2026年4月26日 マルコの福音書11:27~33「悔い改めに進ませるために」
彼らは再びエルサレムに来た。イエスが宮の中を歩いておられると、祭司長たち、律法学者たち、長老たちがやって来て、こう言った。「何の権威によって、これらのことをしているのですか。だれがあなたに、これらのことをする権威を授けたのですか。」イエスは彼らに言われた。「わたしも一言尋ねましょう。それに答えなさい。そうしたら、何の権威によってこれらのことをしているのか、わたしも言いましょう。ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、それとも人から出たのですか。わたしに答えなさい。」すると、彼らは論じ合った。「もし、天から来たと言えば、それならなぜ、ヨハネを信じなかったのかと言うだろう。だが、人から出たと言えば──。」彼らは群衆を恐れていた。人々がみな、ヨハネは確かに預言者だと思っていたからである。そこで、彼らはイエスに、「分かりません」と答えた。するとイエスは彼らに言われた。「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに言いません。」 (マルコの福音書 11:27-33 SKY17)
イエスのエルサレム入城、宮きよめ、イエスのことばだけでいちじくの木が枯れる、といった出来事を見て来ました。その後、イエスは再びエルサレムに入られました。イエスがエルサレム神殿の中を歩いていると、イエスの敵対者たちである、祭司長たち、律法学者たち、長老たちがやって来ました。この当時のイスラエルは政治と宗教が一体となっていましたから、宗教指導者イコール国家の指導者です。その彼らが、エルサレム神殿を管理、統治していました。しかしその神殿の中で、田舎のガリラヤから出てきた若者が人々に教え、人々が彼を称賛している。加えて自分たちエリートであり支配者を、偽善者と呼び、叱責、批判して来る。そんなイエスに歯ぎしりしている宗教指導者たちの、悪意あるイエスへの問い、それが本日の背景です。
彼らはこのようにイエスに尋ねました。「何の権威によって、これらのことをしているのですか。だれがあなたに、これらのことをする権威を授けたのですか。」「これら」とはイエスがなされた宮きよめを指していると思われます。また「だれが」という言葉の裏には、神殿の管理を委ねられている自分たち以外に、誰もこのような権威は与えられていはいはずだ、と、自負と怒りが込められているのを感じます。 イエスがその問いに対して、もし自分の権威が「神からだ」言えば、神殿の庭で騒ぎを起こすような権威を神が誰にもお与えになるはずはないと、彼らはイエスを糾弾できたでしょう。またもしイエスが神を父と呼び、自分は神の子としての権威が与えられていると言えば、彼らはイエスをただの人間と見なしていましたから、イエスが神を冒涜しているとして捕らえることができたでしょう。いずれにせよ、この問いはただイエスを捕らえるための罠でした。
イエスは彼らの意図も、また、真理や神のことを求めている訳でもないことも見抜いた上で、彼らの問いに直接答えず、逆に問い返しました。始め彼らがイエスに問うた時は、イエスを窮地に追いやるものであったため、彼らは優位な立場にいました。しかしイエスから逆に問われたことによって立場が逆転します。ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、それとも人から出たのですか。わたしに答えなさい。」彼らはこの問いによって逆に追い詰められてしまいます。バプテスマのヨハネは、イエスが人々に福音を宣べ伝え始める前に現われ、荒れ野で教え、人々の罪を厳しく指摘し、悔い改めを求めました。神に立ち返りなさい!多くの人々がヨハネが神によって遣わされた預言者だと信じ、ヨハネが語ることばは神からのもの、神からのメッセージであることを信じて洗礼を受けました。実際にヨハネの到来と働きは、すでに旧約聖書のイザヤ書やマラキ書などに預言されていました。従ってヨハネの登場と働きは、旧約聖書の預言が成就、実現したことの証でした。またバプテスマのヨハネは、人々の目をイエスの方へと向ける先駆者、イエスの道備えをする使命を持っていた人でもありました。