2026年3月15日 マルコの福音書10:46~52 「癒しより大切なこと」
さて、一行はエリコに着いた。そしてイエスが、弟子たちや多くの群衆と一緒にエリコを出て行かれると、ティマイの子のバルティマイという目の見えない物乞いが、道端に座っていた。彼は、ナザレのイエスがおられると聞いて、「ダビデの子のイエス様、私をあわれんでください」と叫び始めた。多くの人たちが彼を黙らせようとたしなめたが、「ダビデの子よ、私をあわれんでください」と、ますます叫んだ。イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい」と言われた。そこで、彼らはその目の見えない人を呼んで、「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたを呼んでおられる」と言った。その人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。イエスは彼に言われた。「わたしに何をしてほしいのですか。」すると、その目の見えない人は言った。「先生、目が見えるようにしてください。」そこでイエスは言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救いました。」すると、すぐに彼は見えるようになり、道を進むイエスについて行った。
マルコの福音書、10章の最後に記されている出来事です。本日の箇所において著者のマルコは、二つの大切なことを理解するようと、読み手に願っているように思います。 その一つは、イエスが私たち人間に仕えるためにこの世界に来て下さったこと。もう一つは、バルティマイのように霊の目が開かれ、大切なことを悟り、救われることです。 人に仕える大切さは、先週取り挙げたマルコの福音書10章45節において、イエスご自身が語られたことでした。
人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。
神の一人子であり、神そのものであるイエスが、「人間」となってこの世界に飛びこんで来て下さいました。イエスは父なる神の御心に100%、完全に従われました。それは贖いのためでした。
罪と死と、サタンの奴隷になっている私たち人間のために、イエスはご自分のいのちを、十字架で代価として支払って下さいました。しもべとして、徹底的に私たち人間に仕えて下さったのがイエスですが、そのしもべとして姿勢、姿・態度が、本日の聖書の箇所である、バルティマイの癒しにも表されています。
当時、宗教指導者であったラビなどは、歩きながら人々に教えていました。おそらくイエスもエリコの町において、歩きながら人々を教え、福音を語っておられたと思います。そんな中、盲目であるバルティマイが叫んでいます。 48節に、「多くの人たちが彼を黙らせようとたしなめた」とありますが、たしなめるということばは、「厳しく言う」とか、「非難する」という意味が含まれている強いことばです。「うるさい、邪魔だ!イエスが言っていることが聞こえないじゃないか!イエスが盲人のお前なんかを相手をする訳ないだろ!どうせお前の目は癒されない!」バルティマイに対して汚いことば、誹謗中傷などが飛び交っていたと想像します。当時のユダヤ人たちは、障害や重い病気などを患っている人は、本人か先祖が罪を犯したゆえに、その罪に対する神からの罰(呪い)であると考えられていました。ですからバルティマイのような盲人は、神から呪われた者として、人々から嫌悪されるような存在であり、誰も近寄って来ることはなかったでしょう。
誰も見向きもしない存在。誰も近寄って来ない存在。それがバルティマイでした。
バルティマイが叫んでいる騒然としている最中、イエスはどういう状況にあったでしょうか。
イエスご自身、緊迫している状況にありました。 イエスとイエスの弟子の一行がエリコの町までやって来ました。これからイエスが十字架に架けられるために向かって行くエルサレムから、わずか3,40キロほどしか離れていません。エリコの町から歩いて1日から2日かかかるというくらい、エルサレムに近づいて来ました。これから全人類の罪を十字架で全て背負って死ぬという、神からの、途方もない使命を全うする時が近づいて来ました。 イエスが一人の盲人に関わり合っている余裕は、肉体的にも、また精神的にもないような場面です。しかしイエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい」と、言われました。彼の叫びがイエスの足を止めました。彼の熱心が、イエスの足を止め、イエスを振り向かせました。そしてイエスは彼を癒されました。
