2026年6月21日 マルコの福音書12:28~34「神の国へのステップ」
律法学者の一人が来て、彼らが議論するのを聞いていたが、イエスが見事に答えられたのを見て、イエスに尋ねた。「すべての中で、どれが第一の戒めですか。」イエスは答えられた。「第一の戒めはこれです。『聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』第二の戒めはこれです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。』これらよりも重要な命令は、ほかにありません。」律法学者はイエスに言った。「先生、そのとおりです。主は唯一であって、そのほかに主はいない、とあなたが言われたことは、まさにそのとおりです。そして、心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛すること、また、隣人を自分自身のように愛することは、どんな全焼のささげ物やいけにえよりもはるかにすぐれています。」イエスは、彼が賢く答えたのを見て言われた。「あなたは神の国から遠くない。」それから後は、だれもイエスにあえて尋ねる者はいなかった。
本日もまた、律法学者が登場します。しかしイエスに敵対してきた今までの律法学者とは、違うようです。それは彼がイエスから、「あなたは神の国から遠くない」と言われたことからも分かります。しかしこの律法学者は賢く答えたにもかかわらず、イエスから、「あなたは神の国に入ることができる!」とは言われませんでした。なぜでしょうか。神の国に入れることと、神を愛し、隣人を愛することとが、どのような関りがあるのでしょうか。共に見て行きたいと思います。
冒頭にはこのように記されています。律法学者の一人が来て、彼らが議論するのを聞いていたが、イエスが見事に答えられたのを見て、イエスに尋ねた。
「彼らの議論」とは、18節以下、イエスとサドカイ派の人々の復活をめぐる議論です。前回共に見て来ました。この当時、復活をめぐってパリサイ派とサドカイ派が対立していました。サドカイ派は、「復活はない」と言っていたのに対して、パリサイ派は復活を信じていました。そのような中で、イエスが聖書に基づいてはっきりと死者の復活をサドカイ派の人々に語られ、イエスが自分たちと同じことを教えているという親近感を、彼は抱いたようです。 律法学者は、律法、神の教えであり戒めを研究し、自分自身がそれを守るだけでなく、一般の人々に、律法を守って生活するためのアドバイスをしていました。六百以上の戒めを大切なものとしていたことから、膨大な律法をどのように解釈し、またどのように人々に教えるかということをいつも考えていました。そこで彼は、好意を抱いたイエスから、律法で一番大切なことを尋ねることにしました。彼の真面目で真剣な問いに対して、イエスも誠実に、そしてはっきりとお答えになります。29、30節です。
イエスは答えられた。「第一の戒めはこれです。『聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』イエスは旧約聖書、申命記第6章4、5節からの引用をもって、律法の第一としました。ユダヤの人々はこの教えを大切にし、毎日唱えていたものです。 この第一の教え、戒めは、一言で言えば「神を愛しなさい」ということです。神を愛することこそが、あらゆる律法の要、神の民としての生活の中心だとイエスは言われている。 ところで「主を愛しなさい」と命令形で訳されています。原語であるヘブル語では完了形で記されています。ヘブル語では未来に確実にそうなることは、~した、~するようになると、完了形で表します。つまり申命記の6:5節は、「あなたは愛するようになる」と訳すことができるものです。その引用ですから、本日の箇所の12:30節の直訳は「あなたはあなたの心の全てをもって、あなたの精神の全てをもって、あなたの思いの全てをもって、あなたの力の全てをもって、神を愛するだろう。」と訳すことができるものです。
