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2026/5/17(日)「神のものは神に」マルコ12:13~17 庄司牧師

2026年5月17日 マルコの福音書12:13~17「神のものは神に」
さて、彼らはイエスのことばじりをとらえようとして、パリサイ人とヘロデ党の者を数人、イエスのところに遣わした。その人たちはやって来てイエスに言った。「先生。私たちは、あなたが真実な方で、だれにも遠慮しない方だと知っております。人の顔色を見ず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。ところで、カエサルに税金を納めることは、律法にかなっているでしょうか、いないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めるべきでないでしょうか。」イエスは彼らの欺瞞を見抜いて言われた。「なぜわたしを試すのですか。デナリ銀貨を持って来て見せなさい。」彼らが持って来ると、イエスは言われた。「これは、だれの肖像と銘ですか。」彼らは、「カエサルのです」と言った。するとイエスは言われた。「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい。」彼らはイエスのことばに驚嘆した。 (マルコの福音書 12:13-17 SKY17)

祭司長たち、律法学者たち、長老たちなどの宗教指導者たちはイエスに面子を潰され、批判されて来ました。それゆえイエスを捕らえて殺そうとして来ましたが、群衆を恐れて手を下すことができないでいました。彼らはイエスの言葉尻を捕えようと、またやってきました。平行所のマタイの福音書の22章には、「彼らはどのようにしてイエスをことばの罠にかけようかと相談した。」と描写されています。そして今回も悪巧みの質問をイエスに投げかけましたが、イエスがどちらを答えても窮地に追いやることができる質問でした。 彼ら宗教指導者たちは、「パリサイ人とヘロデ党の者を数人、イエスのところに遣わしました。」パリサイ人とヘロデ党の人々は対立関係にありました。犬猿の仲。パリサイ人は、ユダヤの人々が神の選民であることを強調し、旧約聖書の律法を厳格に守ることによって、神の民として誇りをもって生きていました。ですから彼らは異邦人であるローマ帝国の支配下にあり、民族としての自立性を失っていることを非常に苦々しく思っていました。また、異邦人に税を納めることは神の権威を冒涜することであると考え、反対していました。

他方ヘロデ派は、当時のガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスの取り巻きです。ヘロデの領主としての地位は、ローマ帝国の権威によって支えられていました。そのヘロデの権力によって利益を得ていた彼らは、宗教的な理想に生きるのではなく、長いものには巻かれろという現実な路線を取り、ローマの支配を受け入れて、その中でうまくやろうとしていた人々です。彼らは、ローマとの関係を親密に保つために、ローマへの納税を推進していました。ですからパリサイ人と、ヘロデ派の人々は、本来互いに反目し合う関係です。しかし両派の利害の一致、すなわちイエスを殺害するということで、一致団結しました。
彼ら宗教指導者が考えたことばの罠とは、ローマ皇帝に税金を納めることが律法に適っているかどうか、という律法に関わるものでした。ユダヤ人たちが当時最も苦痛に感じていたのは、ローマ帝国が課していた人頭税、青年から壮年に至る一人一人が、ローマに支払わなければならない税金でした。それは自分たちがローマに征服され、支配されていることを思い知らされる、屈辱的な税金でした。ですからユダヤの人々は、いつか神からの救い主、メシヤが現れてローマの支配を打ち砕き、この税金から解放してくれることへの期待がありました。従って皇帝に税金を納めるかどうかは、神の民であるユダヤの人々にとって、ローマ帝国の支配や権力を認めるか否か、という問題でもありました。この問いをイエスに投げかけることによって、彼らはイエスを追い詰めようとしています。 もしもイエスが、皇帝に税金を納めなくてよいと答えたならば、そこはヘロデ派の出番です。彼らはそのことをローマの総督に訴え出れば、イエスはローマへの反逆者として捕えられるでしょう。もしも逆にイエスが、皇帝に税金を納めなさいと答えたならば、それは同時にローマの支配を認めることになります。今度はパリサイ人の出番です。イエスは、神の民であるユダヤ人の魂をローマに売り渡している。その支配に加担している!と言われ、イエスこそメシヤではないかと期待している人々が、失望してイエスの下から去っていくでしょう。このように、どちらを答えても、イエスが窮地に陥らざるを得ない状況を、彼らは作り出しました。
しかも彼らは冷静かつ狡猾です。イエスが質問から逃げないようにしています。それが14節のことばです。「先生。私たちは、あなたが真実な方で、だれにも遠慮しない方だと知っております。人の顔色を見ず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。イエスに対する褒めことばのように聞こえますが、その後「ところで」と質問をしています。だれにも遠慮しない、人の顔色を見ない真実なお方であるあなただからこそ、この質問に答えて下さいね。逃げないで下さいよ。イエスが問いに答えざるを得ない状況を作り出し、イエスを追い込んでいます。彼らがイエスに対してこのような問いを発したのは、神の選びの民であるユダヤ人の神への忠誠と、ローマへの忠誠とは互いに両立しない、という前提があります。彼らはユダヤ人でない異教徒による政治的支配に対して、否定的な立場にいた。しかしイエスは、彼らの考えとは違うことを、銀貨に彫り込まれている肖像を通して教えられます。

イエスは彼らの欺瞞、嘘、偽善、下心を見抜いた上で、デナリ銀貨を持って来させました。デナリ銀貨はローマ帝国が発行している銀貨でした。ユダヤにおいてもそれが日常的に使われており、税金もそれによって納められていました。デナリ銀貨にはローマ皇帝、当時はティベリウスの肖像が彫られ、その名が記されていました。このように当時のデナリ銀貨には、皇帝の肖像が刻まれ、また、「ローマ皇帝は神の子である」と銘が刻まれていました。イエスはその銀貨を皆に示しながら「これは、だれの肖像と銘ですか」と問われました。それを問われれば彼らも、「カエサル、皇帝のものです」と答えざるを得ません。するとイエスは「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」と言われました。当時の感覚では、貨幣はそれを発行した支配者のものでした。従って皇帝の肖像と銘のある銀貨は、皇帝のものです。皇帝のものであるお金を皇帝に返すのだから、税金は当然納めるべきものだとイエスが婉曲的に語られたことによって、皇帝への反逆のかどでイエスを訴えようとしていた、ヘロデ派の思惑は外れました。
新約聖書、ローマ人への手紙の13章に記されていますが、神はこの地上における人間生活に秩序をもたらすために、人間的支配者を立てられて、人々を支配することを許されています。 またユダヤ人たちはローマの平和、経済、交通といったように、ローマの帝国の恩恵を受けていました。ですからその通貨で税金を納め、社会的な責任を果たすことは妥当なことであり、また必要なことであったと言えます。しかし一番は、この秩序を作られたのは神であり、神によって認められた制度に基づく納税の問題ですから、それは当然果たすべきものでした。 ここでイエスはカイザルのものはカイザルに返しなさい、つまり税金を払いなさいと言われた訳ですが、それで終わりではありませんでした。そのすぐ後に、「神のものは神に返しなさい」と続けられました。
それでは「神のもの」とは何でしょうか。旧約聖書の始めの書簡、創世記1,2章に、神の創造の御業が描写されています。人間が生きるために必要な全てを備えて下さった、神の偉大な力、主権、知恵、配慮、人間に対する愛を感じることができる箇所です。そしてこの創造の業が他の書簡にも描写されています。その一つを取り上げたいと思います。旧約聖書、詩篇の24篇、1,2節です。
「地とそこに満ちているもの 世界とその中に住んでいるもの それは主のもの。」「主が 海に地の基を据え 川の上に それを堅く立てられたからだ。」
私たちが労働して得た賃金は私たち、自分のものとなります。また何か絵を描いたり、作曲などをしても、その作品は私たちのものとなります。そうしますと、神が造られたものは神のものとなります。つまり、この世界全ては神のものであるということです。太陽も、月も、星も、地球も、動植物や、私たち人間一人一人も、です。その神のものを神に返しなさいと、イエスは言われました。私たちは今、人間としてこの世界に住み、生きています。人間としてどのように神に何かを返すとなれば、私たち人間が持っているもの全て、ということになるのではないでしょうか。私たちの体、魂、心、霊、人生、労働、愛、信仰、経験、財産など、私たちの持っているもの、全てだということになります。そしてイエスは実際に、私たちが神のものであるということを、デナリ銀貨を通して教えておられます。
イエスは皇帝の肖像が刻まれたデナリ銀貨を持って来させ、「これは、だれの肖像と銘ですか。」と尋ねられました。この「肖像」と訳された新約聖書の原語であるギリシャ語は、「エイコーン」いうことばが使われています。このことばは「肖像」だけでなく、「似姿」とも訳すことができることばです。そしてこの「エイコーン」ということばは、先ほど触れた創世記1,2章、その中でも、    1章27節-「神は人をご自身のかたちとして創造された。」というみ言葉を連想させるものです。つまり人間は神のかたちに、神の似姿に刻まれて創造されたと、創世記は語っている訳です。   皇帝の肖像、似姿を刻まれたデナリ銀貨が「カイザル、すなわち皇帝のもの」であるなら、神のかたち、神の似姿に刻まれて創造された、私たち人間は「神のもの」です。イエスは直接的にはイエスに敵対する宗教指導者たちに、ひいては私たち人間一人一人に、「あなた方は神の肖像、神の似姿を刻み込まれて、彫り込まれている存在だ。あなた方は神の作品であり、神のものだ。」と言っておられるのです。 従ってイエスが、「神のものは神に返しなさい」と彼ら宗教指導者たちに対して語られた本当の意味は、「あなたがたは神の似姿として刻み込まれた者だ。作品だ。それゆえ自分自身を神に返す生き方、神の栄光を表して生きていかなければならないのに、あなたがたはそれをしていない!」と糾弾したことになります。 イエスの答えに対して彼らは驚嘆しました。「イエスに驚嘆した」と、その時の彼らの驚きの様子が記されています。これは当時のユダヤ人たちが、人が神のかたち、神の肖像であり、神に似せて刻まれ、造られていることを知っていた、と、想像できるものです。
ですから本来私たち人間は、神の似姿を刻まれた神のものとして生きていかなければならない、ということです。神は人間を含め、全ての被造物を造られました。ですから神のものとは、天地万物全てであり、「神のもの」とされている私たち人間、ひいては私たちのいのちや人生、つまりわたしたちそのものです。ですから私たちが神に与えられている人生、賜物、時間、能力などを用いて、神の素晴らしさ、栄光を表していくことが、人間が神に創造された本来の目的です。この目的に沿えずに自分の栄光ばかり、そして自分中心に生きる時に心が虚しくなるのは、神の私たちの創造の意図に、神の御心に反する生き方をしているからだと思います。旧約聖書に記されていますが、ソロモンは大富豪でした。しかし彼は神から徐々に遠ざかり、最後は「空の空。すべては空。」という告白を、伝道者の書でしています。 どんなに地位や名誉、財産があっても心が満たされることがないというのは、神の意図に、神の目的に、神の御心に反しているからです。人間が神の肖像に、神の似姿として刻まれ、創造された、一つの証、証拠ではないでしょうか。

旧約聖書、イザヤ書49:16節に、このような有名なみ言葉があります。
「見よ、わたしは手のひらにあなたを刻んだ。あなたの城壁は、いつもわたしの前にある。」
古代、重要なことを忘れないために、自分の手のひらに文字や印を刻む習慣があったそうです。ここに登場する手は神のことを表し、手のひらに刻まれたのは直接的な文脈では、神の選びの民であるイスラエルですが、これは、私たち一人一人にも向けられていることばです。なぜなら、私たち一人一人が神のかたちに、神の肖像に、神の似姿に刻まれて、彫り込まれて創造され、いのちを吹き込まれて生きる者となったからです。またあなたの城壁、石垣は常にわたしの前にあると、神が常に私たちのために石垣となり、城壁となって守り、支えて下さっている、平安を与えて下さっていると、ここに記されています。 神は、私たちの一人一人の名前や存在を、ご自身の「手のひら」に彫り込み、刻みつけ、決して忘れることはない、いつも見守っていると、約束して下さっています。

神に覚えられている。これは私たちにとって大きな慰めと励ましです。しかも私たちはただ神に覚えられているだけではありません。神の手に刻みこまれ、その刻み込まれた私たち一人一人を、神は毎日見つめ、見守り、愛して下さっています。そればかりか、その神の愛は、神の独り子を十字架につけて私たちの罪の身代わりにさせるほどの愛です。 神が、全存在をかけて私たちを愛して下さっている。私たち一人一人にその神の愛が注がれている、尊い存在です。

食べるにも、飲むにも、何をするにも、神の栄光、神の素晴らしさを表しなさいと、使徒パウロは語りました。私たちは自分の持っている、というより、神に与えられ、委ねられた何をもって神にお返ししていくことができるでしょうか。その神の願い、御心を求めつつ、共に祈り、教えられていきたいと思います。

祈ります
「神のものは神に」
するとイエスは言われた。「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい。」
ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。(ローマ人への手紙12:1)

2026/5/10(日)「だれのてこのて」ヨハネ20:24~29 庄司牧師

2026年5月10日「だれのてこのて」ヨハネの福音書20:24~29
さきほど「だれのてこのて」の絵本を一緒に見ました。 赤ちゃんの手を見たら、赤ちゃんとわかる。フライパンで料理をしている人の手を見たらコックさん、料理人だとわかる。聴診器を持っている人の手を見たら、お医者さんだとわかる。お手紙を持っている人の手を見たら、郵便屋さんだとわかる。では、手の傷跡を見たら?それも両手に傷の跡を見たら?それは優しい優しいイエスさまだとわかる。人間の手は、その人がどういう人かを表していると言えるでしょう。
この絵本を描いた人は、イエスさまの両手に傷跡があるのを、絵に描きました。そしてその傷跡があるイエスさまを指して、イエスさまは優しいお方である描きました。そうしますと、イエスさまが優しいお方であるとこの絵本の作者が言っているのは、この傷跡と関係がありそうです。
イエスさまは神さまであり、また人間であることが聖書に記されています。そしてこのイエスさまは、実際に傷ついたお方であり、とても優しいお方です。それは十字架を見ると分かります。それでは、本日の聖書の箇所を読んでみたいと思います。
十二弟子の一人で、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちは彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」と言った。八日後、弟子たちは再び家の中におり、トマスも彼らと一緒にいた。戸には鍵がかけられていたが、イエスがやって来て、彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスはイエスに答えた。「私の主、私の神よ。」イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」
今日のお話の前に、大きな大きな出来事がありました。 それは、イエスさまが人々に憎まれ、十字架にかけられて殺されてしまったことです。しかしイエスさまは三日目に死から甦られました。そして甦ったイエスさまは、イエスさまを信じて従ってきた弟子たちのもとに現われてくれました。しかしこの時、イエスさまの弟子の一人、トマスがその場にいませんでした。今日の聖書箇所にはこのように記されていました。
十二弟子の一人で、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
それでほかの弟子たちはトマスに「私たちは主を見た」と言った。とあります。「私たちは復活されたイエスさまを見たよ。復活されたイエスさまに会ったよ。」と弟子たちがトマスに告げた訳です。この時トマスはこのように言いました。「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」
トマスはイエスさまが死から甦られたことを信じることができませんでした。だから実際にイエスさまが十字架に釘付けられたその釘の跡に指を入れ、またイエスさまは十字架上で脇腹を槍で刺されていましたから、その脇腹の穴に手を入れてみなければ信じない、と他の弟子たちに言いました。

