2026/4/2㈮「わたしはあなたとずっと一緒にいる」ルカ23:33,39~43 庄司牧師

受難日礼拝メッセージ(テキストのみ)

2026年4月2日 ルカの福音書23:33,39~43
タイトル 「わたしはあなたとずっと一緒にいる」
「どくろ」と呼ばれている場所に来ると、そこで彼らはイエスを十字架につけた。また犯罪人たちを、一人は右に、一人は左に十字架につけた。
十字架にかけられていた犯罪人の一人は、イエスをののしり、「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」と言った。すると、もう一人が彼をたしなめて言った。「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。」そして言った。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」
本日は受難日です。罪を犯したことのないお方が、罪ある者として十字架で神に裁かれる。イエスの十字架と、共に十字架に架けられている犯罪人たちに焦点を当てて、お話していきたいと思っています。
ローマ総督ピラトの努力も虚しく、イエスはローマ帝国に反逆する政治犯として、十字架に架けられることになりました。主イエスの他にも、二人の犯罪人がイエスの十字架を中央にして、その右と左で十字架に架けられました。 なぜ二人は十字架刑に処せられたのでしょうか。
ルカの福音書では二人のことを「犯罪人」と記しているだけです。しかしマタイやマルコ福音書では「強盗」としています。 「強盗」という言葉は、単に他人の物を盗む者というより、むしろ反乱を起こす者、革命家を意味します。恐らくこの二人はローマ帝国の支配に抵抗して、暴動ないし反乱を起こして逮捕され、十字架刑に処せられることになった、と思われます。 イエスの十字架を見ながら、イエスを罵っていた群衆がいました。イエスがローマ帝国から自分たちを解放してくれる政治的な王だと期待していた、ユダヤの人々でした。しかし願いが叶わないことが分かり、希望から失望へと、そしてイエスへの怒りへと変わって行きました。 平行箇所を見ると、群衆がイエスを罵っている時に、この二人の強盗も同じようにイエスを罵っていたことが分かります。そのうちの一人はこのようにイエスを罵しりました。「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」従ってもう一人も始めはイエスに対して同じような思いを持っていたようです。二人とも自分はローマ帝国から人々を解放しようと努力した。正しいことを行った。正義を行ったと思っていたはずです。ですから十字架刑に対して、不当な刑罰を受けていると二人とも感じていたはずです。しかし一人の犯罪人はイエスに対する態度が変わっていきます。何があったのでしょうか。
それはイエスの十字架上で語られることばであり、態度であり、そして祈りであったと思います。イエスはまさに十字架に架けられている苦しみの時も、罵る人々に対して不平や不満、怒るといったこともありませんでした。 ヨハネの福音書の19章には、この状況でイエスは、自分の母マリアを心配され、弟子の一人に彼女を託しています。そして何よりこの犯罪人の心の琴線に触れたのが、イエスの祈りだったと思われます。それが34節でイエスが語られたことばであり、祈りです。
23:34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦し下さい。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」彼はこのように思ったと想像します。
「自分を殺そうする者たちに対して、「彼らを赦して下さい」などと祈ることなど人間にはできない。この方こそ神に違いない。そしてこの神が、自分は悪くないと思っているこの私も、そして隣の犯罪人も、そして群衆も、全て自分中心で罪深い人間に対する神の怒りを代わりに受けてくれている。」実際この犯罪人が神に、すなわちイエスに対しての恐れ、畏怖の念を持ったことが分かります。
「おまえは神を恐れないのか。」という、もう一人の犯罪人に対して言ったことば、告白です。裏を返せばこの告白は「おまえと私は違う。私は、神を恐れる。イエスを神として恐れ敬う。」という彼のイエスに対する信仰を感じさせる告白です。そしてもっとイエスに対して踏み込んだ思い、実彼がイエスを神と認め、また信じるという信仰告白が、42節に表されています。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」「あなたが御国に入られるときには」という告白は、この犯罪人が、イエスが御国に行くことだけでなく、御国、すなわち神の国を統べ納める神であることを確信している態度です。そして彼は、神であると信じたイエスに対して、「私を思い出してください」と訴えました。 思い出して下さいとは、忘れないで下さいということです。「自分がしたことは何も悪くないと思っていた。むしろ正しいことをしていたと思っていた。しかしそうではなかった。私はあなたの前に罪ある者。神であるあなたと共に、御国に行くような身分ではない。しかしどうか私が辿った人生を、私の姿を、そして私の存在を、あなたが行かれる神の国においても忘れないで欲しい。頭の片隅でもいいから覚えていて欲しい。」彼の思い出して下さいという告白には、神としてのイエスの前に謙る、一信仰者としての姿勢と信仰を感じさせます。そしてイエスが御国に行くのが相応しい、当然であるという確信を感じさせる告白でもあります。この犯罪者の信仰、そして告白に対してイエスは、「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」と答えられました。
パラダイスとは楽園です。素晴らしい場所であるには違いないですが、大切なのは場所というよりむしろイエスとの「関係」です。この時イエスはこの男に向かって、「わたしと一緒に楽園にいる」と宣言されました。主イエスが一緒にいてくださるところ、そこが楽園であり、パラダイスです。イエスがそこにおられなかったから、そこは楽園でもパラダイスでもありません。イエスは犯罪人に対してこのように答えることによって、彼の信仰告白が本物であること。そして同時に「思い出して下さい」と願った以上のことを約束されたことが分かります。それはこれからもずっと一緒にいるという、いつまでも続くイエスとの関係を約束して下さったからです。

イエスは私たちが激しい苦しみの中で、絶望の中で、すべての人に見捨てられたように思う時ですら、私たちを覚えていてくださり、心に留めて下さいます。また私たちが死を迎える時も、またその後も、ずっと一緒にいて下さるお方です。私たちを見捨てることは決してありません。
「私はあなたのことを覚えている、決して忘れない。そしていつまでも一緒にいる。」この犯罪人だけではなく、イエスを神として、救い主として信じる全ての人に、私たち一人一人に、イエスは同じように約束して下さいます。 そしてイエスは私たちとずっと一緒にいるという約束を守るために、神との妨げとなる私たちの罪を全て、十字架で背負って下さいました。
イエスの十字架を感謝しつつ、共に祈りたいと思います。
「わたしはあなたとずっと一緒にいる」
「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」

