2026/3/15(日)「癒しよりも大切なこと」マルコ10:46~52 庄司牧師

2026年3月15日 マルコの福音書10:46~52 「癒しより大切なこと」
さて、一行はエリコに着いた。そしてイエスが、弟子たちや多くの群衆と一緒にエリコを出て行かれると、ティマイの子のバルティマイという目の見えない物乞いが、道端に座っていた。彼は、ナザレのイエスがおられると聞いて、「ダビデの子のイエス様、私をあわれんでください」と叫び始めた。多くの人たちが彼を黙らせようとたしなめたが、「ダビデの子よ、私をあわれんでください」と、ますます叫んだ。イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい」と言われた。そこで、彼らはその目の見えない人を呼んで、「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたを呼んでおられる」と言った。その人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。イエスは彼に言われた。「わたしに何をしてほしいのですか。」すると、その目の見えない人は言った。「先生、目が見えるようにしてください。」そこでイエスは言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救いました。」すると、すぐに彼は見えるようになり、道を進むイエスについて行った。

 マルコの福音書、10章の最後に記されている出来事です。本日の箇所において著者のマルコは、二つの大切なことを理解するようと、読み手に願っているように思います。 その一つは、イエスが私たち人間に仕えるためにこの世界に来て下さったこと。もう一つは、バルティマイのように霊の目が開かれ、大切なことを悟り、救われることです。 人に仕える大切さは、先週取り挙げたマルコの福音書10章45節において、イエスご自身が語られたことでした。
人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。
神の一人子であり、神そのものであるイエスが、「人間」となってこの世界に飛びこんで来て下さいました。イエスは父なる神の御心に100%、完全に従われました。それは贖いのためでした。
罪と死と、サタンの奴隷になっている私たち人間のために、イエスはご自分のいのちを、十字架で代価として支払って下さいました。しもべとして、徹底的に私たち人間に仕えて下さったのがイエスですが、そのしもべとして姿勢、姿・態度が、本日の聖書の箇所である、バルティマイの癒しにも表されています。

当時、宗教指導者であったラビなどは、歩きながら人々に教えていました。おそらくイエスもエリコの町において、歩きながら人々を教え、福音を語っておられたと思います。そんな中、盲目であるバルティマイが叫んでいます。 48節に、「多くの人たちが彼を黙らせようとたしなめた」とありますが、たしなめるということばは、「厳しく言う」とか、「非難する」という意味が含まれている強いことばです。「うるさい、邪魔だ!イエスが言っていることが聞こえないじゃないか!イエスが盲人のお前なんかを相手をする訳ないだろ!どうせお前の目は癒されない!」バルティマイに対して汚いことば、誹謗中傷などが飛び交っていたと想像します。当時のユダヤ人たちは、障害や重い病気などを患っている人は、本人か先祖が罪を犯したゆえに、その罪に対する神からの罰(呪い)であると考えられていました。ですからバルティマイのような盲人は、神から呪われた者として、人々から嫌悪されるような存在であり、誰も近寄って来ることはなかったでしょう。
誰も見向きもしない存在。誰も近寄って来ない存在。それがバルティマイでした。
バルティマイが叫んでいる騒然としている最中、イエスはどういう状況にあったでしょうか。
イエスご自身、緊迫している状況にありました。 イエスとイエスの弟子の一行がエリコの町までやって来ました。これからイエスが十字架に架けられるために向かって行くエルサレムから、わずか3,40キロほどしか離れていません。エリコの町から歩いて1日から2日かかかるというくらい、エルサレムに近づいて来ました。これから全人類の罪を十字架で全て背負って死ぬという、神からの、途方もない使命を全うする時が近づいて来ました。 イエスが一人の盲人に関わり合っている余裕は、肉体的にも、また精神的にもないような場面です。しかしイエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい」と、言われました。彼の叫びがイエスの足を止めました。彼の熱心が、イエスの足を止め、イエスを振り向かせました。そしてイエスは彼を癒されました。
このマルコの福音書では、信仰を通して彼が癒されたことが記されています。平行箇所のルカの福音書の18章においては、イエスがことばで命じることによってバルティマイは癒されています。また同じく平行箇所のマタイの福音書の20章においては、イエスが実際に彼の目に触れて癒しておられます。生きるための力も希望も喜びもなく、社会から排除されていたバルティマイのために、イエスは立ち止まり、声をかけ、体に触れられ、癒されました。
またマタイの福音書の20章には、「イエスは深くあわれんで」という、バルティマイに対するイエスの深い同情が描写されています。イエスは深く憐れみつつ、バルティマイに声をかけ、手で触れて癒されました。「私は仕えられるためではなく、仕えるために来た」とイエスは言われました。社会の底辺にいたようなバルティマイに対してもイエスは誠実に、また優しく振舞われました。ですからイエスのバルティマイへの対応は、イエスが仕えるために来たと言われたことが本当であり、偽りではないことの試金石、証となっています。 全ての人類、私たち全ての人間に仕えるために私たちの世界に来て下さった、それが私たちの主、イエス・キリストです。

著者のマルコが本日の箇所で強調したのは二つでした。イエスが仕えるために来たと語られたことが本当であったこと。そしてもう一つは、私たちの霊的な目が開かれ、救われることです。
なぜバルティマイが救われていると言えるのか。すなわち罪が赦され、神との関係が回復したのが分かるのか。 それはバルティマイが、癒された後にイエスについて行ったからです。バルティマイは目が癒された後、「道を進むイエスについて行った」と、最後の節である52節に記されています。 前の聖書訳は、「イエスの行かれるところについて行った」と訳されています。そのどちらの翻訳においても、バルティマイはイエスが行かれるところにはどこにでもついて行く、ついて行ったという含みがある表現です。イエスの後について行く、従って行くというバルティマイの意志、決意、イエスに対する強い信頼を感じさせる表現が使われています。バルティマイがイエスを自分の主、救い主であると信じなければできない行動であり、あり方です。また著者のマルコは彼の名前を記しました。彼の名前が聖書に載るということは、おそらく初代教会において、彼がキリストの弟子として活躍した可能性を示しています。この後聖書の中に彼の名前は出て来ませんが、名前が載っているということで、彼の活躍が暗示されていると言えるでしょう。
バルティマイは盲目であり46節を見ると、道端に座っていたと記されています。座っていたという時制を見ると、バルティマイはそこにずっと座っていたことが分かる時制です。つまり彼は長い間盲目であったため、物乞いをせざるを得ない状況だったということです。 もしかすると生まれつき盲目であり、彼の家族はすでに亡くなったか、または家族に捨てられてしまったということも考えられます。いずれにせよ彼が孤独だったことには変わりありません。しかしイエスに出会い、彼は肉体的な目だけでなく、イエスを知り、信じるという霊的な目も開かれました。それゆえイエスが神であり、救い主であるということを信じることが出来ました。 家族も、仕事も、地位も名誉も何も持っていなかったバルティマイは、神との関係が回復し、神の子とされ、神の家族に迎え入れられ、更にイエスの弟子としてイエスについていきました。彼の人生は大きく変わりました。人々に見下され、価値があるとは見なされない、何も持っていないような者が救いを受ける。イエスを信じることによる大転換、大逆転劇がバルティマイに起こりました。

イエスがこの世界におられた時、他にもイエスを知る機会があり、実際にイエスと接することができた人は、バルティマイだけではありません-大勢いました、
イエスに敵対していましたが、旧約聖書を教えていた民の指導者でもあった律法学者やパリサイ人たち。イエスに悪霊を追い出してもらった人々。病を癒してもらった人々。イエスの奇蹟を見、あるいは経験した多くの群衆などです。 その中にはバルティマイとは正反対の立場にあった、金持ちの青年も含まれます。彼は財産も高い地位も名誉も、人がうらやむ全てを持っていました。しかしイエスの下から立ち去っていきました。この青年をはじめ、多くの人々がイエスと接点がありました。もっとイエスを知ることも、さらに一歩踏み込んでイエスを信じることもできました。しかしイエスから立ち去って行きました。
聖書によれば、またイエスご自身が言われることばによれば、イエスと信仰によって繋がらなかった者は、イエスの贖いの代価に伴う罪の赦しや神の子とされる特権、永遠のいのちなどに与ることができません。神の国に入れる者と入れない者は、イエスを信じるか信じないかで決まります。

また、バルティマイが救われているという根拠は、彼の叫びにも表れています。彼はイエスのことを「ダビデの子」と叫びました。当時のユダヤの人々は、救い主、メシヤがダビデの子孫から出ると信じていました。バルティマイは、目は見えませんでしたが、耳は聞こえていました。彼は他の人々からイエスの噂や色々な御業を聞いてきた結果、イエスをすでに救い主であると信じました。彼の叫びから、また、イエスに呼ばれて踊り上がってイエスの下に来た、と言う描写からも明らかです。 イエスが自分のところに来て下さるだけで自分は癒される。そのような強い確信をバルティマイが持っていたことが分かります。そして彼はイエスを信じているがゆえに、癒しのチャンスを絶対に自分のものにしようとしました。しかし彼ができることは叫ぶことだけでした。それゆえ彼は自分の出来ること、イエスを信じる信仰を、叫ぶことを通して表明しました。 加えて彼の信仰とその確信は、上着を投げ捨てたことにも表されています。 この上着とは、普段着の上に羽織る厚手の布やマントのようなものです。多機能でした。昼間は寒さを防ぎ、夜は寒さを防ぐだけでなく、毛布の代わりになるような、特に貧しいに人にとっては命を守るほどに大切なものでした。それゆえ、バルティマイの持っていた唯一の財産であったと言えるものです。 この上着はバルティマイにとって、ただの上着ではありませんでした。生活の基盤であり、自分の全て、でした。これを投げ捨てる。まるでこれまでの自分を捨て、自分の持っているものをイエスに差し出す。
イエスに対する献身の現れにも見えます。

バルティマイのイエスに対する信仰、信頼、意志、決意、決断、献身の思いに、イエスはしっかりと応答して下さいました。イエスは52節においてこのようにバルティマイに語られました。
「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救いました。」この後すぐにバルティマイは癒されました。実際にバルティマイを癒されたのはイエスご自身です。実際に彼を癒し、同時に永遠のいのちを与え、滅びから救われたのはイエスご自身でした。しかしイエスは、彼自身の信仰が彼を、バルティマイ自身を救った-救いを彼の手柄としているほどに、彼の信仰を高く評価されています。イエスはバルティマイの信仰、決心、決断、意志、献身の思いに応えるだけではなく、彼の信仰を尊んでおられます。自分の持っている全てをかけてイエスの下にきたバルティマイに対する、イエスの愛と憐れみ、優しさが、バルティマイへの応答を通して豊かに表されています。

そしてバルティマイはイエスの行くところにはどこにでも、進まれるところにはどんな場所でもついて行くことになります。 こうしてバルティマイは数日後、十字架上で叫び声を上げられるイエスの姿を見ることになります。イエスに開いて頂いたその目で、自分の目を開いて下さったお方が十字架につけられる光景をしっかりと見たのです。自分のために足を留め、立ち止って下さったイエス。自分という存在を認め、肉体的な目を開いて下さったイエス。霊的な目も開き、永遠のいのちも与えて下さったイエス。 その愛すべきイエスが自分の罪の身代わりのために、人々の罪の身代わりのために十字架に架けられている。
この時バルティマイは、自分の存在の重みを感じたはずです。私のためにイエスは十字架に架かって下さるほど私を愛しておられる。私をそれほどまでに価値のある者なのだ。 感謝と痛みが、バルティマイの胸にあったと思います。

バルティマイだけではありません。私たちの信仰に応えて下さったイエス。私たちを高価で尊いと言って下さり、認めて下さったイエス。罪人である私たちを、私を憐れみ、愛され、ご自分を献げ尽くして下さったイエス。

この神の子、救い主であるイエス・キリストが、私たちの神、私の主になって下さったことを感謝しつつ、これからもイエスについて行く者、足跡に従う者でありたいと願います。
祈ります
「癒しより大切なこと」
そこでイエスは言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救いました。」すると、すぐに彼は見えるようになり、道を進むイエスについて行った。

ゴスペルカフェ可児 2026/3/6

ゴスペルカフェ可児 第5回は、川鰭さん(vo)、トム兼松さん(gt)のコラボでした。

来月、4月3日金曜日も楽しみですね!