イスラエル民族は神に特別に選ばれている民族であり、神の栄光、素晴らしさを他の民族、部族に伝えていく使命、役割を担っていました。それにも関わらず彼らは神への信仰・不信仰、従順、不従順を繰り返して来ました。しかしその都度預言者などが神から遣わされ、神に立ち返るよう、促されて来ました。旧約聖書にその歩みが描写されています。そのような彼らを神は見捨てることはありませんでした。従ってイスラエルに対する主なる神の深い愛、忍耐、慈しみと恵みを彼らが覚える時、もはや彼らは義務や命令から神を努力して愛していくのはなく、喜んで、感謝を持って自発的に神を愛していくようになる。愛していくはずだ。そのような主なる神の思い、彼らに対する期待が伝わって来ます。 そしてこの神のイスラエル民族に対する愛、忍耐、そして期待は、同じように今を生きる私たちも含め、全ての人類に向けられているものだと思います。
このような神の愛、忍耐、期待や思い、願いが、イエスが言われたもう一つの大切な戒めにも表されています。それが、「隣人を自分のように愛しなさい」です。イエスは旧約聖書、レビ記第19章18節を引用されています。ここには「自分を愛するように隣人を愛しなさい」と記されています。神を愛することと、隣人を愛すること。この二つが分かち難く結び合って、律法の中心をなしているということです。そしてこの第二の戒めも、第一の戒めと同様に、命令形だけでなく、未来形で訳すことが出来る箇所です。「あなたは、あなたの隣人をあなた自身として愛するであろう(愛するようになる。)」この第二の戒めはまた、イエスが言われた第一の戒めである、人間が大切にしなければならない第一の律法である、「神を心から愛するということ」の、コインの表裏のようです。つまり神を心から愛する者は、自分と自分の隣人を愛する者になるということであり、自分と自分の隣人を心から愛する者は、神を心から愛する者になるということです。
イエスは律法学者に「あなたは神の国から遠くない。」と言われました。神の国はあなたの近くにある、あなたはいい線まで来ている、しかしまだそこに到達してはいない、とおっしゃったのです。正直であり、誠実な彼がなお神の国に入ることができないでいる原因は何なのでしょうか。
この律法学者は、「先生、その通りです」と言って、イエスが語られたことを称賛し、同意し、また共感しました。しかし神の国に入ることができるとイエスに言われなかったことから、彼には神への、すなわちイエスへの信仰が無かったことが分かります。つまり彼は自分の力で神を愛し、また隣人を愛していくことができると思っていた、そしてそのように生きていた、ということです。
彼は律法を学ぶことや、人々に律法を教えることに熱心だったかもしれませんが、その中心には最も大切な神がいませんでした。では、私たちはどうでしょうか。
心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、神を愛しているでしょうか。旧約聖書、伝道者の書7章には、「順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ」ということばがあります。順境、すなわち順風満帆の時は、人は言われなくても喜びます。しかし逆境、試練や苦難が来ると、私たちはその試練や苦難を通して自分のあり方を吟味したり、成長の機会と捉え感謝するよりも、時に神に責任転嫁、神のせいにしてしまうことがないでしょうか。なぜ神はこのような痛みの経験を許可されたのか、許されたのか?失望したり、怒ったことが、そして現在、怒っていることがないでしょうか。また私たちは、隣人を真実に愛しているでしょうか。イエスが、好きな人だけ愛しなさい、と言っておられないことは明白です。自分に敵対し、迫害する者のために祈りなさい、と言われるのがイエスです。つまり赦せない人を赦し、愛せない人を愛する、これが、イエスが言われる隣人を愛する、ということです。また、自分を愛するよう隣人を愛しなさい、ともイエスは言われました。私たちは時に自分自身を受け入れることが出来なかったり、愛することができないことがあります。自分の過去の過ち、自分で自分のことが自制できない弱さ、悪いことの方に傾く罪深さ、などを通して自分に嫌悪することがあるからです。そのような私たちにイエスは、一人一人が自分自身も受け入れ、赦し、愛するようにと言われています。しかし私たちはそのように人を赦し、自分を赦すという生き方をして来たでしょうか。またしているでしょうか?私自身を見る時、心から神を愛すること、心から自分を愛すること、そして心から隣人を愛すること、できていない、とよく思わされます。