このマルコの福音書では、信仰を通して彼が癒されたことが記されています。平行箇所のルカの福音書の18章においては、イエスがことばで命じることによってバルティマイは癒されています。また同じく平行箇所のマタイの福音書の20章においては、イエスが実際に彼の目に触れて癒しておられます。生きるための力も希望も喜びもなく、社会から排除されていたバルティマイのために、イエスは立ち止まり、声をかけ、体に触れられ、癒されました。
またマタイの福音書の20章には、「イエスは深くあわれんで」という、バルティマイに対するイエスの深い同情が描写されています。イエスは深く憐れみつつ、バルティマイに声をかけ、手で触れて癒されました。「私は仕えられるためではなく、仕えるために来た」とイエスは言われました。社会の底辺にいたようなバルティマイに対してもイエスは誠実に、また優しく振舞われました。ですからイエスのバルティマイへの対応は、イエスが仕えるために来たと言われたことが本当であり、偽りではないことの試金石、証となっています。 全ての人類、私たち全ての人間に仕えるために私たちの世界に来て下さった、それが私たちの主、イエス・キリストです。
著者のマルコが本日の箇所で強調したのは二つでした。イエスが仕えるために来たと語られたことが本当であったこと。そしてもう一つは、私たちの霊的な目が開かれ、救われることです。
なぜバルティマイが救われていると言えるのか。すなわち罪が赦され、神との関係が回復したのが分かるのか。 それはバルティマイが、癒された後にイエスについて行ったからです。バルティマイは目が癒された後、「道を進むイエスについて行った」と、最後の節である52節に記されています。 前の聖書訳は、「イエスの行かれるところについて行った」と訳されています。そのどちらの翻訳においても、バルティマイはイエスが行かれるところにはどこにでもついて行く、ついて行ったという含みがある表現です。イエスの後について行く、従って行くというバルティマイの意志、決意、イエスに対する強い信頼を感じさせる表現が使われています。バルティマイがイエスを自分の主、救い主であると信じなければできない行動であり、あり方です。また著者のマルコは彼の名前を記しました。彼の名前が聖書に載るということは、おそらく初代教会において、彼がキリストの弟子として活躍した可能性を示しています。この後聖書の中に彼の名前は出て来ませんが、名前が載っているということで、彼の活躍が暗示されていると言えるでしょう。
バルティマイは盲目であり46節を見ると、道端に座っていたと記されています。座っていたという時制を見ると、バルティマイはそこにずっと座っていたことが分かる時制です。つまり彼は長い間盲目であったため、物乞いをせざるを得ない状況だったということです。 もしかすると生まれつき盲目であり、彼の家族はすでに亡くなったか、または家族に捨てられてしまったということも考えられます。いずれにせよ彼が孤独だったことには変わりありません。しかしイエスに出会い、彼は肉体的な目だけでなく、イエスを知り、信じるという霊的な目も開かれました。それゆえイエスが神であり、救い主であるということを信じることが出来ました。 家族も、仕事も、地位も名誉も何も持っていなかったバルティマイは、神との関係が回復し、神の子とされ、神の家族に迎え入れられ、更にイエスの弟子としてイエスについていきました。彼の人生は大きく変わりました。人々に見下され、価値があるとは見なされない、何も持っていないような者が救いを受ける。イエスを信じることによる大転換、大逆転劇がバルティマイに起こりました。
イエスがこの世界におられた時、他にもイエスを知る機会があり、実際にイエスと接することができた人は、バルティマイだけではありません-大勢いました、
イエスに敵対していましたが、旧約聖書を教えていた民の指導者でもあった律法学者やパリサイ人たち。イエスに悪霊を追い出してもらった人々。病を癒してもらった人々。イエスの奇蹟を見、あるいは経験した多くの群衆などです。 その中にはバルティマイとは正反対の立場にあった、金持ちの青年も含まれます。彼は財産も高い地位も名誉も、人がうらやむ全てを持っていました。しかしイエスの下から立ち去っていきました。この青年をはじめ、多くの人々がイエスと接点がありました。もっとイエスを知ることも、さらに一歩踏み込んでイエスを信じることもできました。しかしイエスから立ち去って行きました。