2026/3/8(日)「自分の力でイエスを信じることができますか?」Ⅰコリント12:3b 庄司牧師

2026年3月8日 問39 あなたは自分で罪を悔い改め、イエスさまを信じることができますか。
「自分の力でイエスを信じることができますか?」
答 いいえ。聖霊が私たちの心にはたらいて、イエスさまを信じるようにしてくださるのです。
招詞Ⅰ ヨハネ4:3イエスを告白しない霊はみな、神からのものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていましたが、今すでに世に来ているのです。                                       
今週のみ言葉 コリント人への手紙第一12章3節b
聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。          
月の第二日曜日です。いつものように子ども信仰問答からお話をしていきます。本日はコリントにある(今のギリシャ)に向けて書かれた手紙です。著者はかつてキリスト者を迫害していたパウロです。彼はイエスを信じてから大きく変えられました。パウロは他の手紙で、自分のことを  「キリスト・イエスのしもべ、パウロ」と紹介していることからも分かります。イエスを自分の主人、自分はそのしもべ、奴隷であると認識している挨拶です。本日の聖書箇所も、主人としもべの関係が記されています。それは「イエスは主」と記されているからです。イエスを主と、自分の主人と呼ぶことが出来るのは、パウロを始めとして、イエスを信じる人々、つまり私たちも含まれます。本日の信仰問答の質問には、「自分で罪を悔い改め、イエスさまを信じることができますか。」とありました。悔い改めとは方向転換です。何からの方向転換と言えば、罪からの方向転換。 罪とは、言い換えれば自分中心です。神を無視し、時に神に敵対し、ただ自分だけに焦点を合わせて生きることです。自分の思い、願い、欲求など、自分のしたいことだけをする、自分が人生の主であるという生き方です。そこからの方向転換ですから、自分中心に生き、神から離れて生きているという罪に背を向け、イエスの方に向き直る。目を向ける。イエスの方に焦点を合わせていく姿勢、態度、そして生き方が、罪を悔い改める者に起こる、方向転換です。従って悔い改めとは、自分の罪を認め、イエスの愛と救いを受け入れ、新しい生き方へと踏み出す、深い決心、決意が込められていることばです。この宣言を心からするには、つまりイエスを自分の主と心から信じて告白することは、普通人間にはできません。それは、人間は自分が主、主人であるという生き方をしているからです。自分の生きたいように生きる。私たち生まれつきの人間は、そのような権利があり、そのような自由があると思っています。それは自分という存在が自分のものであり、自分自身に所属するものであると思っているからです。これは自分が「生きている」という状態です。しかしイエスが主という生き方は、主権が神に移ります。自分のいのちが、人生が、権利が、自由が…、神にある。自分の人生の主権を神が持っていると信じ、委ねて行く生き方です。ですからその生き方は、自分が生きるのではなく、神に、「生かされている」と言う歩みになっていきます。 人間はアダムとエバから続く罪を持っていますから、自分の力でそのような変化を生み出すことはできません。その力と転換をもたらすのはただ、神のみ、聖霊の力と導きです。また「イエスは主です」と言う告白は、イエスの33年間の公生涯において成された御業が、「私のためであった」と信じる告白でもあります。イエスが罪の身代わりに十字架で死なれた、それは私のためであった。そしてイエスが死者の中から甦られたのは、復活のいのちを私に与えるためであった。そのように信じ、受け入れるという信仰告白でもあります。 ですからイエスを主と告白する者は、すなわちイエスを自分の救い主であると信じ、イエスに従っていきたいと願う者は、おのずと生き方が変わっていきます。 これまで自分が自分の人生の主人として生きてきたことを止め、イエスの教えに従い、イエスが自分の人生を導いて下さると信じ、委ねていく人生となっていきます。従って「イエスは主です」という告白は、自らの全生活、全人生をイエスに委ねる、私たちキリスト者の根本的かつ最も短い宣言であり、信仰告白であると言えるでしょう。そしてこれは私たちの努力や行いにはよらず、神からのギフト、プレゼントであるということを、パウロは12章1節で述べています。さて、兄弟たち。御霊の賜物については、私はあなたがたに知らずにいてほしくありません。つまりイエスを主と告白できるのは、御霊、聖霊の働きであるのと同時に、これは私たちにとって賜物であるということです。賜物とは「贈り物」を意味します。受けるに値しない者に与えられる、神の一方的な好意です。神が、すなわちイエス・キリストが私たち人間に御霊を贈られたのは、私たちが御霊を通して救われて欲しいという願いからでもありますが、他にも理由、目的があります。そのことが7節に記されています。
皆の益となるために、一人ひとりに御霊の現れが与えられているのです。」 本日見ている12章には、具体的な御霊の現れが記されています。 ある人には信仰、癒し、預言などが、御霊の実際的な現れとして記されています。 コリントの教会は賜物が豊かに与えられている教会であったと、パウロはこの手紙に記しています。一方同時に、これらの賜物を誇っていた人々がいました。その結果、コリント教会に分裂、分派などといった問題が起こりました。コリント人への手紙は、そのような問題を起こしている人々に宛てた手紙でもあります。しかし本来賜物は、その賜物が与えられた人が自分を誇るためのものではなく、7節に記されているように、皆の益となるためだということを、私たちも心に留めておく必要があります。 これは霊的な賜物に限りません。その人の持っている能力、持ち物、経験、生まれから人格や性格などの違いも、皆が益となるためだと言うことです。
つまりキリストの体である教会が多様性に富み、豊かで、キリストの素晴らしさが表されるために、私たちはそれぞれが異なる能力や賜物が与えられ、教会に置かれている、合わされていると言うことです。そして教会が励まされ、徳が高められ、キリストの体が一致して建て上げられるためには、私たち一人一人が必要です。そのために神は、キリストの体である教会が建て上げられるために、私たち一人一人を招いて下さっています。 それゆえここにおられるお一人一人は、イエスに招かれ、イエスの体、可児キリスト教会を建て上げるために必要なお一人一人です。
この後、益田兄弟姉妹の転入会式が行われます。お二人にそれぞれ証をして頂きますが、この教会に来られるきっかけがいくつかありました。それは御霊、聖霊の導きであっただけでなく、イエスがお二人を-益田さん家族を-可児キリスト教会を建て上げるために招いて下さったと言うことができます。 感謝です。 キリストの体である可児キリスト教会を、これからも皆さんと共に、建て上げていきたいと願っています。
祈ります(聖霊、信仰、み言葉、イエスの十字架、復活、教会への招き、神のご計画)
あなたは自分で罪を悔い改め、イエスさまを信じることができますか。            
答 いいえ。聖霊が私たちの心にはたらいて、イエスさまを信じるようにしてくださるのです。
今週のみ言葉 コリント人への手紙第一12章3節b
聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。 

2026/3/1(日)「神の国を受け入れる」マルコ10:35~45 庄司牧師

2026年3月1日 マルコの福音書10:35~45「神の国を受け入れる」
ゼベダイの息子たち、ヤコブとヨハネが、イエスのところに来て言った。「先生。私たちが願うことをかなえていただきたいのです。」イエスは彼らに言われた。「何をしてほしいのですか。」彼らは言った。「あなたが栄光をお受けになるとき、一人があなたの右に、もう一人が左に座るようにしてください。」しかし、イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、自分が何を求めているのか分かっていません。わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができますか。」彼らは「できます」と言った。そこで、イエスは言われた。「確かにあなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることになります。しかし、わたしの右と左に座ることは、わたしが許すことではありません。それは備えられた人たちに与えられるのです。」ほかの十人はこれを聞いて、ヤコブとヨハネに腹を立て始めた。そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められている者たちは、人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。しかし、あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」( マルコの福音書10:35-45 )