神が、イエスが求めておられることからどれだけ自分が離れているか、日常生活の中でも思い知らされます。そして自分の努力によっていくら頑張っても、神の規準に到達することが出来ないと、認めざるを得ません。最近息子にこのように言われました。「パパ、この頃ブチ切れなくなったね!-言ってくれるな~と感心しました。」この時ただ笑うしかありませんでしたが、子どもを叱るというより、感情的に怒ってしまいます。しかも何度も繰り返してしまう。(そして、これを購入しました。掲げる)日々の生活を通して、自分の愛のなさ、忍耐のなさを認めます。もちろん私の弱さは子育てだけに限りません。しかしそのような欠けや弱さのある自分に気づき、時に気付かされ、愕然とする。それは良いことかもしれません。
先週、神が人間に示された人間が生きる上でのルール、神の教え・戒めである十戒を始めとした律法の規準の高さ、厳しさに達することができないと心砕かれる者は、イエスの方に向かうとお話しました。 律法は、私たちをキリストに導く養育係になるというお話でした。律法に示されている神の規準の高さに触れる時、またイエスが言われ、実際に人々に対する愛の言動、その行いを聖書から知る時、自分には心から神を愛することも、また心から自分を愛することも、そして心から隣人を愛することはできない。自分に絶望するしかないのではないでしょうか。しかし私は、自分に絶望することは素晴らしいと思っています。そうでなければ、この律法学者のように、知識や知恵があり、正直に、また誠実に生きていたとしても、イエスから、「あなたは神の国に入ることができる。」、とは言われないし、実際入ることはできないからです。すなわちそれは、イエスとの愛の関係を築くことができないことを意味します。 イエスは公に福音を宣べ伝え始められた時、このように宣言されました。「神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」今年もこの神の国について見ています。神の国が近づいたとは、神の国が到来したと訳せることばです。到来ですから、イエスを通して神の国、すなわち神であるイエスが統治される国が、私たち人類の近くまで来た訳ですが、その神の国に誰でも入ることができる訳ではありません。神の国に入るには明確な条件があることを、イエスは言われました。それは、「悔い改める」ことでした。人生の、また自分の生き方、あり方の方向転換です。そしてその向かう先は、救い主、イエス・キリストです。イエスに信頼を置き、イエスを信じて歩む生き方への変換です。そして私たちの主、私たちの人生のあるじになって下さるイエスは、私たちが信頼を置き、頼ることができるに十分な方、また相応しいお方です。なぜなら律法を二つにまとめられたイエスご自身が、その律法を完全に守られたからです。律法に生き、律法を完成させたお方です。
そしてそれは、十字架に表されています。父なる神が罪ある人間を救うために、御子イエス・キリストを十字架にかけて殺す。イエスが全人類の罪を全て背負われて死ぬ。身代わりの死を通して人類を救うという父なる神のご計画に、イエスは完全に従われました。-なぜでしょうか?-それは父なる神を愛し、大切にされ、第一とされたからです。ではなぜイエスは、神を無視し、神に敵対しながら滅びに向かっている私たち人間の全ての罪を、ご自分で全て背負われて、十字架につかれたのでしょうか?-それは私たち一人一人の人間を心から愛しておられるからです。
神の規準を全て、完全に満たし、また私たち人間を心から愛しておられるイエスが、一方誠実ではありますが、自分中心に、また自分の努力で、神を抜きにして生きているような律法学者に対して、「あなたは神の国から遠くない」と言われた、いや、おっしゃって下さいました。彼は神から離れ、自分の力で生きていたような人がしたが、彼の正直さ、誠実さをイエスは認めて下さっていた。
その上でイエスはこのように彼を招いておられると思います。「あなたは神の国から遠くない。あなたに後必要なのは、そして絶対に必要なのは私だ。私に信頼を置き、私を信じて歩みなさい。そうすればあなたは神の国に入ることができる!」「あなたは神の国から遠くない」と言われたのは、この律法学者をご自分お下に招いておられる、そのように私は思っています。そしてこの招きは、全ての人類に、今を生きる私たち一人一人にも向けられている。そのように信じています。