2026/3/29(日)「強盗の巣」マルコ11:12~19 庄司牧師

2026年3月29日 マルコの福音書11:12~19「強盗の巣」
翌日、彼らがベタニアを出たとき、イエスは空腹を覚えられた。葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、その木に何かあるかどうか見に行かれたが、そこに来てみると、葉のほかには何も見つからなかった。いちじくのなる季節ではなかったからである。するとイエスは、その木に向かって言われた。「今後いつまでも、だれもおまえの実を食べることがないように。」弟子たちはこれを聞いていた。 こうして彼らはエルサレムに着いた。イエスは宮に入り、その中で売り買いしている者たちを追い出し始め、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。また、だれにも、宮を通って物を運ぶことをお許しにならなかった。そして、人々に教えて言われた。「『わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではないか。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にしてしまった。」祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。群衆がみなその教えに驚嘆していたため、彼らはイエスを恐れていたのである。夕方になると、イエスと弟子たちは都の外に出て行った。
本日の聖書箇所は二つの出来事が記されています。葉の茂ったいちじくの木の話と、4福音書全てに記されている「宮きよめ」と呼ばれている出来事です。葉の茂ったいちじくの木の話は、結論として後でもう一度登場しますので、次回取り上げたいと思います。そこで今回は「宮きよめ」と呼ばれる出来事を中心に、お話をしたいと思っています。
先週、イエスが日曜日にエルサレム入城、エルサレムに入られた時のことをお話しました。イエスはエルサレムにいる群衆の、自己中心的で神を信じない不信仰な姿と、将来ローマ帝国に破壊されることになるエルサレムのことを憂い、涙を流されました。そして祈りのため、人々のとりなしのために宮に入られました。
本日の聖書箇所、12節に「翌日」とあります。ですから宮きよめと呼ばれている出来事は、イエスが十字架に架かることになる週の、月曜日であることが分かります。本日登場する「宮」とはエルサレム神殿であり、ヘロデ王によって再建されたものです。イエスはこの神殿で人々が行われていることに怒りを燃やされました。それが本日の聖書箇所に表されています。エルサレムの神殿では、過ぎ越しの祭りに集まった大群衆を相手に、盛んに商売が行われていました。過ぎ越しの祭りとは、旧約聖書、出エジプト記に記されています。以前共に見て来ました。イエスの時代よりさらに約1500年前、彼らの祖先となるイスラエルの民がエジプトで奴隷となって苦役を強いられていた時、神が民の叫びを聞かれ、指導者モーセを通して彼らをエジプトから脱出させた出来事に由来しています。その脱出の際、羊の血を門柱と家の鴨居に塗った者たち-すなわちイスラエル民族は、滅ぼす者から守られました。一方その血を塗らなかったエジプトの初子-初めに生まれた子ども、すなわち長男や長女、家畜に始めに生まれた子どもたちなどは、全て死んでしまいました。この流された血、羊の犠牲を、新約聖書ではイエスが人間の罪を贖う身代わりに流された血であると説明しています。つまり過ぎ越しで犠牲になった羊は、イエス・キリストを予表するもの、イエスの十字架の犠牲、贖いを指し示している、ということです。 ユダヤの人々は、自分たちの先祖が守られたことを感謝し、現在においても過ぎ越しをお祝しています。
本日の聖書箇所に戻ります。 神殿の境内には、一番外側に異邦人の庭と呼ばれるところがあり、そこに両替人や生贄のハトを売る者たちなどがいました。ユダヤ人たちは各地から過ぎ越しの祭りを祝うために神殿に集まって来ましたが、神殿に捧げる動物の犠牲は傷があってはいけないため、祭司に調べてもらわなければならず、その検査は面倒なものでした。 そこで巡礼者たちは、あらかじめ調べられたものであり、また気軽であるため、神殿の境内で売られている検査済みの動物を買いました。加えてユダヤの巡礼者は、神殿に納入金を支払うため、ギリシャやローマの通貨をユダヤの通貨に両替しなければなりませんでした。そこで両替人たちは多くの手数料を取って莫大な金を設けていました。その背後には祭司長や律法学者たちがいました。神殿を管理している立場であるはずの彼らが、自分たちの利益のために率先して彼らの商売を許可し、支援までしていました。それは商人たちの儲けの上前をはねるためでした。 本来は祈りの家であり、敬虔な場所であるはずの神殿が商売に利用されている。 イエスが憤りを覚えたのも無理はありませんが、イエスがもっと怒りを燃やされたことがあります。それは彼らが商売を行っていた「場所」でした。
神殿の境内の一番外側は異邦人の庭と呼ばれますが、神殿の奥に入ることを許されない異邦人にとって、唯一の礼拝の場所でした。その場所で商売が行われていたということは、商売人たちは異邦人たちが神を礼拝するのを妨げていたということになります。そして彼らの礼拝を間接的に妨げていたのが、本来であれば神殿を聖く保ち、礼拝者が神を心から礼拝できるように取り計らう祭司や祭司長たちでした。いつの間にか異邦人の庭が、動物の生贄を売ったり買ったり、また両替の行われる場所になってしまっていました。イエスは激しく怒られましたが、この時の怒りを旧約聖書から引用して表しておられます。それが17節です。
「『わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではないか。これは旧約聖書、イザヤ書56:7節を引用してのことばです。6節の後半から引用してお読みします。
わたしの契約を堅く保つなら、わたしの聖なる山に来させて、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。彼らの全焼のささげ物やいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる。なぜならわたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれるからだ。 つまりイエスは、形式的で、しかも神との契約を守っていない彼らの生贄は、神には受け入れらないと言っておられる訳です。「神殿は商売の行われる場所ではない!心の伴わない形だけの生贄は神に受け入れられない!わたしの家、神殿は、あらゆる民の祈りの家、礼拝の場所、心から神と交わる場所だからだ!」そのような思いを持ってイエスは、人々の間違った行いを激しく怒られ、批判されました。イエスはここで、「わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる。」と、イザヤ書のことばを引用されましたが、その「わたし」とは、主なる神であると同時に、その独り子である主、イエスご自身を指しています。つまりイエスは、自分こそが神殿の主であり、神殿はイエスにとって 「わたしの家」だと宣言されたということです。つまりイエスはご自身を、神殿を司る者であり、また同時に礼拝されるべき対象、すなわち神であるということを宣言されました。イエスは祈りが捧げられる神殿を、「あらゆる民の祈りの家」と呼ばれました。それはユダヤ人たちだけでなく、彼らから蔑まれている異邦人たちも含めた、全ての民族、部族、国民の祈りの家となる、ということです。 宗教指導者たちはイエスを神と信じていませんでしたから、神宣言をされたイエスのことを、神への冒涜であると捉えました。加えてイエスは同じ17節の後半において、おまえたちはそれを『強盗の巣』にしてしまった。」と強いことばで批判されました。これも旧約聖書からの引用だと思われます。エレミヤ書7:10,11節です。そして、わたしの名がつけられているこの宮の、わたしの前にやって来て立ち、「私たちは救われている」と言うが、それは、これらすべての忌み嫌うべきことをするためか。わたしの名がつけられているこの家は、あなたがたの目に強盗の巣と見えたのか。見よ、このわたしもそう見ていた──主のことば──。 エレミヤ書を引用しながらイエスは批判していますが、その対象は、暴利を貪っている商人たち、それを許していた祭司や律法学者たちだけではありません。「売り買いしている人を追い出し始め」と15節にあることから、商人から生贄を買っていたユダヤ人たちにも向けられていることばでした。彼らユダヤ人に共通するのは選民意識です。「アブラハムを父祖とする我らユダヤ人は特別に選ばれている神の民。我々は救われている。それだけはない!このように神殿に来てお金も払って生贄を買って捧げている。神は喜んでくれているはずだ!そして犯した罪はことごとく全て赦されているはずだ!」 しかしイエスは、彼らユダヤの人々が生贄を形式的に、また慣習的に献げていることを見抜いていました。このような民の形式的、偽善的な姿が旧約聖書に記されています。ホセア書です。イエスの時代から750年ほど前に書かれたものですが、イエスの時代の人々と何ら変わることはありません。この時の北イスラエルは経済的には繁栄していましたが、民はバアル崇拝などの偶像崇拝を行いながら、神である主にも生贄を捧げていました。加えて富める者が貧しい者を虐げ、倫理的にも道徳的にも腐敗していた時です。主なる神は預言者ホセアを通して、彼らにその思いを伝えられました。それがホセア書6:6節に描写されています。「わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない。全焼のささげ物よりむしろ、神を知ることである。」
神が求めておられるのは「表面的な儀式(いけにえ)」ではなく、愛に基づく「神との個人的な関係(神を知ること)」であるということです。神が人間に対して、愛と信頼の関係を築き、人格的な交わりを求めておられることを意味します。著者のホセアに語られた主なる神のイスラエル民族に対する思いと、本日の宮清めにおける群衆に対するイエスの思いと重なります。
この神の御心、すなわちイエスの御心に反するのが、今まで見て来たように、神殿を利用して、つまり神を利用して商売をしている人々でした。また、自分の利益のために彼らを支援していた宗教指導者たちでした。そして儀式的に、また形式的に罪だけが赦されれば良いという、言わば神のご機嫌取りをしているユダヤの人々でした。なぜそのように言えるかと言えば、彼らが生贄を持参しないで神殿に来ているからです。生贄を準備、用意せず、神殿で気軽に買えばいいというところに、彼らの神に対する態度が表れています。 イエスはそのような人々が集まっている神殿が強盗の巣のようであると嘆き、憂い、怒られました。 一方イエスは神殿の主として、礼拝されるべき神として、イエスを信じる人々を御前に集めようと、集めたいと願っておられます。そのイエスの思い、願いが、平行箇所のマタイの福音書に表されています。21章14節です。また、宮の中で、目の見えない人たちや足の不自由な人たちがみもとに来たので、イエスは彼らを癒やされた。
いつもイエスがなされる癒しのように見えますが、実はこれは凄いことです。普段であればあり得ないことです。異邦人は異邦人の庭と呼ばれる場所に入ることができました。しかし体に障害を持っている人々は、神殿の本体である聖所、至聖所はもちろんのこと、その境内にすら立ち入ることは許されていませんでした。 しかし彼らは神殿に入って来ました。イエスが神殿で大暴れされ、一時的に神殿がパニックに陥っているその混乱に乗じて。 普段は神殿から締め出されて神殿の門のところで物乞いをすることしかできなかった盲人たち、足の不自由な人々などが神殿内に入り込んで来たということです。イエスを、神を求める姿です。そこでイエスは彼らを癒されました。
イエスは体に障害を持っている人たちを癒すことによって、障害のあるなしに関わらず、またユダヤ人たちが軽蔑していた異邦人、つまり民族の違いに関わらず、イエスを信じる者全ては神殿に入ることができる。また神であるイエスを拝することができる、つまりイエスを神として信じ、礼拝することができる、ということが表しておられます。
今回の宮清めにおいて、イエスの語られたこと、またなされた全てのことは、神殿当局者たちの激しい怒りと敵意をもたらしました。それはイエスがご自分のことを神であると宣言され、商人はおろか、祭司長や律法学者たちのような宗教指導者を批判し、さらに神殿における慣習を破って、障害を持っている人々が神殿に入るのを許可し、癒されたからです。 前回見ましたが、人々が決して触れることのない盲人のバルティマイを、イエスは立ち止まり、声をかけ、触れて癒されました。従って今回も、イエスは差別されている人々にも手を触れて癒されたでしょう。このように神殿の主であり、礼拝されるべき神として、イエスは民族や慣習を超えて、イエスを信じる人々を御前に集めようとされておられます。 このようにイエスは正しいこと、また愛に満ちたことをなされましたが、宗教指導者たちはイエスに反発しました。彼らの敵意が18節に描写されています。
祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。群衆がみなその教えに驚嘆していたため、彼らはイエスを恐れていたのである。
彼らは、群衆がイエスの教えに驚嘆し、イエスを信頼し、さらに支持していく。人気が出ることによって自分たちから離れていくことが赦せませんでした。彼らは群衆を自分たちに惹きつけておきたかった。自分たちが、人々を神に近づけるように手助けする奉仕者とは考えずに、神が、人々を自分に近づけるのを手助けするとことを願っていた、ということです。これは神殿という場所において商売をしていた人々と、同じではないでしょうか。 言わば神を利用して自分の願い、欲望を満たそうとする姿です。 彼らは不正をしていました。また彼らは誤りを犯すだけでは気がすまず、自分の誤りを指摘する者に対して殺意を抱くという、神を知らない者、信じない者がどのように神に向かうのか。敵対するのか。罪深い人間の姿を浮き彫りにしています。恐ろしいことですが、まさにこのような人間の罪が、イエスを十字架に釘付ける原因となりました。 神殿を利用して、神を利用して商売する、儲ける人々をイエスは追い出されました。一方ユダヤ人たちから蔑まれていた異邦人たちが礼拝できるように、宮、神殿をきよめられました。また昔からの慣習を破られ、障害のある人々が神殿に入ることを許可され、イエスを信じ、求める人々を癒されました。別の見方をするならば、イエスは彼らを神殿に招かれた、と言うこともできるかもしれません。
今は受難節です。イエスの十字架の贖い、犠牲に心を留め、思い巡らし感謝を持つ時です。   神殿の主、神の国の主、万物の主であるイエス・キリストが、今も、現代においても、イエスを信じ、イエスを礼拝する者たちを、ご自分の十字架の下に集めようとされておられる。そのように思います。 神殿-現代においては教会において共に集まり、イエスを礼拝できることを感謝します。イエスの十字架がなければ、また招きがなければ、私たちはこのように共にイエスを礼拝することはありませんでした。イエスに感謝しつつ、今日も共にイエスの十字架に目を向けたいと思います。
祈ります。「強盗の巣」
そして、人々に教えて言われた。「『わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではないか。

2026/3/22(日)「それぞれの思惑」マルコ11:1~11 庄司牧師

2026年3月22日 マルコの福音書11:1~11 「それぞれの思惑」
さて、一行がエルサレムに近づき、オリーブ山のふもとのベテパゲとベタニアに来たとき、イエスはこう言って二人の弟子を遣わされた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばが、つながれているのに気がつくでしょう。それをほどいて、引いて来なさい。もしだれかが、『なぜそんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐに、またここにお返しします』と言いなさい。」弟子たちは出かけて行き、表通りにある家の戸口に、子ろばがつながれているのを見つけたので、それをほどいた。すると、そこに立っていた何人かが言った。「子ろばをほどいたりして、どうするのか。」弟子たちが、イエスの言われたとおりに話すと、彼らは許してくれた。それで、子ろばをイエスのところに引いて行き、自分たちの上着をその上に掛けた。イエスはそれに乗られた。すると、多くの人たちが自分たちの上着を道に敷き、ほかの人たちは葉の付いた枝を野から切って来て敷いた。そして、前を行く人たちも、後に続く人たちも叫んだ。「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。祝福あれ、われらの父ダビデの、来たるべき国に。ホサナ、いと高き所に。」こうしてイエスはエルサレムに着き、宮に入られた。そして、すべてを見て回った後、すでに夕方になっていたので、十二人と一緒にベタニアに出て行かれた。