他の弟子たちがイエスさまは復活されたと言って、イエスさまの復活を信じている中で、「私は信じることができない」と言うのは、すごく勇気がいることだと思います。トマスは、「信じることはできない」と、他の弟子たちに言わないで、黙っていることもできました。そしてもし黙っていれば、他の弟子たちから何も言われずに済んだでしょう。 でもトマスは、自分の心に、自分自身に嘘をつくことができませんでした。だからトマスは正直な人だったと思います。そしてトマス自身も、イエスさまの復活を信じたかったのではないでしょうか。イエスさまが大好きで、イエスさまを愛して、ずっと一緒に過ごして来ました。そのイエスさまが十字架で殺されてしまった。でも甦った。またお会いできる。こんなに嬉しいことはないからです。でも信じることができませんでした。それからしばらく時間が経ちました。このように聖書に記されていました。
八日後、弟子たちは再び家の中におり、トマスも彼らと一緒にいた。戸には鍵がかけられていたが、イエスがやって来て、彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

今度はトマスの前に、復活されたイエスさまが直接現れてくれました。ここからイエスさまは凄いな、と分かることがあります。それは、イエスさまが十字架の死から本当に甦られたということです。人間で、死から甦ることができる人はいません。イエスさまは人間でしたが、同時に神さまであったことが、この復活を通して分かります。イエスさまは凄いお方です。またイエスさまは、何でも知っているということです。始めにイエスさまが甦られた時、トマスはその場にいませんでした。そこでトマスは他の弟子たちに、「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」と言いましたが、イエスさまは、トマスがそのように語ったことを御存知だったということです。それはイエスさまがトマスが言っていたことを繰り返していることから分かります。イエスさまは何でも知っておられる凄いお方です。
そしてイエスさまは優しいお方です。イエスさまが始めに復活された時、他の弟子たちがその場に10人いました。しかし今回現れてくれたのは、トマスのためだけだったと思います。
イエスさまの復活を信じたいけど信じることができない。トマスの心の苦しみや悲しみ、もどかしさなどを知って、イエスさまはトマスだけのために現れて下さった。とても優しいお方です。

この時トマスは、「私の主、私の神よ。」とイエスさまに告げました。あなたは私の神です。もう一度、また改めて信じます。というトマスの信仰の告白でした。またこの告白には、あなたのことを愛し続けます、とか、これからも従っていきます、といった気持ちもあったと思います。
この時イエスさまは、「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」 と、トマスに告げられました。
トマスは他の弟子たちからイエスさまの復活のことを告げられた時、信じることができませんでした。イエスさまの復活を実際に見ていなかったからです。しかしイエスさまは、ご自分のことを実際に見なくても、信じることができるよ、とトマスに語りかけてくれました。そしてこのイエスさまが言われたことば、「見ないで信じる人たちは幸いです。」ということばは、今の僕たち、私たちにも語られていることばだと思います。

このヨハネの福音書を書いた、イエスさまの弟子の一人であるヨハネは、イエスさまが語られた、「見ないで信じる人たちは幸いです。」ということばの後、このように書き記しています。
このことばは今日の朝、丁度、日曜学校でお話したことばでもあります。
これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。

これらのこと-それは聖書に記されていることです。イエスさまが語られたこと、たくさんの奇蹟を行われたこと、そして十字架の死と、死からの復活などです。私たちは今、この目でイエスさまを見ることも、また会うこともできません。しかし見ないでイエスさまを信じることができます。それはイエスさまご自身が、「見ないで信じる者は幸い、幸せな人だよ。」と、今を生きる僕たち私たちにも語りかけて下さっているからです。イエスはさまは、僕たちにできないことを、決して言われません。 そしてイエスさまの両手の傷跡は、僕たち私たちのための傷跡でもあります。僕たちの悪い心-嘘を言うこと。盗んだり、悪口や陰口などで人を傷つけること。神さまなんていない、イエスなんて信じないと、えばってしまうこと、など。このような悪い心や気持ち、神さまを信じないで自分勝手に生きることなどを、聖書では罪と呼んでいます。 イエスさまは僕たち全ての人間が持っている罪を全部背負われて、十字架に架かって僕たちの代わりに死んでくれました。それは僕たち、私たちの罪を赦すためでした。そしてイエスさまを信じる者は、死んでも終わらない。その先-永遠があるよ、ということを、死から復活したことで、僕たち私たちにも知らせてくれました。また、今も教えてくれています。

今日の絵本の最後は、「わたしのて いえすさまと いつもいっしょ」で終わっています。(スライド見せる)イエスさまを見れなくても、実際に会えなくても、僕たち私たちは、聖書に書いてあること-イエスさまがお話したこと、教えてくれたことを通してイエスさまを知り、信じることができます。 そしてイエスさまを信じる人は誰でも、死から甦って今も生きておられるイエスさまと、ずっとずっと一緒にいることができます。一緒に過ごすことができます。イエスさまが聖書で約束してくれています。 僕たち私たちを愛してくれているイエスさまが、神さまが、ただイエスさまを信じるだけでずっとずっと一緒にいてくれる。それは僕たち人間にとって、一番幸せなことです。嬉しくて嬉しくて仕方がない。喜びと感謝、そして今日たくさん神さまに讃美を歌いましたが、讃美が溢れます。

このイエスさまを、「私の主、私の神」と、ここにいるみんなが信じることができますように。そのように願っています。
お祈りします
「だれのてこのて」
イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」

2026/5/3(日)「何度も、何度でも」マルコ12:1~12 庄司牧師

2026年5月3日 マルコの福音書12:1~12「何度も、何度でも」
それからイエスは、たとえで彼らに話し始められた。「ある人がぶどう園を造った。垣根を巡らし、踏み場を掘り、見張りやぐらを建て、それを農夫たちに貸して旅に出た。収穫の時になったので、ぶどう園の収穫の一部を受け取るため、農夫たちのところにしもべを遣わした。ところが、彼らはそのしもべを捕らえて打ちたたき、何も持たせないで送り返した。そこで、主人は再び別のしもべを遣わしたが、農夫たちはその頭を殴り、辱めた。また別のしもべを遣わしたが、これを殺してしまった。さらに、多くのしもべを遣わしたが、打ちたたいたり、殺したりした。しかし、主人にはもう一人、愛する息子がいた。彼は『私の息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に、息子を彼らのところに遣わした。すると、農夫たちは話し合った。『あれは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は自分たちのものになる。』そして、彼を捕らえて殺し、ぶどう園の外に投げ捨てた。ぶどう園の主人はどうするでしょうか。やって来て、農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるでしょう。あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか。『家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった。これは主がなさったこと。私たちの目には不思議なことだ。』」彼らは、このたとえ話が自分たちを指して語られたことに気づいたので、イエスを捕らえようと思ったが、群衆を恐れた。それでイエスを残して立ち去った。
イエスがたとえを用いて語られている。それが本日の聖書箇所ですが、このように始まっています。「ある人がぶどう園を造った。垣根を巡らし、踏み場を掘り、見張りやぐらを建て、それを農夫たちに貸して旅に出た。このたとえ話の設定です。「ぶどう園を作った」だけではなく、「垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て」と細かく語られています。「搾り場」とあることから、ぶどう酒を造るぶどう園です。垣や見張りのやぐらは、盗賊や動物たちからぶどう園を守るためのものです。 このたとえは旧約聖書、イザヤ書の5章がモチーフ、題材となっています。5:7節の前半をお読みします。万軍の主のぶどう畑はイスラエルの家。ユダの人は、主が喜んで植えたもの。従ってぶどう園を造った主人とは主なる神、ぶどう畑はイスラエルの家、そして植えられている木はユダ、すなわち神に特別に選ばれた、イスラエルの人々であることが分かります。神は彼らイスラエルをエジプトの奴隷状態から解放し、彼らの神となるという特別の関係、契約を結んで下さり、ご自分の民として下さいました。旧約聖書、出エジプト記に描写されています。そして彼らを約束の地に導き入れ、そこに住わせて下さいました。そのイスラエルに対する神の愛と恵みが、必要な全てが整えられているぶどう園に表されています。そして収穫の時季がやって来ました。
ぶどう園が新しく作られた場合、そこから収穫がなされ、ぶどう酒が造られ、利益をあげることができるようになるまでには、何年かの時が必要です。ですから「収穫の時になったので」というのは、その時が過ぎて、いよいよ実際にこのぶどう園から収穫、利益が見込まれるようになった時に、ということが表されています。 主なる神は、このぶどう園に表されているように、イスラエルの人々に与えた賜物や才能などが用いられ、彼らを通してぶどう園が豊かな実を結ぶことを願い、また期待していました。十分に時間を与えた上で、ぶどう園の収穫の一部を受け取るため、農夫たちのところにしもべを遣わしました。しかし彼らはそのしもべたちを受け入れませんでした。
ところが、彼らはそのしもべを捕らえて打ちたたき、何も持たせないで送り返した。そこで、主人は再び別のしもべを遣わしたが、農夫たちはその頭を殴り、辱めた。また別のしもべを遣わしたが、これを殺してしまった。さらに、多くのしもべを遣わしたが、打ちたたいたり、殺したりした。
実際にイスラエルの人々は神に反逆し、神から送られて来た預言者たちを何度も殺して来ました。民の指導者たちは民衆から搾取し、正しい裁きは行われず、他国と争い、人々は神に反逆し、偶像礼拝が頻繁に行われていました。イスラエルの民は本来であれば、全世界に神の恵み、栄光を表していく神の特別な選びの民でしたが、神が望まれた公正も正義も行わず、流血に至るような争いを繰り返して来た。それがイスラエルの歴史です。神は預言者を通してご自分の御心を彼らに知らせ、彼らが悔い改めて神に立ち返るように、多くの預言者を遣わされましたが、彼らは神の期待に応えることができませんでした。
イエスはこのたとえを、直接的には「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか」と問うた、エルサレム神殿の祭司長、律法学者、長老たちに語っておられます。先週見ました。また同時に、神に反逆して来た、イスラエルの民衆にも語られています。
このような悲惨な歴史と現実の中で、ぶどう園の主人なる神が取った最大の決意と行動が、6節に表されています。しかし、主人にはもう一人、愛する息子がいた。彼は『私の息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に、息子を彼らのところに遣わした。
主人は最後に自分の愛する息子を農夫たちの下に送られました。「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」と言って。主人のこの「愛する息子」とは、言うまでもなくイエス・キリストのことです。主人、すなわち父なる神は、「最後に」愛する息子であるイエスを送られました。最後とあるように、イエス以降、どのような預言者も、また神を指し示すような者も天から遣わされていません。
父なる神は、愛と配慮をもって最後に一人息子、イエス・キリストを送って下さいました。しかしとても残念なことですが、イスラエルの人々はこのように応答しました。すると、農夫たちは話し合った。『あれは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は自分たちのものになる。』と相談してその息子を殺し、ぶどう園の外に投げ捨ててしまいました。残酷なイエスの十字架の死が表されていますが、皮肉にも、十字架の死を遂げるイエスご自身が、このたとえを語られ、これから起ころうとしていることを預言しているということです。そしてまさに今、農夫にたとえられている宗教指導者たちが、神の愛する一人息子、イエス・キリストを殺そうとしています。今まで見て来ましたし、これからも見ていくことになりますが、彼らは多くの悪意ある質問によってイエスを捕らえ、殺そうとしてきました。またイスラエルの人々も、イエスが自分たちの期待するメシヤではないと分かった時、その態度を翻し、「十字架につけろ!」と叫び出します。 
それでは私たちはどうなのでしょうか。私たちは宗教指導者でもないし、イエスを裏切る民衆でもないからこのたとえは私たちとは関係がない、と言えるでしょうか。 農夫たちが預けられたぶどう園は、労働と収穫のために必要な全てのものが準備されていた場所でした。
このぶどう園と似ている場所があります。いや、同じかもしれません。 それは私たちが今住んでいる世界です。神は人類の始祖となるアダムとエバを創造され、全ての動植物を統治し、管理するよう命じられました。これは大文化命令とも呼ばれ、旧約聖書、創世記の1章、2章に記されています。そして神は人間が被造物をしっかりと管理できるよう、人間に必要な全てを準備、備え、整えて下さいました。人間が生きるために必要な空気、水、食物、それらを生み出す地球そのもの。また私たち人間もそうです。「神が大地の塵から人を形造り、そこに神の息吹を吹き込んで人とした。」と創世記に記されているように、人間は神に造られたものです。つまり私たちのいのちは神が造られたものであり、それゆえ、神のものであるということです。しかし人間は自分が神に造られたことも、また、神に委ねられている管理者としての使命も忘れてしまいました。自然から一方的に資源を搾取し、環境を破壊し、毎年毎年多くの動植物を絶滅させています。自分に必要な物を超えてもっともっと欲しいと貪るようになりました。つまり人間は、自然、被造物を統治するのではなく、支配、コントロールするようになってしまいました。 そして本日も宗教指導者が取り上げられていますが、彼らは貧しい人々から搾取、支配していました。しかし今の私たちの世界はもっと悲惨かもしれません。コロナ禍を経て貧富の格差は更に拡大し、世界人口の1%が、世界人口のおおよそ半分、もしくはそれ以上の富を独占しています。AIはどんどん進化し、今すでに人類の能力を超え始めています。 神のようになりたい、いや、神を超えたい。そのような願望を感じます。これは神に敵対するだけでなく、自分の能力、才能を神に誇示しようとした、バベルの塔の時の人々の姿と、何ら変わりありません。罪深い人間の姿は、創世記の時代から全く変わっていないということです。また加えて私たち人間は、性別、容姿、能力、賜物、生まれる時代、国、どのような両親の元に生まれるか。自分の名前すらも自分で決めることはできませんでした。
つまりぶどう園全てを主人が作り整えたものであったように、この世界も神が計画され、私たちが生きるために必要な全てを備え、整え、私たちに預け、委ねて下さったものであるということです。ですから私たちは、神から与えられた基本的条件の下で生きているということになります。ですから本日登場するぶどう園は、今私たちが生きている世界を表しているとも言えるのではないでしょうか。 そしてもし私たちが、このぶどう園なる世界において、何がしかの実りを生むことができるとしたら、それは基本的には神が備えて下さった条件や賜物によるものだと言えるでしょう。私たちの努力ということも勿論ありますが、努力が実を結ぶための条件を整えて下さったのは、神です。 しかし私たちも、農夫に例えられた祭司長、律法学者、長老たちや、ぶどうの木にたとえられたイスラエルの人々と同じように、ぶどう園なるこの世界を自分のものにしてしまっているように感じます。そしてそれを作り与えて下さった、本来であれば私たちの主人であるはずの神の恩を忘れ、自分が主人となって生きているような者だと思います。 このように神に敵対し、自分中心に生きている私たちは、神の独り子であるイエスを十字架につけて殺している者と、何ら変わりがないように思えます。ですからもし私たちがイエスの時代に生きていたら、宗教指導者たちや民衆と同じように、イエスを「十字架につけろ!」と叫んでいたに違いありません。そうであるならば、私たちも宗教指導者たちや民衆と同じように、神との関係を回復する道を閉ざされ、神の怒りによって滅ぼされるしかない存在ではないでしょうか。 しかしイエスは、そのような私たちに、今なおたとえを通して語りかけて下さっています。9節です。ぶどう園の主人はどうするでしょうか。やって来て、農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるでしょう。きちんと労働し、きちんと収穫を納める、別の人たちにぶどう園を与えると、イエスは語られました。しかしこのぶどう園は、以前のぶどう園とは違います。また、そのぶどう園を受け継ぐ人々も違います。イエスはそのことを、先の11節、12節でこのように語っておられます。
『家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった。これは主がなさったこと。私たちの目には不思議なことだ。』」詩篇118篇22節、23節からの引用です。「家を建てる者」とは、ユダヤ人の宗教指導者であり、石はメシヤであるイエスを指しています。本来であれば彼ら宗教指導者たちは、イエスを家の要、礎のように中心に据えて、信仰生活、人生を建て上げていくべきでした。しかし彼らはメシヤなるイエスを否定して、十字架につけて殺してしまいます。本来であれば、人間の土台の石となるべきはずのイエスを、捨ててしまった訳です。しかしイエスは死から復活され、ご自身が私たち人間において最も大切な要の石として、家の礎となって下さいました。イエスが家の要の石として、また礎として家の中心に来る。
イエスが中心になって家を支えているように、イエスが中心となって支え、統治、統べ治めている領域があります。それは今年も共に見ている、神の国です。イエスが統治されている領域、場所ですが、イエスはこの神の国を、新しいぶどう園のように、そこで実を結ぶ者たちに与えて下さいます。
従って人々に捨てられたイエスを通して、イエスの十字架と死、そこからの復活を通して、イエスは新しい霊の家、すなわち神の国を建てて下さいました。そして神の国を構成しているのは、全て、イエスを救い主として信じる人々、すなわちキリスト者です。
私たち人間にいのちを与え、いろいろな実りを生むことができるように人生を整え導いて下さる父なる神が、「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」と言って、神に反逆し、敵対し、神を無視して歩む私たちに、独り子イエス・キリストを送って下さいました。 おめでたいとも言える驚くべき信頼と、限りない愛と忍耐が表されています。イエスご自身も、十字架の苦しみを予期、予知しながら、この世界を、特に貧しい人々と共に歩んで下さいました。 父なる神の愛の計画、そしてその計画のために、イエスご自身が十字架という大きな犠牲、代償を、神を無視して自分勝手に歩む私たち人間の罪のために、支払って下さいました。その十字架の代償があり、また罪と死に打ち勝った復活を通して、イエスは神の国の基礎となる、生ける石となって下さいました。 私たちはイエスを信じていますから、私たちと神を隔てていた罪は赦され、神との関係が回復され、イエスを通してすでに神の国に入れられている、幸いな者たちです。

