2026年2月1日 マルコの福音書10:23~31 「いのちの保証」
イエスは、周囲を見回して、弟子たちに言われた。「富を持つ者が神の国に入るのは、なんと難しいことでしょう。」弟子たちはイエスのことばに驚いた。しかし、イエスは重ねて彼らに言われた。「子たちよ。神の国に入ることは、なんと難しいことでしょう。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。」弟子たちは、ますます驚いて互いに言った。「それでは、だれが救われることができるでしょう。」イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことです。しかし、神は違います。神にはどんなことでもできるのです。」ペテロがイエスにこう言い出した。「ご覧ください。私たちはすべてを捨てて、あなたに従って来ました。」イエスは言われた。「まことに、あなたがたに言います。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子ども、畑を捨てた者は、今この世で、迫害とともに、家、兄弟、姉妹、母、子ども、畑を百倍受け、来たるべき世で永遠のいのちを受けます。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になります。」( マルコの福音書 10:23-31 SKY17 )
若くて金持ち、指導的立場にある人が、永遠のいのちを受け継ぐためにイエスの下に来ました。先週共に見て来たところです。 彼が知りたかったのはその「方法」でした。つまり自分の行いで、自分の力で、永遠のいのちを勝ち取ることができる方法を、彼は手に入れたかったのです。しかし彼の予想に反してイエスはこの青年に、いのちを受け継ぐためには持っている富を手放すようにと言われました。彼からすればそれは予想外であり、逆のことでした。彼は行いによって富や財産を得るという経験をして来ましたが、永遠のいのちに関しては逆に手放さなければならない。 結局彼は自分の富を手放すことばできず、悲しみながらイエスの下を去って行きました。 この青年を見ながらイエスが弟子たちに向かって語られたこと、それが本日の箇所です。
今年のテーマは「神の国を受け入れる」です。神、すなわちイエスが支配されておられる神の国の規準は、この青年だけでなく、私たちの常識、価値観、規準とは「逆」「反対」のことが多くあります。私たち人間が良いものとして、また素晴らしいものとして信じているものが、神の国の規準に照らし合わせてみると、すなわちイエスの規準で見ると、実はそうではないということが多くあります。この規準をみ言葉から知る時、時に感動し、時に自分にはできないと打ちのめされます。しかし神の国の規準、すなわちイエスの規準を受け入れ、従い、実行して行く時、それは喜びになり、感謝が生まれます。 今年、そのような歩みを共にすることができたらと、願っています。
イエスは金持ちの青年が去っていくのを見ながら、弟子たちにこのように語られました。「富を持つ者が神の国に入るのは、なんと難しいことでしょう。」 この時弟子たちはイエスのことばに驚いています。 なぜ弟子たちはイエスのことばに驚いたのでしょうか? 当時ユダヤ人は、物質的繁栄を神からの祝福のしるし、富の所有を徳と考えていたようです。それゆえ彼らは、富んでいる者は、神の救いに最も近いと考えていました。ところがイエスは、富める者が神の国に入ることの難しさを指摘されましたから、弟子たちが驚いたのは当然です。彼らにとってこれは全く「逆」「反対」の発想です。彼らの常識にも価値観にも規準にもない、新しい教えでした。驚く弟子たちに、イエスは重ねてこのように言われました。「子たちよ。神の国に入ることは、なんと難しいことでしょう。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。」イエスが重ねて言われた、「金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しい」 このことばを聞いて弟子たちはさらに驚きました。それは、子どもでも入ることができる神の国に、裕福で、道徳的にも熱心な青年が入れない。しかもその可能性が、パレスチナで最大の動物であるらくだが針の穴を通る可能性よりも少ないとなれば、つまり不可能であれば-「それでは、だれが救われることができるでしょう。」彼らが問わずにいられなかったのも無理ありません。 もし同じ問いを当時のユダヤ人が聞いていたら、全ての人々がイエスの弟子たちと同じ反応をしたと想像します。
イエスは彼ら弟子たちを見ながら言われました。「それは人にはできないことです。しかし、神は違います。神にはどんなことでもできるのです。」永遠のいのちを自分の力や努力、能力などで掴み取ることはできない。それは金持ちであろうとなかろうと、またなし得るすべてをもってしても、人間にはできない、不可能であるということです。永遠のいのちを与えることができるのは、ただ神のみであるということを、イエスは彼らに教えられました。
イエスの神の国の規準、救いの規準を聞いた弟子たち、そしてペテロはこのように応答しました。
「ご覧ください。私たちはすべてを捨てて、あなたに従って来ました。」平行箇所のマタイの福音書19章においてペテロはこの時、「私たちは何をいただけるでしょうか」とイエスに尋ねています。神に祝福されていると思っていた金持ちが神の国に入るのは難しい。それどころか不可能だと言われたペテロや他の弟子たちは、自分たちが確信していた報いを受けることができないかもしれない。-不安になったのかもしれません。怖れを抱いたかもしれません。そこでイエスから報いが与えられるということを、保証して欲しかったようです。 いずれにせよイエスは、弟子たちが報いを受けること自体は否定されませんでした。イエスは29節と30節でこのように語られています。
