マルコ

2026/10/4(日)「集められる者、残される者」マルコ13:24~27 庄司牧師

2026年10月4日 「マルコの福音書13:24~27」
しかしその日、これらの苦難に続いて、太陽は暗くなり、月は光を放たなくなり、星は天から落ち、天にあるもろもろの力は揺り動かされます。そのとき人々は、人の子が雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見ます。そのとき、人の子は御使いたちを遣わし、地の果てから天の果てまで、選ばれた者たちを四方から集めます。 (マルコの福音書 13:24-27 SKY17)

終末、この世の、この世界の終わりに何が起きるかを、小黙示録と呼ばれるマルコの福音書の十三章から共に見ています。24節にはしかしその日、と記されています。「その日」つまり神が定められた大いなる裁きの時に26節、人の子、神であるイエスがこの世界に再臨、再び来られる、ということが記されています。イエスが再臨される時には特別なことが起こります。それは24節に描写されているように、「太陽は暗くなり、月は光を放たなくなり、」25節、「星は天から落ち、天にあるもろもろの力は揺り動かされます。」このような天体の異常、天変地異が起こることをイエスは預言されておられます。このイエスの預言は旧約聖書にすでに記されています。それを用いて、すなわち引用されて、イエスは将来起こることを語っておられます。イエスはそれらの引用を、イザヤ書やダニエル書、ヨエル書などからされています。
イエスは、ご自身が再び来られる再臨に関して、24節で「これらの苦難に続いて」と言われました。これらの苦難とは、13章の前半に記されていることであり、すでに見て来た苦難です。
従ってイエスは、24節までに語られて来た終わりの日の前兆となる苦難と、24節から起きて来るさらに大きな苦難の前兆を明確に区別された、ということです。
24節までイエスが語られた世の終わりの前兆としては、民族が民族に敵対する。戦争の噂や実際の戦争が起こる。地震や飢饉が起こる。キリスト者への迫害が起こる。また、偽キリスト、偽預言者が多く出現する、などです。しかしそれで終わらない。それらは確かに苦難であるが、世の終わりの確かなしるしにはならない。 それは序章に過ぎない。本当の世の終わり、すなわちイエスが再び来られる再臨の直前には、天体の大変動があり、天変地異が伴う。それが、神が定められた大いなる裁きの「その日」であるとイエスは語っておられます。
「裁き」とは分けられることです。以前お話したことがあります。 何が分けられるのか?それは人類です。 イエスは27節でこのように語られました。そのとき、人の子は御使いたちを遣わし、地の果てから天の果てまで、選ばれた者たちを四方から集めます。選ばれた者とは、イエスを信じるキリスト者、クリスチャンです。「地の果てから天の果てまで」とあるように、歴史と時代を貫き、また全世界のあらゆる国々においてイエスを信じた全ての人々が、イエスの下に集められる。神の選びの民が必ず集められるという強調表現です。しかし選びの民がいるということは、一方イエスの下に集められない人々がいる。選ばれなかった人々がいるということです。それがすなわち「裁き」です。イエスを信じたがゆえにイエスの御元に集められる人々と、そうでない人々がいる。そしてそのように人々はすでにイエスを信じる者たちと信じない者たちとで分けられている。この分けられること、そして分けられていることがすなわち裁きです。この裁きの描写が、マタイの福音書24章にあります。40節から42節をお読みします。

そのとき、男が二人畑にいると一人は取られ、一人は残されます。女が二人臼をひいていると一人は取られ、一人は残されます。ですから、目を覚ましていなさい。あなたがたの主が来られるのがいつの日なのか、あなたがたは知らないのですから。 (マタイの福音書 24:40-42 SKY17)
これはイエスが再臨される時の描写です。イエスが再臨される時は、畑にいる、臼をひいているというように、労働や食事の支度など、日常生活を人々が送っている最中、唐突に、突然イエスがやって来られる。そして一人は取られる。一人は残される。取られた人とはイエスの下に行く人です。イエスが集められる人です。そして残された人はイエスの下に行くことが出来ない人であり、イエスに集められなかった人です。イエスの再臨は突然に、しかし確実にやって来るということです。
またイエスは、再臨が確実に、そして必ず来ることを、ノアの時代にあった洪水を引き合いに出して語られています。ルカの福音書17章です。26節、27節をお読みします。
ちょうど、ノアの日に起こったのと同じことが、人の子の日にも起こります。ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていましたが、洪水が来て、すべての人を滅ぼしてしまいました。人々が食べたり飲んだり、結婚生活を営んでいた時、すなわち日常生活を営んでいた時、神を信じない人々に対して、突然神の裁きが及びました。イエスはさらに、アブラハムの甥であったロトに起こったことを、神の裁きの引き合いとして語られています。続けてルカの福音書17章の28節から30節までをお読みします。
また、ロトの日に起こったことと同じようになります。人々は食べたり飲んだり、売ったり買ったり、植えたり建てたりしていましたが、ロトがソドムから出て行ったその日に、火と硫黄が天から降って来て、すべての人を滅ぼしてしまいました。人の子が現れる日にも、同じことが起こります。
ソドムは悪徳の町とか、背徳の町と呼ばれた悪名高き町です。性的な逸脱、また不道徳から、男性であるロトにも危険が及びそうになったほどの町です。ここに住んでいた人たち-すなわち神を信じない人たちでしたが-食べたり飲んだり、売ったり買ったりと、普段の生活をしている時、突然彼らは滅ぼされました。創世記19章にその時の様子が記されています。これはノアの洪水の時の水の裁きに対して、火の裁きであると言えます。イエスは「人の子が現れる日にも、同じことが起こる」と語られ、イエスが再臨される時の裁きが、火を伴っている火の裁きであることを示しておられます。
ノアの洪水の水の裁きも、また、ソドムに起こった火の裁きも、過去、すでに起こったことです。一方イエスが再臨される時に起こる裁きは、私たちにとっては未来のことですが、神であるイエスが預言されておられるゆえ、確実にそうなります。旧約聖書に記されている預言、すなわち神のことばが、イエスの誕生や生涯、十字架において歴史的に見ても成就、実現している事実からそのように断言できます。また、イエスの弟子であったペテロは、イエスが再臨される時の裁きを、火の裁きと結びつけて預言しています。ペテロの手紙第二3:10節をお読みします。
しかし、主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は大きな響きを立てて消え去り、天の万象は焼けて崩れ去り、地と地にある働きはなくなってしまいます。 イエスが旧約聖書を引用して語られた、再臨の「その日」に起きるであろう天体の異常、天変地異の描写と合致します。そしてそれはイエスが預言され、またペテロも預言しているように、火の裁きが伴います。この終わりの日がいつ来るかは、イエスすら知らないと言っておられますから、私たちはその日を特定することは決して出来ませんし、またどのような天体の異常や天変地異が起きるかも知る由はありません。
ただ一つ言えること。それは、主の日である「その日」「裁きの日」が終わりの日に必ずやって来るということです。
先程、イエスは旧約聖書に預言されていることを引用しながら、ご自身の再臨の前に起こる前兆を示され、また預言されたとお話しました。イザヤ書13:9,10節にはこのように記されています。背景はイスラエルに敵対し、残虐かつ傲慢な国であったバビロニア帝国への神の裁きと陥落ですが、その裁きが天体の異常、すなわち終わりの日に起こることと重ねられて描写されています。
「見よ、主の日が来る。憤りと燃える怒りの、残酷な日が。地は荒廃に帰し、主は罪人どもをそこから根絶やしにする。天の星、天のオリオン座はその光を放たず、太陽は日の出から暗く、月もその光を放たない。(イザヤ書 13:9-10 SKY17)
罪人どもとは、直接的にはバビロニア帝国の人々を指していますが、天変地異の描写が伴っていることから見て、世界の終わりに神が不信仰な人類や悪の世界全体を裁く「終わりの日(最後の審判)」のひな型(予兆)としても解釈できます。つまりこの預言の一次的な対象は古代のバビロンですが、象徴的には神に敵対する高慢な勢力、そして世界全体が裁きの対象となっています。
一方、同じイザヤ書の34:4節にも天体、そして全被造物の異変について記されています。
天の万象は朽ち果て、天は巻物のように巻かれる。その万象は枯れ落ちる。ぶどうの木から葉が枯れ落ちるように。いちじくの木から実がしぼんで落ちるように。 (イザヤ書 34:4 SKY17)
この34章4節のイザヤの預言は、直接的にはエドムに対する神の裁きを表しています。エドム人はエサウの子孫に当たりますが、イスラエルに敵対して来ました。イスラエルがエジプトから脱出した出エジプトの際、領土の通過を拒否するなどしてイスラエルを苦しめました。また紀元前586年にバビロニア帝国によってエルサレムが破壊された際、エドムはその崩壊を喜び、逃げ惑うユダヤ人を捕らえて敵に引き渡しました。このためエドムは、「神の民を迫害し、神に敵対する高慢な人々、また国の代表格」として描かれ、神の裁きの対象とされています。エサウは、一杯の煮物のために長子の権利をヤコブに売ったり、父であるイサクから娶ってはならないと言われていた、先住民族のカナン人の女性と結婚したりしました。カナン人は多神教の偶像礼拝者たちで、性的にも堕落していたからです。つまりエドムとは、神を信ぜず、時に敵対し、肉的で自己中心的な生き方をする人々であり、国の象徴です。そのエドムが裁かれることを通して、神を信ぜず、時に敵対する全ての国々、人々への裁きが象徴的に描写されている。それがこの34:4節です。これは先程引用した13:9、10節に記されている天体の異常と共に、終わりの日、すなわちイエスが再臨される時に、日本や日本人も含む、神を信ぜず、時に敵対し、無視する国々、人々への裁きの預言でもあります。このような天体の異常、天の万象が揺り動かされるという天変地異があり、イエスが裁きのために再臨される。イエスが再びこの世界に来られます。
イエスの初臨、すなわち最初にこの世界に来て下さったクリスマスは、殆どの人がその誕生を知りませんでした。イエスの父ヨセフと母マリア、羊飼いたち、そして東方の博士たちくらいでした。イエスは小さな幼子として家畜小屋で生まれる。へりくだった誕生、ひっそりとした誕生でした。しかしそれとは全く対照的に、再び来られる時は大きな権威を有し、恐るべき審判者として来られる。イエスは26節でこのように語られています。
そのとき人々は、人の子が雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見ます。これはダニエル書からの引用です。その引用されている箇所をお読みします。7:13,14節です。
私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲とともに来られた。その方は『年を経た方』のもとに進み、その前に導かれた。この方に、主権と栄誉と国が与えられ、諸民族、諸国民、諸言語の者たちはみな、この方に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。 (ダニエル書 7:13-14 SKY17)
諸民族、諸国民、諸言語、世界中の人々が仕えることになるイエス・キリスト。それは父なる神から主権と栄誉と国が与えられた王であり、主権者なるお方であることが、ここに記されています。この王であり全ての国々の人々の主権者なるイエスが再びこの世界に来られる。この時はクリスマスの時の誕生の時のように、ひっそりと、また限られた人々しか知らないといったものではなく、神の臨在を表す雲と共に、すなわち神そのものの栄光と、圧倒的な力を持って再臨される。イエスご自身がダニエル書を引用しながら、神としてのご自分の姿を明らかにされました。そしてこの力強い再臨は、イエスに敵対し、イエスを信じないという人々ですら、認めざるを得ない明らかな形で来られます。この王であり、主権者なるイエスが、イエスの選ばれた者たちを集められる。27節をお読みします。
そのとき、人の子は御使いたちを遣わし、地の果てから天の果てまで、選ばれた者たちを四方から集めます。
王であり、全ての国々、また人々への主権者なる神、イエスが、イエスを信じて罪赦され、神の子とされ、神の家族とされている人々、すなわちイエスに選ばれた人たちを、御許に迎え入れて下さる。イエスご自身が言及された再臨の時に起こること-選ばれた人々を集めて下さる-というイエスの預言は、それが将来成就、実現することの約束であり、保証でもあります。従ってイエス・キリストの再臨は、キリストに反逆し、キリストを拒絶する者にとっては後に残されるという嘆き悲しみの日ですが、キリストを信じ、キリストに従う者にとってはイエスの御許に集められ、救いが完成する喜びの日です。

最後に、天変地異の中で起こるイエスの再臨が、イエスを信じる人々の救いの完成であることが記されている旧約聖書のヨエル書をお読みして、本日のみ言葉の取り次ぎを終わりたいと思います。
ヨエル書 2:30~32a
わたしは天と地に、しるしを現れさせる。それは血と火と煙の柱。主の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽は闇に、月は血に変わる。しかし、主の御名を呼び求める者はみな救われる。

祈ります
「集められる者、残される者」
今週のみ言葉 「そのとき、人の子は御使いたちを遣わし、地の果てから天の果てまで、選ばれた者たちを四方から集めます。」(マルコの福音書13:27)