聖書によれば、またイエスご自身が言われることばによれば、イエスと信仰によって繋がらなかった者は、イエスの贖いの代価に伴う罪の赦しや神の子とされる特権、永遠のいのちなどに与ることができません。神の国に入れる者と入れない者は、イエスを信じるか信じないかで決まります。
また、バルティマイが救われているという根拠は、彼の叫びにも表れています。彼はイエスのことを「ダビデの子」と叫びました。当時のユダヤの人々は、救い主、メシヤがダビデの子孫から出ると信じていました。バルティマイは、目は見えませんでしたが、耳は聞こえていました。彼は他の人々からイエスの噂や色々な御業を聞いてきた結果、イエスをすでに救い主であると信じました。彼の叫びから、また、イエスに呼ばれて踊り上がってイエスの下に来た、と言う描写からも明らかです。 イエスが自分のところに来て下さるだけで自分は癒される。そのような強い確信をバルティマイが持っていたことが分かります。そして彼はイエスを信じているがゆえに、癒しのチャンスを絶対に自分のものにしようとしました。しかし彼ができることは叫ぶことだけでした。それゆえ彼は自分の出来ること、イエスを信じる信仰を、叫ぶことを通して表明しました。 加えて彼の信仰とその確信は、上着を投げ捨てたことにも表されています。 この上着とは、普段着の上に羽織る厚手の布やマントのようなものです。多機能でした。昼間は寒さを防ぎ、夜は寒さを防ぐだけでなく、毛布の代わりになるような、特に貧しいに人にとっては命を守るほどに大切なものでした。それゆえ、バルティマイの持っていた唯一の財産であったと言えるものです。 この上着はバルティマイにとって、ただの上着ではありませんでした。生活の基盤であり、自分の全て、でした。これを投げ捨てる。まるでこれまでの自分を捨て、自分の持っているものをイエスに差し出す。
イエスに対する献身の現れにも見えます。
バルティマイのイエスに対する信仰、信頼、意志、決意、決断、献身の思いに、イエスはしっかりと応答して下さいました。イエスは52節においてこのようにバルティマイに語られました。
「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救いました。」この後すぐにバルティマイは癒されました。実際にバルティマイを癒されたのはイエスご自身です。実際に彼を癒し、同時に永遠のいのちを与え、滅びから救われたのはイエスご自身でした。しかしイエスは、彼自身の信仰が彼を、バルティマイ自身を救った-救いを彼の手柄としているほどに、彼の信仰を高く評価されています。イエスはバルティマイの信仰、決心、決断、意志、献身の思いに応えるだけではなく、彼の信仰を尊んでおられます。自分の持っている全てをかけてイエスの下にきたバルティマイに対する、イエスの愛と憐れみ、優しさが、バルティマイへの応答を通して豊かに表されています。
そしてバルティマイはイエスの行くところにはどこにでも、進まれるところにはどんな場所でもついて行くことになります。 こうしてバルティマイは数日後、十字架上で叫び声を上げられるイエスの姿を見ることになります。イエスに開いて頂いたその目で、自分の目を開いて下さったお方が十字架につけられる光景をしっかりと見たのです。自分のために足を留め、立ち止って下さったイエス。自分という存在を認め、肉体的な目を開いて下さったイエス。霊的な目も開き、永遠のいのちも与えて下さったイエス。 その愛すべきイエスが自分の罪の身代わりのために、人々の罪の身代わりのために十字架に架けられている。
この時バルティマイは、自分の存在の重みを感じたはずです。私のためにイエスは十字架に架かって下さるほど私を愛しておられる。私をそれほどまでに価値のある者なのだ。 感謝と痛みが、バルティマイの胸にあったと思います。
バルティマイだけではありません。私たちの信仰に応えて下さったイエス。私たちを高価で尊いと言って下さり、認めて下さったイエス。罪人である私たちを、私を憐れみ、愛され、ご自分を献げ尽くして下さったイエス。
この神の子、救い主であるイエス・キリストが、私たちの神、私の主になって下さったことを感謝しつつ、これからもイエスについて行く者、足跡に従う者でありたいと願います。
祈ります
「癒しより大切なこと」
そこでイエスは言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救いました。」すると、すぐに彼は見えるようになり、道を進むイエスについて行った。