「まことに、あなたがたに言います。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子ども、畑を捨てた者は、今この世で、迫害とともに、家、兄弟、姉妹、母、子ども、畑を百倍受け、来たるべき世で永遠のいのちを受けます。
ここでイエスは弟子たちに、この世において、具体的にどのような報いを受けることができるのかを語られました。それは「捨てる」ことによって報いを「受ける」ことができると、人間の規準と逆のことを言っておられます。しかもその報いとは、捨てたものの100倍であり、永遠のいのちまで与えられるという報いです。 イエスの弟子たちはペテロをはじめ、その多くは漁師でした。彼らは漁師に必要な舟も網も、そして両親や生まれた家も置いて、イエスに従って来ました。
では、イエスは弟子たちに、これら財産、そして家族を本当に捨てなさいと言われたのでしょうか。
「捨てる」と訳されていますが、原語のギリシャ語を見ると、「後に残す」とか、「そのままにしておく」というような意味があります。ですから「捨てる」とは、財産や家族関係などの執着を捨て、それらを後に残す、後回しにする、という意味になるでしょう。 ですからイエスが言われた「わたしのために、また福音のために」捨てなさいとは、財産や家族関係、人間関係に執着せずに、わたしと福音を伝えることをそれらよりも優先させ、そして私に従って来なさい、ということです。そしてイエスは、イエスと福音を宣べ伝えることを優先した人が受ける報いについて、それもこの世における報いを語られました。 しかしその報いは「迫害とともに」ある、と付け加えられています。 ユダヤ人であれば、もちろん私たちユダヤ人以外の異邦人でもそうですが、家族から迫害を受ける人、また勘当される人さえいます。 私がロゴス・ホープ号という福音船に乗って世界宣教に携わっていた時、ある姉妹が、「私はクリスチャンになったことを父には内緒にしている。もし知られたら殺されるかもしれない」と言っていたことを思い出します。彼女はイスラム教が国教となる国の出身でした。今も迫害により、毎年何万、もしかすると何十万のキリスト者たちたちが、迫害によっていのちを落としています。
日本においては、迫害によっていのちを失うということは現在は殆どありませんが、過去にはありました。 現代の日本においては、イエスを信じ、従って行く時、また福音を宣べ伝えていく時、家族が敵対したり、実際に家から追い出される人たちもいます。 また先祖の墓はどうするのかと言われたり、地域の慣習に反するなどから、葛藤や戦いが生じることもあります。
イエスご自身、「私は剣をもたらすために来た」と語られたことがありました。イエスを信じるキリスト者が、回りの人々から迫害されることを表されたものです。 しかしイエスは、それらの犠牲をはるかに越える報いを約束されました。それは後の世だけでなく、この世においても報いを100倍受けると言われたことです。 これは何を意味しているのでしょうか? 100倍の「兄弟、姉妹、母、子ども」を受けるとあります。これは恐らく、世界の国々にいる神の家族であると考えられます。イエスはマルコの福音書3:35節において群衆に、弟子たちに、そしてイエスの実の家族にこのように語られました。「だれでも神のみこころを行う人、その人がわたしの兄弟、姉妹、母なのです。」イエスを信じ、イエスに信頼を寄せていなければ、神のみこころを行うことはできません。ですから神のみこころ、つまりイエスのみこころを行う人は、神を信じている人です。 その人はイエスを信じていることによって神の子、神の家族とされています。従ってイエスを信じている人たち同士は同じ神の家族-兄弟であり、姉妹、母、子どもである、ということです。この世のどこに行っても、主は霊の家族を私たちの回りに置いて下さっている。それは血の繋がった肉の家族よりも、とてつもなく大きく、広く、そして深い関係のある家族です。
さらにイエスは「畑を百倍受ける」と語られました。これは霊的な財産だと考えられます。物理的な畑、すなわち財産は迫害のゆえに失ってしまうこともあります。しかし霊的な財産は、イエスを信じていることによって豊かに与えられます。 それだけではありません。イエスが私たち一人一人に与えられている使命を知り、使命に生きていくことも含まれます。 イエスを知らない人々は、神、すなわちイエスから与えられる使命-その人でしかできない成すべきことが分かりません。 ですから心を満たすために、また喜ばせ、安心させるために、財産や富、健康、家族、また生きがいとなる趣味などに打ち込みますが、これらが真の意味で人間を満たすことはできません。 人が羨むような、全てを持っていた金持ちの青年が、満たされずにイエスの下に来たことにも表されています。 従ってイエスから与えられる使命に生きることは、財産を多く持っていても虚しい人生を送っている人に比べ、精神的、肉体的においても、遥かに豊かな人生です。従って私たちキリスト者は、自分に与えられた使命に生きることによって生きがいを感じ、今の世において肉体的、精神的な満たしとそこからの平安などといった祝福を受け、加えて永遠のいのちを受け継いでいるという、霊的な祝福も受けています。 私たちはなんと幸いな民ではないでしょうか?