今年のテーマは「神の国を受け入れる」です。前回、金持ちの青年のお話をしました。当時金持ちは神の祝福されている人、それゆえ救いに近い人だと思われていました。しかし彼は神よりも財産に執着したゆえに、神の国に入ることができないとイエスに指摘されました。
神、すなわちイエスが支配されておられる神の国の規準は、私たちの常識、価値観、規準とは「逆」「反対」であるという一つの例です。 本日の聖書箇所は、神の国の規準、すなわちイエスの規準が、人間の規準とは異なる最たるものです。共にみ言葉から見て行きたいと思います。
本日の聖書箇所は、弟子たちの願いから始まっています。
10:35 ゼベダイの息子たち、ヤコブとヨハネが、イエスのところに来て言った。「先生。私たちが願うことをかなえていただきたいのです。」イエスは人の心を見抜かれます。彼らの願いがどういうものであるかを御存知でした。しかしあえて彼らに願いを語らせました。
10:36 「何をしてほしいのですか。」心にあるものをことばに登らせることによって、イエスは彼ら自身が何を考え、何を願っているのかをはっきりさせました。しかし彼らが口に出したことは神の、すなわちイエスの規準の逆、反対のものでした。すなわち御心に適わない願いでした。
10:37 「あなたが栄光をお受けになるとき、一人があなたの右に、もう一人が左に座るようにしてください。」彼らは神の国を地上の王国のように考え、地上と同じような地位と栄光を求めました。主イエスが王となられる時に、自分たちを右と左に座らせてください、すなわち主イエスの側近く、最も高い地位につけてください、と願いました。ヤコブとヨハネは、他の弟子たちよりも偉くなりたいと思った訳です。 これを聞いた他の10人の弟子たちは腹を立てました。二人に出し抜かれたと思ったようです。彼らも権力や栄誉を求め、自分が最も偉くなり、イエスと共に高い地位につきたい、と思っていたことが分かります。かつてイエスの弟子たちは誰が一番偉いかと論じあっていたことがありましたが、全く変わっていません。それに対してイエスは38節で、
10:38 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、自分が何を求めているのか分かっていません。わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができますか。」
10:39 彼らは「できます」と言った。そこで、イエスは言われた。「確かにあなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることになります。
この杯とは何を指しているのでしょうか。イエスは十字架の直前、ゲツセマネの園でこのような祈りを献げられました。「父よ、もし出来るならばこの杯を私からとりのけて下さい」主イエスでさえ、断りたくなるような杯です。
旧約聖書、エレミヤ書、25章15節にはこのような神のことばがあります。まことにイスラエルの神、主は、私にこう言われた。「この憤りのぶどう酒の杯をわたしの手から取り、わたしがあなたを遣わすすべての国々に、これを飲ませよ。」従って杯とは、神の怒りが満たされているものの象徴であることが分かります。その怒りを飲ませるとは、神を信じない、神に従わない国々に、神の裁きが下るということが表されています。 先週出エジプト記を見ました。イスラエルが金の子牛を神として作り、崇め、不品行を行い、神に裁かれました。 しかし今の日本を見ても、また世界を見ても、イスラエルと全く変わりはありません。同じです。 偶像を作り、それを拝み、仕え、従っています。ですからイエスが言われる杯とは、神を信じない、従わない人類に対する神の怒りであり、その怒りは、罪ある全ての人間に向けられているということになります。
ではイエスが言われた、わたしが受けるバプテスマとは何を意味しているのでしょうか。イエスはルカの福音書の中でこのように語られています。ルカの福音書12:50 わたしには受けるべきバプテスマがあります。それが成し遂げられるまで、わたしはどれほど苦しむでしょう。
イエスが言われた受けるべきバプテスマとは、苦しみであることが分かります。そしてそのためにどれほど苦しまなければならないのか、というイエスの責任、義務、そして使命を感じさせることばです。 本日の聖書箇所には、私が受けるバプテスマと、神の怒りが満たされている杯とが結びついています。従って私が受けるバプテスマとは、杯、つまり神の怒りを飲む-すなわち神の怒りをその身に受ける、十字架の痛み、苦しみ、苦難を表していることが分かります。本来であれば犯罪者が架けられる十字架ですが、イエスは神の怒りを人類の身代わりに十字架で受け、その身代わりの苦難のことを、イエスは「私が受けるバプテスマ」と呼ばれました。
ですからイエスが「わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができますか。」ヤコブとヨハネに尋ねられた本当の意味は、あなたたちは神の怒りに触れることが出来ますか?
神の怒りに対して神と人との間に立ってとりなすことが出来ますか?神の怒りを宥めることができますか?神の怒りをその身に受けることができますか?そのように聞いておられるということです。途方もないことをイエスは二人に問われた。ヤコブとヨハネはもちろんそのようなことは分かりません。いや、どのような人間であっても分かるはずがありません。ですから彼らは分からず、その重大な意味を理解できなかったゆえに、簡単に「できます」と答えました。答えることができました。罪に対する、また神の怒りに対する人間の無知、理解の乏しさを弟子たちが代表し、また表していると言えます。 イエスは彼らの無知や無理解を承知の上で、「確かにあなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることになります。」と言われました。
それはイエスがあじあわれる十字架の苦しみとは比べることはできませんが、イエスのために、福音のために彼らが将来受けることになる迫害、痛み、苦難、そして死を予知、預言していることばでもあります。 実際に彼らは苦難や痛みをこれから経験して行くことになります。ヤコブはエルサレムで迫害のためにヘロデ王に殺害されて殉教します。(使徒12:2)そしてヨハネはローマ皇帝ドミティアヌスの迫害によって、パトモスという島に、島流しになりました。(黙示録1:9)
イエスはヤコブとヨハネの将来に起こることを踏まえながら、人間の願いと神のご計画が異なるということを40節で語られました。
10:40 しかし、わたしの右と左に座ることは、わたしが許すことではありません。それは備えられた人たちに与えられるのです。」このような名誉を意のままに与えることはイエスに任せられたのではなく、父なる神にのみ属するということです。 神の子であるイエスですら、父なる神の御心に、ご計画に従っている。そしてそれが人類の身代わりのための十字架である。従って自分の願いや計画よりも、神の御心、ご計画に従って生きることが一番大切である。栄誉や栄光を求めて生きることは重要ではない、ということをイエスは彼らに諭されています。 さらにイエスはここで、彼らが願っている栄誉、求めている栄光が、この世の規準、そして神を知らないで歩んでいる者たちと同じ-ここでは異邦人を代表させて-であることを42節で警告として語られ、そうあってはならない、そのように歩んではならないと43節、44節で語っておられます。
10:42 「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められている者たちは、人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。
10:43 しかし、あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。
イエスは異邦人世界の規準、すなわちこの世の規準と、神の国の規準、イエスご自身の持っておられる規準とを、明確に対比されました。それは自分のためではなく、他者のために仕え、尽くしていくことを使命とする生き方です。 さらに44節においてこのように語られました。
10:44 あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。
しもべとは、自分の身柄(仕事も生活も)が他者に属するいわゆる奴隷の意味です。従ってイエスは、神の国の価値観や生き方、規準はこの世のものとは全く反対で、偉い人、人の上に立ちたいと思っている人はむしろ徹底して仕えなさい。そして先頭に立つ者、支配者は、しもべのように、そして奴隷のように人々のために生きるべきだ、と言われました。 実際にイエスは、弟子たちに教えられたとおりに生きたお方です。45節にそのことが述べられています。
10:45 人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。
イエスの弟子たちがなぜ、仕える者の姿をとるべきなのかという理由、そして根拠が語られています。それはそもそもイエスが、仕えられるためにではなく、仕えるためにこの世に、この世界に来たからだ、ということです。そしてイエスが人々に仕えるためにこの世に来たということが具体的に表されているのが、「十字架」への歩みであり、また「十字架」で成し遂げられたことでした。
「十字架」への歩みと、「十字架」で成し遂げられたことをイエスはここで「贖いの代価」ということばを使って説明されておられます。
何度かお話していますが、贖いとは、戦争の捕虜や奴隷、負債者を解放するため、自由にするために、誰かがその人を買い戻すための身代金を意味します。「多くの人のため」とありますが、これは一部の人ではなく、人類を包括する、人類全てと理解して良いでしょう。イエスが人間として歩まれた今から2000年前の時代を超え、今を生きている日本人も、全ての国、民族も含まれます。イエスは、神を信ぜず、自分勝手に歩んでいる人間に対する神の怒りの杯を、十字架で全て受け止めて下さいました。またイエスが十字架で受け止められたのは神の怒りだけでなく、私たち人間の罪と、罪から来る死でした。さらにイエスは悪魔、サタンが人間の罪を足場にして、人間を奴隷にしているその私たち人間を、十字架を通して解放して下さるお方です。それら全てが十字架の贖いを通して成し遂げられました。 罪に束縛されている人間を解放し、神の怒りを宥め、またサタンの奴隷からも解放する業が十字架です。それもご自身が私たちを生かすためにしもべになり、奴隷となって仕えて下さったからです。 またこの45節には「贖い」という思想だけではありません。「いのちを与えるために来た」とイエスが語られた「いのち」にも深い意味があります。

「いのち」は、新約聖書の原語のギリシャ語で「プシュケー」ということばが使われていますが、いのちという意味の他に、魂、生涯、自分自身などを意味することばでもあります。 イエスは私たちたちを罪と死と、サタンの奴隷から解放するために私たちを贖って下さいましたが、その代価、すなわち私たち人類に捧げて下さったのはいのちだけではない-心、感情、意志などを含む魂、イエスの歩まれた全生涯、そしてイエスご自身。すなわちイエスは、イエスが持っておられるすべてを、私たちのために与え尽くして下さった、ということが表されていることばです。 そしてその全てが、十字架に集中、結集していると言えます。イエスの十字架の死は、「多くの人の身代金」としての、死でした。捕えられ、捕虜となっているのは私たちのことです。自分たちを右と左に座らせてくださいと願った二人の弟子たちも、それに憤慨した他の弟子たちも、そして人と自分とを見比べることによって一喜一憂している私たちも、すなわち罪の中に足を取られ、身動きできない私たち一人一人の人間のための、身代金でした。イエスが十字架に架かるほどに父なる神の御心に、またご計画に従順に従われました。それほどまでに私たち人間に仕えて下さったゆえに、今私たちはイエスの十字架の贖いを信じることによって罪赦され、神の子とされる特権に与ることができました。そしてイエスによって救われた私たちもまた、イエスが人々に仕えられたように、人に仕えていく者として召されています。どれだけ仕えることが出来るのか、他の人と比べてどうなのか、などということは問題にはなりません。不十分にしか出来ないかもしれませんが、それでも喜んで、感謝しつつ、自分に出来ることを通して人に仕えていく。イエスを模範として。
イエスの仕える姿は、この世、この世界の規準の逆、反対です。そしてその反対の規準にある神の国に、私たちはイエスを通して入れて頂けました。イエスに感謝しつつ、神の国、すなわちイエスの規準によって歩み、人々に仕えていくことができますように。
祈ります。
「神の国を受け入れる」
人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。