さて、一行はエリコに着いた。そしてイエスが、弟子たちや多くの群衆と一緒にエリコを出て行かれると、ティマイの子のバルティマイという目の見えない物乞いが、道端に座っていた。彼は、ナザレのイエスがおられると聞いて、「ダビデの子のイエス様、私をあわれんでください」と叫び始めた。多くの人たちが彼を黙らせようとたしなめたが、「ダビデの子よ、私をあわれんでください」と、ますます叫んだ。イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい」と言われた。そこで、彼らはその目の見えない人を呼んで、「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたを呼んでおられる」と言った。その人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。イエスは彼に言われた。「わたしに何をしてほしいのですか。」すると、その目の見えない人は言った。「先生、目が見えるようにしてください。」そこでイエスは言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救いました。」すると、すぐに彼は見えるようになり、道を進むイエスについて行った。
マルコの福音書、10章の最後に記されている出来事です。本日の箇所において著者のマルコは、二つの大切なことを理解するようと、読み手に願っているように思います。 その一つは、イエスが私たち人間に仕えるためにこの世界に来て下さったこと。もう一つは、バルティマイのように霊の目が開かれ、大切なことを悟り、救われることです。 人に仕える大切さは、先週取り挙げたマルコの福音書10章45節において、イエスご自身が語られたことでした。
人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。
神の一人子であり、神そのものであるイエスが、「人間」となってこの世界に飛びこんで来て下さいました。イエスは父なる神の御心に100%、完全に従われました。それは贖いのためでした。
罪と死と、サタンの奴隷になっている私たち人間のために、イエスはご自分のいのちを、十字架で代価として支払って下さいました。しもべとして、徹底的に私たち人間に仕えて下さったのがイエスですが、そのしもべとして姿勢、姿・態度が、本日の聖書の箇所である、バルティマイの癒しにも表されています。
当時、宗教指導者であったラビなどは、歩きながら人々に教えていました。おそらくイエスもエリコの町において、歩きながら人々を教え、福音を語っておられたと思います。そんな中、盲目であるバルティマイが叫んでいます。 48節に、「多くの人たちが彼を黙らせようとたしなめた」とありますが、たしなめるということばは、「厳しく言う」とか、「非難する」という意味が含まれている強いことばです。「うるさい、邪魔だ!イエスが言っていることが聞こえないじゃないか!イエスが盲人のお前なんかを相手をする訳ないだろ!どうせお前の目は癒されない!」バルティマイに対して汚いことば、誹謗中傷などが飛び交っていたと想像します。当時のユダヤ人たちは、障害や重い病気などを患っている人は、本人か先祖が罪を犯したゆえに、その罪に対する神からの罰(呪い)であると考えられていました。ですからバルティマイのような盲人は、神から呪われた者として、人々から嫌悪されるような存在であり、誰も近寄って来ることはなかったでしょう。
誰も見向きもしない存在。誰も近寄って来ない存在。それがバルティマイでした。
バルティマイが叫んでいる騒然としている最中、イエスはどういう状況にあったでしょうか。
イエスご自身、緊迫している状況にありました。 イエスとイエスの弟子の一行がエリコの町までやって来ました。これからイエスが十字架に架けられるために向かって行くエルサレムから、わずか3,40キロほどしか離れていません。エリコの町から歩いて1日から2日かかかるというくらい、エルサレムに近づいて来ました。これから全人類の罪を十字架で全て背負って死ぬという、神からの、途方もない使命を全うする時が近づいて来ました。 イエスが一人の盲人に関わり合っている余裕は、肉体的にも、また精神的にもないような場面です。しかしイエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい」と、言われました。彼の叫びがイエスの足を止めました。彼の熱心が、イエスの足を止め、イエスを振り向かせました。そしてイエスは彼を癒されました。