肉体を持って生きている間にもこのような祝福を受けるだけでなく、肉体的な死の先にある、永遠のいのちをすでに受けている訳ですから、その報酬、報いは、払った犠牲をはるかに超えるものです。イエスはその報酬、報いを、21節で「天に宝を積む」と表現されています。
報いを受けることができる保証をイエスが下さった。弟子たちの心は踊ったかもしれません。
しかしイエスは最後にこのように語られました。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になります。」ここにもイエスの規準、神の国の規準が、私たちとは違うことが表されています。
富む者たちはこの世においては「先の者」と言えます。ここには律法学者やパリサイ人、祭司長や、ユダヤ人のような選民意識を持っていた人々などが含まれるでしょう。彼らは子どもたち、遊女や取税人、病気を持っている人々、また異邦人などを見下げていました。彼らように見下げられていた人々は、当時の人間の規準からすれば「後の者」です。しかし来たるべき世、すなわち完成した神の国の規準は全く逆です。 イエスはマタイの福音書の21章において、イエスに質問して来た祭司長たちと民の長老たち、すなわち自分たちが神の国に入ることができると確信していた人々に対して、このように語られました。 マタイの福音書21章31節、「まことに、あなたがたに言います。取税人たちや遊女たちが、あなたがより先に神の国に入ります。」祭司長たちや民の長老が見下していた人々、何も持っていないイエスの弟子たちなど、つまり彼らの規準で言えば後の者が、神の国においては先になるということが表されています。ここでイエスが言われたことは、当時の常識や価値観、規準とは全く逆でした。 またこの教えは、イエスの弟子たちへの警告でもあったかもしれません。 それは、すべてを捨ててイエスについて来た彼らには、自分たちこそが、初めに報いを受けるべきだという自己満足や優越感などがあったと思われるからです。
そしてイエスが弟子たちに語られ、また警告されたことは、イエスを信じ、従っている私たちキリスト者に対しての警告でもあると思います。それは私たちがイエスを通して救われ、永遠のいのちが与えられているということを、自分の功績や努力に帰してはいけないということです。また他の人よりも優先して報いを得ることができるなどといった損得勘定を持ったり、また自分は他の人々とは違うと、傲慢になってはいけないということです。 報いを与えられるのも、また人を罪から救って神の国に導かれるのも神、イエスです。ですから払った犠牲の大きさに応じて報いがあるなどと考えたり、自分の信仰によって自分は救われているなどと、自分の信仰を誇ったりしてはいけない、それは的外れであるということです。
この世においての報いも、また永遠に続くいのちも、全てはイエスが私たちに与えて下さった賜物、ギフトであり、プレゼントです。本来であれば受け取る価値のない私たち、罪人である人間に、このような素晴らしい賜物を与えて下さったのが、イエス・キリストです。私たち罪ある人間が、ただイエスを信じることによって神に受け入れられている。赦されている。そして愛されている。
「それは人にはできないことです。しかし、神は違います。神にはどんなことでもできるのです。」
この世においての報い、そして人間の力では絶対に手に入れることができない、将来に続く永遠のいのちを保証して下さっているイエスに、今日も感謝と讃美を、共に捧げたいと思います。
祈ります
「いのちの保証」(永遠のいのちの根拠、保証はイエスの十字架と復活にある)
イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことです。しかし、神は違います。神にはどんなことでもできるのです。」
イエスは、周囲を見回して、弟子たちに言われた。「富を持つ者が神の国に入るのは、なんと難しいことでしょう。」弟子たちはイエスのことばに驚いた。しかし、イエスは重ねて彼らに言われた。「子たちよ。神の国に入ることは、なんと難しいことでしょう。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。」弟子たちは、ますます驚いて互いに言った。「それでは、だれが救われることができるでしょう。」イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことです。しかし、神は違います。神にはどんなことでもできるのです。」ペテロがイエスにこう言い出した。「ご覧ください。私たちはすべてを捨てて、あなたに従って来ました。」イエスは言われた。「まことに、あなたがたに言います。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子ども、畑を捨てた者は、今この世で、迫害とともに、家、兄弟、姉妹、母、子ども、畑を百倍受け、来たるべき世で永遠のいのちを受けます。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になります。」( マルコの福音書 10:23-31 SKY17 )