ヨハネはイエスと同じように、宗教指導者たちに正面切って彼らの行いや信仰を批判し、悔い改めを迫りました。また神殿の祭儀を重んじず、民の指導者たちにも従いませんでした。よって宗教指導者たちにとってヨハネは憎むべき者であり、敵でした。しかしイエスはこのヨハネを指して、彼の働きは何の権威によるものだったのか。天から、つまり神からの権威によるのか。それとも人から、つまりヨハネが勝手にしていたことで、本当は何も権威がなかったのか。彼らに問い詰められました。もし彼らがヨハネを「天から」と認めれば、ヨハネはイエスの先駆者ですから、イエスも神からのメシヤであることを認めることになってしまいます。彼らはヨハネもイエスも信じていませんでした。信じたくもなかった訳ですから、このように答えることは絶対に避けたい。 しかしもう一つの答えも彼らを窮地に追い込み、身の危険が及ぶと予測できる答えとなります。だが、人から出たと言えば──。」彼らは群衆を恐れていた。人々がみな、ヨハネは確かに預言者だと思っていたからである。多くの人々が、ヨハネを神から遣わされた預言者だと信じ、悔い改めのしるしの洗礼を、彼から受けていました。またヨハネはヘロデ王を批判して投獄され、獄中で首を切られました。そのこともまた、権力に屈することなく正しい主張をして殉教した預言者として、人々からさらに尊敬を集めることになりました。 そのような人々の前で、「ヨハネの洗礼など人間の勝手な業で神とは関係がない。ヨハネはただの偽預言者だ。」などと言えば、群衆の怒りを買い、殺されてしまうか、または例え殺されなかったとしても、人々の支持を失うことになるのは、目に見えています。 そこで彼らはイエスに、「分かりません」と答えました。そう答える他無かった訳です。宗教指導者たちは、ただ、群衆の顔、評価を恐れました。
しかしこの「分からない」という答えは、彼ら宗教指導者たちの責任でもある、預言者の真偽判断の義務を放棄したことになります。彼らは預言者が真実を告げているのか、あるいは偽りを語っているのかを見極め、審判する重大な義務がありました。この義務は、律法(トーラー)の教えを守り、ユダヤ教の信仰の正統性を維持するために、不可欠な役割でした。イエスから問われていたバプテスマのヨハネも一預言者ですから、彼らはそれが天から、つまり神から遣わされた本当の預言者であるのか、それとも人から、つまり偽預言者であるのかを判断し、審判する重大な義務がありましたが、それを怠ったことになります。それはただ、自分たちの権威を保ち、自分たちの身を守るためでした。 彼らは神の前においても、また人の前においても、忠実でも誠実でもありませんでした。 従って「分かりません。」と言う答えは、最悪な答えだったと言うことになります。加えて彼らの答えは嘘でもありました。 彼ら自身が自ら証言しています。それは、「ヨハネは天から来たのか、それとも人から出たのか。」というイエスの問いに対して、「もし、天から来たと言えば、それならなぜ、ヨハネを信じなかったのかと言うだろう。」という受け答えに表されています。彼らはイエスの答えを予測しています。イエスがヨハネを信じることを彼らに願っているということです。 彼らはイエスの思いも願いも意図も知っていたということです。また彼らはヨハネだけでなく、イエスも、神から遣わされて来たということが事実であると、旧約聖書の預言から知ることができました。彼らは旧約聖書のエキスパートですから、旧約聖書にヨハネと、またメシヤ、救い主なるイエスのことも預言されていることが分かるはずでした。そして実際にその預言が二人において成就、実現していることも分かる、理解することが出来たはずでした。 彼らは事実を知っていながら、ただ、その事実を認めたくなかったのです。ですから彼らはイエスの問いに対して、「ヨハネが天から来たことを認めたくもないし、信じたくありません」と答えるべきでした。それを「分かりません」と答え、自分たちの権力を守りました。嘘をついてまで守り通そうとしました。彼らの嘘と保身、権威への執着、そして権威から生まれる経済的利益や名誉などの貪りが見られます。彼らの人生も生活も、自分が中心であり、自分が王座に座っていました。
