影:渡邉和廣さん)

2026/5/31 ゴスペル特別礼拝

・メッセンジャー

 アーサー ホーランド牧師

・ゲストミュージシャン

 ラニー ラッカーさん

 兼松弘子 さん

 米田 香さん

 Hope Hill Gospel Choir


クリス宣教師の働き

クリス宣教師のYoutubeチャンネル「Chris’ Gasthaus」で、プレイモービルを使った聖書のお話や、日本・ドイツのスウィーツなどを紹介しています。

ドイツの田舎のパン小屋にて🍞【ドイツ田舎生活】
最初のクリスマス【イエス・キリストの誕生】

チャペルコンサート アーカイブ

2025年 弦楽四重奏によるクリスマスコンサート

2025年 チャーチワーカー送別コンサート

2024年 クリスマスコンサート:Give U Honey

2023年 クリスマスコンサート

2023年 チャペルコンサート

2022年 クリスマスコンサート

2026/8/16(日)「忍耐と救いを与える聖霊の助け」マルコ13:9~13 庄司牧師

2026年8月16日 マルコの福音書13:9~13「忍耐と救いを与える聖霊の助け」
あなたがたは用心していなさい。人々はあなたがたを地方法院に引き渡します。あなたがたは、会堂で打ちたたかれ、わたしのために、総督たちや王たちの前に立たされます。そのようにして彼らに証しするのです。まず福音が、すべての民族に宣べ伝えられなければなりません。人々があなたがたを捕らえて引き渡すとき、何を話そうかと、前もって心配するのはやめなさい。ただ、そのときあなたがたに与えられることを話しなさい。話すのはあなたがたではなく、聖霊です。また、兄弟は兄弟を、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に逆らって立ち、死に至らせます。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。
「小黙示録」と呼ばれているマルコの福音書14章、「世の終わり」を引き続き見ています。終わりの日が近づくにつれ、色々な前兆が現れて来る。だから「惑わされてはいけません」とイエスは警告されました。そしてイエスは9節において、「用心しなさい」つまり「気をつけなさい」と、終わりの日とどのように向き合ったら良いか、イエスを信じるキリスト者に語っておられます。それは「わたしのために」とあるように、イエスを信じ、イエスに従って行く者に起こって来る「終わりの日」における迫害です。9節をお読みします。
あなたがたは用心していなさい。人々はあなたがたを地方法院に引き渡します。あなたがたは、会堂で打ちたたかれ、わたしのために、総督たちや王たちの前に立たされます。そのようにして彼らに証しするのです。会堂や地方法院-小さな裁判所のようなものですが、そのような場所で迫害されていたのはイエスの弟子たち、ユダヤ人たちでした。 迫害する者たちもユダヤ人たちでした。しかしその迫害はやがて拡大して行き、総督たちや王たちからも迫害されることになる、すなわち迫害の範囲が広がって行く。また迫害される方も、ユダヤ人以外の異邦人にも拡大して行く、ということをイエスは語られましたが、それは現実となって行きます。
イエスは10節においてこのように語られました。「まず福音が、すべての民族に宣べ伝えられなければなりません。平行箇所のマタイの福音書の24章においては、福音の拡大が終わりの日と重なり合っていることが記されています。マタイ24:14 御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます。従ってキリストの体なる教会が全世界に建て上げられている、すなわち福音が全世界に届いている現代は、すでに終わりの日が始まっているということであり、私たちはそのような時代に生きている、生かされている、と言えます。
前回共に見て来ましたが、終わりの日である「その日」が来る前に、天変地異などの異常気象、戦争、迫害などが、頻度も強さも増していくとイエスは語られましたから、終わりの日である「その日」にはまだ到達していないものと思われます。終わりの日に裁きが行われる「その日」まではまだ時間がある。しかし迫害は確実に、そして日増しに強まっていく。
そしてイエスはこの世の終わりにおける迫害に直面する時の心構えとして、本日の聖書箇所の中でこのように語られました。11節です。人々があなたがたを捕らえて引き渡すとき、何を話そうかと、前もって心配するのはやめなさい。ただ、そのときあなたがたに与えられることを話しなさい。話すのはあなたがたではなく、聖霊です。
聖霊が迫害において助けて下さる。聖霊が、迫害の中にあってもその中を導かれ、歩ませて下さる。イエスが11節で語られたこと。まさしくそのことが歴史的に起こったのが、新約聖書、使徒の働き6章と7章に描写されています。イエスの弟子の一人であったステパノが、普段ギリシャ語を話すユダヤ人たちと議論をしたことが記されています。彼らはパレスチナの外の地域(ヘレニズム世界)で生まれ育ったため、日常的にギリシア語を使用し、当時の国際的な教養や思想背景を持っていました。ステパノは彼らに向かって「あなたたちの先祖は主なる神から遣わされた預言者たちを迫害し、今度は神ご自身であるイエスを裏切り、殺す者となった。」と語りました。ステパノはさらに、あなたがたは律法を大切にしているといいながら、守ったことがないではないか、と糾弾しました。「しかし、彼が語る時の知恵と御霊に対抗することはできなかった。」とあるように、知恵と聖霊に満たされて語るステパノの論理に、彼らは議論では勝てず、何も言い返すことが出来ませんでした。しかし最終的にステパノは彼らの怒りを買い、石打ちによって殺されてしまいました。殉教です。この時ステパノは扇動された人々によって、サンヘドリンと呼ばれる、祭司長や長老、律法学者など、約70人の議員で構成されていた議会に連れて行かれました。彼が議論、弁明をした時、何の準備もできませんでした。しかし「彼が語る時の知恵と御霊に対抗することはできなかった。」と記されている通り、敵対者はステパノに何も言い返すことはできませんでした。また、必要な話すべきことばは聖霊が与えて下さいましたが、その結果は殉教でした。 しかしこの迫害、殉教には続きがあります。ステパノの殉教をきっかけにエルサレム教会が大迫害を受け、イエスを信じるキリスト者たちが、ユダヤやサマリヤの諸地域に散らされ、その結果、教会が各地で立ち上がっていきます。 福音はローマ帝国にまで広がって行きましたが、多くの人々が、火あぶりやライオンの餌食などになるといった凄まじい迫害によっていのちを落として行きました。しかし命がけで信仰を守る殉教者たちの姿や、疫病の時に病人を看病するなど、過酷な状況下でも隣人愛を実践する姿を見た周囲の人々が心を動かされ、数百年間続く迫害においても、キリスト者は増え続けました。 その迫害を受けて、2世紀頃のキリスト教の教父、神学者であったテルトゥリアヌスはこのように述べました。「殉教者の血は、教会の種子、種である」古代ローマ帝国によるキリスト教迫害の時代に、テルトゥリアヌスが権力者や迫害者に向けた言葉です。 キリスト者が信仰のために命を落としても、その流された血や耐え忍ぶ姿が「種」となって、その姿を見ていた人々の心に新たな信仰の芽を呼び起こし、結果として信仰者の群れも、またイエスの体なる教会も大きく成長した、という意味が込められています。実際にキリスト者は迫害されればされるほど増え広がって行き、最終的にはローマ皇帝テオドシウスがキリスト教を国教としました。紀元392年でした。近代においては過去、日本の支配の下で、朝鮮のクリスチャンたちは厳しい迫害を受けました。神社への参拝を強制され、抵抗した多くの人々が殉教して行きました。今日、韓国ではクリスチャンが多くいますが、それは、殉教者たちの流した血が種となったからだと言うことができるでしょう。またインドや中国など、政府や過激派組織による迫害が起きている場所でも、キリスト者たちの強い姿勢や奉仕を通じて、かえってキリスト者が増えて行きました。 また現在のイランですが、政府による厳しい監視や制限、投獄などの困難、迫害がある中、近年急激にキリスト者が増えていると言われています。ローマ帝国の下でもそうだったように、迫害によって信仰が強められ、殉教者が出ることによって教会はむしろ強くなり、増え広がっていきました。
この迫害は歴史的にも起きましたが、個人レベルでも起きた、また起きることになるとイエスは言われます。12節です。また、兄弟は兄弟を、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に逆らって立ち、死に至らせます。個人レベルの迫害によって、兄弟、子、両親など、家族から迫害され、死に至る人がいる、ということをイエスは語られました。肉体的ないのちに関しては、時に迫害によって失われる、つまり殺されてしまうこともある、ということです。そしてその迫害の先にあるものをイエスは13節で語られました。「また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。」
色々な迫害が起こって来る。イエスを信じ、従って来るだけで人々に憎まれる。しかし最後まで耐え忍ぶ人は救われるとイエスは言われました。つまり、迫害され、いのちを落とすようなことがあっても救われるということです。ですからここでイエスが言われている救いとは、肉体的な領域を指していないことは明らかです。前回、「終わりの日のしるし」というメッセージの中で、私たちが神以外に頼みにしているすべては滅び、無くなっていくというお話をしました。それは私たちの体も含まれます。一瞬、瞬きに過ぎない私たちの限りある肉体の人生が少し早くなったとしても、その先にある永遠のいのちを神は見据えておられるため、迫害によって肉体的ないのちを失う人の存在を許しておられる。迫害を許されている。そのように思います。そして殉教していったいのちが、種、種子となって、永遠のいのちを獲得していく人々を起こしていくのだと思います。
先程招詞、礼拝への神からの招きのことばをエペソ人への手紙1章14節から読んで頂きました。「聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。」私たちの肉体は滅びるものであるがゆえに、肉体という存在は地上だけに限ったものです。しかしイエスを信じる者たちは、御国を受け継ぐことができる。イエスの支配されておられる神の国、御国を受け継ぐことができる。すなわち私たちの存在そのものである、霊魂が将来御国を受け継ぐことになる。従って聖霊は、私たちの肉体が例え滅びても、私たちの存在そのものである霊魂が御国に行くことができるよう、保証となって下さる、ということがここに約束されています。また聖霊の働きにおいて、このようなみ言葉を共に見たことがありました。「誰も聖霊によらなければイエスを主と告白することはできません。」私たちはみ言葉を読み、あるいは聞くことを通して、ある日、ある時、イエスを自分の主、救い主と信じました。それゆえ私たちはその時から罪赦され、神との関係が回復し、滅びから救われていますが、その救いに導いて下さったのが聖霊、神ご自身でした。この同じ聖霊、神の霊、神ご自身が、私たちクリスチャンが例え迫害によって捕えられるような時が来ても、また、ステパノのように尋問されるような迫害に直面しても、話すべき、また弁明できることばを与えて下さる。その先がそこからの解放なのか、または肉体的な死である殉教であるかは、神のご計画の中にある。それがもし殉教-肉体的な死であったとしても、その死は無駄にならない。必ずその死、言い換えればイエスによるいのちが散るのを見た他の人々が、その姿によってイエスを信じ、従い、救われていく。イエスによるいのちが種子、種として用いられる。そこには神の選びとご計画があることを思います。迫害の歴史的事実とその結果を踏まえ、私たちはイエスが最後に言われことばに希望を持つことができます。13節。「しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。」私たちは自分の力で、迫害に負けずに信仰を貫き、どんな時でも主イエスを証ししていくことはできないでしょう。それを私たちにさせて下さるのは聖霊です。聖霊は、迫害を始めとする様々な苦しみの中にいる私たちに、その先にある神の救いを待ち望むことができるように、その希望によって私たちが支えられるように、導いて下さいます。その聖霊の働きによって私たちは、苦しみの中でも耐え忍んで信仰を守ることができ、主イエスを証ししていく言葉を与えて頂けます。
この聖霊が弟子たちに与えられたのがペンテコステの出来事でした。そしてこのペンテコステを通して、キリストの体なる教会が誕生しました。この同じ聖霊が働いて下さり、迫害においても、イエスを信じる者たちに語るべきことばを与えて下さる。そしてたとえ迫害によっていのちを失うようなことが起きても、そのいのちは種子、種として、イエスを信じる新しい人々を起こして行く。迫害において、何一つ無駄になるものはない。その聖霊が今この教会にも、そして私たち一人一人にも注がれています。また聖霊は私たちの目を開き、この世の終わりに、主イエス・キリストによる救いが完成することを見つめさせて下さいます。その終りの日に至るまでの道には苦しみや悲しみ、迫害がありますが、私たちは耐え忍んで信仰を守り抜き、主イエス・キリストの福音が全ての民に宣べ伝えられるための証しに用いられていくことができます。
イエスは13節において、「最後まで」耐え忍びなさいと語られました。この最後とはイエスを信じる私たち一人一人の肉体におけるいのちの終わりであり、また、終わりの日です。そしてこの耐え忍ぶということばは希望がある忍耐です。それは迫害の先には救いの完成が待っているからです。