私たちは、イエスが十字架という犠牲を通して備え、また与え、委ねて下さった神の国と言う新しいぶどう園において、神の栄光、素晴らしさを表すべく、良い実を結んでいくことが期待されています。欠けや弱さ、色々な失敗、また不信仰に陥ることもありますが、イエスはすでに十字架の贖いを通して私たちを深く愛し、受け入れて下さっていることが分かります。そしてイエスは期待を持って、私たち一人一人を、ぶどう園であるこの世界に遣して下さっています。
私たちを新しく造り変えて下さり、また新しいぶどう園とも言える神の国に導いて下さったイエスを中心に、またイエスを信仰生活と人生の礎に据えて、今も生きておられるイエスと共に、歩んで行きたいと願います。
祈ります。
「私たちの体を、神に喜ばれる、聖なる生きた献げ物として、献げることができますように。」
「何度も、何度でも」
しかし、主人にはもう一人、愛する息子がいた。彼は『私の息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に、息子を彼らのところに遣わした。

2026/4/25(日)「悔い改めに進ませるために」マルコ11:27~33 庄司牧師

2026年4月26日 マルコの福音書11:27~33「悔い改めに進ませるために」     
彼らは再びエルサレムに来た。イエスが宮の中を歩いておられると、祭司長たち、律法学者たち、長老たちがやって来て、こう言った。「何の権威によって、これらのことをしているのですか。だれがあなたに、これらのことをする権威を授けたのですか。」イエスは彼らに言われた。「わたしも一言尋ねましょう。それに答えなさい。そうしたら、何の権威によってこれらのことをしているのか、わたしも言いましょう。ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、それとも人から出たのですか。わたしに答えなさい。」すると、彼らは論じ合った。「もし、天から来たと言えば、それならなぜ、ヨハネを信じなかったのかと言うだろう。だが、人から出たと言えば──。」彼らは群衆を恐れていた。人々がみな、ヨハネは確かに預言者だと思っていたからである。そこで、彼らはイエスに、「分かりません」と答えた。するとイエスは彼らに言われた。「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに言いません。」 (マルコの福音書 11:27-33 SKY17)         
イエスのエルサレム入城、宮きよめ、イエスのことばだけでいちじくの木が枯れる、といった出来事を見て来ました。その後、イエスは再びエルサレムに入られました。イエスがエルサレム神殿の中を歩いていると、イエスの敵対者たちである、祭司長たち、律法学者たち、長老たちがやって来ました。この当時のイスラエルは政治と宗教が一体となっていましたから、宗教指導者イコール国家の指導者です。その彼らが、エルサレム神殿を管理、統治していました。しかしその神殿の中で、田舎のガリラヤから出てきた若者が人々に教え、人々が彼を称賛している。加えて自分たちエリートであり支配者を、偽善者と呼び、叱責、批判して来る。そんなイエスに歯ぎしりしている宗教指導者たちの、悪意あるイエスへの問い、それが本日の背景です。

彼らはこのようにイエスに尋ねました。「何の権威によって、これらのことをしているのですか。だれがあなたに、これらのことをする権威を授けたのですか。」「これら」とはイエスがなされた宮きよめを指していると思われます。また「だれが」という言葉の裏には、神殿の管理を委ねられている自分たち以外に、誰もこのような権威は与えられていはいはずだ、と、自負と怒りが込められているのを感じます。 イエスがその問いに対して、もし自分の権威が「神からだ」言えば、神殿の庭で騒ぎを起こすような権威を神が誰にもお与えになるはずはないと、彼らはイエスを糾弾できたでしょう。またもしイエスが神を父と呼び、自分は神の子としての権威が与えられていると言えば、彼らはイエスをただの人間と見なしていましたから、イエスが神を冒涜しているとして捕らえることができたでしょう。いずれにせよ、この問いはただイエスを捕らえるための罠でした。
イエスは彼らの意図も、また、真理や神のことを求めている訳でもないことも見抜いた上で、彼らの問いに直接答えず、逆に問い返しました。始め彼らがイエスに問うた時は、イエスを窮地に追いやるものであったため、彼らは優位な立場にいました。しかしイエスから逆に問われたことによって立場が逆転します。ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、それとも人から出たのですか。わたしに答えなさい。」彼らはこの問いによって逆に追い詰められてしまいます。バプテスマのヨハネは、イエスが人々に福音を宣べ伝え始める前に現われ、荒れ野で教え、人々の罪を厳しく指摘し、悔い改めを求めました。神に立ち返りなさい!多くの人々がヨハネが神によって遣わされた預言者だと信じ、ヨハネが語ることばは神からのもの、神からのメッセージであることを信じて洗礼を受けました。実際にヨハネの到来と働きは、すでに旧約聖書のイザヤ書やマラキ書などに預言されていました。従ってヨハネの登場と働きは、旧約聖書の預言が成就、実現したことの証でした。またバプテスマのヨハネは、人々の目をイエスの方へと向ける先駆者、イエスの道備えをする使命を持っていた人でもありました。ヨハネはイエスと同じように、宗教指導者たちに正面切って彼らの行いや信仰を批判し、悔い改めを迫りました。また神殿の祭儀を重んじず、民の指導者たちにも従いませんでした。よって宗教指導者たちにとってヨハネは憎むべき者であり、敵でした。しかしイエスはこのヨハネを指して、彼の働きは何の権威によるものだったのか。天から、つまり神からの権威によるのか。それとも人から、つまりヨハネが勝手にしていたことで、本当は何も権威がなかったのか。彼らに問い詰められました。もし彼らがヨハネを「天から」と認めれば、ヨハネはイエスの先駆者ですから、イエスも神からのメシヤであることを認めることになってしまいます。彼らはヨハネもイエスも信じていませんでした。信じたくもなかった訳ですから、このように答えることは絶対に避けたい。 しかしもう一つの答えも彼らを窮地に追い込み、身の危険が及ぶと予測できる答えとなります。だが、人から出たと言えば──。」彼らは群衆を恐れていた。人々がみな、ヨハネは確かに預言者だと思っていたからである。多くの人々が、ヨハネを神から遣わされた預言者だと信じ、悔い改めのしるしの洗礼を、彼から受けていました。またヨハネはヘロデ王を批判して投獄され、獄中で首を切られました。そのこともまた、権力に屈することなく正しい主張をして殉教した預言者として、人々からさらに尊敬を集めることになりました。 そのような人々の前で、「ヨハネの洗礼など人間の勝手な業で神とは関係がない。ヨハネはただの偽預言者だ。」などと言えば、群衆の怒りを買い、殺されてしまうか、または例え殺されなかったとしても、人々の支持を失うことになるのは、目に見えています。 そこで彼らはイエスに、「分かりません」と答えました。そう答える他無かった訳です。宗教指導者たちは、ただ、群衆の顔、評価を恐れました。

しかしこの「分からない」という答えは、彼ら宗教指導者たちの責任でもある、預言者の真偽判断の義務を放棄したことになります。彼らは預言者が真実を告げているのか、あるいは偽りを語っているのかを見極め、審判する重大な義務がありました。この義務は、律法(トーラー)の教えを守り、ユダヤ教の信仰の正統性を維持するために、不可欠な役割でした。イエスから問われていたバプテスマのヨハネも一預言者ですから、彼らはそれが天から、つまり神から遣わされた本当の預言者であるのか、それとも人から、つまり偽預言者であるのかを判断し、審判する重大な義務がありましたが、それを怠ったことになります。それはただ、自分たちの権威を保ち、自分たちの身を守るためでした。 彼らは神の前においても、また人の前においても、忠実でも誠実でもありませんでした。 従って「分かりません。」と言う答えは、最悪な答えだったと言うことになります。加えて彼らの答えは嘘でもありました。 彼ら自身が自ら証言しています。それは、「ヨハネは天から来たのか、それとも人から出たのか。」というイエスの問いに対して、「もし、天から来たと言えば、それならなぜ、ヨハネを信じなかったのかと言うだろう。」という受け答えに表されています。彼らはイエスの答えを予測しています。イエスがヨハネを信じることを彼らに願っているということです。 彼らはイエスの思いも願いも意図も知っていたということです。また彼らはヨハネだけでなく、イエスも、神から遣わされて来たということが事実であると、旧約聖書の預言から知ることができました。彼らは旧約聖書のエキスパートですから、旧約聖書にヨハネと、またメシヤ、救い主なるイエスのことも預言されていることが分かるはずでした。そして実際にその預言が二人において成就、実現していることも分かる、理解することが出来たはずでした。 彼らは事実を知っていながら、ただ、その事実を認めたくなかったのです。ですから彼らはイエスの問いに対して、「ヨハネが天から来たことを認めたくもないし、信じたくありません」と答えるべきでした。それを「分かりません」と答え、自分たちの権力を守りました。嘘をついてまで守り通そうとしました。彼らの嘘と保身、権威への執着、そして権威から生まれる経済的利益や名誉などの貪りが見られます。彼らの人生も生活も、自分が中心であり、自分が王座に座っていました。 
しかし宮きよめに見られるように、そこにイエスがどかどかと入って来て、ご自分の思いのままにされました。彼ら宗教指導者たちは、自分たちの権威、自分たちの場所、自分たちの領域が犯されたと思って不満を持ち、怒りました。
しかしそれは、彼ら宗教指導者たちだけに限りません。現代を生きる私たちにも、私たちの人生にも、私たちの生活にも、私たちの心にも、時にイエスはどかどかと入って来られます。 神であるイエスが、私たちの全く知らなかった権威を持って、私たちの内に踏み込んで来られます。イエスが踏み込んで来られるまでは、ここは自分の世界、自分の心の領域、自分の生活の領域だと思っていました。自分の好きにしてよい場所、自分の思い通りにできる能力や賜物、財産、人間関係。自分が王座に座り、誰にも干渉されず、心地よい世界。そして自分の信じていることが絶対に正しい。自分の生き方が一番素晴らしいと思う。 しかしそこにイエスがどかどかと入って来られる。
イエスが聖書を通し、祈りを通して私たちの内に踏み込んで来られる。
その時、「困る」とか、「煩わしい」とか、反発したくなる気持ちになります。しかしこのような困惑は、私たち信仰者が体験しなくてはならない、大切なことです。つまり信仰を持つということは、自分の物、自分の自由と思っていることがそうではない。実は全てイエスの権威の下に置かれていると認めていくことです。自分が今まで治めて来たと思っていた場所が、領域が、そして自分自身が、本当に生かされて行くことできる権威は自分の内にではなく、主の下にあるということを認めていく。そしてそれを喜んでいく。家庭において、これまで自分勝手に、思い通りに振舞ってきた人。「私は主人だ、家族は自分のルールに従うべきだ。それが幸せだ。」と思っていた人が、イエスに出会って、今度はイエスのルールに自分も家族も委ねていくことを喜ぶ者に変えられて行く。イエスの権威を認め、受け入れ、その権威に従っていく。これが信仰ではないでしょうか。

そしてこの信仰には、謙遜さが伴わないといけないものです。自分の心の中にイエスを迎え入れ、自分がずっと座ってきた王座を降りる。これはイエスを信じて自分を明け渡す信仰と、自ら王座を降りる謙遜さがなければできません。 また勇気もいることです。なぜなら私たちは自分が信じて来た選択と結果の積み重ねによって、今の自分が成り立っているからです。
自分の価値観。自分の優先順位。自分の計画。それが一番だと信じて歩んで来ました。その積み重ねて来た自分が、イエスを信じることによって崩れ去るかもしれません。それは自分を、自分の人生を揺るがす、自分のアイデンティティーが揺さぶられる、大きな出来事です。だから勇気も要ります。 そこから逃げることもできます。 それが宗教指導者たちでした。
しかしそれは、今を生きる私たちも同じです。聖書はいいね、教会もいいね、そしてクリスチャンも素晴らしいね。と言っている人々が、真実にイエスの言われたこと、聖書に記されていることに向き合おうとしないことがあります。そのような人が、「私はどんな宗教も信じない。」と言うかも知れません。「キリスト教は外国の宗教だから自分には関係がない」とも言うかもしれません。
しかしそれはただの言い訳であり、その根底には恐れがあるように思えます。もし本気で聖書を読み、イエスに出会い、真理を知るようになれば、自分が積み重ねて来たものを手放さなければならないのでないか。自分が正しいと信じてきた全てが崩れ去れるのではないか。それでは今まで積み重ねて来た自分はいったいどうなってしまうのだろう。「私は」どうなってしまうのだろう。
嫌だ、私はずっと自分の世界に、自分の価値観に、自分の人生に、その中心に自分の王座を置き、そこにずっとずっと座っていたい。
これが罪です。 罪とは言い換えれば、神を排して、神を脇に置いて、自分自身が自分の王座に居続けること。座り続けることではないでしょうか。自分たちの成すべきことを放棄し、嘘をついてまで権力を守り通した宗教指導者たちは、まさに罪ある人間の姿でした。 しかし神であるイエスを、そして神のことばである聖書を無視し、自分の王座に座り続ける、今を生きる私たちも、何ら変わることはありません。同じだと思います。 イエスは最後に、彼らがわざと知らないと偽っていることを示されるために、「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに言いません。」と言われました。そのように言うことによって、彼らにもう一度考える機会、悔い改めるチャンスを与えたのだと思います。宗教指導者たちが、イエスが言われたことを思い巡らし、旧約の預言がイエスによって成就、実現していることを事実として認め、自分の驕り高ぶりを捨て、権威を手放し、イエスを神と認め、イエスの前に謙り、そのような自分の罪を捨て、悔い改めて救われる機会を与えた、と言うことができるのではないでしょうか。