いよいよイエスと弟子の一行は、十字架の待っているエルサレムに入城(入場⇔退場ではない)することになります。イエスの公生涯の三年半、そのほとんどはガリラヤとその周辺を舞台とした宣教でした。しかし公生涯の最後の一週間は、イスラエルの中心地であるエルサレムにおいての宣教です。わずか一週間のエルサレム宣教の記述は、マルコの福音書16章のうち、11~16章の6章分、三分の一ほどを費やしています。イエスの十字架、葬り、復活がどれほど大切なのかが分かります。 1節に記されていますが、イエスと弟子たちはエリコの町を出発し、長い坂道を上って、オリーブ山のふもとのベテパゲ、またその近くにあるベタニアの町までやって来ました。 これはイエスが十字架にかけられる前の週の、金曜日に当たります。イエスの一行は、翌日の土曜日は安息日だったためそのままエルサレムには入らず、ベタニアでマルタとマリア、ラザロの家で一日を過ごされ、日曜日にエルサレムに入られました。
エルサレムに入られる時、イエスは二人の弟子を使いに出して、「向こうの村」からロバを借りて来るように言われました。「向こうの村」とはベテパゲかベタニアのどちらかになります。 ベタニアにはマルタとマリア、ラザロの家がありました。彼らはイエスを愛し、従い、協力を惜しまない家族でした。またこのベタニアだけでなく、隣の町のベテパゲにも、イエスの弟子や協力者がいたと思われます。それでロバの持ち主は以前から、イエスのためにできることがあれば、何か手伝うと言っていたかもしれません。いずれにせよ、イエスが命じられた通り、イエスの使いはロバを借りることができました。 二人の弟子たちとロバの持ち主のやり取りは、イエスが予知、前もって全てを知っておられることの現われです。 イエスの言われたことは実際に成就、実現しました。そしてイエスがロバに乗ってエルサレムに到着した時の人々の様子が、8節から10節に描写されています。8節にはこのように記されています。多くの人たちが自分たちの上着を道に敷き、ほかの人たちは葉の付いた枝を野から切って来て敷いた。人々がイエスを大歓迎している様子が描写されています。葉の付いた枝を敷いたとありますが、ヨハネの福音書の12章には、その葉の付いた枝を「棕櫚の木」と記しています。そのため現在では、イエスがエルサレムに入城した日を記念して、イースターの一週間前の日曜日を、「棕櫚の日曜日」と呼んでいます。

一方イエスがロバに乗ってエルサレムに入られることは、旧約聖書に記されている預言の成就、実現でもありました。旧約聖書、ゼカリヤ書にはこのように記されています。9章9節。
娘シオンよ、大いに喜べ。娘エルサレムよ、喜び叫べ。見よ、あなたの王があなたのところに来る。義なる者で、勝利を得、柔和な者で、ろばに乗って。雌ろばの子である、ろばに乗って。
ゼカリヤ書に記されているシオンの娘とは、エルサレムの住民を指す詩的な表現です。イエスの生まれる前、約500年前に書き記されたザカリヤ書ですが、果たしてその預言通りにイエスはロバに乗ってエルサレムに入城されました。群衆がイエスの入城をこの預言の観点から見て、イエスを王として迎えたことは疑う余地がありません。また人々は歓喜のあまり、讃美をもってイエスを迎え入れています。この時の様子が9節と10節に描写されています。
「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。祝福あれ、われらの父ダビデの、来たるべき国に。ホサナ、いと高き所に。」これは詩篇を群衆が引用してイエスを讃美している姿です。
「ホサナ」ということばは、現代においても神やイエスへの深い感謝、称賛、喜びを表す言葉として使われています。 群衆は熱狂的にエルサレムに入城したイエスを大歓迎しました。
ここまで見ると、イエスがエルサレムに入られたことは、何も問題がないように思えます。しかし同じ出来事が、別の角度で記されている他の福音書と読み比べて見る時、色々な人間模様が見え、また群衆それぞれに、イエスに対する様々な思惑があることが見えて来ます。

例えばマタイの福音書の21:10,11節です。ホサナと叫んでイエスを大歓迎している様子はマルコの福音書と変わりませんが、このように描写されています。
こうしてイエスがエルサレムに入られると、都中が大騒ぎになり、「この人はだれなのか」と言った。群衆は「この人はガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言っていた。
イエスを大歓迎している群衆の中に、「この人はだれなのか」と、イエスが何者であるかが分かっていない人々がいたということが分かります。また「この人はだれなのか」という問いに対して
「この人はガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と答えた別の群衆がありました。イエスを力ある一預言者として捉えていますが、罪から救う救い主とは捉えていません。つまりそこにいた群衆は、イエスが偉大な者であると認識していたかもしれませんが、ただの人間として捉えているということが分かります。
また、平行箇所のヨハネの福音書12章には、このような宗教指導者のことばが記されています。
それで、パリサイ人たちは互いに言った。「見てみなさい。何一つうまくいっていない。見なさい。世はこぞってあの人の後について行ってしまった。」

イエスが人々に人気となり、自分たちから人々が去っていくのを嘆き、またイエスに嫉妬している姿です。彼らはイエスの人気が高まり、それが暴動に発展すれば、ローマ帝国の軍隊が介入して自分たちの立場が危うくなる。嫉妬だけでなく、自分の身を守ろうろうとする保身も垣間見えます。そこからイエスを殺害したいという思いにまで発展していき、実際にイエスを十字架に架けていく動力となっていきます。
マルコの福音書に戻りますが、10節で群衆は、われらの父ダビデの、来たるべき国に。とイエスを歓迎しています。一方マタイの福音書の21章には、「ホサナ、ダビデの子に」と、群衆がイエスを賛美しています。「ダビデの国、ダビデの子」と群衆が賛美したのは、イエスがダビデ王の子孫として、強かったダビデ王国を再び復興させてくれる、この世の政治的な王であると捉えていたということです。その力を持ってローマ帝国を蹴散らし、ユダヤをローマ帝国から解放し、再びダビデ王国を復興してくれる。群衆はそのような期待を、イエスに対して持ちました。
罪を赦し、神との関係を回復させるためにイエスがこの世界に来て下さった救い主である、ということを、群衆のほとんどが理解していない、分かっていないということです。

棕櫚の枝を持ってイエスを熱烈に歓迎した人々が、数日後にはイエスを十字架につけろと叫ぶ者たちに変わっていきます。例え宗教指導者である祭司長やパリサイ人、律法学者の巧みな扇動に乗せられたとはいえ、です。イエスを大喜びで迎えた人々が、僅か一週間の後、「この男を殺せ!」と叫ぶ者に変わっている。自分の上着を差し出して「ホサナ」と歓声を上げてイエスを迎えた人々が、一週間後には「十字架につけろ。殺せ」と叫びだす。なぜでしょうか。
それはこの後イエスが、自分たちをローマ帝国から解放しないことが分かったからです。彼らは自分たちの期待が裏切られたからです。彼らの思惑、目論見が叶わなかったからです。彼らはイエスに対する失望を怒りに変え、イエスに敵対する者になってしまいました。これが罪深い人間の姿だと言わざるを得ません。

本日の聖書の箇所には他にも色々な人々、色々な思惑を持っている人々が登場します。
ラザロをはじめ、イエスがなさった奇蹟、しるしを見たい、確かめたいと好奇心で集まっている人々。過ぎ越しの祭りを祝いに来た巡礼中だった人々。イエスの力ある奇蹟を見て、地上の力ある王とみなす人々。イエスが武力でローマ帝国から解放してくれるとイエスに望みを置いた人々。イエスが何者なのか疑っている人々。イエスを旧約聖書に登場する一預言者とみなしている人々。そしてイエスの人気を自分たちの人気と比べて憎しみ、嫌悪する人々。一方その中には先週見たバルティマイをはじめ、イエスに信頼し、イエスを罪からの救い主と信仰をもって従っていた人々もいました。
イエス・キリストを通して、色々な人間がいることが浮き彫りになっていきます。

一方群衆からの歓迎と讃美を受けられたイエスの思い、心情はどのようなものだったでしょうか。本日見ているマルコの福音書、マタイ、ヨハネの福音書にはこの時のイエスの思いは描写されていません。沈黙しています。それはルカの福音書においてのみ、イエスの思いが描かれています。ルカの福音書19章41節、42節です。このように描写されています。エルサレムに近づいて、都をご覧になったイエスは、この都のために泣いて、言われた。「もし、平和に向かう道を、この日おまえも知っていたら──。しかし今、それはおまえの目から隠されている。」
色々な思惑のある人々。イエスによってもたらされようとしている、神の国の訪れを見ようとしない人々。神との平和、神の恵みを拒んでしまった人々。このような驕り高ぶりの結果、それから40年足らずの間にこのエルサレムはローマ軍によって徹底的に破壊され、エルサレムに住む人々は死と苦しみを味わうことになりました。エルサレムの現実の姿と、将来のエルサレムに対してイエスは涙を流されました。

私たち人間は理想を求めます。追い求める存在です。それは神に対しても同じです。強くて優しい神が欲しい。奇蹟を経験させてくれる神が欲しい。分かり易く理解できる神が欲しい。自分の願いを叶え、自分の思い通りに動いてくれる神が欲しい。
イエスは、私たち人間が持つ神概念、神に求める理想や期待を否定され、覆されました。 それは子ロバにまたがり、エルサレムに入城する姿を通して表されています。イエスはロバに乗ってエルサレムに入られました。 普通王のように偉大な者であれば、馬に乗って登場します。敵に勝ち、自分の国に帰って来た英雄は、凱旋の時に馬に乗って来ることからも分かります。 馬は勝利の象徴であり、戦いの象徴です。 もし馬でエルサレムに入ってこれば、それは見栄えも良いものです。
しかしイエスはエルサレムにロバで入城されました。しかもロバの子どもです。まだ体の未成熟な子ロバがヨチヨチ歩くその上に、メシヤなるお方が乗っている。あまりにも滑稽な、間の抜けた光景ではないでしょうか。 この登場によってイエスは、戦いの王を求める群衆に対し、自分の理想や期待を求める群衆に対し、ご自身が平和の王であることを宣言されています。声なき宣言です。子ロバにまたがる平和の君、キリストとして、イエスは人々にご自身を現わされました。 そしてイエスがキリスト、救い主として完成されるのが、十字架を通してでした。
11節、こうしてイエスはエルサレムに着き、宮に入られた。群衆のイエスに対する無理解、勝手な理想と期待、自己中心的な姿を見た後イエスは、将来のエルサレムの姿と重ねながら、涙と共に、神が臨在される宮に入られました。罪深い人間の身代わりのために十字架に架けられるという、神が立てられたご計画をいよいよ実行に移されていく時の痛み、孤独、叫びを祈られたのだと思います。 イエスは父なる神の御心を第一にされました。いのちをかけて神のご計画に従われ、ロバに乗って来られるほどに謙られ、柔和なお方でした。 それは全て、私たち人間への愛でした。

私たち人間の様々な思惑を超えて、イエスは十字架を通して私たち人間の救いを完成させて下さったお方です。そのイエスの十字架の苦しみを、十字架を偲ぶ受難節で覚え、また感謝をお捧げしたいと思います。
祈ります
「それぞれの思惑」
こうしてイエスはエルサレムに着き、宮に入られた。
十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。
(Ⅰコリント1:18)
この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。
(Ⅰコリント1:21)

2026/3/15(日)「癒しよりも大切なこと」マルコ10:46~52 庄司牧師

2026年3月15日 マルコの福音書10:46~52 「癒しより大切なこと」
さて、一行はエリコに着いた。そしてイエスが、弟子たちや多くの群衆と一緒にエリコを出て行かれると、ティマイの子のバルティマイという目の見えない物乞いが、道端に座っていた。彼は、ナザレのイエスがおられると聞いて、「ダビデの子のイエス様、私をあわれんでください」と叫び始めた。多くの人たちが彼を黙らせようとたしなめたが、「ダビデの子よ、私をあわれんでください」と、ますます叫んだ。イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい」と言われた。そこで、彼らはその目の見えない人を呼んで、「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたを呼んでおられる」と言った。その人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。イエスは彼に言われた。「わたしに何をしてほしいのですか。」すると、その目の見えない人は言った。「先生、目が見えるようにしてください。」そこでイエスは言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救いました。」すると、すぐに彼は見えるようになり、道を進むイエスについて行った。