出エジプトの時、モーセがイスラエルの民に宣言しました。「恐れてはならない。しっかり立って、今日あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。」前は大海原、後ろからはエジプト軍が迫って来る。絶体絶命の瞬間でした。このような命の危険、また希望が持てなくなった時、モーセはしっかり立っていなさい、耐え忍びなさいと叫びました。それはその先に希望があるからです。主の救いがあるからです。そして実際に主なる神は彼らを絶対的なピンチから救われました。この同じ神が、私たちをも救って下さいます。救って下さる力を持っておられます。
迫害というのは、神に敵対する力が目に見える形として、また現実にこの世界を支配している者たちがいるということを、私たちに知らしめて来るものです。私たちは迫害によって、また、価値観や生き方の違う人々から受ける様々な試練や困難から、自分の姿がさらけ出されて行きます。それらの困難から、持っていると思っていた豊かさ、信仰、主を信頼する力などが打ち砕かれることもあります。しかしその迫害を、困難を、私たちは自分の力でどうすることもできません。
自分の力によって迫害に打ち勝つことはできません。従って迫害の中で私たちは、もはや自分ではなく、目に見えない神に依り頼み、神のご支配が現れることを待ち望むしかありません。
終わりの日に向けて、「その日」に向けて、迫害は強く、大きくなっていきます。そしてそれは必ず起きることであり、すでに起きています。しかし例えそのような状況になっても、私たちが受ける迫害の苦しみが、伝道の前進という実りを生みます。それゆえにこの苦しみをイエスは、「産みの苦しみ」と呼ばれました。それは信仰による新しいいのちを生み出すための苦しみであり、希望のある苦しみです。 弱い私たちを、主なる神が、イエスが、聖霊を通して支え、導き、その先にある救いを思い出させ、見つめさせ、その希望にすがらせて下さいますように。 信仰のゆえに受ける苦しみを私たちはそのように受け止め、共に最後まで耐え忍ぶ者でありたいと思います。
祈ります
「忍耐と救いを与える聖霊の助け」
「また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。」

2026/8/9(日)「第一の戒めは何を教えていますか?」マタイ4:10 庄司牧師

2026年8月9日 マタイの福音書4:10「第一の戒めは、何を教えていますか?」      
問43 この第一の戒めは、私たちに何を教えていますか。
答 ”私たちが神さまを愛し、まことの神さまだけを礼拝することです。私たちは、他の神々をおがんではなりません。”イエスは言われた。「下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある。」” マタイの福音書4章10節
月の第二日曜日です。本日も子ども信仰問答からお話をしていきます。前回の箇所を少しおさらいしたいと思います。前回の問42は、「第一の戒めは何ですか?」そして引用されていたのが出エジプト記です。「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない」(出20:3)                                   そしてその具体例として取り上げられていたのが、申命記4:35節、 “あなたにこのことが示されたのは、主だけが神であり、ほかに神はいないことを、あなたが知るためであった。’’です。
「主だけが神であり、ほかに神はいないことを、あなたが知るためであった。」主なる神は、ご自身が唯一、まことの神であるということを、出エジプト記において示されました。イスラエルの叫びに答えて奴隷から解放し、約束の地、カナンに向かう荒野においても同行されました。パンであるマナを降らせ、必要な水や肉なども備えられました。イスラエルの主なる神への不平、不満、不従順を忍耐され、おおよそ40年にわたって彼らを守り、導き、祝福を与え続けられました。
それほどイスラエルのことを愛され、イスラエルを導いて来られた主なる神が、「私だけを神としなさい」と、十戒を中心とした律法をsイスラエルに与えられました。 しかしイスラエルはモーセが十戒の石板を受けにシナイ山にいた時、長い不在から不安になって金の子牛の像を造り、神としてしまいました。偶像礼拝の罪です。神との契約を破り、罪を犯した者たちはこの後、モーセを通して粛清、すなわち神に裁かれました。その罪の根本は、偶像礼拝も含め、主なる神を第一にしなかったからです。主なる神を第一としない者は、裁かれる。自ら滅びを招くということです。この出来事を踏まえて、本日の箇所を見ていきましょう。本日の聖書箇所は、イエスが悪魔、サタンに誘惑された時に宣言されたことばです。この悪魔のイエスへの試み、誘惑が、マタイの福音書4:1節から始まり、本日の聖書箇所である10節まで続きます。一つ目の誘惑は、悪魔が40日の断食を通して空腹の絶頂であったイエスに、この石がパンになるように命じなさい、というものでした。この誘惑は、イエスが神から与えられたカリスマ、賜物だけで父なる神に頼らず、自分の力だけで人々を救いに導いていくよう、すなわち神から離れて自立するようとのサタンの誘惑でした。この誘惑に対してイエスは、「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」申命記8:3節を引用して答えられました。しかし神から離れていること自体が、そして神から離れて自分の力だけで物事を進めていくこと自体が罪ですから、これはサタンからの罪への誘いでもありました。イエスはここで、「人はパン自体で生きるのではない。パンを含め、人間が生きるのに必要なすべては神のことばを通して供給されている。私たちは神のことばによって生かされているのだから、ただ神に依り頼み、自分に与えられた神からの能力を、自分の願望を満たすために用いることはしない!」そのような思いと神への信頼を持ち、神のことばによってサタンの誘惑を退けました。二つ目に悪魔はイエスに、「詩篇に、御使いがあなたの足が石に打ち当たらないように守ると書いてある。-試しに神殿の屋根から飛び降りてみて、神のことばが本当にそうなるか、証明してみよ!」と誘いました。 あなたが神の子であるというしるしを、人々が奇蹟を通して見れば、彼らはあなたを救い主であると信じるだろう、という誘惑でした。サタンは詩篇91:11,12を引用しましたが、「すべての道で」あなたを守られるという「すべての道」ということばを故意に、わざと落としています。悪魔はみ言葉を良く知っており、時にみ言葉を自分の都合の良いように変え、用い、誘惑して来るということです。そしてこの誘惑は、イエスが人間を救うという大きな目的のために、父なる神のことばをただ、自分の働きの保証とするようにとの誘惑でした。この誘惑に対してイエスは「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」と、申命記6:16節を引用して答えられました。一つ目の誘惑に続いて、二つ目の誘惑も、イエスはみ言葉で悪魔に応戦されました。そして三つめ、これが最後の誘惑になりますが、悪魔はこのようにイエスを誘惑しました。8節、9節です。悪魔はまた、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての王国とその栄華を見せて、こう言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これをすべてあなたにあげよう。」イエスが悪魔に妥協して権力を持ち、政治的な王として人々を救いに導くようにとの誘惑でした。これに対してイエスが答えられたのが本日の聖書箇所10節です。そこでイエスは言われた。「下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある。」申命記6:13節の引用です。「主に仕えることを犠牲にしてまでして、使命達成を追求することはしない!」というイエスのご意志です。すると悪魔はイエスから離れていきました。み言葉で悪魔と戦って行く時、悪魔は離れて行くということです。それはつまり、悪魔の誘惑に打ち勝つことができる、ということです。 悪魔はサタンとも呼ばれていますが、サタンは「試みる者」とか「訴える者」とも呼ばれ、神とその救いの目的とに対する「敵」を意味します。サタンは神を憎んでいます。そしてその憎んでいる神が愛している人間も憎いため、一人でも多くの人間が神から離れるように策略を巡らしているだけでなく、願わくは神の子とされている私たちクリスチャンにも神を疑わせ、日々、信仰を奪おうと働いています。その戦略、策略が表されている箇所があります。それが本日の箇所です。マタイの福音書4:8,9。悪魔はまた、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての王国とその栄華を見せて、こう言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これをすべてあなたにあげよう。」 この箇所を平行箇所のルカの福音書4:6で見たいと思います。第三版の聖書訳でお読みします。ルカの福音書4:6「この国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。 旧約聖書、ヨブ記を見ても分かりますが、神の許可、神の許しがなければ、サタンは働くことができません。つまりサタンの活動も、誘惑や攻撃も、主なる神ご自身が持つ大いなるご計画と主権の中で許されている、ということです。そして実際にサタンはこの世において、この人にならいいという、イエスに反対している人々-特に力のある政治家、独裁者などの権力者を選んで、権力や栄光を与えることができるということです。 繫栄し、栄光を受けている者の背後に、悪魔の働きがあるということです。しかしこの悪魔の誘惑は、国の指導者や政治家など、力や権力を持っている人々に限りません。全ての人類が悪魔の誘惑に日々、晒されています。イエスは新約聖書、マタイの福音書6章24節においてこのように語られています。「だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神と富とに仕えることはできません。」神か富か。私たち人間はどちらかを選んで仕える、すなわちそれを大切にし、それに従い、それによって歩む、ということです。しかしどちらも同じようには愛せない。重んじることはできない。神を選んだ人は、神を大切にし、神に仕え、神に従い、神によって歩みます。一方富を選んだ人は、富を大切にし、富に仕え、富に従い、富によって歩みます。富とはその人を富ませるものですから、お金や財産だけではありません。家や土地、 自分の能力、名誉や名声、健康や趣味などの楽しみ、家族など、色々な物が考えられます。自分を富ませ、自分の気分を良くし、自分を高めてくれるものです。もちろんそのような物は大切ですし、なくてはなりません。しかしそれらがまことの神よりも大切になり、神よりも上になっていく時、人は簡単にそれらの奴隷となってしまいます。そして彼らが頼みにしているそのような神以外のものはやがて崩れ去る、無くなって行く時が来ます。先週も見て来ましたが、神以外のものは有限、限りがあり、それゆえ滅んでいくからです。そしてその先は、イスラエルの人々が偶像礼拝、すなわち神を第一にしなかったことによって裁かれたように、神を第一にしなかった人々は最終的に、神の裁きを経験することになります。なぜなら、富を第一にしていく生き方は、罪が解決せず、罪が残る生き方だからです。神から離れているという罪がずっと続く生き方だからです。ですから富を第一にした人は、その人の持っている罪ゆえに、自ら滅んで行くことになるでしょう。イエスはサタンに誘惑された時、神が与えて下さったみ言葉によって戦い、サタンを退けました。このイエスがなされたこと。それが神を第一にしていることの表れです。すなわち神のことばを第一にするという生き方、歩み、そして時に誘惑と戦い、対処する方法でもあります。「はじめに神が天と地を創造された。」聖書のはじめ、創世記1章1節のことばです。そして創造の経緯が描写されていきますが、神はことばをもって人間を含めた天地万物を創造していきます。神は、神のことばによって人間も含めた全ての被造物を造られ、このことばによって天地万物を保たれ、そしてこのことばを通して私たち人間に語りかけて下さっています。それが神のことば、聖書のことばです。ですからイエスが「聖書にこう書いてある」と言ってサタンの誘惑を退けましたが、それは神のことばを第一にした、すなわち神を第一にされた、ということです。 なぜなら神イコール神のことばだからです。ですからイエスが神のことば、聖書を第一とすることによって神を第一とされたように、私たちも聖書のことばを第一にしていくとき、それはすなわち神を第一にすることであり、神を第一にする生き方であるということです。 父なる神がイスラエルに与えられた十戒の一番目、人間が一番大切にすべき教え、戒めは、「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。」でした。イエスはこの教え、戒めを、神のことば、すなわち聖書に記されているみ言葉を守り、従い、そのことばで戦い、そのことばよって生きることによって、身をもって実践して下さいました。そして罪と罪から来る死とサタンを滅ぼして復活されたイエスは、今、神の右、栄光の座におられます。神のことばを第一にしていく。その先には、神の守り、祝福があり、平安、喜びがあり、罪の赦しと永遠のいのちがあります。私たちもイエスのように神のことばを第一にすることによって、神を第一にしていくことができますように。
祈ります 問43 この第一の戒めは、私たちに何を教えていますか。
答 ”私たちが神さまを愛し、まことの神さまだけを礼拝することです。私たちは、他の神々をおがんではなりません。‘’ ”イエスは言われた。「下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある。」” マタイの福音書4章10節