2026/2/22(日)「取り戻すために捨てる」出エジプト33:1~5 庄司牧師

2026年2月22日 「取り戻すために捨てる」 出エジプト33:1~6
主はモーセに言われた。「あなたも、あなたがエジプトの地から連れ上った民も、ここから上って行って、わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓って、『これをあなたの子孫に与える』と言った地に行け。わたしはあなたがたの前に一人の使いを遣わし、カナン人、アモリ人、ヒッタイト人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人を追い払い、乳と蜜の流れる地にあなたがたを行かせる。しかし、わたしは、あなたがたのただ中にあっては上らない。あなたがたはうなじを固くする民なので、わたしが途中であなたがたを絶ち滅ぼしてしまわないようにするためだ。」民はこの悪い知らせを聞いて嘆き悲しみ、一人も飾り物を身に着ける者はいなかった。主はモーセに次のように命じておられた。「イスラエルの子らに言え。『あなたがたは、うなじを固くする民だ。一時でも、あなたがたのただ中にあって上って行こうものなら、わたしはあなたがたを絶ち滅ぼしてしまうだろう。今、飾り物を身から取り外しなさい。そうすれば、あなたがたのために何をするべきかを考えよう。』」それでイスラエルの子らは、ホレブの山以後、自分の飾り物を外した。
今までの経緯を少し振り返ってみたいと思います。 イスラエルがまだエジプトで奴隷とされていた時に、主はモーセにこのように語られました。3:7,8をお読みします。後でお開き下さい。
主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみを確かに見、追い立てる者たちの前での彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを確かに知っている。わたしが下って来たのは、エジプトの手から彼らを救い出し、その地から、広く良い地、乳と蜜の流れる地に、カナン人、ヒッタイト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる場所に、彼らを導き上るためである。
神が約束された素晴らしい地であるカナン、現在のパレスチナと、そこに住んでいる民族が列挙されていますが、本日の聖書の箇所と同じです。 神はこの約束を守るためにリーダーとしてモーセを立て、実際に奴隷となっていたエジプトから、イスラエル民族を脱出させました。 神はまた、カナンの地にイスラエルを導き入れるために、この後彼らと契約を結ばれました。 その時の様子が以前共に見て来ましたが、24章に描写されています。「私の他に神があってはならない。偶像を造って拝んではならない。父と母を敬え、殺してはならない。犯してはならない。」など、10の教え戒めである十戒を中心とする教え、戒めがモーセを通じて伝えられ、彼らがそれを理解し、同意し、従うと決心してから結ばれた契約でした。この契約をもって神がイスラエルの神となり、イスラエルは神の民となるという特別な関係が結ばれた契約でもありました。
神と民の契約が結ばれた後、神はモーセをシナイ山に登らせました。さらにモーセに契約の細かい内容を伝えるためでした。それが25章から31章に記されています。 主なる神はモーセに全ての契約の内容を伝えると、最後に、契約のしるしとなる神の教えや戒めが記されている石の板を、モーセに授けました。その時の様子が31章の最後、18節に描写されています。
こうして主は、シナイ山でモーセと語り終えたとき、さとしの板を二枚、すなわち神の指で書き記された石の板をモーセにお授けになった。
モーセがシナイ山で主なる神から契約の内容を聞かされている時、山のふもとにいるイスラエルの民に起こった出来事が32章に記されています。悲惨な内容です。その出来事の結果、主なる神がイスラエルに決断されたこと、それも良くない、悲しい決断-が本日の聖書の箇所です。神がイスラエルにとって悲しい決断をされた背景は、イスラエルの民たちが犯した偶像礼拝でした。
モーセの帰りが遅い、どうかなってしまったのかと不安になったイスラエルの民は、自分たちを導く目に見える神を造るように祭司アロンに要求し、アロンは金の子牛の像を造りました。 人々はその金の子牛を神として拝み、その前で飲めや歌えの祭りを始めました。その最中にモーセが戻り、その様子を見て激しく怒りました。先ほど触れましたが、モーセが手にしていた石の板に記されている十戒には、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。あなたはいかなる像も造ってはならない。それらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない」と書かれています。 イスラエルの民はそれらの掟を既に聞いており、それを守ると約束しました。それゆえ神はイスラエルと契約を結んで下さったのです。しかしモーセが契約の印として石の板を神からいただいているまさにその時、イスラエルは金の子牛の像を造ってそれを拝むという、主なる神を裏切る罪を犯してしまいました。 この時モーセは、手にしていた石の板を砕きました。民が犯してしまった罪のために、神との契約が破綻-壊れ、台無しになってしまったということを表しています。この時神の怒りがイスラエルに向かって燃え上がり、彼らを絶ち滅ぼすとまで言われました。そこでモーセは神に執り成しました。罪を犯した民たちに代わって彼らのために祈り、神が下そうとしていた裁きが留められるように、神の憐れみを求めました。
神はモーセの執り成しの祈りに応えられ、金の子牛を拝んで、神に罪を犯した約三千人が主に打たれましたが、イスラエル民族全てが絶ち滅ぼされるという裁きは留められました。神は、罪は罪として本人に刈り取らせる義なる神であると同時に、情け深く、憐れみに富み、怒るに遅いお方であるということが表されています。
金の子牛を作って拝むというのは偶像礼拝であり、神との契約、約束を破る大きな罪でした。しかしイスラエルはそれまでにもずっと神を忍耐させて来ました。主なる神は、彼らイスラエル民族を、かつて奴隷とされていたエジプトからモーセを通して連れ出されましたが、その後、荒野におけるイスラエルの人々は、まさに主への不平、不満のオンパレードでした。しかし神はそのような彼らに対しても真実で誠実でした。 彼らイスラエルが、水がない!と言えば岩から水を出され、お腹が減ったと言えばうずらやマナ-天からのパンを降らせ、敵に攻撃されれば、その敵からも守って下さいました。 しかし彼らは神の真実、誠実さを裏切って金の子牛を作って拝むという、大きな罪を犯してしまう。彼らの自己中心的な身勝手さ、頑なで自分の思いに固執し、それを通そうと我を張る。神の御心をなかなか受け入れず、信じようとせず、従おうとしない、神からすればまことに扱いにくい、不従順な民であり、それは今に始まったことではない、ということです。 しかしそれでもモーセがいる間はモーセが神と民の間に立ち、仲介者、仲立ちをしてくれました。つまり彼らは神の御心を自ら求めるというよりも、モーセが言ったことに条件反射的に、もしくは仕方がなく従って来たという態度だったということです。その姿勢、態度が、モーセ不在の時に明らかになりました。 彼らに元々ある不信仰、不従順、自己中心性が、金の子牛を勝手に作り、神として礼拝するという偶像礼拝という形で露わにされ、明らかにされたに過ぎません。 そこで神は、彼らにショック療法を施されます。それが本日の聖書箇所です。
本日の聖書箇所の内容をまとめるならば、このようになるかもしれません。「私はあなたがたとは共に約束の地には行かない。もし一緒にいけば、あなたがたを滅ぼしてしまうかもしれない。私の代わりにあなたがたを導く御使い、天使は送る。しかし自分たち勝手にやりなさい。」
つまり本日の聖書箇所はある意味、イスラエルの民たちに対して愛想を尽かしている神がおられる、そのような場面です。 「民はこの悪い知らせを聞いて嘆き悲しみ」とありますから、主からの宣告はイスラエルにとってかなりのショックとなりました。
本日の出来事を、私たちが待ち望んでいる御国、神の国と関連させて想像して見て下さい。私たちクリスチャンが神の国に入ることができるのは、イエスが神であり、私たちの罪を赦し、神との関係を回復させて下さる救い主だと信じたからでした。 しかし私たちが自分の生涯を終えて神の国に復活の体を持って入る時、そこにイエスがおられなかったら。つまり神の気配も臨在もなかったならば。どんなに神の国が素晴らしくても神の国自身の意味も必要性も、価値もありません。
確かにイスラエルの民は不信仰で不従順でした。しかし神が共におられるということを経験してきました。出エジプトの時も、敵から守られた時も、必要な全てが与えられて来たことも。 彼らは神の臨在を肌で感じ、また経験して来ました。そしてそのショックは良い結果をもたらすことになります。 本日の聖書箇所において主なる神は、彼らに愛想を尽かしながらも、イスラエルの民を滅ぼすのではなく、以前約束されたように、彼らの祖先であるアブラハム、イサク、ヤコブに約束された土地に民を導こうとされています。しかし主ご自身はともに行かない、と言われました。その理由は神が聖なるお方であり、イスラエルの民の頑なさを見逃すことができないからです。もし彼らとカナンの地へと一緒にいて不正を見るならば、滅ぼさないではおられなくなる。神は民たちの罪を見逃すことはできない。そこで主なる神の代わりに、主の使いすなわち御使いが彼らを導くことになりました。しかし約束の地に導いてくれる御使いがどんなに偉大であり、また例え大きな力があっても、今までイスラエル民族を導いて来られた主なる神とは全く異なります。 神が自分たちとは共におられない-この時のイスラエルの人々の反応が4節に描写されています。民はこの悪い知らせを聞いて嘆き悲しみ、一人も飾り物を身に着ける者はいなかった。
彼らイスラエル民族は、これらの飾り物をどこから手にいれたのでしょうか。 この財産はイスラエルがまだエジプトで奴隷にされていた時、それも出エジプトの直前に得たものです。 神に言われた方法で、羊の血を家の鴨居と門柱に塗った者たち、すなわちイスラエル民族だけ、滅ぼす者が過ぎ去ってくれました。しかしそのことを知らなかったエジプトは、初子、すなわち初めに生まれた長男や長女、家畜に最初に生まれた子どもも含め、全て死んでしまいました。そして全エジプトで激しい泣き叫びが起こっている時に、彼らイスラエルはこのように行動しました。12章35節、36節にはこのように記されています。イスラエルの子らはモーセのことばどおりに行い、エジプトに銀の飾り、金の飾り、そして衣服を求めた。主はエジプトがこの民に好意を持つようにされたので、エジプト人は彼らの求めを聞き入れた。こうして彼らはエジプトからはぎ取った。
はぎとったとありますから、エジプト人は自分の思いを遥かに超えて、イスラエルの人々に自分の金品を与えた、与えてしまったわけです。そしてそれは主なる神から出たものでした。しかしこれらイスラエルの人々の財産となった金銀、装飾品などの財産が、金の子牛の像を作る材料になり、礼拝の対象、つまり偶像礼拝に繋がってしまいました。そこで神は、彼らの偶像礼拝の元となった財産を手放すように命じられた。それが5節です。
4節において、イスラエルの民たちは自発的に装飾品を外しました。しかしそれはあくまで神が共におられないということに対する悲しみであり、神の怒りに対する恐れなどといった感情でした。従ってこれらの行為は、神を信じ、受け入れ、従順に従っていくという信仰から出ているものではありません。あくまでも感情のレベルです。 そこで神は信仰の伴う悔い改め、すなわち神に立ち返るという方向転換を、目に見える行動を通して求められました。それが5節です。主はモーセに次のように命じておられた。「イスラエルの子らに言え。『あなたがたは、うなじを固くする民だ。一時でも、あなたがたのただ中にあって上って行こうものなら、わたしはあなたがたを絶ち滅ぼしてしまうだろう。今、飾り物を身から取り外しなさい。そうすれば、あなたがたのために何をするべきかを考えよう。』」あなたがたを絶ち滅ぼしてしまうかもしれないから、と、主はイスラエルの人々と共に行かない理由も述べておられますが、ここには同時に主の憐れみがあります。
今、飾り物を身から取り外しなさい。そうすれば、あなたがたのために何をするべきかを考えよう。
この彼らに対する主からの命令は「神のみ言葉への従順」を求めるものであり、自分たちの持っていた金や銀などが偶像礼拝の元になったことをしっかりと認識し、罪と認め、その元となった金銀、財産を自分から切り離して神に献げなさい、という命令でした。神から与えられたものですから本来は神のものであり、神にお返しすることになりますが、財産との決別という意志・決心を、行動をもって、神への献身を見える形で表しなさい、というものでした。彼らイスラエル民族は、神の悔い改めへの招きに、チャレンジ-挑戦に、憐れみと恵みに応答しました。さらにはモーセの執り成しの祈りもあり、神は「幕屋」と呼ばれるところに臨在され、モーセを介して会って下さり、イスラエル民族から離れたり、見捨てることはなされませんでした。 この幕屋は移動式のテントのようなものですが、神がイスラエルと出会う場所として、この33章に記されています。
そしてこの幕屋は、イスラエルの民たちが外し、献げた装飾品、つまり彼らの金、銀、銅などの財産が、神が住まわれる「幕屋」を作るための材料として、自発的に献げられたものから造られました。 つまり神が彼らに向けて悔い改めを命じられ、彼らイエスエルはその悔い改めへの招きに応答した結果だと言うことです。 イスラエルの不信仰、不従順、高慢の源になった金品を、神は罪の悔い改めの証としただけでなく、神が臨在される幕屋、すなわち、神のために、神の栄光のために、神が聖なる物へと変えて下さったということです。神の愛、忍耐、憐れみなど、神の素晴らしさが表されています。
神が共に行かないと言われた時、イスラエルは悲しみました。 私たちも神が自分から離れてしまっている、神が遠くに感じられるような時があります。しかし神は私たちを決して見捨てることはなさいません。 神は私たちが立ち直ることができるように、また、神に立ち返ることができる機会、チャンスを与えて下さるお方です。また同時に、私たちが神の御心からそれていかないように、いつも見守り、また実際的な導きをして下さるお方でもあります。
神がどんな時にも共にいて下さっていることを感謝し、今週も共に信仰の歩みをして行きたいと願っています。
祈ります。
「取り戻すために捨てる」(神との関係を取り戻すために、自分の執着しているものを捨てる)
それでイスラエルの子らは、ホレブの山以後、自分の飾り物を外した。
招詞 詩篇51:17
神へのいけにえは 砕かれた霊。打たれ 砕かれた心。神よ あなたはそれを蔑まれません。

2026/2/15(日)「先頭に立つイエス」マルコ10:32~34 庄司牧師

2026年2月15日 マルコの福音書10:32~34「先頭に立つイエス」
さて、一行はエルサレムに上る途上にあった。イエスは弟子たちの先に立って行かれた。弟子たちは驚き、ついて行く人たちは恐れを覚えた。すると、イエスは再び十二人をそばに呼んで、ご自分に起ころうとしていることを話し始められた。「ご覧なさい。わたしたちはエルサレムに上って行きます。そして、人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡されます。彼らは人の子を死刑に定め、異邦人に引き渡します。異邦人は人の子を嘲り、唾をかけ、むちで打ち、殺します。しかし、人の子は三日後によみがえります。」( マルコの福音書 10:32-34 SKY17 )