このマルコの福音書では、信仰を通して彼が癒されたことが記されています。平行箇所のルカの福音書の18章においては、イエスがことばで命じることによってバルティマイは癒されています。また同じく平行箇所のマタイの福音書の20章においては、イエスが実際に彼の目に触れて癒しておられます。生きるための力も希望も喜びもなく、社会から排除されていたバルティマイのために、イエスは立ち止まり、声をかけ、体に触れられ、癒されました。
またマタイの福音書の20章には、「イエスは深くあわれんで」という、バルティマイに対するイエスの深い同情が描写されています。イエスは深く憐れみつつ、バルティマイに声をかけ、手で触れて癒されました。「私は仕えられるためではなく、仕えるために来た」とイエスは言われました。社会の底辺にいたようなバルティマイに対してもイエスは誠実に、また優しく振舞われました。ですからイエスのバルティマイへの対応は、イエスが仕えるために来たと言われたことが本当であり、偽りではないことの試金石、証となっています。 全ての人類、私たち全ての人間に仕えるために私たちの世界に来て下さった、それが私たちの主、イエス・キリストです。
著者のマルコが本日の箇所で強調したのは二つでした。イエスが仕えるために来たと語られたことが本当であったこと。そしてもう一つは、私たちの霊的な目が開かれ、救われることです。
なぜバルティマイが救われていると言えるのか。すなわち罪が赦され、神との関係が回復したのが分かるのか。 それはバルティマイが、癒された後にイエスについて行ったからです。バルティマイは目が癒された後、「道を進むイエスについて行った」と、最後の節である52節に記されています。 前の聖書訳は、「イエスの行かれるところについて行った」と訳されています。そのどちらの翻訳においても、バルティマイはイエスが行かれるところにはどこにでもついて行く、ついて行ったという含みがある表現です。イエスの後について行く、従って行くというバルティマイの意志、決意、イエスに対する強い信頼を感じさせる表現が使われています。バルティマイがイエスを自分の主、救い主であると信じなければできない行動であり、あり方です。また著者のマルコは彼の名前を記しました。彼の名前が聖書に載るということは、おそらく初代教会において、彼がキリストの弟子として活躍した可能性を示しています。この後聖書の中に彼の名前は出て来ませんが、名前が載っているということで、彼の活躍が暗示されていると言えるでしょう。
バルティマイは盲目であり46節を見ると、道端に座っていたと記されています。座っていたという時制を見ると、バルティマイはそこにずっと座っていたことが分かる時制です。つまり彼は長い間盲目であったため、物乞いをせざるを得ない状況だったということです。 もしかすると生まれつき盲目であり、彼の家族はすでに亡くなったか、または家族に捨てられてしまったということも考えられます。いずれにせよ彼が孤独だったことには変わりありません。しかしイエスに出会い、彼は肉体的な目だけでなく、イエスを知り、信じるという霊的な目も開かれました。それゆえイエスが神であり、救い主であるということを信じることが出来ました。 家族も、仕事も、地位も名誉も何も持っていなかったバルティマイは、神との関係が回復し、神の子とされ、神の家族に迎え入れられ、更にイエスの弟子としてイエスについていきました。彼の人生は大きく変わりました。人々に見下され、価値があるとは見なされない、何も持っていないような者が救いを受ける。イエスを信じることによる大転換、大逆転劇がバルティマイに起こりました。
イエスがこの世界におられた時、他にもイエスを知る機会があり、実際にイエスと接することができた人は、バルティマイだけではありません-大勢いました、
イエスに敵対していましたが、旧約聖書を教えていた民の指導者でもあった律法学者やパリサイ人たち。イエスに悪霊を追い出してもらった人々。病を癒してもらった人々。イエスの奇蹟を見、あるいは経験した多くの群衆などです。 その中にはバルティマイとは正反対の立場にあった、金持ちの青年も含まれます。彼は財産も高い地位も名誉も、人がうらやむ全てを持っていました。しかしイエスの下から立ち去っていきました。この青年をはじめ、多くの人々がイエスと接点がありました。もっとイエスを知ることも、さらに一歩踏み込んでイエスを信じることもできました。しかしイエスから立ち去って行きました。