2026/8/2(日)「終わりの日のしるし」マルコ13:1~8 庄司牧師

2026年8月2日 マルコの福音書13:1~8 「終わりの日のしるし」
イエスが宮から出て行かれるとき、弟子の一人がイエスに言った。「先生、ご覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」すると、イエスは彼に言われた。「この大きな建物を見ているのですか。ここで、どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることは決してありません。」イエスがオリーブ山で宮に向かって座っておられると、ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかにイエスに尋ねた。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのですか。また、それらがすべて終わりに近づくときのしるしは、どのようなものですか。」それで、イエスは彼らに話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『私こそ、その者だ』と言って、多くの人を惑わします。また、戦争や戦争のうわさを聞いても、うろたえてはいけません。そういうことは必ず起こりますが、まだ終わりではありません。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、あちこちで地震があり、飢饉も起こるからです。これらのことは産みの苦しみの始まりです。
 マルコ福音書の第13章は、イエスの教えをまとめて語っている最後の部分となります。次の14章からは受難、十字架の出来事に入っていきます。この13章は「小黙示録」と呼ばれています。「小さな黙示録」です。そうしますと「大きな黙示録」がある訳ですが、それは私たちが良く耳にする、新約聖書最後の書簡、「ヨハネの黙示録」です。ヨハネの黙示録には、この世の終わりに起る様々な苦難が描写されていますが、小羊として描かれているイエス・キリストが最終的に全ての敵に勝利され、イエスのご支配、すなわち神の国が完成することが記されています。そしてイエスに従って生きた信仰者の救い、永遠のいのちが実現することが語られています。 ヨハネの黙示録と同じように、マルコ13章にもこの世の終わりのことが語られています。ヨハネの黙示録と決定的に異なる点は、イエスご自身が語っておられる、ということです。捕えられ、十字架につけられる直前に、最後の教えとしてイエスが世の終わりのことをお語りになった、それがこの13章です。本日の箇所はこのように始まっています。イエスが宮から出て行かれるとき、弟子の一人がイエスに言った。「先生、ご覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」
弟子たちのほとんどはガリラヤの田舎町出身です。ですから、都エルサレムにある豪華絢爛たる神殿を見て、感嘆の声を上げました。エルサレム神殿は、クリスマスの物語に登場するヘロデ大王が再建した第3神殿と呼ばれる物ですが、おおよそ50年の歳月をかけて建設され、金ぱくで覆われた豪華絢爛の神殿です。現在、ユダヤ人の人々が祈っている姿が時々報道される、いわゆる「嘆きの壁」というのは、このヘロデの神殿の僅かに残っている下の方の壁の一部です。当時の壁は現在のものよりもずっと高くそびえ立っていました。その壮麗な神殿は、正にイスラエルを象徴する場所でした。しかしイエスはこれに対して、「この大きな建物を見ているのですか。ここで、どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることは決してありません。」とおっしゃいました。この壮麗な神殿が徹底的に破壊される時が来る、とイエスは予告されました。この予告、預言は紀元70年に実現します。ローマ帝国によってエルサレム神殿は徹底的に破壊され、神殿の歴史は終わりを告げました。今では「嘆きの壁」など、ごく僅かな遺跡としてしか、その跡を偲ぶことはできません。
当時、全てのユダヤの人々が、この神殿を誇りにしていました。ここに神の祝福があると信じていました。ところがその意味が次第に逆転していきます。そもそも神殿は、そこで神と出会い、神への礼拝を通して神と交わる場所でした。しかしユダヤの人々は、神殿があるから神は我々と共におられるのだ。神殿がある限り、我々には神の守りがあるのだ、と考えるようになっていきます。本末転倒です。しかしユダヤの人々が誇っていた神殿は滅んでいきます。
このような素晴しい建物が破壊されてしまうなんて、それはもうこの世の終わりだ、と弟子たちは考えました。そこでイエスに質問します。イエスがオリーブ山で宮に向かって座っておられると、ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかにイエスに尋ねた。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのですか。また、それらがすべて終わりに近づくときのしるしは、どのようなものですか。弟子たちの質問は、すなわち私たちの質問でもあります。現代を生きている私たちも、とてつもなく大きな事件や災害などが起こると、もうこの世の終わりか、と思うのです。この世界が破局へと向かっているという恐れを抱くのは、当時の人々も私たちも全く同じです。さらに今日は、環境破壊、それに伴う動植物の危機と絶滅。多発する自然災害や世界戦争勃発への恐れなど、当時よりももっと深刻かもしれません。ですから弟子たちの問いは、そのまま現代を生きる私たちの問いでもあり、イエスの終わりの日に対する答えは、すなわち私たちへの答えでもあるのです。イエスの弟子たちは、終わりの日に関して、いつ起こるのか?またその終わりが起こる前に、どのようなしるし、すなわち兆候や前兆があるのか?という二点を尋ねました。 ところでなぜ彼らは世の終わりに関してイエスに質問をしたのでしょうか。それは世の終わりの破局がいつ訪れるのか、その前兆、しるしを見極めて、前もってその時期を知っておきたいからだと思います。あと百年は起きないのであれば、当面は安心していられます。明日かもしれないし百年後かもしれない、それが分からないから不安なのです。だから「終わりの日」を前もって知ることによって、心を定めたい、そして何かをしたい。またはまだ先だと安心したい。そのような心理が働くのだと思います。それに対してイエスは、世の終わりにはこういうことが起こる、ということをお語りになりますが、開口一番に語られたことが警告です。「人に惑わされないように気をつけなさい。」そして以下、現代を生きる私たちも含め、終わりの日には色々な人々から、また現象などから惑わされることになる、また惑わされるであろう、様々な原因が語られていきます。一つは「人を惑わす者」の出現です。「わたしの名を名乗る者が大勢現れる。つまり偽の救い主、偽キリストが現れて、私こそ救い主だ、と言って人々を集めるようになる。また、「戦争のうわさや実際の戦争」です。これも世の終わりの一つのしるしとされています。しかし偽の救い主はイエスの時代にもいましたし、戦争や戦争のうわさなども、それがなかった時代はありません。ですからイエスの時以来、これらのしるしは常に存在しているのであって、世の終わりを知る手がかりにはなりません。またイエスご自身も、「そういうことは必ず起こりますが、まだ終わりではありません。」と語っておられます。 そしてイエスは次の8節において、民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、あちこちで地震があり、飢饉も起こるからです。と、語られ、私たちに襲いかかってくるこのような大きな苦しみについてイエスは続けて、これらのことは産みの苦しみの始まりです。と言われました。既に世の終わりのしるしは現れており、終わりは始まっているが、いつ終わりが来るのか、それまでにどれだけの苦しみを経なければならないのかは誰も知ることができない、とイエスはおっしゃったのです。つまりイエスは、終わりの時がいつ来るのか、その時期を知りたいという弟子たちの願いに答えることを拒まれました。弟子たちは、そして私たちも、終わりの時がいつ来るのかを知って、それに応じて自分の計画を考えたいと願います。終わりを知って、これからの人生の見通しを立てたいと思います。しかしイエスはそのような見通しを立てることをお許しになりません。私たちは世の終わりが何時来るかを知ることはできないのです。つまり将来のこと、これから起こることを、自分の計画の中に組み入れてしまうことはできないということです。なぜ神は、すなわちイエスは、終わりの日を私たちに示して下さらないのでしょうか。 もちろん父なる神だけが終わりの日をご存知であるということもそうですが、それ以上に、もし私たち人間が世の終わりの日が分かったならば、私たちの生活は途端に秩序を失ってしまうでしょう。終わりの日を逆算しながら財産を使い果たし、終わりの日があるのだから今を精一杯楽しもうと刹那的になる。時々新興宗教が「何月何日に世の終わりが来る」と言ってそれを信じた信徒たちが仕事を止め、結婚を諦め、財産を処分し、時に自殺するということがあります。イエスはそのようなことを私たちに望んでおられません。ですから私たちは与えられ、備えられた一日一日を、精一杯、誠実に、そして忠実に仕えていく必要がありますし、逆に言えば、私たちはそれしかできないのではないでしょうか。私たちは、神を自分の計画や予定の中に組み入れてしまうことはできません。 神の計画を前もって知り、それをコントールしようとするならば、それは神を支配したいという願いであり、人間の傲慢です。神のみ業は、人間が計算したり、自分の計画の中に組み込んだりするべきものではなく、神の計画が最善であると信じ、委ねること。待つこと。私たちはそれしかできません。
そしてイエスは、私たちがどのように終わりの日を待ち望んだら良いか、出産の譬えを通して教えて下さっています。出産の前には母親が苦難、痛みを経験しなければなりませんが、その苦しみの先には子どもの誕生と言う、この上ない喜びが待っています。そのように、終わりの日の前には人間が様々な痛み、苦しみ、苦難を経験しなければなりませんが、同じように、その先には喜びがあり、希望があるということをイエスは示しておられます。 では、この世の終わりの先には何が待っているのでしょうか。マルコの福音書1章で見て来ましたが、イエスがこの世界に飛び込んで来られた時、神の国が近づいた、神の国が到来したと言われました。神の国とはイエスが統治される世界であり、イエスの統治そのものです。神の国はイエスと共に到来しました。しかし人類はアダムが神に反逆して以来、すなわち罪を犯してから、罪と、罪から来る死と、サタン、悪魔の支配下に入ってしまいました。人類はこの罪を受け継ぎ、罪から来る神への不従順と不信仰から神を失い、神を失うことによって自分も失いました。自分は何者なのかという、自分のアイデンティティーも失いました。なぜ生まれ、何のために生きるのかという使命も分からなくなってしまいました。さらに神の絶対的な規準を失うことによって、一人一人が勝手に自分の規準を持つようになり、それが最善であると考えるようになり、違う規準を持つ他の人々と争い、時に殺し合うようになりました。また見えない神に頼れなくなった人間は、家や土地、お金などの財産、そして自分の能力、自分の名誉・名声、健康や趣味などの楽しみ、家族など、目に見えるものに頼るようになりました。それらは素晴らしいこと、大切なことですが、ユダヤの人々が誇りとし、希望としていた神殿が滅び、無くなってしまったように、やがて崩れ去る時がやってきます。なぜなら人間が頼りにするものは永遠には続かない物だからです。一切の物には終わりがある。終わりが来る。自分のいのちも含め、そしてこの世、この世界にすら終りの時が来る、崩れ去る時が訪れます。
平行箇所のマタイの福音書24章3節においては、弟子たちはこのようにイエスに尋ねています。
イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちがひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのですか。あなたが来られ、世が終わる時のしるしは、どのようなものですか。」世の終わりのしるしに関して、マルコの福音書にはない、「あなたが来られ」ということばがあります。これはイエスが再びこの世界に来られる再臨を表しています。イエスご自身も、ご自身が裁き主としてこの世界に再び来られる再臨のことを、旧約聖書の預言から引用されています。後から見ていきますが、先の26節にある「人の子が雲に乗って来る」という表現は、旧約聖書、ダニエル書7章に記されている預言を、イエスが引用されたものです。旧約聖書は、イエスの初臨、すなわちクリスマスにおける誕生やイエスの歩み、そして私たち人間の罪の身代わり、贖いである十字架なども預言していますが、それは全て成就、実現しました。イエスが再びこの世界に戻って来られる再臨とその再臨の時に起こることを除いて、旧約聖書に記されている預言は全て成就、実現していると言っても良いでしょう。従ってイエスが再びこの世界に戻って来る、それも裁き主として来られることも、必ず実現します。そしてイエスが再臨される時、この混乱した世界、痛みと苦しみ、罪と死とサタンの支配にある古い世界は世の終わりと共に終わりを告げ、イエスの愛と調和、平和と平安の中での統治、すなわち完成した神の国の支配が、イエスを信じる者たちと共に始まります。しかしその神の国が完成する前、すなわち終わりの日が訪れる前は、イエスが語られるような「産みの苦しみ」が必ずあります。 出産の時に伴う痛み、陣痛は断続的に起こります。そして出産が近づくにつれて、その間隔が小さくなり、また痛みが激しくなります。そして出産の直前、その痛みは最高潮に達し、子どもが産まれます。 そのように神が定められた終わりの日の前には、そのしるしであり、前兆である、「私こそキリスト、救い主だ」と語り出す偽キリストの出現。また戦争のうわさや実際の戦争の勃発。大きな地震のような自然災害、また飢饉。それらは頻度も、また強さも増していきます。 しかし終わりの日がいつ起こるか、またどのように起こるかは、私たちには分かりません。知るよしもありません。 聖書が、そしてイエスが明確に語っておられることは「世の終わりが必ず来る」ということ。しかし「世の終わりがいつ来るかわからない」ということの二つです。イエスご自身も終わりの日の訪れを父なる神に委ねられ、いつ起こるか分からないとおっしゃいました。そして日々、父なる神に与えられていた使命を全うされました。その最たるものが、そしてとてつもなく大きな使命が、私たち人類のために十字架にかかる、ということでした。 私たちはこの世の終わりにおける苦難を、そして痛みを恐れます。 しかし私たちが終わりの日に関して、どのように心配しても、どんなに不安に思っても、また何か備えようと思っても、それを軽減したり、回避することはできません。
私たちにできる唯一のこと。それはイエスのことばに信頼し、イエスに委ねることだけです。
私たち人間の、「終わりの日」への恐れ、不安、そして時に好奇心に働きかけて、偽キリストや、サタンが私たちを欺いてきます。そこでイエスは言われました。「人に惑わされないようにしなさい」
イエスの警告に耳を傾けつつ、産みの苦しみの先にある、神の救い、永遠のいのち、すなわち神の国の完成があるということを、本日も心に留めたいと思います。そして日々自分にできること、自分に与えられているなすべきこと-使命を忠実に、また誠実に行う者でありたいと願います。
祈ります
「終わりの日のしるし」
それで、イエスは彼らに話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。」

