2026年6月7日 マルコの福音書12:18~27「生きている者の神」
また、復活はないと言っているサドカイ人たちが、イエスのところに来て質問した。「先生、モーセは私たちのためにこう書いています。『もし、ある人の兄が死んで妻を後に残し、子を残さなかった場合、その弟が兄嫁を妻にして、兄のために子孫を起こさなければならない。』さて、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、死んで子孫を残しませんでした。次男が兄嫁を妻にしましたが、やはり死んで子孫を残しませんでした。三男も同様でした。こうして、七人とも子孫を残しませんでした。最後に、その妻も死にました。復活の際、彼らがよみがえるとき、彼女は彼らのうちのだれの妻になるのでしょうか。七人とも彼女を妻にしたのですが。」イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、聖書も神の力も知らないので、そのために思い違いをしているのではありませんか。死人の中からよみがえるときには、人はめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです。死人がよみがえることについては、モーセの書にある柴の箇所で、神がモーセにどう語られたか、あなたがたは読んだことがないのですか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあります。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。あなたがたは大変な思い違いをしています。」 (マルコの福音書 12:18-27 SKY17)
人類の罪の身代わりのため、イエスは十字架への歩みを進めている-その最後の1週間を共に見ています。11章から最後の16章まで続きます。 再び、イエスの下へ刺客が送られて来ました。それがパリサイ派と並ぶ党派であるサドカイ派の人々でした。当時のサドカイ派の人々は祭司長、および長老たちからなる富裕層の指導者たちです。彼らは現実主義的な保守派で、支配体制の現状維持を何よりも望んでいました。つまり彼らは前回見たヘロデ派のように、ローマ帝国と関係を保つことによって、自分たちの支配と利益を優先しているようなグループでした。 彼らはモーセ五書、すなわち旧約聖書の最初の五つの書物、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記のみを聖書と見なし、信仰の規範としていました。モーセが書いたと言い伝えられており、「モーセ五書」と呼ばれているものです。十戒を中心とする律法がそこに記され、聖書の中でもとても大切な部分です。 この5つの書物には、死んだ者が復活するということは直接的には書かれていません。それゆえサドカイ派の人々は、死者の復活はないと断言していた。また彼らサドカイ派の人々は、祭司として神殿で仕えるような立場にありましたが、復活だけでなく、目に見えない天使や悪魔などの霊的存在も信じていませんでした。加えて人間の運命は神によって完全に決定されているという考えには立たず、人間が自由に自分の道を、人生を決定できる、自由意思を重んじていました。つまり、彼らは神の主権や計画なども信じていなかったわけです。この世における自分の利益だけに興味があるようなサドカイ派の人々が、イエスに論争を挑んで来た、それが本日聖書の箇所です。サドカイ派の人々の質問は、「七人の兄弟がいて、長男は結婚したが死に、子がいなかったので、その妻を弟に残した。そして、次男も三男も、そして七人までもが彼女を妻にした。そして最後にその妻も死んだ。もし復活があるとすれば、彼女は七人のうちのだれの妻になるのか。」というものでした。 これは「レビラート婚(レビレート)婚」と言われるものです。子孫を絶やさないようにすることで家系を守り、またその家系の財産の維持や、遺された妻や子どもの生活保障などが目的でした。世界の国々にある制度のようです。旧約聖書、申命記25章にこの規定が記されています。実例が、イエスの直接の系列となるユダ部族、ユダに見ることができます。創世記38章に記されています。後でご覧下さい。
7人の夫が次々に死んで行く中で、一人の妻をそれぞれがめとる。 理論的にはあり得る話ですが、実際的には到底起こらない話です。イエスはこの質問に対して、ノーを突き付けました。 イエスは彼らに対して24節で「思い違いをしている」、27節においては「大変な思い違いをしている」と、二度にわたって彼らの間違いが致命的であることを指摘しています。