若くて金持ち、指導的立場にある人が、永遠のいのちを受け継ぐためにイエスの下に来ました。先週共に見て来たところです。 彼が知りたかったのはその「方法」でした。つまり自分の行いで、自分の力で、永遠のいのちを勝ち取ることができる方法を、彼は手に入れたかったのです。しかし彼の予想に反してイエスはこの青年に、いのちを受け継ぐためには持っている富を手放すようにと言われました。彼からすればそれは予想外であり、逆のことでした。彼は行いによって富や財産を得るという経験をして来ましたが、永遠のいのちに関しては逆に手放さなければならない。 結局彼は自分の富を手放すことばできず、悲しみながらイエスの下を去って行きました。 この青年を見ながらイエスが弟子たちに向かって語られたこと、それが本日の箇所です。
今年のテーマは「神の国を受け入れる」です。神、すなわちイエスが支配されておられる神の国の規準は、この青年だけでなく、私たちの常識、価値観、規準とは「逆」「反対」のことが多くあります。私たち人間が良いものとして、また素晴らしいものとして信じているものが、神の国の規準に照らし合わせてみると、すなわちイエスの規準で見ると、実はそうではないということが多くあります。この規準をみ言葉から知る時、時に感動し、時に自分にはできないと打ちのめされます。しかし神の国の規準、すなわちイエスの規準を受け入れ、従い、実行して行く時、それは喜びになり、感謝が生まれます。 今年、そのような歩みを共にすることができたらと、願っています。
イエスは金持ちの青年が去っていくのを見ながら、弟子たちにこのように語られました。「富を持つ者が神の国に入るのは、なんと難しいことでしょう。」 この時弟子たちはイエスのことばに驚いています。 なぜ弟子たちはイエスのことばに驚いたのでしょうか? 当時ユダヤ人は、物質的繁栄を神からの祝福のしるし、富の所有を徳と考えていたようです。それゆえ彼らは、富んでいる者は、神の救いに最も近いと考えていました。ところがイエスは、富める者が神の国に入ることの難しさを指摘されましたから、弟子たちが驚いたのは当然です。彼らにとってこれは全く「逆」「反対」の発想です。彼らの常識にも価値観にも規準にもない、新しい教えでした。驚く弟子たちに、イエスは重ねてこのように言われました。「子たちよ。神の国に入ることは、なんと難しいことでしょう。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。」イエスが重ねて言われた、「金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しい」 このことばを聞いて弟子たちはさらに驚きました。それは、子どもでも入ることができる神の国に、裕福で、道徳的にも熱心な青年が入れない。しかもその可能性が、パレスチナで最大の動物であるらくだが針の穴を通る可能性よりも少ないとなれば、つまり不可能であれば-「それでは、だれが救われることができるでしょう。」彼らが問わずにいられなかったのも無理ありません。 もし同じ問いを当時のユダヤ人が聞いていたら、全ての人々がイエスの弟子たちと同じ反応をしたと想像します。
イエスは彼ら弟子たちを見ながら言われました。「それは人にはできないことです。しかし、神は違います。神にはどんなことでもできるのです。」永遠のいのちを自分の力や努力、能力などで掴み取ることはできない。それは金持ちであろうとなかろうと、またなし得るすべてをもってしても、人間にはできない、不可能であるということです。永遠のいのちを与えることができるのは、ただ神のみであるということを、イエスは彼らに教えられました。
イエスの神の国の規準、救いの規準を聞いた弟子たち、そしてペテロはこのように応答しました。
「ご覧ください。私たちはすべてを捨てて、あなたに従って来ました。」平行箇所のマタイの福音書19章においてペテロはこの時、「私たちは何をいただけるでしょうか」とイエスに尋ねています。神に祝福されていると思っていた金持ちが神の国に入るのは難しい。それどころか不可能だと言われたペテロや他の弟子たちは、自分たちが確信していた報いを受けることができないかもしれない。-不安になったのかもしれません。怖れを抱いたかもしれません。そこでイエスから報いが与えられるということを、保証して欲しかったようです。 いずれにせよイエスは、弟子たちが報いを受けること自体は否定されませんでした。イエスは29節と30節でこのように語られています。
「まことに、あなたがたに言います。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子ども、畑を捨てた者は、今この世で、迫害とともに、家、兄弟、姉妹、母、子ども、畑を百倍受け、来たるべき世で永遠のいのちを受けます。
