礼拝のご案内

偉大なる神さまを賛美し、その祝福に与りましょう。

・分級:日曜日 午前10:00~10:30
・礼拝:日曜日 午前10:40~11:50
 (オンライン礼拝も同時刻) 

「第一の戒めは何を教えていますか?」

主日礼拝 2026年8月9日(日) 10:40~ 

聖書:マタイの福音書 4章10節

説教:庄司牧師

♪礼拝賛美曲♪
↓クリックすると、Youtube動画で視聴できます ↓

神の国と神の義 新聖歌 291番

ただ主を 新聖歌 427番

天つみ民も 新聖歌 62番

🌈今月のワーシップソング🌈

Still(静まって知れ) 作詞作曲:Reuben Morgan

🌈聖書引用

 新日本聖書刊行会 聖書 新改訳2017 (新改訳聖書センター)

礼拝メッセージアーカイブ

2026/8/2(日)「終わりの日のしるし」マルコ13:1~8

2026/7/26(日)「誰よりも多く投げ入れた人」マルコ12:38~44 庄司牧師

2026/7/19(日)「恵もうと待ち構えておられる主」出エジプト記33:12~19 庄司牧師

2026/7/12(日)「第一の戒めは何ですか?」申命記4:35 庄司牧師

2026/7/5(日)「ダビデの子か、それともメシアか」マルコ12:35~37 庄司牧師

2026/6/28(日)「福音に満ちた宣教共同体を目指して」 ヨハネ 13:34~35 棚橋主事

2026/6/21(日)「神の国へのステップ」 マルコ 12:28~34 庄司牧師

2026/6/14(日)「神はいくつの戒めを私たちに与えられましたか?」 出エジプト 34:28 庄司牧師

2026/6/7(日) 「生きている者の神」マルコ 12:18~27 庄司牧師


ゴスペルカフェ可児のご案内

毎月第1金曜日にすてきなカフェ「樹の萌」さんでギタリスト トム兼松とゲストによるライブが開催されています。演奏を聴きながらアフタヌーンティーはいかがですか?

次回:2026/8/7(金) 14:00~
出演:櫛田(エバ)真理子(ピアニスト)
   トム兼松(ギタリスト)

場所:珈琲 & ギャラリー 「樹の萌」
   可児市禅台寺1丁目17
   ℡ 0574-62-4164

ゴスペルカフェ可児 ライブ風景

「樹の萌」にて(撮影:渡邉和廣さん)