2026/7/26(日) 「誰よりも多く投げ入れた人」マルコ12:38~44 庄司牧師

2026年7月26日 マルコの福音書12:38~44「誰よりも多く投げ入れた人」
イエスはその教えの中でこう言われた。「律法学者たちに気をつけなさい。彼らが願うのは、長い衣を着て歩き回ること、広場であいさつされること、会堂で上席に、宴会で上座に座ることです。また、やもめたちの家を食い尽くし、見栄を張って長く祈ります。こういう人たちは、より厳しい罰を受けます。」それから、イエスは献金箱の向かい側に座り、群衆がお金を献金箱へ投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持ちがたくさん投げ入れていた。そこに一人の貧しいやもめが来て、レプタ銅貨二枚を投げ入れた。それは一コドラントに当たる。イエスは弟子たちを呼んで言われた。「まことに、あなたがたに言います。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れている人々の中で、だれよりも多くを投げ入れました。皆はあり余る中から投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っているすべてを、生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから。」
本日の箇所はイエスの警告から始まっています。「律法学者たちに気をつけなさい!」その問題点をイエスは指摘されていきます。彼らは長い衣を着て歩き回ること、そして人々から広場であいさつされることを好みました。 長い衣は彼らが律法学者であることを示すシンボルです。その衣をまとっていると、人々が尊敬して頭を下げるのです。また「広場で挨拶される」ことも彼らが願うことでした。町の広場は市、市場が立つ所でもあり、様々な市民生活が営まれる場です。そこに集まる多くの人々から特別な人として尊敬され、みんなに「先生」と呼ばれて挨拶されることを、律法学者たちは好みました。 彼らは、会堂で上席に座ること、そして宴会で上座に座ることも好きでした。「会堂の上席」というのは、ユダヤ人たちの礼拝の場であるシナゴーグと呼ばれる会堂において、聖書を納めた箱の前の席のようです。 一般の人々の席と向かい合っており、礼拝を司る人の席です。 現在の教会、また礼拝堂で言えば、講壇の上の説教者や司式者の席と思えばよいでしょう。 律法学者たちは常にその席に座ることを望みました。彼らは宴会の場でも上座を求めました。結婚式の披露宴で言えば、主賓のテーブルに席を求めるようなものです。
人々が神への信仰を持っていれば、その神のことばを取り扱っている律法学者たちが尊敬されるのは自然なことであり、当然のことだったかもしれません。しかしいつのまにか人々の尊敬から傲慢になり、人々からの尊敬を得ることを重んじ、求めるようになっていった。始めは彼らも神を信じ、神に喜ばれ、人にも喜ばれるように律法を教えていたかもしません。しかしいつしか「先生、先生」と呼ばれるようになり、神からの見えない、また感じない評価よりも、人からの見える、また感じる評価を求めるようになっていったと思われます。
またイエスは律法学者たちに対して、彼らはやもめたちの家を食い尽くし、見栄を張って長く祈ると指摘されました。 「やもめ」は多くの場合、「みなしご」と並んで社会的弱者、貧しい者の代表として聖書に出てきますが、この場合の「やもめ」は、夫の遺産を受け継いだ金持ちのやもめ、未亡人たちのことです。律法学者たちはそういうやもめたちに寄付をさせる-いわゆる慈善の行為をさせて金を出させていたようです。そのような行為はユダヤの人々にとって大変立派なこととして尊ばれ、尊敬されることでした。そしてやもめだけでなく、そのように彼女たちを指導した律法学者たちの名声も高まりました。そのことを受けてイエスは、彼らはやもめたちの財産を食い尽くしている、と言われたのだと思います。 また律法学者たちの祈りは、深さより長さを特徴としていました。人前で長い祈りをすることで、あの人は敬虔な人、信仰深い立派な人だという評判を得ようとしました。祈りの対象は神です。しかし彼らは自分を立てるために言わば神を利用したのと同じです。彼らは最後にその刈り取りをしなければならないでしょう。イエスは平行箇所のマタイの福音書23章の中で、彼らのことを「白く塗った墓」などと言われました。外見は綺麗にしているが、中は汚れでいっぱいであるとの皮肉であり、批判です。そしてこの23章の中において、イエスが繰り返し使われたことばがありました。「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。」23章の中で7,8回使われています。 彼ら律法学者たちは、見た目には私たちが驚くほどに厳格な、正しい、聖い生き方をしていました。しかしそういう彼らの聖さ、正しさとは、自分自身を誤魔化すための行いであり、演技であり、偽善だ、とイエスはおっしゃるのです。
一方、人の目を意識し、人の目を気遣い、人の目によって自分を評価していた律法学者たちとは異なる、人の評価に全く左右されずに生きている一人の女性が登場します。 エルサレム神殿の内庭には献金箱が設置されていました。宮に出入りする礼拝者が任意、自分の意志をもって自由にお金を投げ入れました。神に献げるお金を入れる箱です。 一説によればこの献金箱の傍らには祭司がいて、人々がそこに入れる献金を記録に留め、そして周囲の人々に聞こえるように、「誰々さんがいくら献金なさいました」と告げていたのではないかと言われています。 
この時イエスは、その献金箱の向かいに座って、人々がそれにお金を入れる様子を見ておられました。「多くの金持ちがたくさん投げ入れていた。」とあります。祭司がその人たちの名前と献金額を読み上げる、すると人々の間から「おお」と感嘆の声が上がる。そのようにして金持ちたちは大いに面目を施していました。そのような中、一人の貧しいやもめがやって来ました。この人は先程の、律法学者たちに食い物にされるような金持ちのやもめではなく、「貧しいやもめ」です。そのやもめが献金箱に、「レプタ銅貨二枚、すなわち一コドラント」を投げ入れました。一レプタは一デナリの128分の一です。一人の労働者が一日働いてもらう賃金が一デナリでした。ですからこの献金がかなり小額だったことが分かります。 献金の記録係がこの献金を人々に告げた時、金持ちたちの献金を報告するのとは、全く違ったのではないかと想像します。恐らく冷めた、冷たい声だったのではないでしょうか。また、回りの人々は軽蔑の目で彼女を見、またことばに出したかもしれません。「それだけか!」「そんなはした金を捧げるなんて、何を考えているんだ!」「あきれた」「よく恥ずかしくないね」
もし彼女が人目を気にしていたとしたら、とてもこの額を献げることはできなかったでしょう。逆に言えば彼女は人目を気にしなかったからこそ、人からの評価によって自分を量ることをしなかったからこそ、この献金を献げることができたと言うことができるのではないでしょうか。 つまり彼女は人との比較から解放されていた、ということです。金持ちたちが多額の献金をしている中でレプタ銅貨二枚を差し出すことは、人の目を気にして、人と自分を見比べて生きている者には到底出来ないことです。「あの人のあんな立派な献げ物の後で、こんなみすぼらしい、ちっぽけなものを献げるなんて恥ずかしい」と思ってしまうでしょう。しかし彼女は周囲の冷たい目や軽蔑のまなざしに関わらず、レプタ二枚を献げました。それは彼女が人の目、人からの評価、評判によってではなく、ただ神を見つめ、ただ神に認められる、神に喜んで頂ければそれでいい、そのように「神中心」に生きていたからに他なりません。彼女はただ、神を見つめていた人でした。人の目を気にすることや、人と自分を見比べて喜んだり悲しんだりすることから解放されている彼女は、乏しい生活費を全部、全て、神に献げてしまいました。それは、自分の生活を全て神の恵み、養い、導きにお委ねしたということです。人と自分を比べて、自分は全てを神に献げているといった、誇るような思いは少しもありません。もしそのような思いが少しでもあったならば、このような献げ物はできなかったでしょう。ですから彼女が生活費も含めた全部を献げたということは、彼女が人の目から自由であるだけでなく、自分で自分の安心を確保しようという思いからも完全に自由であった、ということができるでしょう。だからこそ、神の恵みに、神の支えに、神の備えに全てをお委ねすることができました。このやもめは、翌日からどのようにして生きていくかという思い煩いはありませんでした。ここまで神を信頼し、全てを委ねる生き方ができるとしたら、それはどれほど平安であり、豊かで、幸せな人生ではないでしょうか。
その彼女の姿勢を、態度を、お金を通して自分を献げるという献身を、イエスが感動をもって弟子たちに語られています。イエスは弟子たちを呼んで言われた。「まことに、あなたがたに言います。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れている人々の中で、だれよりも多くを投げ入れました。皆はあり余る中から投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っているすべてを、生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから。」イエスは、このやもめが誰よりも多く投げ入れたと語られました。「まことに」とは、原語のギリシャ語で「アーメン」です。真実です、本当です、という意味であり、私たちが日々の祈りでも用いていることばです。イエスは「アーメン、真実を告げる」と言ってから、彼女は誰よりも多く投げ入れたと語られました。生活費を全て献げるほどに彼女は主なる神を愛し、また日々の生活を支えて下さるという絶対的な信頼、神への揺るぎない信頼を持って生きていました。
ところで本日の箇所は誰に語られているのでしょうか。12章の37節の後半には、「大勢の群衆が、イエスの言われることを喜んで聞いていた。」とあります。この直前には、律法学者たちをはじめとした宗教指導者たちが、イエスとの論争に完全に敗北した姿が描写されています。律法学者たちの姿をいつも見ていた当時の人々は、彼らの鼻持ちならない姿にうんざりさせられながらも、しかし律法の教師である彼らを尊重しないわけにはいかない、という思いでいたようです。 ですから人々にとって、イエスが律法学者たちの悪意ある問いに真正面から答え、完全に論破する姿は、本当に胸のすくものだったでしょう。しかしイエスはその群衆に向かって「律法学者に気をつけなさい」とおっしゃったのです。「気をつけなさい」ということは、あなたがたも律法学者たちと同じようになってしまわないように注意しなさい、ということです。そしてこれは現代における私たち一人一人も同じ、イエスからの警告であると思います。
私たちはこの社会の中で、人々と共に生きている存在です。一人で生きていくことはできません。人と共に生きている以上、人の目が気になり、人が自分をどう評価しているかを気にすることも、また人に評価され、褒められることを求めていくことも、自然なことです。つまりこの律法学者たちの姿は、人間の自然な姿を描き出していると言うことができます。そしてそのような生まれつきの、すなわち罪深い私たちの自然な姿、ありのままの私たち人間の姿というのは、人の目を気にして生き、その中において優越感と劣等感、誇りや妬みが分ち難く存在している、偽善に満ちた、決して幸せとは言えない姿だと思います。しかしそのような本来の自然な人間の姿から解放されている人がいました。それがこの貧しいやもめです。人々から蔑まれるような、馬鹿にされるような額の献金しかしなかった、またはできなかった彼女は、人の目を気にするというところから解放され、人の目によって自分が評価されるということからも解放され、ただ、神に喜ばれたいという一心で、自分の持っている精一杯を献げるような女性でした。彼女が人の目を気にすることから解放され、優越感と劣等感、誇りと妬みの狭間で苦しむことから解放されているのは、主なる神を信じていたからです。神を知る-神がどういうお方であるかということを知り、神との交わりの中で神の人格を知り、経験していく中で培われていった信仰、信頼から来ています。 そして彼女は人ではなく、神が喜ばれること、すなわち神の御心を求め、また神への感謝、神が自分を支えて下さるという確信、保証、安心、平安などを持つに至りました。それらがなければ、自分の生活費全部を献げることはできません。神なら自分を支えて下さる。日々養って下さる。神に対する信仰と信頼が、生活費全てを献げるという、目に見えるにかたちになりました。そしてこの献金の場面にイエスが来られました。イエスは彼女が貧しいということ。二レブタが彼女の全財産だということを知っておられました。そして彼女の心、献身の思いを知っておられ、感心されました。
この一連の出来事-やもめの心、信仰、神に対する信頼、行動は聖書に記されました。 名前も出て来ない一人のとても貧しい女性が、神を信じ、信頼する素晴らしい信仰者として、素晴らしい生き方の模範として、また神は全てを知っておられるという例として、そしてイエスがそのような人を愛しておられるという証として、聖書に記されることになりました。 イエスがこれから十字架に架かっていくという時に、イエスがこの献金箱の前におられたこと。この女性が現れ、持っているものを全て献げたこと。その場面をイエスが見、イエスが語られ、そして聖書に記されていること。これら全ては決して偶然ではないと思います。それは現代を生きる私たちも含め、全て聖書を読む一人一人に語られている出来事です。
イエスはこの数日後、私たち人間の罪を全て背負って、十字架にかかって死なれようとしています。それは律法学者のように自分の能力や財産に頼り、時に誇り、人の目を気にして生きていく私たち人間のために、またそのような歪みの元となった罪のため、罪の身代わりのためでした。
イエスは、このやもめがレブタ銅貨二枚を、心を込めて神に献げるその姿を、じっと見つめておられました。そのまなざしは愛と慈しみに満ちていたでしょう。その同じ温かな眼差しが、イエスを信じる私たち一人一人にも注がれています。
私たちが献げる小さな祈り。私たちの献げもの。隣人に対する、また会ったことも、話をしたこともない人々のために祈る小さな執り成し。そして神への感謝と讃美。 それがどんなにちっぽけであっても、私たちはこのやもめのように、人の目、人の評価から自由になって、人からの誉れを越えて、自分の力、自分の持っているものを、心をこめて神にお献げして生きることができます。そのように私たちを変えて下さるイエスに、またその愛の眼差しに、今日も感謝しつつ、イエスと共に歩んでいきたいと思います。
祈ります
「誰よりも多く投げ入れた人」
この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れている人々の中で、だれよりも多くを投げ入れました。皆はあり余る中から投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っているすべてを、生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから。

