聖餐式

2026/6/7(日)「生きている者の神」マルコ12:18~27 庄司牧師

2026年6月7日 マルコの福音書12:18~27「生きている者の神」
また、復活はないと言っているサドカイ人たちが、イエスのところに来て質問した。「先生、モーセは私たちのためにこう書いています。『もし、ある人の兄が死んで妻を後に残し、子を残さなかった場合、その弟が兄嫁を妻にして、兄のために子孫を起こさなければならない。』さて、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、死んで子孫を残しませんでした。次男が兄嫁を妻にしましたが、やはり死んで子孫を残しませんでした。三男も同様でした。こうして、七人とも子孫を残しませんでした。最後に、その妻も死にました。復活の際、彼らがよみがえるとき、彼女は彼らのうちのだれの妻になるのでしょうか。七人とも彼女を妻にしたのですが。」イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、聖書も神の力も知らないので、そのために思い違いをしているのではありませんか。死人の中からよみがえるときには、人はめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです。死人がよみがえることについては、モーセの書にある柴の箇所で、神がモーセにどう語られたか、あなたがたは読んだことがないのですか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあります。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。あなたがたは大変な思い違いをしています。」 (マルコの福音書 12:18-27 SKY17)
人類の罪の身代わりのため、イエスは十字架への歩みを進めている-その最後の1週間を共に見ています。11章から最後の16章まで続きます。 再び、イエスの下へ刺客が送られて来ました。それがパリサイ派と並ぶ党派であるサドカイ派の人々でした。当時のサドカイ派の人々は祭司長、および長老たちからなる富裕層の指導者たちです。彼らは現実主義的な保守派で、支配体制の現状維持を何よりも望んでいました。つまり彼らは前回見たヘロデ派のように、ローマ帝国と関係を保つことによって、自分たちの支配と利益を優先しているようなグループでした。 彼らはモーセ五書、すなわち旧約聖書の最初の五つの書物、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記のみを聖書と見なし、信仰の規範としていました。モーセが書いたと言い伝えられており、「モーセ五書」と呼ばれているものです。十戒を中心とする律法がそこに記され、聖書の中でもとても大切な部分です。 この5つの書物には、死んだ者が復活するということは直接的には書かれていません。それゆえサドカイ派の人々は、死者の復活はないと断言していた。また彼らサドカイ派の人々は、祭司として神殿で仕えるような立場にありましたが、復活だけでなく、目に見えない天使や悪魔などの霊的存在も信じていませんでした。加えて人間の運命は神によって完全に決定されているという考えには立たず、人間が自由に自分の道を、人生を決定できる、自由意思を重んじていました。つまり、彼らは神の主権や計画なども信じていなかったわけです。この世における自分の利益だけに興味があるようなサドカイ派の人々が、イエスに論争を挑んで来た、それが本日聖書の箇所です。サドカイ派の人々の質問は、「七人の兄弟がいて、長男は結婚したが死に、子がいなかったので、その妻を弟に残した。そして、次男も三男も、そして七人までもが彼女を妻にした。そして最後にその妻も死んだ。もし復活があるとすれば、彼女は七人のうちのだれの妻になるのか。」というものでした。 これは「レビラート婚(レビレート)婚」と言われるものです。子孫を絶やさないようにすることで家系を守り、またその家系の財産の維持や、遺された妻や子どもの生活保障などが目的でした。世界の国々にある制度のようです。旧約聖書、申命記25章にこの規定が記されています。実例が、イエスの直接の系列となるユダ部族、ユダに見ることができます。創世記38章に記されています。後でご覧下さい。
7人の夫が次々に死んで行く中で、一人の妻をそれぞれがめとる。 理論的にはあり得る話ですが、実際的には到底起こらない話です。イエスはこの質問に対して、ノーを突き付けました。 イエスは彼らに対して24節で「思い違いをしている」、27節においては「大変な思い違いをしている」と、二度にわたって彼らの間違いが致命的であることを指摘しています。
イエスは彼らの間違いを指摘しながら、復活とは本当はどのようなものであるかを、25節から27節で説明されて行きます。先に26節と27節の前半を見たいと思います。死人がよみがえることについては、モーセの書にある柴の箇所で、神がモーセにどう語られたか、あなたがたは読んだことがないのですか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあります。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。イエスは26節でアブラハム、イサク、ヤコブという、神の選びの民であるイスラエル民族における、重要な祖先の名前を挙げられました。彼らは神を信じる信仰者でした。 なぜイエスは彼らの名前を挙げられたのでしょうか。
それは、サドカイ派の人々がモーセ五書のみを信じていたため、そのモーセ五書の中に、死人が甦るということが直接的ではないものの、示されているからです。それがアブラハム、イサク、ヤコブであり、イエスはモーセ五書の第二巻、出エジプト記の3章6節を引用されました。
『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』この箇所は、エジプトで奴隷とされていたイスラエル民族が神に助けを叫び求めた時、主なる神が燃える柴の中からモーセに現れた時の場面です。神はモーセを選び、イスラエルをエジプトから脱出させる器として、またリーダーとして選ばれました。この時神は、アブラハム、イサク、ヤコブの名前を挙げながら、ご自分を現わされました。すなわち神は、モーセから見れば400年~500年前に生きていたアブラハム、イサク、ヤコブと今なお契約関係にあることを示されています。その契約とは、神を信じる者が義とされ、すなわち神の前に正しい者と認められ、神の祝福を受け継ぐ者となるというものでした。つまり神はモーセに対して、彼らを導いた神は、あなたの神でもあるのだと、モーセに語られているということです。「アブラハム、イサク、ヤコブを導いた神である私は、あなたにとっても同じ神だ。この同じ神があなたを遣わし、共にいるのだから、あなたはイスラエルをエジプトから脱出させることができる!大丈夫だ!」神はご自身を宣言されると共に、モーセを励ましている箇所でもあります。 イエスはこの箇所を引用された時に、27節の前半において、神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。と語られました。つまり、イスラエルの祖先であるアブラハム、イサク、ヤコブは、今も神の前に生きているということです。彼らが今も生きているということを踏まえて、25節にある、「死人の中からよみがえるときには」と言われたイエスのことばを考えてみたいと思います。 アブラハム、イサク、ヤコブのように、神の前に生きていることと、よみがえるということは、異なるということです。私たちのいのちが終わる時、肉体の機能は停止し、肉体はその形も機能も維持することはできません。そして崩壊、すなわち腐り、最終的には神が聖書で語られているように、最初に取られた土に返ります。人間の組織が土の成分と殆ど同じだと言うことは、以前お話したことがあります。 この肉体の死と崩壊という現実は、アブラハムにもイサクにもヤコブにも当てはまりました。彼らも普通の人間だったからです。 ですから彼らが死んだ時も、肉体は滅んでしまいました。しかしイエスは彼らが今も生きていると語られています。つまり彼らが神の前に生きているというのは、肉体ではなく、霊魂であると言えるでしょう。人間が霊、肉体、魂からできていると聖書に記されている通りです。死んでしまっても、神を信じる信仰者であれば、霊魂の状態で神の前に生きている。 旧約聖書に登場する人々の時代は、イエスはまだ受肉していませんでしたが、三位一体の神-父なる神、子なるキリスト、聖霊なる神は一つの神です。ですから主なる神を信じていた旧約時代の信仰者は、すなわちイエス・キリストを神として信じ、イエスの前に生きているということでもあります。この現実を踏まえて25節を見たいと思います。この箇所は今回のサドカイ人の質問に対してのイエスの答えです。死人の中からよみがえるときには、人はめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです。