2026/5/31 ゴスペル特別礼拝

・メッセンジャー

 アーサー ホーランド牧師

・ゲストミュージシャン

 ラニー ラッカーさん

 兼松弘子 さん

 米田 香さん

 Hope Hill Gospel Choir


クリス宣教師の働き

クリス宣教師のYoutubeチャンネル「Chris’ Gasthaus」で、プレイモービルを使った聖書のお話や、日本・ドイツのスウィーツなどを紹介しています。

ドイツの田舎のパン小屋にて🍞【ドイツ田舎生活】
最初のクリスマス【イエス・キリストの誕生】

チャペルコンサート アーカイブ

2025年 弦楽四重奏によるクリスマスコンサート

2025年 チャーチワーカー送別コンサート

2024年 クリスマスコンサート:Give U Honey

2023年 クリスマスコンサート

2023年 チャペルコンサート

2022年 クリスマスコンサート

2026/8/9(日)「第一の戒めは何を教えていますか?」マタイ4:10 庄司牧師

主日礼拝 2026年8月9日(日) 10:40~ 

聖書:マタイの福音書 4章10節

説教:庄司牧師

問43 この第一の戒めは、私たちに何を教えていますか。                  答 ”私たちが神さまを愛し、まことの神さまだけを礼拝することです。私たちは、他の神々をおがんではなりません。”イエスは言われた。「下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある。」” マタイの福音書4章10節 月の第二日曜日です。本日も子ども信仰問答からお話をしていきます。前回の箇所を少しおさらいしたいと思います。前回の問42は、「第一の戒めは何ですか?」そして引用されていたのが出エジプト記です。「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない」(出20:3)                                   そしてその具体例として取り上げられていたのが、申命記4:35節、 “あなたにこのことが示されたのは、主だけが神であり、ほかに神はいないことを、あなたが知るためであった。’’です。 「主だけが神であり、ほかに神はいないことを、あなたが知るためであった。」主なる神は、ご自身が唯一、まことの神であるということを、出エジプト記において示されました。イスラエルの叫びに答えて奴隷から解放し、約束の地、カナンに向かう荒野においても同行されました。パンであるマナを降らせ、必要な水や肉なども備えられました。イスラエルの主なる神への不平、不満、不従順を忍耐され、おおよそ40年にわたって彼らを守り、導き、祝福を与え続けられました。 それほどイスラエルのことを愛され、イスラエルを導いて来られた主なる神が、「私だけを神としなさい」と、十戒を中心とした律法をsイスラエルに与えられました。 しかしイスラエルはモーセが十戒の石板を受けにシナイ山にいた時、長い不在から不安になって金の子牛の像を造り、神としてしまいました。偶像礼拝の罪です。神との契約を破り、罪を犯した者たちはこの後、モーセを通して粛清、すなわち神に裁かれました。その罪の根本は、偶像礼拝も含め、主なる神を第一にしなかったからです。主なる神を第一としない者は、裁かれる。自ら滅びを招くということです。この出来事を踏まえて、本日の箇所を見ていきましょう。本日の聖書箇所は、イエスが悪魔、サタンに誘惑された時に宣言されたことばです。この悪魔のイエスへの試み、誘惑が、マタイの福音書4:1節から始まり、本日の聖書箇所である10節まで続きます。一つ目の誘惑は、悪魔が40日の断食を通して空腹の絶頂であったイエスに、この石がパンになるように命じなさい、というものでした。この誘惑は、イエスが神から与えられたカリスマ、賜物だけで父なる神に頼らず、自分の力だけで人々を救いに導いていくよう、すなわち神から離れて自立するようとのサタンの誘惑でした。この誘惑に対してイエスは、「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」申命記8:3節を引用して答えられました。しかし神から離れていること自体が、そして神から離れて自分の力だけで物事を進めていくこと自体が罪ですから、これはサタンからの罪への誘いでもありました。イエスはここで、「人はパン自体で生きるのではない。パンを含め、人間が生きるのに必要なすべては神のことばを通して供給されている。私たちは神のことばによって生かされているのだから、ただ神に依り頼み、自分に与えられた神からの能力を、自分の願望を満たすために用いることはしない!」そのような思いと神への信頼を持ち、神のことばによってサタンの誘惑を退けました。二つ目に悪魔はイエスに、「詩篇に、御使いがあなたの足が石に打ち当たらないように守ると書いてある。-試しに神殿の屋根から飛び降りてみて、神のことばが本当にそうなるか、証明してみよ!」と誘いました。 あなたが神の子であるというしるしを、人々が奇蹟を通して見れば、彼らはあなたを救い主であると信じるだろう、という誘惑でした。サタンは詩篇91:11,12を引用しましたが、「すべての道で」あなたを守られるという「すべての道」ということばを故意に、わざと落としています。悪魔はみ言葉を良く知っており、時にみ言葉を自分の都合の良いように変え、用い、誘惑して来るということです。そしてこの誘惑は、イエスが人間を救うという大きな目的のために、父なる神のことばをただ、自分の働きの保証とするようにとの誘惑でした。この誘惑に対してイエスは「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」と、申命記6:16節を引用して答えられました。一つ目の誘惑に続いて、二つ目の誘惑も、イエスはみ言葉で悪魔に応戦されました。そして三つめ、これが最後の誘惑になりますが、悪魔はこのようにイエスを誘惑しました。8節、9節です。悪魔はまた、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての王国とその栄華を見せて、こう言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これをすべてあなたにあげよう。」イエスが悪魔に妥協して権力を持ち、政治的な王として人々を救いに導くようにとの誘惑でした。これに対してイエスが答えられたのが本日の聖書箇所10節です。そこでイエスは言われた。「下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある。」申命記6:13節の引用です。「主に仕えることを犠牲にしてまでして、使命達成を追求することはしない!」というイエスのご意志です。すると悪魔はイエスから離れていきました。み言葉で悪魔と戦って行く時、悪魔は離れて行くということです。それはつまり、悪魔の誘惑に打ち勝つことができる、ということです。 悪魔はサタンとも呼ばれていますが、サタンは「試みる者」とか「訴える者」とも呼ばれ、神とその救いの目的とに対する「敵」を意味します。サタンは神を憎んでいます。そしてその憎んでいる神が愛している人間も憎いため、一人でも多くの人間が神から離れるように策略を巡らしているだけでなく、願わくは神の子とされている私たちクリスチャンにも神を疑わせ、日々、信仰を奪おうと働いています。その戦略、策略が表されている箇所があります。それが本日の箇所です。マタイの福音書4:8,9。悪魔はまた、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての王国とその栄華を見せて、こう言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これをすべてあなたにあげよう。」 この箇所を平行箇所のルカの福音書4:6で見たいと思います。第三版の聖書訳でお読みします。ルカの福音書4:6「この国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。 旧約聖書、ヨブ記を見ても分かりますが、神の許可、神の許しがなければ、サタンは働くことができません。つまりサタンの活動も、誘惑や攻撃も、主なる神ご自身が持つ大いなるご計画と主権の中で許されている、ということです。そして実際にサタンはこの世において、この人にならいいという、イエスに反対している人々-特に力のある政治家、独裁者などの権力者を選んで、権力や栄光を与えることができるということです。 繫栄し、栄光を受けている者の背後に、悪魔の働きがあるということです。しかしこの悪魔の誘惑は、国の指導者や政治家など、力や権力を持っている人々に限りません。全ての人類が悪魔の誘惑に日々、晒されています。イエスは新約聖書、マタイの福音書6章24節においてこのように語られています。「だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神と富とに仕えることはできません。」神か富か。私たち人間はどちらかを選んで仕える、すなわちそれを大切にし、それに従い、それによって歩む、ということです。しかしどちらも同じようには愛せない。重んじることはできない。神を選んだ人は、神を大切にし、神に仕え、神に従い、神によって歩みます。一方富を選んだ人は、富を大切にし、富に仕え、富に従い、富によって歩みます。富とはその人を富ませるものですから、お金や財産だけではありません。家や土地、 自分の能力、名誉や名声、健康や趣味などの楽しみ、家族など、色々な物が考えられます。自分を富ませ、自分の気分を良くし、自分を高めてくれるものです。もちろんそのような物は大切ですし、なくてはなりません。しかしそれらがまことの神よりも大切になり、神よりも上になっていく時、人は簡単にそれらの奴隷となってしまいます。そして彼らが頼みにしているそのような神以外のものはやがて崩れ去る、無くなって行く時が来ます。先週も見て来ましたが、神以外のものは有限、限りがあり、それゆえ滅んでいくからです。そしてその先は、イスラエルの人々が偶像礼拝、すなわち神を第一にしなかったことによって裁かれたように、神を第一にしなかった人々は最終的に、神の裁きを経験することになります。なぜなら、富を第一にしていく生き方は、罪が解決せず、罪が残る生き方だからです。神から離れているという罪がずっと続く生き方だからです。ですから富を第一にした人は、その人の持っている罪ゆえに、自ら滅んで行くことになるでしょう。イエスはサタンに誘惑された時、神が与えて下さったみ言葉によって戦い、サタンを退けました。このイエスがなされたこと。それが神を第一にしていることの表れです。すなわち神のことばを第一にするという生き方、歩み、そして時に誘惑と戦い、対処する方法でもあります。「はじめに神が天と地を創造された。」聖書のはじめ、創世記1章1節のことばです。そして創造の経緯が描写されていきますが、神はことばをもって人間を含めた天地万物を創造していきます。神は、神のことばによって人間も含めた全ての被造物を造られ、このことばによって天地万物を保たれ、そしてこのことばを通して私たち人間に語りかけて下さっています。それが神のことば、聖書のことばです。ですからイエスが「聖書にこう書いてある」と言ってサタンの誘惑を退けましたが、それは神のことばを第一にした、すなわち神を第一にされた、ということです。 なぜなら神イコール神のことばだからです。ですからイエスが神のことば、聖書を第一とすることによって神を第一とされたように、私たちも聖書のことばを第一にしていくとき、それはすなわち神を第一にすることであり、神を第一にする生き方であるということです。 父なる神がイスラエルに与えられた十戒の一番目、人間が一番大切にすべき教え、戒めは、「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。」でした。イエスはこの教え、戒めを、神のことば、すなわち聖書に記されているみ言葉を守り、従い、そのことばで戦い、そのことばよって生きることによって、身をもって実践して下さいました。そして罪と罪から来る死とサタンを滅ぼして復活されたイエスは、今、神の右、栄光の座におられます。神のことばを第一にしていく。その先には、神の守り、祝福があり、平安、喜びがあり、罪の赦しと永遠のいのちがあります。私たちもイエスのように神のことばを第一にすることによって、神を第一にしていくことができますように。 祈ります 問43 この第一の戒めは、私たちに何を教えていますか。                  答 ”私たちが神さまを愛し、まことの神さまだけを礼拝することです。私たちは、他の神々をおがんではなりません。‘’ ”イエスは言われた。「下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある。」” マタイの福音書4章10節

2027/8/7(金) ゴスペルカフェ可児

主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。詩篇23篇1節

この日のゴスペルカフェ可児は、ピアニストのエバ(櫛田真理子)さんとギタリストのトム兼松さんによるデュオでした。ご来場くださった皆さま、ありがとうございました。

次回の開催予定日は 9月4日金曜日 14:00~ です。
素敵な雰囲気のアトリエ・カフェでミュージシャンの生演奏を聴きながら、まったりと金曜日の午後を過ごしてみませんか?

