動画メッセージ
礼拝のご案内
偉大なる神さまを賛美し、その祝福に与りましょう。
・分級:日曜日 午前10:00~10:30
・礼拝:日曜日 午前10:40~11:50
(オンライン礼拝も同時刻)
主日礼拝 2026年10月11日(日) 10:40~
「来なさい、そうすればわかります」
聖書:ヨハネの福音書 1章35~39節
中島仁師
♪礼拝賛美曲♪
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🌈今月のワーシップソング🌈
Still(静まって知れ) 作詞作曲:Reuben Morgan
🌈聖書引用
新日本聖書刊行会 聖書 新改訳2017 (新改訳聖書センター)
ゴスペルカフェ可児のご案内
毎月第1金曜日にすてきなカフェ「樹の萌」さんでギタリスト トム兼松とゲストによるライブが開催されています。演奏を聴きながらアフタヌーンティーはいかがですか?
次回:2026/10/6(金) 14:00~
出演:トム兼松(ギタリスト)&ゲストによる演奏
場所:珈琲 & ギャラリー 「樹の萌」
可児市禅台寺1丁目17
℡ 0574-62-4164
2026/5/31 ゴスペル特別礼拝
・メッセンジャー
アーサー ホーランド牧師
・ゲストミュージシャン
ラニー ラッカーさん
兼松弘子 さん
米田 香さん
Hope Hill Gospel Choir
クリス宣教師の働き
クリス宣教師のYoutubeチャンネル「Chris’ Gasthaus」で、プレイモービルを使った聖書のお話や、日本・ドイツのスウィーツなどを紹介しています。
チャペルコンサート アーカイブ
2026/9/20(日) JFEC70「主を喜ぶことはあなたの力です」鴨下牧師
同盟福音基督教会は1956年、岐阜県羽島市からドイツのアライアンス・ミッションの宣教師たちによって宣教が開始されました。教会の歩みは60年を超え、今は東海地区を中心に4県に27教会が生まれました。そして、今に至るまでアライアンス・ミッションの宣教師たちと共に協力しながら東海地区に福音の宣教をしようとしています。
2026/10/4(日)「集められる者、残される者」マルコ13:24~27 庄司牧師
しかしその日、これらの苦難に続いて、太陽は暗くなり、月は光を放たなくなり、星は天から落ち、天にあるもろもろの力は揺り動かされます。そのとき人々は、人の子が雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見ます。そのとき、人の子は御使いたちを遣わし、地の果てから天の果てまで、選ばれた者たちを四方から集めます。 (マルコの福音書 13:24-27 SKY17)
終末、この世の、この世界の終わりに何が起きるかを、小黙示録と呼ばれるマルコの福音書の十三章から共に見ています。24節にはしかしその日、と記されています。「その日」つまり神が定められた大いなる裁きの時に26節、人の子、神であるイエスがこの世界に再臨、再び来られる、ということが記されています。イエスが再臨される時には特別なことが起こります。それは24節に描写されているように、「太陽は暗くなり、月は光を放たなくなり、」25節、「星は天から落ち、天にあるもろもろの力は揺り動かされます。」このような天体の異常、天変地異が起こることをイエスは預言されておられます。このイエスの預言は旧約聖書にすでに記されています。それを用いて、すなわち引用されて、イエスは将来起こることを語っておられます。イエスはそれらの引用を、イザヤ書やダニエル書、ヨエル書などからされています。
イエスは、ご自身が再び来られる再臨に関して、24節で「これらの苦難に続いて」と言われました。これらの苦難とは、13章の前半に記されていることであり、すでに見て来た苦難です。
従ってイエスは、24節までに語られて来た終わりの日の前兆となる苦難と、24節から起きて来るさらに大きな苦難の前兆を明確に区別された、ということです。
24節までイエスが語られた世の終わりの前兆としては、民族が民族に敵対する。戦争の噂や実際の戦争が起こる。地震や飢饉が起こる。キリスト者への迫害が起こる。また、偽キリスト、偽預言者が多く出現する、などです。しかしそれで終わらない。それらは確かに苦難であるが、世の終わりの確かなしるしにはならない。 それは序章に過ぎない。本当の世の終わり、すなわちイエスが再び来られる再臨の直前には、天体の大変動があり、天変地異が伴う。それが、神が定められた大いなる裁きの「その日」であるとイエスは語っておられます。
「裁き」とは分けられることです。以前お話したことがあります。 何が分けられるのか?それは人類です。 イエスは27節でこのように語られました。そのとき、人の子は御使いたちを遣わし、地の果てから天の果てまで、選ばれた者たちを四方から集めます。選ばれた者とは、イエスを信じるキリスト者、クリスチャンです。「地の果てから天の果てまで」とあるように、歴史と時代を貫き、また全世界のあらゆる国々においてイエスを信じた全ての人々が、イエスの下に集められる。神の選びの民が必ず集められるという強調表現です。しかし選びの民がいるということは、一方イエスの下に集められない人々がいる。選ばれなかった人々がいるということです。それがすなわち「裁き」です。イエスを信じたがゆえにイエスの御元に集められる人々と、そうでない人々がいる。そしてそのように人々はすでにイエスを信じる者たちと信じない者たちとで分けられている。この分けられること、そして分けられていることがすなわち裁きです。この裁きの描写が、マタイの福音書24章にあります。40節から42節をお読みします。
そのとき、男が二人畑にいると一人は取られ、一人は残されます。女が二人臼をひいていると一人は取られ、一人は残されます。ですから、目を覚ましていなさい。あなたがたの主が来られるのがいつの日なのか、あなたがたは知らないのですから。 (マタイの福音書 24:40-42 SKY17)
これはイエスが再臨される時の描写です。イエスが再臨される時は、畑にいる、臼をひいているというように、労働や食事の支度など、日常生活を人々が送っている最中、唐突に、突然イエスがやって来られる。そして一人は取られる。一人は残される。取られた人とはイエスの下に行く人です。イエスが集められる人です。そして残された人はイエスの下に行くことが出来ない人であり、イエスに集められなかった人です。イエスの再臨は突然に、しかし確実にやって来るということです。
またイエスは、再臨が確実に、そして必ず来ることを、ノアの時代にあった洪水を引き合いに出して語られています。ルカの福音書17章です。26節、27節をお読みします。
ちょうど、ノアの日に起こったのと同じことが、人の子の日にも起こります。ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていましたが、洪水が来て、すべての人を滅ぼしてしまいました。人々が食べたり飲んだり、結婚生活を営んでいた時、すなわち日常生活を営んでいた時、神を信じない人々に対して、突然神の裁きが及びました。イエスはさらに、アブラハムの甥であったロトに起こったことを、神の裁きの引き合いとして語られています。続けてルカの福音書17章の28節から30節までをお読みします。
また、ロトの日に起こったことと同じようになります。人々は食べたり飲んだり、売ったり買ったり、植えたり建てたりしていましたが、ロトがソドムから出て行ったその日に、火と硫黄が天から降って来て、すべての人を滅ぼしてしまいました。人の子が現れる日にも、同じことが起こります。
ソドムは悪徳の町とか、背徳の町と呼ばれた悪名高き町です。性的な逸脱、また不道徳から、男性であるロトにも危険が及びそうになったほどの町です。ここに住んでいた人たち-すなわち神を信じない人たちでしたが-食べたり飲んだり、売ったり買ったりと、普段の生活をしている時、突然彼らは滅ぼされました。創世記19章にその時の様子が記されています。これはノアの洪水の時の水の裁きに対して、火の裁きであると言えます。イエスは「人の子が現れる日にも、同じことが起こる」と語られ、イエスが再臨される時の裁きが、火を伴っている火の裁きであることを示しておられます。
ノアの洪水の水の裁きも、また、ソドムに起こった火の裁きも、過去、すでに起こったことです。一方イエスが再臨される時に起こる裁きは、私たちにとっては未来のことですが、神であるイエスが預言されておられるゆえ、確実にそうなります。旧約聖書に記されている預言、すなわち神のことばが、イエスの誕生や生涯、十字架において歴史的に見ても成就、実現している事実からそのように断言できます。また、イエスの弟子であったペテロは、イエスが再臨される時の裁きを、火の裁きと結びつけて預言しています。ペテロの手紙第二3:10節をお読みします。