しかし宮きよめに見られるように、そこにイエスがどかどかと入って来て、ご自分の思いのままにされました。彼ら宗教指導者たちは、自分たちの権威、自分たちの場所、自分たちの領域が犯されたと思って不満を持ち、怒りました。
しかしそれは、彼ら宗教指導者たちだけに限りません。現代を生きる私たちにも、私たちの人生にも、私たちの生活にも、私たちの心にも、時にイエスはどかどかと入って来られます。 神であるイエスが、私たちの全く知らなかった権威を持って、私たちの内に踏み込んで来られます。イエスが踏み込んで来られるまでは、ここは自分の世界、自分の心の領域、自分の生活の領域だと思っていました。自分の好きにしてよい場所、自分の思い通りにできる能力や賜物、財産、人間関係。自分が王座に座り、誰にも干渉されず、心地よい世界。そして自分の信じていることが絶対に正しい。自分の生き方が一番素晴らしいと思う。 しかしそこにイエスがどかどかと入って来られる。
イエスが聖書を通し、祈りを通して私たちの内に踏み込んで来られる。
その時、「困る」とか、「煩わしい」とか、反発したくなる気持ちになります。しかしこのような困惑は、私たち信仰者が体験しなくてはならない、大切なことです。つまり信仰を持つということは、自分の物、自分の自由と思っていることがそうではない。実は全てイエスの権威の下に置かれていると認めていくことです。自分が今まで治めて来たと思っていた場所が、領域が、そして自分自身が、本当に生かされて行くことできる権威は自分の内にではなく、主の下にあるということを認めていく。そしてそれを喜んでいく。家庭において、これまで自分勝手に、思い通りに振舞ってきた人。「私は主人だ、家族は自分のルールに従うべきだ。それが幸せだ。」と思っていた人が、イエスに出会って、今度はイエスのルールに自分も家族も委ねていくことを喜ぶ者に変えられて行く。イエスの権威を認め、受け入れ、その権威に従っていく。これが信仰ではないでしょうか。
そしてこの信仰には、謙遜さが伴わないといけないものです。自分の心の中にイエスを迎え入れ、自分がずっと座ってきた王座を降りる。これはイエスを信じて自分を明け渡す信仰と、自ら王座を降りる謙遜さがなければできません。 また勇気もいることです。なぜなら私たちは自分が信じて来た選択と結果の積み重ねによって、今の自分が成り立っているからです。
自分の価値観。自分の優先順位。自分の計画。それが一番だと信じて歩んで来ました。その積み重ねて来た自分が、イエスを信じることによって崩れ去るかもしれません。それは自分を、自分の人生を揺るがす、自分のアイデンティティーが揺さぶられる、大きな出来事です。だから勇気も要ります。 そこから逃げることもできます。 それが宗教指導者たちでした。
しかしそれは、今を生きる私たちも同じです。聖書はいいね、教会もいいね、そしてクリスチャンも素晴らしいね。と言っている人々が、真実にイエスの言われたこと、聖書に記されていることに向き合おうとしないことがあります。そのような人が、「私はどんな宗教も信じない。」と言うかも知れません。「キリスト教は外国の宗教だから自分には関係がない」とも言うかもしれません。
しかしそれはただの言い訳であり、その根底には恐れがあるように思えます。もし本気で聖書を読み、イエスに出会い、真理を知るようになれば、自分が積み重ねて来たものを手放さなければならないのでないか。自分が正しいと信じてきた全てが崩れ去れるのではないか。それでは今まで積み重ねて来た自分はいったいどうなってしまうのだろう。「私は」どうなってしまうのだろう。
嫌だ、私はずっと自分の世界に、自分の価値観に、自分の人生に、その中心に自分の王座を置き、そこにずっとずっと座っていたい。
これが罪です。 罪とは言い換えれば、神を排して、神を脇に置いて、自分自身が自分の王座に居続けること。座り続けることではないでしょうか。自分たちの成すべきことを放棄し、嘘をついてまで権力を守り通した宗教指導者たちは、まさに罪ある人間の姿でした。 しかし神であるイエスを、そして神のことばである聖書を無視し、自分の王座に座り続ける、今を生きる私たちも、何ら変わることはありません。同じだと思います。 イエスは最後に、彼らがわざと知らないと偽っていることを示されるために、「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに言いません。」と言われました。そのように言うことによって、彼らにもう一度考える機会、悔い改めるチャンスを与えたのだと思います。宗教指導者たちが、イエスが言われたことを思い巡らし、旧約の預言がイエスによって成就、実現していることを事実として認め、自分の驕り高ぶりを捨て、権威を手放し、イエスを神と認め、イエスの前に謙り、そのような自分の罪を捨て、悔い改めて救われる機会を与えた、と言うことができるのではないでしょうか。