2026/7/19(日)「恵もうと待ち構えておられる主」出エジプト記33:12~19 庄司牧師

2026年7月19日 「恵もうと待ち構えておられる主」出エジプト記33:12~23
さて、モーセは主に言った。「ご覧ください。あなたは私に『この民を連れ上れ』と言われます。しかし、だれを私と一緒に遣わすかを知らせてくださいません。しかも、あなたご自身が、『わたしは、あなたを名指して選び出した。あなたは特にわたしの心にかなっている』と言われました。今、もしも私がみこころにかなっているのでしたら、どうかあなたの道を教えてください。そうすれば、私があなたを知ることができ、みこころにかなうようになれます。この国民があなたの民であることを心に留めてください。」主は言われた。「わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる。」モーセは言った。「もしあなたのご臨在がともに行かないのなら、私たちをここから導き上らないでください。私とあなたの民がみこころにかなっていることは、いったい何によって知られるのでしょう。それは、あなたが私たちと一緒に行き、私とあなたの民が地上のすべての民と異なり、特別に扱われることによるのではないでしょうか。」主はモーセに言われた。「あなたの言ったそのことも、わたしはしよう。あなたはわたしの心にかない、あなたを名指して選び出したのだから。」モーセは言った。「どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」主は言われた。「わたし自身、わたしのあらゆる良きものをあなたの前に通らせ、主の名であなたの前に宣言する。わたしは恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」また言われた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」また主は言われた。「見よ、わたしの傍らに一つの場所がある。あなたは岩の上に立て。わたしの栄光が通り過ぎるときには、わたしはあなたを岩の裂け目に入れる。わたしが通り過ぎるまで、この手であなたをおおっておく。わたしが手をのけると、あなたはわたしのうしろを見るが、わたしの顔は決して見られない。」
出エジプト記を少し振り返ってみたいと思います。神に特別に選ばれたイスラエル民族がエジプトで奴隷にされていましたが、モーセを通して脱出することができました。その後主なる神は、乳と蜜の流れる地と呼ばれる肥沃なカナン、神が約束された地にイスラエルを導いていかれます。 その荒野の旅の途中、シナイ山において、主なる神はイスラエルの民と契約を結んで下さいました。主なる神がイスラエルの神となり、イスラエルは神の民となる、という特別な関係となる契約です。その契約の中身は、十戒を中心とする、イスラエルが守るべき掟、戒めです。エジプトでの奴隷状態からの解放という神による救いを受けたイスラエルの民が、神の民として歩んでいくための指針、ガイドラインが、十戒を中心とする律法によって示されました。イスラエルがシナイ山まで来ると、モーセは十戒が記された石の板を、神から授かるために山に登って行きました。しかしふもとにいた民たちはモーセの帰りが遅いと不安になり、祭司アロンに自分たちを導く目に見える神を造るように要求し、アロンは金の子牛の像を造りました。人々はその金の子牛を神として拝み、その前で不品行の伴う飲めや歌えの騒ぎを始めました。主なる神、イスラエルの神を第一とする、他に像を造って拝んではならない、と言ったことが十戒には記されています。イスラエルの民はそれらの掟を既に聞いており、それを守ると約束し、その約束に基づいて、主なる神は彼らと契約を結んで下さいました。しかし契約のしるしとしての石の板をモーセが神から頂いているまさにその時、彼らは金の子牛の像を造ってそれを拝み、主なる神を裏切ってしまいました。その裏切りであり、神に犯した罪ゆえに、主はイスラエルを怒られました。神は彼らを絶ち滅ぼすとモーセに語られました。しかしモーセは神と民との間に入り、神の怒りを宥めようとします。
怒っておられる主なる神に対してモーセはこのように執り成しました。32章12~14節です。
「主よ。あなたが偉大な力と力強い御手をもって、エジプトの地から導き出されたご自分の民に向かって、どうして御怒りを燃やされるのですか。どうしてエジプト人に、『神は、彼らを山地で殺し、地の面から絶ち滅ぼすために、悪意をもって彼らを連れ出したのだ』と言わせてよいでしょうか。どうか、あなたの燃える怒りを収め、ご自身の民へのわざわいを思い直してください。あなたのしもべアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたはご自分にかけて彼らに誓い、そして彼らに、『わたしはあなたがたの子孫を空の星のように増し加え、わたしが約束したこの地すべてをあなたがたの子孫に与え、彼らは永久にこれをゆずりとして受け継ぐ』と言われました。」すると主は、その民に下すと言ったわざわいを思い直された。
神はわざわいを思い直されました。つまりモーセの執り成し、仲裁に免じて、イスラエルを絶ち滅ぼすことはしない、ということです。 イスラエルは全滅からは免れました。しかしモーセはイスラエルの聖さが保たれるために、罪を犯した者たち3000人を粛清しました。 32章の最後にこのように記されています。こうして主は民を打たれた。彼らが子牛を造ったからである。それはアロンが造ったのであった。モーセが罪を犯した人々を粛清しましたが、「こうして主は民を打たれた」とあることから、神が、罪を犯した者たちを、モーセを用いて打った、粛清した-モーセはただ、神の裁きに従ったということが分かります。神との契約を破り、神に反逆し、神を裏切る。その罪を人は刈り取らなければならない、ということがここに表されています。
そして33章に入ります。神はイスラエルを全滅させることはなさいませんでした。しかしイスラエルに対する怒りと不信はまだ収まっていないように見えます。神はこのようにモーセに語られました。33章3節です。乳と蜜の流れる地にあなたがたを行かせる。しかし、わたしは、あなたがたのただ中にあっては上らない。あなたがたはうなじを固くする民なので、わたしが途中であなたがたを絶ち滅ぼしてしまわないようにするためだ。」出エジプトの時から荒野に至るまで、神はここまでずっとイスラエルと共におられました。しかしここで神は「あなたがたのただ中にあっては上らない。」とモーセに語られました。しかし「乳と蜜の流れる地にあなたがたを行かせる。」と語られていますから、矛盾しているように見えます。 前の節、2節には、「ひとりの使いを遣わす」と語られていることから、自分はイスラエルとはもう同行しないが、代わりに御使い、天使を同行させる、とここで主は語られています。 しかしこの神の語りかけは同時に、彼らに対する憐れみと、約束は守るという誠実な態度でもあります。「もうおまえたちとは一緒にいない、うんざりだ!」という宣言のようにも聞こえますが、主なる神は、彼らを続けてカナンへと導く約束をされました。しかし良く見てみますと、このように神は語られています。「あなたがたはうなじを固くする民なので、わたしが途中であなたがたを絶ち滅ぼしてしまわないようにするためだ。」
「うなじが固い」これは、馬や牛などが首を強張らせて手綱に逆らう様子、つまり飼い主の言うことを聞かない家畜の態度から来ている表現です。このうなじが固いという表現をイスラエル民族に当てはめるならば、神に反抗的、神の御心、ご計画に逆らう姿、態度だということです。実際にイスラエルは主なる神に、また主なる神が選んだモーセに対して頑なでした。しかし裏を返せば、このうなじが固いイスラエルを、ずっと忍耐して導いて来られたのが、主なる神です。加えてこの神は、もし不正を彼らに見るならば、滅ぼさないではおられなくなる。主なる神が義なる正しいお方であるというだけでなく、それでも彼らを滅ぼしたくないという、愛と憐れみに満ちている神であることが分かります。また、神がイスラエルをエジプトから脱出させた始まりは、彼らイスラエルが、主なる神に助けて欲しいと叫んだからでした。
主は忍耐だけでなく、義なる正義の神であり、愛と憐れみに満ちた神であるということです。モーセは今までの経験から、主なる神のこのような素晴らしいご性質、また人格を、十分理解していました。また、叫び、求め、依り頼めば、それに応えて下さるということも。 そこでモーセは神の忍耐、愛、憐れみに訴えつつ、何とか自分たちと共に、カナンの地まで同行して下さるようにと訴えている、それが本日の箇所です。
モーセはこのように主なる神に言いました。「ご覧ください。あなたは私に『この民を連れ上れ』と言われます。しかし、だれを私と一緒に遣わすかを知らせてくださいません。私はあなたたちとは一緒に行かないと、主がイスラエルに対して怒りと不信を表しておられた時、それにも関わらず御使いを送ると主は語られました。しかしこの時点ではまた御使いが送られていませんでした。そこでモーセは御使いなり、誰かイスラエルに同行してくれる存在を、神に確認しました。しかしモーセは次にこのように語りました。しかも、あなたご自身が、『わたしは、あなたを名指して選び出した。あなたは特にわたしの心にかなっている』と言われました。イスラエルに同行してくれる存在を確認する中で主に語った言葉としては、何か不自然な言い回しです。おそらくモーセは、ここでこのような含みを持たせていると思います。「そもそも彼らイスラエルをエジプトから脱出させるために、私をリーダーに任命したのはあなたであり、それがあなたの御心ですよね。私はそのように信じています。」モーセはその確信を持ってさらに主に語りかけている。それが13節です。今、もしも私がみこころにかなっているのでしたら、どうかあなたの道を教えてください。そうすれば、私があなたを知ることができ、みこころにかなうようになれます。この国民があなたの民であることを心に留めてください。」「もしも私がみこころにかなっているのでしたら」とモーセは謙虚に言っていますが、主が自分を選ばれたこと。またイスラエルも神の民として選ばれていることを確信しています。だからこそモーセは、「この国民があなたの民であることを心に留めてください。」と、言うことができました。「イスラエルはあなたの国民です。だから彼らと一緒にカナンの地へと同行して下さい。」これがモーセの本当に言いたいこと、本音です。御使いではなく、主なる神ご自身が自分たちと一緒にいて下さる、すなわち「臨在」されるようにと執り成しています。しかしモーセのこの本当の願いに対して、神はこのように答えられました。主は言われた。「わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる。」これはモーセにとって素晴らしい約束です。モーセはかつて、反逆のイスラエルから何度も不平不満を言われ、挙句の果てには殺されそうになったこともありました。モーセは彼らを率いることに疲れ、「もう十分です。私を殺して下さい!」とまで主に訴えたこともありました。そこで以前のモーセであったならば、主が私と共にいて下さる。休ませて下さる。ありがとう、感謝します、となったでしょう。そこでモーセは、イスラエルを導く働きを終わらせていたかもしれません。しかしモーセはさらに執り成し続けました。
モーセは言った。「もしあなたのご臨在がともに行かないのなら、私たちをここから導き上らないでください。私とあなたの民がみこころにかなっていることは、いったい何によって知られるのでしょう。それは、あなたが私たちと一緒に行き、私とあなたの民が地上のすべての民と異なり、特別に扱われることによるのではないでしょうか。」 「あなたが私たちイスラエル民族を奴隷の地であるエジプトから導き出した時点で、イスラエル民族は特別な民とされています。そして彼らが特別な民とされている証拠が、しるしが、証が、あなたが共にいて下さるという、「臨在」です。だから他の民族とも区別されるように、いや、すでに区別されているイスラエルと共に歩んで下さい。彼らの罪を赦し、これからも導いて下さい。」とモーセは執拗に主に訴えます。その結果が17節です。主はモーセに言われた。「あなたの言ったそのことも、わたしはしよう。あなたはわたしの心にかない、あなたを名指して選び出したのだから。」モーセの執拗な執り成しは実を結びました。イスラエルは偶像を造って拝み、神との契約を破りました。神に対して罪を犯しました。その罪を、咎を、主なる神は赦され、これからもイスラエル民族と共に、約束の地であるカナンに同行すると約束して下さいました。モーセは主なる神が約束されたことを受けて、そのしるし-神の栄光-神だけが持つ主権、尊厳、力、輝き、人格、神が持っておられる素晴らしさの全てを求めました。神がその栄光を見せて下さるのであれば、私たちと共にカナンの地へと同行されることのしるしになる。神はモーセの求めに答えられました。しかし主の栄光を目の当たりにすると人間は死んでしまいます。そこで神の栄光の一部を「後ろ姿」という形でモーセに表すと語って下さいました。この時主はこのように語られました。「わたしは恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」これは主なる神の主権が表されていることばです。神が恵もうと思う者がいる。神が憐れもうと思う者がいる。そのような神の選びが表されています。イスラエルはまさに一方的に神の恵みの中で選ばれました。またイスラエルを赦してくれるようにモーセが執り成し、神はそれに答えられましたが、それは主なる神の恵み、憐れみでした。神はモーセの願いに応える必要はありませんでしたが、モーセに応えて下さいました。それはモーセもイスラエルも、主が恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思うものを憐れむ、という神の選び、神の主権、神のご計画があったからです。主なる神の主権と選び、恵みと憐みがあって、イスラエル民族は存続することができました。そしてイスラエルが存続し、滅ぼされなかったことを通して、救い主、イエス・キリストがイスラエル民族の中からお生まれになりました。イスラエルが滅ぼされなかったのも主なる神のご計画であり、モーセの執り成しに応えられたことも、主なる神の主権、恵み、計画があったからでした。
モーセはイエス・キリストのひな型、モデルであると言われます。モーセがイスラエルの民たちが滅びないように執り成し、祈り、主の怒りを宥めました。それはすなわち、イエス・キリストがされたことと同じです。神から離れ、反逆し、自己中心的に生きる、すなわち罪に生きる私たち一人一人を、神に赦して頂くように、父なる神に執り成し祈って下さいました。今も祈って下さっています。 しかしモーセと決定的に異なるのは、ご自分の身をもって、堕落してしまった私たち人間のために、人類のために、ご自身の体、また全存在を通して執り成して下さったことです。それが十字架による私たち罪の身代わりであり、贖いです。
わたしは恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。主なる神は、一方的に選んで下さった私たち一人一人に、愛と恵みをもって日々導いて下さっています。そして私たちの主、イエス・キリストから、この恵みと憐れみがいつも私たちに注がれています。主なる神に、そしてイエスに感謝しつつ、神の恵みの中に共に生き、また、共に生かされていきたいと思います。
祈ります。「恵もうと待ち構えておられる主」
主は言われた。「わたし自身、わたしのあらゆる良きものをあなたの前に通らせ、主の名であなたの前に宣言する。わたしは恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」