イエスは彼らの間違いを指摘しながら、復活とは本当はどのようなものであるかを、25節から27節で説明されて行きます。先に26節と27節の前半を見たいと思います。死人がよみがえることについては、モーセの書にある柴の箇所で、神がモーセにどう語られたか、あなたがたは読んだことがないのですか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあります。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。イエスは26節でアブラハム、イサク、ヤコブという、神の選びの民であるイスラエル民族における、重要な祖先の名前を挙げられました。彼らは神を信じる信仰者でした。 なぜイエスは彼らの名前を挙げられたのでしょうか。
それは、サドカイ派の人々がモーセ五書のみを信じていたため、そのモーセ五書の中に、死人が甦るということが直接的ではないものの、示されているからです。それがアブラハム、イサク、ヤコブであり、イエスはモーセ五書の第二巻、出エジプト記の3章6節を引用されました。
『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』この箇所は、エジプトで奴隷とされていたイスラエル民族が神に助けを叫び求めた時、主なる神が燃える柴の中からモーセに現れた時の場面です。神はモーセを選び、イスラエルをエジプトから脱出させる器として、またリーダーとして選ばれました。この時神は、アブラハム、イサク、ヤコブの名前を挙げながら、ご自分を現わされました。すなわち神は、モーセから見れば400年~500年前に生きていたアブラハム、イサク、ヤコブと今なお契約関係にあることを示されています。その契約とは、神を信じる者が義とされ、すなわち神の前に正しい者と認められ、神の祝福を受け継ぐ者となるというものでした。つまり神はモーセに対して、彼らを導いた神は、あなたの神でもあるのだと、モーセに語られているということです。「アブラハム、イサク、ヤコブを導いた神である私は、あなたにとっても同じ神だ。この同じ神があなたを遣わし、共にいるのだから、あなたはイスラエルをエジプトから脱出させることができる!大丈夫だ!」神はご自身を宣言されると共に、モーセを励ましている箇所でもあります。 イエスはこの箇所を引用された時に、27節の前半において、神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。と語られました。つまり、イスラエルの祖先であるアブラハム、イサク、ヤコブは、今も神の前に生きているということです。彼らが今も生きているということを踏まえて、25節にある、「死人の中からよみがえるときには」と言われたイエスのことばを考えてみたいと思います。 アブラハム、イサク、ヤコブのように、神の前に生きていることと、よみがえるということは、異なるということです。私たちのいのちが終わる時、肉体の機能は停止し、肉体はその形も機能も維持することはできません。そして崩壊、すなわち腐り、最終的には神が聖書で語られているように、最初に取られた土に返ります。人間の組織が土の成分と殆ど同じだと言うことは、以前お話したことがあります。 この肉体の死と崩壊という現実は、アブラハムにもイサクにもヤコブにも当てはまりました。彼らも普通の人間だったからです。 ですから彼らが死んだ時も、肉体は滅んでしまいました。しかしイエスは彼らが今も生きていると語られています。つまり彼らが神の前に生きているというのは、肉体ではなく、霊魂であると言えるでしょう。人間が霊、肉体、魂からできていると聖書に記されている通りです。死んでしまっても、神を信じる信仰者であれば、霊魂の状態で神の前に生きている。 旧約聖書に登場する人々の時代は、イエスはまだ受肉していませんでしたが、三位一体の神-父なる神、子なるキリスト、聖霊なる神は一つの神です。ですから主なる神を信じていた旧約時代の信仰者は、すなわちイエス・キリストを神として信じ、イエスの前に生きているということでもあります。この現実を踏まえて25節を見たいと思います。この箇所は今回のサドカイ人の質問に対してのイエスの答えです。死人の中からよみがえるときには、人はめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです。