「死人の中からよみがえるとき」とは、イエスがこの世に、この世界に再び戻って来られる再臨の時に、イエスを信じて死んだ者たちがよみがえる時を意味します。 新約聖書、コリント人への手紙の第一、15章には、イエスが再臨された時に、イエスを信じて亡くなった信仰者に与えられる甦りと、甦った者に与えられる復活の体について記されています。また彼ら信仰者は、つまり私たち信仰者は、将来復活した時、「天の御使いたちのよう」とあるように、男と女という性別も無くなると考えられています。つまり、この世における結婚の制度-男と女が結びつくといった関係が、私たちが召された後はもはやない、ということになります。またユダヤ人とユダヤ人以外の民族である、異邦人といった民族の違いも、将来一つになると聖書に記されています。
ところで皆さんは、「復活においては、めとることも嫁ぐこともない」イエスが言われたこのことばをどのように受け止められるでしょうか。ある人にとっては、このことばはとても寂しいことだと思われかもしれません。そのように思う人は幸せな夫婦関係に生きていた、また生きていると言えるでしょう。しかしある人にとっては逆に、このことばは大いなる解放の知らせかもしれません。この世では我慢しているが、復活してまであの人と一緒なのはごめんこうむる!感謝です!と思う人もいるかもしれません。また独身の人や、離婚、再婚などを経験した人々にとっては、このイエスのことばをどのように捉えたら良いのかと、戸惑う人もいるかもしれません。しかしこれら全ての反応は、死者からの復活を、この世の人生の延長上に見ているから起こる反応だと思います。そこで、イエスが言われる復活について、私たちが正しく理解するための大切なポイントが、先ほども触れましたが、イエスが25節の後半で語られた、「天の御使いたちのようです」にあると思います。もう一度この25節をお読みします。死人の中からよみがえるときには、人はめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです。天の御使い、すなわち天使ですが、天使のようになるとは、何か白い衣を着て背中に翼のある者になるということではありません。 原語のギリシャ語を見ると「天にいる御使い」となっています。「天にいる」、ということが大切です。天にいるとは、神のみ手の内に置かれている、神と共に存在しているということです。今私たちは朽ちて行く肉体を纏い、罪と死とサタンが支配しているこの世、この世界に生きていますが、イエスを信じる信仰者が復活する時、全てが変わるということです。 御使いが神の御手にあるように、復活した私たちが神の御手の中にあり、神が共にいて下さるという神の守りを、神の恵みを、神の平安を、神の愛を、もっとはっきりと、知る者にされるということです。経験できる者にされるということです。
そのような祝福が復活にあるとすれば、今のこの世における私たちの人間関係がいかに歪んでいても、時に壊れていても、復活の時に神のみ手の内に置かれることによって、新しく完成されるということではないでしょうか。ですから、今この人生において良い夫婦関係を与えられている人は、復活において、今以上の完成された関係が与えられるでしょう。また、今この人生においては夫婦の間に問題があり、復活してまで一緒にいたくないと思っている人には、そのような問題や罪が全て解決され、解消された新しい関係が与えられるでしょう。それはもちろん、二人ともイエスを信じていなければなりませんが。 また、この世の人生においては結婚しなかったり、離婚を経験したり、複数の人と結婚した人においても、それらのことを越えた新しい、祝福された関係が与えられるでしょう。 いずれの場合も、この世における関係が復活において継続するのでなく、完成するということです。そしてこの完成は、夫婦の関係だけの話で終わりません。家族、友人、知人から、この世において知り合うことができた、全てイエスを信じた人々、また信じている人々との人間関係に及ぶものです。私たちはこの世の人生において様々な人間関係の中に生きています。恵まれた、喜ばしい関係もあれば、顔も見たくない、という問題に満ちた関係もあります。それらの関係や問題が、復活して神のみ手の内に置かれることによって、全て解決されます。それは、人間関係を悪くしてしまっている、元々の原因である罪が、イエスを信じることによってすでに解決されているからです。
復活というのはこのように、様々な罪や弱さを抱えてこの世の人生を歩んでいる私たちが、神の恵みの力によって新しくされ、御手の内に、御手の中に置かれ、この世においてはどうしようもなくまとわり着く罪が拭い去られ、一切の苦しみや悲しみから解放されて、新しく生かされるということです。それが神の力であり、恵みです。この神の約束は必ず成就、実現します。 私たちはイエスを信じていますから、将来必ず復活します。しかし今はまだ肉体という限界があり、神の御手の内には直接的にはいない私たちにとっては、復活を信じて日々待ち望み、また期待して過ごして行くことが大切ではないでしょうか。そのように歩みが、私たちの信仰であると言えます。
そしてその私たちの信仰と復活の保証がイエス・キリストです。 私たちの復活の先駆けとして、また私たちが将来復活して新しい体が与えられる、その保証として、死人の中から最初に復活されたのが、私たちの主、イエス・キリストです。肉体の死がイエスを一時捕えましたが、生きている者の神である主なる神が、その死を打ち破り、永遠の命を生きることができる、新しい体をイエスに与えて下さいました。そしてイエスを信じる者は全て、イエスの復活に与る者となります。イエスを信じる者が受けるバプテスマ、洗礼は、私たちがイエスと合わされている、一つであるということを表しているものですが、それは復活も同じです。イエスを信じた人は全て、イエスが死から復活されて今も生きておられるように、私たちも将来復活して、御国を受け継ぐ世継ぎとして神の御手に置かれ、私たちは神と共にあり、神の恵みと平安を、永遠に持ち続ける者とされます。私たちが将来必ず与えられる復活と、将来必ず与えられる復活の体を期待し、また同時に、先にイエスを信じて天に召された人々との再会を待ち望みたいと思います。
復活され、今も生きておられるイエスと共に、これからも歩んで行きたいと願います。最後に、イエスが群衆に語られたことば、ヨハネの福音書6:40節のことばをもって、本日のみ言葉の取り次ぎを終わりたいと思います。ヨハネの福音書6:40節 わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです。」
祈ります 「生きている者の神」
神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。あなたがたは大変な思い違いをしています。