 マルコの福音書、10章の最後に記されている出来事です。本日の箇所において著者のマルコは、二つの大切なことを理解するようと、読み手に願っているように思います。 その一つは、イエスが私たち人間に仕えるためにこの世界に来て下さったこと。もう一つは、バルティマイのように霊の目が開かれ、大切なことを悟り、救われることです。 人に仕える大切さは、先週取り挙げたマルコの福音書10章45節において、イエスご自身が語られたことでした。
人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。
神の一人子であり、神そのものであるイエスが、「人間」となってこの世界に飛びこんで来て下さいました。イエスは父なる神の御心に100%、完全に従われました。それは贖いのためでした。
罪と死と、サタンの奴隷になっている私たち人間のために、イエスはご自分のいのちを、十字架で代価として支払って下さいました。しもべとして、徹底的に私たち人間に仕えて下さったのがイエスですが、そのしもべとして姿勢、姿・態度が、本日の聖書の箇所である、バルティマイの癒しにも表されています。

当時、宗教指導者であったラビなどは、歩きながら人々に教えていました。おそらくイエスもエリコの町において、歩きながら人々を教え、福音を語っておられたと思います。そんな中、盲目であるバルティマイが叫んでいます。 48節に、「多くの人たちが彼を黙らせようとたしなめた」とありますが、たしなめるということばは、「厳しく言う」とか、「非難する」という意味が含まれている強いことばです。「うるさい、邪魔だ!イエスが言っていることが聞こえないじゃないか!イエスが盲人のお前なんかを相手をする訳ないだろ!どうせお前の目は癒されない!」バルティマイに対して汚いことば、誹謗中傷などが飛び交っていたと想像します。当時のユダヤ人たちは、障害や重い病気などを患っている人は、本人か先祖が罪を犯したゆえに、その罪に対する神からの罰(呪い)であると考えられていました。ですからバルティマイのような盲人は、神から呪われた者として、人々から嫌悪されるような存在であり、誰も近寄って来ることはなかったでしょう。
誰も見向きもしない存在。誰も近寄って来ない存在。それがバルティマイでした。
バルティマイが叫んでいる騒然としている最中、イエスはどういう状況にあったでしょうか。
イエスご自身、緊迫している状況にありました。 イエスとイエスの弟子の一行がエリコの町までやって来ました。これからイエスが十字架に架けられるために向かって行くエルサレムから、わずか3,40キロほどしか離れていません。エリコの町から歩いて1日から2日かかかるというくらい、エルサレムに近づいて来ました。これから全人類の罪を十字架で全て背負って死ぬという、神からの、途方もない使命を全うする時が近づいて来ました。 イエスが一人の盲人に関わり合っている余裕は、肉体的にも、また精神的にもないような場面です。しかしイエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい」と、言われました。彼の叫びがイエスの足を止めました。彼の熱心が、イエスの足を止め、イエスを振り向かせました。そしてイエスは彼を癒されました。
このマルコの福音書では、信仰を通して彼が癒されたことが記されています。平行箇所のルカの福音書の18章においては、イエスがことばで命じることによってバルティマイは癒されています。また同じく平行箇所のマタイの福音書の20章においては、イエスが実際に彼の目に触れて癒しておられます。生きるための力も希望も喜びもなく、社会から排除されていたバルティマイのために、イエスは立ち止まり、声をかけ、体に触れられ、癒されました。
またマタイの福音書の20章には、「イエスは深くあわれんで」という、バルティマイに対するイエスの深い同情が描写されています。イエスは深く憐れみつつ、バルティマイに声をかけ、手で触れて癒されました。「私は仕えられるためではなく、仕えるために来た」とイエスは言われました。社会の底辺にいたようなバルティマイに対してもイエスは誠実に、また優しく振舞われました。ですからイエスのバルティマイへの対応は、イエスが仕えるために来たと言われたことが本当であり、偽りではないことの試金石、証となっています。 全ての人類、私たち全ての人間に仕えるために私たちの世界に来て下さった、それが私たちの主、イエス・キリストです。

著者のマルコが本日の箇所で強調したのは二つでした。イエスが仕えるために来たと語られたことが本当であったこと。そしてもう一つは、私たちの霊的な目が開かれ、救われることです。
なぜバルティマイが救われていると言えるのか。すなわち罪が赦され、神との関係が回復したのが分かるのか。 それはバルティマイが、癒された後にイエスについて行ったからです。バルティマイは目が癒された後、「道を進むイエスについて行った」と、最後の節である52節に記されています。 前の聖書訳は、「イエスの行かれるところについて行った」と訳されています。そのどちらの翻訳においても、バルティマイはイエスが行かれるところにはどこにでもついて行く、ついて行ったという含みがある表現です。イエスの後について行く、従って行くというバルティマイの意志、決意、イエスに対する強い信頼を感じさせる表現が使われています。バルティマイがイエスを自分の主、救い主であると信じなければできない行動であり、あり方です。また著者のマルコは彼の名前を記しました。彼の名前が聖書に載るということは、おそらく初代教会において、彼がキリストの弟子として活躍した可能性を示しています。この後聖書の中に彼の名前は出て来ませんが、名前が載っているということで、彼の活躍が暗示されていると言えるでしょう。
バルティマイは盲目であり46節を見ると、道端に座っていたと記されています。座っていたという時制を見ると、バルティマイはそこにずっと座っていたことが分かる時制です。つまり彼は長い間盲目であったため、物乞いをせざるを得ない状況だったということです。 もしかすると生まれつき盲目であり、彼の家族はすでに亡くなったか、または家族に捨てられてしまったということも考えられます。いずれにせよ彼が孤独だったことには変わりありません。しかしイエスに出会い、彼は肉体的な目だけでなく、イエスを知り、信じるという霊的な目も開かれました。それゆえイエスが神であり、救い主であるということを信じることが出来ました。 家族も、仕事も、地位も名誉も何も持っていなかったバルティマイは、神との関係が回復し、神の子とされ、神の家族に迎え入れられ、更にイエスの弟子としてイエスについていきました。彼の人生は大きく変わりました。人々に見下され、価値があるとは見なされない、何も持っていないような者が救いを受ける。イエスを信じることによる大転換、大逆転劇がバルティマイに起こりました。

イエスがこの世界におられた時、他にもイエスを知る機会があり、実際にイエスと接することができた人は、バルティマイだけではありません-大勢いました、
イエスに敵対していましたが、旧約聖書を教えていた民の指導者でもあった律法学者やパリサイ人たち。イエスに悪霊を追い出してもらった人々。病を癒してもらった人々。イエスの奇蹟を見、あるいは経験した多くの群衆などです。 その中にはバルティマイとは正反対の立場にあった、金持ちの青年も含まれます。彼は財産も高い地位も名誉も、人がうらやむ全てを持っていました。しかしイエスの下から立ち去っていきました。この青年をはじめ、多くの人々がイエスと接点がありました。もっとイエスを知ることも、さらに一歩踏み込んでイエスを信じることもできました。しかしイエスから立ち去って行きました。
聖書によれば、またイエスご自身が言われることばによれば、イエスと信仰によって繋がらなかった者は、イエスの贖いの代価に伴う罪の赦しや神の子とされる特権、永遠のいのちなどに与ることができません。神の国に入れる者と入れない者は、イエスを信じるか信じないかで決まります。

また、バルティマイが救われているという根拠は、彼の叫びにも表れています。彼はイエスのことを「ダビデの子」と叫びました。当時のユダヤの人々は、救い主、メシヤがダビデの子孫から出ると信じていました。バルティマイは、目は見えませんでしたが、耳は聞こえていました。彼は他の人々からイエスの噂や色々な御業を聞いてきた結果、イエスをすでに救い主であると信じました。彼の叫びから、また、イエスに呼ばれて踊り上がってイエスの下に来た、と言う描写からも明らかです。 イエスが自分のところに来て下さるだけで自分は癒される。そのような強い確信をバルティマイが持っていたことが分かります。そして彼はイエスを信じているがゆえに、癒しのチャンスを絶対に自分のものにしようとしました。しかし彼ができることは叫ぶことだけでした。それゆえ彼は自分の出来ること、イエスを信じる信仰を、叫ぶことを通して表明しました。 加えて彼の信仰とその確信は、上着を投げ捨てたことにも表されています。 この上着とは、普段着の上に羽織る厚手の布やマントのようなものです。多機能でした。昼間は寒さを防ぎ、夜は寒さを防ぐだけでなく、毛布の代わりになるような、特に貧しいに人にとっては命を守るほどに大切なものでした。それゆえ、バルティマイの持っていた唯一の財産であったと言えるものです。 この上着はバルティマイにとって、ただの上着ではありませんでした。生活の基盤であり、自分の全て、でした。これを投げ捨てる。まるでこれまでの自分を捨て、自分の持っているものをイエスに差し出す。
イエスに対する献身の現れにも見えます。

バルティマイのイエスに対する信仰、信頼、意志、決意、決断、献身の思いに、イエスはしっかりと応答して下さいました。イエスは52節においてこのようにバルティマイに語られました。
「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救いました。」この後すぐにバルティマイは癒されました。実際にバルティマイを癒されたのはイエスご自身です。実際に彼を癒し、同時に永遠のいのちを与え、滅びから救われたのはイエスご自身でした。しかしイエスは、彼自身の信仰が彼を、バルティマイ自身を救った-救いを彼の手柄としているほどに、彼の信仰を高く評価されています。イエスはバルティマイの信仰、決心、決断、意志、献身の思いに応えるだけではなく、彼の信仰を尊んでおられます。自分の持っている全てをかけてイエスの下にきたバルティマイに対する、イエスの愛と憐れみ、優しさが、バルティマイへの応答を通して豊かに表されています。

そしてバルティマイはイエスの行くところにはどこにでも、進まれるところにはどんな場所でもついて行くことになります。 こうしてバルティマイは数日後、十字架上で叫び声を上げられるイエスの姿を見ることになります。イエスに開いて頂いたその目で、自分の目を開いて下さったお方が十字架につけられる光景をしっかりと見たのです。自分のために足を留め、立ち止って下さったイエス。自分という存在を認め、肉体的な目を開いて下さったイエス。霊的な目も開き、永遠のいのちも与えて下さったイエス。 その愛すべきイエスが自分の罪の身代わりのために、人々の罪の身代わりのために十字架に架けられている。
この時バルティマイは、自分の存在の重みを感じたはずです。私のためにイエスは十字架に架かって下さるほど私を愛しておられる。私をそれほどまでに価値のある者なのだ。 感謝と痛みが、バルティマイの胸にあったと思います。

バルティマイだけではありません。私たちの信仰に応えて下さったイエス。私たちを高価で尊いと言って下さり、認めて下さったイエス。罪人である私たちを、私を憐れみ、愛され、ご自分を献げ尽くして下さったイエス。

この神の子、救い主であるイエス・キリストが、私たちの神、私の主になって下さったことを感謝しつつ、これからもイエスについて行く者、足跡に従う者でありたいと願います。
祈ります
「癒しより大切なこと」
そこでイエスは言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救いました。」すると、すぐに彼は見えるようになり、道を進むイエスについて行った。

ゴスペルカフェ可児 2026/3/6

ゴスペルカフェ可児 第5回は、川鰭さん(vo)、トム兼松さん(gt)のコラボでした。

来月、4月3日金曜日も楽しみですね!