私たちも同じです。地域において、社会において、人間関係において、自分の生活において、自分の価値観、歩み、信じて築き上げてきた全てのものにおいて。それらを手放し、イエスの権威に従うことができるかどうか。「イエス様、分かりました。これまで私はこの場所が、自分の領域が、自分の思いのままになると思っていました。しかし全てを統治されておられるのは真の王、イエス様、あなたなのですね。」 イエスの権威に従う者は、そこから始まる自由があり、解放があります。宗教指導者たちが手放すことが出来なかった権威、自分の王座。そこに執着する時、私たちも同じように自分で、自分の力だけで生きて行かなければならなくなります。そのような人生は神から離れた罪ある人生であり、苦しいものです。加えてその先には、神からの永遠の断絶、すなわち滅びが待っています。しかし自分の権威や、主張したくなる自分の主権、自分の王座を捨ててイエスに明け渡して行く者たちにもたらされるもの、それは救いです。イエスを信じ、イエスの権威に従うと決心して救いを受けた者には自由と喜び、感謝が溢れます。それはイエスが愛を持って私たちの王座の中心に座って下さり、私たちを最善の人生へと導いて下さることを、経験していくことができるからです。イエスは私たちが悔い改めて、その自由と喜びを私たちに味わって欲しいと忍耐を持って願っておられます。 イエスの忍耐と期待に、私たち一人一人が応答できますように。
お祈りします。
「悔い改めに進ませるために」
主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。Ⅱペテロ3:9
彼らは再びエルサレムに来た。イエスが宮の中を歩いておられると、祭司長たち、律法学者たち、長老たちがやって来て、こう言った。「何の権威によって、これらのことをしているのですか。だれがあなたに、これらのことをする権威を授けたのですか。」イエスは彼らに言われた。「わたしも一言尋ねましょう。それに答えなさい。そうしたら、何の権威によってこれらのことをしているのか、わたしも言いましょう。ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、それとも人から出たのですか。わたしに答えなさい。」すると、彼らは論じ合った。「もし、天から来たと言えば、それならなぜ、ヨハネを信じなかったのかと言うだろう。だが、人から出たと言えば──。」彼らは群衆を恐れていた。人々がみな、ヨハネは確かに預言者だと思っていたからである。そこで、彼らはイエスに、「分かりません」と答えた。するとイエスは彼らに言われた。「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに言いません。」 (マルコの福音書 11:27-33 SKY17)
イエスのエルサレム入城、宮きよめ、イエスのことばだけでいちじくの木が枯れる、といった出来事を見て来ました。その後、イエスは再びエルサレムに入られました。イエスがエルサレム神殿の中を歩いていると、イエスの敵対者たちである、祭司長たち、律法学者たち、長老たちがやって来ました。この当時のイスラエルは政治と宗教が一体となっていましたから、宗教指導者イコール国家の指導者です。その彼らが、エルサレム神殿を管理、統治していました。しかしその神殿の中で、田舎のガリラヤから出てきた若者が人々に教え、人々が彼を称賛している。加えて自分たちエリートであり支配者を、偽善者と呼び、叱責、批判して来る。そんなイエスに歯ぎしりしている宗教指導者たちの、悪意あるイエスへの問い、それが本日の背景です。