しかし、主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は大きな響きを立てて消え去り、天の万象は焼けて崩れ去り、地と地にある働きはなくなってしまいます。 イエスが旧約聖書を引用して語られた、再臨の「その日」に起きるであろう天体の異常、天変地異の描写と合致します。そしてそれはイエスが預言され、またペテロも預言しているように、火の裁きが伴います。この終わりの日がいつ来るかは、イエスすら知らないと言っておられますから、私たちはその日を特定することは決して出来ませんし、またどのような天体の異常や天変地異が起きるかも知る由はありません。
ただ一つ言えること。それは、主の日である「その日」「裁きの日」が終わりの日に必ずやって来るということです。
先程、イエスは旧約聖書に預言されていることを引用しながら、ご自身の再臨の前に起こる前兆を示され、また預言されたとお話しました。イザヤ書13:9,10節にはこのように記されています。背景はイスラエルに敵対し、残虐かつ傲慢な国であったバビロニア帝国への神の裁きと陥落ですが、その裁きが天体の異常、すなわち終わりの日に起こることと重ねられて描写されています。
「見よ、主の日が来る。憤りと燃える怒りの、残酷な日が。地は荒廃に帰し、主は罪人どもをそこから根絶やしにする。天の星、天のオリオン座はその光を放たず、太陽は日の出から暗く、月もその光を放たない。(イザヤ書 13:9-10 SKY17)
罪人どもとは、直接的にはバビロニア帝国の人々を指していますが、天変地異の描写が伴っていることから見て、世界の終わりに神が不信仰な人類や悪の世界全体を裁く「終わりの日(最後の審判)」のひな型(予兆)としても解釈できます。つまりこの預言の一次的な対象は古代のバビロンですが、象徴的には神に敵対する高慢な勢力、そして世界全体が裁きの対象となっています。
一方、同じイザヤ書の34:4節にも天体、そして全被造物の異変について記されています。
天の万象は朽ち果て、天は巻物のように巻かれる。その万象は枯れ落ちる。ぶどうの木から葉が枯れ落ちるように。いちじくの木から実がしぼんで落ちるように。 (イザヤ書 34:4 SKY17)
この34章4節のイザヤの預言は、直接的にはエドムに対する神の裁きを表しています。エドム人はエサウの子孫に当たりますが、イスラエルに敵対して来ました。イスラエルがエジプトから脱出した出エジプトの際、領土の通過を拒否するなどしてイスラエルを苦しめました。また紀元前586年にバビロニア帝国によってエルサレムが破壊された際、エドムはその崩壊を喜び、逃げ惑うユダヤ人を捕らえて敵に引き渡しました。このためエドムは、「神の民を迫害し、神に敵対する高慢な人々、また国の代表格」として描かれ、神の裁きの対象とされています。エサウは、一杯の煮物のために長子の権利をヤコブに売ったり、父であるイサクから娶ってはならないと言われていた、先住民族のカナン人の女性と結婚したりしました。カナン人は多神教の偶像礼拝者たちで、性的にも堕落していたからです。つまりエドムとは、神を信ぜず、時に敵対し、肉的で自己中心的な生き方をする人々であり、国の象徴です。そのエドムが裁かれることを通して、神を信ぜず、時に敵対する全ての国々、人々への裁きが象徴的に描写されている。それがこの34:4節です。これは先程引用した13:9、10節に記されている天体の異常と共に、終わりの日、すなわちイエスが再臨される時に、日本や日本人も含む、神を信ぜず、時に敵対し、無視する国々、人々への裁きの預言でもあります。このような天体の異常、天の万象が揺り動かされるという天変地異があり、イエスが裁きのために再臨される。イエスが再びこの世界に来られます。
イエスの初臨、すなわち最初にこの世界に来て下さったクリスマスは、殆どの人がその誕生を知りませんでした。イエスの父ヨセフと母マリア、羊飼いたち、そして東方の博士たちくらいでした。イエスは小さな幼子として家畜小屋で生まれる。へりくだった誕生、ひっそりとした誕生でした。しかしそれとは全く対照的に、再び来られる時は大きな権威を有し、恐るべき審判者として来られる。イエスは26節でこのように語られています。
そのとき人々は、人の子が雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見ます。これはダニエル書からの引用です。その引用されている箇所をお読みします。7:13,14節です。
私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲とともに来られた。その方は『年を経た方』のもとに進み、その前に導かれた。この方に、主権と栄誉と国が与えられ、諸民族、諸国民、諸言語の者たちはみな、この方に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。 (ダニエル書 7:13-14 SKY17)
諸民族、諸国民、諸言語、世界中の人々が仕えることになるイエス・キリスト。それは父なる神から主権と栄誉と国が与えられた王であり、主権者なるお方であることが、ここに記されています。この王であり全ての国々の人々の主権者なるイエスが再びこの世界に来られる。この時はクリスマスの時の誕生の時のように、ひっそりと、また限られた人々しか知らないといったものではなく、神の臨在を表す雲と共に、すなわち神そのものの栄光と、圧倒的な力を持って再臨される。イエスご自身がダニエル書を引用しながら、神としてのご自分の姿を明らかにされました。そしてこの力強い再臨は、イエスに敵対し、イエスを信じないという人々ですら、認めざるを得ない明らかな形で来られます。この王であり、主権者なるイエスが、イエスの選ばれた者たちを集められる。27節をお読みします。
そのとき、人の子は御使いたちを遣わし、地の果てから天の果てまで、選ばれた者たちを四方から集めます。
王であり、全ての国々、また人々への主権者なる神、イエスが、イエスを信じて罪赦され、神の子とされ、神の家族とされている人々、すなわちイエスに選ばれた人たちを、御許に迎え入れて下さる。イエスご自身が言及された再臨の時に起こること-選ばれた人々を集めて下さる-というイエスの預言は、それが将来成就、実現することの約束であり、保証でもあります。従ってイエス・キリストの再臨は、キリストに反逆し、キリストを拒絶する者にとっては後に残されるという嘆き悲しみの日ですが、キリストを信じ、キリストに従う者にとってはイエスの御許に集められ、救いが完成する喜びの日です。
最後に、天変地異の中で起こるイエスの再臨が、イエスを信じる人々の救いの完成であることが記されている旧約聖書のヨエル書をお読みして、本日のみ言葉の取り次ぎを終わりたいと思います。
ヨエル書 2:30~32a
わたしは天と地に、しるしを現れさせる。それは血と火と煙の柱。主の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽は闇に、月は血に変わる。しかし、主の御名を呼び求める者はみな救われる。
祈ります
「集められる者、残される者」
今週のみ言葉 「そのとき、人の子は御使いたちを遣わし、地の果てから天の果てまで、選ばれた者たちを四方から集めます。」(マルコの福音書13:27)
2026/9/13(日)「快適さを目指しているクリスチャン」ガラテヤ書6:9 クリス宣教師
2026/9/6(日)「偽キリストと偽予言者」マルコ13:21~23 庄司牧師
そのときに、だれかが、『ご覧なさい。ここにキリストがいる』とか、『あそこにいる』とか言っても、信じてはいけません。偽キリストたち、偽預言者たちが現れて、できれば選ばれた者たちを惑わそうと、しるしや不思議を行います。あなたがたは、気をつけていなさい。わたしは、すべてのことを前もって話しました。 (マルコの福音書 13:21-23 SKY17)
世の終わりに臨む時、天変地異、国同士・人同士の争い、憎しみ、戦争、飢饉、色々な災害、そしてキリスト者への迫害。それらが終わりの日の「その日」に向かって頻度も、また激しさも増して来るということを、この13章で見ています。これら苦難が終わりの日において日常的に起こって来るならば、人はどのようなことを考え、また何を待ち望むでしょうか?それらの状況や現状からもたらされる不安や恐怖、そして実際に起きて来る苦難から救い出されること、その救いを、期待をもって待ち望むようになるのではないでしょうか。本日の聖書箇所は、そのような人々の期待を巧みに利用する、偽キリストたちや偽預言者たちの出現を、イエスは警告されています。
イエスはこのように語られました。22節です。偽キリストたち、偽預言者たちが現れて、できれば選ばれた者たちを惑わそうと、しるしや不思議を行います。イエスはここで彼ら偽キリストや偽預言者が、「できれば選ばれた者たちを惑わそうと、しるしや不思議を行います。」と言われました。選ばれた者たちとは、イエスを信じるキリスト者、私たちクリスチャンです。「できれば」とは、可能であれば、という意味ですから、偽キリストや偽預言者がクリスチャンを惑わすのは難しい、ということです。逆に言えば、偽キリストや偽預言者は、イエスを信じていない人々を惑わしやすい、ということになります。なぜでしょうか?それはイエスを信じない人々や聖書を知らない人々は、イエスがこの13章で語られているような世の終わりがあることや、世の終わりに向かってこの世界がどうなっていくか、そしてその終わりの日に際して何に気を付け、どのように歩んでいったら良いか、などが分からないからです。つまり惑わされやすい人とは、聖書にある神のことば、み言葉を知らず、大切にもしない人々である、ということになるでしょう。