本日の聖書箇所は、十字架に架けられるということを、イエスが再び語られている箇所です。受難予告と呼ばれているものですが、その三回目の予告です。その予告が成就、実現されるべく、
イエスと弟子たちの一行は、十字架が待っているエルサレムに向かって行きます。一直線に進んで行きます。
それも弟子たちの先頭を切ってです。弟子たちはイエスの緊迫した表情、態度を読み取っていたのでしょうか。驚きと恐れをもってイエスについていきます。本日は三回目の受難予告ですが、では一回目の予告と、二回目の予告はそれぞれどのようなものだったでしょうか。少し振り返ってみたいと思います。 一回目の受難予告は8:31節に記されています。
「それからイエスは、人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。」
二回目は9:31節においてです。
それは、イエスが弟子たちに教えて「人の子は人々の手に引き渡され、殺される。しかし、殺されて三日後によみがえる」と言っておられたからである。
そして三回目の予告が本日の箇所です。
「ご覧なさい。わたしたちはエルサレムに上って行きます。そして、人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡されます。彼らは人の子を死刑に定め、異邦人に引き渡します。異邦人は人の子を嘲り、唾をかけ、むちで打ち、殺します。しかし、人の子は三日後によみがえります。」 三回目の予告にあって、一回目と二回目にないことば、それは「異邦人」ということばです。イエスご自身が異邦人に引き渡されると記されているのは、この三回目だけです。異邦人とは、ユダヤ人以外の民族のことを指しますが、実際にイエスを十字架に架けたのは異邦人であるローマ人です。
イエスにずっと敵対してきた律法学者たちやパリサイ人たちなどはユダヤ人でした。 彼らはずっとイエスを殺したいと願っていましたが、この当時ユダヤはローマ帝国の植民地であり、彼らが誰かを死刑にするというような権限は持っていませんでした。そこで彼らは民衆を扇動してイエスをローマ帝国、もしくはローマ帝国の皇帝に反逆する政治犯に仕立て上げ、ローマ人の手によって殺させようとしました。
それではこれから、本日の受難予告が全て成就、実現していくことを、共に見て行きたいと思っています。 もう一度10:34をお読みします。イエスはこのように語られました。「異邦人は人の子を嘲り、唾をかけ、むちで打ち、殺します。しかし、人の子は三日後によみがえります。」ここに「あざけり」、「唾をかけ」、「むちで打ち」とありますが、この先の15章において全て成就、実現しています。イエスが異邦人であるローマ人に、すなわちローマの兵士たちにあざけられる、かれかわれ、彼らから唾をかけられ、むちで打たれるといった全てが、15章に描写されています。後でお読み下さい。イエスが言われたことがあまりにも事実と合致するので、これは「事後預言」、つまり実際に事が起こった後にそれを見た者たちがその様子を記したのだ、という学者がいるほどです。しかしこのような描写であり預言は、旧約聖書の詩編やイザヤ書などにも見られます。

詩編22:7節にはこのように記されています。「私を見る者はみな 私を嘲ります。口をとがらせ 頭を振ります。」 またイザヤ書50:6節にはこのような描写があります。「打つ者に背中を任せ、ひげを抜く者に頬を任せ、侮辱されても、唾をかけられても、顔を隠さなかった。」 イエスの受難の預言です。 そして有名な、イザヤ書53章があります。こちらもイエスの十字架の苦しみの預言ですが、それは神の計画であり、イエスが神の御心に従順に従われたということが描写、預言されている聖書箇所です。その中の一つの節を引用します。イザヤ書53章10節にはこのように記されています。「彼を砕いて病を負わせることは主のみこころであった。彼が自分のいのちを代償のささげ物とするなら、末長く子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。」 彼、すなわちイエスが、代償のささげ物となった、ということが記されています。
代償とは身代わりであり、ささげ物とは生贄です。 旧約聖書には律法が記されています。神が与えられたものですが、人間が行うべき生活や信仰の指針、言わばガイドラインです。その律法の中に、動物の生贄によって人間の罪が赦されるという掟がありました。それは、人間の罪が赦されるためには、動物の血が流されなければならない。すなわち動物のいのちが人間の罪の身代わりに献げられなければならない。その動物の生贄なしでは人間の罪の赦しはないという掟でした。新約聖書、ヘブル人への手紙の9章には、律法に記されている生贄について、このように説明されています。9章22節「律法によれば、ほとんどすべてのものは血によってきよめられます。血を流すことがなければ、罪の赦しはありません。」
しかしこの先の10章において、動物の血、すなわち動物が人間の罪の身代わりになるには不十分である。ということが記されています。

そこで完全な生贄として、また神への献げ物としてこの世界に飛びこんで来て下さったのが、イエス・キリストでした。へブル人への手紙10章の5節と7節の一部を引用します。ですからキリストは、この世界に来てこう言われました。..『今、わたしはここに来ております。巻物の書にわたしのことが書いてあります。神よ、あなたのみこころを行うために。』」巻物の書とは旧約聖書のことを指します。旧約聖書は巻物に記されていました。 そして先ほど見た旧約聖書に見られる預言の通り、神の御心に従ってこの世界に来たとイエスは言われます。さらにへブル人への手紙の10章の10節には、このように記されています。「このみこころにしたがって、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけ献げられたことにより、私たちは聖なるものとされています。」イエスご自身が一度だけ献げられたとあります。そしてその方法が十字架でした。イエスが自分の罪のために、十字架で身代わりになって下さったと信じることによって、人は聖められる、つまり罪赦されるということが表されています。そしてそれは父なる神の御心でした。
動物の生贄は人間の罪の身代わりとしては不十分でした。しかしイエスは違います。十字架で一度だけ献げられるだけで十分である。動物の生贄と違って、イエスの生贄がいかに完全で完璧で、神の御心に適うものであったかが分かります。

先週「義」についてお話をしました。神の前に正しいとされる、正しいと認められることが聖書に記されている「義」という意味でした。また言い方を変えれば、それは救いです。
人はイエスを信じることによって罪赦され、神の前に正しいと認められます。 そして罪が赦されているということは、永遠のいのちが与えられているということですから、それは救われていると言うことができます。 ですからイエスを信じて義とされることと、滅びから救われているということは、それぞれの持つことばの正確な意味は異なりますが、イコールの関係です。

そして私たち人間が神の前に義、正しい者とみなされ、救われるためには、イエスの十字架がどうしても必要です。なぜなら、イエスは私たち人間がどうしても解決できない罪を全て、十字架で身代わりに背負われたからです。「身代わりに背負われた」とは、難しいことばで言えば「贖い」でした。 このことも先週お話しました。 贖いとは、もともと商業用語、ビジネス用語であり、「買い取る」という意味でした。 (そしてこれは当時における文脈ですが)市場などに行って、他人の所有物である奴隷などを、代価を支払うことによって自分のものにする、というような意味でした。イエスは罪の奴隷となっている私たち人間を、ご自身のいのちをもって買い取られ、私たちを罪の奴隷から解放して下さるお方です。

またイエスの受難の告知は、並行箇所のマタイの福音書とルカの福音書にも記されています。
そしてそのルカの福音書の18章には、受難告知における弟子たちの反応が記されています。そこには弟子たちが霊的に盲目であるという、すなわちそれは私たち人間の姿でもありますが-表されています。弟子たちには、これらのことは何一つ分からなかった。彼らにはこのことばが隠されていて、話されたことが理解できなかった。ルカの福音書18:34 イエスからじきじきにことばを聞いて来た弟子たちさえこうです。 彼らは漁師に必要な舟も、網も、家族も、イエスに付き従い、福音を宣べ伝えるために後に残して来たような信仰者であり、献身的な人間たちです。そのような人間たちですら、イエスの言われた十字架と復活のことが理解できない。 つまり私たち人間が、どれだけ神の真理や霊的な事柄に対して盲目であるか、ということです。 真理も霊的な事柄も分からない人間は、前回見た金持ちの青年のようになってしまう可能性が高いと言えます。すなわち富、財産、名誉など、自分の目に見えるもの、感じることができるものに頼り、いつしかそれらから逆に支配され、奴隷とされてしまう。イエスを信じることによって罪が赦され、神の子、神の家族の特権とされることと比べれば、遥かに価値のないものに執着してしまう。そのような弱さが人間にあるということです。そしてその先は、神との永遠の別離、すなわち滅びです。イエスは本日の10:34節を、これから起こる預言として語られました。異邦人は人の子を嘲り、唾をかけ、むちで打ち、殺します。しかし、人の子は三日後によみがえります。」ここに「しかし」とあります。どんでん返し、大逆転が表されています。イエスは十字架の死で終わりませんでした。イエスの十字架の死の先には復活があります。イエスは三回にわたって弟子たちに死から甦る、復活するということを語って来られましたが、弟子たちの耳にも心にも入りませんでした。私たちも「受難予告」ということばを使います。実際に私も使っています。しかしイエスのことばを見るならば、そこには「しかし」ということばにつづく復活が、確かに、はっきりと示されています。 過去二回の受難予告においてもそうでした。私は苦しめられ、殺され、そして甦る。従って実際は、「受難予告」よりも、「受難と甦りの予告」と言い換えた方が正確な言い回しです。 しかしペテロも弟子たちも、イエスのことばを私たちと同じように「受難予告」として受け取ってしまいました。死んで終わりだということです。しかし人間を罪と死とサタンから解放する十字架の御業は、イエスの勝利の御業です。ですからイエスがエルサレムに向かって行くということは、罪と死と、サタンへの勝利のための、栄光に満ちた行進であると言うことができます。そしてもしイエスを、十字架を通しての勝利者として弟子たちが捉えていたのであれば、イエスが先頭を切って進んで行かれる時に、彼らに驚きや怖れ、不安を覚えることはなかったかもしれません。

本日の出来事の後、イエスの弟子のヤコブとヨハネがイエスに頼み事をします。再来週の聖書箇所です。「あなたが栄光をお受けになるとき、一人があなたの右に、もう一人が左に座るようにしてください。」自分たちが右大臣、左大臣になりたいと願っているということは、イエスを政治的な王として捉えていたということです。しかしこの時、他の弟子たちがこの二人に腹を立てていることから、彼らも同じことを考え、願っていたことが分かります。 霊的に盲目なだけでなく、自分の利益しか考えられないようなイエスの弟子たち。そしてこの姿、態度は、同じく霊的に盲目であり、自己中心的な私たち人間の姿を表していると言えます。 しかしそのような弟子たちの前を、すなわち罪深い私たち人間の先頭を切って、十字架への道を進んで行かれるイエスがおられます。 そしてその栄光の行進は、私たち全ての人間が持つ罪を身代わりに背負うための十字架であり、罪と死とサタンを打ち破って甦る復活のためでした。

最後に、ガラテヤ人の手紙1:4節を引用して、本日のみ言葉の取り次ぎを終わりたいと思います。
キリストは、今の悪の時代から私たちを救い出すために、私たちの罪のためにご自分を与えてくださいました。私たちの父である神のみこころにしたがったのです。
祈ります
「先頭に立つイエス」
さて、一行はエルサレムに上る途上にあった。イエスは弟子たちの先に立って行かれた。弟子たちは驚き、ついて行く人たちは恐れを覚えた。すると、イエスは再び十二人をそばに呼んで、ご自分に起ころうとしていることを話し始められた。

ゴスペルカフェ可児 2026/2/6

ゴスペルカフェ可児 第4回のゲストは、勝野さん(sax)、伊佐治さん(ds)、トム兼松さん(gt)のコラボでした。

来月、3月6日金曜日も楽しみですね!