彼らはこのようにイエスに尋ねました。「何の権威によって、これらのことをしているのですか。だれがあなたに、これらのことをする権威を授けたのですか。」「これら」とはイエスがなされた宮きよめを指していると思われます。また「だれが」という言葉の裏には、神殿の管理を委ねられている自分たち以外に、誰もこのような権威は与えられていはいはずだ、と、自負と怒りが込められているのを感じます。 イエスがその問いに対して、もし自分の権威が「神からだ」言えば、神殿の庭で騒ぎを起こすような権威を神が誰にもお与えになるはずはないと、彼らはイエスを糾弾できたでしょう。またもしイエスが神を父と呼び、自分は神の子としての権威が与えられていると言えば、彼らはイエスをただの人間と見なしていましたから、イエスが神を冒涜しているとして捕らえることができたでしょう。いずれにせよ、この問いはただイエスを捕らえるための罠でした。
イエスは彼らの意図も、また、真理や神のことを求めている訳でもないことも見抜いた上で、彼らの問いに直接答えず、逆に問い返しました。始め彼らがイエスに問うた時は、イエスを窮地に追いやるものであったため、彼らは優位な立場にいました。しかしイエスから逆に問われたことによって立場が逆転します。ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、それとも人から出たのですか。わたしに答えなさい。」彼らはこの問いによって逆に追い詰められてしまいます。バプテスマのヨハネは、イエスが人々に福音を宣べ伝え始める前に現われ、荒れ野で教え、人々の罪を厳しく指摘し、悔い改めを求めました。神に立ち返りなさい!多くの人々がヨハネが神によって遣わされた預言者だと信じ、ヨハネが語ることばは神からのもの、神からのメッセージであることを信じて洗礼を受けました。実際にヨハネの到来と働きは、すでに旧約聖書のイザヤ書やマラキ書などに預言されていました。従ってヨハネの登場と働きは、旧約聖書の預言が成就、実現したことの証でした。またバプテスマのヨハネは、人々の目をイエスの方へと向ける先駆者、イエスの道備えをする使命を持っていた人でもありました。ヨハネはイエスと同じように、宗教指導者たちに正面切って彼らの行いや信仰を批判し、悔い改めを迫りました。また神殿の祭儀を重んじず、民の指導者たちにも従いませんでした。よって宗教指導者たちにとってヨハネは憎むべき者であり、敵でした。しかしイエスはこのヨハネを指して、彼の働きは何の権威によるものだったのか。天から、つまり神からの権威によるのか。それとも人から、つまりヨハネが勝手にしていたことで、本当は何も権威がなかったのか。彼らに問い詰められました。もし彼らがヨハネを「天から」と認めれば、ヨハネはイエスの先駆者ですから、イエスも神からのメシヤであることを認めることになってしまいます。彼らはヨハネもイエスも信じていませんでした。信じたくもなかった訳ですから、このように答えることは絶対に避けたい。 しかしもう一つの答えも彼らを窮地に追い込み、身の危険が及ぶと予測できる答えとなります。だが、人から出たと言えば──。」彼らは群衆を恐れていた。人々がみな、ヨハネは確かに預言者だと思っていたからである。多くの人々が、ヨハネを神から遣わされた預言者だと信じ、悔い改めのしるしの洗礼を、彼から受けていました。またヨハネはヘロデ王を批判して投獄され、獄中で首を切られました。そのこともまた、権力に屈することなく正しい主張をして殉教した預言者として、人々からさらに尊敬を集めることになりました。 そのような人々の前で、「ヨハネの洗礼など人間の勝手な業で神とは関係がない。ヨハネはただの偽預言者だ。」などと言えば、群衆の怒りを買い、殺されてしまうか、または例え殺されなかったとしても、人々の支持を失うことになるのは、目に見えています。 そこで彼らはイエスに、「分かりません」と答えました。そう答える他無かった訳です。宗教指導者たちは、ただ、群衆の顔、評価を恐れました。