ここでイエスは弟子たちに、この世において、具体的にどのような報いを受けることができるのかを語られました。それは「捨てる」ことによって報いを「受ける」ことができると、人間の規準と逆のことを言っておられます。しかもその報いとは、捨てたものの100倍であり、永遠のいのちまで与えられるという報いです。 イエスの弟子たちはペテロをはじめ、その多くは漁師でした。彼らは漁師に必要な舟も網も、そして両親や生まれた家も置いて、イエスに従って来ました。
では、イエスは弟子たちに、これら財産、そして家族を本当に捨てなさいと言われたのでしょうか。
「捨てる」と訳されていますが、原語のギリシャ語を見ると、「後に残す」とか、「そのままにしておく」というような意味があります。ですから「捨てる」とは、財産や家族関係などの執着を捨て、それらを後に残す、後回しにする、という意味になるでしょう。 ですからイエスが言われた「わたしのために、また福音のために」捨てなさいとは、財産や家族関係、人間関係に執着せずに、わたしと福音を伝えることをそれらよりも優先させ、そして私に従って来なさい、ということです。そしてイエスは、イエスと福音を宣べ伝えることを優先した人が受ける報いについて、それもこの世における報いを語られました。 しかしその報いは「迫害とともに」ある、と付け加えられています。 ユダヤ人であれば、もちろん私たちユダヤ人以外の異邦人でもそうですが、家族から迫害を受ける人、また勘当される人さえいます。 私がロゴス・ホープ号という福音船に乗って世界宣教に携わっていた時、ある姉妹が、「私はクリスチャンになったことを父には内緒にしている。もし知られたら殺されるかもしれない」と言っていたことを思い出します。彼女はイスラム教が国教となる国の出身でした。今も迫害により、毎年何万、もしかすると何十万のキリスト者たちたちが、迫害によっていのちを落としています。
日本においては、迫害によっていのちを失うということは現在は殆どありませんが、過去にはありました。 現代の日本においては、イエスを信じ、従って行く時、また福音を宣べ伝えていく時、家族が敵対したり、実際に家から追い出される人たちもいます。 また先祖の墓はどうするのかと言われたり、地域の慣習に反するなどから、葛藤や戦いが生じることもあります。
イエスご自身、「私は剣をもたらすために来た」と語られたことがありました。イエスを信じるキリスト者が、回りの人々から迫害されることを表されたものです。 しかしイエスは、それらの犠牲をはるかに越える報いを約束されました。それは後の世だけでなく、この世においても報いを100倍受けると言われたことです。 これは何を意味しているのでしょうか? 100倍の「兄弟、姉妹、母、子ども」を受けるとあります。これは恐らく、世界の国々にいる神の家族であると考えられます。イエスはマルコの福音書3:35節において群衆に、弟子たちに、そしてイエスの実の家族にこのように語られました。「だれでも神のみこころを行う人、その人がわたしの兄弟、姉妹、母なのです。」イエスを信じ、イエスに信頼を寄せていなければ、神のみこころを行うことはできません。ですから神のみこころ、つまりイエスのみこころを行う人は、神を信じている人です。 その人はイエスを信じていることによって神の子、神の家族とされています。従ってイエスを信じている人たち同士は同じ神の家族-兄弟であり、姉妹、母、子どもである、ということです。この世のどこに行っても、主は霊の家族を私たちの回りに置いて下さっている。それは血の繋がった肉の家族よりも、とてつもなく大きく、広く、そして深い関係のある家族です。
さらにイエスは「畑を百倍受ける」と語られました。これは霊的な財産だと考えられます。物理的な畑、すなわち財産は迫害のゆえに失ってしまうこともあります。しかし霊的な財産は、イエスを信じていることによって豊かに与えられます。 それだけではありません。イエスが私たち一人一人に与えられている使命を知り、使命に生きていくことも含まれます。 イエスを知らない人々は、神、すなわちイエスから与えられる使命-その人でしかできない成すべきことが分かりません。 ですから心を満たすために、また喜ばせ、安心させるために、財産や富、健康、家族、また生きがいとなる趣味などに打ち込みますが、これらが真の意味で人間を満たすことはできません。 人が羨むような、全てを持っていた金持ちの青年が、満たされずにイエスの下に来たことにも表されています。 従ってイエスから与えられる使命に生きることは、財産を多く持っていても虚しい人生を送っている人に比べ、精神的、肉体的においても、遥かに豊かな人生です。従って私たちキリスト者は、自分に与えられた使命に生きることによって生きがいを感じ、今の世において肉体的、精神的な満たしとそこからの平安などといった祝福を受け、加えて永遠のいのちを受け継いでいるという、霊的な祝福も受けています。 私たちはなんと幸いな民ではないでしょうか?