2026/9/6(日)「偽キリストと偽予言者」マルコ13:21~23 庄司牧師

2026年9月6日 マルコの福音書13:21~23 偽キリストと偽預言者
そのときに、だれかが、『ご覧なさい。ここにキリストがいる』とか、『あそこにいる』とか言っても、信じてはいけません。偽キリストたち、偽預言者たちが現れて、できれば選ばれた者たちを惑わそうと、しるしや不思議を行います。あなたがたは、気をつけていなさい。わたしは、すべてのことを前もって話しました。 (マルコの福音書 13:21-23 SKY17)
世の終わりに臨む時、天変地異、国同士・人同士の争い、憎しみ、戦争、飢饉、色々な災害、そしてキリスト者への迫害。それらが終わりの日の「その日」に向かって頻度も、また激しさも増して来るということを、この13章で見ています。これら苦難が終わりの日において日常的に起こって来るならば、人はどのようなことを考え、また何を待ち望むでしょうか?それらの状況や現状からもたらされる不安や恐怖、そして実際に起きて来る苦難から救い出されること、その救いを、期待をもって待ち望むようになるのではないでしょうか。本日の聖書箇所は、そのような人々の期待を巧みに利用する、偽キリストたちや偽預言者たちの出現を、イエスは警告されています。
イエスはこのように語られました。22節です。偽キリストたち、偽預言者たちが現れて、できれば選ばれた者たちを惑わそうと、しるしや不思議を行います。イエスはここで彼ら偽キリストや偽預言者が、「できれば選ばれた者たちを惑わそうと、しるしや不思議を行います。」と言われました。選ばれた者たちとは、イエスを信じるキリスト者、私たちクリスチャンです。「できれば」とは、可能であれば、という意味ですから、偽キリストや偽預言者がクリスチャンを惑わすのは難しい、ということです。逆に言えば、偽キリストや偽預言者は、イエスを信じていない人々を惑わしやすい、ということになります。なぜでしょうか?それはイエスを信じない人々や聖書を知らない人々は、イエスがこの13章で語られているような世の終わりがあることや、世の終わりに向かってこの世界がどうなっていくか、そしてその終わりの日に際して何に気を付け、どのように歩んでいったら良いか、などが分からないからです。つまり惑わされやすい人とは、聖書にある神のことば、み言葉を知らず、大切にもしない人々である、ということになるでしょう。
その一つの例が、前回見たユダヤ戦争でした。イエスが旧約聖書のダニエル書を引用しながら預言、警告した、将来起こることになるユダヤ戦争-イエスの時代から見れば40年後に実現することですが-イエスが言われたことを信じなかった人々と、イエスを信じて従った人々の人生が、完全に分けられたのを見ました。イエスは、ローマ軍がエルサレムに責めて来ることを預言された時、同時に逃げなさいと言われました。実際にイエスを信じてペレヤ地方に逃げた人々は助かりました。しかしイエスの警告を信ぜず、エルサレムに残った人々は、ローマ軍からの兵糧攻めに遭い、結果的に全滅してしまいました。
色々な状況や噂、影響力のある人々のことばを信じて、「惑わされて生きるか」、それとも神であるイエスが言われることを信じて「惑わされずに生きるか」は、言い方を変えれば、神を信ぜずに生きるか、それとも神を信じて生きるか、ということになります。神を信じない人々は、偽キリストや偽預言者を信じやすい、そしてある人々は実際に信じ、従って生きるでしょう。 しかし神を信じる人々は、イエスの言われることを信じ、また従って生きることになります。 この選択と決断が、終わりの日における歩みにも大きな影響を与える、ということになります。そして選択と決断に伴う歩みは、ユダヤ戦争で生死が完全に分かれたように、人々の歩みを、人生を、救いを真っ二つに分けることになります。救いか滅びか。平安か不安か。安定か不安定か。イエスを信じて歩むかどうかで、私たち人間の歩みは全く異なってきます。では、イエスが警告された、偽キリストや偽預言者を、私たちはどのように見破っていけるでしょうか。イエスの弟子の一人であったヨハネは、その手紙の中で偽預言者についてこのように記しています。
ヨハネの手紙第一4:1~3です。お読みします。愛する者たち、霊をすべて信じてはいけません。偽預言者がたくさん世に出て来たので、その霊が神からのものかどうか、吟味しなさい。神からの霊は、このようにして分かります。人となって来られたイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。イエスを告白しない霊はみな、神からのものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていましたが、今すでに世に来ているのです。
ヨハネはここで、偽預言者について言及していますが、その背後には「霊」の存在、すなわち悪霊の存在があると警告しています。先月の始めの礼拝の中で、イエスが公生涯に入られる前、試みに遭われた時のお話をしました。イエスを試みた相手とは、イエスに敵対する悪魔、サタンでした。またサタンだけでなく、その手下である悪霊たちも神を憎んでいます。その神が愛している人間たちも彼らは憎んでいるため、一人でも多くの人間が神から離れるように策略を巡らしています。また願わくは神の子とされている私たちクリスチャンたちにも神を疑わせ、日々、信仰を奪おうと働いています。その戦略、策略が分かる箇所がルカの福音書4:6でした。第三版の聖書訳でお読みします。ルカの福音書4:6「この国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。 サタンは現代においても巧妙に働いていますが、このサタンはこの世において、この人にならいいという、イエスに反対している人々-力のある政治家や独裁者、地位や名誉を持ち、有名な人々などを選んで、権力や栄光を与えることができるということです。 もちろん全ての人々ではありませんが、繫栄し、栄光を受けている者の背後に、悪魔の働きがあるということです。そしてこの悪魔、悪霊は、そのような影響力の強い人、インフルエンサーに働きかけ、イエスも聖書も知らない、または神を信ぜず、イエスに敵対する人々を、人々を惑わす器として用いることができる、ということです。しかし悪魔、悪霊の誘惑、また惑わしは、国の指導者や政治家など、力や権力を持っている人々に限りません。キリスト者、キリスト者でないに限らず、全ての人類が悪魔の誘惑と惑わしに、日々晒されています。
ヨハネはこのような偽預言者、すなわち悪霊の影響を受けている人々の語ることを吟味しなさい、と警告しています。吟味する上でもっとも大切なことが、イエスを告白する霊かどうか。すなわち語りかけている人が聖霊の影響を受け、またイエスの証をしているかどうか、ということが吟味の規準になると、ヨハネは述べています。聖霊の影響を受けている人が語ること、それはイエスの栄光、素晴らしさを称え、表します。またイエスのことば、すなわち聖書にあるみ言葉を通して人々を励まし、慰め、力を与えることが出来ます。つまり、語りかけられた側の考え方や価値観、生活や人生がプラス、上向きの方向になっていくということです。またこの励ましは、世の終わりに人々が臨む時、更に人々を力付けるでしょう。しかし語りかけている者が聖霊ではなく、悪霊の教えや力を受けているとしたら。先々週の礼拝において、ある宗教団体に所属していた方が証をして下さいました。彼はその組織の聖書解釈に矛盾を感じるも、同じ仲間から切り離されることを恐れて、なかなか組織を抜け出せなかった、と語っておられました。組織を抜けると背教扱いされ、仲間から断罪され、捨てられる。それは彼にとって恐怖でした。同じように、この組織から恐怖や混乱がもたらされ、破滅した人たちが他にもたくさんいます。ある人は、組織が特定した終わりの日やイエスの再臨を信じて、大学などに進学することを止めました。ある人は結婚を諦め、ある人は財産を全て使ってしまい、ある人は自死してしまいました。恐怖で束縛され、自由も信仰も奪われた結果でした。そのようになってしまう人々が実であるとするならば、その実をつけさせる木がおかしいことは明らかです。またこの組織は今まで何度も、終わりの日や、イエスの再臨の日、ハルマゲドンなどの日を、何年何月に実現する、と言ったように特定してきました。それが外れると、キリストは目に見えない天において、神の王国の王として即位した、というような弁解や、教義の変更を行ってきました。彼らは終わりの日、すなわちイエスが再臨されることが、自分たちだけに知らされている、と語ってきました。ではイエスご自身は、再びこの世界に来られる、すなわちご自身の再臨についてどのようなことを語っておられるでしょうか。平行箇所のマタイの福音書24:27,28において、イエスはこのように語られています。人の子の到来は、稲妻が東から出て西にひらめくのと同じようにして実現するのです。死体のあるところには、禿鷹が集まります。これはどういう意味でしょうか。
キリストの再臨は、稲妻が東から出て西にひらめくように、一瞬のうちに、しかし誰が見ても分かるように来る、ということです。またそれは、ハゲタカが死体を容易に見つけてそこに集まって来るのと同じような明瞭さを持っている。誰が見ても分かる、という事です。すなわちイエス・キリストの再臨は、全ての人々にとって、容易に見ることができる形で起こるということを意味します。
従ってイエスが再びこの世界に来られる終わりの日には、その力と栄光とを全ての人が見るということです。そしてイエスの再臨と共に世の終わりが来ます。つまり21節にあるように、誰かが「ここにいる、あそこにいる」と、教えてもらわなければならないような仕方でイエスは来られるのではない、ということです。ですから特定の組織、団体だけにそのような預言のことばが与えられている、ということ自体がすでに間違っています。 もう一つの組織を挙げます。この宗教団体の教祖は韓国人でしたが、自分を再臨のキリストと宣言していました。彼は偽キリストです。なぜ断言できるか。それは、彼がすでに死んでいるからです。もし神であれば死ぬことはありません。彼が死んでいる、という事実から、彼が偽キリストであることは明白です。従って彼の「後継者」という存在も矛盾しています。 他にも自分をキリストと名乗る教祖がいます。まだ生きている者もありますが、同じく亡くなっている者もいます。偽キリストたちが私たちの回りに実際に存在します。
また聖書においても、偽預言者が登場します。背景は、パウロとバルナバが行った、第一回伝道旅行の時です。新約聖書、使徒の働きの13:6節にはこのように記されています。バルイエスという名のユダヤ人で、偽預言者であった。魔術師であったともこの6節にありますが、彼は偽預言者でした。この男はパウロとバルナバに反対して、総督を信仰から遠ざけようとした、とこの6節の後に記されています。ローマ帝国の総督を信仰から遠ざける、すなわちイエスとイエスの福音を総督から遠ざける働きをしていたことが分かります。イエスの福音が伝わらないように、人を通して、また偽預言者を通して邪魔をする力、悪魔、サタンの働きがあることが分かります。
また見た目や人格的にも魅力があり、人々から人気があり、地位や名声がある人であっても、福音に反している、反キリストのような人々が世の中にたくさんいます。そのような人々の中で、悪魔、サタンから力を受けて、イエスから人々を引き離そうとする存在があることを忘れてはいけません。そしてこの妨害は、世が終わりの日に向かっていくに連れ、激しくなっていくことでしょう。また新約聖書だけでなく、旧約聖書においても、偽預言者について記されているところがあります。またこれは同時に警告でもあります。申命記13:1~3節です。このように警告されています。あなたがたのうちに預言者または夢見る者が現れ、あなたに何かのしるしや不思議を示し、あなたに告げたそのしるしと不思議が実現して、「さあ、あなたが知らなかったほかの神々に従い、これに仕えよう」と言っても、その預言者、夢見る者のことばに聞き従ってはならない。奇蹟が行われるだけでは、真の預言者であることの証拠にはならない、と明確に警告されています。
旧新約聖書を通して、偽預言者、偽キリスト者に注意しなければならないとありますが、それら全てを踏まえてイエスは最後の23節において、「気をつけていなさい」と言われました。これは文法的には現在進行形の命令です。すなわち、このような偽者に対して絶えず警戒していなさい、という意味が込められています。 最後にイエスは「すべてのことを前もって話しました。」と言われました。これは終末、終わりの日に関することを具体的に、そして全て漏らさず示されたというよりは、終わりの日において起きて来る色々な現象や、偽キリスト、偽預言者に惑わされることないように、そのような危険に対してあらゆる面から注意を与えた。という意味でしょう。イエスは多くの奇蹟や不思議、力あるしるしを行われましたが、それら目に見える現象によって人を引きつけ、またそれによって従わせようとはなさいませんでした。それよりももっと地味に、謙虚に、そして恥と苦痛に満ちている-本来ならば犯罪人がかけられる十字架-において、私たち人間の罪全てを背負って、十字架にかかって死んで下さいました。しかしイエスは十字架の死から復活され、再び私たちの世界に王として、イエスの十字架による贖い、救いを信じた一人一人のキリスト者、私たちを迎えに来て下さいます。
戦争、地震、飢饉などの苦難や、キリスト者への迫害という、終わりの日に向かって起きて来る様々な前兆が現れ、世の中が騒然としても、また偽キリスト、偽預言者が登場しても、終わりの日が訪れたわけではありません。また神からの啓示を受けた、という人、人々、組織や団体が、現代においても増々増えて行くでしょう。しかしイエスが再臨されるまでは、その全てが偽者です。私たちは惑わされてはなりません。
イエスの勝利はすでに復活に表されています。イエスは復活を通して悪魔、サタンやその手下の悪霊どもに勝利されています。また人類を縛って来た罪と、罪から来る死にも勝利して下さっています。終わりの日、そしてイエスが再臨される「その日」においても、復活された力ある神、イエスの助けと守り、そして勝利があることを、私たちはいつも心に留めたいと思います。そして迫害や患難の中にあっても絶望し、倒れることなく、すでに終わりの日にある今を、一歩一歩、忠実に、共に歩んで行きたいと願います。
祈ります。
偽キリストと偽預言者
あなたがたは、気をつけていなさい。わたしは、すべてのことを前もって話しました。

2026/8/30(日)「差し迫る苦難と主の憐れみ」マルコ13:14~20 庄司牧師

2026年8月30日 マルコの福音書13:14~20 差し迫る苦難と主の憐れみ
『荒らす忌まわしいもの』が、立ってはならない所に立っているのを見たら──読者はよく理解せよ──ユダヤにいる人たちは山へ逃げなさい。屋上にいる人は、家から何かを持ち出そうと、下に降りたり、中に入ったりしてはいけません。畑にいる人は、上着を取りに戻ってはいけません。それらの日、身重の女たちと乳飲み子を持つ女たちは哀れです。このことが冬に起こらないように祈りなさい。それらの日には、神が創造された被造世界のはじめから今に至るまでなかったような、また、今後も決してないような苦難が起こるからです。もし主が、その日数を少なくしてくださらなかったら、一人も救われないでしょう。しかし、主は、ご自分が選んだ人たちのために、その日数を少なくしてくださいました。

私たちプロテスタント教会が外典と呼んでいる書物群に、マカベヤ書という書物があります。これら外典は、旧新約聖書の間の400年ほどの空白の時代、中間時代と呼ばれている時代に記されたものです。このマカベヤ書に記されている出来事が、本日の14節に描写されています。
14節の背景を少しお話しします。 紀元前167年に、当時ユダヤを支配していたシリアのアンティオコス・エピファネスという王が、エルサレムに攻め込んで来ます。略奪を行っただけでなく、エルサレム神殿に乗り込み、最も神聖なる場所・祭壇に、ギリシャの神ゼウスの像を置き、ユダヤ人たちに拝むことを強要しました。異邦人の神、しかもその偶像が神殿に置かれることは、イスラエルの人々にとっては主なる神への最大の冒瀆であり、神の民であるイスラエルへの、この上ない侮辱でした。その結果彼らの間に激しい反発、そして反乱が起こりました。反乱の中でマカベヤという人物が首謀者になってユダヤ人たちが立ち上がり、いのちを投げ出して戦います。
この反乱に、普段は隠遁生活をしていたエッセネ派ですら参加し、この反乱による戦いは壮絶を極めたと言われます。世界史ではマカベヤ戦争と呼ばれますが、ユダヤ軍が軍事力においては圧倒的に優位なシリア軍を命がけの戦いの末に打ち負かす。その戦いがマカベヤ書に記されています。
この戦いは、既に旧約聖書ダニエル書に預言されていました。それが14節です。『荒らす忌まわしいもの』が、立ってはならない所に立っているのを見たら──読者はよく理解せよ──ユダヤにいる人たちは山へ逃げなさい。この14節はダニエル書11:31節から引用されています。このように記されています。「彼の軍隊は立ち上がり、砦である聖所を冒し、常供のささげ物を取り払い、荒らす忌まわしいものを据える。」アンティオコス王の軍隊が神殿を冒し、普段捧げられているささげ物を取り払い、忌まわしい偶像を据えた。ダニエルが預言を記してからおおよそ300年後に、またイエスの時代から見れば200年ほど前に、この預言は成就、実現しました。このダニエル書11:31節の他、その前後9章や12章に記されている預言は、アンティオコス王のエルサレム侵攻だけにとどまりません。それはイエスが語られた時からは未来となる、別の出来事も指し示しています。それがローマ軍のイスラエル侵攻です。イエスの時代から見ればおおよそ40年後、紀元70年にそれは起きました。ローマ軍のエルサレム侵攻のことを、イエスは平行箇所のルカの福音書21:20節において、このように語られています。しかし、エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、そのときには、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。 イエスは14節でダニエル書11:31節を引用することによって、エピファネス王のエルサレム侵攻と破壊、そして神への冒涜という預言がすでに成就、実現していることを示されました。そしてそれを踏まえ、未来に起こるローマ軍のイスラエル侵攻と破壊という出来事も、同じくダニエル書を引用することによって預言されていました。そしてイエスが預言された約40年後、実際にローマ軍がエルサレムに侵攻して来た時、多くのユダヤ人たちがエルサレムに集結しました。マカベヤ戦争を思い起こしての行動だったに違いありません。「私たちも先代の人々のように団結し、エルサレムを、エルサレム神殿を守るために戦うのだ!」あるいはエルサレムにいれば大丈夫だ、神が絶対に守って下さるはずだ。そのような思いを持って、エルサレムに集まった人々もいたでしょう。しかしローマ軍はエルサレムには直ぐには攻め込まず、まず町の回りを包囲しました。ローマ軍の包囲によって食物が都に入らなくなり、エルサレムの都は激しい飢餓状態に陥ります。そしてついに人食いまでをするような悲惨な状況になり、餓死者が数え切れないほど出ました。弱り果てたユダヤ人たちは、最後はローマ軍の剣によって全滅してしまいました。エルサレムは陥落し、ローマ軍の手に落ちました。エルサレム神殿も完全に破壊され、今は見ることも出来ません。世界史ではユダヤ戦争と呼ばれる出来事です。
イエスはダニエル書を引用しつつ、このユダヤ戦争を預言するにあたって、次のような警告を人々に与えておられました。それが本日の14節から16節に記されています。「山へ逃げなさい」、「屋上にいる人は、家から何かを持ち出そうと、下に降りたり、中に入ったりしてはいけません。」
当時の家の屋上・屋根は平らでした。そしてそこを色々なことに利用していました。また屋根に上がる為の外階段が付いていました。ですからローマ軍が来るような危急の事が起こったら、部屋の中に降りていってはいけない。外階段からそのまま外に逃げなさいという意味です。加えて彼らの財産となる「上着」も持ち出してはならない。事は一刻を争う。一刻の猶予もない。また、住み慣れたエルサレムを離れることは、季節が良い時であっても困難です。そこでイエスは、身重の女性たちや乳飲み子を抱える女性たちが、さらに逃げることが困難となる冬にならないように祈りなさい、と言われました。実際にイエスを信じていた人々は、イエスの預言であり命令を信じ、従い、ローマ軍が攻めて来ると直ぐにエルサレムを脱出し、ペレヤと呼ばれる地域へ移動し難を免れたと、エウセビオスという歴史家が記しています。
しかしダニエル書の預言は、アンティオコス王とローマ軍隊の2回に及ぶエルサレム侵攻、破壊の成就、実現で終わるのでしょうか。 14節においてこの書を記した著者は、「読者はよく理解せよ」と注意書きを挿入しました。これは勿論イエスのことばではなく、イエスの言葉を後に記した聖書記者の注意書き、著者であるマルコのことばでしょう。マルコはなぜこの注意書きを挿入したのでしょうか。そのヒントが、イエスが語られた19節です。
それらの日には、神が創造された被造世界のはじめから今に至るまでなかったような、また、今後も決してないような苦難が起こるからです。
マカベヤ戦争やユダヤ戦争がどんなに悲惨なものであっても、「神が創造された被造世界のはじめから今に至るまでなかったような、また、今後も決してないような苦難。」では決してありません。19節でイエスが語られたことはもっと規模が大きくて悲惨なもの。混乱と破壊を想像させるに難くないものです。つまり著者のマルコは、イエスが語られた19節の預言が、マカベヤ戦争、ユダヤ戦争の事出来事を超え、終わりの日、それもイエスが再臨される時に世界が裁かれる「その日」である大艱難であることを感じ、見据え、また聖霊の促しもあって、注意書きを入れたのだと思います。
従って著者のマルコによる注意書きは、これから約40年後に起こることになる、ローマ帝国の侵略にユダヤ人たちが備えなければいけないということを超え、この世の終わりに臨んでいる私たち読者に向けられていることばでもあります。
ローマ軍がエルサレムに攻め込んで来たユダヤ戦争において、多くのユダヤ人たちはエルサレムに集結しました。それはエルサレム神殿を守るためでした。神殿を守るということが、自分たちの信仰を守ることとイコールであり、神殿を失うなら自分たちの信仰も失う。 彼らユダヤ人にとってエルサレム神殿というのは、人間が唯一神と交わることを許されている場所でした。人間は罪深く汚れているから、決して神と直接交わりをすることなど許されない。ただ神殿においてだけ、神の憐れみの内に、人間が神と交わりをすることができる。その神殿を失うということは、神との接点を失う。そのように彼らは考えていました。それほど彼らにとってエルサレム神殿は特別なものでした。それゆえ紀元70年のローマ軍のエルサレム侵攻の時、彼らは神殿と運命を共にしました。