しかしこの「分からない」という答えは、彼ら宗教指導者たちの責任でもある、預言者の真偽判断の義務を放棄したことになります。彼らは預言者が真実を告げているのか、あるいは偽りを語っているのかを見極め、審判する重大な義務がありました。この義務は、律法(トーラー)の教えを守り、ユダヤ教の信仰の正統性を維持するために、不可欠な役割でした。イエスから問われていたバプテスマのヨハネも一預言者ですから、彼らはそれが天から、つまり神から遣わされた本当の預言者であるのか、それとも人から、つまり偽預言者であるのかを判断し、審判する重大な義務がありましたが、それを怠ったことになります。それはただ、自分たちの権威を保ち、自分たちの身を守るためでした。 彼らは神の前においても、また人の前においても、忠実でも誠実でもありませんでした。 従って「分かりません。」と言う答えは、最悪な答えだったと言うことになります。加えて彼らの答えは嘘でもありました。 彼ら自身が自ら証言しています。それは、「ヨハネは天から来たのか、それとも人から出たのか。」というイエスの問いに対して、「もし、天から来たと言えば、それならなぜ、ヨハネを信じなかったのかと言うだろう。」という受け答えに表されています。彼らはイエスの答えを予測しています。イエスがヨハネを信じることを彼らに願っているということです。 彼らはイエスの思いも願いも意図も知っていたということです。また彼らはヨハネだけでなく、イエスも、神から遣わされて来たということが事実であると、旧約聖書の預言から知ることができました。彼らは旧約聖書のエキスパートですから、旧約聖書にヨハネと、またメシヤ、救い主なるイエスのことも預言されていることが分かるはずでした。そして実際にその預言が二人において成就、実現していることも分かる、理解することが出来たはずでした。 彼らは事実を知っていながら、ただ、その事実を認めたくなかったのです。ですから彼らはイエスの問いに対して、「ヨハネが天から来たことを認めたくもないし、信じたくありません」と答えるべきでした。それを「分かりません」と答え、自分たちの権力を守りました。嘘をついてまで守り通そうとしました。彼らの嘘と保身、権威への執着、そして権威から生まれる経済的利益や名誉などの貪りが見られます。彼らの人生も生活も、自分が中心であり、自分が王座に座っていました。
しかし宮きよめに見られるように、そこにイエスがどかどかと入って来て、ご自分の思いのままにされました。彼ら宗教指導者たちは、自分たちの権威、自分たちの場所、自分たちの領域が犯されたと思って不満を持ち、怒りました。
しかしそれは、彼ら宗教指導者たちだけに限りません。現代を生きる私たちにも、私たちの人生にも、私たちの生活にも、私たちの心にも、時にイエスはどかどかと入って来られます。 神であるイエスが、私たちの全く知らなかった権威を持って、私たちの内に踏み込んで来られます。イエスが踏み込んで来られるまでは、ここは自分の世界、自分の心の領域、自分の生活の領域だと思っていました。自分の好きにしてよい場所、自分の思い通りにできる能力や賜物、財産、人間関係。自分が王座に座り、誰にも干渉されず、心地よい世界。そして自分の信じていることが絶対に正しい。自分の生き方が一番素晴らしいと思う。 しかしそこにイエスがどかどかと入って来られる。
イエスが聖書を通し、祈りを通して私たちの内に踏み込んで来られる。
その時、「困る」とか、「煩わしい」とか、反発したくなる気持ちになります。しかしこのような困惑は、私たち信仰者が体験しなくてはならない、大切なことです。つまり信仰を持つということは、自分の物、自分の自由と思っていることがそうではない。実は全てイエスの権威の下に置かれていると認めていくことです。自分が今まで治めて来たと思っていた場所が、領域が、そして自分自身が、本当に生かされて行くことできる権威は自分の内にではなく、主の下にあるということを認めていく。そしてそれを喜んでいく。家庭において、これまで自分勝手に、思い通りに振舞ってきた人。「私は主人だ、家族は自分のルールに従うべきだ。それが幸せだ。」と思っていた人が、イエスに出会って、今度はイエスのルールに自分も家族も委ねていくことを喜ぶ者に変えられて行く。イエスの権威を認め、受け入れ、その権威に従っていく。これが信仰ではないでしょうか。
そしてこの信仰には、謙遜さが伴わないといけないものです。自分の心の中にイエスを迎え入れ、自分がずっと座ってきた王座を降りる。これはイエスを信じて自分を明け渡す信仰と、自ら王座を降りる謙遜さがなければできません。 また勇気もいることです。なぜなら私たちは自分が信じて来た選択と結果の積み重ねによって、今の自分が成り立っているからです。