2026/2/8(日)「イエスを信じる他に何か必要ですか?」ローマ書3:28 庄司牧師

2026年2月8日 問38 救われるために、イエスさまを信じるほかに何か必要ですか。
イエスを信じる他に何か必要ですか?
答 イエスさまを信じるほかに、何も必要ではありません。私たちは、ただイエスさまを信じることによって義と認められるからです。
聖書「人は律法の行いとは関わりなく、信仰によって義と認められると、私たちは考えているからです。」ローマ人への手紙 3章28節
招詞 ガラテヤ人への手紙3:26
あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神のこどもです。
本日の聖句に入る前に、少し考えて頂きたいことがあります。本日のテーマに関係しています。皆さんは「平和」と「和平」の違いをご存知でしょうか?文字がひっくり返っているというだけでなく、違いがあります。このように説明されています。「平和(へいわ)」は「争いがなく穏やかな状態」を指すのに対し、「和平(わへい)」は「争いをやめて平和な状態へと移行する過程や、そのための仲直り」を意味する。 平和は穏やかな「状態」であり、和平はその穏やかな状態へ変化していく過程である。 従って世界中の人々は、戦争や争いごとがなく、世の中が穏やかで安らかな状態である平和を願っている訳です。ですから戦争など、国々が争っていれば、平和の状態になるために、当事者の国同士が仲直りをする必要があります。そのための話合いや働きかけが和平であると言えます。 そのための実際の話合いや働きかけが、「和平交渉」とか、「和平協議」などと呼ばれます。 平和を願っている私たち人間ですが、平和をもっと願っている存在があります-神です。神は争っている全ての人々が平和になれるよう、和平への働きかけをしておられます。 では誰と誰が争っているのでしょうか?人間と人間もそうですが、もっと大きな根深い争いがあります。それは人間と神です。しかしそれは人間からの一方的な神への挑戦であり、争いであり、戦いです。いつからこの戦いが始まったのでしょうか? それは聖書の初めの書簡、創世記に記されています。人類の祖先であるアダムとエバから始まりました。
人間が一方的に神と争っている。そのことを思い巡らしている時、一つの出来事を思い出しました。                    
大学時代に動物病院でアルバイトをしていた時があります。ある時、きっかけは覚えていませんが、スタッフの人と戦争と神についての話になりました。彼女はこのように言っていました。「神がもしいるとしても、それは戦争が起こることを許しているような神だ。そんな神は信じたくない。」この時私はまだイエスに対する、神に対する信仰がありませんでしたから、「確かにそうだなぁ。」と思ったことを覚えています。 しかしこれは一種の責任転嫁です。人間が神と争っている一つの現われです。なぜなら戦争を起こしているのは人間同士だからです。 神が起こした訳ではありません。人間が持つ、自分は正しいという自己主張と、相手のものを分捕っても良いという欲望から来ています。
それではここで、聖書に目を向けて見たいと思います。聖書に登場する人物の中で、最も神に敵対し、最も神と争った人間は誰でしょうか? それはこのローマ人への手紙を書いた、パウロではないでしょうか。パウロは別の手紙、牢獄の中で書いたピリピ人への手紙の中で、自分の過去をこのように振り返っています。私は生まれて八日目に割礼を受け、イスラエル民族、ベニヤミン部族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法についてはパリサイ人、その熱心については教会を迫害したほどであり、律法による義については非難されるところがない者でした。(ピリピ人への手紙 3:5-6 ) 本日の聖句にも「律法」ということばが出て来ます。律法とは神が人間に与えられた、人間が守るべき教え、戒めです。十戒を始め、旧約聖書に記されているものです。パウロは「律法による義については非難されることがない者だった」と、自ら述べています。 パウロは旧約に記されている神の教え、戒めを努力して守ることにより、神に受け入れられようと、認められようと頑張っていた人物です。その結果、律法を守っていないどころか、十字架につけられた犯罪者と見なされていたイエスを神と信じている連中、キリスト者がどうしても許せませんでした。そこで彼はキリスト者を迫害していた訳です。自分の思いと力で律法を努力して守り、その反動からキリスト者を迫害していた人物が、パウロです。それは同時に、パウロ自身も気づいていませんでしたが、神に敵対し、神と争っていたということです。 そのパウロが、律法を守ることによっては「義」とされない。つまり神の前に正しい者と認められない、ということを悟りました。 なぜ悟ったのか。分かったのか。気付いたのか。それは個人的にイエスに出会い、個人的にイエスを神-罪を赦す救い主であると信じ、受け入れたからです。その時の様子は、新約聖書、使徒の働きの9章に描写されています。
この律法の限界を知ったパウロがなぜ、人間が神に義と認められる必要があると、本日の手紙の中で述べているのでしょうか?それは人間と神との関係が壊れ、人間と神が断絶してしまっているからです。 そして壊れてしまった人間と神との関係の原因は、人類の祖先であるアダムとエバが神に反逆し、神から離れ、罪を犯したのが原因です。 現代を生きる私たちもまた、アダムとエバの罪を、そのまま受け継いでいます。 罪によって、神の規準も、愛も、正義も、神との関係も失ってしまっています。 パウロは自分が律法をいのちがけで守って来たと言う経験を通して、人間がどんなに律法を守っても、あらゆる努力をしても、善行を積んでも、神の前に正しいとは認められない、神と断絶している溝、ギャップを埋めることは出来ないと、イエスに出会うことによって悟りました。そしてパウロは、神の前に義と、正しいと認められるには、「信仰」によってでしかない。その信仰はイエスを信じる信仰でなければならない、と、本日の手紙の中で、再三再四述べています。イエスに対する信仰を通して神の前に正しいとされる「義」について、パウロは「贖い」ということばと共に、その関係を説明してくれています。それが本日の聖句の少し前、23,24節に記されています。すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。( ローマ人への手紙 3:23-24 ) 私たちが神の前に義と認められる、正しいと認められるその根拠が「キリスト・イエスの贖い」であるとパウロはここで述べています。
贖いとは、もともと商業用語です。「買い取る」ということです。市場に行って、例えば他人の所有物である奴隷などを、代価を支払うことによって、自分のものにすることを意味します。
旧約聖書の中で例を挙げるならば、神がイスラエルをエジプトから救い出されて、ご自分の民とされた時、「わたしはあなたがたを贖った」と言われています。 新約の時代に入ると、イエス・キリストが、罪の奴隷となり、神に敵対し、神と争っている私たちのところに来てくださいました。そしてご自分のいのちを代価として払ってくださり、イエスを信じる全ての人々を、神のものとして下さいました。これが「贖い」です。 神の前に義と、正しい者と認めて下さいました。このことを「平和」と「和平」ということばにそれぞれ当てはまるならば、イエスの十字架が和平への道、方法であり、そのイエスの和平を受け入れた者に平和が訪れるということです。
和平の中身は「私はあなたの罪を十字架で身代わりに負った。あなたはそれを信じますか?受け入れますか?」という問いかけです。それを信じるか、それとも拒絶するかの選択が、私たちにあります。そして信じる者は全て、金持ちも貧乏も、男も女も大人も子どもも関係なく、神との平和を手にすることができます。 すなわちそれが、神の前に正しいとされる義であり、救いです。 神から一方的に離れ、敵対し、神と争っている罪ある人間は、本来神の愛を受ける取る価値も資格もありません。 私たちが神から好意を得られるようなものは、何一つありません。しかし神は私たちが神の前に義とされる、すなわち正しいとして下さる道,、方法を、イエスの十字架を通して与えて下さいました。それが神の恵みです。恵みとは本来、受けるに値しない者が受ける神からの愛や慈しみ、祝福であり平和です。神は私たちにいのちと成すべき使命を与えられたお方、主権者です。しかし人間は神の約束や期待を破り、裏切りました。つまり神は被害者であり、私たち人間が加害者だと言うことです。しかし神は被害者でありながら、本来であれば私たち加害者がしなければならない償いを、すべてご自分でしてくださいました。 自分の怒りを、ご自分のひとり子に下し、私たちをキリストにあって、傷のないもの、汚れのない者、責められるべきところのない者とみなして下さいました。私たちは神の前に謙り、イエスを通しての尊い贈り物である「救い」を、感謝して受け入れて歩むことができます。しかしイエスを信じて受け入れることがなければ、自分のものにはなりません。 信仰だけが、人間のためになされた神のみわざを受け取る通路です。 同じ3章の21節で、パウロはこのように記しています。「すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。そこに差別はありません。」神のみわざ、すなわち十字架を通しての救いに結びつくものは、ただ信仰だけです。 もし「信仰」ということが分かりににくいと言うことであれば、「神のみわざを全面的に受ける態度」とも言えますし、「神の真実に対する応答」と言っても良いでしょう。
イエスが私たちに与えて下さった和平への道、方法が十字架でした。そしてそれを受け取る全ての者に、神との平和が与えられます。神との平和を持つ者は、他の人との平和も持つことができます。全ての人々がイエスを受け入れ、神との平和に導かれるならば、戦争はなくなるでしょう。
神との関係が回復、修復することが、私たち人間にとって一番大切です。その平和は、イエスを信じることによって与えられる永遠のいのちと共に、永遠に続く神との愛の関係でもあります。
私たちに十字架の贖いを通して「義」と「救い」の道、方法を示され、また与えて下さったイエスに感謝しつつ、お祈りしたいと思います。 
祈ります。
救われるために、イエスさまを信じるほかに何か必要ですか。
答 イエスさまを信じるほかに、何も必要ではありません。私たちは、ただイエスさまを信じることによって義と認められるからです。ローマ人への手紙 3章28節
「人は律法の行いとは関わりなく、信仰によって義と認められると、私たちは考えているからです。」
招詞 ガラテヤ人への手紙3:26
あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神のこどもです。 