その一つの例が、前回見たユダヤ戦争でした。イエスが旧約聖書のダニエル書を引用しながら預言、警告した、将来起こることになるユダヤ戦争-イエスの時代から見れば40年後に実現することですが-イエスが言われたことを信じなかった人々と、イエスを信じて従った人々の人生が、完全に分けられたのを見ました。イエスは、ローマ軍がエルサレムに責めて来ることを預言された時、同時に逃げなさいと言われました。実際にイエスを信じてペレヤ地方に逃げた人々は助かりました。しかしイエスの警告を信ぜず、エルサレムに残った人々は、ローマ軍からの兵糧攻めに遭い、結果的に全滅してしまいました。
色々な状況や噂、影響力のある人々のことばを信じて、「惑わされて生きるか」、それとも神であるイエスが言われることを信じて「惑わされずに生きるか」は、言い方を変えれば、神を信ぜずに生きるか、それとも神を信じて生きるか、ということになります。神を信じない人々は、偽キリストや偽預言者を信じやすい、そしてある人々は実際に信じ、従って生きるでしょう。 しかし神を信じる人々は、イエスの言われることを信じ、また従って生きることになります。 この選択と決断が、終わりの日における歩みにも大きな影響を与える、ということになります。そして選択と決断に伴う歩みは、ユダヤ戦争で生死が完全に分かれたように、人々の歩みを、人生を、救いを真っ二つに分けることになります。救いか滅びか。平安か不安か。安定か不安定か。イエスを信じて歩むかどうかで、私たち人間の歩みは全く異なってきます。では、イエスが警告された、偽キリストや偽預言者を、私たちはどのように見破っていけるでしょうか。イエスの弟子の一人であったヨハネは、その手紙の中で偽預言者についてこのように記しています。
ヨハネの手紙第一4:1~3です。お読みします。愛する者たち、霊をすべて信じてはいけません。偽預言者がたくさん世に出て来たので、その霊が神からのものかどうか、吟味しなさい。神からの霊は、このようにして分かります。人となって来られたイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。イエスを告白しない霊はみな、神からのものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていましたが、今すでに世に来ているのです。
ヨハネはここで、偽預言者について言及していますが、その背後には「霊」の存在、すなわち悪霊の存在があると警告しています。先月の始めの礼拝の中で、イエスが公生涯に入られる前、試みに遭われた時のお話をしました。イエスを試みた相手とは、イエスに敵対する悪魔、サタンでした。またサタンだけでなく、その手下である悪霊たちも神を憎んでいます。その神が愛している人間たちも彼らは憎んでいるため、一人でも多くの人間が神から離れるように策略を巡らしています。また願わくは神の子とされている私たちクリスチャンたちにも神を疑わせ、日々、信仰を奪おうと働いています。その戦略、策略が分かる箇所がルカの福音書4:6でした。第三版の聖書訳でお読みします。ルカの福音書4:6「この国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。 サタンは現代においても巧妙に働いていますが、このサタンはこの世において、この人にならいいという、イエスに反対している人々-力のある政治家や独裁者、地位や名誉を持ち、有名な人々などを選んで、権力や栄光を与えることができるということです。 もちろん全ての人々ではありませんが、繫栄し、栄光を受けている者の背後に、悪魔の働きがあるということです。そしてこの悪魔、悪霊は、そのような影響力の強い人、インフルエンサーに働きかけ、イエスも聖書も知らない、または神を信ぜず、イエスに敵対する人々を、人々を惑わす器として用いることができる、ということです。しかし悪魔、悪霊の誘惑、また惑わしは、国の指導者や政治家など、力や権力を持っている人々に限りません。キリスト者、キリスト者でないに限らず、全ての人類が悪魔の誘惑と惑わしに、日々晒されています。
ヨハネはこのような偽預言者、すなわち悪霊の影響を受けている人々の語ることを吟味しなさい、と警告しています。吟味する上でもっとも大切なことが、イエスを告白する霊かどうか。すなわち語りかけている人が聖霊の影響を受け、またイエスの証をしているかどうか、ということが吟味の規準になると、ヨハネは述べています。聖霊の影響を受けている人が語ること、それはイエスの栄光、素晴らしさを称え、表します。またイエスのことば、すなわち聖書にあるみ言葉を通して人々を励まし、慰め、力を与えることが出来ます。つまり、語りかけられた側の考え方や価値観、生活や人生がプラス、上向きの方向になっていくということです。またこの励ましは、世の終わりに人々が臨む時、更に人々を力付けるでしょう。しかし語りかけている者が聖霊ではなく、悪霊の教えや力を受けているとしたら。先々週の礼拝において、ある宗教団体に所属していた方が証をして下さいました。彼はその組織の聖書解釈に矛盾を感じるも、同じ仲間から切り離されることを恐れて、なかなか組織を抜け出せなかった、と語っておられました。組織を抜けると背教扱いされ、仲間から断罪され、捨てられる。それは彼にとって恐怖でした。同じように、この組織から恐怖や混乱がもたらされ、破滅した人たちが他にもたくさんいます。ある人は、組織が特定した終わりの日やイエスの再臨を信じて、大学などに進学することを止めました。ある人は結婚を諦め、ある人は財産を全て使ってしまい、ある人は自死してしまいました。恐怖で束縛され、自由も信仰も奪われた結果でした。そのようになってしまう人々が実であるとするならば、その実をつけさせる木がおかしいことは明らかです。またこの組織は今まで何度も、終わりの日や、イエスの再臨の日、ハルマゲドンなどの日を、何年何月に実現する、と言ったように特定してきました。それが外れると、キリストは目に見えない天において、神の王国の王として即位した、というような弁解や、教義の変更を行ってきました。彼らは終わりの日、すなわちイエスが再臨されることが、自分たちだけに知らされている、と語ってきました。ではイエスご自身は、再びこの世界に来られる、すなわちご自身の再臨についてどのようなことを語っておられるでしょうか。平行箇所のマタイの福音書24:27,28において、イエスはこのように語られています。人の子の到来は、稲妻が東から出て西にひらめくのと同じようにして実現するのです。死体のあるところには、禿鷹が集まります。これはどういう意味でしょうか。
キリストの再臨は、稲妻が東から出て西にひらめくように、一瞬のうちに、しかし誰が見ても分かるように来る、ということです。またそれは、ハゲタカが死体を容易に見つけてそこに集まって来るのと同じような明瞭さを持っている。誰が見ても分かる、という事です。すなわちイエス・キリストの再臨は、全ての人々にとって、容易に見ることができる形で起こるということを意味します。
従ってイエスが再びこの世界に来られる終わりの日には、その力と栄光とを全ての人が見るということです。そしてイエスの再臨と共に世の終わりが来ます。つまり21節にあるように、誰かが「ここにいる、あそこにいる」と、教えてもらわなければならないような仕方でイエスは来られるのではない、ということです。ですから特定の組織、団体だけにそのような預言のことばが与えられている、ということ自体がすでに間違っています。 もう一つの組織を挙げます。この宗教団体の教祖は韓国人でしたが、自分を再臨のキリストと宣言していました。彼は偽キリストです。なぜ断言できるか。それは、彼がすでに死んでいるからです。もし神であれば死ぬことはありません。彼が死んでいる、という事実から、彼が偽キリストであることは明白です。従って彼の「後継者」という存在も矛盾しています。 他にも自分をキリストと名乗る教祖がいます。まだ生きている者もありますが、同じく亡くなっている者もいます。偽キリストたちが私たちの回りに実際に存在します。
また聖書においても、偽預言者が登場します。背景は、パウロとバルナバが行った、第一回伝道旅行の時です。新約聖書、使徒の働きの13:6節にはこのように記されています。バルイエスという名のユダヤ人で、偽預言者であった。魔術師であったともこの6節にありますが、彼は偽預言者でした。この男はパウロとバルナバに反対して、総督を信仰から遠ざけようとした、とこの6節の後に記されています。ローマ帝国の総督を信仰から遠ざける、すなわちイエスとイエスの福音を総督から遠ざける働きをしていたことが分かります。イエスの福音が伝わらないように、人を通して、また偽預言者を通して邪魔をする力、悪魔、サタンの働きがあることが分かります。