2026/7/19(日)「恵もうと待ち構えておられる主」出エジプト記33:12~19 庄司牧師

主なる神がイスラエルの神となり、イスラエルは神の民となる、という特別な関係となる契約です。その契約の中身は、十戒を中心とする、イスラエルが守るべき掟、戒めです。エジプトでの奴隷状態からの解放という神による救いを受けたイスラエルの民が、神の民として歩んでいくための指針、ガイドラインが、十戒を中心とする律法によって示されました。イスラエルがシナイ山まで来ると、モーセは十戒が記された石の板を、神から授かるために山に登って行きました。しかしふもとにいた民たちはモーセの帰りが遅いと不安になり、祭司アロンに自分たちを導く目に見える神を造るように要求し、アロンは金の子牛の像を造りました。人々はその金の子牛を神として拝み、その前で不品行の伴う飲めや歌えの騒ぎを始めました。主なる神、イスラエルの神を第一とする、他に像を造って拝んではならない、と言ったことが十戒には記されています。イスラエルの民はそれらの掟を既に聞いており、それを守ると約束し、その約束に基づいて、主なる神は彼らと契約を結んで下さいました。しかし契約のしるしとしての石の板をモーセが神から頂いているまさにその時、彼らは金の子牛の像を造ってそれを拝み、主なる神を裏切ってしまいました。その裏切りであり、神に犯した罪ゆえに、主はイスラエルを怒られました。神は彼らを絶ち滅ぼすとモーセに語られました。しかしモーセは神と民との間に入り、神の怒りを宥めようとします。 怒っておられる主なる神に対してモーセはこのように執り成しました。32章12~14節です。 「主よ。あなたが偉大な力と力強い御手をもって、エジプトの地から導き出されたご自分の民に向かって、どうして御怒りを燃やされるのですか。どうしてエジプト人に、『神は、彼らを山地で殺し、地の面から絶ち滅ぼすために、悪意をもって彼らを連れ出したのだ』と言わせてよいでしょうか。どうか、あなたの燃える怒りを収め、ご自身の民へのわざわいを思い直してください。あなたのしもべアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたはご自分にかけて彼らに誓い、そして彼らに、『わたしはあなたがたの子孫を空の星のように増し加え、わたしが約束したこの地すべてをあなたがたの子孫に与え、彼らは永久にこれをゆずりとして受け継ぐ』と言われました。」すると主は、その民に下すと言ったわざわいを思い直された。 神はわざわいを思い直されました。つまりモーセの執り成し、仲裁に免じて、イスラエルを絶ち滅ぼすことはしない、ということです。 イスラエルは全滅からは免れました。しかしモーセはイスラエルの聖さが保たれるために、罪を犯した者たち3000人を粛清しました。32章の最後にこのように記されています。こうして主は民を打たれた。彼らが子牛を造ったからである。それはアロンが造ったのであった。モーセが罪を犯した人々を粛清しましたが、「こうして主は民を打たれた」とあることから、神が、罪を犯した者たちを、モーセを用いて打った、粛清した-モーセはただ、神の裁きに従ったということが分かります。神との契約を破り、神に反逆し、神を裏切る。その罪を人は刈り取らなければならない、ということがここに表されています。 そして33章に入ります。神はイスラエルを全滅させることはなさいませんでした。しかしイスラエルに対する怒りと不信はまだ収まっていないように見えます。神はこのようにモーセに語られました。33章3節です。乳と蜜の流れる地にあなたがたを行かせる。しかし、わたしは、あなたがたのただ中にあっては上らない。あなたがたはうなじを固くする民なので、わたしが途中であなたがたを絶ち滅ぼしてしまわないようにするためだ。」出エジプトの時から荒野に至るまで、神はここまでずっとイスラエルと共におられました。しかしここで神は「あなたがたのただ中にあっては上らない。」とモーセに語られました。しかし「乳と蜜の流れる地にあなたがたを行かせる。」と語られていますから、矛盾しているように見えます。 前の節、2節には、「ひとりの使いを遣わす」と語られていることから、自分はイスラエルとはもう同行しないが、代わりに御使い、天使を同行させる、とここで主は語られています。 しかしこの神の語りかけは同時に、彼らに対する憐れみと、約束は守るという誠実な態度でもあります。「もうおまえたちとは一緒にいない、うんざりだ!」という宣言のようにも聞こえますが、主なる神は、彼らを続けてカナンへと導く約束をされました。しかし良く見てみますと、このように神は語られています。「あなたがたはうなじを固くする民なので、わたしが途中であなたがたを絶ち滅ぼしてしまわないようにするためだ。」 「うなじが固い」これは、馬や牛などが首を強張らせて手綱に逆らう様子、つまり飼い主の言うことを聞かない家畜の態度から来ている表現です。このうなじが固いという表現をイスラエル民族に当てはめるならば、神に反抗的、神の御心、ご計画に逆らう姿、態度だということです。実際にイスラエルは主なる神に、また主なる神が選んだモーセに対して頑なでした。しかし裏を返せば、このうなじが固いイスラエルを、ずっと忍耐して導いて来られたのが、主なる神です。加えてこの神は、もし不正を彼らに見るならば、滅ぼさないではおられなくなる。主なる神が義なる正しいお方であるというだけでなく、それでも彼らを滅ぼしたくないという、愛と憐れみに満ちている神であることが分かります。また、神がイスラエルをエジプトから脱出させた始まりは、彼らイスラエルが、主なる神に助けて欲しいと叫んだからでした。 主は忍耐だけでなく、義なる正義の神であり、愛と憐れみに満ちた神であるということです。モーセは今までの経験から、主なる神のこのような素晴らしいご性質、また人格を、十分理解していました。また、叫び、求め、依り頼めば、それに応えて下さるということも。 そこでモーセは神の忍耐、愛、憐れみに訴えつつ、何とか自分たちと共に、カナンの地まで同行して下さるようにと訴えている、それが本日の箇所です。 モーセはこのように主なる神に言いました。「ご覧ください。あなたは私に『この民を連れ上れ』と言われます。しかし、だれを私と一緒に遣わすかを知らせてくださいません。私はあなたたちとは一緒に行かないと、主がイスラエルに対して怒りと不信を表しておられた時、それにも関わらず御使いを送ると主は語られました。しかしこの時点ではまた御使いが送られていませんでした。そこでモーセは御使いなり、誰かイスラエルに同行してくれる存在を、神に確認しました。しかしモーセは次にこのように語りました。しかも、あなたご自身が、『わたしは、あなたを名指して選び出した。