2026年8月16日 マルコの福音書13:9~13「忍耐と救いを与える聖霊の助け」
あなたがたは用心していなさい。人々はあなたがたを地方法院に引き渡します。あなたがたは、会堂で打ちたたかれ、わたしのために、総督たちや王たちの前に立たされます。そのようにして彼らに証しするのです。まず福音が、すべての民族に宣べ伝えられなければなりません。人々があなたがたを捕らえて引き渡すとき、何を話そうかと、前もって心配するのはやめなさい。ただ、そのときあなたがたに与えられることを話しなさい。話すのはあなたがたではなく、聖霊です。また、兄弟は兄弟を、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に逆らって立ち、死に至らせます。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。
「小黙示録」と呼ばれているマルコの福音書14章、「世の終わり」を引き続き見ています。終わりの日が近づくにつれ、色々な前兆が現れて来る。だから「惑わされてはいけません」とイエスは警告されました。そしてイエスは9節において、「用心しなさい」つまり「気をつけなさい」と、終わりの日とどのように向き合ったら良いか、イエスを信じるキリスト者に語っておられます。それは「わたしのために」とあるように、イエスを信じ、イエスに従って行く者に起こって来る「終わりの日」における迫害です。9節をお読みします。
あなたがたは用心していなさい。人々はあなたがたを地方法院に引き渡します。あなたがたは、会堂で打ちたたかれ、わたしのために、総督たちや王たちの前に立たされます。そのようにして彼らに証しするのです。会堂や地方法院-小さな裁判所のようなものですが、そのような場所で迫害されていたのはイエスの弟子たち、ユダヤ人たちでした。 迫害する者たちもユダヤ人たちでした。しかしその迫害はやがて拡大して行き、総督たちや王たちからも迫害されることになる、すなわち迫害の範囲が広がって行く。また迫害される方も、ユダヤ人以外の異邦人にも拡大して行く、ということをイエスは語られましたが、それは現実となって行きます。
イエスは10節においてこのように語られました。「まず福音が、すべての民族に宣べ伝えられなければなりません。平行箇所のマタイの福音書の24章においては、福音の拡大が終わりの日と重なり合っていることが記されています。マタイ24:14 御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます。従ってキリストの体なる教会が全世界に建て上げられている、すなわち福音が全世界に届いている現代は、すでに終わりの日が始まっているということであり、私たちはそのような時代に生きている、生かされている、と言えます。
前回共に見て来ましたが、終わりの日である「その日」が来る前に、天変地異などの異常気象、戦争、迫害などが、頻度も強さも増していくとイエスは語られましたから、終わりの日である「その日」にはまだ到達していないものと思われます。終わりの日に裁きが行われる「その日」まではまだ時間がある。しかし迫害は確実に、そして日増しに強まっていく。
そしてイエスはこの世の終わりにおける迫害に直面する時の心構えとして、本日の聖書箇所の中でこのように語られました。11節です。人々があなたがたを捕らえて引き渡すとき、何を話そうかと、前もって心配するのはやめなさい。ただ、そのときあなたがたに与えられることを話しなさい。話すのはあなたがたではなく、聖霊です。
聖霊が迫害において助けて下さる。聖霊が、迫害の中にあってもその中を導かれ、歩ませて下さる。イエスが11節で語られたこと。まさしくそのことが歴史的に起こったのが、新約聖書、使徒の働き6章と7章に描写されています。イエスの弟子の一人であったステパノが、普段ギリシャ語を話すユダヤ人たちと議論をしたことが記されています。彼らはパレスチナの外の地域(ヘレニズム世界)で生まれ育ったため、日常的にギリシア語を使用し、当時の国際的な教養や思想背景を持っていました。ステパノは彼らに向かって「あなたたちの先祖は主なる神から遣わされた預言者たちを迫害し、今度は神ご自身であるイエスを裏切り、殺す者となった。」と語りました。ステパノはさらに、あなたがたは律法を大切にしているといいながら、守ったことがないではないか、と糾弾しました。「しかし、彼が語る時の知恵と御霊に対抗することはできなかった。」とあるように、知恵と聖霊に満たされて語るステパノの論理に、彼らは議論では勝てず、何も言い返すことが出来ませんでした。しかし最終的にステパノは彼らの怒りを買い、石打ちによって殺されてしまいました。殉教です。この時ステパノは扇動された人々によって、サンヘドリンと呼ばれる、祭司長や長老、律法学者など、約70人の議員で構成されていた議会に連れて行かれました。彼が議論、弁明をした時、何の準備もできませんでした。