しかしイエスは違います。イエスは彼らに逃げなさいとおっしゃいました。これはつまり、神殿を捨てなさいということです。神殿を守る必要は無い。そこで戦ってならない。戦う必要もない。なぜイエスは逃げなさいと言われたのでしょうか?
それは神殿が必要なくなるからです。イエスはこの後十字架に架けられることになります。そしてイエスが十字架に架けられることが、イエスが「逃げなさい」と言われた根拠です。
イエスが十字架上で息を引き取られた時、神殿の幕が上から下へと、真っ二つに引き裂かれました。神殿の幕とは、神殿の中で最も神聖な至聖所の幕のことです。至聖所は神が臨在される神聖な場所であり、そこには大祭司が年に一度しか入ることが出来ませんでした。そして神殿の聖所と至聖所を隔てる幕は、そのまま人間と神の隔て、断裂を象徴するものでもありました。しかしその幕は、イエスが死なれた時に上から下に向けて裂かれました。つまり神が一方的にその幕を取り去って下さった訳です。人間の罪から始まった神と人間の間にあった隔てが、そして断裂が、イエスの十字架を通して取り除かれたということです。 神であるイエス・キリストが、神との隔てとなっていた私たちの罪を全て身代わりとして背負われ、死なれました。そのことによって、神殿においてたった一人の大祭司が、神と人々の仲介役として、年に一度神殿で神との交わりを頂く、そのような必要がなくなりました。イエスの身代わりの十字架が自分の罪の為であったと信じる人は誰であっても、神との親しい交わりをすることが許されるようになりました。
この十字架を踏まえイエスは、「あなた方は神殿を命がけで守る必要はもうない。これから私が神と人間の隔ての壁を壊し、取り去る。もはやあなたがたに神殿は必要ない。神殿を捨てて逃げなさい。」
という意味を、「逃げなさい」ということばに込められたのだと感じます。
また聖書には、このように記されているところがあります。「あなたがたは神の神殿です。」私たちイエスを信じる一人一人が、イエスの十字架を通して、神が宿る神殿となる、ということです。つまり神殿にあった神の臨在は、イエスを信じるキリスト者一人一人に移されることになる。だから目に見える神殿のために、いのちを張る必要はもはや無い。
新約聖書、コリント人への手紙第二6:16節にこのようなことばがあります。
私たちは生ける神の宮なのです。神がこう言われるとおりです。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。 (コリント人への手紙 第二 6:16 SKY17)
イエスがこの世界に来たことにより、神はもはや神殿に臨在されることはなくなりました。私たちの内に生きて下さる。そればかりでなく、私たち一人一人が神の宮、生ける神の神殿となる。
かつてのエルサレム神殿に匹敵する価値が、いや、それ以上の価値であり尊さが、イエスを信じる私たち一人一人にある、ということです。私たちが、何かができる、できない、忍耐する、しない、努力をする、しない、などに関わらず、イエスの十字架によってすでに価値のある者とされている。だから神殿を守るような戦いをする必要は、もはやない。戦いや努力、自分の力で神と交わりをし、また救われようとする必要はない。救いはすでにイエスの十字架によって完成されている。私たちはただ、イエスによって価値ある者とされている、ということです。
この神であるイエスが、今も、そしてこの瞬間も聖霊を通して私たちと共にいて下さいます。そして私たちが本当にすべき大切な戦い、断固死守すべき場所、それは神が住まいとされる私たち一人一人の体であり、存在です。私たちイエスを信じる一人一人が、神のご臨在を示し、また表す神殿です。神であり、私たちの主であるイエスが、私たち一人一人を神の霊である聖霊が宿る聖なる、そして価値のある生ける神の宮、神殿として下さった。そしてそのように価値ある者として見つめて下さっている。
最後の20節にはこのように記されています。しかし、主は、ご自分が選んだ人たちのために、その日数を少なくしてくださいました。終わりの日の「その日」に向かって激しくなって行く苦難や迫害に対して、イエスは選んだ人たち、すなわちイエスを信じるキリスト者、クリスチャンが苦難や迫害に耐えることができるように、その日数を少なくして下さったと聖書は告げています。
「日数を少なくして下さった」とありますが、文法的には過去形が使われています。それは日数が短くされるという未来における出来事が、既に過去において決定されている、神が既に計画され、予定されているということが、強調されています。つまりこの20節も、終わりの日に臨む私たち、イエスを信じる全てのキリスト者にとって、励ましの預言であるということです。
神は、イエスは、救いに選ばれた者を忘れず、全てのキリスト者、現代を生きる私たち一人一人のキリスト者が、苦難や迫害に耐えることが出来るように、その苦難の時を少なく、短くして下さる。そして既に短くして下さいました。イエスの私たちに対する愛、配慮、恵み、憐れみを感じます。

私たちは自分の中に、救われるべき理由は何もありません。自分が他の人よりも立派であるとか、信仰深いということでもありませんし、忍耐強いわけでもありません。それはただ、私たちを一方的に選び、恵まれ、支えておられる神がおられる、ということです。そのイエスが、「その日」に向かって激しくなって行く苦難においても、また迫害においても、共にいて下さいます。
イエスの十字架を通して、また聖霊を通して、イエスを信じる私たち一人一人を尊い生ける神の宮、神殿として下さったイエスに感謝と讃美を捧げます。そして終わりの日である、「その日」に向かって、与えられた一日一日を、共に、大切に過ごしていきたいと願います。
祈ります 
差し迫る苦難と主の憐れみ
しかし、主は、ご自分が選んだ人たちのために、その日数を少なくしてくださいました。

2026/8/16(日)「忍耐と救いを与える聖霊の助け」マルコ13:9~13 庄司牧師

2026年8月16日 マルコの福音書13:9~13「忍耐と救いを与える聖霊の助け」
あなたがたは用心していなさい。人々はあなたがたを地方法院に引き渡します。あなたがたは、会堂で打ちたたかれ、わたしのために、総督たちや王たちの前に立たされます。そのようにして彼らに証しするのです。まず福音が、すべての民族に宣べ伝えられなければなりません。人々があなたがたを捕らえて引き渡すとき、何を話そうかと、前もって心配するのはやめなさい。ただ、そのときあなたがたに与えられることを話しなさい。話すのはあなたがたではなく、聖霊です。また、兄弟は兄弟を、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に逆らって立ち、死に至らせます。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。
「小黙示録」と呼ばれているマルコの福音書14章、「世の終わり」を引き続き見ています。終わりの日が近づくにつれ、色々な前兆が現れて来る。だから「惑わされてはいけません」とイエスは警告されました。そしてイエスは9節において、「用心しなさい」つまり「気をつけなさい」と、終わりの日とどのように向き合ったら良いか、イエスを信じるキリスト者に語っておられます。それは「わたしのために」とあるように、イエスを信じ、イエスに従って行く者に起こって来る「終わりの日」における迫害です。9節をお読みします。
あなたがたは用心していなさい。人々はあなたがたを地方法院に引き渡します。あなたがたは、会堂で打ちたたかれ、わたしのために、総督たちや王たちの前に立たされます。そのようにして彼らに証しするのです。会堂や地方法院-小さな裁判所のようなものですが、そのような場所で迫害されていたのはイエスの弟子たち、ユダヤ人たちでした。 迫害する者たちもユダヤ人たちでした。しかしその迫害はやがて拡大して行き、総督たちや王たちからも迫害されることになる、すなわち迫害の範囲が広がって行く。また迫害される方も、ユダヤ人以外の異邦人にも拡大して行く、ということをイエスは語られましたが、それは現実となって行きます。
イエスは10節においてこのように語られました。「まず福音が、すべての民族に宣べ伝えられなければなりません。平行箇所のマタイの福音書の24章においては、福音の拡大が終わりの日と重なり合っていることが記されています。マタイ24:14 御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます。従ってキリストの体なる教会が全世界に建て上げられている、すなわち福音が全世界に届いている現代は、すでに終わりの日が始まっているということであり、私たちはそのような時代に生きている、生かされている、と言えます。
前回共に見て来ましたが、終わりの日である「その日」が来る前に、天変地異などの異常気象、戦争、迫害などが、頻度も強さも増していくとイエスは語られましたから、終わりの日である「その日」にはまだ到達していないものと思われます。終わりの日に裁きが行われる「その日」まではまだ時間がある。しかし迫害は確実に、そして日増しに強まっていく。
そしてイエスはこの世の終わりにおける迫害に直面する時の心構えとして、本日の聖書箇所の中でこのように語られました。11節です。人々があなたがたを捕らえて引き渡すとき、何を話そうかと、前もって心配するのはやめなさい。ただ、そのときあなたがたに与えられることを話しなさい。話すのはあなたがたではなく、聖霊です。
聖霊が迫害において助けて下さる。聖霊が、迫害の中にあってもその中を導かれ、歩ませて下さる。イエスが11節で語られたこと。まさしくそのことが歴史的に起こったのが、新約聖書、使徒の働き6章と7章に描写されています。イエスの弟子の一人であったステパノが、普段ギリシャ語を話すユダヤ人たちと議論をしたことが記されています。彼らはパレスチナの外の地域(ヘレニズム世界)で生まれ育ったため、日常的にギリシア語を使用し、当時の国際的な教養や思想背景を持っていました。ステパノは彼らに向かって「あなたたちの先祖は主なる神から遣わされた預言者たちを迫害し、今度は神ご自身であるイエスを裏切り、殺す者となった。」と語りました。ステパノはさらに、あなたがたは律法を大切にしているといいながら、守ったことがないではないか、と糾弾しました。「しかし、彼が語る時の知恵と御霊に対抗することはできなかった。」とあるように、知恵と聖霊に満たされて語るステパノの論理に、彼らは議論では勝てず、何も言い返すことが出来ませんでした。しかし最終的にステパノは彼らの怒りを買い、石打ちによって殺されてしまいました。殉教です。この時ステパノは扇動された人々によって、サンヘドリンと呼ばれる、祭司長や長老、律法学者など、約70人の議員で構成されていた議会に連れて行かれました。彼が議論、弁明をした時、何の準備もできませんでした。しかし「彼が語る時の知恵と御霊に対抗することはできなかった。」と記されている通り、敵対者はステパノに何も言い返すことはできませんでした。また、必要な話すべきことばは聖霊が与えて下さいましたが、その結果は殉教でした。 しかしこの迫害、殉教には続きがあります。ステパノの殉教をきっかけにエルサレム教会が大迫害を受け、イエスを信じるキリスト者たちが、ユダヤやサマリヤの諸地域に散らされ、その結果、教会が各地で立ち上がっていきます。 福音はローマ帝国にまで広がって行きましたが、多くの人々が、火あぶりやライオンの餌食などになるといった凄まじい迫害によっていのちを落として行きました。しかし命がけで信仰を守る殉教者たちの姿や、疫病の時に病人を看病するなど、過酷な状況下でも隣人愛を実践する姿を見た周囲の人々が心を動かされ、数百年間続く迫害においても、キリスト者は増え続けました。 その迫害を受けて、2世紀頃のキリスト教の教父、神学者であったテルトゥリアヌスはこのように述べました。「殉教者の血は、教会の種子、種である」古代ローマ帝国によるキリスト教迫害の時代に、テルトゥリアヌスが権力者や迫害者に向けた言葉です。 キリスト者が信仰のために命を落としても、その流された血や耐え忍ぶ姿が「種」となって、その姿を見ていた人々の心に新たな信仰の芽を呼び起こし、結果として信仰者の群れも、またイエスの体なる教会も大きく成長した、という意味が込められています。実際にキリスト者は迫害されればされるほど増え広がって行き、最終的にはローマ皇帝テオドシウスがキリスト教を国教としました。紀元392年でした。近代においては過去、日本の支配の下で、朝鮮のクリスチャンたちは厳しい迫害を受けました。神社への参拝を強制され、抵抗した多くの人々が殉教して行きました。今日、韓国ではクリスチャンが多くいますが、それは、殉教者たちの流した血が種となったからだと言うことができるでしょう。またインドや中国など、政府や過激派組織による迫害が起きている場所でも、キリスト者たちの強い姿勢や奉仕を通じて、かえってキリスト者が増えて行きました。 また現在のイランですが、政府による厳しい監視や制限、投獄などの困難、迫害がある中、近年急激にキリスト者が増えていると言われています。ローマ帝国の下でもそうだったように、迫害によって信仰が強められ、殉教者が出ることによって教会はむしろ強くなり、増え広がっていきました。
この迫害は歴史的にも起きましたが、個人レベルでも起きた、また起きることになるとイエスは言われます。12節です。また、兄弟は兄弟を、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に逆らって立ち、死に至らせます。個人レベルの迫害によって、兄弟、子、両親など、家族から迫害され、死に至る人がいる、ということをイエスは語られました。肉体的ないのちに関しては、時に迫害によって失われる、つまり殺されてしまうこともある、ということです。そしてその迫害の先にあるものをイエスは13節で語られました。「また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。」
色々な迫害が起こって来る。イエスを信じ、従って来るだけで人々に憎まれる。しかし最後まで耐え忍ぶ人は救われるとイエスは言われました。つまり、迫害され、いのちを落とすようなことがあっても救われるということです。ですからここでイエスが言われている救いとは、肉体的な領域を指していないことは明らかです。前回、「終わりの日のしるし」というメッセージの中で、私たちが神以外に頼みにしているすべては滅び、無くなっていくというお話をしました。それは私たちの体も含まれます。一瞬、瞬きに過ぎない私たちの限りある肉体の人生が少し早くなったとしても、その先にある永遠のいのちを神は見据えておられるため、迫害によって肉体的ないのちを失う人の存在を許しておられる。迫害を許されている。そのように思います。そして殉教していったいのちが、種、種子となって、永遠のいのちを獲得していく人々を起こしていくのだと思います。
先程招詞、礼拝への神からの招きのことばをエペソ人への手紙1章14節から読んで頂きました。「聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。」私たちの肉体は滅びるものであるがゆえに、肉体という存在は地上だけに限ったものです。しかしイエスを信じる者たちは、御国を受け継ぐことができる。イエスの支配されておられる神の国、御国を受け継ぐことができる。すなわち私たちの存在そのものである、霊魂が将来御国を受け継ぐことになる。従って聖霊は、私たちの肉体が例え滅びても、私たちの存在そのものである霊魂が御国に行くことができるよう、保証となって下さる、ということがここに約束されています。また聖霊の働きにおいて、このようなみ言葉を共に見たことがありました。「誰も聖霊によらなければイエスを主と告白することはできません。」私たちはみ言葉を読み、あるいは聞くことを通して、ある日、ある時、イエスを自分の主、救い主と信じました。それゆえ私たちはその時から罪赦され、神との関係が回復し、滅びから救われていますが、その救いに導いて下さったのが聖霊、神ご自身でした。この同じ聖霊、神の霊、神ご自身が、私たちクリスチャンが例え迫害によって捕えられるような時が来ても、また、ステパノのように尋問されるような迫害に直面しても、話すべき、また弁明できることばを与えて下さる。その先がそこからの解放なのか、または肉体的な死である殉教であるかは、神のご計画の中にある。それがもし殉教-肉体的な死であったとしても、その死は無駄にならない。必ずその死、言い換えればイエスによるいのちが散るのを見た他の人々が、その姿によってイエスを信じ、従い、救われていく。イエスによるいのちが種子、種として用いられる。そこには神の選びとご計画があることを思います。迫害の歴史的事実とその結果を踏まえ、私たちはイエスが最後に言われことばに希望を持つことができます。13節。「しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。」私たちは自分の力で、迫害に負けずに信仰を貫き、どんな時でも主イエスを証ししていくことはできないでしょう。それを私たちにさせて下さるのは聖霊です。聖霊は、迫害を始めとする様々な苦しみの中にいる私たちに、その先にある神の救いを待ち望むことができるように、その希望によって私たちが支えられるように、導いて下さいます。その聖霊の働きによって私たちは、苦しみの中でも耐え忍んで信仰を守ることができ、主イエスを証ししていく言葉を与えて頂けます。
この聖霊が弟子たちに与えられたのがペンテコステの出来事でした。そしてこのペンテコステを通して、キリストの体なる教会が誕生しました。この同じ聖霊が働いて下さり、迫害においても、イエスを信じる者たちに語るべきことばを与えて下さる。そしてたとえ迫害によっていのちを失うようなことが起きても、そのいのちは種子、種として、イエスを信じる新しい人々を起こして行く。迫害において、何一つ無駄になるものはない。その聖霊が今この教会にも、そして私たち一人一人にも注がれています。また聖霊は私たちの目を開き、この世の終わりに、主イエス・キリストによる救いが完成することを見つめさせて下さいます。その終りの日に至るまでの道には苦しみや悲しみ、迫害がありますが、私たちは耐え忍んで信仰を守り抜き、主イエス・キリストの福音が全ての民に宣べ伝えられるための証しに用いられていくことができます。
イエスは13節において、「最後まで」耐え忍びなさいと語られました。この最後とはイエスを信じる私たち一人一人の肉体におけるいのちの終わりであり、また、終わりの日です。そしてこの耐え忍ぶということばは希望がある忍耐です。それは迫害の先には救いの完成が待っているからです。