2026/7/12(日)「第一の戒めは何ですか?」申命記4:35 庄司牧師

20260712申命記4:35「第一の戒めは何ですか?」問42 第一の戒めは何ですか。 答「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない」ということです。 (出エジプト記20章3節)聖書”あなたにこのことが示されたのは、主だけが神であり、ほかに神はいないことを、あなたが知るためであった。”申命記4章35節
招詞申命記7:9あなたは、あなたの神、主だけが神であることをよく知らなければならない。主は信頼すべき神であり、ご自分を愛し、ご自分の命令を守る者には恵みの契約を千代までも守られる。

月の第二日曜日です。本日も子ども信仰問答からお話をしていきます。前回の問41から、モーセの十戒に関することを見ています。第一の戒めは何ですか?という問いの答えとして、出エジプト記20章3節から引用されています。「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。」この問いに対してさらに詳しく語られているのが申命記4:35節です。「あなたにこのことが示されたのは、主だけが神であり、ほかに神はいないことを、あなたが知るためであった。」
神に特別に選ばれた民であるイスラエル民族が、奴隷とされていたエジプトからどのように脱出し、どのように約束の地へと旅をして行くかという、出エジプト記の後の出来事が記されているのが、この申命記です。従って本日見て行く申命記4:35節は、イスラエル民族がエジプトを脱出した時にあった主なる神の介入や奇蹟、また荒野における主の守りと導きなど、出エジプト記に記されている、イスラエル民族の経験が元になっています。そして彼らイスラエルの経験した全ては、「主だけが神であり、ほかに神はいないということを知るための、分かるための、理解するための経験になった。」と、モーセは本日の35節で彼ら、イスラエルに告げています。
出エジプト記に描写されているイスラエル民族の歩みは、決して主なる神の御心に沿ったものではありませんでした。彼らイスラエルは荒野において食べ物や飲み物のことで主に不平を言い、主を試み、また、主が選び、立てたリーダーであるモーセに反逆することによって、主なる神に逆らって来ました。しかし彼らの主なる神に対する不信仰、また不従順は、彼らに大きな代償を支払わせることになりました。

エジプトを脱出したイスラエルが向かった約束の地、カナンまでの直線距離は、出エジプトした時の場所、ラメセスから約200km〜300kmです。敵を避けてカナンに向かって旅をしていったことから、実際はもっと長い距離を移動したのは事実ですが、本来であれば10日から数週間、1か月もあれば到着できる距離です。しかし彼らは40年という長い歳月をかけて荒野をさまよいました。それは偶像礼拝や神への反逆など、彼らの不信仰、不従順に対する神からの罰でした。しかしそれでも主は、イスラエル民族の父祖となるアブラハム、その子孫であるイサク、ヤコブに約束されたように、今のパレスチナにあたる約束の地、カナンに彼らを導いて行かれます。神は荒野での40年の間、彼らをカナンに導くために、敵から彼らを守り、マナをはじめとした、生きるのに必要な食べ物や飲み水などを与えて来られました。彼らが不信仰、不従順であっても、彼らを見捨てることはありませんでした。神は愛と慈しみに満ちておられるだけでなく、約束に誠実で、また忠実なお方であるということが分かります。このような神の愛と守りの中、彼らは40年をかけて、川を隔てたカナンの東側、すなわちヨルダン川の東にやって来ました。イスラエル民族は、これからいよいよヨルダン川を渡ってカナンに地に入って行きますが、その前にモーセはもう一度、神が民と結ばれた契約を、改めて彼らに思い起こさせようとしています。申命記の「申」という文字は、もう一度、とか、再びという意味です。文字通りモーセは、神がイスラエルに与えられた生きる上での指針、ガイドラインである教え、掟、すなわち律法を、もう一度イスラエルに語り聞かせた、それが申命記です。
約束の地、カナンには先住民族がいます。また、彼ら先住民族が信じていた偽りの神々の存在もありました。敵を恐れず、また偽りの神々を彼らのように拝む、つまり偶像礼拝などから守られるためには、主だけが神であり、ほかに神はいないということを、カナンに入る前にもう一度イスラエル民族は確認する必要がありました。そのためモーセは、彼らに今まであった、そしてこれからも必ずあるであろう主の守りと導き、主なる神に従う者にある祝福を、カナンに入る前に思い出させようとしています。
そして本日の箇所、申命記4:35節です。
あなたにこのことが示されたのは、主だけが神であり、ほかに神はいないことを、あなたが知るためであった。「あなたにこのことが示されたのは」と記されています。これらのこととは、彼らイスラエル民族が40年にわたって体験して来た主の守り、導き、祝福です。神が約束されたカナンの地に、これから入っていこうとしている世代は、40年の荒野の放浪の中で不信仰ゆえに死に絶えてしまった人々の子ども、孫にあたる第二世代、第三世代です。彼らは神がモーセを通して偉大な奇蹟を起こされ、奴隷とされていたエジプトから脱出させて下さったこと。紅海が分かれてイスラエルはその中を進み、エジプト軍は飲み込まれてしまったこと。また荒野でのパン、すなわちマナが毎日降った奇蹟など、若い世代は殆ど経験していません。例え経験していたとしても、それは子どもの時であり、その記憶は定かではなかったでしょう。しかし彼ら若い世代は、両親などから、それらの様子を聞く機会がありました。彼らが語り聞かされて来たことは、神が教えられた掟と定めを守ることによって与えられる祝福と助け、逆に守られない時に起こる不幸、裁き、などだったでしょう。そのようなイスラエル民族の歩みですが、荒野における主の守りと祝福が強調されている描写が2章にあります。2:7節です。2:7事実、あなたの神、主は、あなたのしたすべてのことを祝福し、あなたの、この広大な荒野の旅を見守ってくださったのだ。あなたの神、主は、この四十年の間あなたとともにおられ、あなたは、何一つ欠けたものはなかった。イスラエルの荒野の40年の歩みにおける、主の守りと祝福の描写です。その祝福と恵み、主なる神の導きをあなたがた若い世代、次の世代のあなたたちは受け継いでいるのだ。その受け継いだ神の恵みと祝福を忘れず、生涯心から離すことなく歩みなさいとモーセは民に語りかけています。
さきほど、申命記4章は偶像礼拝に巻き込まれる危険性が記されているとお話しました。そしてこの4章には、偶像礼拝を憎悪する主なる神のことが、「ねたむ神」と表現されています。24節です。「あなたの神、主は焼き尽くす火、ねたみの神である。」前の訳では「ねたむ神だからである」と、記されています。主なる神は、主以外の偶像や、太陽、月、星などの被造物をもしイスラエルが拝むことがあれば、つまり偶像礼拝に対しては、焼き尽くす火のように怒りを燃え上がらせ、激しいねたみを覚えられる、ということです。怒るとかねたむという感情は人間らしく、神にはあまり相応しくないように思いますが、それは主なる神がイスラエルのことを、ひいては私たち一人一人の人間を、本気で愛しておられることのしるしです。
本当に愛しているからこそ、自分の愛する者が、人間が勝手に作り出した神々や、神が造られた被造物を神として礼拝する、心奪われることに対して怒りやねたみを覚えられるということです。新共同訳聖書、前の版の訳では、この「ねたみの神」または「ねたむ神」という表現に代わって、「熱情の神」と訳しています。神がイスラエルを、ひいては人類一人一人を、熱情をもって、情熱をもって本気で愛して下さっていることが伝わって来る翻訳です。そして主なる神は、イスラエル民族だけでなく、私たち一人一人をねたむほど愛されておられます。このイスラエル民族を導かれた神、ヤハウェなる神を、私たちは父なる神と呼んでいます。ねたむ神、私たちに熱情をもって接して下さる神は、私たちの信じている神と同じ神です。この主なる神、父なる神が、私たちをねたむほど愛するがゆえに、他の神々の下に行って欲しくない、従って欲しくない、そして主なる神の下で本当のいのちを持って生きて欲しいという願い、思い、熱情から、愛する一人子を私たちに与えるという計画をお立てになりました。そしてその計画を実践して下さったのが、私たちの主、イエス・キリストです。このイエスもまた、羊飼いのない羊のように、神を無視し、偶像に向かい、生きる意味や目的、神の愛を知らずに倒れている人々を見て、心から、はらわたがよじれるほどに憐れみを現わして下さる神です。どれほどの憐れみか。どれほどの愛か。その結晶が十字架であり、十字架に表されています。
かつてイスラエル民族が奴隷とされていたエジプトは、私たちが現在生きている世界、そして私たち人間の罪を象徴している世界です。エジプトの王、パロは、ただの人間でしたが、神と見なされ、自分も神のように振舞っていました。また、エジプトでは動物や天体などが神々となり、偶像礼拝が行われていました。権力を持つ者が神となり、また、人々も神以外のものを拝んでいる。
現代を生きる私たちの世界と全く変わりがありません。しかしエジプトはその高慢なゆえに、また神にそむき、敵対するという罪ゆえに、神に裁かれました。すなわち、神を無視し、神に背を向けて自分が生きたいように生きる先には、裁きが待っているということです。そしてそれは、現代を生きる私たちも同じです。

裁きとは、神から永遠に引き離されるという滅びです。しかしこの罪、滅び、裁き、そこから来る死から脱出させて頂けたのが、私たちキリスト者、クリスチャンです。それはただ、イエス・キリストを救い主として信じた結果です。私たちが救われるために何か善行を積んだり、何か努力したという訳ではありません。それはただ、イエス・キリストにある恵みです。そして私たちはこの恵みのゆえに、エジプトに象徴されるこの罪深い世から、罪深い世界から脱出させて頂けました。そしてそれはただ、イエス・キリスト、私たちの主が成し遂げて下さった十字架の業、十字架を通しての贖いです。イエスが私たちの罪を全て背負って十字架につかれ、死なれ、葬られ、三日目に罪と罪から来る死を滅ぼして復活して下さいました。その復活されたイエスと私たちは一つにされています。前回、新約聖書、ヘブル人への手紙を引用しました。イエス・キリストは復活されて生きているだけでなく、その存在は永遠であるということです。「イエス・キリストは昨日も今日もとこしえに変わることがない」私たちの主、イエス・キリストは今も生きておられます。それも永遠に生きておられます。この永遠に存在されているイエスを信じるということは、永遠のイエスと一つにされることです。それは私たちキリスト者、イエスを主と信じた者が受けるバプテスマ、洗礼に表されています。このバプテスマは、イエスを信じる全ての者が、イエスと一つにされた、また、されていることを象徴的に表すものです。洗礼の時、洗礼に与る者は、水に沈められます。それはイエスと共に罪に死ぬことの象徴です。そして水から上がることは、イエスが罪を滅ぼして復活されたその復活のいのちと一つにされる、復活のいのちに与ることを象徴しています。
従ってイエスが成し遂げられた罪と罪から来る死への勝利は、私たちイエスを信じる者たちにとっても勝利です。つまりイエスにあって私たちは、罪と、罪から来る死に勝利しています。そして永遠に生きておられるイエスと一つにされるということは、イエスを信じて歩む一人一人が、永遠に生きるということです。そして永遠に生きる歩みは、イエスを主と信じた時からすでに始まっています。イエスと共に永遠を生きる-別の言い方をすれば、それは神の子、神の家族とされることであり、神の国に入ることができるということでもあります。
礼拝の冒頭で、神からの礼拝への招きのことば、証詞を読んで頂きました。申命記7:9あなたは、あなたの神、主だけが神であることをよく知らなければならない。主は信頼すべき神であり、ご自分を愛し、ご自分の命令を守る者には恵みの契約を千代までも守られる。私たちキリスト者にとっての主とは、イエス・キリストです。つまりイエスを自分の主人として信頼し、愛し、イエスの命令を率先して、自発的に、また喜んで守り従う者には、恵みの契約が千代、つまり永遠に続くという約束が、すでに旧約聖書に予表され、約束されています。そしてそれは私たちの行いや努力、善行を積むことなどに全く関係がない、ただ、神の、私たちの主、イエス・キリストにある恵みです。
旧約聖書、申命記に描写されている「ねたむ神、すなわち熱情の神」は、新約聖書において、私たちの主、イエス・キリスト、愛と憐みに満ちた神とイコール、同じ神です。私たちはこれからも旧約聖書と新約聖書の繋がりを意識していきたいと思います。そしてこの生きて働いておられる永遠の神と、人格的な交わりを持つことができるようになったこと、そしてこの神を通して救われていることを感謝し、神の愛、愛の神に日々応答していく者でありたいと願います。祈ります
問42「第一の戒めは何ですか?」答「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない」ということです。 (出エジプト記20章3節)聖書”あなたにこのことが示されたのは、主だけが神であり、ほかに神はいないことを、あなたが知るためであった。”申命記4章35節申命記7:9あなたは、あなたの神、主だけが神であることをよく知らなければならない。主は信頼すべき神であり、ご自分を愛し、ご自分の命令を守る者には恵みの契約を千代までも守られる。

2026/7/5(日)「ダビデの子か、それともメシアか」マルコ12:35~37 庄司牧師

2026年7月5日 マルコの福音書12:35~37「ダビデの子か、それともメシアか」
イエスは宮で教えていたとき、こう言われた。「どうして律法学者たちは、キリストをダビデの子だと言うのですか。ダビデ自身が、聖霊によって、こう言っています。『主は、私の主に言われた。「あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで。」』ダビデ自身がキリストを主と呼んでいるのに、どうしてキリストがダビデの子なのでしょう。」大勢の群衆が、イエスの言われることを喜んで聞いていた。 (マルコの福音書 12:35-37 SKY17)