私たちも同じです。地域において、社会において、人間関係において、自分の生活において、自分の価値観、歩み、信じて築き上げてきた全てのものにおいて。それらを手放し、イエスの権威に従うことができるかどうか。「イエス様、分かりました。これまで私はこの場所が、自分の領域が、自分の思いのままになると思っていました。しかし全てを統治されておられるのは真の王、イエス様、あなたなのですね。」 イエスの権威に従う者は、そこから始まる自由があり、解放があります。宗教指導者たちが手放すことが出来なかった権威、自分の王座。そこに執着する時、私たちも同じように自分で、自分の力だけで生きて行かなければならなくなります。そのような人生は神から離れた罪ある人生であり、苦しいものです。加えてその先には、神からの永遠の断絶、すなわち滅びが待っています。しかし自分の権威や、主張したくなる自分の主権、自分の王座を捨ててイエスに明け渡して行く者たちにもたらされるもの、それは救いです。イエスを信じ、イエスの権威に従うと決心して救いを受けた者には自由と喜び、感謝が溢れます。それはイエスが愛を持って私たちの王座の中心に座って下さり、私たちを最善の人生へと導いて下さることを、経験していくことができるからです。イエスは私たちが悔い改めて、その自由と喜びを私たちに味わって欲しいと忍耐を持って願っておられます。 イエスの忍耐と期待に、私たち一人一人が応答できますように。
お祈りします。
「悔い改めに進ませるために」
主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。Ⅱペテロ3:9

2026/4/19(日)「神にはできる」マルコ11:20~25 庄司牧師

2026年4月19日 マルコの福音書11:20~25「神にはできる」
さて、朝早く、彼らが通りがかりにいちじくの木を見ると、それは根元から枯れていた。ペテロは思い出して、イエスに言った。「先生、ご覧ください。あなたがのろわれた、いちじくの木が枯れています。」イエスは弟子たちに答えられた。「神を信じなさい。まことに、あなたがたに言います。この山に向かい、『立ち上がって、海に入れ』と言い、心の中で疑わずに、自分の言ったとおりになると信じる者には、そのとおりになります。ですから、あなたがたに言います。あなたがたが祈り求めるものは何でも、すでに得たと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。また、祈るために立ち上がるとき、だれかに対し恨んでいることがあるなら、赦しなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの過ちを赦してくださいます。」 
少し前回のお話を振り返りたいと思います。イエスがエルサレムに入城した翌日の月曜日に、 このようなことがありました。マルコの福音書11:12~14 翌日、彼らがベタニアを出たとき、イエスは空腹を覚えられた。葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、その木に何かあるかどうか見に行かれたが、そこに来てみると、葉のほかには何も見つからなかった。いちじくのなる季節ではなかったからである。するとイエスは、その木に向かって言われた。「今後いつまでも、だれもおまえの実を食べることがないように。」弟子たちはこれを聞いていた。この後すぐに続いた出来事が「宮きよめ」でした。そして本日の聖書箇所は、宮きよめの次の日に起きた出来事です。本日の聖書箇所に示されていることをまとめるならば、「神の偉大さと、その偉大な神に対する真実な信仰の大切さ」だと思います。そのことを心に留めつつ、共に見て行きたいと思います。
いちじくが枯れているのを見たペテロは、「今後いつまでも、だれもおまえの実を食べることがないように。」とイエスがいちじくに命じられたことを、イエスがいちじくを呪ったと表現しました。 イエスが命じられただけで枯れたことから、それは奇蹟、負の奇蹟と呼べるかもしれません。
イスラエルのいちじくは、一般的に一年に2回実をつけます。始めになる初なりの実はパーグと呼ばれ、過越の祭りの時期である4月頃に実がなります。前の年に伸びた枝につく小さな実で、葉が出るのとほぼ同時に現れ、あまり甘くはありませんが食用にできます。それに対して2回目になる実はエテナと呼ばれ、その年に新しく伸びた枝につく、甘くて大きな実です。イエスがいちじくを呪われたのは、十字架にかかる過ぎ越しの祭りの頃の4月頃で、本日の聖書箇所の季節と一致しています。従ってこのいちじくの実は「パーグ」がなっているはずでしたが見当たりませんでした。13節においてはこのいちじくが、「葉が茂った」と描写されています。葉が豊かにあったこのいちじくの木は、表面は、見た目は立派でした。しかし実がないということは、その木にとっては中身がないのと同じことです。 見た目が立派で中身が伴わないもの。それと似た出来事が、イエスがエルサレム神殿を清められた、「宮きよめ」です。 イエスがエルサレムの神殿の境内に入られ、そこで行われていることを見た時、売り買いしていた人々を追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返されました。イエスはこの時彼らを、強盗の巣だと言われたほどに怒られた出来事です。そこで礼拝していた人々は、見た目は神に対して信仰深く見えました。生贄の犠牲を供え、神殿にもきちんと献金をしていました。 しかし商人たちは神殿で商売をすることによって異邦人、すなわちユダヤ人以外の礼拝を邪魔し、貧しいユダヤの人々から高い手数料を取っていました。そして神殿を管理し、神への礼拝を取り次ぐ者であった祭司長たちや律法学者たちは、その商人に神殿で商売することを許可し、儲けの一部を、それもかなりのものを自分たちのものとしていました。彼らは貧しい人たちに無関心でした。またユダヤの巡礼者も、簡単に生贄を手に入れることができるということで、神殿で売られていた動物の生贄を、気軽に買い求めていました。見た目は立派で実のなっていないいちじくの木は、同じく見た目は敬虔で、信仰深く見せている人々の中身がない。すなわち神への信仰、礼拝、信頼よりも、ただ儀式だけを優先させ、心も中身も伴っていない人々と同じでした。またイエスはこの時、ご自身が神殿の主、礼拝されるべき神であることを、旧約聖書のイザヤ書から引用され、そこに預言されている救い主は自分のことであるという、言わば神宣言をなされました。しかし人々は自分たちの商売、利益を優先し、目の前の救い主、メシアであるイエスを受け入れませんでした。よってイエスがいちじくの木を枯らした目的は、実質的な信仰を持たない、すなわち信仰の実を結んでいない人々、すなわちイスラエルの一般の人々や、宗教指導者たちへの裁きと警告を、視聴覚教材として弟子たちに見せられた、ということです。イエスは命じただけで枯れてしまったいちじくを指して、「神を信じなさい」と言われました。「神を信じなさい」とは、直接的にはイエスの弟子たちに語られたことばです。色々な思惑はあったにせよ、彼らは既に全財産を捨てて、イエスに従うほどの信仰を持っていました。その彼らに、イエスはさらに神への真実な信仰を求めたと言えます。従って神を信じる私たちの態度も、真実で偽りのない信仰を持つことが、イエスから求められていると思います。 
そしてイエスは本日の聖書箇所の中で、信仰の対象である神の主権、偉大な力を、23節から25節で強調されています。またここには、神の偉大な力と共に、その神を信じる私たちの信仰との関係、関わりが教えられています。まことに、あなたがたに言います。この山に向かい、『立ち上がって、海に入れ』と言い、心の中で疑わずに、自分の言ったとおりになると信じる者には、そのとおりになります。ですから、あなたがたに言います。あなたがたが祈り求めるものは何でも、すでに得たと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。この箇所を指して、「山をも動かす信仰」と表現されることがあります。私たちが大きな信仰、揺るがない信仰を持つべきだということが言われていますが、このことばが意味すること、また焦点を当てているのは、神を信じる人間の側です。つまり「山をも動かす信仰」と言われるこの箇所の主体は、信じる人間の側です。
しかしイエスがここでフォーカス、焦点を当てておられるのは神の側です。『立ち上がって、海に入れ』とあります。神は天地万物を創造された時、光すら、命じるだけで造られました。 たった一言で地球の動物や植物、私たち人間はおろか、全宇宙を創造された神ですから、山を動かすことなど何の造作も要らず、何の難しいこともありません。また神はそのような創造を、御自身のご計画として一方的に実現されました。 従って神は偉大であり不可能なことはない、そして神は全てのものや全ての事に対して主権を持っておられる、と言うことが23節から25節にかけて描写されています。この神が偉大であり、全てのことに対して主権を持っておられるということを前提に、そして根拠に、私たちは全能の神を信頼して、祈り求めることができます。全ての物事の主体、そして主権は被造物である私たち人間ではなく、神にあることをいつも忘れてはいけません。
従って「心の中で疑わずに、自分の言ったとおりになると信じる者には、そのとおりになります。」とイエスが言われたことを、私たちの信心の力が不可能を可能にする要因であるかのように、誤解してはいけないと言うことです。つまり不可能を可能にするのは、私たちの信仰以前に、創造主である神であり、神ご自身のみわざであるということです。そして「信仰」は、その全能の神と、神の御業を私たちに結びつける接点のようなものです。 また主体が人間の側にあるように思える「信仰」それ自体も、私たちの中から生まれる、何らかの功績のようなものではなく、神ご自身からの賜物、ギフトであることが聖書に記されています。 ですから私たちは神の偉大さに心を留め、その偉大な神が全てにおいて主権を持っておられることを受け止め、信頼し、謙虚に祈り求めることが大切ではないでしょうか。ヨハネの手紙第一5:14,15節にこのようなみ言葉があります。何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。私たちが願うことは何でも神が聞いてくださると分かるなら、私たちは、神に願い求めたことをすでに手にしていると分かります。御心に従って願うなら、神は聞いて下さると記されています。ですから私たちが神に祈り、願い、求める時、それがただの欲望や自分中心ではなく、神の御心であるかどうか。神の主権を心に留めているかどうか。神の素晴らしさ、栄光が表されることであるのかどうか。また神が喜ばれることなのかどうか。そのようなことをいつも心に留め、祈り求めて行く必要があると思います。1990年代後半、韓国のクリスチャンの青年たちが、聖書にある「ヨルダン川の奇跡(ヨシュア記)の出来事」を文字通り信じ、「自分も同じような信仰を持てば、神が川を止めてくださる」と考え、増水していたヨルダン川に入りました。しかし水は止まることなく、何人かの青年が激流に流されて溺死しました。痛ましい事故ですが、ここに二つの問題が示されています。一つ目は聖書の文脈の無視です。ヨシュア記に記されている奇跡は、神がイスラエルという「民族」に対して与えられたものであり、歴史的約束に基づくもの、それも一回限りの出来事です。それが現代を生きる自分たちにも起こるという、聖書解釈の問題がありました。また聖書には「あなたの神である主を試みてはならない」という警告があります。自然の摂理を無視して超自然的な力を期待する行為は信仰ではなく、神を試す行為であり、自分の信仰の誇示、誇るという高慢にも繋がります。「聖書の記述をどのように解釈し、現代の生活に適用すべきか」と考えさせる事故でした。偉大な神を恐れかしこむ。畏怖の念を持って祈り求めていく。同時に先週見ましたが、神を私たちの天の父として、親しみと尊敬を持って祈り求めていく。そしてそれが御心に適う願いであれば、神は全能の力をもってその祈りを叶えて下さる。もし祈りが聞かれないということであれば、それは御心に適っていないか、ベストのタイミングではない。または私たちがこの世における生涯、人生が終わるまでは分からない、ということもあるでしょう。 全ての出来事における主体は神であり、主権も神にある。ということをいつも心に留めつつ、祈り求める必要があると思います。そしてイエスはこの文脈においては唐突に感じられることを語られました。また、祈るために立ち上がるとき、だれかに対し恨んでいることがあるなら、赦しなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの過ちを赦してくださいます。」 本日の聖書箇所は、「神の偉大さと、その偉大な神に対する真実な信仰の大切さ」が示されています。そのことは、ここでイエスが語られた赦しについても同じです。 見せかけの信仰を持っている人々がいました。彼らは神殿で動物の生贄を捧げ、献金もしていました。 彼らが生贄を神に捧げたのは、自分たちの罪を神に赦してもらうことが目的でしたから、彼らの願いの中心は「赦し」でした。しかし彼らは「これだけ捧げているのだから、私の罪は赦されるだろう。これだけ多く捧げたのだから、神は私の願いを叶えてくれるに違いない。」「神は私の罪を見逃し、私に裁きが及ぶことはない。」神の主権、神の恵みから出発するのではなく、自分の行い、自分の思い、願望から出発する姿です。ですから隣人を憎んだり、異邦人を見下すということがあっても、生贄さえ捧げていれば良い、献金をしていれば大丈夫だという思いがありました。 彼らの思いは神の慈しみや恵み、神の愛や赦しとは程遠いものでした。 そのような思いを抱いている人々にイエスは、神からの罪の赦しを得たいと思うなら、真心の伴わないいけにえをささげることよりも、先ず、隣人との和解を目指すべきだと言われました。神との和解、つまり罪の赦しと、隣人との和解は切っても切り離せない関係にあるからです。それはイエスが旧約聖書に記されている律法を二つにまとめられた内容からも明らかです。大切な一つ目は、神を全力をもって愛すること、でした。そして二つ目に大切なことは、自分を愛するように隣人も愛する、ということでした。 従ってイエスに叱責された見せかけの信仰を持っていた彼らの生贄は、神に受け入れられるものではなかったことが分かります。 今イエスの公生涯の最後の1週間を見ています。イエスがエルサレムに、人々の歓喜と期待と共に入られました。しかし彼らがイエスに願ったのはただ、ローマの支配から解放してくれることだけでした。それが叶えられないと分かってからは、十字架につけろと叫ぶ暴徒に変身します。 加えて彼らは真の神を忘れ、自分の商売、自分の利益を神殿での礼拝よりも優先させました。神からの罪の赦しですら、犠牲を捧げれば大丈夫という、言わば物を使って神と取り引きをし、また自分の行いに満足するような者たちでした。 それは今も、現代を生きる私たちも同じではないでしょうか。自己中心に生き、神を無視し、神に敵対して歩んでいます。また自分の良い行いによって満足しているような者たちでもります。 貪欲に支配され、強盗の巣になってしまっているのは、神の選びの民、イスラエルだけではなく、現代を生きる私たち一人一人でもあると思います。全ての人類は、神の民として、神を礼拝する者として創造されましたが、罪によって堕落してしまいました。本来であれば、神の怒りと裁きを受けて、このいちじくの木のように呪われ、滅ぼされてしまうしかない者です。しかしイエスは私たちに向けられていた神の怒りと裁きを、私たちに代って引き受け、背負われ、十字架の死への道を歩んで下さいました。それは私たち全人類の罪のためでした。 旧約聖書に、木にかけられた者は神に呪われた者である、と記されています。まさにあのいちじくの木のように私たちの罪の代わりに罪そのものとなって神に呪われ、枯れてしまったのは、神の独り子イエス・キリストご自身でした。この罪の身代わりの十字架は、いちじくの木が命じられただけで枯れてしまった奇蹟、天地万物の創造の奇蹟を超え、どのような奇蹟ですら及ばないものです。それは神ご自身が、罪ある人間のためにご自分を捨てるという、愛の奇蹟だからです。この十字架の愛の奇蹟を知り、また経験する時、イエスが、すなわち神がどれだけ深く私たちを愛しておられるかが分かります。そしてその愛を受けて、本来であれば赦せないような人を赦すことが出来る時、または例え赦すことができなくとも、その人を赦していけるように願い、祈って行く時、天の父も私たちの罪を赦して下さいます。私たちが自分を傷つける人を赦し、また、欠けや弱さを持っている自分自身も赦される。その赦しも、一つの奇蹟ではないでしょうか。私たちにとって奇蹟に思えること、奇蹟に映ることも神には、天の父には何でもできる。 「神にはできる」という真実な信仰と期待を持って、私たちの必要を、また願いを、私たちの天の父にいつも祈り求めていきたいと思います。
祈ります 「神にはできる」 イエスは弟子たちに答えられた。「神を信じなさい。」