また見た目や人格的にも魅力があり、人々から人気があり、地位や名声がある人であっても、福音に反している、反キリストのような人々が世の中にたくさんいます。そのような人々の中で、悪魔、サタンから力を受けて、イエスから人々を引き離そうとする存在があることを忘れてはいけません。そしてこの妨害は、世が終わりの日に向かっていくに連れ、激しくなっていくことでしょう。また新約聖書だけでなく、旧約聖書においても、偽預言者について記されているところがあります。またこれは同時に警告でもあります。申命記13:1~3節です。このように警告されています。あなたがたのうちに預言者または夢見る者が現れ、あなたに何かのしるしや不思議を示し、あなたに告げたそのしるしと不思議が実現して、「さあ、あなたが知らなかったほかの神々に従い、これに仕えよう」と言っても、その預言者、夢見る者のことばに聞き従ってはならない。奇蹟が行われるだけでは、真の預言者であることの証拠にはならない、と明確に警告されています。
旧新約聖書を通して、偽預言者、偽キリスト者に注意しなければならないとありますが、それら全てを踏まえてイエスは最後の23節において、「気をつけていなさい」と言われました。これは文法的には現在進行形の命令です。すなわち、このような偽者に対して絶えず警戒していなさい、という意味が込められています。 最後にイエスは「すべてのことを前もって話しました。」と言われました。これは終末、終わりの日に関することを具体的に、そして全て漏らさず示されたというよりは、終わりの日において起きて来る色々な現象や、偽キリスト、偽預言者に惑わされることないように、そのような危険に対してあらゆる面から注意を与えた。という意味でしょう。イエスは多くの奇蹟や不思議、力あるしるしを行われましたが、それら目に見える現象によって人を引きつけ、またそれによって従わせようとはなさいませんでした。それよりももっと地味に、謙虚に、そして恥と苦痛に満ちている-本来ならば犯罪人がかけられる十字架-において、私たち人間の罪全てを背負って、十字架にかかって死んで下さいました。しかしイエスは十字架の死から復活され、再び私たちの世界に王として、イエスの十字架による贖い、救いを信じた一人一人のキリスト者、私たちを迎えに来て下さいます。
戦争、地震、飢饉などの苦難や、キリスト者への迫害という、終わりの日に向かって起きて来る様々な前兆が現れ、世の中が騒然としても、また偽キリスト、偽預言者が登場しても、終わりの日が訪れたわけではありません。また神からの啓示を受けた、という人、人々、組織や団体が、現代においても増々増えて行くでしょう。しかしイエスが再臨されるまでは、その全てが偽者です。私たちは惑わされてはなりません。
イエスの勝利はすでに復活に表されています。イエスは復活を通して悪魔、サタンやその手下の悪霊どもに勝利されています。また人類を縛って来た罪と、罪から来る死にも勝利して下さっています。終わりの日、そしてイエスが再臨される「その日」においても、復活された力ある神、イエスの助けと守り、そして勝利があることを、私たちはいつも心に留めたいと思います。そして迫害や患難の中にあっても絶望し、倒れることなく、すでに終わりの日にある今を、一歩一歩、忠実に、共に歩んで行きたいと願います。
祈ります。
偽キリストと偽預言者
あなたがたは、気をつけていなさい。わたしは、すべてのことを前もって話しました。
2026/8/30(日)「差し迫る苦難と主の憐れみ」マルコ13:14~20 庄司牧師
『荒らす忌まわしいもの』が、立ってはならない所に立っているのを見たら──読者はよく理解せよ──ユダヤにいる人たちは山へ逃げなさい。屋上にいる人は、家から何かを持ち出そうと、下に降りたり、中に入ったりしてはいけません。畑にいる人は、上着を取りに戻ってはいけません。それらの日、身重の女たちと乳飲み子を持つ女たちは哀れです。このことが冬に起こらないように祈りなさい。それらの日には、神が創造された被造世界のはじめから今に至るまでなかったような、また、今後も決してないような苦難が起こるからです。もし主が、その日数を少なくしてくださらなかったら、一人も救われないでしょう。しかし、主は、ご自分が選んだ人たちのために、その日数を少なくしてくださいました。
私たちプロテスタント教会が外典と呼んでいる書物群に、マカベヤ書という書物があります。これら外典は、旧新約聖書の間の400年ほどの空白の時代、中間時代と呼ばれている時代に記されたものです。このマカベヤ書に記されている出来事が、本日の14節に描写されています。
14節の背景を少しお話しします。 紀元前167年に、当時ユダヤを支配していたシリアのアンティオコス・エピファネスという王が、エルサレムに攻め込んで来ます。略奪を行っただけでなく、エルサレム神殿に乗り込み、最も神聖なる場所・祭壇に、ギリシャの神ゼウスの像を置き、ユダヤ人たちに拝むことを強要しました。異邦人の神、しかもその偶像が神殿に置かれることは、イスラエルの人々にとっては主なる神への最大の冒瀆であり、神の民であるイスラエルへの、この上ない侮辱でした。その結果彼らの間に激しい反発、そして反乱が起こりました。反乱の中でマカベヤという人物が首謀者になってユダヤ人たちが立ち上がり、いのちを投げ出して戦います。
この反乱に、普段は隠遁生活をしていたエッセネ派ですら参加し、この反乱による戦いは壮絶を極めたと言われます。世界史ではマカベヤ戦争と呼ばれますが、ユダヤ軍が軍事力においては圧倒的に優位なシリア軍を命がけの戦いの末に打ち負かす。その戦いがマカベヤ書に記されています。
この戦いは、既に旧約聖書ダニエル書に預言されていました。それが14節です。『荒らす忌まわしいもの』が、立ってはならない所に立っているのを見たら──読者はよく理解せよ──ユダヤにいる人たちは山へ逃げなさい。この14節はダニエル書11:31節から引用されています。このように記されています。「彼の軍隊は立ち上がり、砦である聖所を冒し、常供のささげ物を取り払い、荒らす忌まわしいものを据える。」アンティオコス王の軍隊が神殿を冒し、普段捧げられているささげ物を取り払い、忌まわしい偶像を据えた。ダニエルが預言を記してからおおよそ300年後に、またイエスの時代から見れば200年ほど前に、この預言は成就、実現しました。このダニエル書11:31節の他、その前後9章や12章に記されている預言は、アンティオコス王のエルサレム侵攻だけにとどまりません。それはイエスが語られた時からは未来となる、別の出来事も指し示しています。それがローマ軍のイスラエル侵攻です。イエスの時代から見ればおおよそ40年後、紀元70年にそれは起きました。ローマ軍のエルサレム侵攻のことを、イエスは平行箇所のルカの福音書21:20節において、このように語られています。しかし、エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、そのときには、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。 イエスは14節でダニエル書11:31節を引用することによって、エピファネス王のエルサレム侵攻と破壊、そして神への冒涜という預言がすでに成就、実現していることを示されました。そしてそれを踏まえ、未来に起こるローマ軍のイスラエル侵攻と破壊という出来事も、同じくダニエル書を引用することによって預言されていました。そしてイエスが預言された約40年後、実際にローマ軍がエルサレムに侵攻して来た時、多くのユダヤ人たちがエルサレムに集結しました。マカベヤ戦争を思い起こしての行動だったに違いありません。「私たちも先代の人々のように団結し、エルサレムを、エルサレム神殿を守るために戦うのだ!」あるいはエルサレムにいれば大丈夫だ、神が絶対に守って下さるはずだ。そのような思いを持って、エルサレムに集まった人々もいたでしょう。しかしローマ軍はエルサレムには直ぐには攻め込まず、まず町の回りを包囲しました。ローマ軍の包囲によって食物が都に入らなくなり、エルサレムの都は激しい飢餓状態に陥ります。そしてついに人食いまでをするような悲惨な状況になり、餓死者が数え切れないほど出ました。弱り果てたユダヤ人たちは、最後はローマ軍の剣によって全滅してしまいました。エルサレムは陥落し、ローマ軍の手に落ちました。エルサレム神殿も完全に破壊され、今は見ることも出来ません。世界史ではユダヤ戦争と呼ばれる出来事です。
イエスはダニエル書を引用しつつ、このユダヤ戦争を預言するにあたって、次のような警告を人々に与えておられました。それが本日の14節から16節に記されています。「山へ逃げなさい」、「屋上にいる人は、家から何かを持ち出そうと、下に降りたり、中に入ったりしてはいけません。」