しかし「彼が語る時の知恵と御霊に対抗することはできなかった。」と記されている通り、敵対者はステパノに何も言い返すことはできませんでした。また、必要な話すべきことばは聖霊が与えて下さいましたが、その結果は殉教でした。 しかしこの迫害、殉教には続きがあります。ステパノの殉教をきっかけにエルサレム教会が大迫害を受け、イエスを信じるキリスト者たちが、ユダヤやサマリヤの諸地域に散らされ、その結果、教会が各地で立ち上がっていきます。 福音はローマ帝国にまで広がって行きましたが、多くの人々が、火あぶりやライオンの餌食などになるといった凄まじい迫害によっていのちを落として行きました。しかし命がけで信仰を守る殉教者たちの姿や、疫病の時に病人を看病するなど、過酷な状況下でも隣人愛を実践する姿を見た周囲の人々が心を動かされ、数百年間続く迫害においても、キリスト者は増え続けました。 その迫害を受けて、2世紀頃のキリスト教の教父、神学者であったテルトゥリアヌスはこのように述べました。「殉教者の血は、教会の種子、種である」古代ローマ帝国によるキリスト教迫害の時代に、テルトゥリアヌスが権力者や迫害者に向けた言葉です。 キリスト者が信仰のために命を落としても、その流された血や耐え忍ぶ姿が「種」となって、その姿を見ていた人々の心に新たな信仰の芽を呼び起こし、結果として信仰者の群れも、またイエスの体なる教会も大きく成長した、という意味が込められています。実際にキリスト者は迫害されればされるほど増え広がって行き、最終的にはローマ皇帝テオドシウスがキリスト教を国教としました。紀元392年でした。近代においては過去、日本の支配の下で、朝鮮のクリスチャンたちは厳しい迫害を受けました。神社への参拝を強制され、抵抗した多くの人々が殉教して行きました。今日、韓国ではクリスチャンが多くいますが、それは、殉教者たちの流した血が種となったからだと言うことができるでしょう。またインドや中国など、政府や過激派組織による迫害が起きている場所でも、キリスト者たちの強い姿勢や奉仕を通じて、かえってキリスト者が増えて行きました。 また現在のイランですが、政府による厳しい監視や制限、投獄などの困難、迫害がある中、近年急激にキリスト者が増えていると言われています。ローマ帝国の下でもそうだったように、迫害によって信仰が強められ、殉教者が出ることによって教会はむしろ強くなり、増え広がっていきました。
この迫害は歴史的にも起きましたが、個人レベルでも起きた、また起きることになるとイエスは言われます。12節です。また、兄弟は兄弟を、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に逆らって立ち、死に至らせます。個人レベルの迫害によって、兄弟、子、両親など、家族から迫害され、死に至る人がいる、ということをイエスは語られました。肉体的ないのちに関しては、時に迫害によって失われる、つまり殺されてしまうこともある、ということです。そしてその迫害の先にあるものをイエスは13節で語られました。「また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。」
色々な迫害が起こって来る。イエスを信じ、従って来るだけで人々に憎まれる。しかし最後まで耐え忍ぶ人は救われるとイエスは言われました。つまり、迫害され、いのちを落とすようなことがあっても救われるということです。ですからここでイエスが言われている救いとは、肉体的な領域を指していないことは明らかです。前回、「終わりの日のしるし」というメッセージの中で、私たちが神以外に頼みにしているすべては滅び、無くなっていくというお話をしました。それは私たちの体も含まれます。一瞬、瞬きに過ぎない私たちの限りある肉体の人生が少し早くなったとしても、その先にある永遠のいのちを神は見据えておられるため、迫害によって肉体的ないのちを失う人の存在を許しておられる。迫害を許されている。そのように思います。そして殉教していったいのちが、種、種子となって、永遠のいのちを獲得していく人々を起こしていくのだと思います。
先程招詞、礼拝への神からの招きのことばをエペソ人への手紙1章14節から読んで頂きました。「聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。」私たちの肉体は滅びるものであるがゆえに、肉体という存在は地上だけに限ったものです。しかしイエスを信じる者たちは、御国を受け継ぐことができる。イエスの支配されておられる神の国、御国を受け継ぐことができる。すなわち私たちの存在そのものである、霊魂が将来御国を受け継ぐことになる。従って聖霊は、私たちの肉体が例え滅びても、私たちの存在そのものである霊魂が御国に行くことができるよう、保証となって下さる、ということがここに約束されています。また聖霊の働きにおいて、このようなみ言葉を共に見たことがありました。