あなたは特にわたしの心にかなっている』と言われました。イスラエルに同行してくれる存在を確認する中で主に語った言葉としては、何か不自然な言い回しです。おそらくモーセは、ここでこのような含みを持たせていると思います。「そもそも彼らイスラエルをエジプトから脱出させるために、私をリーダーに任命したのはあなたであり、それがあなたの御心ですよね。私はそのように信じています。」モーセはその確信を持ってさらに主に語りかけている。それが13節です。今、もしも私がみこころにかなっているのでしたら、どうかあなたの道を教えてください。そうすれば、私があなたを知ることができ、みこころにかなうようになれます。この国民があなたの民であることを心に留めてください。」「もしも私がみこころにかなっているのでしたら」とモーセは謙虚に言っていますが、主が自分を選ばれたこと。またイスラエルも神の民として選ばれていることを確信しています。だからこそモーセは、「この国民があなたの民であることを心に留めてください。」と、言うことができました。「イスラエルはあなたの国民です。だから彼らと一緒にカナンの地へと同行して下さい。」これがモーセの本当に言いたいこと、本音です。御使いではなく、主なる神ご自身が自分たちと一緒にいて下さる、すなわち「臨在」されるようにと執り成しています。しかしモーセのこの本当の願いに対して、神はこのように答えられました。主は言われた。「わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる。」これはモーセにとって素晴らしい約束です。モーセはかつて、反逆のイスラエルから何度も不平不満を言われ、挙句の果てには殺されそうになったこともありました。モーセは彼らを率いることに疲れ、「もう十分です。私を殺して下さい!」とまで主に訴えたこともありました。そこで以前のモーセであったならば、主が私と共にいて下さる。休ませて下さる。ありがとう、感謝します、となったでしょう。そこでモーセは、イスラエルを導く働きを終わらせていたかもしれません。しかしモーセはさらに執り成し続けました。 モーセは言った。「もしあなたのご臨在がともに行かないのなら、私たちをここから導き上らないでください。私とあなたの民がみこころにかなっていることは、いったい何によって知られるのでしょう。それは、あなたが私たちと一緒に行き、私とあなたの民が地上のすべての民と異なり、特別に扱われることによるのではないでしょうか。」 「あなたが私たちイスラエル民族を奴隷の地であるエジプトから導き出した時点で、イスラエル民族は特別な民とされています。そして彼らが特別な民とされている証拠が、しるしが、証が、あなたが共にいて下さるという、「臨在」です。だから他の民族とも区別されるように、いや、すでに区別されているイスラエルと共に歩んで下さい。彼らの罪を赦し、これからも導いて下さい。」とモーセは執拗に主に訴えます。その結果が17節です。主はモーセに言われた。「あなたの言ったそのことも、わたしはしよう。あなたはわたしの心にかない、あなたを名指して選び出したのだから。」モーセの執拗な執り成しは実を結びました。イスラエルは偶像を造って拝み、神との契約を破りました。神に対して罪を犯しました。その罪を、咎を、主なる神は赦され、これからもイスラエル民族と共に、約束の地であるカナンに同行すると約束して下さいました。モーセは主なる神が約束されたことを受けて、そのしるし-神の栄光-神だけが持つ主権、尊厳、力、輝き、人格、神が持っておられる素晴らしさの全てを求めました。神がその栄光を見せて下さるのであれば、私たちと共にカナンの地へと同行されることのしるしになる。神はモーセの求めに答えられました。しかし主の栄光を目の当たりにすると人間は死んでしまいます。そこで神の栄光の一部を「後ろ姿」という形でモーセに表すと語って下さいました。この時主はこのように語られました。「わたしは恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」これは主なる神の主権が表されていることばです。神が恵もうと思う者がいる。神が憐れもうと思う者がいる。そのような神の選びが表されています。イスラエルはまさに一方的に神の恵みの中で選ばれました。またイスラエルを赦してくれるようにモーセが執り成し、神はそれに答えられましたが、それは主なる神の恵み、憐れみでした。神はモーセの願いに応える必要はありませんでしたが、モーセに応えて下さいました。それはモーセもイスラエルも、主が恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思うものを憐れむ、という神の選び、神の主権、神のご計画があったからです。主なる神の主権と選び、恵みと憐みがあって、イスラエル民族は存続することができました。そしてイスラエルが存続し、滅ぼされなかったことを通して、救い主、イエス・キリストがイスラエル民族の中からお生まれになりました。イスラエルが滅ぼされなかったのも主なる神のご計画であり、モーセの執り成しに応えられたことも、主なる神の主権、恵み、計画があったからでした。 モーセはイエス・キリストのひな型、モデルであると言われます。モーセがイスラエルの民たちが滅びないように執り成し、祈り、主の怒りを宥めました。それはすなわち、イエス・キリストがされたことと同じです。神から離れ、反逆し、自己中心的に生きる、すなわち罪に生きる私たち一人一人を、神に赦して頂くように、父なる神に執り成し祈って下さいました。今も祈って下さっています。しかしモーセと決定的に異なるのは、ご自分の身をもって、堕落してしまった私たち人間のために、人類のために、ご自身の体、また全存在を通して執り成して下さったことです。それが十字架による私たち罪の身代わりであり、贖いです。 わたしは恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。主なる神は、一方的に選んで下さった私たち一人一人に、愛と恵みをもって日々導いて下さっています。そして私たちの主、イエス・キリストから、この恵みと憐れみがいつも私たちに注がれています。主なる神に、そしてイエスに感謝しつつ、神の恵みの中に共に生き、また、共に生かされていきたいと思います。 祈ります。「恵もうと待ち構えておられる主」 主は言われた。「わたし自身、わたしのあらゆる良きものをあなたの前に通らせ、主の名であなたの前に宣言する。わたしは恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」