2026/2/1(日)「いのちの保証」マルコ10:23~31 庄司牧師

2026年2月1日 マルコの福音書10:23~31 「いのちの保証」
イエスは、周囲を見回して、弟子たちに言われた。「富を持つ者が神の国に入るのは、なんと難しいことでしょう。」弟子たちはイエスのことばに驚いた。しかし、イエスは重ねて彼らに言われた。「子たちよ。神の国に入ることは、なんと難しいことでしょう。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。」弟子たちは、ますます驚いて互いに言った。「それでは、だれが救われることができるでしょう。」イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことです。しかし、神は違います。神にはどんなことでもできるのです。」ペテロがイエスにこう言い出した。「ご覧ください。私たちはすべてを捨てて、あなたに従って来ました。」イエスは言われた。「まことに、あなたがたに言います。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子ども、畑を捨てた者は、今この世で、迫害とともに、家、兄弟、姉妹、母、子ども、畑を百倍受け、来たるべき世で永遠のいのちを受けます。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になります。」( マルコの福音書 10:23-31 SKY17 )
若くて金持ち、指導的立場にある人が、永遠のいのちを受け継ぐためにイエスの下に来ました。先週共に見て来たところです。 彼が知りたかったのはその「方法」でした。つまり自分の行いで、自分の力で、永遠のいのちを勝ち取ることができる方法を、彼は手に入れたかったのです。しかし彼の予想に反してイエスはこの青年に、いのちを受け継ぐためには持っている富を手放すようにと言われました。彼からすればそれは予想外であり、逆のことでした。彼は行いによって富や財産を得るという経験をして来ましたが、永遠のいのちに関しては逆に手放さなければならない。 結局彼は自分の富を手放すことばできず、悲しみながらイエスの下を去って行きました。 この青年を見ながらイエスが弟子たちに向かって語られたこと、それが本日の箇所です。
今年のテーマは「神の国を受け入れる」です。神、すなわちイエスが支配されておられる神の国の規準は、この青年だけでなく、私たちの常識、価値観、規準とは「逆」「反対」のことが多くあります。私たち人間が良いものとして、また素晴らしいものとして信じているものが、神の国の規準に照らし合わせてみると、すなわちイエスの規準で見ると、実はそうではないということが多くあります。この規準をみ言葉から知る時、時に感動し、時に自分にはできないと打ちのめされます。しかし神の国の規準、すなわちイエスの規準を受け入れ、従い、実行して行く時、それは喜びになり、感謝が生まれます。 今年、そのような歩みを共にすることができたらと、願っています。
イエスは金持ちの青年が去っていくのを見ながら、弟子たちにこのように語られました。「富を持つ者が神の国に入るのは、なんと難しいことでしょう。」 この時弟子たちはイエスのことばに驚いています。 なぜ弟子たちはイエスのことばに驚いたのでしょうか? 当時ユダヤ人は、物質的繁栄を神からの祝福のしるし、富の所有を徳と考えていたようです。それゆえ彼らは、富んでいる者は、神の救いに最も近いと考えていました。ところがイエスは、富める者が神の国に入ることの難しさを指摘されましたから、弟子たちが驚いたのは当然です。彼らにとってこれは全く「逆」「反対」の発想です。彼らの常識にも価値観にも規準にもない、新しい教えでした。驚く弟子たちに、イエスは重ねてこのように言われました。「子たちよ。神の国に入ることは、なんと難しいことでしょう。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。」イエスが重ねて言われた、「金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しい」 このことばを聞いて弟子たちはさらに驚きました。それは、子どもでも入ることができる神の国に、裕福で、道徳的にも熱心な青年が入れない。しかもその可能性が、パレスチナで最大の動物であるらくだが針の穴を通る可能性よりも少ないとなれば、つまり不可能であれば-「それでは、だれが救われることができるでしょう。」彼らが問わずにいられなかったのも無理ありません。 もし同じ問いを当時のユダヤ人が聞いていたら、全ての人々がイエスの弟子たちと同じ反応をしたと想像します。
イエスは彼ら弟子たちを見ながら言われました。「それは人にはできないことです。しかし、神は違います。神にはどんなことでもできるのです。」永遠のいのちを自分の力や努力、能力などで掴み取ることはできない。それは金持ちであろうとなかろうと、またなし得るすべてをもってしても、人間にはできない、不可能であるということです。永遠のいのちを与えることができるのは、ただ神のみであるということを、イエスは彼らに教えられました。
イエスの神の国の規準、救いの規準を聞いた弟子たち、そしてペテロはこのように応答しました。
「ご覧ください。私たちはすべてを捨てて、あなたに従って来ました。」平行箇所のマタイの福音書19章においてペテロはこの時、「私たちは何をいただけるでしょうか」とイエスに尋ねています。神に祝福されていると思っていた金持ちが神の国に入るのは難しい。それどころか不可能だと言われたペテロや他の弟子たちは、自分たちが確信していた報いを受けることができないかもしれない。-不安になったのかもしれません。怖れを抱いたかもしれません。そこでイエスから報いが与えられるということを、保証して欲しかったようです。 いずれにせよイエスは、弟子たちが報いを受けること自体は否定されませんでした。イエスは29節と30節でこのように語られています。
「まことに、あなたがたに言います。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子ども、畑を捨てた者は、今この世で、迫害とともに、家、兄弟、姉妹、母、子ども、畑を百倍受け、来たるべき世で永遠のいのちを受けます。
ここでイエスは弟子たちに、この世において、具体的にどのような報いを受けることができるのかを語られました。それは「捨てる」ことによって報いを「受ける」ことができると、人間の規準と逆のことを言っておられます。しかもその報いとは、捨てたものの100倍であり、永遠のいのちまで与えられるという報いです。 イエスの弟子たちはペテロをはじめ、その多くは漁師でした。彼らは漁師に必要な舟も網も、そして両親や生まれた家も置いて、イエスに従って来ました。
では、イエスは弟子たちに、これら財産、そして家族を本当に捨てなさいと言われたのでしょうか。
「捨てる」と訳されていますが、原語のギリシャ語を見ると、「後に残す」とか、「そのままにしておく」というような意味があります。ですから「捨てる」とは、財産や家族関係などの執着を捨て、それらを後に残す、後回しにする、という意味になるでしょう。 ですからイエスが言われた「わたしのために、また福音のために」捨てなさいとは、財産や家族関係、人間関係に執着せずに、わたしと福音を伝えることをそれらよりも優先させ、そして私に従って来なさい、ということです。そしてイエスは、イエスと福音を宣べ伝えることを優先した人が受ける報いについて、それもこの世における報いを語られました。 しかしその報いは「迫害とともに」ある、と付け加えられています。 ユダヤ人であれば、もちろん私たちユダヤ人以外の異邦人でもそうですが、家族から迫害を受ける人、また勘当される人さえいます。 私がロゴス・ホープ号という福音船に乗って世界宣教に携わっていた時、ある姉妹が、「私はクリスチャンになったことを父には内緒にしている。もし知られたら殺されるかもしれない」と言っていたことを思い出します。彼女はイスラム教が国教となる国の出身でした。今も迫害により、毎年何万、もしかすると何十万のキリスト者たちたちが、迫害によっていのちを落としています。
日本においては、迫害によっていのちを失うということは現在は殆どありませんが、過去にはありました。 現代の日本においては、イエスを信じ、従って行く時、また福音を宣べ伝えていく時、家族が敵対したり、実際に家から追い出される人たちもいます。 また先祖の墓はどうするのかと言われたり、地域の慣習に反するなどから、葛藤や戦いが生じることもあります。
イエスご自身、「私は剣をもたらすために来た」と語られたことがありました。イエスを信じるキリスト者が、回りの人々から迫害されることを表されたものです。 しかしイエスは、それらの犠牲をはるかに越える報いを約束されました。それは後の世だけでなく、この世においても報いを100倍受けると言われたことです。 これは何を意味しているのでしょうか? 100倍の「兄弟、姉妹、母、子ども」を受けるとあります。これは恐らく、世界の国々にいる神の家族であると考えられます。イエスはマルコの福音書3:35節において群衆に、弟子たちに、そしてイエスの実の家族にこのように語られました。「だれでも神のみこころを行う人、その人がわたしの兄弟、姉妹、母なのです。」イエスを信じ、イエスに信頼を寄せていなければ、神のみこころを行うことはできません。ですから神のみこころ、つまりイエスのみこころを行う人は、神を信じている人です。 その人はイエスを信じていることによって神の子、神の家族とされています。従ってイエスを信じている人たち同士は同じ神の家族-兄弟であり、姉妹、母、子どもである、ということです。この世のどこに行っても、主は霊の家族を私たちの回りに置いて下さっている。それは血の繋がった肉の家族よりも、とてつもなく大きく、広く、そして深い関係のある家族です。
さらにイエスは「畑を百倍受ける」と語られました。これは霊的な財産だと考えられます。物理的な畑、すなわち財産は迫害のゆえに失ってしまうこともあります。しかし霊的な財産は、イエスを信じていることによって豊かに与えられます。 それだけではありません。イエスが私たち一人一人に与えられている使命を知り、使命に生きていくことも含まれます。 イエスを知らない人々は、神、すなわちイエスから与えられる使命-その人でしかできない成すべきことが分かりません。 ですから心を満たすために、また喜ばせ、安心させるために、財産や富、健康、家族、また生きがいとなる趣味などに打ち込みますが、これらが真の意味で人間を満たすことはできません。 人が羨むような、全てを持っていた金持ちの青年が、満たされずにイエスの下に来たことにも表されています。 従ってイエスから与えられる使命に生きることは、財産を多く持っていても虚しい人生を送っている人に比べ、精神的、肉体的においても、遥かに豊かな人生です。従って私たちキリスト者は、自分に与えられた使命に生きることによって生きがいを感じ、今の世において肉体的、精神的な満たしとそこからの平安などといった祝福を受け、加えて永遠のいのちを受け継いでいるという、霊的な祝福も受けています。 私たちはなんと幸いな民ではないでしょうか?
肉体を持って生きている間にもこのような祝福を受けるだけでなく、肉体的な死の先にある、永遠のいのちをすでに受けている訳ですから、その報酬、報いは、払った犠牲をはるかに超えるものです。イエスはその報酬、報いを、21節で「天に宝を積む」と表現されています。
報いを受けることができる保証をイエスが下さった。弟子たちの心は踊ったかもしれません。
しかしイエスは最後にこのように語られました。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になります。」ここにもイエスの規準、神の国の規準が、私たちとは違うことが表されています。
富む者たちはこの世においては「先の者」と言えます。ここには律法学者やパリサイ人、祭司長や、ユダヤ人のような選民意識を持っていた人々などが含まれるでしょう。彼らは子どもたち、遊女や取税人、病気を持っている人々、また異邦人などを見下げていました。彼らように見下げられていた人々は、当時の人間の規準からすれば「後の者」です。しかし来たるべき世、すなわち完成した神の国の規準は全く逆です。 イエスはマタイの福音書の21章において、イエスに質問して来た祭司長たちと民の長老たち、すなわち自分たちが神の国に入ることができると確信していた人々に対して、このように語られました。 マタイの福音書21章31節、「まことに、あなたがたに言います。取税人たちや遊女たちが、あなたがより先に神の国に入ります。」祭司長たちや民の長老が見下していた人々、何も持っていないイエスの弟子たちなど、つまり彼らの規準で言えば後の者が、神の国においては先になるということが表されています。ここでイエスが言われたことは、当時の常識や価値観、規準とは全く逆でした。 またこの教えは、イエスの弟子たちへの警告でもあったかもしれません。 それは、すべてを捨ててイエスについて来た彼らには、自分たちこそが、初めに報いを受けるべきだという自己満足や優越感などがあったと思われるからです。

そしてイエスが弟子たちに語られ、また警告されたことは、イエスを信じ、従っている私たちキリスト者に対しての警告でもあると思います。それは私たちがイエスを通して救われ、永遠のいのちが与えられているということを、自分の功績や努力に帰してはいけないということです。また他の人よりも優先して報いを得ることができるなどといった損得勘定を持ったり、また自分は他の人々とは違うと、傲慢になってはいけないということです。 報いを与えられるのも、また人を罪から救って神の国に導かれるのも神、イエスです。ですから払った犠牲の大きさに応じて報いがあるなどと考えたり、自分の信仰によって自分は救われているなどと、自分の信仰を誇ったりしてはいけない、それは的外れであるということです。

この世においての報いも、また永遠に続くいのちも、全てはイエスが私たちに与えて下さった賜物、ギフトであり、プレゼントです。本来であれば受け取る価値のない私たち、罪人である人間に、このような素晴らしい賜物を与えて下さったのが、イエス・キリストです。私たち罪ある人間が、ただイエスを信じることによって神に受け入れられている。赦されている。そして愛されている。
「それは人にはできないことです。しかし、神は違います。神にはどんなことでもできるのです。」
この世においての報い、そして人間の力では絶対に手に入れることができない、将来に続く永遠のいのちを保証して下さっているイエスに、今日も感謝と讃美を、共に捧げたいと思います。
祈ります
「いのちの保証」(永遠のいのちの根拠、保証はイエスの十字架と復活にある)
イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことです。しかし、神は違います。神にはどんなことでもできるのです。」