当時の家の屋上・屋根は平らでした。そしてそこを色々なことに利用していました。また屋根に上がる為の外階段が付いていました。ですからローマ軍が来るような危急の事が起こったら、部屋の中に降りていってはいけない。外階段からそのまま外に逃げなさいという意味です。加えて彼らの財産となる「上着」も持ち出してはならない。事は一刻を争う。一刻の猶予もない。また、住み慣れたエルサレムを離れることは、季節が良い時であっても困難です。そこでイエスは、身重の女性たちや乳飲み子を抱える女性たちが、さらに逃げることが困難となる冬にならないように祈りなさい、と言われました。実際にイエスを信じていた人々は、イエスの預言であり命令を信じ、従い、ローマ軍が攻めて来ると直ぐにエルサレムを脱出し、ペレヤと呼ばれる地域へ移動し難を免れたと、エウセビオスという歴史家が記しています。
しかしダニエル書の預言は、アンティオコス王とローマ軍隊の2回に及ぶエルサレム侵攻、破壊の成就、実現で終わるのでしょうか。 14節においてこの書を記した著者は、「読者はよく理解せよ」と注意書きを挿入しました。これは勿論イエスのことばではなく、イエスの言葉を後に記した聖書記者の注意書き、著者であるマルコのことばでしょう。マルコはなぜこの注意書きを挿入したのでしょうか。そのヒントが、イエスが語られた19節です。
それらの日には、神が創造された被造世界のはじめから今に至るまでなかったような、また、今後も決してないような苦難が起こるからです。
マカベヤ戦争やユダヤ戦争がどんなに悲惨なものであっても、「神が創造された被造世界のはじめから今に至るまでなかったような、また、今後も決してないような苦難。」では決してありません。19節でイエスが語られたことはもっと規模が大きくて悲惨なもの。混乱と破壊を想像させるに難くないものです。つまり著者のマルコは、イエスが語られた19節の預言が、マカベヤ戦争、ユダヤ戦争の事出来事を超え、終わりの日、それもイエスが再臨される時に世界が裁かれる「その日」である大艱難であることを感じ、見据え、また聖霊の促しもあって、注意書きを入れたのだと思います。
従って著者のマルコによる注意書きは、これから約40年後に起こることになる、ローマ帝国の侵略にユダヤ人たちが備えなければいけないということを超え、この世の終わりに臨んでいる私たち読者に向けられていることばでもあります。
ローマ軍がエルサレムに攻め込んで来たユダヤ戦争において、多くのユダヤ人たちはエルサレムに集結しました。それはエルサレム神殿を守るためでした。神殿を守るということが、自分たちの信仰を守ることとイコールであり、神殿を失うなら自分たちの信仰も失う。 彼らユダヤ人にとってエルサレム神殿というのは、人間が唯一神と交わることを許されている場所でした。人間は罪深く汚れているから、決して神と直接交わりをすることなど許されない。ただ神殿においてだけ、神の憐れみの内に、人間が神と交わりをすることができる。その神殿を失うということは、神との接点を失う。そのように彼らは考えていました。それほど彼らにとってエルサレム神殿は特別なものでした。それゆえ紀元70年のローマ軍のエルサレム侵攻の時、彼らは神殿と運命を共にしました。
しかしイエスは違います。イエスは彼らに逃げなさいとおっしゃいました。これはつまり、神殿を捨てなさいということです。神殿を守る必要は無い。そこで戦ってならない。戦う必要もない。なぜイエスは逃げなさいと言われたのでしょうか?
それは神殿が必要なくなるからです。イエスはこの後十字架に架けられることになります。そしてイエスが十字架に架けられることが、イエスが「逃げなさい」と言われた根拠です。
イエスが十字架上で息を引き取られた時、神殿の幕が上から下へと、真っ二つに引き裂かれました。神殿の幕とは、神殿の中で最も神聖な至聖所の幕のことです。至聖所は神が臨在される神聖な場所であり、そこには大祭司が年に一度しか入ることが出来ませんでした。そして神殿の聖所と至聖所を隔てる幕は、そのまま人間と神の隔て、断裂を象徴するものでもありました。しかしその幕は、イエスが死なれた時に上から下に向けて裂かれました。つまり神が一方的にその幕を取り去って下さった訳です。人間の罪から始まった神と人間の間にあった隔てが、そして断裂が、イエスの十字架を通して取り除かれたということです。 神であるイエス・キリストが、神との隔てとなっていた私たちの罪を全て身代わりとして背負われ、死なれました。そのことによって、神殿においてたった一人の大祭司が、神と人々の仲介役として、年に一度神殿で神との交わりを頂く、そのような必要がなくなりました。イエスの身代わりの十字架が自分の罪の為であったと信じる人は誰であっても、神との親しい交わりをすることが許されるようになりました。
この十字架を踏まえイエスは、「あなた方は神殿を命がけで守る必要はもうない。これから私が神と人間の隔ての壁を壊し、取り去る。もはやあなたがたに神殿は必要ない。神殿を捨てて逃げなさい。」
という意味を、「逃げなさい」ということばに込められたのだと感じます。
また聖書には、このように記されているところがあります。「あなたがたは神の神殿です。」私たちイエスを信じる一人一人が、イエスの十字架を通して、神が宿る神殿となる、ということです。つまり神殿にあった神の臨在は、イエスを信じるキリスト者一人一人に移されることになる。だから目に見える神殿のために、いのちを張る必要はもはや無い。
新約聖書、コリント人への手紙第二6:16節にこのようなことばがあります。
私たちは生ける神の宮なのです。神がこう言われるとおりです。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。 (コリント人への手紙 第二 6:16 SKY17)
イエスがこの世界に来たことにより、神はもはや神殿に臨在されることはなくなりました。私たちの内に生きて下さる。そればかりでなく、私たち一人一人が神の宮、生ける神の神殿となる。
かつてのエルサレム神殿に匹敵する価値が、いや、それ以上の価値であり尊さが、イエスを信じる私たち一人一人にある、ということです。私たちが、何かができる、できない、忍耐する、しない、努力をする、しない、などに関わらず、イエスの十字架によってすでに価値のある者とされている。だから神殿を守るような戦いをする必要は、もはやない。戦いや努力、自分の力で神と交わりをし、また救われようとする必要はない。救いはすでにイエスの十字架によって完成されている。私たちはただ、イエスによって価値ある者とされている、ということです。
この神であるイエスが、今も、そしてこの瞬間も聖霊を通して私たちと共にいて下さいます。そして私たちが本当にすべき大切な戦い、断固死守すべき場所、それは神が住まいとされる私たち一人一人の体であり、存在です。私たちイエスを信じる一人一人が、神のご臨在を示し、また表す神殿です。神であり、私たちの主であるイエスが、私たち一人一人を神の霊である聖霊が宿る聖なる、そして価値のある生ける神の宮、神殿として下さった。そしてそのように価値ある者として見つめて下さっている。
最後の20節にはこのように記されています。しかし、主は、ご自分が選んだ人たちのために、その日数を少なくしてくださいました。終わりの日の「その日」に向かって激しくなって行く苦難や迫害に対して、イエスは選んだ人たち、すなわちイエスを信じるキリスト者、クリスチャンが苦難や迫害に耐えることができるように、その日数を少なくして下さったと聖書は告げています。
「日数を少なくして下さった」とありますが、文法的には過去形が使われています。それは日数が短くされるという未来における出来事が、既に過去において決定されている、神が既に計画され、予定されているということが、強調されています。つまりこの20節も、終わりの日に臨む私たち、イエスを信じる全てのキリスト者にとって、励ましの預言であるということです。
神は、イエスは、救いに選ばれた者を忘れず、全てのキリスト者、現代を生きる私たち一人一人のキリスト者が、苦難や迫害に耐えることが出来るように、その苦難の時を少なく、短くして下さる。そして既に短くして下さいました。イエスの私たちに対する愛、配慮、恵み、憐れみを感じます。
私たちは自分の中に、救われるべき理由は何もありません。自分が他の人よりも立派であるとか、信仰深いということでもありませんし、忍耐強いわけでもありません。それはただ、私たちを一方的に選び、恵まれ、支えておられる神がおられる、ということです。そのイエスが、「その日」に向かって激しくなって行く苦難においても、また迫害においても、共にいて下さいます。
イエスの十字架を通して、また聖霊を通して、イエスを信じる私たち一人一人を尊い生ける神の宮、神殿として下さったイエスに感謝と讃美を捧げます。そして終わりの日である、「その日」に向かって、与えられた一日一日を、共に、大切に過ごしていきたいと願います。
祈ります
差し迫る苦難と主の憐れみ
しかし、主は、ご自分が選んだ人たちのために、その日数を少なくしてくださいました。
2026/8/23(日)神学生による証し 佐藤兄 長江兄