出エジプトの時、モーセがイスラエルの民に宣言しました。「恐れてはならない。しっかり立って、今日あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。」前は大海原、後ろからはエジプト軍が迫って来る。絶体絶命の瞬間でした。このような命の危険、また希望が持てなくなった時、モーセはしっかり立っていなさい、耐え忍びなさいと叫びました。それはその先に希望があるからです。主の救いがあるからです。そして実際に主なる神は彼らを絶対的なピンチから救われました。この同じ神が、私たちをも救って下さいます。救って下さる力を持っておられます。
迫害というのは、神に敵対する力が目に見える形として、また現実にこの世界を支配している者たちがいるということを、私たちに知らしめて来るものです。私たちは迫害によって、また、価値観や生き方の違う人々から受ける様々な試練や困難から、自分の姿がさらけ出されて行きます。それらの困難から、持っていると思っていた豊かさ、信仰、主を信頼する力などが打ち砕かれることもあります。しかしその迫害を、困難を、私たちは自分の力でどうすることもできません。
自分の力によって迫害に打ち勝つことはできません。従って迫害の中で私たちは、もはや自分ではなく、目に見えない神に依り頼み、神のご支配が現れることを待ち望むしかありません。
終わりの日に向けて、「その日」に向けて、迫害は強く、大きくなっていきます。そしてそれは必ず起きることであり、すでに起きています。しかし例えそのような状況になっても、私たちが受ける迫害の苦しみが、伝道の前進という実りを生みます。それゆえにこの苦しみをイエスは、「産みの苦しみ」と呼ばれました。それは信仰による新しいいのちを生み出すための苦しみであり、希望のある苦しみです。 弱い私たちを、主なる神が、イエスが、聖霊を通して支え、導き、その先にある救いを思い出させ、見つめさせ、その希望にすがらせて下さいますように。 信仰のゆえに受ける苦しみを私たちはそのように受け止め、共に最後まで耐え忍ぶ者でありたいと思います。
祈ります
「忍耐と救いを与える聖霊の助け」
「また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。」

2026/8/2(日)「終わりの日のしるし」マルコ13:1~8 庄司牧師

2026年8月2日 マルコの福音書13:1~8 「終わりの日のしるし」
イエスが宮から出て行かれるとき、弟子の一人がイエスに言った。「先生、ご覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」すると、イエスは彼に言われた。「この大きな建物を見ているのですか。ここで、どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることは決してありません。」イエスがオリーブ山で宮に向かって座っておられると、ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかにイエスに尋ねた。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのですか。また、それらがすべて終わりに近づくときのしるしは、どのようなものですか。」それで、イエスは彼らに話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『私こそ、その者だ』と言って、多くの人を惑わします。また、戦争や戦争のうわさを聞いても、うろたえてはいけません。そういうことは必ず起こりますが、まだ終わりではありません。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、あちこちで地震があり、飢饉も起こるからです。これらのことは産みの苦しみの始まりです。
 マルコ福音書の第13章は、イエスの教えをまとめて語っている最後の部分となります。次の14章からは受難、十字架の出来事に入っていきます。この13章は「小黙示録」と呼ばれています。「小さな黙示録」です。そうしますと「大きな黙示録」がある訳ですが、それは私たちが良く耳にする、新約聖書最後の書簡、「ヨハネの黙示録」です。ヨハネの黙示録には、この世の終わりに起る様々な苦難が描写されていますが、小羊として描かれているイエス・キリストが最終的に全ての敵に勝利され、イエスのご支配、すなわち神の国が完成することが記されています。そしてイエスに従って生きた信仰者の救い、永遠のいのちが実現することが語られています。 ヨハネの黙示録と同じように、マルコ13章にもこの世の終わりのことが語られています。ヨハネの黙示録と決定的に異なる点は、イエスご自身が語っておられる、ということです。捕えられ、十字架につけられる直前に、最後の教えとしてイエスが世の終わりのことをお語りになった、それがこの13章です。本日の箇所はこのように始まっています。イエスが宮から出て行かれるとき、弟子の一人がイエスに言った。「先生、ご覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」
弟子たちのほとんどはガリラヤの田舎町出身です。ですから、都エルサレムにある豪華絢爛たる神殿を見て、感嘆の声を上げました。エルサレム神殿は、クリスマスの物語に登場するヘロデ大王が再建した第3神殿と呼ばれる物ですが、おおよそ50年の歳月をかけて建設され、金ぱくで覆われた豪華絢爛の神殿です。現在、ユダヤ人の人々が祈っている姿が時々報道される、いわゆる「嘆きの壁」というのは、このヘロデの神殿の僅かに残っている下の方の壁の一部です。当時の壁は現在のものよりもずっと高くそびえ立っていました。その壮麗な神殿は、正にイスラエルを象徴する場所でした。しかしイエスはこれに対して、「この大きな建物を見ているのですか。ここで、どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることは決してありません。」とおっしゃいました。この壮麗な神殿が徹底的に破壊される時が来る、とイエスは予告されました。この予告、預言は紀元70年に実現します。ローマ帝国によってエルサレム神殿は徹底的に破壊され、神殿の歴史は終わりを告げました。今では「嘆きの壁」など、ごく僅かな遺跡としてしか、その跡を偲ぶことはできません。
当時、全てのユダヤの人々が、この神殿を誇りにしていました。ここに神の祝福があると信じていました。ところがその意味が次第に逆転していきます。そもそも神殿は、そこで神と出会い、神への礼拝を通して神と交わる場所でした。しかしユダヤの人々は、神殿があるから神は我々と共におられるのだ。神殿がある限り、我々には神の守りがあるのだ、と考えるようになっていきます。本末転倒です。しかしユダヤの人々が誇っていた神殿は滅んでいきます。
このような素晴しい建物が破壊されてしまうなんて、それはもうこの世の終わりだ、と弟子たちは考えました。そこでイエスに質問します。イエスがオリーブ山で宮に向かって座っておられると、ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかにイエスに尋ねた。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのですか。また、それらがすべて終わりに近づくときのしるしは、どのようなものですか。弟子たちの質問は、すなわち私たちの質問でもあります。現代を生きている私たちも、とてつもなく大きな事件や災害などが起こると、もうこの世の終わりか、と思うのです。この世界が破局へと向かっているという恐れを抱くのは、当時の人々も私たちも全く同じです。さらに今日は、環境破壊、それに伴う動植物の危機と絶滅。多発する自然災害や世界戦争勃発への恐れなど、当時よりももっと深刻かもしれません。ですから弟子たちの問いは、そのまま現代を生きる私たちの問いでもあり、イエスの終わりの日に対する答えは、すなわち私たちへの答えでもあるのです。イエスの弟子たちは、終わりの日に関して、いつ起こるのか?またその終わりが起こる前に、どのようなしるし、すなわち兆候や前兆があるのか?という二点を尋ねました。 ところでなぜ彼らは世の終わりに関してイエスに質問をしたのでしょうか。それは世の終わりの破局がいつ訪れるのか、その前兆、しるしを見極めて、前もってその時期を知っておきたいからだと思います。あと百年は起きないのであれば、当面は安心していられます。明日かもしれないし百年後かもしれない、それが分からないから不安なのです。だから「終わりの日」を前もって知ることによって、心を定めたい、そして何かをしたい。またはまだ先だと安心したい。そのような心理が働くのだと思います。それに対してイエスは、世の終わりにはこういうことが起こる、ということをお語りになりますが、開口一番に語られたことが警告です。「人に惑わされないように気をつけなさい。」そして以下、現代を生きる私たちも含め、終わりの日には色々な人々から、また現象などから惑わされることになる、また惑わされるであろう、様々な原因が語られていきます。一つは「人を惑わす者」の出現です。「わたしの名を名乗る者が大勢現れる。つまり偽の救い主、偽キリストが現れて、私こそ救い主だ、と言って人々を集めるようになる。また、「戦争のうわさや実際の戦争」です。これも世の終わりの一つのしるしとされています。しかし偽の救い主はイエスの時代にもいましたし、戦争や戦争のうわさなども、それがなかった時代はありません。ですからイエスの時以来、これらのしるしは常に存在しているのであって、世の終わりを知る手がかりにはなりません。またイエスご自身も、「そういうことは必ず起こりますが、まだ終わりではありません。」と語っておられます。 そしてイエスは次の8節において、民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、あちこちで地震があり、飢饉も起こるからです。と、語られ、私たちに襲いかかってくるこのような大きな苦しみについてイエスは続けて、これらのことは産みの苦しみの始まりです。と言われました。既に世の終わりのしるしは現れており、終わりは始まっているが、いつ終わりが来るのか、それまでにどれだけの苦しみを経なければならないのかは誰も知ることができない、とイエスはおっしゃったのです。つまりイエスは、終わりの時がいつ来るのか、その時期を知りたいという弟子たちの願いに答えることを拒まれました。弟子たちは、そして私たちも、終わりの時がいつ来るのかを知って、それに応じて自分の計画を考えたいと願います。終わりを知って、これからの人生の見通しを立てたいと思います。しかしイエスはそのような見通しを立てることをお許しになりません。私たちは世の終わりが何時来るかを知ることはできないのです。つまり将来のこと、これから起こることを、自分の計画の中に組み入れてしまうことはできないということです。なぜ神は、すなわちイエスは、終わりの日を私たちに示して下さらないのでしょうか。 もちろん父なる神だけが終わりの日をご存知であるということもそうですが、それ以上に、もし私たち人間が世の終わりの日が分かったならば、私たちの生活は途端に秩序を失ってしまうでしょう。終わりの日を逆算しながら財産を使い果たし、終わりの日があるのだから今を精一杯楽しもうと刹那的になる。時々新興宗教が「何月何日に世の終わりが来る」と言ってそれを信じた信徒たちが仕事を止め、結婚を諦め、財産を処分し、時に自殺するということがあります。イエスはそのようなことを私たちに望んでおられません。ですから私たちは与えられ、備えられた一日一日を、精一杯、誠実に、そして忠実に仕えていく必要がありますし、逆に言えば、私たちはそれしかできないのではないでしょうか。私たちは、神を自分の計画や予定の中に組み入れてしまうことはできません。 神の計画を前もって知り、それをコントールしようとするならば、それは神を支配したいという願いであり、人間の傲慢です。神のみ業は、人間が計算したり、自分の計画の中に組み込んだりするべきものではなく、神の計画が最善であると信じ、委ねること。待つこと。私たちはそれしかできません。
そしてイエスは、私たちがどのように終わりの日を待ち望んだら良いか、出産の譬えを通して教えて下さっています。出産の前には母親が苦難、痛みを経験しなければなりませんが、その苦しみの先には子どもの誕生と言う、この上ない喜びが待っています。そのように、終わりの日の前には人間が様々な痛み、苦しみ、苦難を経験しなければなりませんが、同じように、その先には喜びがあり、希望があるということをイエスは示しておられます。 では、この世の終わりの先には何が待っているのでしょうか。マルコの福音書1章で見て来ましたが、イエスがこの世界に飛び込んで来られた時、神の国が近づいた、神の国が到来したと言われました。神の国とはイエスが統治される世界であり、イエスの統治そのものです。神の国はイエスと共に到来しました。しかし人類はアダムが神に反逆して以来、すなわち罪を犯してから、罪と、罪から来る死と、サタン、悪魔の支配下に入ってしまいました。人類はこの罪を受け継ぎ、罪から来る神への不従順と不信仰から神を失い、神を失うことによって自分も失いました。自分は何者なのかという、自分のアイデンティティーも失いました。なぜ生まれ、何のために生きるのかという使命も分からなくなってしまいました。さらに神の絶対的な規準を失うことによって、一人一人が勝手に自分の規準を持つようになり、それが最善であると考えるようになり、違う規準を持つ他の人々と争い、時に殺し合うようになりました。また見えない神に頼れなくなった人間は、家や土地、お金などの財産、そして自分の能力、自分の名誉・名声、健康や趣味などの楽しみ、家族など、目に見えるものに頼るようになりました。それらは素晴らしいこと、大切なことですが、ユダヤの人々が誇りとし、希望としていた神殿が滅び、無くなってしまったように、やがて崩れ去る時がやってきます。なぜなら人間が頼りにするものは永遠には続かない物だからです。一切の物には終わりがある。終わりが来る。自分のいのちも含め、そしてこの世、この世界にすら終りの時が来る、崩れ去る時が訪れます。
平行箇所のマタイの福音書24章3節においては、弟子たちはこのようにイエスに尋ねています。
イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちがひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのですか。あなたが来られ、世が終わる時のしるしは、どのようなものですか。」世の終わりのしるしに関して、マルコの福音書にはない、「あなたが来られ」ということばがあります。これはイエスが再びこの世界に来られる再臨を表しています。イエスご自身も、ご自身が裁き主としてこの世界に再び来られる再臨のことを、旧約聖書の預言から引用されています。後から見ていきますが、先の26節にある「人の子が雲に乗って来る」という表現は、旧約聖書、ダニエル書7章に記されている預言を、イエスが引用されたものです。旧約聖書は、イエスの初臨、すなわちクリスマスにおける誕生やイエスの歩み、そして私たち人間の罪の身代わり、贖いである十字架なども預言していますが、それは全て成就、実現しました。イエスが再びこの世界に戻って来られる再臨とその再臨の時に起こることを除いて、旧約聖書に記されている預言は全て成就、実現していると言っても良いでしょう。従ってイエスが再びこの世界に戻って来る、それも裁き主として来られることも、必ず実現します。そしてイエスが再臨される時、この混乱した世界、痛みと苦しみ、罪と死とサタンの支配にある古い世界は世の終わりと共に終わりを告げ、イエスの愛と調和、平和と平安の中での統治、すなわち完成した神の国の支配が、イエスを信じる者たちと共に始まります。しかしその神の国が完成する前、すなわち終わりの日が訪れる前は、イエスが語られるような「産みの苦しみ」が必ずあります。 出産の時に伴う痛み、陣痛は断続的に起こります。そして出産が近づくにつれて、その間隔が小さくなり、また痛みが激しくなります。そして出産の直前、その痛みは最高潮に達し、子どもが産まれます。 そのように神が定められた終わりの日の前には、そのしるしであり、前兆である、「私こそキリスト、救い主だ」と語り出す偽キリストの出現。また戦争のうわさや実際の戦争の勃発。大きな地震のような自然災害、また飢饉。それらは頻度も、また強さも増していきます。 しかし終わりの日がいつ起こるか、またどのように起こるかは、私たちには分かりません。知るよしもありません。 聖書が、そしてイエスが明確に語っておられることは「世の終わりが必ず来る」ということ。しかし「世の終わりがいつ来るかわからない」ということの二つです。イエスご自身も終わりの日の訪れを父なる神に委ねられ、いつ起こるか分からないとおっしゃいました。そして日々、父なる神に与えられていた使命を全うされました。その最たるものが、そしてとてつもなく大きな使命が、私たち人類のために十字架にかかる、ということでした。 私たちはこの世の終わりにおける苦難を、そして痛みを恐れます。 しかし私たちが終わりの日に関して、どのように心配しても、どんなに不安に思っても、また何か備えようと思っても、それを軽減したり、回避することはできません。
私たちにできる唯一のこと。それはイエスのことばに信頼し、イエスに委ねることだけです。
私たち人間の、「終わりの日」への恐れ、不安、そして時に好奇心に働きかけて、偽キリストや、サタンが私たちを欺いてきます。そこでイエスは言われました。「人に惑わされないようにしなさい」
イエスの警告に耳を傾けつつ、産みの苦しみの先にある、神の救い、永遠のいのち、すなわち神の国の完成があるということを、本日も心に留めたいと思います。そして日々自分にできること、自分に与えられているなすべきこと-使命を忠実に、また誠実に行う者でありたいと願います。
祈ります
「終わりの日のしるし」
それで、イエスは彼らに話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。」