2026/4/5(日)「起死回生」ルカ23:1~12 庄司牧師

2026年4月5日 イースター礼拝 ルカの福音書24:1~12 「起死回生」
24:1 週の初めの日の明け方早く、彼女たちは準備しておいた香料を持って墓に来た。 24:2 見ると、石が墓からわきに転がされていた。24:3 そこで中に入ると、主イエスのからだは見当たらなかった。24:4 そのため途方に暮れていると、見よ、まばゆいばかりの衣を着た人が二人、近くに来た。24:5 彼女たちは恐ろしくなって、地面に顔を伏せた。すると、その人たちはこう言った。「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。 24:6 ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、主がお話しになったことを思い出しなさい。24:7 人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえると言われたでしょう。」24:8 彼女たちはイエスのことばを思い出した。24:9 そして墓から戻って、十一人とほかの人たち全員に、これらのことをすべて報告した。24:10 それは、マグダラのマリア、ヨハンナ、ヤコブの母マリア、そして彼女たちとともにいた、ほかの女たちであった。彼女たちはこれらのことを使徒たちに話したが、24:11 この話はたわごとのように思えたので、使徒たちは彼女たちを信じなかった。24:12 しかしペテロは立ち上がり、走って墓に行った。そして、かがんでのぞき込むと、亜麻布だけが見えた。それで、この出来事に驚きながら自分のところに帰った。
ハッピーイースター!イエスは甦られました。人類最大の敵である死に打ち勝ち、勝利されたイエスを讃美します。また、イエスを信じる者たちにも死への恐怖とそこからの失望、そして死そのものからの解放を与えて下さるお方であることを感謝いたします。
本日の聖書箇所は、人間の常識とそれに伴う絶望と悲しみが表されています。同時に神の非常識とそれに伴う勝利と希望が対比されています。そのことが本日のタイトルである、起死回生です。
「起死回生とは、もとは病気や死にかけた人を生き返らせるという意味から転じて、危機的・絶望的な状況を立て直し、一気に良い方向へ持ち直すことを指して言う。」とあります。従って本日の聖書箇所に示されているイエスの復活は、イエスの死を悲しみ、絶望している女性たちに、また罪から来る死が待ち受けている私たち一人一人の人間にとっても起死回生の出来事です。
イエスを愛し、イエスに付き従ってきた女性たちが登場します。この女性たちは、イエスの体に香料を塗り、もう一度丁寧にお墓に収めようとやって来ました。ここに彼女たちの、そして人間の常識を見ます。彼女たちはイエスが十字架上で死ぬのを見届けています。少し前の23章、49節にはこのように記されています。「イエスの知人たちや、ガリラヤからイエスについて来ていた女たちはみな、離れたところに立ち、これらのことを見ていた。」
「これらのこと」とは、イエスが十字架に至る一連の出来事と、十字架そのものです。彼女たちはイエスがどのように十字架に架かり、また、どのように十字架上で息を引き取られるか、全ての過程を見ていた女性たちです。 それだけではありません。彼女たちはイエスが十字架上で死なれた後、その遺体が墓に運ばれるところまで見届けています。 本日の聖書箇所の直前、23章55節と56節をお読みします。イエスとともにガリラヤから来ていた女たちは、ヨセフの後について行き、墓と、イエスのからだが納められる様子を見届けた。ヨセフとは、イエスを信じる議員の一人でした。彼女たちはイエスの十字架刑を見ただけでなく、ヨセフがイエスの遺体を降ろし、亜麻布で包み、墓に納められる一部始終、全てをその目で見ました。彼女たちはイエスを愛し、イエスにずっと聞き従い、色々な奉仕をして来ました。そして彼女たちが常識と照らし合わせて今、できること。それはただ、イエスの遺体にもう一度丁寧に香料を塗り、丁寧に墓に納めることだけでした。 そのことだけが、彼女たちのイエスへの愛の表明であり、今できる精一杯のことでした。しかし墓に来てみるとイエスの体が見当たりません。彼女たちはどうしようかと途方にくれていました。自分たちのできる最後の、そしてたった一つのことができない。
そのような女性たちの前にイエスのことを伝える者が現れました。他の福音書にはそれが御使い、天使であったと書き記されています。その御使いが彼女たちに語りかけました。24:5b「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。24:6 ここにはおられません。よみがえられたのです。これは事実に基づいた証言であると言えます。「事実」とは、客観的に確認できる「実際に起こった事柄」であり、1つしか存在しないものです。御使いは私たち人間よりも知識、知性、力など、全て人間よりも上の存在です。従ってイエスが甦られたのを実際に起こった事実として、何らかの方法で既に知っていた、認識していたということです。しかし女性たちはその事実を知りません。この嬉しい、また喜ばしい事実に対して、今女性たちが出来ることは、それを信じるか、それとも信じないか、でした。
私たちは聖書を知っています。この後どうなるかも知っています。しかし彼女たちは、十字架に架けられ、死なれ、葬られたイエスがその後どうなるかを知りません。 従って人間の常識からすれば、死んだ人が復活するという話は非常識であり、思いつくことも、また想像すらできないことです。そのため彼女たちは、イエスが復活されたという素晴らしい知らせを信じるための助けが必要でした。その必要、イエスの復活を信じるために必要なこと、助けでありヒントを、御使いが彼女たちに語り、また与えてくれました。それが6節の後半と、7節で語られています。24:6b まだガリラヤにおられたころ、主がお話しになったことを思い出しなさい。24:7 人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえると言われたでしょう。」
何気に読むと気付きませんが、この御使いが語られたことは驚くべきことです。 それは御使いがイエスの復活を知っているということだけではなく、イエスが過去に彼女たちに語られたこと、その内容も知っていた、ということです。ここに御使いが人間の知性や能力を超える存在であることが示されています。 この御使いが、彼女たちがイエスの復活を信じることができるように助けてくれました。それはイエスが彼女たちに語られた「ことば」であり、「約束」を思い出させるということでした。御使いはこのように彼女たちに語りました。「人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえると言われたでしょう。」彼女たちは御使いのことばをヒントに、そして語りかけられたことによって助けられた結果、8節に至ります。
24:8 彼女たちはイエスのことばを思い出した。それは以前イエスが言われた三つのことでした。人の子、すなわちイエスが罪人たちの手に引き渡されること。十字架につけられること。そして三日目に甦ること、です。 彼女たちはイエスのことばを思い出して、イエスの復活、イエスが死から甦ってここにいないことを信じました。彼女たちがイエスの復活を信じた時の様子が、別の著者であり、違う角度からイエスの復活について触れている、マタイの福音書に描写されています。
28章5節から8節をお読みします。お聞き下さい。
御使いは女たちに言った。「あなたがたは、恐れることはありません。十字架につけられたイエスを捜しているのは分かっています。ここにはおられません。前から言っておられたとおり、よみがえられたのです。さあ、納められていた場所を見なさい。そして、急いで行って弟子たちに伝えなさい。『イエスは死人の中からよみがえられました。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれます。そこでお会いできます』と。いいですか、私は確かにあなたがたに伝えました。」彼女たちは恐ろしくはあったが大いに喜んで、急いで墓から立ち去り、弟子たちに知らせようと走って行った。
「彼女たちは恐ろしくはあったが」-当然の反応だと思います。イエスの誕生が御使いによって知らされた時、羊飼いたちも恐れています。しかし彼女たちは「大いに喜んで、急いで墓から立ち去り、弟子たちに知らせようと走って行った。」
彼女たちがイエスの復活という喜びの知らせを信じたゆえに、他の弟子たちに早く伝えようと急いで走って行きました。彼女たちがイエスの復活、甦りを信じなければ、このように行動することはなかったでしょう。 御使いは女性たちに、イエスが復活されたという助け、ヒントをくれました。それは実際に復活されたイエスの体を指し示すというようなものではなく、すでにイエスが女性たちに語られたみ言葉、そして約束を思い出させるというものでした。
イエスの復活を信じた彼女たちにとって、空の墓はどのように映ったでしょうか?イエスの復活を信じる前は、イエスの遺体に香料を塗ることができない。どうしよう。悲しい。空の墓は悲しみの象徴でした。 しかしイエスの復活を信じてから見る空の墓は、もはや悲しみの象徴ではありませんで。 それは逆にイエスの復活という動かぬ証拠であり、大きな喜びの象徴、証になりました。以前イエスに語られていたこと、イエスのことばと約束を信じることによって、彼女たちは絶望と悲しみから、今度は励ましと希望を持つに至る力となりました。
先々週、語られたことばが、その状況を変えるヒントになる、励ましになるこという体験をしました。家族と散歩をしていた時のことです。ホームに入って来る電車を見ようと、駅に向かって歩いていました。途中、いつもと少し違う道を通りました。そこは狭い路地で車通りが少なく、安全な場所だったからです。しばらく歩いていると、道路の先が行き止まりになっているように見えました。私は妻に、「大丈夫かな、このまま駅の方に行けるかな?」と問いかけたところ、「大丈夫ですよ。行けますよ!」という声が別のところから返って来ました。「あれ、今の声は!?」と一瞬思いましたが、それは丁度歩いている道路に面していた家の女性が、私の問いに答えてくれたのでした。私は笑いながら、安心して家族と歩き続けることができました。 しかし殆ど道路が終わりというところまで来た時、その先の道が見えません。本当にメインの道路に戻れるかな?と少し心配になりましたが、細いあぜ道があり、駅に通じる道に戻ることができました。駅に着くと丁度、三つの路線の電車がホームに到着するタイミングでした。異なる三つの車両が入って来るのを、同時に見ることができました。とても嬉しい体験でした。もし女性が私たちに声をかけてくれなかったら、私たちは道を引き返し、三つの車両が入って来るタイミングを逃していたかもしれません。
御使いは、イエスの復活を女性たちに指し示しました。御使いにとってはイエスの復活が事実であっても、復活を見ていない、知らない、想像もつかない女性たちにとっては、イエスの復活を信じることはできませんでした。しかし女性たちはイエスの復活をその目で見なくとも、イエスの復活を信じることができました。それはイエスが以前女性たちに語りかけて下さっていたこと、すなわちイエスが語られたみ言葉であり、約束でした。「人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえる」 イエスはこの女性たちだけでなく、私たちもイエスを信じることができるように、イエスの復活を信じることができるように、イエスが罪からの救い主であることを信じることができるように、ヒントや助けを私たち一人一人にも与えて下さっています。それが聖書であり、イエスを信じるために私たちを導いて下さる聖霊の存在でもあります。次回、三位一体の神の第三位格である、聖霊についてお話をする予定です。
実は今日のメッセージ、今お話していますが、とても苦しいものでした。「どうしよう。何をお話したら良いか分からない!」 ルカの福音書を選んだことを後悔するほどでした。しかしイエスは、私が語ることができるように助けて下さいました。散歩の時の語りかけが今日、この時、メッセージを語る上で大きなヒントになりました。本当にちょっとした出来事でしたが、私にとっては大きな出来事でした。 イエスが生きておられ、働かれ、助けて下さったと私は確信しています。