2026/4/12(日)「聖霊の働きをどのように受けることができますか?」ルカ:11:9,13

2026年4月12日 問40 あなたは聖霊のはたらきをどのようにして受けることができますか。聖霊の働きをどのように受けることができますか? 招詞 箴言8:17
答 それは、私たちが聖霊を与えてくださいと祈り求めることによってです。                             
本日の聖書箇所は、祈りと聖霊の関係が記されています。聖霊とは、父なる神、子なるイエス・キリストと並ぶ、三位一体の第三の位格である神ご自身です。また、父と子と聖霊は一つの神です。三位一体の神は、私たち人間が理性的に、また完全に納得して理解することのできない神の深さ、豊かさを表していると言えます。 聖霊は霊ですから形はなく、風や息のように目に見えずに働かれます。また「助け主」や「慰め主」とも呼ばれ、神、すなわちイエスを信じる全ての人々に内住、内に住んで下さり、正しい道へと導く役割を果たします。
それではこれから、本日の聖書箇所の9節と13節を含む、イエスが一連の譬えで語っておられる5節から13節を見てみたいと思いますが、交読、交互に読みたいと思います。私が奇数節、皆さんは偶数節、そして最後の13節は一緒に読みましょう。ルカの福音書11:5~13
当時の旅行は徒歩でした。昼の暑さを避けて、夕方から夜にかけて旅をすることがあったため、旅人が夜中に友人宅に到着することがあったようです。また当時の旅行は空腹や渇きによって倒れたり、盗賊などに出会うこともあり、命がけでした。ですから旅人に食べ物を与えるというのは、歓迎してごちそうすると言うよりも、その人の命を助けるという意味を持っていたようです。しかしながら真夜中に、友人の友人にパンを貸してくれと頼まれても、面倒であり、迷惑な話です。しかししつこく頼めば、必要なものが与えられるだろうと、イエスは譬えを通して語られました。そしてイエスは11節から13節において、仕方なく友人にパンを与えた人の態度と、天の父が求める人に必要なものを与える態度の決定的な違いを、親と子の関係から語られました。 そのことをイエスは11、12節において、子どもが魚を求めているのに、魚の代わりに蛇を与えるような父親がいるでしょうか。卵を求めているのに、サソリを与えるような父親がいるでしょうか。と、言われました。親であれば、魚を欲しがる子供に蛇を与えたり、卵を欲しがるのにさそりを与えたりはしない。子どもに対して恐ろしいもの、害を与えるような親はいないと言われました。イエスは続けて13節において、「あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っています。」と言われました。「あなたがたは悪い者であっても」というのは、罪があり、欠けが多く、弱さをかかえているあなたがた人間は、ということです。確かに私たちは、神をないがしろにし、隣人を自分の利害なしに本当に愛することできない罪人です。しかしそんな私たちですら自分の子どもは愛しており、精一杯自分なりに良い物を与えようとします。
そして13節が注目すべきところです。「それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。」これこそがイエスが言おうとしておられることです。つまりイエスは、欠けのある人間の親でさえ子どもに対する愛を持ち、子どもに良い物を与えようとする。しかしそれよりもはるかに大きく深く広い愛を持っておられる天の父は、ご自分に求める者たちに最高で、最善の物を与えて下さる。それが聖霊だ!ということです。私たち人間は、たとえ友人であっても、損得勘定や利害関係などによって動くような者です。それが、「悪い者である」とイエスが言われる私たちの姿ではないでしょうか。しかしながら悪い者である人間であっても、親は子に、その求める物をできるだけ与える。しかし天の父は、不純な動機や損得勘定などによってではなく、またいやいやながらでもなく、喜んで、求める者に良い物を与えて下さるのだ、と、イエスはここで強調されています。そして注目すべき13節において最も大切なことは、「天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」と言われていることです。                 聖霊を与えてくださるとはどういうことでしょうか。聖霊が与えられることによって私たちはどうなるのでしょうか。そのことが新約聖書、ローマ人への手紙の第8章14、15節に記されています。神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。御霊、即ち聖霊は私たちを「神の子」にして下さるということです。そして私たちは父なる神を自分の霊的な親として、「アバ、父-すなわち、お父ちゃん」と親しく呼びかけ、祈る者とされることができる、また、すでにそのような者にされているということがここに表されています。 聖霊は、イエスを信じる私たちを、救い主イエス・キリストと結びつけ、それによって私たちを神の子とし、神に向かって「父よ」と呼びかけて祈る者として下さるということです。聖霊こそ、神が私たちに与えて下さる最も良いものであり、良いものの中心です。それは神と人間の絆を生み出し、天の父が私たちのお父さんになって下さるということです。 この親子関係以上の関係をもって、私たちは天の父が必要なもの、最も良いものを与えて下さると信頼して祈り求めることができます。天の父に信頼して祈る態度をイエスは10節で、「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれでも、求める者は手に入れ、探す者は見出し、たたく者には開かれます。」という態度として表されました。また、この時制は現在進行形になっています。すなわち、求め続けなさい。探し続けなさい。たたき続けなさい。と、天の父を信じて祈り求める私たち信仰者のあり方をイエスは示され、また励ましておられます。 また、私たちに人間においても、子どもを本当に愛している親は、今この子に何が必要であるかを考え、必要なものを必要な時に与えようとします。子どもが求めても、今は与えるべきでない、今はその時でないと考えれば、「だめ」と言います。我慢させます。子どもは、自分の願いを聞いてくれないことで親を恨んだりすることもあるかもしれませんが、それは子どもの最善を考え、願っているからです。私たち罪ある人間の親子関係においてさえそういうことであるならば、天の父、まことの父となって下さる神は私たちに、本当に必要なものを、必要な時に与えて下さいます。しかし自分の願い通りに求めているものが与えられず、苦しまなければならないときでも、聖霊はそれが神のみ旨であり、最善であると理解させ、忍耐して待ち望む力も与えて下さいます。                                     また聖霊は私たち人間を滅びから救って下さる働きをして下さいます。神に反逆し、神から離れ、罪を犯してしまった人間の行く先は滅びであると聖書に記されています。神との永遠の別離です。イエスを主と告白する-すなわちイエスが、自分が信じて従っていく神であるという決心であり告白は、聖霊の助け、力がなければ、罪ある人間にはできない、と言うことを前回見ました。救いはイエス・キリストにしかないと聖書に記されていますから、聖霊が人間を滅びから救って下さる働きをされておられるのが分かります。そしてこの滅びから救われた者は、天の父なる神がその人の父となり、神の子となる身分が与えられる。イエスを信じ、罪赦され救われた一人一人が神の子であるという証印、印、保証になって下さるのも聖霊であると、聖書に記され、また約束されています。日々神の御心を知り、悟るためにどうしても必要な聖書の理解も、聖霊が助けて下さいます。 さらに私たちがイエスの体である教会に繋がり、イエスを目指して成長していくことができるための助け、力も聖霊が与えて下さいます。すなわち聖霊とは、私たちが罪から救われる上で最も大切な働きをして下さり、また、神を信じる一人一人がイエスの体である教会に繋がり、イエスを目指して成長していくことができるよう、日々の歩みを支え、助けて下さる存在でもあります。私たちは聖霊を通して神の子とされ、父となって下さった父なる神に信頼し、必要なものを祈り求めることが出来ます。それは罪を犯す前に持っていた、神と人間との麗しい関係が回復されているからこそ、できることでもあります。 神は人間をご自身のかたちに似せて創造されました。(知情意、善悪を判断、三位一体の交わりに生きる-他者と生きる人間も同じ、芸術のような美的センス、創造性など)神と人間は完全な愛と調和を持っていました。しかし人類の祖先であるアダムとエバが罪を犯し、その罪から死が入り、全人類に広がったと聖書は記しています。以前召天者記念礼拝でお話したと思いますが、人間が死を恐れるのは、死が不自然だからだと思います。死が、食べることや眠ることのように人間にとって自然なものであるならば、人間が死を恐れることはないはずだからです。しかし人間は死を恐れる。死が本来人間になかったものであり、不自然なものである。罪から死が入り、全人類に広がったということが真実であり、また聖書が正しいことを、皮肉にも全人類が身をもって証明しているのではないでしょうか。しかしキリスト者、クリスチャンはあまり死を恐れません。それは信仰によって滅びから救われていると確信していることもありますが、死の原因となっている罪の解決が神によってなされていることが本能的に、また霊的に分かり、平安が与えられているからだと思います。そのように死に対しての恐れを取り除き、平安を与えるのも聖霊の働きであると言えます。このように私たち人間が最も必要なもの、必要なことが聖霊と聖霊の働きにあるということです。罪によって神と断絶し、滅びに向かっている私たちの罪が赦され、神との関係を回復させて頂けるのはまさに聖霊の働きです。イエスを信じる私たちは、聖霊を通して神の子とされ、天の父をお父ちゃんと呼べる関係にして頂けました。この素晴らしい聖霊、神ご自身が、イエスを信じる全ての人に与えられる。このような大きな恵みが他にあるでしょうか!? 神の子とされていることを感謝しつつ、日々大胆に、時にしつこく、聖霊を与えて下さいと父なる神に祈り求める者でありたいと願います。最後に、ヨハネの福音書の16:7節を読んで、み言葉の取り次ぎを終わりたいと思います。
しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。 (ヨハネの福音書16:7)
祈ります
問40 あなたは聖霊のはたらきをどのようにして受けることができますか。
答 それは、私たちが聖霊を与えてくださいと祈り求めることによってです。
ですから、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っています。それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。」
身代わりの死である十字架、死、復活(イースター)昇天、神の右に座し、聖霊を送られるイエス。