「あなたはどこへ向かおうとしているのか?」
聖書:ルカの福音書 9章57~62節
証し:佐藤兄
「エホバの証人からキリストの証人へ」
聖書:ヨハネの福音書 19章38~39節
証し:長江兄
2026/8/16(日)「忍耐と救いを与える聖霊の助け」マルコ13:9~13 庄司牧師
あなたがたは用心していなさい。人々はあなたがたを地方法院に引き渡します。あなたがたは、会堂で打ちたたかれ、わたしのために、総督たちや王たちの前に立たされます。そのようにして彼らに証しするのです。まず福音が、すべての民族に宣べ伝えられなければなりません。人々があなたがたを捕らえて引き渡すとき、何を話そうかと、前もって心配するのはやめなさい。ただ、そのときあなたがたに与えられることを話しなさい。話すのはあなたがたではなく、聖霊です。また、兄弟は兄弟を、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に逆らって立ち、死に至らせます。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。
「小黙示録」と呼ばれているマルコの福音書14章、「世の終わり」を引き続き見ています。終わりの日が近づくにつれ、色々な前兆が現れて来る。だから「惑わされてはいけません」とイエスは警告されました。そしてイエスは9節において、「用心しなさい」つまり「気をつけなさい」と、終わりの日とどのように向き合ったら良いか、イエスを信じるキリスト者に語っておられます。それは「わたしのために」とあるように、イエスを信じ、イエスに従って行く者に起こって来る「終わりの日」における迫害です。9節をお読みします。
あなたがたは用心していなさい。人々はあなたがたを地方法院に引き渡します。あなたがたは、会堂で打ちたたかれ、わたしのために、総督たちや王たちの前に立たされます。そのようにして彼らに証しするのです。会堂や地方法院-小さな裁判所のようなものですが、そのような場所で迫害されていたのはイエスの弟子たち、ユダヤ人たちでした。 迫害する者たちもユダヤ人たちでした。しかしその迫害はやがて拡大して行き、総督たちや王たちからも迫害されることになる、すなわち迫害の範囲が広がって行く。また迫害される方も、ユダヤ人以外の異邦人にも拡大して行く、ということをイエスは語られましたが、それは現実となって行きます。
イエスは10節においてこのように語られました。「まず福音が、すべての民族に宣べ伝えられなければなりません。平行箇所のマタイの福音書の24章においては、福音の拡大が終わりの日と重なり合っていることが記されています。マタイ24:14 御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます。従ってキリストの体なる教会が全世界に建て上げられている、すなわち福音が全世界に届いている現代は、すでに終わりの日が始まっているということであり、私たちはそのような時代に生きている、生かされている、と言えます。
前回共に見て来ましたが、終わりの日である「その日」が来る前に、天変地異などの異常気象、戦争、迫害などが、頻度も強さも増していくとイエスは語られましたから、終わりの日である「その日」にはまだ到達していないものと思われます。終わりの日に裁きが行われる「その日」まではまだ時間がある。しかし迫害は確実に、そして日増しに強まっていく。
そしてイエスはこの世の終わりにおける迫害に直面する時の心構えとして、本日の聖書箇所の中でこのように語られました。11節です。人々があなたがたを捕らえて引き渡すとき、何を話そうかと、前もって心配するのはやめなさい。ただ、そのときあなたがたに与えられることを話しなさい。話すのはあなたがたではなく、聖霊です。
聖霊が迫害において助けて下さる。聖霊が、迫害の中にあってもその中を導かれ、歩ませて下さる。イエスが11節で語られたこと。まさしくそのことが歴史的に起こったのが、新約聖書、使徒の働き6章と7章に描写されています。イエスの弟子の一人であったステパノが、普段ギリシャ語を話すユダヤ人たちと議論をしたことが記されています。彼らはパレスチナの外の地域(ヘレニズム世界)で生まれ育ったため、日常的にギリシア語を使用し、当時の国際的な教養や思想背景を持っていました。ステパノは彼らに向かって「あなたたちの先祖は主なる神から遣わされた預言者たちを迫害し、今度は神ご自身であるイエスを裏切り、殺す者となった。」と語りました。ステパノはさらに、あなたがたは律法を大切にしているといいながら、守ったことがないではないか、と糾弾しました。「しかし、彼が語る時の知恵と御霊に対抗することはできなかった。」とあるように、知恵と聖霊に満たされて語るステパノの論理に、彼らは議論では勝てず、何も言い返すことが出来ませんでした。しかし最終的にステパノは彼らの怒りを買い、石打ちによって殺されてしまいました。殉教です。この時ステパノは扇動された人々によって、サンヘドリンと呼ばれる、祭司長や長老、律法学者など、約70人の議員で構成されていた議会に連れて行かれました。彼が議論、弁明をした時、何の準備もできませんでした。しかし「彼が語る時の知恵と御霊に対抗することはできなかった。」と記されている通り、敵対者はステパノに何も言い返すことはできませんでした。また、必要な話すべきことばは聖霊が与えて下さいましたが、その結果は殉教でした。 しかしこの迫害、殉教には続きがあります。ステパノの殉教をきっかけにエルサレム教会が大迫害を受け、イエスを信じるキリスト者たちが、ユダヤやサマリヤの諸地域に散らされ、その結果、教会が各地で立ち上がっていきます。 福音はローマ帝国にまで広がって行きましたが、多くの人々が、火あぶりやライオンの餌食などになるといった凄まじい迫害によっていのちを落として行きました。しかし命がけで信仰を守る殉教者たちの姿や、疫病の時に病人を看病するなど、過酷な状況下でも隣人愛を実践する姿を見た周囲の人々が心を動かされ、数百年間続く迫害においても、キリスト者は増え続けました。 その迫害を受けて、2世紀頃のキリスト教の教父、神学者であったテルトゥリアヌスはこのように述べました。「殉教者の血は、教会の種子、種である」古代ローマ帝国によるキリスト教迫害の時代に、テルトゥリアヌスが権力者や迫害者に向けた言葉です。 キリスト者が信仰のために命を落としても、その流された血や耐え忍ぶ姿が「種」となって、その姿を見ていた人々の心に新たな信仰の芽を呼び起こし、結果として信仰者の群れも、またイエスの体なる教会も大きく成長した、という意味が込められています。実際にキリスト者は迫害されればされるほど増え広がって行き、最終的にはローマ皇帝テオドシウスがキリスト教を国教としました。紀元392年でした。近代においては過去、日本の支配の下で、朝鮮のクリスチャンたちは厳しい迫害を受けました。神社への参拝を強制され、抵抗した多くの人々が殉教して行きました。今日、韓国ではクリスチャンが多くいますが、それは、殉教者たちの流した血が種となったからだと言うことができるでしょう。またインドや中国など、政府や過激派組織による迫害が起きている場所でも、キリスト者たちの強い姿勢や奉仕を通じて、かえってキリスト者が増えて行きました。 また現在のイランですが、政府による厳しい監視や制限、投獄などの困難、迫害がある中、近年急激にキリスト者が増えていると言われています。ローマ帝国の下でもそうだったように、迫害によって信仰が強められ、殉教者が出ることによって教会はむしろ強くなり、増え広がっていきました。
この迫害は歴史的にも起きましたが、個人レベルでも起きた、また起きることになるとイエスは言われます。12節です。また、兄弟は兄弟を、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に逆らって立ち、死に至らせます。個人レベルの迫害によって、兄弟、子、両親など、家族から迫害され、死に至る人がいる、ということをイエスは語られました。肉体的ないのちに関しては、時に迫害によって失われる、つまり殺されてしまうこともある、ということです。そしてその迫害の先にあるものをイエスは13節で語られました。「また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。」
色々な迫害が起こって来る。イエスを信じ、従って来るだけで人々に憎まれる。しかし最後まで耐え忍ぶ人は救われるとイエスは言われました。つまり、迫害され、いのちを落とすようなことがあっても救われるということです。ですからここでイエスが言われている救いとは、肉体的な領域を指していないことは明らかです。前回、「終わりの日のしるし」というメッセージの中で、私たちが神以外に頼みにしているすべては滅び、無くなっていくというお話をしました。それは私たちの体も含まれます。一瞬、瞬きに過ぎない私たちの限りある肉体の人生が少し早くなったとしても、その先にある永遠のいのちを神は見据えておられるため、迫害によって肉体的ないのちを失う人の存在を許しておられる。迫害を許されている。そのように思います。そして殉教していったいのちが、種、種子となって、永遠のいのちを獲得していく人々を起こしていくのだと思います。