2026/7/26(日) 「誰よりも多く投げ入れた人」マルコ12:38~44 庄司牧師

2026年7月26日 マルコの福音書12:38~44「誰よりも多く投げ入れた人」
イエスはその教えの中でこう言われた。「律法学者たちに気をつけなさい。彼らが願うのは、長い衣を着て歩き回ること、広場であいさつされること、会堂で上席に、宴会で上座に座ることです。また、やもめたちの家を食い尽くし、見栄を張って長く祈ります。こういう人たちは、より厳しい罰を受けます。」それから、イエスは献金箱の向かい側に座り、群衆がお金を献金箱へ投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持ちがたくさん投げ入れていた。そこに一人の貧しいやもめが来て、レプタ銅貨二枚を投げ入れた。それは一コドラントに当たる。イエスは弟子たちを呼んで言われた。「まことに、あなたがたに言います。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れている人々の中で、だれよりも多くを投げ入れました。皆はあり余る中から投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っているすべてを、生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから。」
本日の箇所はイエスの警告から始まっています。「律法学者たちに気をつけなさい!」その問題点をイエスは指摘されていきます。彼らは長い衣を着て歩き回ること、そして人々から広場であいさつされることを好みました。 長い衣は彼らが律法学者であることを示すシンボルです。その衣をまとっていると、人々が尊敬して頭を下げるのです。また「広場で挨拶される」ことも彼らが願うことでした。町の広場は市、市場が立つ所でもあり、様々な市民生活が営まれる場です。そこに集まる多くの人々から特別な人として尊敬され、みんなに「先生」と呼ばれて挨拶されることを、律法学者たちは好みました。 彼らは、会堂で上席に座ること、そして宴会で上座に座ることも好きでした。「会堂の上席」というのは、ユダヤ人たちの礼拝の場であるシナゴーグと呼ばれる会堂において、聖書を納めた箱の前の席のようです。 一般の人々の席と向かい合っており、礼拝を司る人の席です。 現在の教会、また礼拝堂で言えば、講壇の上の説教者や司式者の席と思えばよいでしょう。 律法学者たちは常にその席に座ることを望みました。彼らは宴会の場でも上座を求めました。結婚式の披露宴で言えば、主賓のテーブルに席を求めるようなものです。
人々が神への信仰を持っていれば、その神のことばを取り扱っている律法学者たちが尊敬されるのは自然なことであり、当然のことだったかもしれません。しかしいつのまにか人々の尊敬から傲慢になり、人々からの尊敬を得ることを重んじ、求めるようになっていった。始めは彼らも神を信じ、神に喜ばれ、人にも喜ばれるように律法を教えていたかもしません。しかしいつしか「先生、先生」と呼ばれるようになり、神からの見えない、また感じない評価よりも、人からの見える、また感じる評価を求めるようになっていったと思われます。
またイエスは律法学者たちに対して、彼らはやもめたちの家を食い尽くし、見栄を張って長く祈ると指摘されました。 「やもめ」は多くの場合、「みなしご」と並んで社会的弱者、貧しい者の代表として聖書に出てきますが、この場合の「やもめ」は、夫の遺産を受け継いだ金持ちのやもめ、未亡人たちのことです。律法学者たちはそういうやもめたちに寄付をさせる-いわゆる慈善の行為をさせて金を出させていたようです。そのような行為はユダヤの人々にとって大変立派なこととして尊ばれ、尊敬されることでした。そしてやもめだけでなく、そのように彼女たちを指導した律法学者たちの名声も高まりました。そのことを受けてイエスは、彼らはやもめたちの財産を食い尽くしている、と言われたのだと思います。 また律法学者たちの祈りは、深さより長さを特徴としていました。人前で長い祈りをすることで、あの人は敬虔な人、信仰深い立派な人だという評判を得ようとしました。祈りの対象は神です。しかし彼らは自分を立てるために言わば神を利用したのと同じです。彼らは最後にその刈り取りをしなければならないでしょう。イエスは平行箇所のマタイの福音書23章の中で、彼らのことを「白く塗った墓」などと言われました。外見は綺麗にしているが、中は汚れでいっぱいであるとの皮肉であり、批判です。そしてこの23章の中において、イエスが繰り返し使われたことばがありました。「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。」23章の中で7,8回使われています。 彼ら律法学者たちは、見た目には私たちが驚くほどに厳格な、正しい、聖い生き方をしていました。しかしそういう彼らの聖さ、正しさとは、自分自身を誤魔化すための行いであり、演技であり、偽善だ、とイエスはおっしゃるのです。
一方、人の目を意識し、人の目を気遣い、人の目によって自分を評価していた律法学者たちとは異なる、人の評価に全く左右されずに生きている一人の女性が登場します。 エルサレム神殿の内庭には献金箱が設置されていました。宮に出入りする礼拝者が任意、自分の意志をもって自由にお金を投げ入れました。神に献げるお金を入れる箱です。 一説によればこの献金箱の傍らには祭司がいて、人々がそこに入れる献金を記録に留め、そして周囲の人々に聞こえるように、「誰々さんがいくら献金なさいました」と告げていたのではないかと言われています。 
この時イエスは、その献金箱の向かいに座って、人々がそれにお金を入れる様子を見ておられました。「多くの金持ちがたくさん投げ入れていた。」とあります。祭司がその人たちの名前と献金額を読み上げる、すると人々の間から「おお」と感嘆の声が上がる。そのようにして金持ちたちは大いに面目を施していました。そのような中、一人の貧しいやもめがやって来ました。この人は先程の、律法学者たちに食い物にされるような金持ちのやもめではなく、「貧しいやもめ」です。そのやもめが献金箱に、「レプタ銅貨二枚、すなわち一コドラント」を投げ入れました。一レプタは一デナリの128分の一です。一人の労働者が一日働いてもらう賃金が一デナリでした。ですからこの献金がかなり小額だったことが分かります。 献金の記録係がこの献金を人々に告げた時、金持ちたちの献金を報告するのとは、全く違ったのではないかと想像します。恐らく冷めた、冷たい声だったのではないでしょうか。また、回りの人々は軽蔑の目で彼女を見、またことばに出したかもしれません。「それだけか!」「そんなはした金を捧げるなんて、何を考えているんだ!」「あきれた」「よく恥ずかしくないね」
もし彼女が人目を気にしていたとしたら、とてもこの額を献げることはできなかったでしょう。逆に言えば彼女は人目を気にしなかったからこそ、人からの評価によって自分を量ることをしなかったからこそ、この献金を献げることができたと言うことができるのではないでしょうか。 つまり彼女は人との比較から解放されていた、ということです。金持ちたちが多額の献金をしている中でレプタ銅貨二枚を差し出すことは、人の目を気にして、人と自分を見比べて生きている者には到底出来ないことです。「あの人のあんな立派な献げ物の後で、こんなみすぼらしい、ちっぽけなものを献げるなんて恥ずかしい」と思ってしまうでしょう。しかし彼女は周囲の冷たい目や軽蔑のまなざしに関わらず、レプタ二枚を献げました。それは彼女が人の目、人からの評価、評判によってではなく、ただ神を見つめ、ただ神に認められる、神に喜んで頂ければそれでいい、そのように「神中心」に生きていたからに他なりません。彼女はただ、神を見つめていた人でした。人の目を気にすることや、人と自分を見比べて喜んだり悲しんだりすることから解放されている彼女は、乏しい生活費を全部、全て、神に献げてしまいました。それは、自分の生活を全て神の恵み、養い、導きにお委ねしたということです。人と自分を比べて、自分は全てを神に献げているといった、誇るような思いは少しもありません。もしそのような思いが少しでもあったならば、このような献げ物はできなかったでしょう。ですから彼女が生活費も含めた全部を献げたということは、彼女が人の目から自由であるだけでなく、自分で自分の安心を確保しようという思いからも完全に自由であった、ということができるでしょう。だからこそ、神の恵みに、神の支えに、神の備えに全てをお委ねすることができました。このやもめは、翌日からどのようにして生きていくかという思い煩いはありませんでした。ここまで神を信頼し、全てを委ねる生き方ができるとしたら、それはどれほど平安であり、豊かで、幸せな人生ではないでしょうか。
その彼女の姿勢を、態度を、お金を通して自分を献げるという献身を、イエスが感動をもって弟子たちに語られています。イエスは弟子たちを呼んで言われた。「まことに、あなたがたに言います。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れている人々の中で、だれよりも多くを投げ入れました。皆はあり余る中から投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っているすべてを、生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから。」イエスは、このやもめが誰よりも多く投げ入れたと語られました。「まことに」とは、原語のギリシャ語で「アーメン」です。真実です、本当です、という意味であり、私たちが日々の祈りでも用いていることばです。イエスは「アーメン、真実を告げる」と言ってから、彼女は誰よりも多く投げ入れたと語られました。生活費を全て献げるほどに彼女は主なる神を愛し、また日々の生活を支えて下さるという絶対的な信頼、神への揺るぎない信頼を持って生きていました。
ところで本日の箇所は誰に語られているのでしょうか。12章の37節の後半には、「大勢の群衆が、イエスの言われることを喜んで聞いていた。」とあります。この直前には、律法学者たちをはじめとした宗教指導者たちが、イエスとの論争に完全に敗北した姿が描写されています。律法学者たちの姿をいつも見ていた当時の人々は、彼らの鼻持ちならない姿にうんざりさせられながらも、しかし律法の教師である彼らを尊重しないわけにはいかない、という思いでいたようです。 ですから人々にとって、イエスが律法学者たちの悪意ある問いに真正面から答え、完全に論破する姿は、本当に胸のすくものだったでしょう。しかしイエスはその群衆に向かって「律法学者に気をつけなさい」とおっしゃったのです。「気をつけなさい」ということは、あなたがたも律法学者たちと同じようになってしまわないように注意しなさい、ということです。そしてこれは現代における私たち一人一人も同じ、イエスからの警告であると思います。
私たちはこの社会の中で、人々と共に生きている存在です。一人で生きていくことはできません。人と共に生きている以上、人の目が気になり、人が自分をどう評価しているかを気にすることも、また人に評価され、褒められることを求めていくことも、自然なことです。つまりこの律法学者たちの姿は、人間の自然な姿を描き出していると言うことができます。そしてそのような生まれつきの、すなわち罪深い私たちの自然な姿、ありのままの私たち人間の姿というのは、人の目を気にして生き、その中において優越感と劣等感、誇りや妬みが分ち難く存在している、偽善に満ちた、決して幸せとは言えない姿だと思います。しかしそのような本来の自然な人間の姿から解放されている人がいました。それがこの貧しいやもめです。人々から蔑まれるような、馬鹿にされるような額の献金しかしなかった、またはできなかった彼女は、人の目を気にするというところから解放され、人の目によって自分が評価されるということからも解放され、ただ、神に喜ばれたいという一心で、自分の持っている精一杯を献げるような女性でした。彼女が人の目を気にすることから解放され、優越感と劣等感、誇りと妬みの狭間で苦しむことから解放されているのは、主なる神を信じていたからです。神を知る-神がどういうお方であるかということを知り、神との交わりの中で神の人格を知り、経験していく中で培われていった信仰、信頼から来ています。 そして彼女は人ではなく、神が喜ばれること、すなわち神の御心を求め、また神への感謝、神が自分を支えて下さるという確信、保証、安心、平安などを持つに至りました。それらがなければ、自分の生活費全部を献げることはできません。神なら自分を支えて下さる。日々養って下さる。神に対する信仰と信頼が、生活費全てを献げるという、目に見えるにかたちになりました。そしてこの献金の場面にイエスが来られました。イエスは彼女が貧しいということ。二レブタが彼女の全財産だということを知っておられました。そして彼女の心、献身の思いを知っておられ、感心されました。
この一連の出来事-やもめの心、信仰、神に対する信頼、行動は聖書に記されました。 名前も出て来ない一人のとても貧しい女性が、神を信じ、信頼する素晴らしい信仰者として、素晴らしい生き方の模範として、また神は全てを知っておられるという例として、そしてイエスがそのような人を愛しておられるという証として、聖書に記されることになりました。 イエスがこれから十字架に架かっていくという時に、イエスがこの献金箱の前におられたこと。この女性が現れ、持っているものを全て献げたこと。その場面をイエスが見、イエスが語られ、そして聖書に記されていること。これら全ては決して偶然ではないと思います。それは現代を生きる私たちも含め、全て聖書を読む一人一人に語られている出来事です。
イエスはこの数日後、私たち人間の罪を全て背負って、十字架にかかって死なれようとしています。それは律法学者のように自分の能力や財産に頼り、時に誇り、人の目を気にして生きていく私たち人間のために、またそのような歪みの元となった罪のため、罪の身代わりのためでした。
イエスは、このやもめがレブタ銅貨二枚を、心を込めて神に献げるその姿を、じっと見つめておられました。そのまなざしは愛と慈しみに満ちていたでしょう。その同じ温かな眼差しが、イエスを信じる私たち一人一人にも注がれています。
私たちが献げる小さな祈り。私たちの献げもの。隣人に対する、また会ったことも、話をしたこともない人々のために祈る小さな執り成し。そして神への感謝と讃美。 それがどんなにちっぽけであっても、私たちはこのやもめのように、人の目、人の評価から自由になって、人からの誉れを越えて、自分の力、自分の持っているものを、心をこめて神にお献げして生きることができます。そのように私たちを変えて下さるイエスに、またその愛の眼差しに、今日も感謝しつつ、イエスと共に歩んでいきたいと思います。
祈ります
「誰よりも多く投げ入れた人」
この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れている人々の中で、だれよりも多くを投げ入れました。皆はあり余る中から投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っているすべてを、生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから。

2026/7/5(日)「ダビデの子か、それともメシアか」マルコ12:35~37 庄司牧師

2026年7月5日 マルコの福音書12:35~37「ダビデの子か、それともメシアか」
イエスは宮で教えていたとき、こう言われた。「どうして律法学者たちは、キリストをダビデの子だと言うのですか。ダビデ自身が、聖霊によって、こう言っています。『主は、私の主に言われた。「あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで。」』ダビデ自身がキリストを主と呼んでいるのに、どうしてキリストがダビデの子なのでしょう。」大勢の群衆が、イエスの言われることを喜んで聞いていた。 (マルコの福音書 12:35-37 SKY17)