「死人の中からよみがえるとき」とは、イエスがこの世に、この世界に再び戻って来られる再臨の時に、イエスを信じて死んだ者たちがよみがえる時を意味します。 新約聖書、コリント人への手紙の第一、15章には、イエスが再臨された時に、イエスを信じて亡くなった信仰者に与えられる甦りと、甦った者に与えられる復活の体について記されています。また彼ら信仰者は、つまり私たち信仰者は、将来復活した時、「天の御使いたちのよう」とあるように、男と女という性別も無くなると考えられています。つまり、この世における結婚の制度-男と女が結びつくといった関係が、私たちが召された後はもはやない、ということになります。またユダヤ人とユダヤ人以外の民族である、異邦人といった民族の違いも、将来一つになると聖書に記されています。
ところで皆さんは、「復活においては、めとることも嫁ぐこともない」イエスが言われたこのことばをどのように受け止められるでしょうか。ある人にとっては、このことばはとても寂しいことだと思われかもしれません。そのように思う人は幸せな夫婦関係に生きていた、また生きていると言えるでしょう。しかしある人にとっては逆に、このことばは大いなる解放の知らせかもしれません。この世では我慢しているが、復活してまであの人と一緒なのはごめんこうむる!感謝です!と思う人もいるかもしれません。また独身の人や、離婚、再婚などを経験した人々にとっては、このイエスのことばをどのように捉えたら良いのかと、戸惑う人もいるかもしれません。しかしこれら全ての反応は、死者からの復活を、この世の人生の延長上に見ているから起こる反応だと思います。そこで、イエスが言われる復活について、私たちが正しく理解するための大切なポイントが、先ほども触れましたが、イエスが25節の後半で語られた、「天の御使いたちのようです」にあると思います。もう一度この25節をお読みします。死人の中からよみがえるときには、人はめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです。天の御使い、すなわち天使ですが、天使のようになるとは、何か白い衣を着て背中に翼のある者になるということではありません。 原語のギリシャ語を見ると「天にいる御使い」となっています。「天にいる」、ということが大切です。天にいるとは、神のみ手の内に置かれている、神と共に存在しているということです。今私たちは朽ちて行く肉体を纏い、罪と死とサタンが支配しているこの世、この世界に生きていますが、イエスを信じる信仰者が復活する時、全てが変わるということです。 御使いが神の御手にあるように、復活した私たちが神の御手の中にあり、神が共にいて下さるという神の守りを、神の恵みを、神の平安を、神の愛を、もっとはっきりと、知る者にされるということです。経験できる者にされるということです。
そのような祝福が復活にあるとすれば、今のこの世における私たちの人間関係がいかに歪んでいても、時に壊れていても、復活の時に神のみ手の内に置かれることによって、新しく完成されるということではないでしょうか。ですから、今この人生において良い夫婦関係を与えられている人は、復活において、今以上の完成された関係が与えられるでしょう。また、今この人生においては夫婦の間に問題があり、復活してまで一緒にいたくないと思っている人には、そのような問題や罪が全て解決され、解消された新しい関係が与えられるでしょう。それはもちろん、二人ともイエスを信じていなければなりませんが。 また、この世の人生においては結婚しなかったり、離婚を経験したり、複数の人と結婚した人においても、それらのことを越えた新しい、祝福された関係が与えられるでしょう。 いずれの場合も、この世における関係が復活において継続するのでなく、完成するということです。そしてこの完成は、夫婦の関係だけの話で終わりません。家族、友人、知人から、この世において知り合うことができた、全てイエスを信じた人々、また信じている人々との人間関係に及ぶものです。私たちはこの世の人生において様々な人間関係の中に生きています。恵まれた、喜ばしい関係もあれば、顔も見たくない、という問題に満ちた関係もあります。それらの関係や問題が、復活して神のみ手の内に置かれることによって、全て解決されます。それは、人間関係を悪くしてしまっている、元々の原因である罪が、イエスを信じることによってすでに解決されているからです。