2026/3/8(日)「自分の力でイエスを信じることができますか?」Ⅰコリント12:3b 庄司牧師

2026年3月8日 問39 あなたは自分で罪を悔い改め、イエスさまを信じることができますか。
「自分の力でイエスを信じることができますか?」
答 いいえ。聖霊が私たちの心にはたらいて、イエスさまを信じるようにしてくださるのです。
招詞Ⅰ ヨハネ4:3イエスを告白しない霊はみな、神からのものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていましたが、今すでに世に来ているのです。                                       
今週のみ言葉 コリント人への手紙第一12章3節b
聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。          
月の第二日曜日です。いつものように子ども信仰問答からお話をしていきます。本日はコリントにある(今のギリシャ)に向けて書かれた手紙です。著者はかつてキリスト者を迫害していたパウロです。彼はイエスを信じてから大きく変えられました。パウロは他の手紙で、自分のことを  「キリスト・イエスのしもべ、パウロ」と紹介していることからも分かります。イエスを自分の主人、自分はそのしもべ、奴隷であると認識している挨拶です。本日の聖書箇所も、主人としもべの関係が記されています。それは「イエスは主」と記されているからです。イエスを主と、自分の主人と呼ぶことが出来るのは、パウロを始めとして、イエスを信じる人々、つまり私たちも含まれます。本日の信仰問答の質問には、「自分で罪を悔い改め、イエスさまを信じることができますか。」とありました。悔い改めとは方向転換です。何からの方向転換と言えば、罪からの方向転換。 罪とは、言い換えれば自分中心です。神を無視し、時に神に敵対し、ただ自分だけに焦点を合わせて生きることです。自分の思い、願い、欲求など、自分のしたいことだけをする、自分が人生の主であるという生き方です。そこからの方向転換ですから、自分中心に生き、神から離れて生きているという罪に背を向け、イエスの方に向き直る。目を向ける。イエスの方に焦点を合わせていく姿勢、態度、そして生き方が、罪を悔い改める者に起こる、方向転換です。従って悔い改めとは、自分の罪を認め、イエスの愛と救いを受け入れ、新しい生き方へと踏み出す、深い決心、決意が込められていることばです。この宣言を心からするには、つまりイエスを自分の主と心から信じて告白することは、普通人間にはできません。それは、人間は自分が主、主人であるという生き方をしているからです。自分の生きたいように生きる。私たち生まれつきの人間は、そのような権利があり、そのような自由があると思っています。それは自分という存在が自分のものであり、自分自身に所属するものであると思っているからです。これは自分が「生きている」という状態です。しかしイエスが主という生き方は、主権が神に移ります。自分のいのちが、人生が、権利が、自由が…、神にある。自分の人生の主権を神が持っていると信じ、委ねて行く生き方です。ですからその生き方は、自分が生きるのではなく、神に、「生かされている」と言う歩みになっていきます。 人間はアダムとエバから続く罪を持っていますから、自分の力でそのような変化を生み出すことはできません。その力と転換をもたらすのはただ、神のみ、聖霊の力と導きです。また「イエスは主です」と言う告白は、イエスの33年間の公生涯において成された御業が、「私のためであった」と信じる告白でもあります。イエスが罪の身代わりに十字架で死なれた、それは私のためであった。そしてイエスが死者の中から甦られたのは、復活のいのちを私に与えるためであった。そのように信じ、受け入れるという信仰告白でもあります。 ですからイエスを主と告白する者は、すなわちイエスを自分の救い主であると信じ、イエスに従っていきたいと願う者は、おのずと生き方が変わっていきます。 これまで自分が自分の人生の主人として生きてきたことを止め、イエスの教えに従い、イエスが自分の人生を導いて下さると信じ、委ねていく人生となっていきます。従って「イエスは主です」という告白は、自らの全生活、全人生をイエスに委ねる、私たちキリスト者の根本的かつ最も短い宣言であり、信仰告白であると言えるでしょう。そしてこれは私たちの努力や行いにはよらず、神からのギフト、プレゼントであるということを、パウロは12章1節で述べています。さて、兄弟たち。御霊の賜物については、私はあなたがたに知らずにいてほしくありません。つまりイエスを主と告白できるのは、御霊、聖霊の働きであるのと同時に、これは私たちにとって賜物であるということです。賜物とは「贈り物」を意味します。受けるに値しない者に与えられる、神の一方的な好意です。神が、すなわちイエス・キリストが私たち人間に御霊を贈られたのは、私たちが御霊を通して救われて欲しいという願いからでもありますが、他にも理由、目的があります。そのことが7節に記されています。
皆の益となるために、一人ひとりに御霊の現れが与えられているのです。」 本日見ている12章には、具体的な御霊の現れが記されています。 ある人には信仰、癒し、預言などが、御霊の実際的な現れとして記されています。 コリントの教会は賜物が豊かに与えられている教会であったと、パウロはこの手紙に記しています。一方同時に、これらの賜物を誇っていた人々がいました。その結果、コリント教会に分裂、分派などといった問題が起こりました。コリント人への手紙は、そのような問題を起こしている人々に宛てた手紙でもあります。しかし本来賜物は、その賜物が与えられた人が自分を誇るためのものではなく、7節に記されているように、皆の益となるためだということを、私たちも心に留めておく必要があります。 これは霊的な賜物に限りません。その人の持っている能力、持ち物、経験、生まれから人格や性格などの違いも、皆が益となるためだと言うことです。
つまりキリストの体である教会が多様性に富み、豊かで、キリストの素晴らしさが表されるために、私たちはそれぞれが異なる能力や賜物が与えられ、教会に置かれている、合わされていると言うことです。そして教会が励まされ、徳が高められ、キリストの体が一致して建て上げられるためには、私たち一人一人が必要です。そのために神は、キリストの体である教会が建て上げられるために、私たち一人一人を招いて下さっています。 それゆえここにおられるお一人一人は、イエスに招かれ、イエスの体、可児キリスト教会を建て上げるために必要なお一人一人です。
この後、益田兄弟姉妹の転入会式が行われます。お二人にそれぞれ証をして頂きますが、この教会に来られるきっかけがいくつかありました。それは御霊、聖霊の導きであっただけでなく、イエスがお二人を-益田さん家族を-可児キリスト教会を建て上げるために招いて下さったと言うことができます。 感謝です。 キリストの体である可児キリスト教会を、これからも皆さんと共に、建て上げていきたいと願っています。
祈ります(聖霊、信仰、み言葉、イエスの十字架、復活、教会への招き、神のご計画)
あなたは自分で罪を悔い改め、イエスさまを信じることができますか。            
答 いいえ。聖霊が私たちの心にはたらいて、イエスさまを信じるようにしてくださるのです。
今週のみ言葉 コリント人への手紙第一12章3節b
聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。 

2026/3/1(日)「神の国を受け入れる」マルコ10:35~45 庄司牧師

2026年3月1日 マルコの福音書10:35~45「神の国を受け入れる」
ゼベダイの息子たち、ヤコブとヨハネが、イエスのところに来て言った。「先生。私たちが願うことをかなえていただきたいのです。」イエスは彼らに言われた。「何をしてほしいのですか。」彼らは言った。「あなたが栄光をお受けになるとき、一人があなたの右に、もう一人が左に座るようにしてください。」しかし、イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、自分が何を求めているのか分かっていません。わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができますか。」彼らは「できます」と言った。そこで、イエスは言われた。「確かにあなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることになります。しかし、わたしの右と左に座ることは、わたしが許すことではありません。それは備えられた人たちに与えられるのです。」ほかの十人はこれを聞いて、ヤコブとヨハネに腹を立て始めた。そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められている者たちは、人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。しかし、あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」( マルコの福音書10:35-45 )