 本日は12章35節から37節を見て行きます。35節の一つ前の節、34節にはこのように記されています。「それから後(あと)は、だれもイエスにあえて尋ねる者はいなかった。」前回見た箇所です。一人の律法学者が正直で真面目な態度でイエスに接し、律法の中でどれが一番大切であるかをイエスに問いました。それまでイエスに敵対する様々な宗教指導者たちが、入れ替わり立ち替わりイエスを陥れるための質問をして来ました。しかしイエスがあまりにも的確に、いやそれ以上の知恵を持って答えられる様子を見て、イエスの言葉尻を捕らえてローマ帝国に訴える、もしくは民衆の人気を失わせようとして来た他の宗教指導者たちが、ギブアップ、諦めた時の様子です。
ルカの福音書20:40には、「彼らはもうそれ以上何も質問する勇気がなかった。」と記されています。悪意ある質問によってイエスを陥れることよりも、その質問によってかえって自分が不利になる、面目を失う、だからもうあえて冒険はしない。彼らを黙らせるほどに、イエスの答えは彼らを驚嘆させたということです。それほどまでに彼らを論破してきイエスですが、今度は自ら彼らに質問されました。 35節。「律法学者たちは、どうしてキリストをダビデの子と言うのですか。」新共同訳ではこのように翻訳されています。「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。」新改訳ではキリストというところを、新共同訳では「メシア」と訳しています。
この35節は、新約聖書の原文のギリシャ語では「クリストス」と記されています。それを新改訳聖書では「キリスト」と訳しています。この「クリストス」もしくは「キリスト」という言葉は、旧約聖書の原語のへブル語、「メシア」という言葉が元になっています。新共同訳はこのヘブル語のメシアをそのままイエスに当てはめたということです。
このメシアということばの意味は、「油注がれた者」であり、救い主を表します。旧約聖書には、神によって王や祭司などの務めに任命された者は、そのしるしとして、油が注がれました。ですからメシアは神によって立てられ、任命された者ということであり、次第に神が遣わして下さった救い主を意味することばになっていきました。ですからイエスの時代、メシア、すなわちキリストと言えばそれは「救い主」という意味でした。それゆえ「イエス・キリスト」という呼び方は、「イエスこそキリスト、すなわち救い主である」という意味であり、それ自体が一つの信仰告白となって行きました。
またイエスという名前自体が、「神は救いである」という意味です。そして先程お話したイエス・キリストの「キリスト」ということばは、タイトル、称号でもあります。従って「イエス」という名前も、「キリスト」という称号も、共に神の救いが込められています。そして名前に込められた意味だけでなく、愛ある業、イエスが語られたことば、そして行った多くの奇蹟から、イエスは救い主、メシアとして、罪と罪から来る死から全人類を解放して下さるお方である。そのように信じるに足る多くの証拠、しるしをイエスは持っておられました。そしてイエスご自身が具体的に、旧約聖書を通して自らがメシアなる救い主であることを、ユダヤの人々が尊敬し、愛して止まないダビデ王を引き合いに出して、示そうとされました。それが36,37節です。ダビデ自身が、聖霊によって、こう言っています。『主は、私の主に言われた。「あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで。」』ダビデ自身がキリストを主と呼んでいるのに、どうしてキリストがダビデの子なのでしょう。」
この36節は、旧約聖書の詩篇110篇1節からの引用です。当時の人々はこの110篇をダビデの作と信じていました。イエスもその当時の共通認識に基づいて引用されています。そしてこの詩篇はメシア詩篇として有名であり、メシアが世界の支配者として君臨する様子を描いています。
詩篇110篇1節にはこのよう記されています。共に開きましょう。詩篇110:1節は、聖書の中ほど、旧約聖書P1053です。この110:1節を共に読んでみましょう。『主は、私の主に言われた。「あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで。」』これは主なる神が、救い主の勝利とそのご支配の確立を告げておられるところです。主は、私の主に言われたと、「主」という言葉が二度使われています。マルコ福音書の原文においては、両者は同じことばが使われていますが、詩篇の原文においてはこの二つは全く別のことば、単語が使われています。初めに記されている「主」は旧約聖書の原語のヘブル語で「ヤーウェ」あるいは「ヤハウェ」と読まれる、イスラエルの神のみ名を指す固有名詞で、太文字で表されています。私たちが父なる神と呼ぶお方でもあります。文語訳聖書ではこれを「エホバ」と訳していましたが、口語訳から「主」と訳されるようになりました。それに対して次に記されている「わたしの主」の方の「主」は、ヘブル語で「アドーン」と表記され、「主人」という意味の普通名詞です。太文字で表されていません。ですから引用元の詩篇を「主」の違いに注意して訳すのであれば、このようになるでしょう。「イスラエルの神ヤハウェが、私のご主人様にこうお告げになった。」この詩を歌ったのがダビデ自身だとすれば、ダビデ自身が、まだ見ぬ子孫、しかも自分からすれば子どもにあたる人物を、来るべき救い主として「わたしの主、わたしのご主人さま」と呼んだということになります。ダビデにとってのご主人となる「主」とは、メシアなる救い主、イエス・キリストです。またイエスは36節で、「ダビデ自身が、聖霊によって、こう言っています。」と語られました。つまりダビデのこのような告白は、聖霊から預言として受け取った告白である、ということをイエスは示しておられます。
系図の上では、イエスは実際にダビデの子孫としてお生まれになりました。新約聖書の始め、マタイの福音書の1章1節を見ると分かります。「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」 イスラエル民族の重要な父祖であるアブラハムから、彼らが愛し尊敬しているダビデ王を経て、イエスに至る系図です。 ルカの福音書3章にも、イエスがダビデ家の子孫であるヨセフの子どもとしてお生まれになったことが、記されています。そして補足するとすれば、このルカの福音書の3章の系図は、イエスから始まり、人類の始祖であるアダムにまで遡っています。
話を戻します。ユダヤの人々は、この詩篇110篇が、将来到来するメシアが預言されているものとして、誰もが知っていたような詩篇でした。そして彼らはこの詩篇が、特に敵に対するメシアの勝利の歌と考え、解放者なるメシアの姿を思い浮かべていました。イエスが人として歩まれた当時、ユダヤの人々にとっての敵とはローマ帝国でした。従って彼らユダヤの人々は、いつか救い主であるメシアが到来し、ローマ帝国を倒し、ローマから自分たちを解放してくれる。このような思い、願い、期待を、イエスの弟子たちも持っていたということを以前お話したことがあります。すなわち人々は、イエスが支配者であるローマから自分たちを解放して下さる、目に見える政治的・軍事的王としての姿を期待していました。しかしイエスはご自身が目に見える王ではなく、目に見えない霊的な領域を司り、また統べ治める者、救い主としてご自身を証されて来ました。つまり今まで間違って解釈されて来た詩篇110篇1節が、イエスによってようやく正しく理解され、説き明かされたということです。そして旧約聖書に記されている救い主到来の預言が、イエスを通して成就、実現した、ということができます。それはイエスを信じる者に与えられる罪の赦しであり、人間と神との関係の回復であり、永遠に続くいのちという霊的なものです。 イスラエル民族だけ、一民族だけに及ぶ回復や解放ではなく、全ての人類に及ぶ普遍的回復、解放です。
詩篇110篇1節は、天地を造り支配しておられる神が、救い主、イエス・キリストを通して全ての敵を打ち破らせ、ご自分の右の座に就けて下さったという、メシアなるイエスの支配が確立されたことを告げるみことばです。敵とはサタン、神に反逆し、人間を罪に陥れた悪魔です。また、人間がアダムとエバから受け継いでいる罪と、罪から来る死です。さらに罪は、私たちを神の恵みから引き離すものです。神から離れるという罪を犯した結果、私たち人間は人生において心配や恐れ、不安、悲しみ、絶望や争いなどが生み出されてしまいました。しかしイエスはそれら人間の不幸であり絶望の元となる罪を全て背負われ、それら罪と共に十字架に架かって下さいました。そしてその死と共に罪を葬りさり、その死から復活されることによって、人類の罪と、罪から来る悲しみ、痛み、絶望、そして死から勝利して下さいました。イエスは復活を通して、私たち人類に肉体の死を越えた新しいいのちを示され、死はもはや私たちを絶望させるものではなくなりました。そして復活された救い主なるイエスが天に昇り、父なる神の右の座に就いて下さったことを通して、イエスを信じる全ての人々が、イエスのご支配、すなわち神の恵みの下に置かれることができる、と言うことができます。
ところで皆さんは、バルティマイを覚えておられるでしょうか。このマルコの福音書10章の46節に登場する盲人、目が見えず、物乞いをしていた人です。当時のユダヤ人たちは、障害や重い病気などを患っている人は、本人か先祖が罪を犯した結果、その罪に対する神からの罰(呪い)を受けた者であると考えていました。ですからバルティマイのような盲人は、神から呪われた者として、人々から嫌悪されるような存在であり、誰も近寄って来ることはありませんでした。そのような彼ですが、人々がイエスのことを話していることを通して、イエスが自分の目を癒して下さると、イエスに望みを置きました。彼は道ばたから叫びます。「ダビデの子のイエス様、私をあわれんでください」と叫び始めた。多くの人たちが彼を黙らせようとたしなめたが、「ダビデの子よ、私をあわれんでください」と、ますます叫んだ。この時バルティマイはイエスをダビデの子と呼んでいます。バルティマイもまた、イエスのことをダビデの子孫と見なしていることが、この叫びにも表されています。そしてイエスは立ち止まり、他の人に彼を連れて来るように命じられました。イエスはバルティマイにお尋ねになりました。「わたしに何をしてほしいのですか。」並行箇所のルカの福音書によれば彼はこのように答えています。「主よ、目が見えるようにしてください。」
ダビデの子と叫んでいたバルティマイでしたが、イエスが自分の下に来られた時、「主よ、」という呼びかけに変わっています。バルティマイにとってイエスは、自分に全く関わりがない一支配者、一解放者である「ダビデの子」という世間一般に言われていた遠い存在でした。しかし彼は「主よ、」と呼びかけた時、イエスを個人的な神として、個人的なメシア、救い主として信じる、受け入れた瞬間でした。 そのバルティマイに対してイエスはこのように宣言されました。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救いました。」
イエスの宣言の後、このようなことが起こりました。その人はただちに見えるようになり、神をあがめながらイエスについて行った。これを見て、民はみな神を賛美した。これはルカの福音書の記述ですが、イエスは誰にも見向きもされないバルティマイに近寄られ、声をかけられ、実際に彼に手を触れられました。そして実際に彼を癒すことによって、イエスは夢も希望もない、半ば死んでいたような人を生き返らせ、新たに力と生きる希望を与えられました。それを見た回りの人々は神の愛、力、栄光を賛美しました。一人の人の癒やし、人生の回復は、他の人々にも及んでいくということが現わされている出来事です。この目が見えない人の人生の再生、回復は、イエスに信頼を置く、すなわちイエスを自分の主、救い主なるメシアとして信じ、受け入れた時から始まりました。加えて罪の赦しという永遠に関わる救いをも手にしたのが、バルティマイでした。
現代を生きる私たち一人一人も、このバルティマイのように盲目です。目に見えない神、目に見えない悪魔、目に見えない罪、目に見えない神の裁き、目に見えない永遠のいのちなど、霊的な事柄に対してです。そのことに気付くか。そのことを認めることができるか。私たちの永遠を分ける大きな気付きです。
ダビデは将来自分の家系から生まれて来ることになるメシア、イエス・キリストが救い主であることを、聖霊の働きを通してイエスがお生まれになる前から、すでに予知、預言していました。そして人々に蔑まれていたようなバルティマイもまた、イエスをメシアなる救い主として信じ、肉体的な目だけでなく、霊的な目も開かれ、永遠の救いを手にしました。私たちはどうでしょうか。

新約聖書、ヘブル人への手紙に、「イエス・キリストは昨日も今日もとこしえに変わることがない」と記されています。メシアなる救い主イエス・キリストは今も生きておられます。このイエスをダビデの子、聖書に記されている一支配者、一解放者、またはキリスト教を始めた始祖、倫理的に偉大な指導者などと取るか、それとも自分の主、「私の救い主」と取るか。現代を生きる私たちにの大きな違い、永遠に至る違いをもたらします。罪が赦され、神との関係の回復に至るか。そして神との関係の回復を通して、自分自身と他の人々との回復にも影響を与えるか。その違いはただ、イエスに信頼を置くか。イエスを信じて生きていくか。という決心、決断の違いだけです。
私たち人間に最も大切な決断-イエスを信じて歩んで行くという歩みを-今も生きておられるイエス・キリスト、メシアなるイエスが、日々導いて下さいますように。
祈ります
「ダビデの子か、それともメシアか」
ダビデ自身がキリストを主と呼んでいるのに、どうしてキリストがダビデの子なのでしょう。」大勢の群衆が、イエスの言われることを喜んで聞いていた。