復活というのはこのように、様々な罪や弱さを抱えてこの世の人生を歩んでいる私たちが、神の恵みの力によって新しくされ、御手の内に、御手の中に置かれ、この世においてはどうしようもなくまとわり着く罪が拭い去られ、一切の苦しみや悲しみから解放されて、新しく生かされるということです。それが神の力であり、恵みです。この神の約束は必ず成就、実現します。 私たちはイエスを信じていますから、将来必ず復活します。しかし今はまだ肉体という限界があり、神の御手の内には直接的にはいない私たちにとっては、復活を信じて日々待ち望み、また期待して過ごして行くことが大切ではないでしょうか。そのように歩みが、私たちの信仰であると言えます。
そしてその私たちの信仰と復活の保証がイエス・キリストです。 私たちの復活の先駆けとして、また私たちが将来復活して新しい体が与えられる、その保証として、死人の中から最初に復活されたのが、私たちの主、イエス・キリストです。肉体の死がイエスを一時捕えましたが、生きている者の神である主なる神が、その死を打ち破り、永遠の命を生きることができる、新しい体をイエスに与えて下さいました。そしてイエスを信じる者は全て、イエスの復活に与る者となります。イエスを信じる者が受けるバプテスマ、洗礼は、私たちがイエスと合わされている、一つであるということを表しているものですが、それは復活も同じです。イエスを信じた人は全て、イエスが死から復活されて今も生きておられるように、私たちも将来復活して、御国を受け継ぐ世継ぎとして神の御手に置かれ、私たちは神と共にあり、神の恵みと平安を、永遠に持ち続ける者とされます。私たちが将来必ず与えられる復活と、将来必ず与えられる復活の体を期待し、また同時に、先にイエスを信じて天に召された人々との再会を待ち望みたいと思います。
復活され、今も生きておられるイエスと共に、これからも歩んで行きたいと願います。最後に、イエスが群衆に語られたことば、ヨハネの福音書6:40節のことばをもって、本日のみ言葉の取り次ぎを終わりたいと思います。ヨハネの福音書6:40節 わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです。」
祈ります 「生きている者の神」
神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。あなたがたは大変な思い違いをしています。
また、復活はないと言っているサドカイ人たちが、イエスのところに来て質問した。「先生、モーセは私たちのためにこう書いています。『もし、ある人の兄が死んで妻を後に残し、子を残さなかった場合、その弟が兄嫁を妻にして、兄のために子孫を起こさなければならない。』さて、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、死んで子孫を残しませんでした。次男が兄嫁を妻にしましたが、やはり死んで子孫を残しませんでした。三男も同様でした。こうして、七人とも子孫を残しませんでした。最後に、その妻も死にました。復活の際、彼らがよみがえるとき、彼女は彼らのうちのだれの妻になるのでしょうか。七人とも彼女を妻にしたのですが。」イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、聖書も神の力も知らないので、そのために思い違いをしているのではありませんか。死人の中からよみがえるときには、人はめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです。死人がよみがえることについては、モーセの書にある柴の箇所で、神がモーセにどう語られたか、あなたがたは読んだことがないのですか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあります。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。あなたがたは大変な思い違いをしています。」 (マルコの福音書 12:18-27 SKY17)