今年のテーマは「神の国を受け入れる」です。前回、金持ちの青年のお話をしました。当時金持ちは神の祝福されている人、それゆえ救いに近い人だと思われていました。しかし彼は神よりも財産に執着したゆえに、神の国に入ることができないとイエスに指摘されました。
神、すなわちイエスが支配されておられる神の国の規準は、私たちの常識、価値観、規準とは「逆」「反対」であるという一つの例です。 本日の聖書箇所は、神の国の規準、すなわちイエスの規準が、人間の規準とは異なる最たるものです。共にみ言葉から見て行きたいと思います。
本日の聖書箇所は、弟子たちの願いから始まっています。
10:35 ゼベダイの息子たち、ヤコブとヨハネが、イエスのところに来て言った。「先生。私たちが願うことをかなえていただきたいのです。」イエスは人の心を見抜かれます。彼らの願いがどういうものであるかを御存知でした。しかしあえて彼らに願いを語らせました。
10:36 「何をしてほしいのですか。」心にあるものをことばに登らせることによって、イエスは彼ら自身が何を考え、何を願っているのかをはっきりさせました。しかし彼らが口に出したことは神の、すなわちイエスの規準の逆、反対のものでした。すなわち御心に適わない願いでした。
10:37 「あなたが栄光をお受けになるとき、一人があなたの右に、もう一人が左に座るようにしてください。」彼らは神の国を地上の王国のように考え、地上と同じような地位と栄光を求めました。主イエスが王となられる時に、自分たちを右と左に座らせてください、すなわち主イエスの側近く、最も高い地位につけてください、と願いました。ヤコブとヨハネは、他の弟子たちよりも偉くなりたいと思った訳です。 これを聞いた他の10人の弟子たちは腹を立てました。二人に出し抜かれたと思ったようです。彼らも権力や栄誉を求め、自分が最も偉くなり、イエスと共に高い地位につきたい、と思っていたことが分かります。かつてイエスの弟子たちは誰が一番偉いかと論じあっていたことがありましたが、全く変わっていません。それに対してイエスは38節で、
10:38 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、自分が何を求めているのか分かっていません。わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができますか。」
10:39 彼らは「できます」と言った。そこで、イエスは言われた。「確かにあなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることになります。
この杯とは何を指しているのでしょうか。イエスは十字架の直前、ゲツセマネの園でこのような祈りを献げられました。「父よ、もし出来るならばこの杯を私からとりのけて下さい」主イエスでさえ、断りたくなるような杯です。
旧約聖書、エレミヤ書、25章15節にはこのような神のことばがあります。まことにイスラエルの神、主は、私にこう言われた。「この憤りのぶどう酒の杯をわたしの手から取り、わたしがあなたを遣わすすべての国々に、これを飲ませよ。」従って杯とは、神の怒りが満たされているものの象徴であることが分かります。その怒りを飲ませるとは、神を信じない、神に従わない国々に、神の裁きが下るということが表されています。 先週出エジプト記を見ました。イスラエルが金の子牛を神として作り、崇め、不品行を行い、神に裁かれました。 しかし今の日本を見ても、また世界を見ても、イスラエルと全く変わりはありません。同じです。 偶像を作り、それを拝み、仕え、従っています。ですからイエスが言われる杯とは、神を信じない、従わない人類に対する神の怒りであり、その怒りは、罪ある全ての人間に向けられているということになります。
ではイエスが言われた、わたしが受けるバプテスマとは何を意味しているのでしょうか。イエスはルカの福音書の中でこのように語られています。ルカの福音書12:50 わたしには受けるべきバプテスマがあります。それが成し遂げられるまで、わたしはどれほど苦しむでしょう。
イエスが言われた受けるべきバプテスマとは、苦しみであることが分かります。そしてそのためにどれほど苦しまなければならないのか、というイエスの責任、義務、そして使命を感じさせることばです。 本日の聖書箇所には、私が受けるバプテスマと、神の怒りが満たされている杯とが結びついています。従って私が受けるバプテスマとは、杯、つまり神の怒りを飲む-すなわち神の怒りをその身に受ける、十字架の痛み、苦しみ、苦難を表していることが分かります。本来であれば犯罪者が架けられる十字架ですが、イエスは神の怒りを人類の身代わりに十字架で受け、その身代わりの苦難のことを、イエスは「私が受けるバプテスマ」と呼ばれました。
ですからイエスが「わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができますか。」ヤコブとヨハネに尋ねられた本当の意味は、あなたたちは神の怒りに触れることが出来ますか?
神の怒りに対して神と人との間に立ってとりなすことが出来ますか?神の怒りを宥めることができますか?神の怒りをその身に受けることができますか?そのように聞いておられるということです。途方もないことをイエスは二人に問われた。ヤコブとヨハネはもちろんそのようなことは分かりません。いや、どのような人間であっても分かるはずがありません。ですから彼らは分からず、その重大な意味を理解できなかったゆえに、簡単に「できます」と答えました。答えることができました。罪に対する、また神の怒りに対する人間の無知、理解の乏しさを弟子たちが代表し、また表していると言えます。 イエスは彼らの無知や無理解を承知の上で、「確かにあなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることになります。」と言われました。
それはイエスがあじあわれる十字架の苦しみとは比べることはできませんが、イエスのために、福音のために彼らが将来受けることになる迫害、痛み、苦難、そして死を予知、預言していることばでもあります。 実際に彼らは苦難や痛みをこれから経験して行くことになります。ヤコブはエルサレムで迫害のためにヘロデ王に殺害されて殉教します。(使徒12:2)そしてヨハネはローマ皇帝ドミティアヌスの迫害によって、パトモスという島に、島流しになりました。(黙示録1:9)
イエスはヤコブとヨハネの将来に起こることを踏まえながら、人間の願いと神のご計画が異なるということを40節で語られました。
10:40 しかし、わたしの右と左に座ることは、わたしが許すことではありません。それは備えられた人たちに与えられるのです。」このような名誉を意のままに与えることはイエスに任せられたのではなく、父なる神にのみ属するということです。 神の子であるイエスですら、父なる神の御心に、ご計画に従っている。そしてそれが人類の身代わりのための十字架である。従って自分の願いや計画よりも、神の御心、ご計画に従って生きることが一番大切である。栄誉や栄光を求めて生きることは重要ではない、ということをイエスは彼らに諭されています。 さらにイエスはここで、彼らが願っている栄誉、求めている栄光が、この世の規準、そして神を知らないで歩んでいる者たちと同じ-ここでは異邦人を代表させて-であることを42節で警告として語られ、そうあってはならない、そのように歩んではならないと43節、44節で語っておられます。
10:42 「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められている者たちは、人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。
10:43 しかし、あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。
イエスは異邦人世界の規準、すなわちこの世の規準と、神の国の規準、イエスご自身の持っておられる規準とを、明確に対比されました。それは自分のためではなく、他者のために仕え、尽くしていくことを使命とする生き方です。 さらに44節においてこのように語られました。
10:44 あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。
しもべとは、自分の身柄(仕事も生活も)が他者に属するいわゆる奴隷の意味です。従ってイエスは、神の国の価値観や生き方、規準はこの世のものとは全く反対で、偉い人、人の上に立ちたいと思っている人はむしろ徹底して仕えなさい。そして先頭に立つ者、支配者は、しもべのように、そして奴隷のように人々のために生きるべきだ、と言われました。 実際にイエスは、弟子たちに教えられたとおりに生きたお方です。45節にそのことが述べられています。
10:45 人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。
イエスの弟子たちがなぜ、仕える者の姿をとるべきなのかという理由、そして根拠が語られています。それはそもそもイエスが、仕えられるためにではなく、仕えるためにこの世に、この世界に来たからだ、ということです。そしてイエスが人々に仕えるためにこの世に来たということが具体的に表されているのが、「十字架」への歩みであり、また「十字架」で成し遂げられたことでした。
「十字架」への歩みと、「十字架」で成し遂げられたことをイエスはここで「贖いの代価」ということばを使って説明されておられます。
何度かお話していますが、贖いとは、戦争の捕虜や奴隷、負債者を解放するため、自由にするために、誰かがその人を買い戻すための身代金を意味します。「多くの人のため」とありますが、これは一部の人ではなく、人類を包括する、人類全てと理解して良いでしょう。イエスが人間として歩まれた今から2000年前の時代を超え、今を生きている日本人も、全ての国、民族も含まれます。イエスは、神を信ぜず、自分勝手に歩んでいる人間に対する神の怒りの杯を、十字架で全て受け止めて下さいました。またイエスが十字架で受け止められたのは神の怒りだけでなく、私たち人間の罪と、罪から来る死でした。さらにイエスは悪魔、サタンが人間の罪を足場にして、人間を奴隷にしているその私たち人間を、十字架を通して解放して下さるお方です。それら全てが十字架の贖いを通して成し遂げられました。 罪に束縛されている人間を解放し、神の怒りを宥め、またサタンの奴隷からも解放する業が十字架です。それもご自身が私たちを生かすためにしもべになり、奴隷となって仕えて下さったからです。 またこの45節には「贖い」という思想だけではありません。「いのちを与えるために来た」とイエスが語られた「いのち」にも深い意味があります。

「いのち」は、新約聖書の原語のギリシャ語で「プシュケー」ということばが使われていますが、いのちという意味の他に、魂、生涯、自分自身などを意味することばでもあります。 イエスは私たちたちを罪と死と、サタンの奴隷から解放するために私たちを贖って下さいましたが、その代価、すなわち私たち人類に捧げて下さったのはいのちだけではない-心、感情、意志などを含む魂、イエスの歩まれた全生涯、そしてイエスご自身。すなわちイエスは、イエスが持っておられるすべてを、私たちのために与え尽くして下さった、ということが表されていることばです。 そしてその全てが、十字架に集中、結集していると言えます。イエスの十字架の死は、「多くの人の身代金」としての、死でした。捕えられ、捕虜となっているのは私たちのことです。自分たちを右と左に座らせてくださいと願った二人の弟子たちも、それに憤慨した他の弟子たちも、そして人と自分とを見比べることによって一喜一憂している私たちも、すなわち罪の中に足を取られ、身動きできない私たち一人一人の人間のための、身代金でした。イエスが十字架に架かるほどに父なる神の御心に、またご計画に従順に従われました。それほどまでに私たち人間に仕えて下さったゆえに、今私たちはイエスの十字架の贖いを信じることによって罪赦され、神の子とされる特権に与ることができました。そしてイエスによって救われた私たちもまた、イエスが人々に仕えられたように、人に仕えていく者として召されています。どれだけ仕えることが出来るのか、他の人と比べてどうなのか、などということは問題にはなりません。不十分にしか出来ないかもしれませんが、それでも喜んで、感謝しつつ、自分に出来ることを通して人に仕えていく。イエスを模範として。
イエスの仕える姿は、この世、この世界の規準の逆、反対です。そしてその反対の規準にある神の国に、私たちはイエスを通して入れて頂けました。イエスに感謝しつつ、神の国、すなわちイエスの規準によって歩み、人々に仕えていくことができますように。
祈ります。
「神の国を受け入れる」
人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。