2026/6/21(日)「神の国へのステップ」マルコ12:28~34 庄司牧師

2026年6月21日 マルコの福音書12:28~34「神の国へのステップ」
律法学者の一人が来て、彼らが議論するのを聞いていたが、イエスが見事に答えられたのを見て、イエスに尋ねた。「すべての中で、どれが第一の戒めですか。」イエスは答えられた。「第一の戒めはこれです。『聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』第二の戒めはこれです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。』これらよりも重要な命令は、ほかにありません。」律法学者はイエスに言った。「先生、そのとおりです。主は唯一であって、そのほかに主はいない、とあなたが言われたことは、まさにそのとおりです。そして、心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛すること、また、隣人を自分自身のように愛することは、どんな全焼のささげ物やいけにえよりもはるかにすぐれています。」イエスは、彼が賢く答えたのを見て言われた。「あなたは神の国から遠くない。」それから後は、だれもイエスにあえて尋ねる者はいなかった。
本日もまた、律法学者が登場します。しかしイエスに敵対してきた今までの律法学者とは、違うようです。それは彼がイエスから、「あなたは神の国から遠くない」と言われたことからも分かります。しかしこの律法学者は賢く答えたにもかかわらず、イエスから、「あなたは神の国に入ることができる!」とは言われませんでした。なぜでしょうか。神の国に入れることと、神を愛し、隣人を愛することとが、どのような関りがあるのでしょうか。共に見て行きたいと思います。
冒頭にはこのように記されています。律法学者の一人が来て、彼らが議論するのを聞いていたが、イエスが見事に答えられたのを見て、イエスに尋ねた。
「彼らの議論」とは、18節以下、イエスとサドカイ派の人々の復活をめぐる議論です。前回共に見て来ました。この当時、復活をめぐってパリサイ派とサドカイ派が対立していました。サドカイ派は、「復活はない」と言っていたのに対して、パリサイ派は復活を信じていました。そのような中で、イエスが聖書に基づいてはっきりと死者の復活をサドカイ派の人々に語られ、イエスが自分たちと同じことを教えているという親近感を、彼は抱いたようです。 律法学者は、律法、神の教えであり戒めを研究し、自分自身がそれを守るだけでなく、一般の人々に、律法を守って生活するためのアドバイスをしていました。六百以上の戒めを大切なものとしていたことから、膨大な律法をどのように解釈し、またどのように人々に教えるかということをいつも考えていました。そこで彼は、好意を抱いたイエスから、律法で一番大切なことを尋ねることにしました。彼の真面目で真剣な問いに対して、イエスも誠実に、そしてはっきりとお答えになります。29、30節です。
イエスは答えられた。「第一の戒めはこれです。『聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』イエスは旧約聖書、申命記第6章4、5節からの引用をもって、律法の第一としました。ユダヤの人々はこの教えを大切にし、毎日唱えていたものです。 この第一の教え、戒めは、一言で言えば「神を愛しなさい」ということです。神を愛することこそが、あらゆる律法の要、神の民としての生活の中心だとイエスは言われている。 ところで「主を愛しなさい」と命令形で訳されています。原語であるヘブル語では完了形で記されています。ヘブル語では未来に確実にそうなることは、~した、~するようになると、完了形で表します。つまり申命記の6:5節は、「あなたは愛するようになる」と訳すことができるものです。その引用ですから、本日の箇所の12:30節の直訳は「あなたはあなたの心の全てをもって、あなたの精神の全てをもって、あなたの思いの全てをもって、あなたの力の全てをもって、神を愛するだろう。」と訳すことができるものです。
イスラエル民族は神に特別に選ばれている民族であり、神の栄光、素晴らしさを他の民族、部族に伝えていく使命、役割を担っていました。それにも関わらず彼らは神への信仰・不信仰、従順、不従順を繰り返して来ました。しかしその都度預言者などが神から遣わされ、神に立ち返るよう、促されて来ました。旧約聖書にその歩みが描写されています。そのような彼らを神は見捨てることはありませんでした。従ってイスラエルに対する主なる神の深い愛、忍耐、慈しみと恵みを彼らが覚える時、もはや彼らは義務や命令から神を努力して愛していくのはなく、喜んで、感謝を持って自発的に神を愛していくようになる。愛していくはずだ。そのような主なる神の思い、彼らに対する期待が伝わって来ます。 そしてこの神のイスラエル民族に対する愛、忍耐、そして期待は、同じように今を生きる私たちも含め、全ての人類に向けられているものだと思います。
このような神の愛、忍耐、期待や思い、願いが、イエスが言われたもう一つの大切な戒めにも表されています。それが、「隣人を自分のように愛しなさい」です。イエスは旧約聖書、レビ記第19章18節を引用されています。ここには「自分を愛するように隣人を愛しなさい」と記されています。神を愛することと、隣人を愛すること。この二つが分かち難く結び合って、律法の中心をなしているということです。そしてこの第二の戒めも、第一の戒めと同様に、命令形だけでなく、未来形で訳すことが出来る箇所です。「あなたは、あなたの隣人をあなた自身として愛するであろう(愛するようになる。)」この第二の戒めはまた、イエスが言われた第一の戒めである、人間が大切にしなければならない第一の律法である、「神を心から愛するということ」の、コインの表裏のようです。つまり神を心から愛する者は、自分と自分の隣人を愛する者になるということであり、自分と自分の隣人を心から愛する者は、神を心から愛する者になるということです。
イエスは律法学者に「あなたは神の国から遠くない。」と言われました。神の国はあなたの近くにある、あなたはいい線まで来ている、しかしまだそこに到達してはいない、とおっしゃったのです。正直であり、誠実な彼がなお神の国に入ることができないでいる原因は何なのでしょうか。
この律法学者は、「先生、その通りです」と言って、イエスが語られたことを称賛し、同意し、また共感しました。しかし神の国に入ることができるとイエスに言われなかったことから、彼には神への、すなわちイエスへの信仰が無かったことが分かります。つまり彼は自分の力で神を愛し、また隣人を愛していくことができると思っていた、そしてそのように生きていた、ということです。
彼は律法を学ぶことや、人々に律法を教えることに熱心だったかもしれませんが、その中心には最も大切な神がいませんでした。では、私たちはどうでしょうか。
心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、神を愛しているでしょうか。旧約聖書、伝道者の書7章には、「順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ」ということばがあります。順境、すなわち順風満帆の時は、人は言われなくても喜びます。しかし逆境、試練や苦難が来ると、私たちはその試練や苦難を通して自分のあり方を吟味したり、成長の機会と捉え感謝するよりも、時に神に責任転嫁、神のせいにしてしまうことがないでしょうか。なぜ神はこのような痛みの経験を許可されたのか、許されたのか?失望したり、怒ったことが、そして現在、怒っていることがないでしょうか。また私たちは、隣人を真実に愛しているでしょうか。イエスが、好きな人だけ愛しなさい、と言っておられないことは明白です。自分に敵対し、迫害する者のために祈りなさい、と言われるのがイエスです。つまり赦せない人を赦し、愛せない人を愛する、これが、イエスが言われる隣人を愛する、ということです。また、自分を愛するよう隣人を愛しなさい、ともイエスは言われました。私たちは時に自分自身を受け入れることが出来なかったり、愛することができないことがあります。自分の過去の過ち、自分で自分のことが自制できない弱さ、悪いことの方に傾く罪深さ、などを通して自分に嫌悪することがあるからです。そのような私たちにイエスは、一人一人が自分自身も受け入れ、赦し、愛するようにと言われています。しかし私たちはそのように人を赦し、自分を赦すという生き方をして来たでしょうか。またしているでしょうか?私自身を見る時、心から神を愛すること、心から自分を愛すること、そして心から隣人を愛すること、できていない、とよく思わされます。神が、イエスが求めておられることからどれだけ自分が離れているか、日常生活の中でも思い知らされます。そして自分の努力によっていくら頑張っても、神の規準に到達することが出来ないと、認めざるを得ません。最近息子にこのように言われました。「パパ、この頃ブチ切れなくなったね!-言ってくれるな~と感心しました。」この時ただ笑うしかありませんでしたが、子どもを叱るというより、感情的に怒ってしまいます。しかも何度も繰り返してしまう。(そして、これを購入しました。掲げる)日々の生活を通して、自分の愛のなさ、忍耐のなさを認めます。もちろん私の弱さは子育てだけに限りません。しかしそのような欠けや弱さのある自分に気づき、時に気付かされ、愕然とする。それは良いことかもしれません。
先週、神が人間に示された人間が生きる上でのルール、神の教え・戒めである十戒を始めとした律法の規準の高さ、厳しさに達することができないと心砕かれる者は、イエスの方に向かうとお話しました。 律法は、私たちをキリストに導く養育係になるというお話でした。律法に示されている神の規準の高さに触れる時、またイエスが言われ、実際に人々に対する愛の言動、その行いを聖書から知る時、自分には心から神を愛することも、また心から自分を愛することも、そして心から隣人を愛することはできない。自分に絶望するしかないのではないでしょうか。しかし私は、自分に絶望することは素晴らしいと思っています。そうでなければ、この律法学者のように、知識や知恵があり、正直に、また誠実に生きていたとしても、イエスから、「あなたは神の国に入ることができる。」、とは言われないし、実際入ることはできないからです。すなわちそれは、イエスとの愛の関係を築くことができないことを意味します。 イエスは公に福音を宣べ伝え始められた時、このように宣言されました。「神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」今年もこの神の国について見ています。神の国が近づいたとは、神の国が到来したと訳せることばです。到来ですから、イエスを通して神の国、すなわち神であるイエスが統治される国が、私たち人類の近くまで来た訳ですが、その神の国に誰でも入ることができる訳ではありません。神の国に入るには明確な条件があることを、イエスは言われました。それは、「悔い改める」ことでした。人生の、また自分の生き方、あり方の方向転換です。そしてその向かう先は、救い主、イエス・キリストです。イエスに信頼を置き、イエスを信じて歩む生き方への変換です。そして私たちの主、私たちの人生のあるじになって下さるイエスは、私たちが信頼を置き、頼ることができるに十分な方、また相応しいお方です。なぜなら律法を二つにまとめられたイエスご自身が、その律法を完全に守られたからです。律法に生き、律法を完成させたお方です。
そしてそれは、十字架に表されています。父なる神が罪ある人間を救うために、御子イエス・キリストを十字架にかけて殺す。イエスが全人類の罪を全て背負われて死ぬ。身代わりの死を通して人類を救うという父なる神のご計画に、イエスは完全に従われました。-なぜでしょうか?-それは父なる神を愛し、大切にされ、第一とされたからです。ではなぜイエスは、神を無視し、神に敵対しながら滅びに向かっている私たち人間の全ての罪を、ご自分で全て背負われて、十字架につかれたのでしょうか?-それは私たち一人一人の人間を心から愛しておられるからです。
神の規準を全て、完全に満たし、また私たち人間を心から愛しておられるイエスが、一方誠実ではありますが、自分中心に、また自分の努力で、神を抜きにして生きているような律法学者に対して、「あなたは神の国から遠くない」と言われた、いや、おっしゃって下さいました。彼は神から離れ、自分の力で生きていたような人がしたが、彼の正直さ、誠実さをイエスは認めて下さっていた。
その上でイエスはこのように彼を招いておられると思います。「あなたは神の国から遠くない。あなたに後必要なのは、そして絶対に必要なのは私だ。私に信頼を置き、私を信じて歩みなさい。そうすればあなたは神の国に入ることができる!」「あなたは神の国から遠くない」と言われたのは、この律法学者をご自分お下に招いておられる、そのように私は思っています。そしてこの招きは、全ての人類に、今を生きる私たち一人一人にも向けられている。そのように信じています。
本日はこの神から、すなわちイエスからの招きを、招詞として、礼拝の冒頭で読んで頂きました。
ローマ人への手紙10:17節です。前の訳ではこのように記されています。「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」神を愛することも、自分を愛することも、隣人を愛することもままならない私たち人間ですが、イエスは私たちの罪深さを知り、弱さに同情され、助けて欲しいと願い、求める者には必ず応えて下さるお方です。そしてそのイエスとの愛のある関係に導かれるのに必要なことが、イエスへの信仰です。そしてそれは、イエスのことば、聖書のことばを聞くことから始まります。
イエスの愛の招きに応答し、イエスを信じた者全ては、イエスが統治される神の国に入ることができます。そこはイエスとの愛の交わりが永遠に続く場所です。そしてイエスとの愛の交わりが完成する時は、聖書に何度も何度も記され、預言されている再臨、イエスが再びこの世界に戻って来られる時です。その時私たちは、神を心から愛し、自分を心から愛し、隣人を心から愛するものに造り変えられます。その完成に向かって私たちは日々自分の弱さや欠点、罪深く、愛の足りない者であることを聖書のみ言葉から教えられ、イエスがなされた愛の言動から思い知らされていきます。しかしそれは、イエスへと向かう大きな原動力となること、素晴らしいことです。 神の前に、イエスの前に自分を飾らず、弱さを隠さず、「私は愛が足りません。あなたの助けが必要です。あなたの愛で私を満たして下さい。そして神を愛し、自分を愛し、隣人を愛する者にして下さい。」そのようにイエスに向かう者を、イエスは決して見放すことも、また見捨てられることもありません。その根拠が十字架です。十字架に架かるほど私たち人間を、そして「私を」愛して下さっている証拠ですから。 このイエスの愛に触れられながら、時に慰められ、励まされながら、心から神を、心かから自分を、そして心から隣人を愛していくことができますように。
祈ります。「神の国へのステップ」
イエスは、彼が賢く答えたのを見て言われた。「あなたは神の国から遠くない。」それから後は、だれもイエスにあえて尋ねる者はいなかった。

2026/6/7(日)「生きている者の神」マルコ12:18~27 庄司牧師

2026年6月7日 マルコの福音書12:18~27「生きている者の神」
また、復活はないと言っているサドカイ人たちが、イエスのところに来て質問した。「先生、モーセは私たちのためにこう書いています。『もし、ある人の兄が死んで妻を後に残し、子を残さなかった場合、その弟が兄嫁を妻にして、兄のために子孫を起こさなければならない。』さて、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、死んで子孫を残しませんでした。次男が兄嫁を妻にしましたが、やはり死んで子孫を残しませんでした。三男も同様でした。こうして、七人とも子孫を残しませんでした。最後に、その妻も死にました。復活の際、彼らがよみがえるとき、彼女は彼らのうちのだれの妻になるのでしょうか。七人とも彼女を妻にしたのですが。」イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、聖書も神の力も知らないので、そのために思い違いをしているのではありませんか。死人の中からよみがえるときには、人はめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです。死人がよみがえることについては、モーセの書にある柴の箇所で、神がモーセにどう語られたか、あなたがたは読んだことがないのですか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあります。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。あなたがたは大変な思い違いをしています。」 (マルコの福音書 12:18-27 SKY17)
人類の罪の身代わりのため、イエスは十字架への歩みを進めている-その最後の1週間を共に見ています。11章から最後の16章まで続きます。 再び、イエスの下へ刺客が送られて来ました。それがパリサイ派と並ぶ党派であるサドカイ派の人々でした。当時のサドカイ派の人々は祭司長、および長老たちからなる富裕層の指導者たちです。彼らは現実主義的な保守派で、支配体制の現状維持を何よりも望んでいました。つまり彼らは前回見たヘロデ派のように、ローマ帝国と関係を保つことによって、自分たちの支配と利益を優先しているようなグループでした。 彼らはモーセ五書、すなわち旧約聖書の最初の五つの書物、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記のみを聖書と見なし、信仰の規範としていました。モーセが書いたと言い伝えられており、「モーセ五書」と呼ばれているものです。十戒を中心とする律法がそこに記され、聖書の中でもとても大切な部分です。 この5つの書物には、死んだ者が復活するということは直接的には書かれていません。それゆえサドカイ派の人々は、死者の復活はないと断言していた。また彼らサドカイ派の人々は、祭司として神殿で仕えるような立場にありましたが、復活だけでなく、目に見えない天使や悪魔などの霊的存在も信じていませんでした。加えて人間の運命は神によって完全に決定されているという考えには立たず、人間が自由に自分の道を、人生を決定できる、自由意思を重んじていました。つまり、彼らは神の主権や計画なども信じていなかったわけです。この世における自分の利益だけに興味があるようなサドカイ派の人々が、イエスに論争を挑んで来た、それが本日聖書の箇所です。サドカイ派の人々の質問は、「七人の兄弟がいて、長男は結婚したが死に、子がいなかったので、その妻を弟に残した。そして、次男も三男も、そして七人までもが彼女を妻にした。そして最後にその妻も死んだ。もし復活があるとすれば、彼女は七人のうちのだれの妻になるのか。」というものでした。 これは「レビラート婚(レビレート)婚」と言われるものです。子孫を絶やさないようにすることで家系を守り、またその家系の財産の維持や、遺された妻や子どもの生活保障などが目的でした。世界の国々にある制度のようです。旧約聖書、申命記25章にこの規定が記されています。実例が、イエスの直接の系列となるユダ部族、ユダに見ることができます。創世記38章に記されています。後でご覧下さい。
7人の夫が次々に死んで行く中で、一人の妻をそれぞれがめとる。 理論的にはあり得る話ですが、実際的には到底起こらない話です。イエスはこの質問に対して、ノーを突き付けました。 イエスは彼らに対して24節で「思い違いをしている」、27節においては「大変な思い違いをしている」と、二度にわたって彼らの間違いが致命的であることを指摘しています。
イエスは彼らの間違いを指摘しながら、復活とは本当はどのようなものであるかを、25節から27節で説明されて行きます。先に26節と27節の前半を見たいと思います。死人がよみがえることについては、モーセの書にある柴の箇所で、神がモーセにどう語られたか、あなたがたは読んだことがないのですか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあります。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。イエスは26節でアブラハム、イサク、ヤコブという、神の選びの民であるイスラエル民族における、重要な祖先の名前を挙げられました。彼らは神を信じる信仰者でした。 なぜイエスは彼らの名前を挙げられたのでしょうか。
それは、サドカイ派の人々がモーセ五書のみを信じていたため、そのモーセ五書の中に、死人が甦るということが直接的ではないものの、示されているからです。それがアブラハム、イサク、ヤコブであり、イエスはモーセ五書の第二巻、出エジプト記の3章6節を引用されました。
『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』この箇所は、エジプトで奴隷とされていたイスラエル民族が神に助けを叫び求めた時、主なる神が燃える柴の中からモーセに現れた時の場面です。神はモーセを選び、イスラエルをエジプトから脱出させる器として、またリーダーとして選ばれました。この時神は、アブラハム、イサク、ヤコブの名前を挙げながら、ご自分を現わされました。すなわち神は、モーセから見れば400年~500年前に生きていたアブラハム、イサク、ヤコブと今なお契約関係にあることを示されています。その契約とは、神を信じる者が義とされ、すなわち神の前に正しい者と認められ、神の祝福を受け継ぐ者となるというものでした。つまり神はモーセに対して、彼らを導いた神は、あなたの神でもあるのだと、モーセに語られているということです。「アブラハム、イサク、ヤコブを導いた神である私は、あなたにとっても同じ神だ。この同じ神があなたを遣わし、共にいるのだから、あなたはイスラエルをエジプトから脱出させることができる!大丈夫だ!」神はご自身を宣言されると共に、モーセを励ましている箇所でもあります。 イエスはこの箇所を引用された時に、27節の前半において、神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。と語られました。つまり、イスラエルの祖先であるアブラハム、イサク、ヤコブは、今も神の前に生きているということです。彼らが今も生きているということを踏まえて、25節にある、「死人の中からよみがえるときには」と言われたイエスのことばを考えてみたいと思います。 アブラハム、イサク、ヤコブのように、神の前に生きていることと、よみがえるということは、異なるということです。私たちのいのちが終わる時、肉体の機能は停止し、肉体はその形も機能も維持することはできません。そして崩壊、すなわち腐り、最終的には神が聖書で語られているように、最初に取られた土に返ります。人間の組織が土の成分と殆ど同じだと言うことは、以前お話したことがあります。 この肉体の死と崩壊という現実は、アブラハムにもイサクにもヤコブにも当てはまりました。彼らも普通の人間だったからです。 ですから彼らが死んだ時も、肉体は滅んでしまいました。しかしイエスは彼らが今も生きていると語られています。つまり彼らが神の前に生きているというのは、肉体ではなく、霊魂であると言えるでしょう。人間が霊、肉体、魂からできていると聖書に記されている通りです。死んでしまっても、神を信じる信仰者であれば、霊魂の状態で神の前に生きている。 旧約聖書に登場する人々の時代は、イエスはまだ受肉していませんでしたが、三位一体の神-父なる神、子なるキリスト、聖霊なる神は一つの神です。ですから主なる神を信じていた旧約時代の信仰者は、すなわちイエス・キリストを神として信じ、イエスの前に生きているということでもあります。この現実を踏まえて25節を見たいと思います。この箇所は今回のサドカイ人の質問に対してのイエスの答えです。死人の中からよみがえるときには、人はめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです。
「死人の中からよみがえるとき」とは、イエスがこの世に、この世界に再び戻って来られる再臨の時に、イエスを信じて死んだ者たちがよみがえる時を意味します。 新約聖書、コリント人への手紙の第一、15章には、イエスが再臨された時に、イエスを信じて亡くなった信仰者に与えられる甦りと、甦った者に与えられる復活の体について記されています。また彼ら信仰者は、つまり私たち信仰者は、将来復活した時、「天の御使いたちのよう」とあるように、男と女という性別も無くなると考えられています。つまり、この世における結婚の制度-男と女が結びつくといった関係が、私たちが召された後はもはやない、ということになります。またユダヤ人とユダヤ人以外の民族である、異邦人といった民族の違いも、将来一つになると聖書に記されています。
ところで皆さんは、「復活においては、めとることも嫁ぐこともない」イエスが言われたこのことばをどのように受け止められるでしょうか。ある人にとっては、このことばはとても寂しいことだと思われかもしれません。そのように思う人は幸せな夫婦関係に生きていた、また生きていると言えるでしょう。しかしある人にとっては逆に、このことばは大いなる解放の知らせかもしれません。この世では我慢しているが、復活してまであの人と一緒なのはごめんこうむる!感謝です!と思う人もいるかもしれません。また独身の人や、離婚、再婚などを経験した人々にとっては、このイエスのことばをどのように捉えたら良いのかと、戸惑う人もいるかもしれません。しかしこれら全ての反応は、死者からの復活を、この世の人生の延長上に見ているから起こる反応だと思います。そこで、イエスが言われる復活について、私たちが正しく理解するための大切なポイントが、先ほども触れましたが、イエスが25節の後半で語られた、「天の御使いたちのようです」にあると思います。もう一度この25節をお読みします。死人の中からよみがえるときには、人はめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです。天の御使い、すなわち天使ですが、天使のようになるとは、何か白い衣を着て背中に翼のある者になるということではありません。 原語のギリシャ語を見ると「天にいる御使い」となっています。「天にいる」、ということが大切です。天にいるとは、神のみ手の内に置かれている、神と共に存在しているということです。今私たちは朽ちて行く肉体を纏い、罪と死とサタンが支配しているこの世、この世界に生きていますが、イエスを信じる信仰者が復活する時、全てが変わるということです。 御使いが神の御手にあるように、復活した私たちが神の御手の中にあり、神が共にいて下さるという神の守りを、神の恵みを、神の平安を、神の愛を、もっとはっきりと、知る者にされるということです。経験できる者にされるということです。
そのような祝福が復活にあるとすれば、今のこの世における私たちの人間関係がいかに歪んでいても、時に壊れていても、復活の時に神のみ手の内に置かれることによって、新しく完成されるということではないでしょうか。ですから、今この人生において良い夫婦関係を与えられている人は、復活において、今以上の完成された関係が与えられるでしょう。また、今この人生においては夫婦の間に問題があり、復活してまで一緒にいたくないと思っている人には、そのような問題や罪が全て解決され、解消された新しい関係が与えられるでしょう。それはもちろん、二人ともイエスを信じていなければなりませんが。 また、この世の人生においては結婚しなかったり、離婚を経験したり、複数の人と結婚した人においても、それらのことを越えた新しい、祝福された関係が与えられるでしょう。 いずれの場合も、この世における関係が復活において継続するのでなく、完成するということです。そしてこの完成は、夫婦の関係だけの話で終わりません。家族、友人、知人から、この世において知り合うことができた、全てイエスを信じた人々、また信じている人々との人間関係に及ぶものです。私たちはこの世の人生において様々な人間関係の中に生きています。恵まれた、喜ばしい関係もあれば、顔も見たくない、という問題に満ちた関係もあります。それらの関係や問題が、復活して神のみ手の内に置かれることによって、全て解決されます。それは、人間関係を悪くしてしまっている、元々の原因である罪が、イエスを信じることによってすでに解決されているからです。
復活というのはこのように、様々な罪や弱さを抱えてこの世の人生を歩んでいる私たちが、神の恵みの力によって新しくされ、御手の内に、御手の中に置かれ、この世においてはどうしようもなくまとわり着く罪が拭い去られ、一切の苦しみや悲しみから解放されて、新しく生かされるということです。それが神の力であり、恵みです。この神の約束は必ず成就、実現します。 私たちはイエスを信じていますから、将来必ず復活します。しかし今はまだ肉体という限界があり、神の御手の内には直接的にはいない私たちにとっては、復活を信じて日々待ち望み、また期待して過ごして行くことが大切ではないでしょうか。そのように歩みが、私たちの信仰であると言えます。
そしてその私たちの信仰と復活の保証がイエス・キリストです。 私たちの復活の先駆けとして、また私たちが将来復活して新しい体が与えられる、その保証として、死人の中から最初に復活されたのが、私たちの主、イエス・キリストです。肉体の死がイエスを一時捕えましたが、生きている者の神である主なる神が、その死を打ち破り、永遠の命を生きることができる、新しい体をイエスに与えて下さいました。そしてイエスを信じる者は全て、イエスの復活に与る者となります。イエスを信じる者が受けるバプテスマ、洗礼は、私たちがイエスと合わされている、一つであるということを表しているものですが、それは復活も同じです。イエスを信じた人は全て、イエスが死から復活されて今も生きておられるように、私たちも将来復活して、御国を受け継ぐ世継ぎとして神の御手に置かれ、私たちは神と共にあり、神の恵みと平安を、永遠に持ち続ける者とされます。私たちが将来必ず与えられる復活と、将来必ず与えられる復活の体を期待し、また同時に、先にイエスを信じて天に召された人々との再会を待ち望みたいと思います。
復活され、今も生きておられるイエスと共に、これからも歩んで行きたいと願います。最後に、イエスが群衆に語られたことば、ヨハネの福音書6:40節のことばをもって、本日のみ言葉の取り次ぎを終わりたいと思います。ヨハネの福音書6:40節 わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです。」
祈ります 「生きている者の神」
神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。あなたがたは大変な思い違いをしています。