人類の罪の身代わりのため、イエスは十字架への歩みを進めている-その最後の1週間を共に見ています。11章から最後の16章まで続きます。 再び、イエスの下へ刺客が送られて来ました。それがパリサイ派と並ぶ党派であるサドカイ派の人々でした。当時のサドカイ派の人々は祭司長、および長老たちからなる富裕層の指導者たちです。彼らは現実主義的な保守派で、支配体制の現状維持を何よりも望んでいました。つまり彼らは前回見たヘロデ派のように、ローマ帝国と関係を保つことによって、自分たちの支配と利益を優先しているようなグループでした。 彼らはモーセ五書、すなわち旧約聖書の最初の五つの書物、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記のみを聖書と見なし、信仰の規範としていました。モーセが書いたと言い伝えられており、「モーセ五書」と呼ばれているものです。十戒を中心とする律法がそこに記され、聖書の中でもとても大切な部分です。 この5つの書物には、死んだ者が復活するということは直接的には書かれていません。それゆえサドカイ派の人々は、死者の復活はないと断言していた。また彼らサドカイ派の人々は、祭司として神殿で仕えるような立場にありましたが、復活だけでなく、目に見えない天使や悪魔などの霊的存在も信じていませんでした。加えて人間の運命は神によって完全に決定されているという考えには立たず、人間が自由に自分の道を、人生を決定できる、自由意思を重んじていました。つまり、彼らは神の主権や計画なども信じていなかったわけです。この世における自分の利益だけに興味があるようなサドカイ派の人々が、イエスに論争を挑んで来た、それが本日聖書の箇所です。サドカイ派の人々の質問は、「七人の兄弟がいて、長男は結婚したが死に、子がいなかったので、その妻を弟に残した。そして、次男も三男も、そして七人までもが彼女を妻にした。そして最後にその妻も死んだ。もし復活があるとすれば、彼女は七人のうちのだれの妻になるのか。」というものでした。 これは「レビラート婚(レビレート)婚」と言われるものです。子孫を絶やさないようにすることで家系を守り、またその家系の財産の維持や、遺された妻や子どもの生活保障などが目的でした。世界の国々にある制度のようです。旧約聖書、申命記25章にこの規定が記されています。実例が、イエスの直接の系列となるユダ部族、ユダに見ることができます。創世記38章に記されています。後でご覧下さい。
7人の夫が次々に死んで行く中で、一人の妻をそれぞれがめとる。 理論的にはあり得る話ですが、実際的には到底起こらない話です。イエスはこの質問に対して、ノーを突き付けました。 イエスは彼らに対して24節で「思い違いをしている」、27節においては「大変な思い違いをしている」と、二度にわたって彼らの間違いが致命的であることを指摘しています。
イエスは彼らの間違いを指摘しながら、復活とは本当はどのようなものであるかを、25節から27節で説明されて行きます。先に26節と27節の前半を見たいと思います。死人がよみがえることについては、モーセの書にある柴の箇所で、神がモーセにどう語られたか、あなたがたは読んだことがないのですか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあります。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。イエスは26節でアブラハム、イサク、ヤコブという、神の選びの民であるイスラエル民族における、重要な祖先の名前を挙げられました。彼らは神を信じる信仰者でした。 なぜイエスは彼らの名前を挙げられたのでしょうか。
それは、サドカイ派の人々がモーセ五書のみを信じていたため、そのモーセ五書の中に、死人が甦るということが直接的ではないものの、示されているからです。それがアブラハム、イサク、ヤコブであり、イエスはモーセ五書の第二巻、出エジプト記の3章6節を引用されました。
『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』この箇所は、エジプトで奴隷とされていたイスラエル民族が神に助けを叫び求めた時、主なる神が燃える柴の中からモーセに現れた時の場面です。神はモーセを選び、イスラエルをエジプトから脱出させる器として、またリーダーとして選ばれました。この時神は、アブラハム、イサク、ヤコブの名前を挙げながら、ご自分を現わされました。すなわち神は、モーセから見れば400年~500年前に生きていたアブラハム、イサク、ヤコブと今なお契約関係にあることを示されています。その契約とは、神を信じる者が義とされ、すなわち神の前に正しい者と認められ、神の祝福を受け継ぐ者となるというものでした。つまり神はモーセに対して、彼らを導いた神は、あなたの神でもあるのだと、モーセに語られているということです。「アブラハム、イサク、ヤコブを導いた神である私は、あなたにとっても同じ神だ。この同じ神があなたを遣わし、共にいるのだから、あなたはイスラエルをエジプトから脱出させることができる!