2026/5/3(日)「何度も、何度でも」マルコ12:1~12 庄司牧師

2026年5月3日 マルコの福音書12:1~12「何度も、何度でも」
それからイエスは、たとえで彼らに話し始められた。「ある人がぶどう園を造った。垣根を巡らし、踏み場を掘り、見張りやぐらを建て、それを農夫たちに貸して旅に出た。収穫の時になったので、ぶどう園の収穫の一部を受け取るため、農夫たちのところにしもべを遣わした。ところが、彼らはそのしもべを捕らえて打ちたたき、何も持たせないで送り返した。そこで、主人は再び別のしもべを遣わしたが、農夫たちはその頭を殴り、辱めた。また別のしもべを遣わしたが、これを殺してしまった。さらに、多くのしもべを遣わしたが、打ちたたいたり、殺したりした。しかし、主人にはもう一人、愛する息子がいた。彼は『私の息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に、息子を彼らのところに遣わした。すると、農夫たちは話し合った。『あれは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は自分たちのものになる。』そして、彼を捕らえて殺し、ぶどう園の外に投げ捨てた。ぶどう園の主人はどうするでしょうか。やって来て、農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるでしょう。あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか。『家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった。これは主がなさったこと。私たちの目には不思議なことだ。』」彼らは、このたとえ話が自分たちを指して語られたことに気づいたので、イエスを捕らえようと思ったが、群衆を恐れた。それでイエスを残して立ち去った。
イエスがたとえを用いて語られている。それが本日の聖書箇所ですが、このように始まっています。「ある人がぶどう園を造った。垣根を巡らし、踏み場を掘り、見張りやぐらを建て、それを農夫たちに貸して旅に出た。このたとえ話の設定です。「ぶどう園を作った」だけではなく、「垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て」と細かく語られています。「搾り場」とあることから、ぶどう酒を造るぶどう園です。垣や見張りのやぐらは、盗賊や動物たちからぶどう園を守るためのものです。 このたとえは旧約聖書、イザヤ書の5章がモチーフ、題材となっています。5:7節の前半をお読みします。万軍の主のぶどう畑はイスラエルの家。ユダの人は、主が喜んで植えたもの。従ってぶどう園を造った主人とは主なる神、ぶどう畑はイスラエルの家、そして植えられている木はユダ、すなわち神に特別に選ばれた、イスラエルの人々であることが分かります。神は彼らイスラエルをエジプトの奴隷状態から解放し、彼らの神となるという特別の関係、契約を結んで下さり、ご自分の民として下さいました。旧約聖書、出エジプト記に描写されています。そして彼らを約束の地に導き入れ、そこに住わせて下さいました。そのイスラエルに対する神の愛と恵みが、必要な全てが整えられているぶどう園に表されています。そして収穫の時季がやって来ました。
ぶどう園が新しく作られた場合、そこから収穫がなされ、ぶどう酒が造られ、利益をあげることができるようになるまでには、何年かの時が必要です。ですから「収穫の時になったので」というのは、その時が過ぎて、いよいよ実際にこのぶどう園から収穫、利益が見込まれるようになった時に、ということが表されています。 主なる神は、このぶどう園に表されているように、イスラエルの人々に与えた賜物や才能などが用いられ、彼らを通してぶどう園が豊かな実を結ぶことを願い、また期待していました。十分に時間を与えた上で、ぶどう園の収穫の一部を受け取るため、農夫たちのところにしもべを遣わしました。しかし彼らはそのしもべたちを受け入れませんでした。
ところが、彼らはそのしもべを捕らえて打ちたたき、何も持たせないで送り返した。そこで、主人は再び別のしもべを遣わしたが、農夫たちはその頭を殴り、辱めた。また別のしもべを遣わしたが、これを殺してしまった。さらに、多くのしもべを遣わしたが、打ちたたいたり、殺したりした。
実際にイスラエルの人々は神に反逆し、神から送られて来た預言者たちを何度も殺して来ました。民の指導者たちは民衆から搾取し、正しい裁きは行われず、他国と争い、人々は神に反逆し、偶像礼拝が頻繁に行われていました。イスラエルの民は本来であれば、全世界に神の恵み、栄光を表していく神の特別な選びの民でしたが、神が望まれた公正も正義も行わず、流血に至るような争いを繰り返して来た。それがイスラエルの歴史です。神は預言者を通してご自分の御心を彼らに知らせ、彼らが悔い改めて神に立ち返るように、多くの預言者を遣わされましたが、彼らは神の期待に応えることができませんでした。