 本日は12章35節から37節を見て行きます。35節の一つ前の節、34節にはこのように記されています。「それから後(あと)は、だれもイエスにあえて尋ねる者はいなかった。」前回見た箇所です。一人の律法学者が正直で真面目な態度でイエスに接し、律法の中でどれが一番大切であるかをイエスに問いました。それまでイエスに敵対する様々な宗教指導者たちが、入れ替わり立ち替わりイエスを陥れるための質問をして来ました。しかしイエスがあまりにも的確に、いやそれ以上の知恵を持って答えられる様子を見て、イエスの言葉尻を捕らえてローマ帝国に訴える、もしくは民衆の人気を失わせようとして来た他の宗教指導者たちが、ギブアップ、諦めた時の様子です。
ルカの福音書20:40には、「彼らはもうそれ以上何も質問する勇気がなかった。」と記されています。悪意ある質問によってイエスを陥れることよりも、その質問によってかえって自分が不利になる、面目を失う、だからもうあえて冒険はしない。彼らを黙らせるほどに、イエスの答えは彼らを驚嘆させたということです。それほどまでに彼らを論破してきイエスですが、今度は自ら彼らに質問されました。 35節。「律法学者たちは、どうしてキリストをダビデの子と言うのですか。」新共同訳ではこのように翻訳されています。「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。」新改訳ではキリストというところを、新共同訳では「メシア」と訳しています。
この35節は、新約聖書の原文のギリシャ語では「クリストス」と記されています。それを新改訳聖書では「キリスト」と訳しています。この「クリストス」もしくは「キリスト」という言葉は、旧約聖書の原語のへブル語、「メシア」という言葉が元になっています。新共同訳はこのヘブル語のメシアをそのままイエスに当てはめたということです。
このメシアということばの意味は、「油注がれた者」であり、救い主を表します。旧約聖書には、神によって王や祭司などの務めに任命された者は、そのしるしとして、油が注がれました。ですからメシアは神によって立てられ、任命された者ということであり、次第に神が遣わして下さった救い主を意味することばになっていきました。ですからイエスの時代、メシア、すなわちキリストと言えばそれは「救い主」という意味でした。それゆえ「イエス・キリスト」という呼び方は、「イエスこそキリスト、すなわち救い主である」という意味であり、それ自体が一つの信仰告白となって行きました。
またイエスという名前自体が、「神は救いである」という意味です。そして先程お話したイエス・キリストの「キリスト」ということばは、タイトル、称号でもあります。従って「イエス」という名前も、「キリスト」という称号も、共に神の救いが込められています。そして名前に込められた意味だけでなく、愛ある業、イエスが語られたことば、そして行った多くの奇蹟から、イエスは救い主、メシアとして、罪と罪から来る死から全人類を解放して下さるお方である。そのように信じるに足る多くの証拠、しるしをイエスは持っておられました。そしてイエスご自身が具体的に、旧約聖書を通して自らがメシアなる救い主であることを、ユダヤの人々が尊敬し、愛して止まないダビデ王を引き合いに出して、示そうとされました。それが36,37節です。ダビデ自身が、聖霊によって、こう言っています。『主は、私の主に言われた。「あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで。」』ダビデ自身がキリストを主と呼んでいるのに、どうしてキリストがダビデの子なのでしょう。」
この36節は、旧約聖書の詩篇110篇1節からの引用です。当時の人々はこの110篇をダビデの作と信じていました。イエスもその当時の共通認識に基づいて引用されています。そしてこの詩篇はメシア詩篇として有名であり、メシアが世界の支配者として君臨する様子を描いています。
詩篇110篇1節にはこのよう記されています。共に開きましょう。詩篇110:1節は、聖書の中ほど、旧約聖書P1053です。この110:1節を共に読んでみましょう。『主は、私の主に言われた。「あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで。」』これは主なる神が、救い主の勝利とそのご支配の確立を告げておられるところです。主は、私の主に言われたと、「主」という言葉が二度使われています。マルコ福音書の原文においては、両者は同じことばが使われていますが、詩篇の原文においてはこの二つは全く別のことば、単語が使われています。初めに記されている「主」は旧約聖書の原語のヘブル語で「ヤーウェ」あるいは「ヤハウェ」と読まれる、イスラエルの神のみ名を指す固有名詞で、太文字で表されています。私たちが父なる神と呼ぶお方でもあります。文語訳聖書ではこれを「エホバ」と訳していましたが、口語訳から「主」と訳されるようになりました。それに対して次に記されている「わたしの主」の方の「主」は、ヘブル語で「アドーン」と表記され、「主人」という意味の普通名詞です。太文字で表されていません。ですから引用元の詩篇を「主」の違いに注意して訳すのであれば、このようになるでしょう。「イスラエルの神ヤハウェが、私のご主人様にこうお告げになった。」この詩を歌ったのがダビデ自身だとすれば、ダビデ自身が、まだ見ぬ子孫、しかも自分からすれば子どもにあたる人物を、来るべき救い主として「わたしの主、わたしのご主人さま」と呼んだということになります。ダビデにとってのご主人となる「主」とは、メシアなる救い主、イエス・キリストです。またイエスは36節で、「ダビデ自身が、聖霊によって、こう言っています。」と語られました。つまりダビデのこのような告白は、聖霊から預言として受け取った告白である、ということをイエスは示しておられます。
系図の上では、イエスは実際にダビデの子孫としてお生まれになりました。新約聖書の始め、マタイの福音書の1章1節を見ると分かります。「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」 イスラエル民族の重要な父祖であるアブラハムから、彼らが愛し尊敬しているダビデ王を経て、イエスに至る系図です。 ルカの福音書3章にも、イエスがダビデ家の子孫であるヨセフの子どもとしてお生まれになったことが、記されています。そして補足するとすれば、このルカの福音書の3章の系図は、イエスから始まり、人類の始祖であるアダムにまで遡っています。
話を戻します。ユダヤの人々は、この詩篇110篇が、将来到来するメシアが預言されているものとして、誰もが知っていたような詩篇でした。そして彼らはこの詩篇が、特に敵に対するメシアの勝利の歌と考え、解放者なるメシアの姿を思い浮かべていました。イエスが人として歩まれた当時、ユダヤの人々にとっての敵とはローマ帝国でした。従って彼らユダヤの人々は、いつか救い主であるメシアが到来し、ローマ帝国を倒し、ローマから自分たちを解放してくれる。このような思い、願い、期待を、イエスの弟子たちも持っていたということを以前お話したことがあります。すなわち人々は、イエスが支配者であるローマから自分たちを解放して下さる、目に見える政治的・軍事的王としての姿を期待していました。しかしイエスはご自身が目に見える王ではなく、目に見えない霊的な領域を司り、また統べ治める者、救い主としてご自身を証されて来ました。つまり今まで間違って解釈されて来た詩篇110篇1節が、イエスによってようやく正しく理解され、説き明かされたということです。そして旧約聖書に記されている救い主到来の預言が、イエスを通して成就、実現した、ということができます。それはイエスを信じる者に与えられる罪の赦しであり、人間と神との関係の回復であり、永遠に続くいのちという霊的なものです。 イスラエル民族だけ、一民族だけに及ぶ回復や解放ではなく、全ての人類に及ぶ普遍的回復、解放です。
詩篇110篇1節は、天地を造り支配しておられる神が、救い主、イエス・キリストを通して全ての敵を打ち破らせ、ご自分の右の座に就けて下さったという、メシアなるイエスの支配が確立されたことを告げるみことばです。敵とはサタン、神に反逆し、人間を罪に陥れた悪魔です。また、人間がアダムとエバから受け継いでいる罪と、罪から来る死です。さらに罪は、私たちを神の恵みから引き離すものです。神から離れるという罪を犯した結果、私たち人間は人生において心配や恐れ、不安、悲しみ、絶望や争いなどが生み出されてしまいました。しかしイエスはそれら人間の不幸であり絶望の元となる罪を全て背負われ、それら罪と共に十字架に架かって下さいました。そしてその死と共に罪を葬りさり、その死から復活されることによって、人類の罪と、罪から来る悲しみ、痛み、絶望、そして死から勝利して下さいました。イエスは復活を通して、私たち人類に肉体の死を越えた新しいいのちを示され、死はもはや私たちを絶望させるものではなくなりました。そして復活された救い主なるイエスが天に昇り、父なる神の右の座に就いて下さったことを通して、イエスを信じる全ての人々が、イエスのご支配、すなわち神の恵みの下に置かれることができる、と言うことができます。
ところで皆さんは、バルティマイを覚えておられるでしょうか。このマルコの福音書10章の46節に登場する盲人、目が見えず、物乞いをしていた人です。当時のユダヤ人たちは、障害や重い病気などを患っている人は、本人か先祖が罪を犯した結果、その罪に対する神からの罰(呪い)を受けた者であると考えていました。ですからバルティマイのような盲人は、神から呪われた者として、人々から嫌悪されるような存在であり、誰も近寄って来ることはありませんでした。そのような彼ですが、人々がイエスのことを話していることを通して、イエスが自分の目を癒して下さると、イエスに望みを置きました。彼は道ばたから叫びます。「ダビデの子のイエス様、私をあわれんでください」と叫び始めた。多くの人たちが彼を黙らせようとたしなめたが、「ダビデの子よ、私をあわれんでください」と、ますます叫んだ。この時バルティマイはイエスをダビデの子と呼んでいます。バルティマイもまた、イエスのことをダビデの子孫と見なしていることが、この叫びにも表されています。そしてイエスは立ち止まり、他の人に彼を連れて来るように命じられました。イエスはバルティマイにお尋ねになりました。「わたしに何をしてほしいのですか。」並行箇所のルカの福音書によれば彼はこのように答えています。「主よ、目が見えるようにしてください。」
ダビデの子と叫んでいたバルティマイでしたが、イエスが自分の下に来られた時、「主よ、」という呼びかけに変わっています。バルティマイにとってイエスは、自分に全く関わりがない一支配者、一解放者である「ダビデの子」という世間一般に言われていた遠い存在でした。しかし彼は「主よ、」と呼びかけた時、イエスを個人的な神として、個人的なメシア、救い主として信じる、受け入れた瞬間でした。 そのバルティマイに対してイエスはこのように宣言されました。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救いました。」
イエスの宣言の後、このようなことが起こりました。その人はただちに見えるようになり、神をあがめながらイエスについて行った。これを見て、民はみな神を賛美した。これはルカの福音書の記述ですが、イエスは誰にも見向きもされないバルティマイに近寄られ、声をかけられ、実際に彼に手を触れられました。そして実際に彼を癒すことによって、イエスは夢も希望もない、半ば死んでいたような人を生き返らせ、新たに力と生きる希望を与えられました。それを見た回りの人々は神の愛、力、栄光を賛美しました。一人の人の癒やし、人生の回復は、他の人々にも及んでいくということが現わされている出来事です。この目が見えない人の人生の再生、回復は、イエスに信頼を置く、すなわちイエスを自分の主、救い主なるメシアとして信じ、受け入れた時から始まりました。加えて罪の赦しという永遠に関わる救いをも手にしたのが、バルティマイでした。
現代を生きる私たち一人一人も、このバルティマイのように盲目です。目に見えない神、目に見えない悪魔、目に見えない罪、目に見えない神の裁き、目に見えない永遠のいのちなど、霊的な事柄に対してです。そのことに気付くか。そのことを認めることができるか。私たちの永遠を分ける大きな気付きです。
ダビデは将来自分の家系から生まれて来ることになるメシア、イエス・キリストが救い主であることを、聖霊の働きを通してイエスがお生まれになる前から、すでに予知、預言していました。そして人々に蔑まれていたようなバルティマイもまた、イエスをメシアなる救い主として信じ、肉体的な目だけでなく、霊的な目も開かれ、永遠の救いを手にしました。私たちはどうでしょうか。

新約聖書、ヘブル人への手紙に、「イエス・キリストは昨日も今日もとこしえに変わることがない」と記されています。メシアなる救い主イエス・キリストは今も生きておられます。このイエスをダビデの子、聖書に記されている一支配者、一解放者、またはキリスト教を始めた始祖、倫理的に偉大な指導者などと取るか、それとも自分の主、「私の救い主」と取るか。現代を生きる私たちにの大きな違い、永遠に至る違いをもたらします。罪が赦され、神との関係の回復に至るか。そして神との関係の回復を通して、自分自身と他の人々との回復にも影響を与えるか。その違いはただ、イエスに信頼を置くか。イエスを信じて生きていくか。という決心、決断の違いだけです。
私たち人間に最も大切な決断-イエスを信じて歩んで行くという歩みを-今も生きておられるイエス・キリスト、メシアなるイエスが、日々導いて下さいますように。
祈ります
「ダビデの子か、それともメシアか」
ダビデ自身がキリストを主と呼んでいるのに、どうしてキリストがダビデの子なのでしょう。」大勢の群衆が、イエスの言われることを喜んで聞いていた。