2026/7/12(日)「第一の戒めは何ですか?」申命記4:35 庄司牧師

問42 第一の戒めは何ですか。 答「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない」ということです。(出エジプト記 20章3節) 聖書 “あなたにこのことが示されたのは、主だけが神であり、ほかに神はいないことを、あなたが知るためであった。” 申命記 4章35節 招詞 申命記7:9  あなたは、あなたの神、主だけが神であることをよく知らなければならない。主は信頼すべき神であり、ご自分を愛し、ご自分の命令を守る者には恵みの契約を千代までも守られる。                              月の第二日曜日です。本日も子ども信仰問答からお話をしていきます。前回の問41から、モーセの十戒に関することを見ています。 第一の戒めは何ですか?という問いの答えとして、出エジプト記20章3節から引用されています。「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。」この問いに対してさらに詳しく語られているのが申命記4:35節です。「あなたにこのことが示されたのは、主だけが神であり、ほかに神はいないことを、あなたが知るためであった。」 神に特別に選ばれた民であるイスラエル民族が、奴隷とされていたエジプトからどのように脱出し、どのように約束の地へと旅をして行くかという、出エジプト記の後の出来事が記されているのが、この申命記です。従って本日見て行く申命記4:35節は、イスラエル民族がエジプトを脱出した時にあった主なる神の介入や奇蹟、また荒野における主の守りと導きなど、出エジプト記に記されている、イスラエル民族の経験が元になっています。そして彼らイスラエルの経験した全ては、「主だけが神であり、ほかに神はいないということを知るための、分かるための、理解するための経験になった。」と、モーセは本日の35節で彼ら、イスラエルに告げています。 出エジプト記に描写されているイスラエル民族の歩みは、決して主なる神の御心に沿ったものではありませんでした。 彼らイスラエルは荒野において食べ物や飲み物のことで主に不平を言い、主を試み、また、主が選び、立てたリーダーであるモーセに反逆することによって、主なる神に逆らって来ました。しかし彼らの主なる神に対する不信仰、また不従順は、彼らに大きな代償を支払わせることになりました。 エジプトを脱出したイスラエルが向かった約束の地、カナンまでの直線距離は、出エジプトした時の場所、ラメセスから約200km〜300 kmです。敵を避けてカナンに向かって旅をしていったことから、実際はもっと長い距離を移動したのは事実ですが、本来であれば10日から数週間、1か月もあれば到着できる距離です。 しかし彼らは40年という長い歳月をかけて荒野をさまよいました。それは偶像礼拝や神への反逆など、彼らの不信仰、不従順に対する神からの罰でした。しかしそれでも主は、イスラエル民族の父祖となるアブラハム、その子孫であるイサク、ヤコブに約束されたように、今のパレスチナにあたる約束の地、カナンに彼らを導いて行かれます。 神は荒野での40年の間、彼らをカナンに導くために、敵から彼らを守り、マナをはじめとした、生きるのに必要な食べ物や飲み水などを与えて来られました。彼らが不信仰、不従順であっても、彼らを見捨てることはありませんでした。神は愛と慈しみに満ちておられるだけでなく、約束に誠実で、また忠実なお方であるということが分かります。このような神の愛と守りの中、彼らは40年をかけて、川を隔てたカナンの東側、すなわちヨルダン川の東にやって来ました。 イスラエル民族は、これからいよいよヨルダン川を渡ってカナンに地に入って行きますが、その前にモーセはもう一度、神が民と結ばれた契約を、改めて彼らに思い起こさせようとしています。申命記の「申」という文字は、もう一度、とか、再びという意味です。文字通りモーセは、神がイスラエルに与えられた生きる上での指針、ガイドラインである教え、掟、すなわち律法を、もう一度イスラエルに語り聞かせた、それが申命記です。 約束の地、カナンには先住民族がいます。また、彼ら先住民族が信じていた偽りの神々の存在もありました。敵を恐れず、また偽りの神々を彼らのように拝む、つまり偶像礼拝などから守られるためには、主だけが神であり、ほかに神はいないということを、カナンに入る前にもう一度イスラエル民族は確認する必要がありました。そのためモーセは、彼らに今まであった、そしてこれからも必ずあるであろう主の守りと導き、主なる神に従う者にある祝福を、カナンに入る前に思い出させようとしています。 そして本日の箇所、申命記4:35節です。 あなたにこのことが示されたのは、主だけが神であり、ほかに神はいないことを、あなたが知るためであった。「あなたにこのことが示されたのは」と記されています。これらのこととは、彼らイスラエル民族が40年にわたって体験して来た主の守り、導き、祝福です。神が約束されたカナンの地に、これから入っていこうとしている世代は、40年の荒野の放浪の中で不信仰ゆえに死に絶えてしまった人々の子ども、孫にあたる第二世代、第三世代です。彼らは神がモーセを通して偉大な奇蹟を起こされ、奴隷とされていたエジプトから脱出させて下さったこと。紅海が分かれてイスラエルはその中を進み、エジプト軍は飲み込まれてしまったこと。また荒野でのパン、すなわちマナが毎日降った奇蹟など、若い世代は殆ど経験していません。例え経験していたとしても、それは子どもの時であり、その記憶は定かではなかったでしょう。しかし彼ら若い世代は、両親などから、それらの様子を聞く機会がありました。彼らが語り聞かされて来たことは、神が教えられた掟と定めを守ることによって与えられる祝福と助け、逆に守られない時に起こる不幸、裁き、などだったでしょう。 そのようなイスラエル民族の歩みですが、荒野における主の守りと祝福が強調されている描写が2章にあります。2:7節です。2:7 事実、あなたの神、主は、あなたのしたすべてのことを祝福し、あなたの、この広大な荒野の旅を見守ってくださったのだ。あなたの神、主は、この四十年の間あなたとともにおられ、あなたは、何一つ欠けたものはなかった。イスラエルの荒野の40年の歩みにおける、主の守りと祝福の描写です。その祝福と恵み、主なる神の導きをあなたがた若い世代、次の世代のあなたたちは受け継いでいるのだ。その受け継いだ神の恵みと祝福を忘れず、生涯心から離すことなく歩みなさいとモーセは民に語りかけています。 さきほど、申命記4章は偶像礼拝に巻き込まれる危険性が記されているとお話しました。そしてこの4章には、偶像礼拝を憎悪する主なる神のことが、「ねたむ神」と表現されています。24節です。「あなたの神、主は焼き尽くす火、ねたみの神である。」前の訳では「ねたむ神だからである」と、記されています。主なる神は、主以外の偶像や、太陽、月、星などの被造物をもしイスラエルが拝むことがあれば、つまり偶像礼拝に対しては、焼き尽くす火のように怒りを燃え上がらせ、激しいねたみを覚えられる、ということです。 