本日はこの神から、すなわちイエスからの招きを、招詞として、礼拝の冒頭で読んで頂きました。
ローマ人への手紙10:17節です。前の訳ではこのように記されています。「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」神を愛することも、自分を愛することも、隣人を愛することもままならない私たち人間ですが、イエスは私たちの罪深さを知り、弱さに同情され、助けて欲しいと願い、求める者には必ず応えて下さるお方です。そしてそのイエスとの愛のある関係に導かれるのに必要なことが、イエスへの信仰です。そしてそれは、イエスのことば、聖書のことばを聞くことから始まります。
イエスの愛の招きに応答し、イエスを信じた者全ては、イエスが統治される神の国に入ることができます。そこはイエスとの愛の交わりが永遠に続く場所です。そしてイエスとの愛の交わりが完成する時は、聖書に何度も何度も記され、預言されている再臨、イエスが再びこの世界に戻って来られる時です。その時私たちは、神を心から愛し、自分を心から愛し、隣人を心から愛するものに造り変えられます。その完成に向かって私たちは日々自分の弱さや欠点、罪深く、愛の足りない者であることを聖書のみ言葉から教えられ、イエスがなされた愛の言動から思い知らされていきます。しかしそれは、イエスへと向かう大きな原動力となること、素晴らしいことです。 神の前に、イエスの前に自分を飾らず、弱さを隠さず、「私は愛が足りません。あなたの助けが必要です。あなたの愛で私を満たして下さい。そして神を愛し、自分を愛し、隣人を愛する者にして下さい。」そのようにイエスに向かう者を、イエスは決して見放すことも、また見捨てられることもありません。その根拠が十字架です。十字架に架かるほど私たち人間を、そして「私を」愛して下さっている証拠ですから。 このイエスの愛に触れられながら、時に慰められ、励まされながら、心から神を、心かから自分を、そして心から隣人を愛していくことができますように。
祈ります。「神の国へのステップ」
イエスは、彼が賢く答えたのを見て言われた。「あなたは神の国から遠くない。」それから後は、だれもイエスにあえて尋ねる者はいなかった。
律法学者の一人が来て、彼らが議論するのを聞いていたが、イエスが見事に答えられたのを見て、イエスに尋ねた。「すべての中で、どれが第一の戒めですか。」イエスは答えられた。「第一の戒めはこれです。『聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』第二の戒めはこれです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。』これらよりも重要な命令は、ほかにありません。」律法学者はイエスに言った。「先生、そのとおりです。主は唯一であって、そのほかに主はいない、とあなたが言われたことは、まさにそのとおりです。そして、心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛すること、また、隣人を自分自身のように愛することは、どんな全焼のささげ物やいけにえよりもはるかにすぐれています。」イエスは、彼が賢く答えたのを見て言われた。「あなたは神の国から遠くない。」それから後は、だれもイエスにあえて尋ねる者はいなかった。
本日もまた、律法学者が登場します。しかしイエスに敵対してきた今までの律法学者とは、違うようです。それは彼がイエスから、「あなたは神の国から遠くない」と言われたことからも分かります。しかしこの律法学者は賢く答えたにもかかわらず、イエスから、「あなたは神の国に入ることができる!」とは言われませんでした。なぜでしょうか。神の国に入れることと、神を愛し、隣人を愛することとが、どのような関りがあるのでしょうか。共に見て行きたいと思います。
冒頭にはこのように記されています。律法学者の一人が来て、彼らが議論するのを聞いていたが、イエスが見事に答えられたのを見て、イエスに尋ねた。