御使いは、女性たちがまだイエスの復活を信じる前、このように彼女たちに語りかけました。
「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。」メッセージの冒頭、始めの方で、私はこのようにお話しました。「本日の聖書箇所は、人間の常識とそれに伴う絶望と悲しみ。神の非常識とそれに伴う勝利と希望が対比されている。」 私は家族と散歩をしている時、語られたことばによって励まされ、その道を引き返すことなく、進み続けることができました。しかしその先で道がなくなってしまうように見え、不安になりました。しかし語られた通り、そこには道がありました。 この女性たちにとって、イエスの死は、イエスと共に歩いて来た道が終わってしまった。その先にもう道はないという絶望と悲しみをもたらしました。しかしイエスは御使いが語ったように、そして彼女たちが信じたように実際に復活され、この後マグダラのマリアやイエスの弟子たちに現れることになります。
私たちもこの目でイエスを見ることはできませんが、女性たちにように、イエスが語られたことば、約束を信じることができます。人間にとってイエスの復活は非常識ですが、神にとって不可能なことはありません。預言も含め、聖書に指し示されているイエスの復活を、聖霊の助けを頂きながら私たちも信じることができます。 そしてイエスは約束通り復活され、今も生きておられます。この道は終わりではないか。この先には何の喜びも希望もないのではないか。私たちはそのような道を通ることがあります。しかしイエスは私たちと神との関係を妨げている罪を十字架で全て背負われ、復活を通して罪と、罪から来る死に勝利して下さいました。イエスを信じる全ての者は、このイエスの復活の力に与ることができます。私たちは「死」で終わりではありません。それが聖書に記されている神の約束、「起死回生」の約束です。そしてそれは永遠に続く約束です。
復活され、今も生きておられ、私たちと共に歩んで下さり、私たちを助け、恵みで満たし、最善の道へと導いて下さる私たちの主、復活された素晴らしいイエスを、これからも信じ続けることができますように。
祈ります
「起死回生」
「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。」

2026/3/1(日)「神の国を受け入れる」マルコ10:35~45 庄司牧師

2026年3月1日 マルコの福音書10:35~45「神の国を受け入れる」
ゼベダイの息子たち、ヤコブとヨハネが、イエスのところに来て言った。「先生。私たちが願うことをかなえていただきたいのです。」イエスは彼らに言われた。「何をしてほしいのですか。」彼らは言った。「あなたが栄光をお受けになるとき、一人があなたの右に、もう一人が左に座るようにしてください。」しかし、イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、自分が何を求めているのか分かっていません。わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができますか。」彼らは「できます」と言った。そこで、イエスは言われた。「確かにあなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることになります。しかし、わたしの右と左に座ることは、わたしが許すことではありません。それは備えられた人たちに与えられるのです。」ほかの十人はこれを聞いて、ヤコブとヨハネに腹を立て始めた。そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められている者たちは、人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。しかし、あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」( マルコの福音書10:35-45 )

今年のテーマは「神の国を受け入れる」です。前回、金持ちの青年のお話をしました。当時金持ちは神の祝福されている人、それゆえ救いに近い人だと思われていました。しかし彼は神よりも財産に執着したゆえに、神の国に入ることができないとイエスに指摘されました。
神、すなわちイエスが支配されておられる神の国の規準は、私たちの常識、価値観、規準とは「逆」「反対」であるという一つの例です。 本日の聖書箇所は、神の国の規準、すなわちイエスの規準が、人間の規準とは異なる最たるものです。共にみ言葉から見て行きたいと思います。
本日の聖書箇所は、弟子たちの願いから始まっています。
10:35 ゼベダイの息子たち、ヤコブとヨハネが、イエスのところに来て言った。「先生。私たちが願うことをかなえていただきたいのです。」イエスは人の心を見抜かれます。彼らの願いがどういうものであるかを御存知でした。しかしあえて彼らに願いを語らせました。
10:36 「何をしてほしいのですか。」心にあるものをことばに登らせることによって、イエスは彼ら自身が何を考え、何を願っているのかをはっきりさせました。しかし彼らが口に出したことは神の、すなわちイエスの規準の逆、反対のものでした。すなわち御心に適わない願いでした。
10:37 「あなたが栄光をお受けになるとき、一人があなたの右に、もう一人が左に座るようにしてください。」彼らは神の国を地上の王国のように考え、地上と同じような地位と栄光を求めました。主イエスが王となられる時に、自分たちを右と左に座らせてください、すなわち主イエスの側近く、最も高い地位につけてください、と願いました。ヤコブとヨハネは、他の弟子たちよりも偉くなりたいと思った訳です。 これを聞いた他の10人の弟子たちは腹を立てました。二人に出し抜かれたと思ったようです。彼らも権力や栄誉を求め、自分が最も偉くなり、イエスと共に高い地位につきたい、と思っていたことが分かります。かつてイエスの弟子たちは誰が一番偉いかと論じあっていたことがありましたが、全く変わっていません。それに対してイエスは38節で、
10:38 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、自分が何を求めているのか分かっていません。わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができますか。」
10:39 彼らは「できます」と言った。そこで、イエスは言われた。「確かにあなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることになります。
この杯とは何を指しているのでしょうか。イエスは十字架の直前、ゲツセマネの園でこのような祈りを献げられました。「父よ、もし出来るならばこの杯を私からとりのけて下さい」主イエスでさえ、断りたくなるような杯です。
旧約聖書、エレミヤ書、25章15節にはこのような神のことばがあります。まことにイスラエルの神、主は、私にこう言われた。「この憤りのぶどう酒の杯をわたしの手から取り、わたしがあなたを遣わすすべての国々に、これを飲ませよ。」従って杯とは、神の怒りが満たされているものの象徴であることが分かります。その怒りを飲ませるとは、神を信じない、神に従わない国々に、神の裁きが下るということが表されています。 先週出エジプト記を見ました。イスラエルが金の子牛を神として作り、崇め、不品行を行い、神に裁かれました。 しかし今の日本を見ても、また世界を見ても、イスラエルと全く変わりはありません。同じです。 偶像を作り、それを拝み、仕え、従っています。ですからイエスが言われる杯とは、神を信じない、従わない人類に対する神の怒りであり、その怒りは、罪ある全ての人間に向けられているということになります。
ではイエスが言われた、わたしが受けるバプテスマとは何を意味しているのでしょうか。イエスはルカの福音書の中でこのように語られています。ルカの福音書12:50 わたしには受けるべきバプテスマがあります。それが成し遂げられるまで、わたしはどれほど苦しむでしょう。
イエスが言われた受けるべきバプテスマとは、苦しみであることが分かります。そしてそのためにどれほど苦しまなければならないのか、というイエスの責任、義務、そして使命を感じさせることばです。 本日の聖書箇所には、私が受けるバプテスマと、神の怒りが満たされている杯とが結びついています。従って私が受けるバプテスマとは、杯、つまり神の怒りを飲む-すなわち神の怒りをその身に受ける、十字架の痛み、苦しみ、苦難を表していることが分かります。本来であれば犯罪者が架けられる十字架ですが、イエスは神の怒りを人類の身代わりに十字架で受け、その身代わりの苦難のことを、イエスは「私が受けるバプテスマ」と呼ばれました。
ですからイエスが「わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができますか。」ヤコブとヨハネに尋ねられた本当の意味は、あなたたちは神の怒りに触れることが出来ますか?
神の怒りに対して神と人との間に立ってとりなすことが出来ますか?神の怒りを宥めることができますか?神の怒りをその身に受けることができますか?そのように聞いておられるということです。途方もないことをイエスは二人に問われた。ヤコブとヨハネはもちろんそのようなことは分かりません。いや、どのような人間であっても分かるはずがありません。ですから彼らは分からず、その重大な意味を理解できなかったゆえに、簡単に「できます」と答えました。答えることができました。罪に対する、また神の怒りに対する人間の無知、理解の乏しさを弟子たちが代表し、また表していると言えます。 イエスは彼らの無知や無理解を承知の上で、「確かにあなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることになります。」と言われました。
それはイエスがあじあわれる十字架の苦しみとは比べることはできませんが、イエスのために、福音のために彼らが将来受けることになる迫害、痛み、苦難、そして死を予知、預言していることばでもあります。 実際に彼らは苦難や痛みをこれから経験して行くことになります。ヤコブはエルサレムで迫害のためにヘロデ王に殺害されて殉教します。(使徒12:2)そしてヨハネはローマ皇帝ドミティアヌスの迫害によって、パトモスという島に、島流しになりました。(黙示録1:9)
イエスはヤコブとヨハネの将来に起こることを踏まえながら、人間の願いと神のご計画が異なるということを40節で語られました。
10:40 しかし、わたしの右と左に座ることは、わたしが許すことではありません。それは備えられた人たちに与えられるのです。」このような名誉を意のままに与えることはイエスに任せられたのではなく、父なる神にのみ属するということです。 神の子であるイエスですら、父なる神の御心に、ご計画に従っている。そしてそれが人類の身代わりのための十字架である。従って自分の願いや計画よりも、神の御心、ご計画に従って生きることが一番大切である。栄誉や栄光を求めて生きることは重要ではない、ということをイエスは彼らに諭されています。 さらにイエスはここで、彼らが願っている栄誉、求めている栄光が、この世の規準、そして神を知らないで歩んでいる者たちと同じ-ここでは異邦人を代表させて-であることを42節で警告として語られ、そうあってはならない、そのように歩んではならないと43節、44節で語っておられます。
10:42 「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められている者たちは、人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。
10:43 しかし、あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。
イエスは異邦人世界の規準、すなわちこの世の規準と、神の国の規準、イエスご自身の持っておられる規準とを、明確に対比されました。それは自分のためではなく、他者のために仕え、尽くしていくことを使命とする生き方です。 さらに44節においてこのように語られました。
10:44 あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。
しもべとは、自分の身柄(仕事も生活も)が他者に属するいわゆる奴隷の意味です。従ってイエスは、神の国の価値観や生き方、規準はこの世のものとは全く反対で、偉い人、人の上に立ちたいと思っている人はむしろ徹底して仕えなさい。そして先頭に立つ者、支配者は、しもべのように、そして奴隷のように人々のために生きるべきだ、と言われました。 実際にイエスは、弟子たちに教えられたとおりに生きたお方です。45節にそのことが述べられています。
10:45 人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。
イエスの弟子たちがなぜ、仕える者の姿をとるべきなのかという理由、そして根拠が語られています。それはそもそもイエスが、仕えられるためにではなく、仕えるためにこの世に、この世界に来たからだ、ということです。そしてイエスが人々に仕えるためにこの世に来たということが具体的に表されているのが、「十字架」への歩みであり、また「十字架」で成し遂げられたことでした。
「十字架」への歩みと、「十字架」で成し遂げられたことをイエスはここで「贖いの代価」ということばを使って説明されておられます。
何度かお話していますが、贖いとは、戦争の捕虜や奴隷、負債者を解放するため、自由にするために、誰かがその人を買い戻すための身代金を意味します。「多くの人のため」とありますが、これは一部の人ではなく、人類を包括する、人類全てと理解して良いでしょう。イエスが人間として歩まれた今から2000年前の時代を超え、今を生きている日本人も、全ての国、民族も含まれます。イエスは、神を信ぜず、自分勝手に歩んでいる人間に対する神の怒りの杯を、十字架で全て受け止めて下さいました。またイエスが十字架で受け止められたのは神の怒りだけでなく、私たち人間の罪と、罪から来る死でした。さらにイエスは悪魔、サタンが人間の罪を足場にして、人間を奴隷にしているその私たち人間を、十字架を通して解放して下さるお方です。それら全てが十字架の贖いを通して成し遂げられました。 罪に束縛されている人間を解放し、神の怒りを宥め、またサタンの奴隷からも解放する業が十字架です。それもご自身が私たちを生かすためにしもべになり、奴隷となって仕えて下さったからです。 またこの45節には「贖い」という思想だけではありません。「いのちを与えるために来た」とイエスが語られた「いのち」にも深い意味があります。