怒るとかねたむという感情は人間らしく、神にはあまり相応しくないように思いますが、それは主なる神がイスラエルのことを、ひいては私たち一人一人の人間を、本気で愛しておられることのしるしです。 本当に愛しているからこそ、自分の愛する者が、人間が勝手に作り出した神々や、神が造られた被造物を神として礼拝する、心奪われることに対して怒りやねたみを覚えられるということです。 新共同訳聖書、前の版の訳では、この「ねたみの神」または「ねたむ神」という表現に代わって、「熱情の神」と訳しています。神がイスラエルを、ひいては人類一人一人を、熱情をもって、情熱をもって本気で愛して下さっていることが伝わって来る翻訳です。そして主なる神は、イスラエル民族だけでなく、私たち一人一人をねたむほど愛されておられます。このイスラエル民族を導かれた神、ヤハウェなる神を、私たちは父なる神と呼んでいます。ねたむ神、私たちに熱情をもって接して下さる神は、私たちの信じている神と同じ神です。この主なる神、父なる神が、私たちをねたむほど愛するがゆえに、他の神々の下に行って欲しくない、従って欲しくない、そして主なる神の下で本当のいのちを持って生きて欲しいという願い、思い、熱情から、愛する一人子を私たちに与えるという計画をお立てになりました。そしてその計画を実践して下さったのが、私たちの主、イエス・キリストです。このイエスもまた、羊飼いのない羊のように、神を無視し、偶像に向かい、生きる意味や目的、神の愛を知らずに倒れている人々を見て、心から、はらわたがよじれるほどに憐れみを現わして下さる神です。どれほどの憐れみか。どれほどの愛か。その結晶が十字架であり、十字架に表されています。 かつてイスラエル民族が奴隷とされていたエジプトは、私たちが現在生きている世界、そして私たち人間の罪を象徴している世界です。エジプトの王、パロは、ただの人間でしたが、神と見なされ、自分も神のように振舞っていました。また、エジプトでは動物や天体などが神々となり、偶像礼拝が行われていました。権力を持つ者が神となり、また、人々も神以外のものを拝んでいる。 現代を生きる私たちの世界と全く変わりがありません。 しかしエジプトはその高慢なゆえに、また神にそむき、敵対するという罪ゆえに、神に裁かれました。 すなわち、神を無視し、神に背を向けて自分が生きたいように生きる先には、裁きが待っているということです。そしてそれは、現代を生きる私たちも同じです。 裁きとは、神から永遠に引き離されるという滅びです。 しかしこの罪、滅び、裁き、そこから来る死から脱出させて頂けたのが、私たちキリスト者、クリスチャンです。それはただ、イエス・キリストを救い主として信じた結果です。私たちが救われるために何か善行を積んだり、何か努力したという訳ではありません。それはただ、イエス・キリストにある恵みです。そして私たちはこの恵みのゆえに、エジプトに象徴されるこの罪深い世から、罪深い世界から脱出させて頂けました。そしてそれはただ、イエス・キリスト、私たちの主が成し遂げて下さった十字架の業、十字架を通しての贖いです。イエスが私たちの罪を全て背負って十字架につかれ、死なれ、葬られ、三日目に罪と罪から来る死を滅ぼして復活して下さいました。その復活されたイエスと私たちは一つにされています。前回、新約聖書、ヘブル人への手紙を引用しました。イエス・キリストは復活されて生きているだけでなく、その存在は永遠であるということです。「イエス・キリストは昨日も今日もとこしえに変わることがない」私たちの主、イエス・キリストは今も生きておられます。それも永遠に生きておられます。この永遠に存在されているイエスを信じるということは、永遠のイエスと一つにされることです。それは私たちキリスト者、イエスを主と信じた者が受けるバプテスマ、洗礼に表されています。このバプテスマは、イエスを信じる全ての者が、イエスと一つにされた、また、されていることを象徴的に表すものです。 洗礼の時、洗礼に与る者は、水に沈められます。それはイエスと共に罪に死ぬことの象徴です。そして水から上がることは、イエスが罪を滅ぼして復活されたその復活のいのちと一つにされる、復活のいのちに与ることを象徴しています。 従ってイエスが成し遂げられた罪と罪から来る死への勝利は、私たちイエスを信じる者たちにとっても勝利です。つまりイエスにあって私たちは、罪と、罪から来る死に勝利しています。そして永遠に生きておられるイエスと一つにされるということは、イエスを信じて歩む一人一人が、永遠に生きるということです。そして永遠に生きる歩みは、イエスを主と信じた時からすでに始まっています。イエスと共に永遠を生きる-別の言い方をすれば、それは神の子、神の家族とされることであり、神の国に入ることができるということでもあります。      礼拝の冒頭で、神からの礼拝への招きのことば、証詞を読んで頂きました。           申命記7:9 あなたは、あなたの神、主だけが神であることをよく知らなければならない。主は信頼すべき神であり、ご自分を愛し、ご自分の命令を守る者には恵みの契約を千代までも守られる。   私たちキリスト者にとっての主とは、イエス・キリストです。つまりイエスを自分の主人として信頼し、愛し、イエスの命令を率先して、自発的に、また喜んで守り従う者には、恵みの契約が千代、つまり永遠に続くという約束が、すでに旧約聖書に予表され、約束されています。そしてそれは私たちの行いや努力、善行を積むことなどに全く関係がない、ただ、神の、私たちの主、イエス・キリストにある恵みです。        旧約聖書、申命記に描写されている「ねたむ神、すなわち熱情の神」は、新約聖書において、私たちの主、イエス・キリスト、愛と憐みに満ちた神とイコール、同じ神です。私たちはこれからも旧約聖書と新約聖書の繋がりを意識していきたいと思います。そしてこの生きて働いておられる永遠の神と、人格的な交わりを持つことができるようになったこと、そしてこの神を通して救われていることを感謝し、神の愛、愛の神に日々応答していく者でありたいと願います。                                                             祈ります                                         問42「第一の戒めは何ですか?」                              答「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない」ということです。(出エジプト記 20章3節) 聖書 “あなたにこのことが示されたのは、主だけが神であり、ほかに神はいないことを、あなたが知るためであった。” 申命記 4章35節 申命記7:9 あなたは、あなたの神、主だけが神であることをよく知らなければならない。主は信頼すべき神であり、ご自分を愛し、ご自分の命令を守る者には恵みの契約を千代までも守られる。