「彼らの議論」とは、18節以下、イエスとサドカイ派の人々の復活をめぐる議論です。前回共に見て来ました。この当時、復活をめぐってパリサイ派とサドカイ派が対立していました。サドカイ派は、「復活はない」と言っていたのに対して、パリサイ派は復活を信じていました。そのような中で、イエスが聖書に基づいてはっきりと死者の復活をサドカイ派の人々に語られ、イエスが自分たちと同じことを教えているという親近感を、彼は抱いたようです。 律法学者は、律法、神の教えであり戒めを研究し、自分自身がそれを守るだけでなく、一般の人々に、律法を守って生活するためのアドバイスをしていました。六百以上の戒めを大切なものとしていたことから、膨大な律法をどのように解釈し、またどのように人々に教えるかということをいつも考えていました。そこで彼は、好意を抱いたイエスから、律法で一番大切なことを尋ねることにしました。彼の真面目で真剣な問いに対して、イエスも誠実に、そしてはっきりとお答えになります。29、30節です。
イエスは答えられた。「第一の戒めはこれです。『聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』イエスは旧約聖書、申命記第6章4、5節からの引用をもって、律法の第一としました。ユダヤの人々はこの教えを大切にし、毎日唱えていたものです。 この第一の教え、戒めは、一言で言えば「神を愛しなさい」ということです。神を愛することこそが、あらゆる律法の要、神の民としての生活の中心だとイエスは言われている。 ところで「主を愛しなさい」と命令形で訳されています。原語であるヘブル語では完了形で記されています。ヘブル語では未来に確実にそうなることは、~した、~するようになると、完了形で表します。つまり申命記の6:5節は、「あなたは愛するようになる」と訳すことができるものです。その引用ですから、本日の箇所の12:30節の直訳は「あなたはあなたの心の全てをもって、あなたの精神の全てをもって、あなたの思いの全てをもって、あなたの力の全てをもって、神を愛するだろう。」と訳すことができるものです。
イスラエル民族は神に特別に選ばれている民族であり、神の栄光、素晴らしさを他の民族、部族に伝えていく使命、役割を担っていました。それにも関わらず彼らは神への信仰・不信仰、従順、不従順を繰り返して来ました。しかしその都度預言者などが神から遣わされ、神に立ち返るよう、促されて来ました。旧約聖書にその歩みが描写されています。そのような彼らを神は見捨てることはありませんでした。従ってイスラエルに対する主なる神の深い愛、忍耐、慈しみと恵みを彼らが覚える時、もはや彼らは義務や命令から神を努力して愛していくのはなく、喜んで、感謝を持って自発的に神を愛していくようになる。愛していくはずだ。そのような主なる神の思い、彼らに対する期待が伝わって来ます。 そしてこの神のイスラエル民族に対する愛、忍耐、そして期待は、同じように今を生きる私たちも含め、全ての人類に向けられているものだと思います。
このような神の愛、忍耐、期待や思い、願いが、イエスが言われたもう一つの大切な戒めにも表されています。それが、「隣人を自分のように愛しなさい」です。イエスは旧約聖書、レビ記第19章18節を引用されています。ここには「自分を愛するように隣人を愛しなさい」と記されています。神を愛することと、隣人を愛すること。この二つが分かち難く結び合って、律法の中心をなしているということです。そしてこの第二の戒めも、第一の戒めと同様に、命令形だけでなく、未来形で訳すことが出来る箇所です。「あなたは、あなたの隣人をあなた自身として愛するであろう(愛するようになる。)」この第二の戒めはまた、イエスが言われた第一の戒めである、人間が大切にしなければならない第一の律法である、「神を心から愛するということ」の、コインの表裏のようです。つまり神を心から愛する者は、自分と自分の隣人を愛する者になるということであり、自分と自分の隣人を心から愛する者は、神を心から愛する者になるということです。
イエスは律法学者に「あなたは神の国から遠くない。」と言われました。神の国はあなたの近くにある、あなたはいい線まで来ている、しかしまだそこに到達してはいない、とおっしゃったのです。正直であり、誠実な彼がなお神の国に入ることができないでいる原因は何なのでしょうか。
この律法学者は、「先生、その通りです」と言って、イエスが語られたことを称賛し、同意し、また共感しました。しかし神の国に入ることができるとイエスに言われなかったことから、彼には神への、すなわちイエスへの信仰が無かったことが分かります。つまり彼は自分の力で神を愛し、また隣人を愛していくことができると思っていた、そしてそのように生きていた、ということです。