イエスはこのたとえを、直接的には「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか」と問うた、エルサレム神殿の祭司長、律法学者、長老たちに語っておられます。先週見ました。また同時に、神に反逆して来た、イスラエルの民衆にも語られています。
このような悲惨な歴史と現実の中で、ぶどう園の主人なる神が取った最大の決意と行動が、6節に表されています。しかし、主人にはもう一人、愛する息子がいた。彼は『私の息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に、息子を彼らのところに遣わした。
主人は最後に自分の愛する息子を農夫たちの下に送られました。「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」と言って。主人のこの「愛する息子」とは、言うまでもなくイエス・キリストのことです。主人、すなわち父なる神は、「最後に」愛する息子であるイエスを送られました。最後とあるように、イエス以降、どのような預言者も、また神を指し示すような者も天から遣わされていません。
父なる神は、愛と配慮をもって最後に一人息子、イエス・キリストを送って下さいました。しかしとても残念なことですが、イスラエルの人々はこのように応答しました。すると、農夫たちは話し合った。『あれは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は自分たちのものになる。』と相談してその息子を殺し、ぶどう園の外に投げ捨ててしまいました。残酷なイエスの十字架の死が表されていますが、皮肉にも、十字架の死を遂げるイエスご自身が、このたとえを語られ、これから起ころうとしていることを預言しているということです。そしてまさに今、農夫にたとえられている宗教指導者たちが、神の愛する一人息子、イエス・キリストを殺そうとしています。今まで見て来ましたし、これからも見ていくことになりますが、彼らは多くの悪意ある質問によってイエスを捕らえ、殺そうとしてきました。またイスラエルの人々も、イエスが自分たちの期待するメシヤではないと分かった時、その態度を翻し、「十字架につけろ!」と叫び出します。 
それでは私たちはどうなのでしょうか。私たちは宗教指導者でもないし、イエスを裏切る民衆でもないからこのたとえは私たちとは関係がない、と言えるでしょうか。 農夫たちが預けられたぶどう園は、労働と収穫のために必要な全てのものが準備されていた場所でした。
このぶどう園と似ている場所があります。いや、同じかもしれません。 それは私たちが今住んでいる世界です。神は人類の始祖となるアダムとエバを創造され、全ての動植物を統治し、管理するよう命じられました。これは大文化命令とも呼ばれ、旧約聖書、創世記の1章、2章に記されています。そして神は人間が被造物をしっかりと管理できるよう、人間に必要な全てを準備、備え、整えて下さいました。人間が生きるために必要な空気、水、食物、それらを生み出す地球そのもの。また私たち人間もそうです。「神が大地の塵から人を形造り、そこに神の息吹を吹き込んで人とした。」と創世記に記されているように、人間は神に造られたものです。つまり私たちのいのちは神が造られたものであり、それゆえ、神のものであるということです。しかし人間は自分が神に造られたことも、また、神に委ねられている管理者としての使命も忘れてしまいました。自然から一方的に資源を搾取し、環境を破壊し、毎年毎年多くの動植物を絶滅させています。自分に必要な物を超えてもっともっと欲しいと貪るようになりました。つまり人間は、自然、被造物を統治するのではなく、支配、コントロールするようになってしまいました。 そして本日も宗教指導者が取り上げられていますが、彼らは貧しい人々から搾取、支配していました。しかし今の私たちの世界はもっと悲惨かもしれません。コロナ禍を経て貧富の格差は更に拡大し、世界人口の1%が、世界人口のおおよそ半分、もしくはそれ以上の富を独占しています。AIはどんどん進化し、今すでに人類の能力を超え始めています。 神のようになりたい、いや、神を超えたい。そのような願望を感じます。これは神に敵対するだけでなく、自分の能力、才能を神に誇示しようとした、バベルの塔の時の人々の姿と、何ら変わりありません。罪深い人間の姿は、創世記の時代から全く変わっていないということです。また加えて私たち人間は、性別、容姿、能力、賜物、生まれる時代、国、どのような両親の元に生まれるか。自分の名前すらも自分で決めることはできませんでした。