2026/4/5(日)「起死回生」ルカ23:1~12 庄司牧師

2026年4月5日 イースター礼拝 ルカの福音書24:1~12 「起死回生」
24:1 週の初めの日の明け方早く、彼女たちは準備しておいた香料を持って墓に来た。 24:2 見ると、石が墓からわきに転がされていた。24:3 そこで中に入ると、主イエスのからだは見当たらなかった。24:4 そのため途方に暮れていると、見よ、まばゆいばかりの衣を着た人が二人、近くに来た。24:5 彼女たちは恐ろしくなって、地面に顔を伏せた。すると、その人たちはこう言った。「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。 24:6 ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、主がお話しになったことを思い出しなさい。24:7 人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえると言われたでしょう。」24:8 彼女たちはイエスのことばを思い出した。24:9 そして墓から戻って、十一人とほかの人たち全員に、これらのことをすべて報告した。24:10 それは、マグダラのマリア、ヨハンナ、ヤコブの母マリア、そして彼女たちとともにいた、ほかの女たちであった。彼女たちはこれらのことを使徒たちに話したが、24:11 この話はたわごとのように思えたので、使徒たちは彼女たちを信じなかった。24:12 しかしペテロは立ち上がり、走って墓に行った。そして、かがんでのぞき込むと、亜麻布だけが見えた。それで、この出来事に驚きながら自分のところに帰った。
ハッピーイースター!イエスは甦られました。人類最大の敵である死に打ち勝ち、勝利されたイエスを讃美します。また、イエスを信じる者たちにも死への恐怖とそこからの失望、そして死そのものからの解放を与えて下さるお方であることを感謝いたします。
本日の聖書箇所は、人間の常識とそれに伴う絶望と悲しみが表されています。同時に神の非常識とそれに伴う勝利と希望が対比されています。そのことが本日のタイトルである、起死回生です。
「起死回生とは、もとは病気や死にかけた人を生き返らせるという意味から転じて、危機的・絶望的な状況を立て直し、一気に良い方向へ持ち直すことを指して言う。」とあります。従って本日の聖書箇所に示されているイエスの復活は、イエスの死を悲しみ、絶望している女性たちに、また罪から来る死が待ち受けている私たち一人一人の人間にとっても起死回生の出来事です。
イエスを愛し、イエスに付き従ってきた女性たちが登場します。この女性たちは、イエスの体に香料を塗り、もう一度丁寧にお墓に収めようとやって来ました。ここに彼女たちの、そして人間の常識を見ます。彼女たちはイエスが十字架上で死ぬのを見届けています。少し前の23章、49節にはこのように記されています。「イエスの知人たちや、ガリラヤからイエスについて来ていた女たちはみな、離れたところに立ち、これらのことを見ていた。」
「これらのこと」とは、イエスが十字架に至る一連の出来事と、十字架そのものです。彼女たちはイエスがどのように十字架に架かり、また、どのように十字架上で息を引き取られるか、全ての過程を見ていた女性たちです。 それだけではありません。彼女たちはイエスが十字架上で死なれた後、その遺体が墓に運ばれるところまで見届けています。 本日の聖書箇所の直前、23章55節と56節をお読みします。イエスとともにガリラヤから来ていた女たちは、ヨセフの後について行き、墓と、イエスのからだが納められる様子を見届けた。ヨセフとは、イエスを信じる議員の一人でした。彼女たちはイエスの十字架刑を見ただけでなく、ヨセフがイエスの遺体を降ろし、亜麻布で包み、墓に納められる一部始終、全てをその目で見ました。彼女たちはイエスを愛し、イエスにずっと聞き従い、色々な奉仕をして来ました。そして彼女たちが常識と照らし合わせて今、できること。それはただ、イエスの遺体にもう一度丁寧に香料を塗り、丁寧に墓に納めることだけでした。 そのことだけが、彼女たちのイエスへの愛の表明であり、今できる精一杯のことでした。しかし墓に来てみるとイエスの体が見当たりません。彼女たちはどうしようかと途方にくれていました。自分たちのできる最後の、そしてたった一つのことができない。
そのような女性たちの前にイエスのことを伝える者が現れました。他の福音書にはそれが御使い、天使であったと書き記されています。その御使いが彼女たちに語りかけました。24:5b「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。24:6 ここにはおられません。よみがえられたのです。これは事実に基づいた証言であると言えます。「事実」とは、客観的に確認できる「実際に起こった事柄」であり、1つしか存在しないものです。御使いは私たち人間よりも知識、知性、力など、全て人間よりも上の存在です。従ってイエスが甦られたのを実際に起こった事実として、何らかの方法で既に知っていた、認識していたということです。しかし女性たちはその事実を知りません。この嬉しい、また喜ばしい事実に対して、今女性たちが出来ることは、それを信じるか、それとも信じないか、でした。
私たちは聖書を知っています。この後どうなるかも知っています。しかし彼女たちは、十字架に架けられ、死なれ、葬られたイエスがその後どうなるかを知りません。 従って人間の常識からすれば、死んだ人が復活するという話は非常識であり、思いつくことも、また想像すらできないことです。そのため彼女たちは、イエスが復活されたという素晴らしい知らせを信じるための助けが必要でした。その必要、イエスの復活を信じるために必要なこと、助けでありヒントを、御使いが彼女たちに語り、また与えてくれました。それが6節の後半と、7節で語られています。24:6b まだガリラヤにおられたころ、主がお話しになったことを思い出しなさい。24:7 人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえると言われたでしょう。」
何気に読むと気付きませんが、この御使いが語られたことは驚くべきことです。 それは御使いがイエスの復活を知っているということだけではなく、イエスが過去に彼女たちに語られたこと、その内容も知っていた、ということです。ここに御使いが人間の知性や能力を超える存在であることが示されています。 この御使いが、彼女たちがイエスの復活を信じることができるように助けてくれました。それはイエスが彼女たちに語られた「ことば」であり、「約束」を思い出させるということでした。御使いはこのように彼女たちに語りました。「人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえると言われたでしょう。」彼女たちは御使いのことばをヒントに、そして語りかけられたことによって助けられた結果、8節に至ります。
24:8 彼女たちはイエスのことばを思い出した。それは以前イエスが言われた三つのことでした。人の子、すなわちイエスが罪人たちの手に引き渡されること。十字架につけられること。そして三日目に甦ること、です。 彼女たちはイエスのことばを思い出して、イエスの復活、イエスが死から甦ってここにいないことを信じました。彼女たちがイエスの復活を信じた時の様子が、別の著者であり、違う角度からイエスの復活について触れている、マタイの福音書に描写されています。
28章5節から8節をお読みします。お聞き下さい。
御使いは女たちに言った。「あなたがたは、恐れることはありません。十字架につけられたイエスを捜しているのは分かっています。ここにはおられません。前から言っておられたとおり、よみがえられたのです。さあ、納められていた場所を見なさい。そして、急いで行って弟子たちに伝えなさい。『イエスは死人の中からよみがえられました。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれます。そこでお会いできます』と。いいですか、私は確かにあなたがたに伝えました。」彼女たちは恐ろしくはあったが大いに喜んで、急いで墓から立ち去り、弟子たちに知らせようと走って行った。
「彼女たちは恐ろしくはあったが」-当然の反応だと思います。イエスの誕生が御使いによって知らされた時、羊飼いたちも恐れています。しかし彼女たちは「大いに喜んで、急いで墓から立ち去り、弟子たちに知らせようと走って行った。」
彼女たちがイエスの復活という喜びの知らせを信じたゆえに、他の弟子たちに早く伝えようと急いで走って行きました。彼女たちがイエスの復活、甦りを信じなければ、このように行動することはなかったでしょう。 御使いは女性たちに、イエスが復活されたという助け、ヒントをくれました。それは実際に復活されたイエスの体を指し示すというようなものではなく、すでにイエスが女性たちに語られたみ言葉、そして約束を思い出させるというものでした。
イエスの復活を信じた彼女たちにとって、空の墓はどのように映ったでしょうか?イエスの復活を信じる前は、イエスの遺体に香料を塗ることができない。どうしよう。悲しい。空の墓は悲しみの象徴でした。 しかしイエスの復活を信じてから見る空の墓は、もはや悲しみの象徴ではありませんで。 それは逆にイエスの復活という動かぬ証拠であり、大きな喜びの象徴、証になりました。以前イエスに語られていたこと、イエスのことばと約束を信じることによって、彼女たちは絶望と悲しみから、今度は励ましと希望を持つに至る力となりました。
先々週、語られたことばが、その状況を変えるヒントになる、励ましになるこという体験をしました。家族と散歩をしていた時のことです。ホームに入って来る電車を見ようと、駅に向かって歩いていました。途中、いつもと少し違う道を通りました。そこは狭い路地で車通りが少なく、安全な場所だったからです。しばらく歩いていると、道路の先が行き止まりになっているように見えました。私は妻に、「大丈夫かな、このまま駅の方に行けるかな?」と問いかけたところ、「大丈夫ですよ。行けますよ!」という声が別のところから返って来ました。「あれ、今の声は!?」と一瞬思いましたが、それは丁度歩いている道路に面していた家の女性が、私の問いに答えてくれたのでした。私は笑いながら、安心して家族と歩き続けることができました。 しかし殆ど道路が終わりというところまで来た時、その先の道が見えません。本当にメインの道路に戻れるかな?と少し心配になりましたが、細いあぜ道があり、駅に通じる道に戻ることができました。駅に着くと丁度、三つの路線の電車がホームに到着するタイミングでした。異なる三つの車両が入って来るのを、同時に見ることができました。とても嬉しい体験でした。もし女性が私たちに声をかけてくれなかったら、私たちは道を引き返し、三つの車両が入って来るタイミングを逃していたかもしれません。
御使いは、イエスの復活を女性たちに指し示しました。御使いにとってはイエスの復活が事実であっても、復活を見ていない、知らない、想像もつかない女性たちにとっては、イエスの復活を信じることはできませんでした。しかし女性たちはイエスの復活をその目で見なくとも、イエスの復活を信じることができました。それはイエスが以前女性たちに語りかけて下さっていたこと、すなわちイエスが語られたみ言葉であり、約束でした。「人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえる」 イエスはこの女性たちだけでなく、私たちもイエスを信じることができるように、イエスの復活を信じることができるように、イエスが罪からの救い主であることを信じることができるように、ヒントや助けを私たち一人一人にも与えて下さっています。それが聖書であり、イエスを信じるために私たちを導いて下さる聖霊の存在でもあります。次回、三位一体の神の第三位格である、聖霊についてお話をする予定です。
実は今日のメッセージ、今お話していますが、とても苦しいものでした。「どうしよう。何をお話したら良いか分からない!」 ルカの福音書を選んだことを後悔するほどでした。しかしイエスは、私が語ることができるように助けて下さいました。散歩の時の語りかけが今日、この時、メッセージを語る上で大きなヒントになりました。本当にちょっとした出来事でしたが、私にとっては大きな出来事でした。 イエスが生きておられ、働かれ、助けて下さったと私は確信しています。

御使いは、女性たちがまだイエスの復活を信じる前、このように彼女たちに語りかけました。
「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。」メッセージの冒頭、始めの方で、私はこのようにお話しました。「本日の聖書箇所は、人間の常識とそれに伴う絶望と悲しみ。神の非常識とそれに伴う勝利と希望が対比されている。」 私は家族と散歩をしている時、語られたことばによって励まされ、その道を引き返すことなく、進み続けることができました。しかしその先で道がなくなってしまうように見え、不安になりました。しかし語られた通り、そこには道がありました。 この女性たちにとって、イエスの死は、イエスと共に歩いて来た道が終わってしまった。その先にもう道はないという絶望と悲しみをもたらしました。しかしイエスは御使いが語ったように、そして彼女たちが信じたように実際に復活され、この後マグダラのマリアやイエスの弟子たちに現れることになります。
私たちもこの目でイエスを見ることはできませんが、女性たちにように、イエスが語られたことば、約束を信じることができます。人間にとってイエスの復活は非常識ですが、神にとって不可能なことはありません。預言も含め、聖書に指し示されているイエスの復活を、聖霊の助けを頂きながら私たちも信じることができます。 そしてイエスは約束通り復活され、今も生きておられます。この道は終わりではないか。この先には何の喜びも希望もないのではないか。私たちはそのような道を通ることがあります。しかしイエスは私たちと神との関係を妨げている罪を十字架で全て背負われ、復活を通して罪と、罪から来る死に勝利して下さいました。イエスを信じる全ての者は、このイエスの復活の力に与ることができます。私たちは「死」で終わりではありません。それが聖書に記されている神の約束、「起死回生」の約束です。そしてそれは永遠に続く約束です。
復活され、今も生きておられ、私たちと共に歩んで下さり、私たちを助け、恵みで満たし、最善の道へと導いて下さる私たちの主、復活された素晴らしいイエスを、これからも信じ続けることができますように。
祈ります
「起死回生」
「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。」

2026/3/29(日)「強盗の巣」マルコ11:12~19 庄司牧師

2026年3月29日 マルコの福音書11:12~19「強盗の巣」
翌日、彼らがベタニアを出たとき、イエスは空腹を覚えられた。葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、その木に何かあるかどうか見に行かれたが、そこに来てみると、葉のほかには何も見つからなかった。いちじくのなる季節ではなかったからである。するとイエスは、その木に向かって言われた。「今後いつまでも、だれもおまえの実を食べることがないように。」弟子たちはこれを聞いていた。 こうして彼らはエルサレムに着いた。イエスは宮に入り、その中で売り買いしている者たちを追い出し始め、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。また、だれにも、宮を通って物を運ぶことをお許しにならなかった。そして、人々に教えて言われた。「『わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではないか。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にしてしまった。」祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。群衆がみなその教えに驚嘆していたため、彼らはイエスを恐れていたのである。夕方になると、イエスと弟子たちは都の外に出て行った。
本日の聖書箇所は二つの出来事が記されています。葉の茂ったいちじくの木の話と、4福音書全てに記されている「宮きよめ」と呼ばれている出来事です。葉の茂ったいちじくの木の話は、結論として後でもう一度登場しますので、次回取り上げたいと思います。そこで今回は「宮きよめ」と呼ばれる出来事を中心に、お話をしたいと思っています。
先週、イエスが日曜日にエルサレム入城、エルサレムに入られた時のことをお話しました。イエスはエルサレムにいる群衆の、自己中心的で神を信じない不信仰な姿と、将来ローマ帝国に破壊されることになるエルサレムのことを憂い、涙を流されました。そして祈りのため、人々のとりなしのために宮に入られました。
本日の聖書箇所、12節に「翌日」とあります。ですから宮きよめと呼ばれている出来事は、イエスが十字架に架かることになる週の、月曜日であることが分かります。本日登場する「宮」とはエルサレム神殿であり、ヘロデ王によって再建されたものです。イエスはこの神殿で人々が行われていることに怒りを燃やされました。それが本日の聖書箇所に表されています。エルサレムの神殿では、過ぎ越しの祭りに集まった大群衆を相手に、盛んに商売が行われていました。過ぎ越しの祭りとは、旧約聖書、出エジプト記に記されています。以前共に見て来ました。イエスの時代よりさらに約1500年前、彼らの祖先となるイスラエルの民がエジプトで奴隷となって苦役を強いられていた時、神が民の叫びを聞かれ、指導者モーセを通して彼らをエジプトから脱出させた出来事に由来しています。その脱出の際、羊の血を門柱と家の鴨居に塗った者たち-すなわちイスラエル民族は、滅ぼす者から守られました。一方その血を塗らなかったエジプトの初子-初めに生まれた子ども、すなわち長男や長女、家畜に始めに生まれた子どもたちなどは、全て死んでしまいました。この流された血、羊の犠牲を、新約聖書ではイエスが人間の罪を贖う身代わりに流された血であると説明しています。つまり過ぎ越しで犠牲になった羊は、イエス・キリストを予表するもの、イエスの十字架の犠牲、贖いを指し示している、ということです。 ユダヤの人々は、自分たちの先祖が守られたことを感謝し、現在においても過ぎ越しをお祝しています。
本日の聖書箇所に戻ります。 神殿の境内には、一番外側に異邦人の庭と呼ばれるところがあり、そこに両替人や生贄のハトを売る者たちなどがいました。ユダヤ人たちは各地から過ぎ越しの祭りを祝うために神殿に集まって来ましたが、神殿に捧げる動物の犠牲は傷があってはいけないため、祭司に調べてもらわなければならず、その検査は面倒なものでした。 そこで巡礼者たちは、あらかじめ調べられたものであり、また気軽であるため、神殿の境内で売られている検査済みの動物を買いました。加えてユダヤの巡礼者は、神殿に納入金を支払うため、ギリシャやローマの通貨をユダヤの通貨に両替しなければなりませんでした。そこで両替人たちは多くの手数料を取って莫大な金を設けていました。その背後には祭司長や律法学者たちがいました。神殿を管理している立場であるはずの彼らが、自分たちの利益のために率先して彼らの商売を許可し、支援までしていました。それは商人たちの儲けの上前をはねるためでした。 本来は祈りの家であり、敬虔な場所であるはずの神殿が商売に利用されている。 イエスが憤りを覚えたのも無理はありませんが、イエスがもっと怒りを燃やされたことがあります。それは彼らが商売を行っていた「場所」でした。
神殿の境内の一番外側は異邦人の庭と呼ばれますが、神殿の奥に入ることを許されない異邦人にとって、唯一の礼拝の場所でした。その場所で商売が行われていたということは、商売人たちは異邦人たちが神を礼拝するのを妨げていたということになります。そして彼らの礼拝を間接的に妨げていたのが、本来であれば神殿を聖く保ち、礼拝者が神を心から礼拝できるように取り計らう祭司や祭司長たちでした。いつの間にか異邦人の庭が、動物の生贄を売ったり買ったり、また両替の行われる場所になってしまっていました。イエスは激しく怒られましたが、この時の怒りを旧約聖書から引用して表しておられます。それが17節です。
「『わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではないか。これは旧約聖書、イザヤ書56:7節を引用してのことばです。6節の後半から引用してお読みします。
わたしの契約を堅く保つなら、わたしの聖なる山に来させて、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。彼らの全焼のささげ物やいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる。なぜならわたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれるからだ。 つまりイエスは、形式的で、しかも神との契約を守っていない彼らの生贄は、神には受け入れらないと言っておられる訳です。「神殿は商売の行われる場所ではない!心の伴わない形だけの生贄は神に受け入れられない!わたしの家、神殿は、あらゆる民の祈りの家、礼拝の場所、心から神と交わる場所だからだ!」そのような思いを持ってイエスは、人々の間違った行いを激しく怒られ、批判されました。イエスはここで、「わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる。」と、イザヤ書のことばを引用されましたが、その「わたし」とは、主なる神であると同時に、その独り子である主、イエスご自身を指しています。つまりイエスは、自分こそが神殿の主であり、神殿はイエスにとって 「わたしの家」だと宣言されたということです。つまりイエスはご自身を、神殿を司る者であり、また同時に礼拝されるべき対象、すなわち神であるということを宣言されました。イエスは祈りが捧げられる神殿を、「あらゆる民の祈りの家」と呼ばれました。それはユダヤ人たちだけでなく、彼らから蔑まれている異邦人たちも含めた、全ての民族、部族、国民の祈りの家となる、ということです。 宗教指導者たちはイエスを神と信じていませんでしたから、神宣言をされたイエスのことを、神への冒涜であると捉えました。加えてイエスは同じ17節の後半において、おまえたちはそれを『強盗の巣』にしてしまった。」と強いことばで批判されました。これも旧約聖書からの引用だと思われます。エレミヤ書7:10,11節です。そして、わたしの名がつけられているこの宮の、わたしの前にやって来て立ち、「私たちは救われている」と言うが、それは、これらすべての忌み嫌うべきことをするためか。わたしの名がつけられているこの家は、あなたがたの目に強盗の巣と見えたのか。見よ、このわたしもそう見ていた──主のことば──。 エレミヤ書を引用しながらイエスは批判していますが、その対象は、暴利を貪っている商人たち、それを許していた祭司や律法学者たちだけではありません。「売り買いしている人を追い出し始め」と15節にあることから、商人から生贄を買っていたユダヤ人たちにも向けられていることばでした。彼らユダヤ人に共通するのは選民意識です。「アブラハムを父祖とする我らユダヤ人は特別に選ばれている神の民。我々は救われている。それだけはない!このように神殿に来てお金も払って生贄を買って捧げている。神は喜んでくれているはずだ!そして犯した罪はことごとく全て赦されているはずだ!」 しかしイエスは、彼らユダヤの人々が生贄を形式的に、また慣習的に献げていることを見抜いていました。このような民の形式的、偽善的な姿が旧約聖書に記されています。ホセア書です。イエスの時代から750年ほど前に書かれたものですが、イエスの時代の人々と何ら変わることはありません。この時の北イスラエルは経済的には繁栄していましたが、民はバアル崇拝などの偶像崇拝を行いながら、神である主にも生贄を捧げていました。加えて富める者が貧しい者を虐げ、倫理的にも道徳的にも腐敗していた時です。主なる神は預言者ホセアを通して、彼らにその思いを伝えられました。それがホセア書6:6節に描写されています。「わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない。全焼のささげ物よりむしろ、神を知ることである。」
神が求めておられるのは「表面的な儀式(いけにえ)」ではなく、愛に基づく「神との個人的な関係(神を知ること)」であるということです。神が人間に対して、愛と信頼の関係を築き、人格的な交わりを求めておられることを意味します。著者のホセアに語られた主なる神のイスラエル民族に対する思いと、本日の宮清めにおける群衆に対するイエスの思いと重なります。
この神の御心、すなわちイエスの御心に反するのが、今まで見て来たように、神殿を利用して、つまり神を利用して商売をしている人々でした。また、自分の利益のために彼らを支援していた宗教指導者たちでした。そして儀式的に、また形式的に罪だけが赦されれば良いという、言わば神のご機嫌取りをしているユダヤの人々でした。なぜそのように言えるかと言えば、彼らが生贄を持参しないで神殿に来ているからです。生贄を準備、用意せず、神殿で気軽に買えばいいというところに、彼らの神に対する態度が表れています。 イエスはそのような人々が集まっている神殿が強盗の巣のようであると嘆き、憂い、怒られました。 一方イエスは神殿の主として、礼拝されるべき神として、イエスを信じる人々を御前に集めようと、集めたいと願っておられます。そのイエスの思い、願いが、平行箇所のマタイの福音書に表されています。21章14節です。また、宮の中で、目の見えない人たちや足の不自由な人たちがみもとに来たので、イエスは彼らを癒やされた。
いつもイエスがなされる癒しのように見えますが、実はこれは凄いことです。普段であればあり得ないことです。異邦人は異邦人の庭と呼ばれる場所に入ることができました。しかし体に障害を持っている人々は、神殿の本体である聖所、至聖所はもちろんのこと、その境内にすら立ち入ることは許されていませんでした。 しかし彼らは神殿に入って来ました。イエスが神殿で大暴れされ、一時的に神殿がパニックに陥っているその混乱に乗じて。 普段は神殿から締め出されて神殿の門のところで物乞いをすることしかできなかった盲人たち、足の不自由な人々などが神殿内に入り込んで来たということです。イエスを、神を求める姿です。そこでイエスは彼らを癒されました。
イエスは体に障害を持っている人たちを癒すことによって、障害のあるなしに関わらず、またユダヤ人たちが軽蔑していた異邦人、つまり民族の違いに関わらず、イエスを信じる者全ては神殿に入ることができる。また神であるイエスを拝することができる、つまりイエスを神として信じ、礼拝することができる、ということが表しておられます。
今回の宮清めにおいて、イエスの語られたこと、またなされた全てのことは、神殿当局者たちの激しい怒りと敵意をもたらしました。それはイエスがご自分のことを神であると宣言され、商人はおろか、祭司長や律法学者たちのような宗教指導者を批判し、さらに神殿における慣習を破って、障害を持っている人々が神殿に入るのを許可し、癒されたからです。 前回見ましたが、人々が決して触れることのない盲人のバルティマイを、イエスは立ち止まり、声をかけ、触れて癒されました。従って今回も、イエスは差別されている人々にも手を触れて癒されたでしょう。このように神殿の主であり、礼拝されるべき神として、イエスは民族や慣習を超えて、イエスを信じる人々を御前に集めようとされておられます。 このようにイエスは正しいこと、また愛に満ちたことをなされましたが、宗教指導者たちはイエスに反発しました。彼らの敵意が18節に描写されています。
祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。群衆がみなその教えに驚嘆していたため、彼らはイエスを恐れていたのである。
彼らは、群衆がイエスの教えに驚嘆し、イエスを信頼し、さらに支持していく。人気が出ることによって自分たちから離れていくことが赦せませんでした。彼らは群衆を自分たちに惹きつけておきたかった。自分たちが、人々を神に近づけるように手助けする奉仕者とは考えずに、神が、人々を自分に近づけるのを手助けするとことを願っていた、ということです。これは神殿という場所において商売をしていた人々と、同じではないでしょうか。 言わば神を利用して自分の願い、欲望を満たそうとする姿です。 彼らは不正をしていました。また彼らは誤りを犯すだけでは気がすまず、自分の誤りを指摘する者に対して殺意を抱くという、神を知らない者、信じない者がどのように神に向かうのか。敵対するのか。罪深い人間の姿を浮き彫りにしています。恐ろしいことですが、まさにこのような人間の罪が、イエスを十字架に釘付ける原因となりました。 神殿を利用して、神を利用して商売する、儲ける人々をイエスは追い出されました。一方ユダヤ人たちから蔑まれていた異邦人たちが礼拝できるように、宮、神殿をきよめられました。また昔からの慣習を破られ、障害のある人々が神殿に入ることを許可され、イエスを信じ、求める人々を癒されました。別の見方をするならば、イエスは彼らを神殿に招かれた、と言うこともできるかもしれません。
今は受難節です。イエスの十字架の贖い、犠牲に心を留め、思い巡らし感謝を持つ時です。   神殿の主、神の国の主、万物の主であるイエス・キリストが、今も、現代においても、イエスを信じ、イエスを礼拝する者たちを、ご自分の十字架の下に集めようとされておられる。そのように思います。 神殿-現代においては教会において共に集まり、イエスを礼拝できることを感謝します。イエスの十字架がなければ、また招きがなければ、私たちはこのように共にイエスを礼拝することはありませんでした。イエスに感謝しつつ、今日も共にイエスの十字架に目を向けたいと思います。
祈ります。「強盗の巣」
そして、人々に教えて言われた。「『わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではないか。