2026/2/22(日)「取り戻すために捨てる」出エジプト33:1~5 庄司牧師

2026年2月22日 「取り戻すために捨てる」 出エジプト33:1~6
主はモーセに言われた。「あなたも、あなたがエジプトの地から連れ上った民も、ここから上って行って、わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓って、『これをあなたの子孫に与える』と言った地に行け。わたしはあなたがたの前に一人の使いを遣わし、カナン人、アモリ人、ヒッタイト人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人を追い払い、乳と蜜の流れる地にあなたがたを行かせる。しかし、わたしは、あなたがたのただ中にあっては上らない。あなたがたはうなじを固くする民なので、わたしが途中であなたがたを絶ち滅ぼしてしまわないようにするためだ。」民はこの悪い知らせを聞いて嘆き悲しみ、一人も飾り物を身に着ける者はいなかった。主はモーセに次のように命じておられた。「イスラエルの子らに言え。『あなたがたは、うなじを固くする民だ。一時でも、あなたがたのただ中にあって上って行こうものなら、わたしはあなたがたを絶ち滅ぼしてしまうだろう。今、飾り物を身から取り外しなさい。そうすれば、あなたがたのために何をするべきかを考えよう。』」それでイスラエルの子らは、ホレブの山以後、自分の飾り物を外した。
今までの経緯を少し振り返ってみたいと思います。 イスラエルがまだエジプトで奴隷とされていた時に、主はモーセにこのように語られました。3:7,8をお読みします。後でお開き下さい。
主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみを確かに見、追い立てる者たちの前での彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを確かに知っている。わたしが下って来たのは、エジプトの手から彼らを救い出し、その地から、広く良い地、乳と蜜の流れる地に、カナン人、ヒッタイト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる場所に、彼らを導き上るためである。
神が約束された素晴らしい地であるカナン、現在のパレスチナと、そこに住んでいる民族が列挙されていますが、本日の聖書の箇所と同じです。 神はこの約束を守るためにリーダーとしてモーセを立て、実際に奴隷となっていたエジプトから、イスラエル民族を脱出させました。 神はまた、カナンの地にイスラエルを導き入れるために、この後彼らと契約を結ばれました。 その時の様子が以前共に見て来ましたが、24章に描写されています。「私の他に神があってはならない。偶像を造って拝んではならない。父と母を敬え、殺してはならない。犯してはならない。」など、10の教え戒めである十戒を中心とする教え、戒めがモーセを通じて伝えられ、彼らがそれを理解し、同意し、従うと決心してから結ばれた契約でした。この契約をもって神がイスラエルの神となり、イスラエルは神の民となるという特別な関係が結ばれた契約でもありました。
神と民の契約が結ばれた後、神はモーセをシナイ山に登らせました。さらにモーセに契約の細かい内容を伝えるためでした。それが25章から31章に記されています。 主なる神はモーセに全ての契約の内容を伝えると、最後に、契約のしるしとなる神の教えや戒めが記されている石の板を、モーセに授けました。その時の様子が31章の最後、18節に描写されています。
こうして主は、シナイ山でモーセと語り終えたとき、さとしの板を二枚、すなわち神の指で書き記された石の板をモーセにお授けになった。
モーセがシナイ山で主なる神から契約の内容を聞かされている時、山のふもとにいるイスラエルの民に起こった出来事が32章に記されています。悲惨な内容です。その出来事の結果、主なる神がイスラエルに決断されたこと、それも良くない、悲しい決断-が本日の聖書の箇所です。神がイスラエルにとって悲しい決断をされた背景は、イスラエルの民たちが犯した偶像礼拝でした。
モーセの帰りが遅い、どうかなってしまったのかと不安になったイスラエルの民は、自分たちを導く目に見える神を造るように祭司アロンに要求し、アロンは金の子牛の像を造りました。 人々はその金の子牛を神として拝み、その前で飲めや歌えの祭りを始めました。その最中にモーセが戻り、その様子を見て激しく怒りました。先ほど触れましたが、モーセが手にしていた石の板に記されている十戒には、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。あなたはいかなる像も造ってはならない。それらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない」と書かれています。 イスラエルの民はそれらの掟を既に聞いており、それを守ると約束しました。それゆえ神はイスラエルと契約を結んで下さったのです。しかしモーセが契約の印として石の板を神からいただいているまさにその時、イスラエルは金の子牛の像を造ってそれを拝むという、主なる神を裏切る罪を犯してしまいました。 この時モーセは、手にしていた石の板を砕きました。民が犯してしまった罪のために、神との契約が破綻-壊れ、台無しになってしまったということを表しています。この時神の怒りがイスラエルに向かって燃え上がり、彼らを絶ち滅ぼすとまで言われました。そこでモーセは神に執り成しました。罪を犯した民たちに代わって彼らのために祈り、神が下そうとしていた裁きが留められるように、神の憐れみを求めました。
神はモーセの執り成しの祈りに応えられ、金の子牛を拝んで、神に罪を犯した約三千人が主に打たれましたが、イスラエル民族全てが絶ち滅ぼされるという裁きは留められました。神は、罪は罪として本人に刈り取らせる義なる神であると同時に、情け深く、憐れみに富み、怒るに遅いお方であるということが表されています。
金の子牛を作って拝むというのは偶像礼拝であり、神との契約、約束を破る大きな罪でした。しかしイスラエルはそれまでにもずっと神を忍耐させて来ました。主なる神は、彼らイスラエル民族を、かつて奴隷とされていたエジプトからモーセを通して連れ出されましたが、その後、荒野におけるイスラエルの人々は、まさに主への不平、不満のオンパレードでした。しかし神はそのような彼らに対しても真実で誠実でした。 彼らイスラエルが、水がない!と言えば岩から水を出され、お腹が減ったと言えばうずらやマナ-天からのパンを降らせ、敵に攻撃されれば、その敵からも守って下さいました。 しかし彼らは神の真実、誠実さを裏切って金の子牛を作って拝むという、大きな罪を犯してしまう。彼らの自己中心的な身勝手さ、頑なで自分の思いに固執し、それを通そうと我を張る。神の御心をなかなか受け入れず、信じようとせず、従おうとしない、神からすればまことに扱いにくい、不従順な民であり、それは今に始まったことではない、ということです。 しかしそれでもモーセがいる間はモーセが神と民の間に立ち、仲介者、仲立ちをしてくれました。つまり彼らは神の御心を自ら求めるというよりも、モーセが言ったことに条件反射的に、もしくは仕方がなく従って来たという態度だったということです。その姿勢、態度が、モーセ不在の時に明らかになりました。 彼らに元々ある不信仰、不従順、自己中心性が、金の子牛を勝手に作り、神として礼拝するという偶像礼拝という形で露わにされ、明らかにされたに過ぎません。 そこで神は、彼らにショック療法を施されます。それが本日の聖書箇所です。
本日の聖書箇所の内容をまとめるならば、このようになるかもしれません。「私はあなたがたとは共に約束の地には行かない。もし一緒にいけば、あなたがたを滅ぼしてしまうかもしれない。私の代わりにあなたがたを導く御使い、天使は送る。しかし自分たち勝手にやりなさい。」
つまり本日の聖書箇所はある意味、イスラエルの民たちに対して愛想を尽かしている神がおられる、そのような場面です。 「民はこの悪い知らせを聞いて嘆き悲しみ」とありますから、主からの宣告はイスラエルにとってかなりのショックとなりました。
本日の出来事を、私たちが待ち望んでいる御国、神の国と関連させて想像して見て下さい。私たちクリスチャンが神の国に入ることができるのは、イエスが神であり、私たちの罪を赦し、神との関係を回復させて下さる救い主だと信じたからでした。 しかし私たちが自分の生涯を終えて神の国に復活の体を持って入る時、そこにイエスがおられなかったら。つまり神の気配も臨在もなかったならば。どんなに神の国が素晴らしくても神の国自身の意味も必要性も、価値もありません。
確かにイスラエルの民は不信仰で不従順でした。しかし神が共におられるということを経験してきました。出エジプトの時も、敵から守られた時も、必要な全てが与えられて来たことも。 彼らは神の臨在を肌で感じ、また経験して来ました。そしてそのショックは良い結果をもたらすことになります。 本日の聖書箇所において主なる神は、彼らに愛想を尽かしながらも、イスラエルの民を滅ぼすのではなく、以前約束されたように、彼らの祖先であるアブラハム、イサク、ヤコブに約束された土地に民を導こうとされています。しかし主ご自身はともに行かない、と言われました。その理由は神が聖なるお方であり、イスラエルの民の頑なさを見逃すことができないからです。もし彼らとカナンの地へと一緒にいて不正を見るならば、滅ぼさないではおられなくなる。神は民たちの罪を見逃すことはできない。そこで主なる神の代わりに、主の使いすなわち御使いが彼らを導くことになりました。しかし約束の地に導いてくれる御使いがどんなに偉大であり、また例え大きな力があっても、今までイスラエル民族を導いて来られた主なる神とは全く異なります。 神が自分たちとは共におられない-この時のイスラエルの人々の反応が4節に描写されています。民はこの悪い知らせを聞いて嘆き悲しみ、一人も飾り物を身に着ける者はいなかった。
彼らイスラエル民族は、これらの飾り物をどこから手にいれたのでしょうか。 この財産はイスラエルがまだエジプトで奴隷にされていた時、それも出エジプトの直前に得たものです。 神に言われた方法で、羊の血を家の鴨居と門柱に塗った者たち、すなわちイスラエル民族だけ、滅ぼす者が過ぎ去ってくれました。しかしそのことを知らなかったエジプトは、初子、すなわち初めに生まれた長男や長女、家畜に最初に生まれた子どもも含め、全て死んでしまいました。そして全エジプトで激しい泣き叫びが起こっている時に、彼らイスラエルはこのように行動しました。12章35節、36節にはこのように記されています。イスラエルの子らはモーセのことばどおりに行い、エジプトに銀の飾り、金の飾り、そして衣服を求めた。主はエジプトがこの民に好意を持つようにされたので、エジプト人は彼らの求めを聞き入れた。こうして彼らはエジプトからはぎ取った。
はぎとったとありますから、エジプト人は自分の思いを遥かに超えて、イスラエルの人々に自分の金品を与えた、与えてしまったわけです。そしてそれは主なる神から出たものでした。しかしこれらイスラエルの人々の財産となった金銀、装飾品などの財産が、金の子牛の像を作る材料になり、礼拝の対象、つまり偶像礼拝に繋がってしまいました。そこで神は、彼らの偶像礼拝の元となった財産を手放すように命じられた。それが5節です。
4節において、イスラエルの民たちは自発的に装飾品を外しました。しかしそれはあくまで神が共におられないということに対する悲しみであり、神の怒りに対する恐れなどといった感情でした。従ってこれらの行為は、神を信じ、受け入れ、従順に従っていくという信仰から出ているものではありません。あくまでも感情のレベルです。 そこで神は信仰の伴う悔い改め、すなわち神に立ち返るという方向転換を、目に見える行動を通して求められました。それが5節です。主はモーセに次のように命じておられた。「イスラエルの子らに言え。『あなたがたは、うなじを固くする民だ。一時でも、あなたがたのただ中にあって上って行こうものなら、わたしはあなたがたを絶ち滅ぼしてしまうだろう。今、飾り物を身から取り外しなさい。そうすれば、あなたがたのために何をするべきかを考えよう。』」あなたがたを絶ち滅ぼしてしまうかもしれないから、と、主はイスラエルの人々と共に行かない理由も述べておられますが、ここには同時に主の憐れみがあります。
今、飾り物を身から取り外しなさい。そうすれば、あなたがたのために何をするべきかを考えよう。
この彼らに対する主からの命令は「神のみ言葉への従順」を求めるものであり、自分たちの持っていた金や銀などが偶像礼拝の元になったことをしっかりと認識し、罪と認め、その元となった金銀、財産を自分から切り離して神に献げなさい、という命令でした。神から与えられたものですから本来は神のものであり、神にお返しすることになりますが、財産との決別という意志・決心を、行動をもって、神への献身を見える形で表しなさい、というものでした。彼らイスラエル民族は、神の悔い改めへの招きに、チャレンジ-挑戦に、憐れみと恵みに応答しました。さらにはモーセの執り成しの祈りもあり、神は「幕屋」と呼ばれるところに臨在され、モーセを介して会って下さり、イスラエル民族から離れたり、見捨てることはなされませんでした。 この幕屋は移動式のテントのようなものですが、神がイスラエルと出会う場所として、この33章に記されています。
そしてこの幕屋は、イスラエルの民たちが外し、献げた装飾品、つまり彼らの金、銀、銅などの財産が、神が住まわれる「幕屋」を作るための材料として、自発的に献げられたものから造られました。 つまり神が彼らに向けて悔い改めを命じられ、彼らイエスエルはその悔い改めへの招きに応答した結果だと言うことです。 イスラエルの不信仰、不従順、高慢の源になった金品を、神は罪の悔い改めの証としただけでなく、神が臨在される幕屋、すなわち、神のために、神の栄光のために、神が聖なる物へと変えて下さったということです。神の愛、忍耐、憐れみなど、神の素晴らしさが表されています。
神が共に行かないと言われた時、イスラエルは悲しみました。 私たちも神が自分から離れてしまっている、神が遠くに感じられるような時があります。しかし神は私たちを決して見捨てることはなさいません。 神は私たちが立ち直ることができるように、また、神に立ち返ることができる機会、チャンスを与えて下さるお方です。また同時に、私たちが神の御心からそれていかないように、いつも見守り、また実際的な導きをして下さるお方でもあります。
神がどんな時にも共にいて下さっていることを感謝し、今週も共に信仰の歩みをして行きたいと願っています。
祈ります。
「取り戻すために捨てる」(神との関係を取り戻すために、自分の執着しているものを捨てる)
それでイスラエルの子らは、ホレブの山以後、自分の飾り物を外した。
招詞 詩篇51:17
神へのいけにえは 砕かれた霊。打たれ 砕かれた心。神よ あなたはそれを蔑まれません。

2026/2/15(日)「先頭に立つイエス」マルコ10:32~34 庄司牧師

2026年2月15日 マルコの福音書10:32~34「先頭に立つイエス」
さて、一行はエルサレムに上る途上にあった。イエスは弟子たちの先に立って行かれた。弟子たちは驚き、ついて行く人たちは恐れを覚えた。すると、イエスは再び十二人をそばに呼んで、ご自分に起ころうとしていることを話し始められた。「ご覧なさい。わたしたちはエルサレムに上って行きます。そして、人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡されます。彼らは人の子を死刑に定め、異邦人に引き渡します。異邦人は人の子を嘲り、唾をかけ、むちで打ち、殺します。しかし、人の子は三日後によみがえります。」( マルコの福音書 10:32-34 SKY17 )