つまりぶどう園全てを主人が作り整えたものであったように、この世界も神が計画され、私たちが生きるために必要な全てを備え、整え、私たちに預け、委ねて下さったものであるということです。ですから私たちは、神から与えられた基本的条件の下で生きているということになります。ですから本日登場するぶどう園は、今私たちが生きている世界を表しているとも言えるのではないでしょうか。 そしてもし私たちが、このぶどう園なる世界において、何がしかの実りを生むことができるとしたら、それは基本的には神が備えて下さった条件や賜物によるものだと言えるでしょう。私たちの努力ということも勿論ありますが、努力が実を結ぶための条件を整えて下さったのは、神です。 しかし私たちも、農夫に例えられた祭司長、律法学者、長老たちや、ぶどうの木にたとえられたイスラエルの人々と同じように、ぶどう園なるこの世界を自分のものにしてしまっているように感じます。そしてそれを作り与えて下さった、本来であれば私たちの主人であるはずの神の恩を忘れ、自分が主人となって生きているような者だと思います。 このように神に敵対し、自分中心に生きている私たちは、神の独り子であるイエスを十字架につけて殺している者と、何ら変わりがないように思えます。ですからもし私たちがイエスの時代に生きていたら、宗教指導者たちや民衆と同じように、イエスを「十字架につけろ!」と叫んでいたに違いありません。そうであるならば、私たちも宗教指導者たちや民衆と同じように、神との関係を回復する道を閉ざされ、神の怒りによって滅ぼされるしかない存在ではないでしょうか。 しかしイエスは、そのような私たちに、今なおたとえを通して語りかけて下さっています。9節です。ぶどう園の主人はどうするでしょうか。やって来て、農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるでしょう。きちんと労働し、きちんと収穫を納める、別の人たちにぶどう園を与えると、イエスは語られました。しかしこのぶどう園は、以前のぶどう園とは違います。また、そのぶどう園を受け継ぐ人々も違います。イエスはそのことを、先の11節、12節でこのように語っておられます。
『家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった。これは主がなさったこと。私たちの目には不思議なことだ。』」詩篇118篇22節、23節からの引用です。「家を建てる者」とは、ユダヤ人の宗教指導者であり、石はメシヤであるイエスを指しています。本来であれば彼ら宗教指導者たちは、イエスを家の要、礎のように中心に据えて、信仰生活、人生を建て上げていくべきでした。しかし彼らはメシヤなるイエスを否定して、十字架につけて殺してしまいます。本来であれば、人間の土台の石となるべきはずのイエスを、捨ててしまった訳です。しかしイエスは死から復活され、ご自身が私たち人間において最も大切な要の石として、家の礎となって下さいました。イエスが家の要の石として、また礎として家の中心に来る。
イエスが中心になって家を支えているように、イエスが中心となって支え、統治、統べ治めている領域があります。それは今年も共に見ている、神の国です。イエスが統治されている領域、場所ですが、イエスはこの神の国を、新しいぶどう園のように、そこで実を結ぶ者たちに与えて下さいます。
従って人々に捨てられたイエスを通して、イエスの十字架と死、そこからの復活を通して、イエスは新しい霊の家、すなわち神の国を建てて下さいました。そして神の国を構成しているのは、全て、イエスを救い主として信じる人々、すなわちキリスト者です。
私たち人間にいのちを与え、いろいろな実りを生むことができるように人生を整え導いて下さる父なる神が、「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」と言って、神に反逆し、敵対し、神を無視して歩む私たちに、独り子イエス・キリストを送って下さいました。 おめでたいとも言える驚くべき信頼と、限りない愛と忍耐が表されています。イエスご自身も、十字架の苦しみを予期、予知しながら、この世界を、特に貧しい人々と共に歩んで下さいました。 父なる神の愛の計画、そしてその計画のために、イエスご自身が十字架という大きな犠牲、代償を、神を無視して自分勝手に歩む私たち人間の罪のために、支払って下さいました。その十字架の代償があり、また罪と死に打ち勝った復活を通して、イエスは神の国の基礎となる、生ける石となって下さいました。 私たちはイエスを信じていますから、私たちと神を隔てていた罪は赦され、神との関係が回復され、イエスを通してすでに神の国に入れられている、幸いな者たちです。

私たちは、イエスが十字架という犠牲を通して備え、また与え、委ねて下さった神の国と言う新しいぶどう園において、神の栄光、素晴らしさを表すべく、良い実を結んでいくことが期待されています。欠けや弱さ、色々な失敗、また不信仰に陥ることもありますが、イエスはすでに十字架の贖いを通して私たちを深く愛し、受け入れて下さっていることが分かります。そしてイエスは期待を持って、私たち一人一人を、ぶどう園であるこの世界に遣して下さっています。
私たちを新しく造り変えて下さり、また新しいぶどう園とも言える神の国に導いて下さったイエスを中心に、またイエスを信仰生活と人生の礎に据えて、今も生きておられるイエスと共に、歩んで行きたいと願います。
祈ります。
「私たちの体を、神に喜ばれる、聖なる生きた献げ物として、献げることができますように。」
「何度も、何度でも」
しかし、主人にはもう一人、愛する息子がいた。彼は『私の息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に、息子を彼らのところに遣わした。