2026/3/22(日)「それぞれの思惑」マルコ11:1~11 庄司牧師

2026年3月22日 マルコの福音書11:1~11 「それぞれの思惑」
さて、一行がエルサレムに近づき、オリーブ山のふもとのベテパゲとベタニアに来たとき、イエスはこう言って二人の弟子を遣わされた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばが、つながれているのに気がつくでしょう。それをほどいて、引いて来なさい。もしだれかが、『なぜそんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐに、またここにお返しします』と言いなさい。」弟子たちは出かけて行き、表通りにある家の戸口に、子ろばがつながれているのを見つけたので、それをほどいた。すると、そこに立っていた何人かが言った。「子ろばをほどいたりして、どうするのか。」弟子たちが、イエスの言われたとおりに話すと、彼らは許してくれた。それで、子ろばをイエスのところに引いて行き、自分たちの上着をその上に掛けた。イエスはそれに乗られた。すると、多くの人たちが自分たちの上着を道に敷き、ほかの人たちは葉の付いた枝を野から切って来て敷いた。そして、前を行く人たちも、後に続く人たちも叫んだ。「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。祝福あれ、われらの父ダビデの、来たるべき国に。ホサナ、いと高き所に。」こうしてイエスはエルサレムに着き、宮に入られた。そして、すべてを見て回った後、すでに夕方になっていたので、十二人と一緒にベタニアに出て行かれた。

いよいよイエスと弟子の一行は、十字架の待っているエルサレムに入城(入場⇔退場ではない)することになります。イエスの公生涯の三年半、そのほとんどはガリラヤとその周辺を舞台とした宣教でした。しかし公生涯の最後の一週間は、イスラエルの中心地であるエルサレムにおいての宣教です。わずか一週間のエルサレム宣教の記述は、マルコの福音書16章のうち、11~16章の6章分、三分の一ほどを費やしています。イエスの十字架、葬り、復活がどれほど大切なのかが分かります。 1節に記されていますが、イエスと弟子たちはエリコの町を出発し、長い坂道を上って、オリーブ山のふもとのベテパゲ、またその近くにあるベタニアの町までやって来ました。 これはイエスが十字架にかけられる前の週の、金曜日に当たります。イエスの一行は、翌日の土曜日は安息日だったためそのままエルサレムには入らず、ベタニアでマルタとマリア、ラザロの家で一日を過ごされ、日曜日にエルサレムに入られました。
エルサレムに入られる時、イエスは二人の弟子を使いに出して、「向こうの村」からロバを借りて来るように言われました。「向こうの村」とはベテパゲかベタニアのどちらかになります。 ベタニアにはマルタとマリア、ラザロの家がありました。彼らはイエスを愛し、従い、協力を惜しまない家族でした。またこのベタニアだけでなく、隣の町のベテパゲにも、イエスの弟子や協力者がいたと思われます。それでロバの持ち主は以前から、イエスのためにできることがあれば、何か手伝うと言っていたかもしれません。いずれにせよ、イエスが命じられた通り、イエスの使いはロバを借りることができました。 二人の弟子たちとロバの持ち主のやり取りは、イエスが予知、前もって全てを知っておられることの現われです。 イエスの言われたことは実際に成就、実現しました。そしてイエスがロバに乗ってエルサレムに到着した時の人々の様子が、8節から10節に描写されています。8節にはこのように記されています。多くの人たちが自分たちの上着を道に敷き、ほかの人たちは葉の付いた枝を野から切って来て敷いた。人々がイエスを大歓迎している様子が描写されています。葉の付いた枝を敷いたとありますが、ヨハネの福音書の12章には、その葉の付いた枝を「棕櫚の木」と記しています。そのため現在では、イエスがエルサレムに入城した日を記念して、イースターの一週間前の日曜日を、「棕櫚の日曜日」と呼んでいます。

一方イエスがロバに乗ってエルサレムに入られることは、旧約聖書に記されている預言の成就、実現でもありました。旧約聖書、ゼカリヤ書にはこのように記されています。9章9節。
娘シオンよ、大いに喜べ。娘エルサレムよ、喜び叫べ。見よ、あなたの王があなたのところに来る。義なる者で、勝利を得、柔和な者で、ろばに乗って。雌ろばの子である、ろばに乗って。
ゼカリヤ書に記されているシオンの娘とは、エルサレムの住民を指す詩的な表現です。イエスの生まれる前、約500年前に書き記されたザカリヤ書ですが、果たしてその預言通りにイエスはロバに乗ってエルサレムに入城されました。群衆がイエスの入城をこの預言の観点から見て、イエスを王として迎えたことは疑う余地がありません。また人々は歓喜のあまり、讃美をもってイエスを迎え入れています。この時の様子が9節と10節に描写されています。
「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。祝福あれ、われらの父ダビデの、来たるべき国に。ホサナ、いと高き所に。」これは詩篇を群衆が引用してイエスを讃美している姿です。
「ホサナ」ということばは、現代においても神やイエスへの深い感謝、称賛、喜びを表す言葉として使われています。 群衆は熱狂的にエルサレムに入城したイエスを大歓迎しました。
ここまで見ると、イエスがエルサレムに入られたことは、何も問題がないように思えます。しかし同じ出来事が、別の角度で記されている他の福音書と読み比べて見る時、色々な人間模様が見え、また群衆それぞれに、イエスに対する様々な思惑があることが見えて来ます。

例えばマタイの福音書の21:10,11節です。ホサナと叫んでイエスを大歓迎している様子はマルコの福音書と変わりませんが、このように描写されています。
こうしてイエスがエルサレムに入られると、都中が大騒ぎになり、「この人はだれなのか」と言った。群衆は「この人はガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言っていた。
イエスを大歓迎している群衆の中に、「この人はだれなのか」と、イエスが何者であるかが分かっていない人々がいたということが分かります。また「この人はだれなのか」という問いに対して
「この人はガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と答えた別の群衆がありました。イエスを力ある一預言者として捉えていますが、罪から救う救い主とは捉えていません。つまりそこにいた群衆は、イエスが偉大な者であると認識していたかもしれませんが、ただの人間として捉えているということが分かります。
また、平行箇所のヨハネの福音書12章には、このような宗教指導者のことばが記されています。
それで、パリサイ人たちは互いに言った。「見てみなさい。何一つうまくいっていない。見なさい。世はこぞってあの人の後について行ってしまった。」

イエスが人々に人気となり、自分たちから人々が去っていくのを嘆き、またイエスに嫉妬している姿です。彼らはイエスの人気が高まり、それが暴動に発展すれば、ローマ帝国の軍隊が介入して自分たちの立場が危うくなる。嫉妬だけでなく、自分の身を守ろうろうとする保身も垣間見えます。そこからイエスを殺害したいという思いにまで発展していき、実際にイエスを十字架に架けていく動力となっていきます。
マルコの福音書に戻りますが、10節で群衆は、われらの父ダビデの、来たるべき国に。とイエスを歓迎しています。一方マタイの福音書の21章には、「ホサナ、ダビデの子に」と、群衆がイエスを賛美しています。「ダビデの国、ダビデの子」と群衆が賛美したのは、イエスがダビデ王の子孫として、強かったダビデ王国を再び復興させてくれる、この世の政治的な王であると捉えていたということです。その力を持ってローマ帝国を蹴散らし、ユダヤをローマ帝国から解放し、再びダビデ王国を復興してくれる。群衆はそのような期待を、イエスに対して持ちました。
罪を赦し、神との関係を回復させるためにイエスがこの世界に来て下さった救い主である、ということを、群衆のほとんどが理解していない、分かっていないということです。

棕櫚の枝を持ってイエスを熱烈に歓迎した人々が、数日後にはイエスを十字架につけろと叫ぶ者たちに変わっていきます。例え宗教指導者である祭司長やパリサイ人、律法学者の巧みな扇動に乗せられたとはいえ、です。イエスを大喜びで迎えた人々が、僅か一週間の後、「この男を殺せ!」と叫ぶ者に変わっている。自分の上着を差し出して「ホサナ」と歓声を上げてイエスを迎えた人々が、一週間後には「十字架につけろ。殺せ」と叫びだす。なぜでしょうか。
それはこの後イエスが、自分たちをローマ帝国から解放しないことが分かったからです。彼らは自分たちの期待が裏切られたからです。彼らの思惑、目論見が叶わなかったからです。彼らはイエスに対する失望を怒りに変え、イエスに敵対する者になってしまいました。これが罪深い人間の姿だと言わざるを得ません。

本日の聖書の箇所には他にも色々な人々、色々な思惑を持っている人々が登場します。
ラザロをはじめ、イエスがなさった奇蹟、しるしを見たい、確かめたいと好奇心で集まっている人々。過ぎ越しの祭りを祝いに来た巡礼中だった人々。イエスの力ある奇蹟を見て、地上の力ある王とみなす人々。イエスが武力でローマ帝国から解放してくれるとイエスに望みを置いた人々。イエスが何者なのか疑っている人々。イエスを旧約聖書に登場する一預言者とみなしている人々。そしてイエスの人気を自分たちの人気と比べて憎しみ、嫌悪する人々。一方その中には先週見たバルティマイをはじめ、イエスに信頼し、イエスを罪からの救い主と信仰をもって従っていた人々もいました。
イエス・キリストを通して、色々な人間がいることが浮き彫りになっていきます。