「いのち」は、新約聖書の原語のギリシャ語で「プシュケー」ということばが使われていますが、いのちという意味の他に、魂、生涯、自分自身などを意味することばでもあります。 イエスは私たちたちを罪と死と、サタンの奴隷から解放するために私たちを贖って下さいましたが、その代価、すなわち私たち人類に捧げて下さったのはいのちだけではない-心、感情、意志などを含む魂、イエスの歩まれた全生涯、そしてイエスご自身。すなわちイエスは、イエスが持っておられるすべてを、私たちのために与え尽くして下さった、ということが表されていることばです。 そしてその全てが、十字架に集中、結集していると言えます。イエスの十字架の死は、「多くの人の身代金」としての、死でした。捕えられ、捕虜となっているのは私たちのことです。自分たちを右と左に座らせてくださいと願った二人の弟子たちも、それに憤慨した他の弟子たちも、そして人と自分とを見比べることによって一喜一憂している私たちも、すなわち罪の中に足を取られ、身動きできない私たち一人一人の人間のための、身代金でした。イエスが十字架に架かるほどに父なる神の御心に、またご計画に従順に従われました。それほどまでに私たち人間に仕えて下さったゆえに、今私たちはイエスの十字架の贖いを信じることによって罪赦され、神の子とされる特権に与ることができました。そしてイエスによって救われた私たちもまた、イエスが人々に仕えられたように、人に仕えていく者として召されています。どれだけ仕えることが出来るのか、他の人と比べてどうなのか、などということは問題にはなりません。不十分にしか出来ないかもしれませんが、それでも喜んで、感謝しつつ、自分に出来ることを通して人に仕えていく。イエスを模範として。
イエスの仕える姿は、この世、この世界の規準の逆、反対です。そしてその反対の規準にある神の国に、私たちはイエスを通して入れて頂けました。イエスに感謝しつつ、神の国、すなわちイエスの規準によって歩み、人々に仕えていくことができますように。
祈ります。
「神の国を受け入れる」
人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。