先程招詞、礼拝への神からの招きのことばをエペソ人への手紙1章14節から読んで頂きました。「聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。」私たちの肉体は滅びるものであるがゆえに、肉体という存在は地上だけに限ったものです。しかしイエスを信じる者たちは、御国を受け継ぐことができる。イエスの支配されておられる神の国、御国を受け継ぐことができる。すなわち私たちの存在そのものである、霊魂が将来御国を受け継ぐことになる。従って聖霊は、私たちの肉体が例え滅びても、私たちの存在そのものである霊魂が御国に行くことができるよう、保証となって下さる、ということがここに約束されています。また聖霊の働きにおいて、このようなみ言葉を共に見たことがありました。「誰も聖霊によらなければイエスを主と告白することはできません。」私たちはみ言葉を読み、あるいは聞くことを通して、ある日、ある時、イエスを自分の主、救い主と信じました。それゆえ私たちはその時から罪赦され、神との関係が回復し、滅びから救われていますが、その救いに導いて下さったのが聖霊、神ご自身でした。この同じ聖霊、神の霊、神ご自身が、私たちクリスチャンが例え迫害によって捕えられるような時が来ても、また、ステパノのように尋問されるような迫害に直面しても、話すべき、また弁明できることばを与えて下さる。その先がそこからの解放なのか、または肉体的な死である殉教であるかは、神のご計画の中にある。それがもし殉教-肉体的な死であったとしても、その死は無駄にならない。必ずその死、言い換えればイエスによるいのちが散るのを見た他の人々が、その姿によってイエスを信じ、従い、救われていく。イエスによるいのちが種子、種として用いられる。そこには神の選びとご計画があることを思います。迫害の歴史的事実とその結果を踏まえ、私たちはイエスが最後に言われことばに希望を持つことができます。13節。「しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。」私たちは自分の力で、迫害に負けずに信仰を貫き、どんな時でも主イエスを証ししていくことはできないでしょう。それを私たちにさせて下さるのは聖霊です。聖霊は、迫害を始めとする様々な苦しみの中にいる私たちに、その先にある神の救いを待ち望むことができるように、その希望によって私たちが支えられるように、導いて下さいます。その聖霊の働きによって私たちは、苦しみの中でも耐え忍んで信仰を守ることができ、主イエスを証ししていく言葉を与えて頂けます。
この聖霊が弟子たちに与えられたのがペンテコステの出来事でした。そしてこのペンテコステを通して、キリストの体なる教会が誕生しました。この同じ聖霊が働いて下さり、迫害においても、イエスを信じる者たちに語るべきことばを与えて下さる。そしてたとえ迫害によっていのちを失うようなことが起きても、そのいのちは種子、種として、イエスを信じる新しい人々を起こして行く。迫害において、何一つ無駄になるものはない。その聖霊が今この教会にも、そして私たち一人一人にも注がれています。また聖霊は私たちの目を開き、この世の終わりに、主イエス・キリストによる救いが完成することを見つめさせて下さいます。その終りの日に至るまでの道には苦しみや悲しみ、迫害がありますが、私たちは耐え忍んで信仰を守り抜き、主イエス・キリストの福音が全ての民に宣べ伝えられるための証しに用いられていくことができます。
イエスは13節において、「最後まで」耐え忍びなさいと語られました。この最後とはイエスを信じる私たち一人一人の肉体におけるいのちの終わりであり、また、終わりの日です。そしてこの耐え忍ぶということばは希望がある忍耐です。それは迫害の先には救いの完成が待っているからです。
出エジプトの時、モーセがイスラエルの民に宣言しました。「恐れてはならない。しっかり立って、今日あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。」前は大海原、後ろからはエジプト軍が迫って来る。絶体絶命の瞬間でした。このような命の危険、また希望が持てなくなった時、モーセはしっかり立っていなさい、耐え忍びなさいと叫びました。それはその先に希望があるからです。主の救いがあるからです。そして実際に主なる神は彼らを絶対的なピンチから救われました。この同じ神が、私たちをも救って下さいます。救って下さる力を持っておられます。
迫害というのは、神に敵対する力が目に見える形として、また現実にこの世界を支配している者たちがいるということを、私たちに知らしめて来るものです。私たちは迫害によって、また、価値観や生き方の違う人々から受ける様々な試練や困難から、自分の姿がさらけ出されて行きます。それらの困難から、持っていると思っていた豊かさ、信仰、主を信頼する力などが打ち砕かれることもあります。しかしその迫害を、困難を、私たちは自分の力でどうすることもできません。
自分の力によって迫害に打ち勝つことはできません。従って迫害の中で私たちは、もはや自分ではなく、目に見えない神に依り頼み、神のご支配が現れることを待ち望むしかありません。
終わりの日に向けて、「その日」に向けて、迫害は強く、大きくなっていきます。そしてそれは必ず起きることであり、すでに起きています。しかし例えそのような状況になっても、私たちが受ける迫害の苦しみが、伝道の前進という実りを生みます。それゆえにこの苦しみをイエスは、「産みの苦しみ」と呼ばれました。それは信仰による新しいいのちを生み出すための苦しみであり、希望のある苦しみです。 弱い私たちを、主なる神が、イエスが、聖霊を通して支え、導き、その先にある救いを思い出させ、見つめさせ、その希望にすがらせて下さいますように。 信仰のゆえに受ける苦しみを私たちはそのように受け止め、共に最後まで耐え忍ぶ者でありたいと思います。
祈ります
「忍耐と救いを与える聖霊の助け」
「また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。」
2026/8/9(日)「第一の戒めは何を教えていますか?」マタイ4:10 庄司牧師
問43 この第一の戒めは、私たちに何を教えていますか。
答 ”私たちが神さまを愛し、まことの神さまだけを礼拝することです。私たちは、他の神々をおがんではなりません。”イエスは言われた。「下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある。」” マタイの福音書4章10節
月の第二日曜日です。本日も子ども信仰問答からお話をしていきます。前回の箇所を少しおさらいしたいと思います。前回の問42は、「第一の戒めは何ですか?」そして引用されていたのが出エジプト記です。「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない」(出20:3) そしてその具体例として取り上げられていたのが、申命記4:35節、 “あなたにこのことが示されたのは、主だけが神であり、ほかに神はいないことを、あなたが知るためであった。’’です。
「主だけが神であり、ほかに神はいないことを、あなたが知るためであった。」主なる神は、ご自身が唯一、まことの神であるということを、出エジプト記において示されました。イスラエルの叫びに答えて奴隷から解放し、約束の地、カナンに向かう荒野においても同行されました。パンであるマナを降らせ、必要な水や肉なども備えられました。イスラエルの主なる神への不平、不満、不従順を忍耐され、おおよそ40年にわたって彼らを守り、導き、祝福を与え続けられました。