一方群衆からの歓迎と讃美を受けられたイエスの思い、心情はどのようなものだったでしょうか。本日見ているマルコの福音書、マタイ、ヨハネの福音書にはこの時のイエスの思いは描写されていません。沈黙しています。それはルカの福音書においてのみ、イエスの思いが描かれています。ルカの福音書19章41節、42節です。このように描写されています。エルサレムに近づいて、都をご覧になったイエスは、この都のために泣いて、言われた。「もし、平和に向かう道を、この日おまえも知っていたら──。しかし今、それはおまえの目から隠されている。」
色々な思惑のある人々。イエスによってもたらされようとしている、神の国の訪れを見ようとしない人々。神との平和、神の恵みを拒んでしまった人々。このような驕り高ぶりの結果、それから40年足らずの間にこのエルサレムはローマ軍によって徹底的に破壊され、エルサレムに住む人々は死と苦しみを味わうことになりました。エルサレムの現実の姿と、将来のエルサレムに対してイエスは涙を流されました。

私たち人間は理想を求めます。追い求める存在です。それは神に対しても同じです。強くて優しい神が欲しい。奇蹟を経験させてくれる神が欲しい。分かり易く理解できる神が欲しい。自分の願いを叶え、自分の思い通りに動いてくれる神が欲しい。
イエスは、私たち人間が持つ神概念、神に求める理想や期待を否定され、覆されました。 それは子ロバにまたがり、エルサレムに入城する姿を通して表されています。イエスはロバに乗ってエルサレムに入られました。 普通王のように偉大な者であれば、馬に乗って登場します。敵に勝ち、自分の国に帰って来た英雄は、凱旋の時に馬に乗って来ることからも分かります。 馬は勝利の象徴であり、戦いの象徴です。 もし馬でエルサレムに入ってこれば、それは見栄えも良いものです。
しかしイエスはエルサレムにロバで入城されました。しかもロバの子どもです。まだ体の未成熟な子ロバがヨチヨチ歩くその上に、メシヤなるお方が乗っている。あまりにも滑稽な、間の抜けた光景ではないでしょうか。 この登場によってイエスは、戦いの王を求める群衆に対し、自分の理想や期待を求める群衆に対し、ご自身が平和の王であることを宣言されています。声なき宣言です。子ロバにまたがる平和の君、キリストとして、イエスは人々にご自身を現わされました。 そしてイエスがキリスト、救い主として完成されるのが、十字架を通してでした。
11節、こうしてイエスはエルサレムに着き、宮に入られた。群衆のイエスに対する無理解、勝手な理想と期待、自己中心的な姿を見た後イエスは、将来のエルサレムの姿と重ねながら、涙と共に、神が臨在される宮に入られました。罪深い人間の身代わりのために十字架に架けられるという、神が立てられたご計画をいよいよ実行に移されていく時の痛み、孤独、叫びを祈られたのだと思います。 イエスは父なる神の御心を第一にされました。いのちをかけて神のご計画に従われ、ロバに乗って来られるほどに謙られ、柔和なお方でした。 それは全て、私たち人間への愛でした。

私たち人間の様々な思惑を超えて、イエスは十字架を通して私たち人間の救いを完成させて下さったお方です。そのイエスの十字架の苦しみを、十字架を偲ぶ受難節で覚え、また感謝をお捧げしたいと思います。
祈ります
「それぞれの思惑」
こうしてイエスはエルサレムに着き、宮に入られた。
十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。
(Ⅰコリント1:18)
この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。
(Ⅰコリント1:21)

2026/3/15(日)「癒しよりも大切なこと」マルコ10:46~52 庄司牧師

2026年3月15日 マルコの福音書10:46~52 「癒しより大切なこと」
さて、一行はエリコに着いた。そしてイエスが、弟子たちや多くの群衆と一緒にエリコを出て行かれると、ティマイの子のバルティマイという目の見えない物乞いが、道端に座っていた。彼は、ナザレのイエスがおられると聞いて、「ダビデの子のイエス様、私をあわれんでください」と叫び始めた。多くの人たちが彼を黙らせようとたしなめたが、「ダビデの子よ、私をあわれんでください」と、ますます叫んだ。イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい」と言われた。そこで、彼らはその目の見えない人を呼んで、「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたを呼んでおられる」と言った。その人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。イエスは彼に言われた。「わたしに何をしてほしいのですか。」すると、その目の見えない人は言った。「先生、目が見えるようにしてください。」そこでイエスは言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救いました。」すると、すぐに彼は見えるようになり、道を進むイエスについて行った。

 マルコの福音書、10章の最後に記されている出来事です。本日の箇所において著者のマルコは、二つの大切なことを理解するようと、読み手に願っているように思います。 その一つは、イエスが私たち人間に仕えるためにこの世界に来て下さったこと。もう一つは、バルティマイのように霊の目が開かれ、大切なことを悟り、救われることです。 人に仕える大切さは、先週取り挙げたマルコの福音書10章45節において、イエスご自身が語られたことでした。
人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。
神の一人子であり、神そのものであるイエスが、「人間」となってこの世界に飛びこんで来て下さいました。イエスは父なる神の御心に100%、完全に従われました。それは贖いのためでした。
罪と死と、サタンの奴隷になっている私たち人間のために、イエスはご自分のいのちを、十字架で代価として支払って下さいました。しもべとして、徹底的に私たち人間に仕えて下さったのがイエスですが、そのしもべとして姿勢、姿・態度が、本日の聖書の箇所である、バルティマイの癒しにも表されています。

当時、宗教指導者であったラビなどは、歩きながら人々に教えていました。おそらくイエスもエリコの町において、歩きながら人々を教え、福音を語っておられたと思います。そんな中、盲目であるバルティマイが叫んでいます。 48節に、「多くの人たちが彼を黙らせようとたしなめた」とありますが、たしなめるということばは、「厳しく言う」とか、「非難する」という意味が含まれている強いことばです。「うるさい、邪魔だ!イエスが言っていることが聞こえないじゃないか!イエスが盲人のお前なんかを相手をする訳ないだろ!どうせお前の目は癒されない!」バルティマイに対して汚いことば、誹謗中傷などが飛び交っていたと想像します。当時のユダヤ人たちは、障害や重い病気などを患っている人は、本人か先祖が罪を犯したゆえに、その罪に対する神からの罰(呪い)であると考えられていました。ですからバルティマイのような盲人は、神から呪われた者として、人々から嫌悪されるような存在であり、誰も近寄って来ることはなかったでしょう。
誰も見向きもしない存在。誰も近寄って来ない存在。それがバルティマイでした。
バルティマイが叫んでいる騒然としている最中、イエスはどういう状況にあったでしょうか。
イエスご自身、緊迫している状況にありました。 イエスとイエスの弟子の一行がエリコの町までやって来ました。これからイエスが十字架に架けられるために向かって行くエルサレムから、わずか3,40キロほどしか離れていません。エリコの町から歩いて1日から2日かかかるというくらい、エルサレムに近づいて来ました。これから全人類の罪を十字架で全て背負って死ぬという、神からの、途方もない使命を全うする時が近づいて来ました。 イエスが一人の盲人に関わり合っている余裕は、肉体的にも、また精神的にもないような場面です。しかしイエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい」と、言われました。彼の叫びがイエスの足を止めました。彼の熱心が、イエスの足を止め、イエスを振り向かせました。そしてイエスは彼を癒されました。
このマルコの福音書では、信仰を通して彼が癒されたことが記されています。平行箇所のルカの福音書の18章においては、イエスがことばで命じることによってバルティマイは癒されています。また同じく平行箇所のマタイの福音書の20章においては、イエスが実際に彼の目に触れて癒しておられます。生きるための力も希望も喜びもなく、社会から排除されていたバルティマイのために、イエスは立ち止まり、声をかけ、体に触れられ、癒されました。
またマタイの福音書の20章には、「イエスは深くあわれんで」という、バルティマイに対するイエスの深い同情が描写されています。イエスは深く憐れみつつ、バルティマイに声をかけ、手で触れて癒されました。「私は仕えられるためではなく、仕えるために来た」とイエスは言われました。社会の底辺にいたようなバルティマイに対してもイエスは誠実に、また優しく振舞われました。ですからイエスのバルティマイへの対応は、イエスが仕えるために来たと言われたことが本当であり、偽りではないことの試金石、証となっています。 全ての人類、私たち全ての人間に仕えるために私たちの世界に来て下さった、それが私たちの主、イエス・キリストです。

著者のマルコが本日の箇所で強調したのは二つでした。イエスが仕えるために来たと語られたことが本当であったこと。そしてもう一つは、私たちの霊的な目が開かれ、救われることです。
なぜバルティマイが救われていると言えるのか。すなわち罪が赦され、神との関係が回復したのが分かるのか。 それはバルティマイが、癒された後にイエスについて行ったからです。バルティマイは目が癒された後、「道を進むイエスについて行った」と、最後の節である52節に記されています。 前の聖書訳は、「イエスの行かれるところについて行った」と訳されています。そのどちらの翻訳においても、バルティマイはイエスが行かれるところにはどこにでもついて行く、ついて行ったという含みがある表現です。イエスの後について行く、従って行くというバルティマイの意志、決意、イエスに対する強い信頼を感じさせる表現が使われています。バルティマイがイエスを自分の主、救い主であると信じなければできない行動であり、あり方です。また著者のマルコは彼の名前を記しました。彼の名前が聖書に載るということは、おそらく初代教会において、彼がキリストの弟子として活躍した可能性を示しています。この後聖書の中に彼の名前は出て来ませんが、名前が載っているということで、彼の活躍が暗示されていると言えるでしょう。
バルティマイは盲目であり46節を見ると、道端に座っていたと記されています。座っていたという時制を見ると、バルティマイはそこにずっと座っていたことが分かる時制です。つまり彼は長い間盲目であったため、物乞いをせざるを得ない状況だったということです。 もしかすると生まれつき盲目であり、彼の家族はすでに亡くなったか、または家族に捨てられてしまったということも考えられます。いずれにせよ彼が孤独だったことには変わりありません。しかしイエスに出会い、彼は肉体的な目だけでなく、イエスを知り、信じるという霊的な目も開かれました。それゆえイエスが神であり、救い主であるということを信じることが出来ました。 家族も、仕事も、地位も名誉も何も持っていなかったバルティマイは、神との関係が回復し、神の子とされ、神の家族に迎え入れられ、更にイエスの弟子としてイエスについていきました。彼の人生は大きく変わりました。人々に見下され、価値があるとは見なされない、何も持っていないような者が救いを受ける。イエスを信じることによる大転換、大逆転劇がバルティマイに起こりました。

イエスがこの世界におられた時、他にもイエスを知る機会があり、実際にイエスと接することができた人は、バルティマイだけではありません-大勢いました、
イエスに敵対していましたが、旧約聖書を教えていた民の指導者でもあった律法学者やパリサイ人たち。イエスに悪霊を追い出してもらった人々。病を癒してもらった人々。イエスの奇蹟を見、あるいは経験した多くの群衆などです。 その中にはバルティマイとは正反対の立場にあった、金持ちの青年も含まれます。彼は財産も高い地位も名誉も、人がうらやむ全てを持っていました。しかしイエスの下から立ち去っていきました。この青年をはじめ、多くの人々がイエスと接点がありました。もっとイエスを知ることも、さらに一歩踏み込んでイエスを信じることもできました。しかしイエスから立ち去って行きました。
聖書によれば、またイエスご自身が言われることばによれば、イエスと信仰によって繋がらなかった者は、イエスの贖いの代価に伴う罪の赦しや神の子とされる特権、永遠のいのちなどに与ることができません。神の国に入れる者と入れない者は、イエスを信じるか信じないかで決まります。

また、バルティマイが救われているという根拠は、彼の叫びにも表れています。彼はイエスのことを「ダビデの子」と叫びました。当時のユダヤの人々は、救い主、メシヤがダビデの子孫から出ると信じていました。バルティマイは、目は見えませんでしたが、耳は聞こえていました。彼は他の人々からイエスの噂や色々な御業を聞いてきた結果、イエスをすでに救い主であると信じました。彼の叫びから、また、イエスに呼ばれて踊り上がってイエスの下に来た、と言う描写からも明らかです。 イエスが自分のところに来て下さるだけで自分は癒される。そのような強い確信をバルティマイが持っていたことが分かります。そして彼はイエスを信じているがゆえに、癒しのチャンスを絶対に自分のものにしようとしました。しかし彼ができることは叫ぶことだけでした。それゆえ彼は自分の出来ること、イエスを信じる信仰を、叫ぶことを通して表明しました。 加えて彼の信仰とその確信は、上着を投げ捨てたことにも表されています。 この上着とは、普段着の上に羽織る厚手の布やマントのようなものです。多機能でした。昼間は寒さを防ぎ、夜は寒さを防ぐだけでなく、毛布の代わりになるような、特に貧しいに人にとっては命を守るほどに大切なものでした。それゆえ、バルティマイの持っていた唯一の財産であったと言えるものです。 この上着はバルティマイにとって、ただの上着ではありませんでした。生活の基盤であり、自分の全て、でした。これを投げ捨てる。まるでこれまでの自分を捨て、自分の持っているものをイエスに差し出す。
イエスに対する献身の現れにも見えます。

バルティマイのイエスに対する信仰、信頼、意志、決意、決断、献身の思いに、イエスはしっかりと応答して下さいました。イエスは52節においてこのようにバルティマイに語られました。
「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救いました。」この後すぐにバルティマイは癒されました。実際にバルティマイを癒されたのはイエスご自身です。実際に彼を癒し、同時に永遠のいのちを与え、滅びから救われたのはイエスご自身でした。しかしイエスは、彼自身の信仰が彼を、バルティマイ自身を救った-救いを彼の手柄としているほどに、彼の信仰を高く評価されています。イエスはバルティマイの信仰、決心、決断、意志、献身の思いに応えるだけではなく、彼の信仰を尊んでおられます。自分の持っている全てをかけてイエスの下にきたバルティマイに対する、イエスの愛と憐れみ、優しさが、バルティマイへの応答を通して豊かに表されています。

そしてバルティマイはイエスの行くところにはどこにでも、進まれるところにはどんな場所でもついて行くことになります。 こうしてバルティマイは数日後、十字架上で叫び声を上げられるイエスの姿を見ることになります。イエスに開いて頂いたその目で、自分の目を開いて下さったお方が十字架につけられる光景をしっかりと見たのです。自分のために足を留め、立ち止って下さったイエス。自分という存在を認め、肉体的な目を開いて下さったイエス。霊的な目も開き、永遠のいのちも与えて下さったイエス。 その愛すべきイエスが自分の罪の身代わりのために、人々の罪の身代わりのために十字架に架けられている。
この時バルティマイは、自分の存在の重みを感じたはずです。私のためにイエスは十字架に架かって下さるほど私を愛しておられる。私をそれほどまでに価値のある者なのだ。 感謝と痛みが、バルティマイの胸にあったと思います。

バルティマイだけではありません。私たちの信仰に応えて下さったイエス。私たちを高価で尊いと言って下さり、認めて下さったイエス。罪人である私たちを、私を憐れみ、愛され、ご自分を献げ尽くして下さったイエス。

この神の子、救い主であるイエス・キリストが、私たちの神、私の主になって下さったことを感謝しつつ、これからもイエスについて行く者、足跡に従う者でありたいと願います。
祈ります
「癒しより大切なこと」
そこでイエスは言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救いました。」すると、すぐに彼は見えるようになり、道を進むイエスについて行った。