聖書によれば、またイエスご自身が言われることばによれば、イエスと信仰によって繋がらなかった者は、イエスの贖いの代価に伴う罪の赦しや神の子とされる特権、永遠のいのちなどに与ることができません。神の国に入れる者と入れない者は、イエスを信じるか信じないかで決まります。
また、バルティマイが救われているという根拠は、彼の叫びにも表れています。彼はイエスのことを「ダビデの子」と叫びました。当時のユダヤの人々は、救い主、メシヤがダビデの子孫から出ると信じていました。バルティマイは、目は見えませんでしたが、耳は聞こえていました。彼は他の人々からイエスの噂や色々な御業を聞いてきた結果、イエスをすでに救い主であると信じました。彼の叫びから、また、イエスに呼ばれて踊り上がってイエスの下に来た、と言う描写からも明らかです。 イエスが自分のところに来て下さるだけで自分は癒される。そのような強い確信をバルティマイが持っていたことが分かります。そして彼はイエスを信じているがゆえに、癒しのチャンスを絶対に自分のものにしようとしました。しかし彼ができることは叫ぶことだけでした。それゆえ彼は自分の出来ること、イエスを信じる信仰を、叫ぶことを通して表明しました。 加えて彼の信仰とその確信は、上着を投げ捨てたことにも表されています。 この上着とは、普段着の上に羽織る厚手の布やマントのようなものです。多機能でした。昼間は寒さを防ぎ、夜は寒さを防ぐだけでなく、毛布の代わりになるような、特に貧しいに人にとっては命を守るほどに大切なものでした。それゆえ、バルティマイの持っていた唯一の財産であったと言えるものです。 この上着はバルティマイにとって、ただの上着ではありませんでした。生活の基盤であり、自分の全て、でした。これを投げ捨てる。まるでこれまでの自分を捨て、自分の持っているものをイエスに差し出す。
イエスに対する献身の現れにも見えます。
バルティマイのイエスに対する信仰、信頼、意志、決意、決断、献身の思いに、イエスはしっかりと応答して下さいました。イエスは52節においてこのようにバルティマイに語られました。
「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救いました。」この後すぐにバルティマイは癒されました。実際にバルティマイを癒されたのはイエスご自身です。実際に彼を癒し、同時に永遠のいのちを与え、滅びから救われたのはイエスご自身でした。しかしイエスは、彼自身の信仰が彼を、バルティマイ自身を救った-救いを彼の手柄としているほどに、彼の信仰を高く評価されています。イエスはバルティマイの信仰、決心、決断、意志、献身の思いに応えるだけではなく、彼の信仰を尊んでおられます。自分の持っている全てをかけてイエスの下にきたバルティマイに対する、イエスの愛と憐れみ、優しさが、バルティマイへの応答を通して豊かに表されています。
そしてバルティマイはイエスの行くところにはどこにでも、進まれるところにはどんな場所でもついて行くことになります。 こうしてバルティマイは数日後、十字架上で叫び声を上げられるイエスの姿を見ることになります。イエスに開いて頂いたその目で、自分の目を開いて下さったお方が十字架につけられる光景をしっかりと見たのです。自分のために足を留め、立ち止って下さったイエス。自分という存在を認め、肉体的な目を開いて下さったイエス。霊的な目も開き、永遠のいのちも与えて下さったイエス。 その愛すべきイエスが自分の罪の身代わりのために、人々の罪の身代わりのために十字架に架けられている。
この時バルティマイは、自分の存在の重みを感じたはずです。私のためにイエスは十字架に架かって下さるほど私を愛しておられる。私をそれほどまでに価値のある者なのだ。 感謝と痛みが、バルティマイの胸にあったと思います。
バルティマイだけではありません。私たちの信仰に応えて下さったイエス。私たちを高価で尊いと言って下さり、認めて下さったイエス。罪人である私たちを、私を憐れみ、愛され、ご自分を献げ尽くして下さったイエス。
この神の子、救い主であるイエス・キリストが、私たちの神、私の主になって下さったことを感謝しつつ、これからもイエスについて行く者、足跡に従う者でありたいと願います。
祈ります
「癒しより大切なこと」
そこでイエスは言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救いました。」すると、すぐに彼は見えるようになり、道を進むイエスについて行った。