彼は律法を学ぶことや、人々に律法を教えることに熱心だったかもしれませんが、その中心には最も大切な神がいませんでした。では、私たちはどうでしょうか。
心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、神を愛しているでしょうか。旧約聖書、伝道者の書7章には、「順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ」ということばがあります。順境、すなわち順風満帆の時は、人は言われなくても喜びます。しかし逆境、試練や苦難が来ると、私たちはその試練や苦難を通して自分のあり方を吟味したり、成長の機会と捉え感謝するよりも、時に神に責任転嫁、神のせいにしてしまうことがないでしょうか。なぜ神はこのような痛みの経験を許可されたのか、許されたのか?失望したり、怒ったことが、そして現在、怒っていることがないでしょうか。また私たちは、隣人を真実に愛しているでしょうか。イエスが、好きな人だけ愛しなさい、と言っておられないことは明白です。自分に敵対し、迫害する者のために祈りなさい、と言われるのがイエスです。つまり赦せない人を赦し、愛せない人を愛する、これが、イエスが言われる隣人を愛する、ということです。また、自分を愛するよう隣人を愛しなさい、ともイエスは言われました。私たちは時に自分自身を受け入れることが出来なかったり、愛することができないことがあります。自分の過去の過ち、自分で自分のことが自制できない弱さ、悪いことの方に傾く罪深さ、などを通して自分に嫌悪することがあるからです。そのような私たちにイエスは、一人一人が自分自身も受け入れ、赦し、愛するようにと言われています。しかし私たちはそのように人を赦し、自分を赦すという生き方をして来たでしょうか。またしているでしょうか?私自身を見る時、心から神を愛すること、心から自分を愛すること、そして心から隣人を愛すること、できていない、とよく思わされます。神が、イエスが求めておられることからどれだけ自分が離れているか、日常生活の中でも思い知らされます。そして自分の努力によっていくら頑張っても、神の規準に到達することが出来ないと、認めざるを得ません。最近息子にこのように言われました。「パパ、この頃ブチ切れなくなったね!-言ってくれるな~と感心しました。」この時ただ笑うしかありませんでしたが、子どもを叱るというより、感情的に怒ってしまいます。しかも何度も繰り返してしまう。(そして、これを購入しました。掲げる)日々の生活を通して、自分の愛のなさ、忍耐のなさを認めます。もちろん私の弱さは子育てだけに限りません。しかしそのような欠けや弱さのある自分に気づき、時に気付かされ、愕然とする。それは良いことかもしれません。
先週、神が人間に示された人間が生きる上でのルール、神の教え・戒めである十戒を始めとした律法の規準の高さ、厳しさに達することができないと心砕かれる者は、イエスの方に向かうとお話しました。 律法は、私たちをキリストに導く養育係になるというお話でした。律法に示されている神の規準の高さに触れる時、またイエスが言われ、実際に人々に対する愛の言動、その行いを聖書から知る時、自分には心から神を愛することも、また心から自分を愛することも、そして心から隣人を愛することはできない。自分に絶望するしかないのではないでしょうか。しかし私は、自分に絶望することは素晴らしいと思っています。そうでなければ、この律法学者のように、知識や知恵があり、正直に、また誠実に生きていたとしても、イエスから、「あなたは神の国に入ることができる。」、とは言われないし、実際入ることはできないからです。すなわちそれは、イエスとの愛の関係を築くことができないことを意味します。 イエスは公に福音を宣べ伝え始められた時、このように宣言されました。「神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」今年もこの神の国について見ています。神の国が近づいたとは、神の国が到来したと訳せることばです。到来ですから、イエスを通して神の国、すなわち神であるイエスが統治される国が、私たち人類の近くまで来た訳ですが、その神の国に誰でも入ることができる訳ではありません。神の国に入るには明確な条件があることを、イエスは言われました。それは、「悔い改める」ことでした。人生の、また自分の生き方、あり方の方向転換です。そしてその向かう先は、救い主、イエス・キリストです。イエスに信頼を置き、イエスを信じて歩む生き方への変換です。そして私たちの主、私たちの人生のあるじになって下さるイエスは、私たちが信頼を置き、頼ることができるに十分な方、また相応しいお方です。なぜなら律法を二つにまとめられたイエスご自身が、その律法を完全に守られたからです。律法に生き、律法を完成させたお方です。