本日の聖書箇所は、十字架に架けられるということを、イエスが再び語られている箇所です。受難予告と呼ばれているものですが、その三回目の予告です。その予告が成就、実現されるべく、
イエスと弟子たちの一行は、十字架が待っているエルサレムに向かって行きます。一直線に進んで行きます。
それも弟子たちの先頭を切ってです。弟子たちはイエスの緊迫した表情、態度を読み取っていたのでしょうか。驚きと恐れをもってイエスについていきます。本日は三回目の受難予告ですが、では一回目の予告と、二回目の予告はそれぞれどのようなものだったでしょうか。少し振り返ってみたいと思います。 一回目の受難予告は8:31節に記されています。
「それからイエスは、人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。」
二回目は9:31節においてです。
それは、イエスが弟子たちに教えて「人の子は人々の手に引き渡され、殺される。しかし、殺されて三日後によみがえる」と言っておられたからである。
そして三回目の予告が本日の箇所です。
「ご覧なさい。わたしたちはエルサレムに上って行きます。そして、人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡されます。彼らは人の子を死刑に定め、異邦人に引き渡します。異邦人は人の子を嘲り、唾をかけ、むちで打ち、殺します。しかし、人の子は三日後によみがえります。」 三回目の予告にあって、一回目と二回目にないことば、それは「異邦人」ということばです。イエスご自身が異邦人に引き渡されると記されているのは、この三回目だけです。異邦人とは、ユダヤ人以外の民族のことを指しますが、実際にイエスを十字架に架けたのは異邦人であるローマ人です。
イエスにずっと敵対してきた律法学者たちやパリサイ人たちなどはユダヤ人でした。 彼らはずっとイエスを殺したいと願っていましたが、この当時ユダヤはローマ帝国の植民地であり、彼らが誰かを死刑にするというような権限は持っていませんでした。そこで彼らは民衆を扇動してイエスをローマ帝国、もしくはローマ帝国の皇帝に反逆する政治犯に仕立て上げ、ローマ人の手によって殺させようとしました。
それではこれから、本日の受難予告が全て成就、実現していくことを、共に見て行きたいと思っています。 もう一度10:34をお読みします。イエスはこのように語られました。「異邦人は人の子を嘲り、唾をかけ、むちで打ち、殺します。しかし、人の子は三日後によみがえります。」ここに「あざけり」、「唾をかけ」、「むちで打ち」とありますが、この先の15章において全て成就、実現しています。イエスが異邦人であるローマ人に、すなわちローマの兵士たちにあざけられる、かれかわれ、彼らから唾をかけられ、むちで打たれるといった全てが、15章に描写されています。後でお読み下さい。イエスが言われたことがあまりにも事実と合致するので、これは「事後預言」、つまり実際に事が起こった後にそれを見た者たちがその様子を記したのだ、という学者がいるほどです。しかしこのような描写であり預言は、旧約聖書の詩編やイザヤ書などにも見られます。

詩編22:7節にはこのように記されています。「私を見る者はみな 私を嘲ります。口をとがらせ 頭を振ります。」 またイザヤ書50:6節にはこのような描写があります。「打つ者に背中を任せ、ひげを抜く者に頬を任せ、侮辱されても、唾をかけられても、顔を隠さなかった。」 イエスの受難の預言です。 そして有名な、イザヤ書53章があります。こちらもイエスの十字架の苦しみの預言ですが、それは神の計画であり、イエスが神の御心に従順に従われたということが描写、預言されている聖書箇所です。その中の一つの節を引用します。イザヤ書53章10節にはこのように記されています。「彼を砕いて病を負わせることは主のみこころであった。彼が自分のいのちを代償のささげ物とするなら、末長く子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。」 彼、すなわちイエスが、代償のささげ物となった、ということが記されています。
代償とは身代わりであり、ささげ物とは生贄です。 旧約聖書には律法が記されています。神が与えられたものですが、人間が行うべき生活や信仰の指針、言わばガイドラインです。その律法の中に、動物の生贄によって人間の罪が赦されるという掟がありました。それは、人間の罪が赦されるためには、動物の血が流されなければならない。すなわち動物のいのちが人間の罪の身代わりに献げられなければならない。その動物の生贄なしでは人間の罪の赦しはないという掟でした。新約聖書、ヘブル人への手紙の9章には、律法に記されている生贄について、このように説明されています。9章22節「律法によれば、ほとんどすべてのものは血によってきよめられます。血を流すことがなければ、罪の赦しはありません。」
しかしこの先の10章において、動物の血、すなわち動物が人間の罪の身代わりになるには不十分である。ということが記されています。

そこで完全な生贄として、また神への献げ物としてこの世界に飛びこんで来て下さったのが、イエス・キリストでした。へブル人への手紙10章の5節と7節の一部を引用します。ですからキリストは、この世界に来てこう言われました。..『今、わたしはここに来ております。巻物の書にわたしのことが書いてあります。神よ、あなたのみこころを行うために。』」巻物の書とは旧約聖書のことを指します。旧約聖書は巻物に記されていました。 そして先ほど見た旧約聖書に見られる預言の通り、神の御心に従ってこの世界に来たとイエスは言われます。さらにへブル人への手紙の10章の10節には、このように記されています。「このみこころにしたがって、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけ献げられたことにより、私たちは聖なるものとされています。」イエスご自身が一度だけ献げられたとあります。そしてその方法が十字架でした。イエスが自分の罪のために、十字架で身代わりになって下さったと信じることによって、人は聖められる、つまり罪赦されるということが表されています。そしてそれは父なる神の御心でした。
動物の生贄は人間の罪の身代わりとしては不十分でした。しかしイエスは違います。十字架で一度だけ献げられるだけで十分である。動物の生贄と違って、イエスの生贄がいかに完全で完璧で、神の御心に適うものであったかが分かります。

先週「義」についてお話をしました。神の前に正しいとされる、正しいと認められることが聖書に記されている「義」という意味でした。また言い方を変えれば、それは救いです。
人はイエスを信じることによって罪赦され、神の前に正しいと認められます。 そして罪が赦されているということは、永遠のいのちが与えられているということですから、それは救われていると言うことができます。 ですからイエスを信じて義とされることと、滅びから救われているということは、それぞれの持つことばの正確な意味は異なりますが、イコールの関係です。

そして私たち人間が神の前に義、正しい者とみなされ、救われるためには、イエスの十字架がどうしても必要です。なぜなら、イエスは私たち人間がどうしても解決できない罪を全て、十字架で身代わりに背負われたからです。「身代わりに背負われた」とは、難しいことばで言えば「贖い」でした。 このことも先週お話しました。 贖いとは、もともと商業用語、ビジネス用語であり、「買い取る」という意味でした。 (そしてこれは当時における文脈ですが)市場などに行って、他人の所有物である奴隷などを、代価を支払うことによって自分のものにする、というような意味でした。イエスは罪の奴隷となっている私たち人間を、ご自身のいのちをもって買い取られ、私たちを罪の奴隷から解放して下さるお方です。

またイエスの受難の告知は、並行箇所のマタイの福音書とルカの福音書にも記されています。
そしてそのルカの福音書の18章には、受難告知における弟子たちの反応が記されています。そこには弟子たちが霊的に盲目であるという、すなわちそれは私たち人間の姿でもありますが-表されています。弟子たちには、これらのことは何一つ分からなかった。彼らにはこのことばが隠されていて、話されたことが理解できなかった。ルカの福音書18:34 イエスからじきじきにことばを聞いて来た弟子たちさえこうです。 彼らは漁師に必要な舟も、網も、家族も、イエスに付き従い、福音を宣べ伝えるために後に残して来たような信仰者であり、献身的な人間たちです。そのような人間たちですら、イエスの言われた十字架と復活のことが理解できない。 つまり私たち人間が、どれだけ神の真理や霊的な事柄に対して盲目であるか、ということです。 真理も霊的な事柄も分からない人間は、前回見た金持ちの青年のようになってしまう可能性が高いと言えます。すなわち富、財産、名誉など、自分の目に見えるもの、感じることができるものに頼り、いつしかそれらから逆に支配され、奴隷とされてしまう。イエスを信じることによって罪が赦され、神の子、神の家族の特権とされることと比べれば、遥かに価値のないものに執着してしまう。そのような弱さが人間にあるということです。そしてその先は、神との永遠の別離、すなわち滅びです。イエスは本日の10:34節を、これから起こる預言として語られました。異邦人は人の子を嘲り、唾をかけ、むちで打ち、殺します。しかし、人の子は三日後によみがえります。」ここに「しかし」とあります。どんでん返し、大逆転が表されています。イエスは十字架の死で終わりませんでした。イエスの十字架の死の先には復活があります。イエスは三回にわたって弟子たちに死から甦る、復活するということを語って来られましたが、弟子たちの耳にも心にも入りませんでした。私たちも「受難予告」ということばを使います。実際に私も使っています。しかしイエスのことばを見るならば、そこには「しかし」ということばにつづく復活が、確かに、はっきりと示されています。 過去二回の受難予告においてもそうでした。私は苦しめられ、殺され、そして甦る。従って実際は、「受難予告」よりも、「受難と甦りの予告」と言い換えた方が正確な言い回しです。 しかしペテロも弟子たちも、イエスのことばを私たちと同じように「受難予告」として受け取ってしまいました。死んで終わりだということです。しかし人間を罪と死とサタンから解放する十字架の御業は、イエスの勝利の御業です。ですからイエスがエルサレムに向かって行くということは、罪と死と、サタンへの勝利のための、栄光に満ちた行進であると言うことができます。そしてもしイエスを、十字架を通しての勝利者として弟子たちが捉えていたのであれば、イエスが先頭を切って進んで行かれる時に、彼らに驚きや怖れ、不安を覚えることはなかったかもしれません。

本日の出来事の後、イエスの弟子のヤコブとヨハネがイエスに頼み事をします。再来週の聖書箇所です。「あなたが栄光をお受けになるとき、一人があなたの右に、もう一人が左に座るようにしてください。」自分たちが右大臣、左大臣になりたいと願っているということは、イエスを政治的な王として捉えていたということです。しかしこの時、他の弟子たちがこの二人に腹を立てていることから、彼らも同じことを考え、願っていたことが分かります。 霊的に盲目なだけでなく、自分の利益しか考えられないようなイエスの弟子たち。そしてこの姿、態度は、同じく霊的に盲目であり、自己中心的な私たち人間の姿を表していると言えます。 しかしそのような弟子たちの前を、すなわち罪深い私たち人間の先頭を切って、十字架への道を進んで行かれるイエスがおられます。 そしてその栄光の行進は、私たち全ての人間が持つ罪を身代わりに背負うための十字架であり、罪と死とサタンを打ち破って甦る復活のためでした。

最後に、ガラテヤ人の手紙1:4節を引用して、本日のみ言葉の取り次ぎを終わりたいと思います。
キリストは、今の悪の時代から私たちを救い出すために、私たちの罪のためにご自分を与えてくださいました。私たちの父である神のみこころにしたがったのです。
祈ります
「先頭に立つイエス」
さて、一行はエルサレムに上る途上にあった。イエスは弟子たちの先に立って行かれた。弟子たちは驚き、ついて行く人たちは恐れを覚えた。すると、イエスは再び十二人をそばに呼んで、ご自分に起ころうとしていることを話し始められた。

ゴスペルカフェ可児 2026/2/6

ゴスペルカフェ可児 第4回のゲストは、勝野さん(sax)、伊佐治さん(ds)、トム兼松さん(gt)のコラボでした。

来月、3月6日金曜日も楽しみですね!