2026/5/3(日)「何度も、何度でも」マルコ12:1~12 庄司牧師

2026年5月3日 マルコの福音書12:1~12「何度も、何度でも」
それからイエスは、たとえで彼らに話し始められた。「ある人がぶどう園を造った。垣根を巡らし、踏み場を掘り、見張りやぐらを建て、それを農夫たちに貸して旅に出た。収穫の時になったので、ぶどう園の収穫の一部を受け取るため、農夫たちのところにしもべを遣わした。ところが、彼らはそのしもべを捕らえて打ちたたき、何も持たせないで送り返した。そこで、主人は再び別のしもべを遣わしたが、農夫たちはその頭を殴り、辱めた。また別のしもべを遣わしたが、これを殺してしまった。さらに、多くのしもべを遣わしたが、打ちたたいたり、殺したりした。しかし、主人にはもう一人、愛する息子がいた。彼は『私の息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に、息子を彼らのところに遣わした。すると、農夫たちは話し合った。『あれは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は自分たちのものになる。』そして、彼を捕らえて殺し、ぶどう園の外に投げ捨てた。ぶどう園の主人はどうするでしょうか。やって来て、農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるでしょう。あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか。『家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった。これは主がなさったこと。私たちの目には不思議なことだ。』」彼らは、このたとえ話が自分たちを指して語られたことに気づいたので、イエスを捕らえようと思ったが、群衆を恐れた。それでイエスを残して立ち去った。
イエスがたとえを用いて語られている。それが本日の聖書箇所ですが、このように始まっています。「ある人がぶどう園を造った。垣根を巡らし、踏み場を掘り、見張りやぐらを建て、それを農夫たちに貸して旅に出た。このたとえ話の設定です。「ぶどう園を作った」だけではなく、「垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て」と細かく語られています。「搾り場」とあることから、ぶどう酒を造るぶどう園です。垣や見張りのやぐらは、盗賊や動物たちからぶどう園を守るためのものです。 このたとえは旧約聖書、イザヤ書の5章がモチーフ、題材となっています。5:7節の前半をお読みします。万軍の主のぶどう畑はイスラエルの家。ユダの人は、主が喜んで植えたもの。従ってぶどう園を造った主人とは主なる神、ぶどう畑はイスラエルの家、そして植えられている木はユダ、すなわち神に特別に選ばれた、イスラエルの人々であることが分かります。神は彼らイスラエルをエジプトの奴隷状態から解放し、彼らの神となるという特別の関係、契約を結んで下さり、ご自分の民として下さいました。旧約聖書、出エジプト記に描写されています。そして彼らを約束の地に導き入れ、そこに住わせて下さいました。そのイスラエルに対する神の愛と恵みが、必要な全てが整えられているぶどう園に表されています。そして収穫の時季がやって来ました。
ぶどう園が新しく作られた場合、そこから収穫がなされ、ぶどう酒が造られ、利益をあげることができるようになるまでには、何年かの時が必要です。ですから「収穫の時になったので」というのは、その時が過ぎて、いよいよ実際にこのぶどう園から収穫、利益が見込まれるようになった時に、ということが表されています。 主なる神は、このぶどう園に表されているように、イスラエルの人々に与えた賜物や才能などが用いられ、彼らを通してぶどう園が豊かな実を結ぶことを願い、また期待していました。十分に時間を与えた上で、ぶどう園の収穫の一部を受け取るため、農夫たちのところにしもべを遣わしました。しかし彼らはそのしもべたちを受け入れませんでした。
ところが、彼らはそのしもべを捕らえて打ちたたき、何も持たせないで送り返した。そこで、主人は再び別のしもべを遣わしたが、農夫たちはその頭を殴り、辱めた。また別のしもべを遣わしたが、これを殺してしまった。さらに、多くのしもべを遣わしたが、打ちたたいたり、殺したりした。
実際にイスラエルの人々は神に反逆し、神から送られて来た預言者たちを何度も殺して来ました。民の指導者たちは民衆から搾取し、正しい裁きは行われず、他国と争い、人々は神に反逆し、偶像礼拝が頻繁に行われていました。イスラエルの民は本来であれば、全世界に神の恵み、栄光を表していく神の特別な選びの民でしたが、神が望まれた公正も正義も行わず、流血に至るような争いを繰り返して来た。それがイスラエルの歴史です。神は預言者を通してご自分の御心を彼らに知らせ、彼らが悔い改めて神に立ち返るように、多くの預言者を遣わされましたが、彼らは神の期待に応えることができませんでした。
イエスはこのたとえを、直接的には「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか」と問うた、エルサレム神殿の祭司長、律法学者、長老たちに語っておられます。先週見ました。また同時に、神に反逆して来た、イスラエルの民衆にも語られています。
このような悲惨な歴史と現実の中で、ぶどう園の主人なる神が取った最大の決意と行動が、6節に表されています。しかし、主人にはもう一人、愛する息子がいた。彼は『私の息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に、息子を彼らのところに遣わした。
主人は最後に自分の愛する息子を農夫たちの下に送られました。「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」と言って。主人のこの「愛する息子」とは、言うまでもなくイエス・キリストのことです。主人、すなわち父なる神は、「最後に」愛する息子であるイエスを送られました。最後とあるように、イエス以降、どのような預言者も、また神を指し示すような者も天から遣わされていません。
父なる神は、愛と配慮をもって最後に一人息子、イエス・キリストを送って下さいました。しかしとても残念なことですが、イスラエルの人々はこのように応答しました。すると、農夫たちは話し合った。『あれは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は自分たちのものになる。』と相談してその息子を殺し、ぶどう園の外に投げ捨ててしまいました。残酷なイエスの十字架の死が表されていますが、皮肉にも、十字架の死を遂げるイエスご自身が、このたとえを語られ、これから起ころうとしていることを預言しているということです。そしてまさに今、農夫にたとえられている宗教指導者たちが、神の愛する一人息子、イエス・キリストを殺そうとしています。今まで見て来ましたし、これからも見ていくことになりますが、彼らは多くの悪意ある質問によってイエスを捕らえ、殺そうとしてきました。またイスラエルの人々も、イエスが自分たちの期待するメシヤではないと分かった時、その態度を翻し、「十字架につけろ!」と叫び出します。 
それでは私たちはどうなのでしょうか。私たちは宗教指導者でもないし、イエスを裏切る民衆でもないからこのたとえは私たちとは関係がない、と言えるでしょうか。 農夫たちが預けられたぶどう園は、労働と収穫のために必要な全てのものが準備されていた場所でした。
このぶどう園と似ている場所があります。いや、同じかもしれません。 それは私たちが今住んでいる世界です。神は人類の始祖となるアダムとエバを創造され、全ての動植物を統治し、管理するよう命じられました。これは大文化命令とも呼ばれ、旧約聖書、創世記の1章、2章に記されています。そして神は人間が被造物をしっかりと管理できるよう、人間に必要な全てを準備、備え、整えて下さいました。人間が生きるために必要な空気、水、食物、それらを生み出す地球そのもの。また私たち人間もそうです。「神が大地の塵から人を形造り、そこに神の息吹を吹き込んで人とした。」と創世記に記されているように、人間は神に造られたものです。つまり私たちのいのちは神が造られたものであり、それゆえ、神のものであるということです。しかし人間は自分が神に造られたことも、また、神に委ねられている管理者としての使命も忘れてしまいました。自然から一方的に資源を搾取し、環境を破壊し、毎年毎年多くの動植物を絶滅させています。自分に必要な物を超えてもっともっと欲しいと貪るようになりました。つまり人間は、自然、被造物を統治するのではなく、支配、コントロールするようになってしまいました。 そして本日も宗教指導者が取り上げられていますが、彼らは貧しい人々から搾取、支配していました。しかし今の私たちの世界はもっと悲惨かもしれません。コロナ禍を経て貧富の格差は更に拡大し、世界人口の1%が、世界人口のおおよそ半分、もしくはそれ以上の富を独占しています。AIはどんどん進化し、今すでに人類の能力を超え始めています。 神のようになりたい、いや、神を超えたい。そのような願望を感じます。これは神に敵対するだけでなく、自分の能力、才能を神に誇示しようとした、バベルの塔の時の人々の姿と、何ら変わりありません。罪深い人間の姿は、創世記の時代から全く変わっていないということです。また加えて私たち人間は、性別、容姿、能力、賜物、生まれる時代、国、どのような両親の元に生まれるか。自分の名前すらも自分で決めることはできませんでした。
つまりぶどう園全てを主人が作り整えたものであったように、この世界も神が計画され、私たちが生きるために必要な全てを備え、整え、私たちに預け、委ねて下さったものであるということです。ですから私たちは、神から与えられた基本的条件の下で生きているということになります。ですから本日登場するぶどう園は、今私たちが生きている世界を表しているとも言えるのではないでしょうか。 そしてもし私たちが、このぶどう園なる世界において、何がしかの実りを生むことができるとしたら、それは基本的には神が備えて下さった条件や賜物によるものだと言えるでしょう。私たちの努力ということも勿論ありますが、努力が実を結ぶための条件を整えて下さったのは、神です。 しかし私たちも、農夫に例えられた祭司長、律法学者、長老たちや、ぶどうの木にたとえられたイスラエルの人々と同じように、ぶどう園なるこの世界を自分のものにしてしまっているように感じます。そしてそれを作り与えて下さった、本来であれば私たちの主人であるはずの神の恩を忘れ、自分が主人となって生きているような者だと思います。 このように神に敵対し、自分中心に生きている私たちは、神の独り子であるイエスを十字架につけて殺している者と、何ら変わりがないように思えます。ですからもし私たちがイエスの時代に生きていたら、宗教指導者たちや民衆と同じように、イエスを「十字架につけろ!」と叫んでいたに違いありません。そうであるならば、私たちも宗教指導者たちや民衆と同じように、神との関係を回復する道を閉ざされ、神の怒りによって滅ぼされるしかない存在ではないでしょうか。 しかしイエスは、そのような私たちに、今なおたとえを通して語りかけて下さっています。9節です。ぶどう園の主人はどうするでしょうか。やって来て、農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるでしょう。きちんと労働し、きちんと収穫を納める、別の人たちにぶどう園を与えると、イエスは語られました。しかしこのぶどう園は、以前のぶどう園とは違います。また、そのぶどう園を受け継ぐ人々も違います。イエスはそのことを、先の11節、12節でこのように語っておられます。
『家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった。これは主がなさったこと。私たちの目には不思議なことだ。』」詩篇118篇22節、23節からの引用です。「家を建てる者」とは、ユダヤ人の宗教指導者であり、石はメシヤであるイエスを指しています。本来であれば彼ら宗教指導者たちは、イエスを家の要、礎のように中心に据えて、信仰生活、人生を建て上げていくべきでした。しかし彼らはメシヤなるイエスを否定して、十字架につけて殺してしまいます。本来であれば、人間の土台の石となるべきはずのイエスを、捨ててしまった訳です。しかしイエスは死から復活され、ご自身が私たち人間において最も大切な要の石として、家の礎となって下さいました。イエスが家の要の石として、また礎として家の中心に来る。
イエスが中心になって家を支えているように、イエスが中心となって支え、統治、統べ治めている領域があります。それは今年も共に見ている、神の国です。イエスが統治されている領域、場所ですが、イエスはこの神の国を、新しいぶどう園のように、そこで実を結ぶ者たちに与えて下さいます。
従って人々に捨てられたイエスを通して、イエスの十字架と死、そこからの復活を通して、イエスは新しい霊の家、すなわち神の国を建てて下さいました。そして神の国を構成しているのは、全て、イエスを救い主として信じる人々、すなわちキリスト者です。
私たち人間にいのちを与え、いろいろな実りを生むことができるように人生を整え導いて下さる父なる神が、「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」と言って、神に反逆し、敵対し、神を無視して歩む私たちに、独り子イエス・キリストを送って下さいました。 おめでたいとも言える驚くべき信頼と、限りない愛と忍耐が表されています。イエスご自身も、十字架の苦しみを予期、予知しながら、この世界を、特に貧しい人々と共に歩んで下さいました。 父なる神の愛の計画、そしてその計画のために、イエスご自身が十字架という大きな犠牲、代償を、神を無視して自分勝手に歩む私たち人間の罪のために、支払って下さいました。その十字架の代償があり、また罪と死に打ち勝った復活を通して、イエスは神の国の基礎となる、生ける石となって下さいました。 私たちはイエスを信じていますから、私たちと神を隔てていた罪は赦され、神との関係が回復され、イエスを通してすでに神の国に入れられている、幸いな者たちです。

私たちは、イエスが十字架という犠牲を通して備え、また与え、委ねて下さった神の国と言う新しいぶどう園において、神の栄光、素晴らしさを表すべく、良い実を結んでいくことが期待されています。欠けや弱さ、色々な失敗、また不信仰に陥ることもありますが、イエスはすでに十字架の贖いを通して私たちを深く愛し、受け入れて下さっていることが分かります。そしてイエスは期待を持って、私たち一人一人を、ぶどう園であるこの世界に遣して下さっています。
私たちを新しく造り変えて下さり、また新しいぶどう園とも言える神の国に導いて下さったイエスを中心に、またイエスを信仰生活と人生の礎に据えて、今も生きておられるイエスと共に、歩んで行きたいと願います。
祈ります。
「私たちの体を、神に喜ばれる、聖なる生きた献げ物として、献げることができますように。」
「何度も、何度でも」
しかし、主人にはもう一人、愛する息子がいた。彼は『私の息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に、息子を彼らのところに遣わした。