2026/2/1(日)「いのちの保証」マルコ10:23~31 庄司牧師

2026年2月1日 マルコの福音書10:23~31 「いのちの保証」
イエスは、周囲を見回して、弟子たちに言われた。「富を持つ者が神の国に入るのは、なんと難しいことでしょう。」弟子たちはイエスのことばに驚いた。しかし、イエスは重ねて彼らに言われた。「子たちよ。神の国に入ることは、なんと難しいことでしょう。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。」弟子たちは、ますます驚いて互いに言った。「それでは、だれが救われることができるでしょう。」イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことです。しかし、神は違います。神にはどんなことでもできるのです。」ペテロがイエスにこう言い出した。「ご覧ください。私たちはすべてを捨てて、あなたに従って来ました。」イエスは言われた。「まことに、あなたがたに言います。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子ども、畑を捨てた者は、今この世で、迫害とともに、家、兄弟、姉妹、母、子ども、畑を百倍受け、来たるべき世で永遠のいのちを受けます。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になります。」( マルコの福音書 10:23-31 SKY17 )
若くて金持ち、指導的立場にある人が、永遠のいのちを受け継ぐためにイエスの下に来ました。先週共に見て来たところです。 彼が知りたかったのはその「方法」でした。つまり自分の行いで、自分の力で、永遠のいのちを勝ち取ることができる方法を、彼は手に入れたかったのです。しかし彼の予想に反してイエスはこの青年に、いのちを受け継ぐためには持っている富を手放すようにと言われました。彼からすればそれは予想外であり、逆のことでした。彼は行いによって富や財産を得るという経験をして来ましたが、永遠のいのちに関しては逆に手放さなければならない。 結局彼は自分の富を手放すことばできず、悲しみながらイエスの下を去って行きました。 この青年を見ながらイエスが弟子たちに向かって語られたこと、それが本日の箇所です。
今年のテーマは「神の国を受け入れる」です。神、すなわちイエスが支配されておられる神の国の規準は、この青年だけでなく、私たちの常識、価値観、規準とは「逆」「反対」のことが多くあります。私たち人間が良いものとして、また素晴らしいものとして信じているものが、神の国の規準に照らし合わせてみると、すなわちイエスの規準で見ると、実はそうではないということが多くあります。この規準をみ言葉から知る時、時に感動し、時に自分にはできないと打ちのめされます。しかし神の国の規準、すなわちイエスの規準を受け入れ、従い、実行して行く時、それは喜びになり、感謝が生まれます。 今年、そのような歩みを共にすることができたらと、願っています。
イエスは金持ちの青年が去っていくのを見ながら、弟子たちにこのように語られました。「富を持つ者が神の国に入るのは、なんと難しいことでしょう。」 この時弟子たちはイエスのことばに驚いています。 なぜ弟子たちはイエスのことばに驚いたのでしょうか? 当時ユダヤ人は、物質的繁栄を神からの祝福のしるし、富の所有を徳と考えていたようです。それゆえ彼らは、富んでいる者は、神の救いに最も近いと考えていました。ところがイエスは、富める者が神の国に入ることの難しさを指摘されましたから、弟子たちが驚いたのは当然です。彼らにとってこれは全く「逆」「反対」の発想です。彼らの常識にも価値観にも規準にもない、新しい教えでした。驚く弟子たちに、イエスは重ねてこのように言われました。「子たちよ。神の国に入ることは、なんと難しいことでしょう。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。」イエスが重ねて言われた、「金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しい」 このことばを聞いて弟子たちはさらに驚きました。それは、子どもでも入ることができる神の国に、裕福で、道徳的にも熱心な青年が入れない。しかもその可能性が、パレスチナで最大の動物であるらくだが針の穴を通る可能性よりも少ないとなれば、つまり不可能であれば-「それでは、だれが救われることができるでしょう。」彼らが問わずにいられなかったのも無理ありません。 もし同じ問いを当時のユダヤ人が聞いていたら、全ての人々がイエスの弟子たちと同じ反応をしたと想像します。
イエスは彼ら弟子たちを見ながら言われました。「それは人にはできないことです。しかし、神は違います。神にはどんなことでもできるのです。」永遠のいのちを自分の力や努力、能力などで掴み取ることはできない。それは金持ちであろうとなかろうと、またなし得るすべてをもってしても、人間にはできない、不可能であるということです。永遠のいのちを与えることができるのは、ただ神のみであるということを、イエスは彼らに教えられました。
イエスの神の国の規準、救いの規準を聞いた弟子たち、そしてペテロはこのように応答しました。
「ご覧ください。私たちはすべてを捨てて、あなたに従って来ました。」平行箇所のマタイの福音書19章においてペテロはこの時、「私たちは何をいただけるでしょうか」とイエスに尋ねています。神に祝福されていると思っていた金持ちが神の国に入るのは難しい。それどころか不可能だと言われたペテロや他の弟子たちは、自分たちが確信していた報いを受けることができないかもしれない。-不安になったのかもしれません。怖れを抱いたかもしれません。そこでイエスから報いが与えられるということを、保証して欲しかったようです。 いずれにせよイエスは、弟子たちが報いを受けること自体は否定されませんでした。イエスは29節と30節でこのように語られています。
「まことに、あなたがたに言います。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子ども、畑を捨てた者は、今この世で、迫害とともに、家、兄弟、姉妹、母、子ども、畑を百倍受け、来たるべき世で永遠のいのちを受けます。
ここでイエスは弟子たちに、この世において、具体的にどのような報いを受けることができるのかを語られました。それは「捨てる」ことによって報いを「受ける」ことができると、人間の規準と逆のことを言っておられます。しかもその報いとは、捨てたものの100倍であり、永遠のいのちまで与えられるという報いです。 イエスの弟子たちはペテロをはじめ、その多くは漁師でした。彼らは漁師に必要な舟も網も、そして両親や生まれた家も置いて、イエスに従って来ました。
では、イエスは弟子たちに、これら財産、そして家族を本当に捨てなさいと言われたのでしょうか。
「捨てる」と訳されていますが、原語のギリシャ語を見ると、「後に残す」とか、「そのままにしておく」というような意味があります。ですから「捨てる」とは、財産や家族関係などの執着を捨て、それらを後に残す、後回しにする、という意味になるでしょう。 ですからイエスが言われた「わたしのために、また福音のために」捨てなさいとは、財産や家族関係、人間関係に執着せずに、わたしと福音を伝えることをそれらよりも優先させ、そして私に従って来なさい、ということです。そしてイエスは、イエスと福音を宣べ伝えることを優先した人が受ける報いについて、それもこの世における報いを語られました。 しかしその報いは「迫害とともに」ある、と付け加えられています。 ユダヤ人であれば、もちろん私たちユダヤ人以外の異邦人でもそうですが、家族から迫害を受ける人、また勘当される人さえいます。 私がロゴス・ホープ号という福音船に乗って世界宣教に携わっていた時、ある姉妹が、「私はクリスチャンになったことを父には内緒にしている。もし知られたら殺されるかもしれない」と言っていたことを思い出します。彼女はイスラム教が国教となる国の出身でした。今も迫害により、毎年何万、もしかすると何十万のキリスト者たちたちが、迫害によっていのちを落としています。
日本においては、迫害によっていのちを失うということは現在は殆どありませんが、過去にはありました。 現代の日本においては、イエスを信じ、従って行く時、また福音を宣べ伝えていく時、家族が敵対したり、実際に家から追い出される人たちもいます。 また先祖の墓はどうするのかと言われたり、地域の慣習に反するなどから、葛藤や戦いが生じることもあります。
イエスご自身、「私は剣をもたらすために来た」と語られたことがありました。イエスを信じるキリスト者が、回りの人々から迫害されることを表されたものです。 しかしイエスは、それらの犠牲をはるかに越える報いを約束されました。それは後の世だけでなく、この世においても報いを100倍受けると言われたことです。 これは何を意味しているのでしょうか? 100倍の「兄弟、姉妹、母、子ども」を受けるとあります。これは恐らく、世界の国々にいる神の家族であると考えられます。イエスはマルコの福音書3:35節において群衆に、弟子たちに、そしてイエスの実の家族にこのように語られました。「だれでも神のみこころを行う人、その人がわたしの兄弟、姉妹、母なのです。」イエスを信じ、イエスに信頼を寄せていなければ、神のみこころを行うことはできません。ですから神のみこころ、つまりイエスのみこころを行う人は、神を信じている人です。 その人はイエスを信じていることによって神の子、神の家族とされています。従ってイエスを信じている人たち同士は同じ神の家族-兄弟であり、姉妹、母、子どもである、ということです。この世のどこに行っても、主は霊の家族を私たちの回りに置いて下さっている。それは血の繋がった肉の家族よりも、とてつもなく大きく、広く、そして深い関係のある家族です。
さらにイエスは「畑を百倍受ける」と語られました。これは霊的な財産だと考えられます。物理的な畑、すなわち財産は迫害のゆえに失ってしまうこともあります。しかし霊的な財産は、イエスを信じていることによって豊かに与えられます。 それだけではありません。イエスが私たち一人一人に与えられている使命を知り、使命に生きていくことも含まれます。 イエスを知らない人々は、神、すなわちイエスから与えられる使命-その人でしかできない成すべきことが分かりません。 ですから心を満たすために、また喜ばせ、安心させるために、財産や富、健康、家族、また生きがいとなる趣味などに打ち込みますが、これらが真の意味で人間を満たすことはできません。 人が羨むような、全てを持っていた金持ちの青年が、満たされずにイエスの下に来たことにも表されています。 従ってイエスから与えられる使命に生きることは、財産を多く持っていても虚しい人生を送っている人に比べ、精神的、肉体的においても、遥かに豊かな人生です。従って私たちキリスト者は、自分に与えられた使命に生きることによって生きがいを感じ、今の世において肉体的、精神的な満たしとそこからの平安などといった祝福を受け、加えて永遠のいのちを受け継いでいるという、霊的な祝福も受けています。 私たちはなんと幸いな民ではないでしょうか?
肉体を持って生きている間にもこのような祝福を受けるだけでなく、肉体的な死の先にある、永遠のいのちをすでに受けている訳ですから、その報酬、報いは、払った犠牲をはるかに超えるものです。イエスはその報酬、報いを、21節で「天に宝を積む」と表現されています。
報いを受けることができる保証をイエスが下さった。弟子たちの心は踊ったかもしれません。
しかしイエスは最後にこのように語られました。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になります。」ここにもイエスの規準、神の国の規準が、私たちとは違うことが表されています。
富む者たちはこの世においては「先の者」と言えます。ここには律法学者やパリサイ人、祭司長や、ユダヤ人のような選民意識を持っていた人々などが含まれるでしょう。彼らは子どもたち、遊女や取税人、病気を持っている人々、また異邦人などを見下げていました。彼らように見下げられていた人々は、当時の人間の規準からすれば「後の者」です。しかし来たるべき世、すなわち完成した神の国の規準は全く逆です。 イエスはマタイの福音書の21章において、イエスに質問して来た祭司長たちと民の長老たち、すなわち自分たちが神の国に入ることができると確信していた人々に対して、このように語られました。 マタイの福音書21章31節、「まことに、あなたがたに言います。取税人たちや遊女たちが、あなたがより先に神の国に入ります。」祭司長たちや民の長老が見下していた人々、何も持っていないイエスの弟子たちなど、つまり彼らの規準で言えば後の者が、神の国においては先になるということが表されています。ここでイエスが言われたことは、当時の常識や価値観、規準とは全く逆でした。 またこの教えは、イエスの弟子たちへの警告でもあったかもしれません。 それは、すべてを捨ててイエスについて来た彼らには、自分たちこそが、初めに報いを受けるべきだという自己満足や優越感などがあったと思われるからです。