自分の価値観。自分の優先順位。自分の計画。それが一番だと信じて歩んで来ました。その積み重ねて来た自分が、イエスを信じることによって崩れ去るかもしれません。それは自分を、自分の人生を揺るがす、自分のアイデンティティーが揺さぶられる、大きな出来事です。だから勇気も要ります。 そこから逃げることもできます。 それが宗教指導者たちでした。
しかしそれは、今を生きる私たちも同じです。聖書はいいね、教会もいいね、そしてクリスチャンも素晴らしいね。と言っている人々が、真実にイエスの言われたこと、聖書に記されていることに向き合おうとしないことがあります。そのような人が、「私はどんな宗教も信じない。」と言うかも知れません。「キリスト教は外国の宗教だから自分には関係がない」とも言うかもしれません。
しかしそれはただの言い訳であり、その根底には恐れがあるように思えます。もし本気で聖書を読み、イエスに出会い、真理を知るようになれば、自分が積み重ねて来たものを手放さなければならないのでないか。自分が正しいと信じてきた全てが崩れ去れるのではないか。それでは今まで積み重ねて来た自分はいったいどうなってしまうのだろう。「私は」どうなってしまうのだろう。
嫌だ、私はずっと自分の世界に、自分の価値観に、自分の人生に、その中心に自分の王座を置き、そこにずっとずっと座っていたい。
これが罪です。 罪とは言い換えれば、神を排して、神を脇に置いて、自分自身が自分の王座に居続けること。座り続けることではないでしょうか。自分たちの成すべきことを放棄し、嘘をついてまで権力を守り通した宗教指導者たちは、まさに罪ある人間の姿でした。 しかし神であるイエスを、そして神のことばである聖書を無視し、自分の王座に座り続ける、今を生きる私たちも、何ら変わることはありません。同じだと思います。 イエスは最後に、彼らがわざと知らないと偽っていることを示されるために、「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに言いません。」と言われました。そのように言うことによって、彼らにもう一度考える機会、悔い改めるチャンスを与えたのだと思います。宗教指導者たちが、イエスが言われたことを思い巡らし、旧約の預言がイエスによって成就、実現していることを事実として認め、自分の驕り高ぶりを捨て、権威を手放し、イエスを神と認め、イエスの前に謙り、そのような自分の罪を捨て、悔い改めて救われる機会を与えた、と言うことができるのではないでしょうか。
私たちも同じです。地域において、社会において、人間関係において、自分の生活において、自分の価値観、歩み、信じて築き上げてきた全てのものにおいて。それらを手放し、イエスの権威に従うことができるかどうか。「イエス様、分かりました。これまで私はこの場所が、自分の領域が、自分の思いのままになると思っていました。しかし全てを統治されておられるのは真の王、イエス様、あなたなのですね。」 イエスの権威に従う者は、そこから始まる自由があり、解放があります。宗教指導者たちが手放すことが出来なかった権威、自分の王座。そこに執着する時、私たちも同じように自分で、自分の力だけで生きて行かなければならなくなります。そのような人生は神から離れた罪ある人生であり、苦しいものです。加えてその先には、神からの永遠の断絶、すなわち滅びが待っています。しかし自分の権威や、主張したくなる自分の主権、自分の王座を捨ててイエスに明け渡して行く者たちにもたらされるもの、それは救いです。イエスを信じ、イエスの権威に従うと決心して救いを受けた者には自由と喜び、感謝が溢れます。それはイエスが愛を持って私たちの王座の中心に座って下さり、私たちを最善の人生へと導いて下さることを、経験していくことができるからです。イエスは私たちが悔い改めて、その自由と喜びを私たちに味わって欲しいと忍耐を持って願っておられます。 イエスの忍耐と期待に、私たち一人一人が応答できますように。
お祈りします。
「悔い改めに進ませるために」
主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。Ⅱペテロ3:9