そしてそれは、十字架に表されています。父なる神が罪ある人間を救うために、御子イエス・キリストを十字架にかけて殺す。イエスが全人類の罪を全て背負われて死ぬ。身代わりの死を通して人類を救うという父なる神のご計画に、イエスは完全に従われました。-なぜでしょうか?-それは父なる神を愛し、大切にされ、第一とされたからです。ではなぜイエスは、神を無視し、神に敵対しながら滅びに向かっている私たち人間の全ての罪を、ご自分で全て背負われて、十字架につかれたのでしょうか?-それは私たち一人一人の人間を心から愛しておられるからです。
神の規準を全て、完全に満たし、また私たち人間を心から愛しておられるイエスが、一方誠実ではありますが、自分中心に、また自分の努力で、神を抜きにして生きているような律法学者に対して、「あなたは神の国から遠くない」と言われた、いや、おっしゃって下さいました。彼は神から離れ、自分の力で生きていたような人がしたが、彼の正直さ、誠実さをイエスは認めて下さっていた。
その上でイエスはこのように彼を招いておられると思います。「あなたは神の国から遠くない。あなたに後必要なのは、そして絶対に必要なのは私だ。私に信頼を置き、私を信じて歩みなさい。そうすればあなたは神の国に入ることができる!」「あなたは神の国から遠くない」と言われたのは、この律法学者をご自分お下に招いておられる、そのように私は思っています。そしてこの招きは、全ての人類に、今を生きる私たち一人一人にも向けられている。そのように信じています。
本日はこの神から、すなわちイエスからの招きを、招詞として、礼拝の冒頭で読んで頂きました。
ローマ人への手紙10:17節です。前の訳ではこのように記されています。「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」神を愛することも、自分を愛することも、隣人を愛することもままならない私たち人間ですが、イエスは私たちの罪深さを知り、弱さに同情され、助けて欲しいと願い、求める者には必ず応えて下さるお方です。そしてそのイエスとの愛のある関係に導かれるのに必要なことが、イエスへの信仰です。そしてそれは、イエスのことば、聖書のことばを聞くことから始まります。
イエスの愛の招きに応答し、イエスを信じた者全ては、イエスが統治される神の国に入ることができます。そこはイエスとの愛の交わりが永遠に続く場所です。そしてイエスとの愛の交わりが完成する時は、聖書に何度も何度も記され、預言されている再臨、イエスが再びこの世界に戻って来られる時です。その時私たちは、神を心から愛し、自分を心から愛し、隣人を心から愛するものに造り変えられます。その完成に向かって私たちは日々自分の弱さや欠点、罪深く、愛の足りない者であることを聖書のみ言葉から教えられ、イエスがなされた愛の言動から思い知らされていきます。しかしそれは、イエスへと向かう大きな原動力となること、素晴らしいことです。 神の前に、イエスの前に自分を飾らず、弱さを隠さず、「私は愛が足りません。あなたの助けが必要です。あなたの愛で私を満たして下さい。そして神を愛し、自分を愛し、隣人を愛する者にして下さい。」そのようにイエスに向かう者を、イエスは決して見放すことも、また見捨てられることもありません。その根拠が十字架です。十字架に架かるほど私たち人間を、そして「私を」愛して下さっている証拠ですから。 このイエスの愛に触れられながら、時に慰められ、励まされながら、心から神を、心かから自分を、そして心から隣人を愛していくことができますように。
祈ります。「神の国へのステップ」
イエスは、彼が賢く答えたのを見て言われた。「あなたは神の国から遠くない。」それから後は、だれもイエスにあえて尋ねる者はいなかった。