大丈夫だ!」神はご自身を宣言されると共に、モーセを励ましている箇所でもあります。 イエスはこの箇所を引用された時に、27節の前半において、神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。と語られました。つまり、イスラエルの祖先であるアブラハム、イサク、ヤコブは、今も神の前に生きているということです。彼らが今も生きているということを踏まえて、25節にある、「死人の中からよみがえるときには」と言われたイエスのことばを考えてみたいと思います。 アブラハム、イサク、ヤコブのように、神の前に生きていることと、よみがえるということは、異なるということです。私たちのいのちが終わる時、肉体の機能は停止し、肉体はその形も機能も維持することはできません。そして崩壊、すなわち腐り、最終的には神が聖書で語られているように、最初に取られた土に返ります。人間の組織が土の成分と殆ど同じだと言うことは、以前お話したことがあります。 この肉体の死と崩壊という現実は、アブラハムにもイサクにもヤコブにも当てはまりました。彼らも普通の人間だったからです。 ですから彼らが死んだ時も、肉体は滅んでしまいました。しかしイエスは彼らが今も生きていると語られています。つまり彼らが神の前に生きているというのは、肉体ではなく、霊魂であると言えるでしょう。人間が霊、肉体、魂からできていると聖書に記されている通りです。死んでしまっても、神を信じる信仰者であれば、霊魂の状態で神の前に生きている。 旧約聖書に登場する人々の時代は、イエスはまだ受肉していませんでしたが、三位一体の神-父なる神、子なるキリスト、聖霊なる神は一つの神です。ですから主なる神を信じていた旧約時代の信仰者は、すなわちイエス・キリストを神として信じ、イエスの前に生きているということでもあります。この現実を踏まえて25節を見たいと思います。この箇所は今回のサドカイ人の質問に対してのイエスの答えです。死人の中からよみがえるときには、人はめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです。
「死人の中からよみがえるとき」とは、イエスがこの世に、この世界に再び戻って来られる再臨の時に、イエスを信じて死んだ者たちがよみがえる時を意味します。 新約聖書、コリント人への手紙の第一、15章には、イエスが再臨された時に、イエスを信じて亡くなった信仰者に与えられる甦りと、甦った者に与えられる復活の体について記されています。また彼ら信仰者は、つまり私たち信仰者は、将来復活した時、「天の御使いたちのよう」とあるように、男と女という性別も無くなると考えられています。つまり、この世における結婚の制度-男と女が結びつくといった関係が、私たちが召された後はもはやない、ということになります。またユダヤ人とユダヤ人以外の民族である、異邦人といった民族の違いも、将来一つになると聖書に記されています。
ところで皆さんは、「復活においては、めとることも嫁ぐこともない」イエスが言われたこのことばをどのように受け止められるでしょうか。ある人にとっては、このことばはとても寂しいことだと思われかもしれません。そのように思う人は幸せな夫婦関係に生きていた、また生きていると言えるでしょう。しかしある人にとっては逆に、このことばは大いなる解放の知らせかもしれません。この世では我慢しているが、復活してまであの人と一緒なのはごめんこうむる!感謝です!と思う人もいるかもしれません。また独身の人や、離婚、再婚などを経験した人々にとっては、このイエスのことばをどのように捉えたら良いのかと、戸惑う人もいるかもしれません。しかしこれら全ての反応は、死者からの復活を、この世の人生の延長上に見ているから起こる反応だと思います。そこで、イエスが言われる復活について、私たちが正しく理解するための大切なポイントが、先ほども触れましたが、イエスが25節の後半で語られた、「天の御使いたちのようです」にあると思います。もう一度この25節をお読みします。死人の中からよみがえるときには、人はめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです。天の御使い、すなわち天使ですが、天使のようになるとは、何か白い衣を着て背中に翼のある者になるということではありません。 原語のギリシャ語を見ると「天にいる御使い」となっています。「天にいる」、ということが大切です。天にいるとは、神のみ手の内に置かれている、神と共に存在しているということです。今私たちは朽ちて行く肉体を纏い、罪と死とサタンが支配しているこの世、この世界に生きていますが、イエスを信じる信仰者が復活する時、全てが変わるということです。 御使いが神の御手にあるように、復活した私たちが神の御手の中にあり、神が共にいて下さるという神の守りを、神の恵みを、神の平安を、神の愛を、もっとはっきりと、知る者にされるということです。経験できる者にされるということです。