そしてイエスが弟子たちに語られ、また警告されたことは、イエスを信じ、従っている私たちキリスト者に対しての警告でもあると思います。それは私たちがイエスを通して救われ、永遠のいのちが与えられているということを、自分の功績や努力に帰してはいけないということです。また他の人よりも優先して報いを得ることができるなどといった損得勘定を持ったり、また自分は他の人々とは違うと、傲慢になってはいけないということです。 報いを与えられるのも、また人を罪から救って神の国に導かれるのも神、イエスです。ですから払った犠牲の大きさに応じて報いがあるなどと考えたり、自分の信仰によって自分は救われているなどと、自分の信仰を誇ったりしてはいけない、それは的外れであるということです。

この世においての報いも、また永遠に続くいのちも、全てはイエスが私たちに与えて下さった賜物、ギフトであり、プレゼントです。本来であれば受け取る価値のない私たち、罪人である人間に、このような素晴らしい賜物を与えて下さったのが、イエス・キリストです。私たち罪ある人間が、ただイエスを信じることによって神に受け入れられている。赦されている。そして愛されている。
「それは人にはできないことです。しかし、神は違います。神にはどんなことでもできるのです。」
この世においての報い、そして人間の力では絶対に手に入れることができない、将来に続く永遠のいのちを保証して下さっているイエスに、今日も感謝と讃美を、共に捧げたいと思います。
祈ります
「いのちの保証」(永遠のいのちの根拠、保証はイエスの十字架と復活にある)
イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことです。しかし、神は違います。神にはどんなことでもできるのです。」

2026/1/4(日)「神が創造された絆」マルコ10:1~12 庄司牧師

2026年1月4日 マルコの福音書10:1~12「神が創造された絆」
イエスは立ち上がり、そこからユダヤ地方とヨルダンの川向こうに行かれた。群衆がまたイエスのもとに集まって来たので、再びいつものように彼らを教え始められた。すると、パリサイ人たちがやって来て、イエスを試みるために、夫が妻を離縁することは律法にかなっているかどうかと質問した。イエスは答えられた。「モーセはあなたがたに何と命じていますか。」彼らは言った。「モーセは、離縁状を書いて妻を離縁することを許しました。」イエスは言われた。「モーセは、あなたがたの心が頑ななので、この戒めをあなたがたに書いたのです。しかし、創造のはじめから、神は彼らを男と女に造られました。『それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる』のです。ですから、彼らはもはやふたりではなく、一体なのです。こういうわけで、神が結び合わせたものを、人が引き離してはなりません。」家に入ると、弟子たちは再びこの問題についてイエスに尋ねた。イエスは彼らに言われた。「だれでも、自分の妻を離縁し、別の女を妻にする者は、妻に対して姦淫を犯すのです。妻も、夫を離縁して別の男に嫁ぐなら、姦淫を犯すのです。」
今年の年間聖句はマルコの福音書10:45節です。タイトルとは週報にもありますように、「神の国を受け入れる」です。子どもたちが週報の絵とタイトルを書いてくれました。そしてフレームを描いて下さったのは額姉です。凄くかわいい表紙になりました。感謝です。 神の国を支配、統治されておられる神、すなわちイエスの価値観、イエスの規準を、私たちが日常生活の中で受け入れていくこと、その必要があることを共に見ていきたいと思っています。
1節には、イエスは立ち上がり、そこからユダヤ地方とヨルダンの川向こうに行かれた。と記されています。平行箇所のマタイの福音書19章には、「イエスはガリラヤを去り」と記され、「そこを離れて、もはや戻ることはない」というニュアンスが表されています。 三年間に及ぶガリラヤでの働きを終えて、イエスはいよいよ公生涯、最後の舞台であるエルサレム、人類の身代わりの十字架に向かって旅立たれました。 イエスがユダヤ地方に着くと、イエスはいつものように群衆に向かって福音を宣べ伝え始められました。 ここでもパリサイ人たちがやって来ます。「夫が妻を離縁することは律法にかなっているかどうか。」という質問をイエスにぶつけました。 平行箇所のマタイの福音書の19章には、「何か理由があれば、妻を離縁することは律法にかなっているでしょうか。」と彼らは尋ねており、マルコの福音書の方には「何か理由があれば」という表現がありません。よって彼らは離婚の条件というよりも、離婚ということ自体に対して、イエスがどのように考えているかを質問しています。この問いでまず目を引くのは、「夫が妻を」と尋ねられていることです。夫側からの離別の可能性が問われているということです。なぜでしょうか。 それは妻側からの申し出など、当時は考えられなかったからです。当時、離別する権利は夫側だけにあるものと考えられていました。 イエスはその質問に対して、「モーセはあなたがたに何と命じていますか。」と逆に質問しています。彼らは「モーセは、離縁状を書いて妻を離縁することを許しました。」と答えています。
彼らがイエスに答えたことが、旧約聖書、申命記の24章1節に記されています。「人が妻をめとり夫となった後で、もし、妻に何か恥ずべきことを見つけたために気に入らなくなり、離縁状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせ、」パリサイ人たちはここに記されている律法を、神が離婚を許可した根拠として受け止めていました。 当時、この律法の解釈は二通りありました。それは「恥ずべきこと」と「気に入らなくなり」という表現の解釈の違いです。当時のパリサイ派の中には二つの学派があったようです。一つは厳格な律法学者のラビ・シャンマイ派、そしてもう一つは緩やかに、自由に考える律法学者のラビ・ヒレル(ヒルレル)派がありました。厳格なシャンマイ派の方は、「恥ずべきこと」という語彙に重きを置き、姦淫以外の離婚理由を認めないという立場でした。寛容なヒルレル派は「気に入らなくなり」という語彙に重きをおいた解釈をしました。ヒルレル派の解釈でいくと、料理が下手とか、街頭で男性と話をしたとか、夫の前で両親の悪口を言った、など、どんなささいな理由であっても離縁できると考えました。後にこの解釈の適用はさらに広められ、紀元2世紀の有名なラビ・アキバは、今の妻より好きな女、美しい女を見つけた場合にも離婚できるとしました。滅茶苦茶で自分勝手な男の論理です。
先ほどマタイの平行箇所のマタイの福音書を取り上げました。パリサイ人たちが、「何か理由があれば離縁できるか?」という質問をイエスにしたとお話しました。従ってイエスに質問をしたパリサイ人たちは、このヒルレル学派の立場を反映するもので、「どんな理由ででも」妻を離縁できると考えていたことが分かります。 この質問がなされた同時代の人々の中には、ペレア地方の国主、ヘロデ・アンティパスがいました。バプテスマのヨハネが彼の不正な再婚を責め、殺されています。イエスが厳格なことを言えば、いのちに関わる。 またこの時代の人々は自由に離婚できると考えていましたから、やはり厳格なことを言えば、大衆の支持を失うことにもなる。 逆にイエスが
「律法」をないがしろにするようなことを言えば、彼らはイエスを有罪にすることができました。
どちらに転んでもイエスの立場は危うくなるという、イエスを試みるための悪質な質問でした。
この質問に対してイエスはこのように答えられました。5節。10:5 イエスは言われた。「モーセは、あなたがたの心が頑ななので、この戒めをあなたがたに書いたのです。
男性が一方的に女性を離縁できると考えられていたのは、まさに神の御心に反し、また心の頑なな証拠でした。 しかし神はこの人間の身勝手さ、自己中心的な性質を良くご存じです。
結婚は罪深い二人の人間で成り立っていますから、離縁することもあると、神は分かっておられます。 そこで神は、先ほどの申命記24章に代表される律法を、人間に与えられました。言われのない理由によって離婚者、特に女性の権利を守るためでもありました。それは離婚状があれば、女性は他の男性と再婚することができたからです。しかしこの律法を逆に悪用し、離婚状を書きさえすれば、自分の気に入らない妻を簡単に離縁出来ると解釈する、心の頑なな者たちがいました。
そこでイエスは、結婚は神が定められたということと、結婚に関して神に絶対的な主権と基準があることを教えられました。イエスはそのことを6節でこのように語られています。
10:6 しかし、創造のはじめから、神は彼らを男と女に造られました。イエスは「創造のはじめから」、つまり人間の創造の時点からという意味で、神のご計画における結婚の概念を説明されていきます。続く7節、8節です。10:7 『それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、
10:8 ふたりは一体となる』のです。ですから、彼らはもはやふたりではなく、一体なのです。
イエスはここで、創世記1:27節と2:24節を引用しながら、パリサイ人たちの目を、人間男女の創造の、根本的意義に向けさせました。神が人を男と女に創造されたゆえに、それぞれが神から与えられている尊厳を持つ、本来平等な存在であるということを先ず示されました。
またよく夫婦は一心同体と言われますが、英語でいればone flesh、「一つの肉」という意味です。
これは肉体的合一を指すとともに、それまで他人同士であった者が肉親関係となり、一つの家族、家庭を構成することを意味します。強い絆で結ばれた関係です。 そして9節が、今回パリサイ人たちへの答えとして、イエスが持っておられる結婚についての結論です。
10:9 こういうわけで、神が結び合わせたものを、人が引き離してはなりません。」
結婚は一対一の結び付きであり、「分けられない存在」です。他の何者もそこに入ることはできないし、入ってはならない。 また結婚は神が定められたものであって、神の支配の下にある。
従って人間の便宜的で勝手な理由(先ほど見てきたパリサイ人の規定など)によって結婚による男女の結合、一致を解消することは許されない。 結婚は本来神が結び合わせたものであるため、人間の意志や都合によって引き離すことはできないものであると、イエスは主張されました。
ではなぜ結婚が大切であり、神聖であるのかと言えば、結婚が「神の三位一体の親密さや一致が反映されている」からです。 神は父、子、聖霊の三つのペルソナ(位格)でありながら、一つの本質(実体)を持つ完全に愛し合う共同体です。 結婚も、二人の人間が一つ(一体)となり、精神的、肉体的、感情的な親密さを享受します。この二者の一致は、三位一体の神の、内的な愛と完全な交わりを、映し出すものとされています。 アダムとエバから全ての人類が生まれて来ましたが、男や女という性別を始めに造られ、そして男と女が結び合うことによる結婚によって三位一体の神の親密さ、永遠の交わり、そして栄光が表されることを、神はご計画されました。
それが結婚の奥義です。従って私たち人間は、結婚の意義や意味について知らなければ、今回のパリサイ人たちや当時の人々のように、自分の都合で結婚し、自分の都合で離婚を考えてしまう危険性があります。 もう一度5節を見たいと思います。