2026/1/25(日)「手放す幸い」マルコ10:17~22 庄司牧師

2026年1月25日 マルコの福音書10:17~22 「手放す幸い」
招詞 マタイの福音書6:33 今週のみ言葉 マルコの福音書10:21
イエスが道に出て行かれると、一人の人が駆け寄り、御前にひざまずいて尋ねた。「良い先生。永遠のいのちを受け継ぐためには、何をしたらよいでしょうか。」イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを『良い』と言うのですか。良い方は神おひとりのほか、だれもいません。戒めはあなたも知っているはずです。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽りの証言をしてはならない。だまし取ってはならない。あなたの父と母を敬え。』」その人はイエスに言った。「先生。私は少年のころから、それらすべてを守ってきました。」イエスは彼を見つめ、いつくしんで言われた。「あなたに欠けていることが一つあります。帰って、あなたが持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。」すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。多くの財産を持っていたからである。( マルコの福音書 10:17-22 SKY17 )
本日の聖書の箇所は、イエスの強烈な警告です。それは富の危険性についてです。イエスは富それ自体が悪であるとは、もちろん決め付けておられませんが、富によってイエスの下に来れなくなってしまう人がいる、という実例が示されています。
10:17 イエスが道に出て行かれると、一人の人が駆け寄り、御前にひざまずいて尋ねた。「良い先生。永遠のいのちを受け継ぐためには、何をしたらよいでしょうか。」
一行がエルサレムへの途上、ユダヤ地方を旅していた時の出来事です。「一人の人が駆け寄り、御前にひざまずいてイエスに尋ねました。」「ひとりの人」とは、並行箇所のマタイの福音書の19章では「青年」、ルカの福音書18章においては「指導者、前の訳では役人」と紹介されています。つまりこの人物は若く、高い地位についていた裕福な人でした。他の人々からすれば、全てを持っていると思われるような人でしたが、彼は富によっては満たされていませんでした。その心には依然として疑問と渇きがありました。 この人がイエスの下へ「駆け寄り」イエスの下に「ひざまずいて」永遠のいのちをどのようにしたら受け継ぐことができるかを尋ねていることから、真剣に、永遠のいのちを得るための答えを探していたことが伺えます。しかし彼はここで的外れの理解と質問を二つしています。
一つはイエスを良い先生と言ったことです。「先生」とは「ラビ」(私の師)という意味で、教師としての尊敬を表す言葉です。つまり彼はイエスを、律法を教えていたラビの一人として見ていたことです。二つ目の的外れは、「永遠のいのちを受け継ぐためには、何をしたらよいでしょうか。」と尋ねていることです。彼は行いによって永遠のいのちを獲得することができると思っていた。そこでイエスは先ず18節で、彼がイエスを一教師として理解していることを正そうとされました。 10:18 イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを『良い』と言うのですか。良い方は神おひとりのほか、だれもいません。
イエスは彼が使った「良い先生」の「良い」ということばを用いて、「良い方は神おひとりです」と言われました。つまり彼が良いと敬っている人間である一教師、一指導者から教えを受けることが永遠のいのちを得るために必要なことではなく、永遠のいのちを得るためには良い方である神に焦点を合わせなければならないと、彼の注意を神に向けさせようとしました。 そしてイエスは、
永遠のいのちを受け継ぐためには、神の教え、戒めである律法を守られなければならないと、具体的にモーセの十戒を引用されました。
10:19 戒めはあなたも知っているはずです。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽りの証言をしてはならない。だまし取ってはならない。あなたの父と母を敬え。』」イエスはあえて、旧約聖書に記されている律法を引用されました。 ここでもし彼が、「主よ、申し訳ありません。私は弱い人間ですから、どうしても守り通す事が出来ません。」と答えていれば、またそのように思っていれば、イエスから助けを得ることができたかもしれません。しかしこの青年はこのように答えました。10:20 その人はイエスに言った。「先生。私は少年のころから、それらすべてを守ってきました。」
平行箇所のマタイの福音書の19章において彼は、「私はそれらすべてを守ってきました。何がまだ欠けているのでしょうか」と答えています。 凄い答えです。中々こうは言えないと思います。すべてを守ってきたと断言できるほど、この青年は厳格な生活をしていたと思って間違いないでしょう。 イエスの意図は、律法を守りなさいと問いかけることよって、この青年にそれらを完全に守ることができないと認めさせ、彼の中にある自信を完全に打ち砕いて、彼の目を神の方に向けさせることでした。 この人が自分の持つ罪や人間的な弱さに気付き、そこから神に依り頼むことが、永遠のいのちに至るための第一歩だったからです。もしこの段階で、この青年が改めて自分にある罪に気付き、弱さを認めることができれば、目の前に永遠のいのちを与えるお方がおられました。そのまま罪の赦しと永遠のいのちをイエスに願うことができました。しかし彼はできませんでした。そこでイエスはさらに踏み込んだ問いかけをなされています。21節。あなたが持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。イエスはここで隣人愛に触れています。持っている物を売り払って貧しい人に与えなさいとは、周りの人々に愛を示すための実践、実際的な行動です。
イエスは平行箇所のマタイの福音書19章においても十戒を引用されてこの青年に語りかけておられますが、マルコの福音書で語られた十戒の引用に、さらに一つ加えられています。それは、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」でした。 このことばは、ある時律法の専門家が、「律法の中で、たいせつな戒めはどれですか?」とイエスに尋ねた時に、イエスが答えられた時のものです。 この時イエスは、神が旧約聖書を通して人間に与えられた、人間が守るべき教え、戒めである律法を、短く二つにまとめられました。
一つ目は、「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」でした。 これは人間が神に対して行うべき戒めです。神を神としなさい。偶像を造って拝んではならない。など、モーセの十戒の一番目から四番目に記されていることを一つにまとめられたものです。そして律法の専門家に答えられた二つ目に大切なことが、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」でした。これは人間が人間に対して行うべきことをまとめたものであり、モーセの十戒で言えば、5戒から最後の10戒までに記されていることを一つにまとめられたものです。
あなたが持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。
これは律法が示す、隣人愛の実践でした。 この青年は、「私は少年のころから、それらすべてを守ってきました。何がまだ欠けているのでしょうか」と自信を持ってイエスに答えました。ですから本当に守って来たのであれば、イエスからのこの問いかけに対して、彼は実際の行動を通して応えることができたでしょう。しかし彼が取った行動は異なるものでした。22節に記されています。
10:22 すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。多くの財産を持っていたからである。
彼は悲しみながらイエスの下を立ち去りました。イエスが言われたことは、自分には出来ないという意志表示でした。「全てを売り払って貧しい人にたちに与えなさい」 これは確かに難しい、いや、不可能と言える命令ではないでしょうか。 私たちもイエスに招かれてイエスの下に来ることができました。そして今、イエスを信じる群れである教会に入れられています。この中で、イエスから「全てを売り払って私に従いなさい」と言われた方はおられるでしょうか?
恐らくいないと思います。なぜイエスはこの青年にそのような不可能とも言えることを命じられたのでしょうか。それはこの青年が財産に捕らえられていたからです。奴隷になっていたと言っていいでしょう。財産は本来中立なもののはずです。しかし財産は時に力になります。自分の思いや願いの多くを財産によって、お金によって叶えていくことができるばかりでなく、人々を支配、コントロールさえできるものです。しかしもし財産が神よりも上の存在になるならば、それは偶像礼拝と変わりありません。本日の箇所でイエスが十戒を引用されていますが、それは人が人に対して行うべき戒めの部分、第五戎から第十戎でした。しかし第一戎から四戎の、人が神に対して守るべき教え、戒めの中には、神の他に、他の何物をも神としてはならないとあります。また偶像を作って拝んではならないとあります。 従ってこの青年は、自分の財産を用いて隣人に対して愛や憐れみを示すことが出来なかっただけでなく、財産が神よりも上に来ていた、つまり財産が自分の偶像となり、自分の神になっていたということが明らかにされた訳です。
イエスはマタイの福音書の6章で群衆や弟子たちにこのように語られました。
だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神と富とに仕えることはできません。( マタイの福音書 6:24 SKY17 ) この青年は、自分の富、財産を重んじ、他方、すなわち神を軽んじていたということです。ですから彼は神からの教え、戒めを子どもの頃から守って来たと自負、自信を持ってイエスに答えましたが、それは表面的であり、形式的であり、神に対して心も、信仰も、愛もなかったことが分かります。
そこでイエスは、彼が奴隷になっている富から、財産から解放するために、「財産を全て売り払って私に従いなさい。」と、あえて不可能とも言えることを命じられました。これはイエスの愛ゆえの命令であり、挑戦でした。 もし彼がこのイエスからの命令に対して「私は出来ません。助けて下さい。憐れんで下さい。」とイエスの下を去らず、イエスに助けを求めたのであれば、イエスは彼を助けることができたと思います。 すなわち富、財産を最も価値あるものとしていた彼の思い、執着から解放し、神でしか満たすことの出来ない、永遠のいのちという、霊的な飢え渇きを満たすことができたはずです。
この青年はイエスを一教師、一指導者と見ていました。これは誤りでしたが、永遠のいのちを求めてイエスの下に来ることができました。 それは良かったのです。最高な、これ以上のないベストな選択でした。しかし彼は最悪な選択をしてしまいました。それはイエスの下から立ち去ってしまったということです。 彼は永遠のいのちよりも財産を、富を、神であるイエスよりも自分と自分の生き方を選んでしまいました。
しかしイエスは、このような青年に対しても、愛を持っておられることが分かります。「イエスは彼を見つめ、いつくしんで言われた」とありますが、ギリシャ語本文には神だけが持つ「アガペー・愛」(名詞)が、ここでは「アガパオー・愛する」という動詞として使われています。神の愛、アガペーとは、その対象に愛される価値があるなしに関わらず、自発的に自分を与える犠牲的な愛を意味することばです。 従って直訳するならば、「イエスは、神ご自身だけが持つ愛を持って、彼に目を留めながら言われた」となるでしょう。イエスは、彼が執着している財産を彼から切り離し、すなわち富という奴隷から解放して、彼が求めていた永遠のいのちを、心からお与えになりたいと思っておられる、ということがここに表されています。
偶像、そして偶像礼拝とは、人間が持つ心の欲望を神とし、それを第一として拝むことです。そこには富だけでなく、健康、長寿、権力なども含まれます。 そしてこの青年のように神の代わりにそれらを第一とし、依存して生きようとする時、それらは人を奴隷として縛りつけるようになります。 本人はそれらを自分の支配に置き、コントロールできると思っていますが、この青年のように、気付けば縛られ、奴隷とされ、永遠のいのちを与えることができる唯一のお方、イエスを退ける、自ら遠ざかってしまう結果になります。 これは現代においても全く変わりがありません。
何かを神よりも上に置く。それらを神よりも高い価値あるものとする。そして神とする。目に見えるものから目に見えないものまで、私たちは多くの偶像に取り囲まれています。 このような偶像礼拝は、人間が持つ罪と、悪魔、サタンが働く領域でもあり、霊的なものであると思います。

私たちは知らない内にこれらに奴隷とされ、自分から抜け出ることはできません。それは唯一、イエスの助けによってのみです。 イエスは私たちを奴隷状態から解放して下さる力ある神であり、その根底にはこの青年に注がれ、また私たち全ての人間にも注がれている愛があります。
全ての人間をご自分の下に招き、全ての人間を奴隷状態から解放し、永遠のいのちを与えたい。
このイエスの愛と願い、そして力は、十字架と復活に集中しています。奴隷状態に導く私たちの罪を、神であるイエスが代わりに背負われ、私たちの罪と共に死んで下さいました。 そして罪と、罪から来る死を滅ぼして、復活して下さいました。それは私たち一人一人の人間のためでした。
ここにアガペーの愛があり、私たちを罪と死と、様々な奴隷状態から解放することができる、力が表されています。 聖書から、またイエスが語られたみ言葉から、私たちはイエスよりも大切して来た様々な偶像の存在を知り、捨て去ることができました。今も捨て続けています。
私たちが持つ偶像と偶像礼拝から解放して下さり、永遠のいのちを受け継ぐ者として下さったイエスに、心から感謝します。
祈ります。
「手放す幸い」
あなたが持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。