2026/6/21(日)「神の国へのステップ」マルコ12:28~34 庄司牧師

2026年6月21日 マルコの福音書12:28~34「神の国へのステップ」
律法学者の一人が来て、彼らが議論するのを聞いていたが、イエスが見事に答えられたのを見て、イエスに尋ねた。「すべての中で、どれが第一の戒めですか。」イエスは答えられた。「第一の戒めはこれです。『聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』第二の戒めはこれです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。』これらよりも重要な命令は、ほかにありません。」律法学者はイエスに言った。「先生、そのとおりです。主は唯一であって、そのほかに主はいない、とあなたが言われたことは、まさにそのとおりです。そして、心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛すること、また、隣人を自分自身のように愛することは、どんな全焼のささげ物やいけにえよりもはるかにすぐれています。」イエスは、彼が賢く答えたのを見て言われた。「あなたは神の国から遠くない。」それから後は、だれもイエスにあえて尋ねる者はいなかった。
本日もまた、律法学者が登場します。しかしイエスに敵対してきた今までの律法学者とは、違うようです。それは彼がイエスから、「あなたは神の国から遠くない」と言われたことからも分かります。しかしこの律法学者は賢く答えたにもかかわらず、イエスから、「あなたは神の国に入ることができる!」とは言われませんでした。なぜでしょうか。神の国に入れることと、神を愛し、隣人を愛することとが、どのような関りがあるのでしょうか。共に見て行きたいと思います。
冒頭にはこのように記されています。律法学者の一人が来て、彼らが議論するのを聞いていたが、イエスが見事に答えられたのを見て、イエスに尋ねた。
「彼らの議論」とは、18節以下、イエスとサドカイ派の人々の復活をめぐる議論です。前回共に見て来ました。この当時、復活をめぐってパリサイ派とサドカイ派が対立していました。サドカイ派は、「復活はない」と言っていたのに対して、パリサイ派は復活を信じていました。そのような中で、イエスが聖書に基づいてはっきりと死者の復活をサドカイ派の人々に語られ、イエスが自分たちと同じことを教えているという親近感を、彼は抱いたようです。 律法学者は、律法、神の教えであり戒めを研究し、自分自身がそれを守るだけでなく、一般の人々に、律法を守って生活するためのアドバイスをしていました。六百以上の戒めを大切なものとしていたことから、膨大な律法をどのように解釈し、またどのように人々に教えるかということをいつも考えていました。そこで彼は、好意を抱いたイエスから、律法で一番大切なことを尋ねることにしました。彼の真面目で真剣な問いに対して、イエスも誠実に、そしてはっきりとお答えになります。29、30節です。
イエスは答えられた。「第一の戒めはこれです。『聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』イエスは旧約聖書、申命記第6章4、5節からの引用をもって、律法の第一としました。ユダヤの人々はこの教えを大切にし、毎日唱えていたものです。 この第一の教え、戒めは、一言で言えば「神を愛しなさい」ということです。神を愛することこそが、あらゆる律法の要、神の民としての生活の中心だとイエスは言われている。 ところで「主を愛しなさい」と命令形で訳されています。原語であるヘブル語では完了形で記されています。ヘブル語では未来に確実にそうなることは、~した、~するようになると、完了形で表します。つまり申命記の6:5節は、「あなたは愛するようになる」と訳すことができるものです。その引用ですから、本日の箇所の12:30節の直訳は「あなたはあなたの心の全てをもって、あなたの精神の全てをもって、あなたの思いの全てをもって、あなたの力の全てをもって、神を愛するだろう。」と訳すことができるものです。
イスラエル民族は神に特別に選ばれている民族であり、神の栄光、素晴らしさを他の民族、部族に伝えていく使命、役割を担っていました。それにも関わらず彼らは神への信仰・不信仰、従順、不従順を繰り返して来ました。しかしその都度預言者などが神から遣わされ、神に立ち返るよう、促されて来ました。旧約聖書にその歩みが描写されています。そのような彼らを神は見捨てることはありませんでした。従ってイスラエルに対する主なる神の深い愛、忍耐、慈しみと恵みを彼らが覚える時、もはや彼らは義務や命令から神を努力して愛していくのはなく、喜んで、感謝を持って自発的に神を愛していくようになる。愛していくはずだ。そのような主なる神の思い、彼らに対する期待が伝わって来ます。 そしてこの神のイスラエル民族に対する愛、忍耐、そして期待は、同じように今を生きる私たちも含め、全ての人類に向けられているものだと思います。
このような神の愛、忍耐、期待や思い、願いが、イエスが言われたもう一つの大切な戒めにも表されています。それが、「隣人を自分のように愛しなさい」です。イエスは旧約聖書、レビ記第19章18節を引用されています。ここには「自分を愛するように隣人を愛しなさい」と記されています。神を愛することと、隣人を愛すること。この二つが分かち難く結び合って、律法の中心をなしているということです。そしてこの第二の戒めも、第一の戒めと同様に、命令形だけでなく、未来形で訳すことが出来る箇所です。「あなたは、あなたの隣人をあなた自身として愛するであろう(愛するようになる。)」この第二の戒めはまた、イエスが言われた第一の戒めである、人間が大切にしなければならない第一の律法である、「神を心から愛するということ」の、コインの表裏のようです。つまり神を心から愛する者は、自分と自分の隣人を愛する者になるということであり、自分と自分の隣人を心から愛する者は、神を心から愛する者になるということです。
イエスは律法学者に「あなたは神の国から遠くない。」と言われました。神の国はあなたの近くにある、あなたはいい線まで来ている、しかしまだそこに到達してはいない、とおっしゃったのです。正直であり、誠実な彼がなお神の国に入ることができないでいる原因は何なのでしょうか。
この律法学者は、「先生、その通りです」と言って、イエスが語られたことを称賛し、同意し、また共感しました。しかし神の国に入ることができるとイエスに言われなかったことから、彼には神への、すなわちイエスへの信仰が無かったことが分かります。つまり彼は自分の力で神を愛し、また隣人を愛していくことができると思っていた、そしてそのように生きていた、ということです。
彼は律法を学ぶことや、人々に律法を教えることに熱心だったかもしれませんが、その中心には最も大切な神がいませんでした。では、私たちはどうでしょうか。
心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、神を愛しているでしょうか。旧約聖書、伝道者の書7章には、「順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ」ということばがあります。順境、すなわち順風満帆の時は、人は言われなくても喜びます。しかし逆境、試練や苦難が来ると、私たちはその試練や苦難を通して自分のあり方を吟味したり、成長の機会と捉え感謝するよりも、時に神に責任転嫁、神のせいにしてしまうことがないでしょうか。なぜ神はこのような痛みの経験を許可されたのか、許されたのか?失望したり、怒ったことが、そして現在、怒っていることがないでしょうか。また私たちは、隣人を真実に愛しているでしょうか。イエスが、好きな人だけ愛しなさい、と言っておられないことは明白です。自分に敵対し、迫害する者のために祈りなさい、と言われるのがイエスです。つまり赦せない人を赦し、愛せない人を愛する、これが、イエスが言われる隣人を愛する、ということです。また、自分を愛するよう隣人を愛しなさい、ともイエスは言われました。私たちは時に自分自身を受け入れることが出来なかったり、愛することができないことがあります。自分の過去の過ち、自分で自分のことが自制できない弱さ、悪いことの方に傾く罪深さ、などを通して自分に嫌悪することがあるからです。そのような私たちにイエスは、一人一人が自分自身も受け入れ、赦し、愛するようにと言われています。しかし私たちはそのように人を赦し、自分を赦すという生き方をして来たでしょうか。またしているでしょうか?私自身を見る時、心から神を愛すること、心から自分を愛すること、そして心から隣人を愛すること、できていない、とよく思わされます。神が、イエスが求めておられることからどれだけ自分が離れているか、日常生活の中でも思い知らされます。そして自分の努力によっていくら頑張っても、神の規準に到達することが出来ないと、認めざるを得ません。最近息子にこのように言われました。「パパ、この頃ブチ切れなくなったね!-言ってくれるな~と感心しました。」この時ただ笑うしかありませんでしたが、子どもを叱るというより、感情的に怒ってしまいます。しかも何度も繰り返してしまう。(そして、これを購入しました。掲げる)日々の生活を通して、自分の愛のなさ、忍耐のなさを認めます。もちろん私の弱さは子育てだけに限りません。しかしそのような欠けや弱さのある自分に気づき、時に気付かされ、愕然とする。それは良いことかもしれません。
先週、神が人間に示された人間が生きる上でのルール、神の教え・戒めである十戒を始めとした律法の規準の高さ、厳しさに達することができないと心砕かれる者は、イエスの方に向かうとお話しました。 律法は、私たちをキリストに導く養育係になるというお話でした。律法に示されている神の規準の高さに触れる時、またイエスが言われ、実際に人々に対する愛の言動、その行いを聖書から知る時、自分には心から神を愛することも、また心から自分を愛することも、そして心から隣人を愛することはできない。自分に絶望するしかないのではないでしょうか。しかし私は、自分に絶望することは素晴らしいと思っています。そうでなければ、この律法学者のように、知識や知恵があり、正直に、また誠実に生きていたとしても、イエスから、「あなたは神の国に入ることができる。」、とは言われないし、実際入ることはできないからです。すなわちそれは、イエスとの愛の関係を築くことができないことを意味します。 イエスは公に福音を宣べ伝え始められた時、このように宣言されました。「神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」今年もこの神の国について見ています。神の国が近づいたとは、神の国が到来したと訳せることばです。到来ですから、イエスを通して神の国、すなわち神であるイエスが統治される国が、私たち人類の近くまで来た訳ですが、その神の国に誰でも入ることができる訳ではありません。神の国に入るには明確な条件があることを、イエスは言われました。それは、「悔い改める」ことでした。人生の、また自分の生き方、あり方の方向転換です。そしてその向かう先は、救い主、イエス・キリストです。イエスに信頼を置き、イエスを信じて歩む生き方への変換です。そして私たちの主、私たちの人生のあるじになって下さるイエスは、私たちが信頼を置き、頼ることができるに十分な方、また相応しいお方です。なぜなら律法を二つにまとめられたイエスご自身が、その律法を完全に守られたからです。律法に生き、律法を完成させたお方です。
そしてそれは、十字架に表されています。父なる神が罪ある人間を救うために、御子イエス・キリストを十字架にかけて殺す。イエスが全人類の罪を全て背負われて死ぬ。身代わりの死を通して人類を救うという父なる神のご計画に、イエスは完全に従われました。-なぜでしょうか?-それは父なる神を愛し、大切にされ、第一とされたからです。ではなぜイエスは、神を無視し、神に敵対しながら滅びに向かっている私たち人間の全ての罪を、ご自分で全て背負われて、十字架につかれたのでしょうか?-それは私たち一人一人の人間を心から愛しておられるからです。
神の規準を全て、完全に満たし、また私たち人間を心から愛しておられるイエスが、一方誠実ではありますが、自分中心に、また自分の努力で、神を抜きにして生きているような律法学者に対して、「あなたは神の国から遠くない」と言われた、いや、おっしゃって下さいました。彼は神から離れ、自分の力で生きていたような人がしたが、彼の正直さ、誠実さをイエスは認めて下さっていた。
その上でイエスはこのように彼を招いておられると思います。「あなたは神の国から遠くない。あなたに後必要なのは、そして絶対に必要なのは私だ。私に信頼を置き、私を信じて歩みなさい。そうすればあなたは神の国に入ることができる!」「あなたは神の国から遠くない」と言われたのは、この律法学者をご自分お下に招いておられる、そのように私は思っています。そしてこの招きは、全ての人類に、今を生きる私たち一人一人にも向けられている。そのように信じています。
本日はこの神から、すなわちイエスからの招きを、招詞として、礼拝の冒頭で読んで頂きました。
ローマ人への手紙10:17節です。前の訳ではこのように記されています。「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」神を愛することも、自分を愛することも、隣人を愛することもままならない私たち人間ですが、イエスは私たちの罪深さを知り、弱さに同情され、助けて欲しいと願い、求める者には必ず応えて下さるお方です。そしてそのイエスとの愛のある関係に導かれるのに必要なことが、イエスへの信仰です。そしてそれは、イエスのことば、聖書のことばを聞くことから始まります。
イエスの愛の招きに応答し、イエスを信じた者全ては、イエスが統治される神の国に入ることができます。そこはイエスとの愛の交わりが永遠に続く場所です。そしてイエスとの愛の交わりが完成する時は、聖書に何度も何度も記され、預言されている再臨、イエスが再びこの世界に戻って来られる時です。その時私たちは、神を心から愛し、自分を心から愛し、隣人を心から愛するものに造り変えられます。その完成に向かって私たちは日々自分の弱さや欠点、罪深く、愛の足りない者であることを聖書のみ言葉から教えられ、イエスがなされた愛の言動から思い知らされていきます。しかしそれは、イエスへと向かう大きな原動力となること、素晴らしいことです。 神の前に、イエスの前に自分を飾らず、弱さを隠さず、「私は愛が足りません。あなたの助けが必要です。あなたの愛で私を満たして下さい。そして神を愛し、自分を愛し、隣人を愛する者にして下さい。」そのようにイエスに向かう者を、イエスは決して見放すことも、また見捨てられることもありません。その根拠が十字架です。十字架に架かるほど私たち人間を、そして「私を」愛して下さっている証拠ですから。 このイエスの愛に触れられながら、時に慰められ、励まされながら、心から神を、心かから自分を、そして心から隣人を愛していくことができますように。
祈ります。「神の国へのステップ」
イエスは、彼が賢く答えたのを見て言われた。「あなたは神の国から遠くない。」それから後は、だれもイエスにあえて尋ねる者はいなかった。