肉体を持って生きている間にもこのような祝福を受けるだけでなく、肉体的な死の先にある、永遠のいのちをすでに受けている訳ですから、その報酬、報いは、払った犠牲をはるかに超えるものです。イエスはその報酬、報いを、21節で「天に宝を積む」と表現されています。
報いを受けることができる保証をイエスが下さった。弟子たちの心は踊ったかもしれません。
しかしイエスは最後にこのように語られました。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になります。」ここにもイエスの規準、神の国の規準が、私たちとは違うことが表されています。
富む者たちはこの世においては「先の者」と言えます。ここには律法学者やパリサイ人、祭司長や、ユダヤ人のような選民意識を持っていた人々などが含まれるでしょう。彼らは子どもたち、遊女や取税人、病気を持っている人々、また異邦人などを見下げていました。彼らように見下げられていた人々は、当時の人間の規準からすれば「後の者」です。しかし来たるべき世、すなわち完成した神の国の規準は全く逆です。 イエスはマタイの福音書の21章において、イエスに質問して来た祭司長たちと民の長老たち、すなわち自分たちが神の国に入ることができると確信していた人々に対して、このように語られました。 マタイの福音書21章31節、「まことに、あなたがたに言います。取税人たちや遊女たちが、あなたがより先に神の国に入ります。」祭司長たちや民の長老が見下していた人々、何も持っていないイエスの弟子たちなど、つまり彼らの規準で言えば後の者が、神の国においては先になるということが表されています。ここでイエスが言われたことは、当時の常識や価値観、規準とは全く逆でした。 またこの教えは、イエスの弟子たちへの警告でもあったかもしれません。 それは、すべてを捨ててイエスについて来た彼らには、自分たちこそが、初めに報いを受けるべきだという自己満足や優越感などがあったと思われるからです。
そしてイエスが弟子たちに語られ、また警告されたことは、イエスを信じ、従っている私たちキリスト者に対しての警告でもあると思います。それは私たちがイエスを通して救われ、永遠のいのちが与えられているということを、自分の功績や努力に帰してはいけないということです。また他の人よりも優先して報いを得ることができるなどといった損得勘定を持ったり、また自分は他の人々とは違うと、傲慢になってはいけないということです。 報いを与えられるのも、また人を罪から救って神の国に導かれるのも神、イエスです。ですから払った犠牲の大きさに応じて報いがあるなどと考えたり、自分の信仰によって自分は救われているなどと、自分の信仰を誇ったりしてはいけない、それは的外れであるということです。
この世においての報いも、また永遠に続くいのちも、全てはイエスが私たちに与えて下さった賜物、ギフトであり、プレゼントです。本来であれば受け取る価値のない私たち、罪人である人間に、このような素晴らしい賜物を与えて下さったのが、イエス・キリストです。私たち罪ある人間が、ただイエスを信じることによって神に受け入れられている。赦されている。そして愛されている。
「それは人にはできないことです。しかし、神は違います。神にはどんなことでもできるのです。」
この世においての報い、そして人間の力では絶対に手に入れることができない、将来に続く永遠のいのちを保証して下さっているイエスに、今日も感謝と讃美を、共に捧げたいと思います。
祈ります
「いのちの保証」(永遠のいのちの根拠、保証はイエスの十字架と復活にある)
イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことです。しかし、神は違います。神にはどんなことでもできるのです。」