10:5 イエスは言われた。「モーセは、あなたがたの心が頑ななので、この戒めをあなたがたに書いたのです。 離婚は神が「命じ」られたのではなく、「許」されたものであると、イエスはモーセの律法を解釈しています。神は離婚を是認、認めているわけではなく、それは、人間の心が頑ななので、やむを得ず許可されたに過ぎない。 ここでイエスは、「あなたがたの心が頑ななので」と言われました。この「あなたがた」とは、モーセの時代の人々だけでなく、今まさに、自分勝手な理由で妻を一方的に離婚できると考えているパリサイ人たちのような頑迷な人々、またそれは現代を生きる私たちも含まれた、全ての人間に向けられていると感じます。また心が頑なであったのは、イエスの弟子たちも同じでした。10節を見ると、弟子たちがこの問題を再びイエスに尋ねていますが、マタイの福音書を見ると、彼らもパリサイ人たちや当時の人々が考えていたように、理由があれば離婚をしても良いと考えていたことが分かります。 弟子たちの質問に対してイエスはこのように答えられました。10:11 イエスは彼らに言われた。「だれでも、自分の妻を離縁し、別の女を妻にする者は、妻に対して姦淫を犯すのです。マタイ福音書でイエスは、「だれでも、淫らな行い以外の理由で自分の妻を離縁し、別の女を妻とする者は、姦淫を犯すことになるのです。」と、離縁の理由に、「淫らな行い」を加えています。前の訳では「不貞」と訳されています。そして12節に続きます。10:12 妻も、夫を離縁して別の男に嫁ぐなら、姦淫を犯すのです。」イエスがここで教えられていることは、淫らな行い、すなわち不貞や不品行以外の、自分勝手な離縁はそもそも無効であり、それゆえそのような者たちが離縁し、再婚しても、その再婚そのものが無効だということです。つまり「気に入らなくなった」妻を離縁しようとする夫に対して、その身勝手な行為は自分だけでなく、妻や、第二の夫となる者にも姦淫の罪を犯させてしまうことを警告しています。 当時、離縁できる資格は夫にしかなく、妻にはその資格は認められていませんでした。 イエスは離縁において、女性の権利を守る側に立っています。「気に入らなくなった」ということで離縁されるとすれば、女性はますます男性に利用されることになります。とすれば、女性は一人の人格として取り扱われないことになるだけでなく、神の定められた結婚の神聖さも失われる危険があります。ましてや、自分の妻よりもっと魅力的な女性を見つけたときに妻を離縁できるとすれば、これは「むさぼり」と何ら変わりません。 従って姦淫の根本にある問題は「むさぼりを助長する罪」であることが分かります。 イエスはこのように答えることによって弟子たちを教えつつ、目の前にいるパリサイ人たちが離縁に関する質問をした背後にある、動機をえぐり出しています、暴き出しています。それは、今の妻はあきて、他の女に乗り移りたいという動機を、彼らが持っていたということです。つまり彼らにむさぼりがあるゆえに、「離縁状」が記されているモーセの律法を引用し、逆に悪用して、自分たちの悪い行ないを正当化していたということです。 姦淫の罪は、モーセの律法によれば、死刑に値することでした。したがって彼らは、表向きは神のおきてに従っているように見えますが、本質は神のおきてを故意に破り、自分に死罪を招いているということです。 そしてこられのむさぼり、そしてむさぼりに至らせる罪を、現代を生きている私たちも同じように持っています。 なぜなら、結婚を自己中心的に、個人の満足と感情的な充足として捉えている人々がいることからも、明らかだからです。 そして結婚の意義や意味が分からず自己中心的になれば、離婚に関しても同じように、自己中心的な振る舞いをする可能性があります。
神が許された離縁の背景は、人間が神の命令された結婚の状態にとどまることができないために、許可された、許されたというものでした。 そしてその原因はむさぼりにありますが、その根底は人間の罪にありました。 つまり人間の心が頑なであるのは、人間が神から離れてしまったゆえの、罪から来ています。 イエスはむさぼりをはじめ、悪の元となっている罪を身代わりに十字架で背負われ、死なれ、罪と罪から来る死に勝利して甦られました。 この罪の赦し、贖いを信じる全ての者を、三位一体の神の愛の交わりに、イエスは永遠に入れて下さいます。 イエスはこの三位一体の神の愛の交わりの中に、イエスを信じる一人一人を招き入れるためにこの世界に来られた、と言うことができます。 「こういうわけで、神が結び合わせたものを、人が引き離してはなりません。」神が創造され、定められた結婚に、三位一体の神の愛と、親密さ、そして永遠に至る交わりの関係が表されています。そしてイエスを信じる私たちは全て、結婚という枠を超え、
この神の愛の交わりの中に、永遠に入れて頂けます。この恵みを覚えつつ、今年もイエスと共に歩ませて頂きたいと思います。 最後に使徒パウロが語られたことば、新約聖書、コリント人への手紙第一6:16,17節をもって、本日のみ言葉の取り次ぎを終わりたいと思います。
あなたがたは知らないのですか。遊女と交わる者は、彼女と一つのからだになります。「ふたりは一体となる」と言われているからです。しかし、主と交わる者は、主と一つの霊になるのです。
祈ります。
「神が創造された絆」