それほどイスラエルのことを愛され、イスラエルを導いて来られた主なる神が、「私だけを神としなさい」と、十戒を中心とした律法をsイスラエルに与えられました。 しかしイスラエルはモーセが十戒の石板を受けにシナイ山にいた時、長い不在から不安になって金の子牛の像を造り、神としてしまいました。偶像礼拝の罪です。神との契約を破り、罪を犯した者たちはこの後、モーセを通して粛清、すなわち神に裁かれました。その罪の根本は、偶像礼拝も含め、主なる神を第一にしなかったからです。主なる神を第一としない者は、裁かれる。自ら滅びを招くということです。この出来事を踏まえて、本日の箇所を見ていきましょう。本日の聖書箇所は、イエスが悪魔、サタンに誘惑された時に宣言されたことばです。この悪魔のイエスへの試み、誘惑が、マタイの福音書4:1節から始まり、本日の聖書箇所である10節まで続きます。一つ目の誘惑は、悪魔が40日の断食を通して空腹の絶頂であったイエスに、この石がパンになるように命じなさい、というものでした。この誘惑は、イエスが神から与えられたカリスマ、賜物だけで父なる神に頼らず、自分の力だけで人々を救いに導いていくよう、すなわち神から離れて自立するようとのサタンの誘惑でした。この誘惑に対してイエスは、「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」申命記8:3節を引用して答えられました。しかし神から離れていること自体が、そして神から離れて自分の力だけで物事を進めていくこと自体が罪ですから、これはサタンからの罪への誘いでもありました。イエスはここで、「人はパン自体で生きるのではない。パンを含め、人間が生きるのに必要なすべては神のことばを通して供給されている。私たちは神のことばによって生かされているのだから、ただ神に依り頼み、自分に与えられた神からの能力を、自分の願望を満たすために用いることはしない!」そのような思いと神への信頼を持ち、神のことばによってサタンの誘惑を退けました。二つ目に悪魔はイエスに、「詩篇に、御使いがあなたの足が石に打ち当たらないように守ると書いてある。-試しに神殿の屋根から飛び降りてみて、神のことばが本当にそうなるか、証明してみよ!」と誘いました。 あなたが神の子であるというしるしを、人々が奇蹟を通して見れば、彼らはあなたを救い主であると信じるだろう、という誘惑でした。サタンは詩篇91:11,12を引用しましたが、「すべての道で」あなたを守られるという「すべての道」ということばを故意に、わざと落としています。悪魔はみ言葉を良く知っており、時にみ言葉を自分の都合の良いように変え、用い、誘惑して来るということです。そしてこの誘惑は、イエスが人間を救うという大きな目的のために、父なる神のことばをただ、自分の働きの保証とするようにとの誘惑でした。この誘惑に対してイエスは「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」と、申命記6:16節を引用して答えられました。一つ目の誘惑に続いて、二つ目の誘惑も、イエスはみ言葉で悪魔に応戦されました。そして三つめ、これが最後の誘惑になりますが、悪魔はこのようにイエスを誘惑しました。8節、9節です。悪魔はまた、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての王国とその栄華を見せて、こう言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これをすべてあなたにあげよう。」イエスが悪魔に妥協して権力を持ち、政治的な王として人々を救いに導くようにとの誘惑でした。これに対してイエスが答えられたのが本日の聖書箇所10節です。そこでイエスは言われた。「下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある。」申命記6:13節の引用です。「主に仕えることを犠牲にしてまでして、使命達成を追求することはしない!」というイエスのご意志です。すると悪魔はイエスから離れていきました。み言葉で悪魔と戦って行く時、悪魔は離れて行くということです。それはつまり、悪魔の誘惑に打ち勝つことができる、ということです。 悪魔はサタンとも呼ばれていますが、サタンは「試みる者」とか「訴える者」とも呼ばれ、神とその救いの目的とに対する「敵」を意味します。サタンは神を憎んでいます。そしてその憎んでいる神が愛している人間も憎いため、一人でも多くの人間が神から離れるように策略を巡らしているだけでなく、願わくは神の子とされている私たちクリスチャンにも神を疑わせ、日々、信仰を奪おうと働いています。その戦略、策略が表されている箇所があります。それが本日の箇所です。マタイの福音書4:8,9。悪魔はまた、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての王国とその栄華を見せて、こう言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これをすべてあなたにあげよう。」 この箇所を平行箇所のルカの福音書4:6で見たいと思います。第三版の聖書訳でお読みします。ルカの福音書4:6「この国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。 旧約聖書、ヨブ記を見ても分かりますが、神の許可、神の許しがなければ、サタンは働くことができません。つまりサタンの活動も、誘惑や攻撃も、主なる神ご自身が持つ大いなるご計画と主権の中で許されている、ということです。そして実際にサタンはこの世において、この人にならいいという、イエスに反対している人々-特に力のある政治家、独裁者などの権力者を選んで、権力や栄光を与えることができるということです。 繫栄し、栄光を受けている者の背後に、悪魔の働きがあるということです。しかしこの悪魔の誘惑は、国の指導者や政治家など、力や権力を持っている人々に限りません。全ての人類が悪魔の誘惑に日々、晒されています。イエスは新約聖書、マタイの福音書6章24節においてこのように語られています。「だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神と富とに仕えることはできません。」神か富か。私たち人間はどちらかを選んで仕える、すなわちそれを大切にし、それに従い、それによって歩む、ということです。しかしどちらも同じようには愛せない。重んじることはできない。神を選んだ人は、神を大切にし、神に仕え、神に従い、神によって歩みます。一方富を選んだ人は、富を大切にし、富に仕え、富に従い、富によって歩みます。富とはその人を富ませるものですから、お金や財産だけではありません。家や土地、 自分の能力、名誉や名声、健康や趣味などの楽しみ、家族など、色々な物が考えられます。自分を富ませ、自分の気分を良くし、自分を高めてくれるものです。もちろんそのような物は大切ですし、なくてはなりません。しかしそれらがまことの神よりも大切になり、神よりも上になっていく時、人は簡単にそれらの奴隷となってしまいます。そして彼らが頼みにしているそのような神以外のものはやがて崩れ去る、無くなって行く時が来ます。先週も見て来ましたが、神以外のものは有限、限りがあり、それゆえ滅んでいくからです。そしてその先は、イスラエルの人々が偶像礼拝、すなわち神を第一にしなかったことによって裁かれたように、神を第一にしなかった人々は最終的に、神の裁きを経験することになります。なぜなら、富を第一にしていく生き方は、罪が解決せず、罪が残る生き方だからです。神から離れているという罪がずっと続く生き方だからです。ですから富を第一にした人は、その人の持っている罪ゆえに、自ら滅んで行くことになるでしょう。イエスはサタンに誘惑された時、神が与えて下さったみ言葉によって戦い、サタンを退けました。このイエスがなされたこと。それが神を第一にしていることの表れです。すなわち神のことばを第一にするという生き方、歩み、そして時に誘惑と戦い、対処する方法でもあります。「はじめに神が天と地を創造された。」聖書のはじめ、創世記1章1節のことばです。そして創造の経緯が描写されていきますが、神はことばをもって人間を含めた天地万物を創造していきます。神は、神のことばによって人間も含めた全ての被造物を造られ、このことばによって天地万物を保たれ、そしてこのことばを通して私たち人間に語りかけて下さっています。それが神のことば、聖書のことばです。ですからイエスが「聖書にこう書いてある」と言ってサタンの誘惑を退けましたが、それは神のことばを第一にした、すなわち神を第一にされた、ということです。 なぜなら神イコール神のことばだからです。ですからイエスが神のことば、聖書を第一とすることによって神を第一とされたように、私たちも聖書のことばを第一にしていくとき、それはすなわち神を第一にすることであり、神を第一にする生き方であるということです。 父なる神がイスラエルに与えられた十戒の一番目、人間が一番大切にすべき教え、戒めは、「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。」でした。イエスはこの教え、戒めを、神のことば、すなわち聖書に記されているみ言葉を守り、従い、そのことばで戦い、そのことばよって生きることによって、身をもって実践して下さいました。そして罪と罪から来る死とサタンを滅ぼして復活されたイエスは、今、神の右、栄光の座におられます。神のことばを第一にしていく。その先には、神の守り、祝福があり、平安、喜びがあり、罪の赦しと永遠のいのちがあります。私たちもイエスのように神のことばを第一にすることによって、神を第一にしていくことができますように。
祈ります 問43 この第一の戒めは、私たちに何を教えていますか。
答 ”私たちが神さまを愛し、まことの神さまだけを礼拝することです。私たちは、他の神々をおがんではなりません。‘’ ”イエスは言われた。「下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある。」” マタイの福音書4章10節