2026/7/5(日)「ダビデの子か、それともメシアか」マルコ12:35~37 庄司牧師

イエスは宮で教えていたとき、こう言われた。「どうして律法学者たちは、キリストをダビデの子だと言うのですか。ダビデ自身が、聖霊によって、こう言っています。『主は、私の主に言われた。「あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで。」』ダビデ自身がキリストを主と呼んでいるのに、どうしてキリストがダビデの子なのでしょう。」大勢の群衆が、イエスの言われることを喜んで聞いていた。 (マルコの福音書 12:35-37 SKY17)  本日は12章35節から37節を見て行きます。35節の一つ前の節、34節にはこのように記されています。「それから後(あと)は、だれもイエスにあえて尋ねる者はいなかった。」前回見た箇所です。一人の律法学者が正直で真面目な態度でイエスに接し、律法の中でどれが一番大切であるかをイエスに問いました。それまでイエスに敵対する様々な宗教指導者たちが、入れ替わり立ち替わりイエスを陥れるための質問をして来ました。しかしイエスがあまりにも的確に、いやそれ以上の知恵を持って答えられる様子を見て、イエスの言葉尻を捕らえてローマ帝国に訴える、もしくは民衆の人気を失わせようとして来た他の宗教指導者たちが、ギブアップ、諦めた時の様子です。 ルカの福音書20:40には、「彼らはもうそれ以上何も質問する勇気がなかった。」と記されています。悪意ある質問によってイエスを陥れることよりも、その質問によってかえって自分が不利になる、面目を失う、だからもうあえて冒険はしない。彼らを黙らせるほどに、イエスの答えは彼らを驚嘆させたということです。それほどまでに彼らを論破してきイエスですが、今度は自ら彼らに質問されました。 35節。「律法学者たちは、どうしてキリストをダビデの子と言うのですか。」新共同訳ではこのように翻訳されています。「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。」新改訳ではキリストというところを、新共同訳では「メシア」と訳しています。 この35節は、新約聖書の原文のギリシャ語では「クリストス」と記されています。それを新改訳聖書では「キリスト」と訳しています。この「クリストス」もしくは「キリスト」という言葉は、旧約聖書の原語のへブル語、「メシア」という言葉が元になっています。新共同訳はこのヘブル語のメシアをそのままイエスに当てはめたということです。 このメシアということばの意味は、「油注がれた者」であり、救い主を表します。旧約聖書には、神によって王や祭司などの務めに任命された者は、そのしるしとして、油が注がれました。ですからメシアは神によって立てられ、任命された者ということであり、次第に神が遣わして下さった救い主を意味することばになっていきました。ですからイエスの時代、メシア、すなわちキリストと言えばそれは「救い主」という意味でした。それゆえ「イエス・キリスト」という呼び方は、「イエスこそキリスト、すなわち救い主である」という意味であり、それ自体が一つの信仰告白となって行きました。 またイエスという名前自体が、「神は救いである」という意味です。そして先程お話したイエス・キリストの「キリスト」ということばは、タイトル、称号でもあります。従って「イエス」という名前も、「キリスト」という称号も、共に神の救いが込められています。そして名前に込められた意味だけでなく、愛ある業、イエスが語られたことば、そして行った多くの奇蹟から、イエスは救い主、メシアとして、罪と罪から来る死から全人類を解放して下さるお方である。そのように信じるに足る多くの証拠、しるしをイエスは持っておられました。そしてイエスご自身が具体的に、旧約聖書を通して自らがメシアなる救い主であることを、ユダヤの人々が尊敬し、愛して止まないダビデ王を引き合いに出して、示そうとされました。それが36,37節です。ダビデ自身が、聖霊によって、こう言っています。『主は、私の主に言われた。「あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで。」』ダビデ自身がキリストを主と呼んでいるのに、どうしてキリストがダビデの子なのでしょう。」 この36節は、旧約聖書の詩篇110篇1節からの引用です。当時の人々はこの110篇をダビデの作と信じていました。イエスもその当時の共通認識に基づいて引用されています。そしてこの詩篇はメシア詩篇として有名であり、メシアが世界の支配者として君臨する様子を描いています。 詩篇110篇1節にはこのよう記されています。共に開きましょう。詩篇110:1節は、聖書の中ほど、旧約聖書P1053です。この110:1節を共に読んでみましょう。『主は、私の主に言われた。「あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで。」』これは主なる神が、救い主の勝利とそのご支配の確立を告げておられるところです。主は、私の主に言われたと、「主」という言葉が二度使われています。マルコ福音書の原文においては、両者は同じことばが使われていますが、詩篇の原文においてはこの二つは全く別のことば、単語が使われています。初めに記されている「主」は旧約聖書の原語のヘブル語で「ヤーウェ」あるいは「ヤハウェ」と読まれる、イスラエルの神のみ名を指す固有名詞で、太文字で表されています。私たちが父なる神と呼ぶお方でもあります。文語訳聖書ではこれを「エホバ」と訳していましたが、口語訳から「主」と訳されるようになりました。それに対して次に記されている「わたしの主」の方の「主」は、ヘブル語で「アドーン」と表記され、「主人」という意味の普通名詞です。太文字で表されていません。ですから引用元の詩篇を「主」の違いに注意して訳すのであれば、このようになるでしょう。「イスラエルの神ヤハウェが、私のご主人様にこうお告げになった。」この詩を歌ったのがダビデ自身だとすれば、ダビデ自身が、まだ見ぬ子孫、しかも自分からすれば子どもにあたる人物を、来るべき救い主として「わたしの主、わたしのご主人さま」と呼んだということになります。ダビデにとってのご主人となる「主」とは、メシアなる救い主、イエス・キリストです。またイエスは36節で、「ダビデ自身が、聖霊によって、こう言っています。」と語られました。つまりダビデのこのような告白は、聖霊から預言として受け取った告白である、ということをイエスは示しておられます。 系図の上では、イエスは実際にダビデの子孫としてお生まれになりました。新約聖書の始め、マタイの福音書の1章1節を見ると分かります。「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」 イスラエル民族の重要な父祖であるアブラハムから、彼らが愛し尊敬しているダビデ王を経て、イエスに至る系図です。 ルカの福音書3章にも、イエスがダビデ家の子孫であるヨセフの子どもとしてお生まれになったことが、記されています。そして補足するとすれば、このルカの福音書の3章の系図は、イエスから始まり、人類の始祖であるアダムにまで遡っています。 話を戻します。ユダヤの人々は、この詩篇110篇が、将来到来するメシアが預言されているものとして、誰もが知っていたような詩篇でした。そして彼らはこの詩篇が、特に敵に対するメシアの勝利の歌と考え、解放者なるメシアの姿を思い浮かべていました。