そのような祝福が復活にあるとすれば、今のこの世における私たちの人間関係がいかに歪んでいても、時に壊れていても、復活の時に神のみ手の内に置かれることによって、新しく完成されるということではないでしょうか。ですから、今この人生において良い夫婦関係を与えられている人は、復活において、今以上の完成された関係が与えられるでしょう。また、今この人生においては夫婦の間に問題があり、復活してまで一緒にいたくないと思っている人には、そのような問題や罪が全て解決され、解消された新しい関係が与えられるでしょう。それはもちろん、二人ともイエスを信じていなければなりませんが。 また、この世の人生においては結婚しなかったり、離婚を経験したり、複数の人と結婚した人においても、それらのことを越えた新しい、祝福された関係が与えられるでしょう。 いずれの場合も、この世における関係が復活において継続するのでなく、完成するということです。そしてこの完成は、夫婦の関係だけの話で終わりません。家族、友人、知人から、この世において知り合うことができた、全てイエスを信じた人々、また信じている人々との人間関係に及ぶものです。私たちはこの世の人生において様々な人間関係の中に生きています。恵まれた、喜ばしい関係もあれば、顔も見たくない、という問題に満ちた関係もあります。それらの関係や問題が、復活して神のみ手の内に置かれることによって、全て解決されます。それは、人間関係を悪くしてしまっている、元々の原因である罪が、イエスを信じることによってすでに解決されているからです。
復活というのはこのように、様々な罪や弱さを抱えてこの世の人生を歩んでいる私たちが、神の恵みの力によって新しくされ、御手の内に、御手の中に置かれ、この世においてはどうしようもなくまとわり着く罪が拭い去られ、一切の苦しみや悲しみから解放されて、新しく生かされるということです。それが神の力であり、恵みです。この神の約束は必ず成就、実現します。 私たちはイエスを信じていますから、将来必ず復活します。しかし今はまだ肉体という限界があり、神の御手の内には直接的にはいない私たちにとっては、復活を信じて日々待ち望み、また期待して過ごして行くことが大切ではないでしょうか。そのように歩みが、私たちの信仰であると言えます。
そしてその私たちの信仰と復活の保証がイエス・キリストです。 私たちの復活の先駆けとして、また私たちが将来復活して新しい体が与えられる、その保証として、死人の中から最初に復活されたのが、私たちの主、イエス・キリストです。肉体の死がイエスを一時捕えましたが、生きている者の神である主なる神が、その死を打ち破り、永遠の命を生きることができる、新しい体をイエスに与えて下さいました。そしてイエスを信じる者は全て、イエスの復活に与る者となります。イエスを信じる者が受けるバプテスマ、洗礼は、私たちがイエスと合わされている、一つであるということを表しているものですが、それは復活も同じです。イエスを信じた人は全て、イエスが死から復活されて今も生きておられるように、私たちも将来復活して、御国を受け継ぐ世継ぎとして神の御手に置かれ、私たちは神と共にあり、神の恵みと平安を、永遠に持ち続ける者とされます。私たちが将来必ず与えられる復活と、将来必ず与えられる復活の体を期待し、また同時に、先にイエスを信じて天に召された人々との再会を待ち望みたいと思います。
復活され、今も生きておられるイエスと共に、これからも歩んで行きたいと願います。最後に、イエスが群衆に語られたことば、ヨハネの福音書6:40節のことばをもって、本日のみ言葉の取り次ぎを終わりたいと思います。ヨハネの福音書6:40節 わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです。」
祈ります 「生きている者の神」
神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。あなたがたは大変な思い違いをしています。