イエスが人として歩まれた当時、ユダヤの人々にとっての敵とはローマ帝国でした。従って彼らユダヤの人々は、いつか救い主であるメシアが到来し、ローマ帝国を倒し、ローマから自分たちを解放してくれる。このような思い、願い、期待を、イエスの弟子たちも持っていたということを以前お話したことがあります。すなわち人々は、イエスが支配者であるローマから自分たちを解放して下さる、目に見える政治的・軍事的王としての姿を期待していました。しかしイエスはご自身が目に見える王ではなく、目に見えない霊的な領域を司り、また統べ治める者、救い主としてご自身を証されて来ました。つまり今まで間違って解釈されて来た詩篇110篇1節が、イエスによってようやく正しく理解され、説き明かされたということです。そして旧約聖書に記されている救い主到来の預言が、イエスを通して成就、実現した、ということができます。それはイエスを信じる者に与えられる罪の赦しであり、人間と神との関係の回復であり、永遠に続くいのちという霊的なものです。 イスラエル民族だけ、一民族だけに及ぶ回復や解放ではなく、全ての人類に及ぶ普遍的回復、解放です。 詩篇110篇1節は、天地を造り支配しておられる神が、救い主、イエス・キリストを通して全ての敵を打ち破らせ、ご自分の右の座に就けて下さったという、メシアなるイエスの支配が確立されたことを告げるみことばです。敵とはサタン、神に反逆し、人間を罪に陥れた悪魔です。また、人間がアダムとエバから受け継いでいる罪と、罪から来る死です。さらに罪は、私たちを神の恵みから引き離すものです。神から離れるという罪を犯した結果、私たち人間は人生において心配や恐れ、不安、悲しみ、絶望や争いなどが生み出されてしまいました。しかしイエスはそれら人間の不幸であり絶望の元となる罪を全て背負われ、それら罪と共に十字架に架かって下さいました。そしてその死と共に罪を葬りさり、その死から復活されることによって、人類の罪と、罪から来る悲しみ、痛み、絶望、そして死から勝利して下さいました。イエスは復活を通して、私たち人類に肉体の死を越えた新しいいのちを示され、死はもはや私たちを絶望させるものではなくなりました。そして復活された救い主なるイエスが天に昇り、父なる神の右の座に就いて下さったことを通して、イエスを信じる全ての人々が、イエスのご支配、すなわち神の恵みの下に置かれることができる、と言うことができます。 ところで皆さんは、バルティマイを覚えておられるでしょうか。このマルコの福音書10章の46節に登場する盲人、目が見えず、物乞いをしていた人です。当時のユダヤ人たちは、障害や重い病気などを患っている人は、本人か先祖が罪を犯した結果、その罪に対する神からの罰(呪い)を受けた者であると考えていました。ですからバルティマイのような盲人は、神から呪われた者として、人々から嫌悪されるような存在であり、誰も近寄って来ることはありませんでした。そのような彼ですが、人々がイエスのことを話していることを通して、イエスが自分の目を癒して下さると、イエスに望みを置きました。彼は道ばたから叫びます。「ダビデの子のイエス様、私をあわれんでください」と叫び始めた。多くの人たちが彼を黙らせようとたしなめたが、「ダビデの子よ、私をあわれんでください」と、ますます叫んだ。この時バルティマイはイエスをダビデの子と呼んでいます。バルティマイもまた、イエスのことをダビデの子孫と見なしていることが、この叫びにも表されています。そしてイエスは立ち止まり、他の人に彼を連れて来るように命じられました。イエスはバルティマイにお尋ねになりました。「わたしに何をしてほしいのですか。」並行箇所のルカの福音書によれば彼はこのように答えています。「主よ、目が見えるようにしてください。」 ダビデの子と叫んでいたバルティマイでしたが、イエスが自分の下に来られた時、「主よ、」という呼びかけに変わっています。バルティマイにとってイエスは、自分に全く関わりがない一支配者、一解放者である「ダビデの子」という世間一般に言われていた遠い存在でした。しかし彼は「主よ、」と呼びかけた時、イエスを個人的な神として、個人的なメシア、救い主として信じる、受け入れた瞬間でした。 そのバルティマイに対してイエスはこのように宣言されました。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救いました。」 イエスの宣言の後、このようなことが起こりました。その人はただちに見えるようになり、神をあがめながらイエスについて行った。これを見て、民はみな神を賛美した。これはルカの福音書の記述ですが、イエスは誰にも見向きもされないバルティマイに近寄られ、声をかけられ、実際に彼に手を触れられました。そして実際に彼を癒すことによって、イエスは夢も希望もない、半ば死んでいたような人を生き返らせ、新たに力と生きる希望を与えられました。それを見た回りの人々は神の愛、力、栄光を賛美しました。一人の人の癒やし、人生の回復は、他の人々にも及んでいくということが現わされている出来事です。この目が見えない人の人生の再生、回復は、イエスに信頼を置く、すなわちイエスを自分の主、救い主なるメシアとして信じ、受け入れた時から始まりました。加えて罪の赦しという永遠に関わる救いをも手にしたのが、バルティマイでした。 現代を生きる私たち一人一人も、このバルティマイのように盲目です。目に見えない神、目に見えない悪魔、目に見えない罪、目に見えない神の裁き、目に見えない永遠のいのちなど、霊的な事柄に対してです。そのことに気付くか。そのことを認めることができるか。私たちの永遠を分ける大きな気付きです。 ダビデは将来自分の家系から生まれて来ることになるメシア、イエス・キリストが救い主であることを、聖霊の働きを通してイエスがお生まれになる前から、すでに予知、預言していました。そして人々に蔑まれていたようなバルティマイもまた、イエスをメシアなる救い主として信じ、肉体的な目だけでなく、霊的な目も開かれ、永遠の救いを手にしました。私たちはどうでしょうか。 新約聖書、ヘブル人への手紙に、「イエス・キリストは昨日も今日もとこしえに変わることがない」と記されています。メシアなる救い主イエス・キリストは今も生きておられます。このイエスをダビデの子、聖書に記されている一支配者、一解放者、またはキリスト教を始めた始祖、倫理的に偉大な指導者などと取るか、それとも自分の主、「私の救い主」と取るか。現代を生きる私たちにの大きな違い、永遠に至る違いをもたらします。罪が赦され、神との関係の回復に至るか。そして神との関係の回復を通して、自分自身と他の人々との回復にも影響を与えるか。その違いはただ、イエスに信頼を置くか。イエスを信じて生きていくか。という決心、決断の違いだけです。 私たち人間に最も大切な決断-イエスを信じて歩んで行くという歩みを-今も生きておられるイエス・キリスト、メシアなるイエスが、日々導いて下さいますように。 祈ります 「ダビデの子か、それともメシアか」 ダビデ自身がキリストを主と呼んでいるのに、どうしてキリストがダビデの子なのでしょう。」大勢の群衆が、イエスの言われることを喜んで聞いていた。

ゴスペルカフェ可児 2026/7/3(金)

2026年7月3日に開催されたゴスペルカフェ可児の様子です。

小林伸司さん(Cb.)とトム兼松さん(Gt.)のコラボでした。

開場は教会近くのアトリエ・カフェ「樹の萌」です。

お越しくださった皆さま、ありがとうございました。