「誰も聖霊によらなければイエスを主と告白することはできません。」私たちはみ言葉を読み、あるいは聞くことを通して、ある日、ある時、イエスを自分の主、救い主と信じました。それゆえ私たちはその時から罪赦され、神との関係が回復し、滅びから救われていますが、その救いに導いて下さったのが聖霊、神ご自身でした。この同じ聖霊、神の霊、神ご自身が、私たちクリスチャンが例え迫害によって捕えられるような時が来ても、また、ステパノのように尋問されるような迫害に直面しても、話すべき、また弁明できることばを与えて下さる。その先がそこからの解放なのか、または肉体的な死である殉教であるかは、神のご計画の中にある。それがもし殉教-肉体的な死であったとしても、その死は無駄にならない。必ずその死、言い換えればイエスによるいのちが散るのを見た他の人々が、その姿によってイエスを信じ、従い、救われていく。イエスによるいのちが種子、種として用いられる。そこには神の選びとご計画があることを思います。迫害の歴史的事実とその結果を踏まえ、私たちはイエスが最後に言われことばに希望を持つことができます。13節。「しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。」私たちは自分の力で、迫害に負けずに信仰を貫き、どんな時でも主イエスを証ししていくことはできないでしょう。それを私たちにさせて下さるのは聖霊です。聖霊は、迫害を始めとする様々な苦しみの中にいる私たちに、その先にある神の救いを待ち望むことができるように、その希望によって私たちが支えられるように、導いて下さいます。その聖霊の働きによって私たちは、苦しみの中でも耐え忍んで信仰を守ることができ、主イエスを証ししていく言葉を与えて頂けます。
この聖霊が弟子たちに与えられたのがペンテコステの出来事でした。そしてこのペンテコステを通して、キリストの体なる教会が誕生しました。この同じ聖霊が働いて下さり、迫害においても、イエスを信じる者たちに語るべきことばを与えて下さる。そしてたとえ迫害によっていのちを失うようなことが起きても、そのいのちは種子、種として、イエスを信じる新しい人々を起こして行く。迫害において、何一つ無駄になるものはない。その聖霊が今この教会にも、そして私たち一人一人にも注がれています。また聖霊は私たちの目を開き、この世の終わりに、主イエス・キリストによる救いが完成することを見つめさせて下さいます。その終りの日に至るまでの道には苦しみや悲しみ、迫害がありますが、私たちは耐え忍んで信仰を守り抜き、主イエス・キリストの福音が全ての民に宣べ伝えられるための証しに用いられていくことができます。
イエスは13節において、「最後まで」耐え忍びなさいと語られました。この最後とはイエスを信じる私たち一人一人の肉体におけるいのちの終わりであり、また、終わりの日です。そしてこの耐え忍ぶということばは希望がある忍耐です。それは迫害の先には救いの完成が待っているからです。
出エジプトの時、モーセがイスラエルの民に宣言しました。「恐れてはならない。しっかり立って、今日あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。」前は大海原、後ろからはエジプト軍が迫って来る。絶体絶命の瞬間でした。このような命の危険、また希望が持てなくなった時、モーセはしっかり立っていなさい、耐え忍びなさいと叫びました。それはその先に希望があるからです。主の救いがあるからです。そして実際に主なる神は彼らを絶対的なピンチから救われました。この同じ神が、私たちをも救って下さいます。救って下さる力を持っておられます。
迫害というのは、神に敵対する力が目に見える形として、また現実にこの世界を支配している者たちがいるということを、私たちに知らしめて来るものです。私たちは迫害によって、また、価値観や生き方の違う人々から受ける様々な試練や困難から、自分の姿がさらけ出されて行きます。それらの困難から、持っていると思っていた豊かさ、信仰、主を信頼する力などが打ち砕かれることもあります。しかしその迫害を、困難を、私たちは自分の力でどうすることもできません。
自分の力によって迫害に打ち勝つことはできません。従って迫害の中で私たちは、もはや自分ではなく、目に見えない神に依り頼み、神のご支配が現れることを待ち望むしかありません。
終わりの日に向けて、「その日」に向けて、迫害は強く、大きくなっていきます。そしてそれは必ず起きることであり、すでに起きています。しかし例えそのような状況になっても、私たちが受ける迫害の苦しみが、伝道の前進という実りを生みます。それゆえにこの苦しみをイエスは、「産みの苦しみ」と呼ばれました。それは信仰による新しいいのちを生み出すための苦しみであり、希望のある苦しみです。 弱い私たちを、主なる神が、イエスが、聖霊を通して支え、導き、その先にある救いを思い出させ、見つめさせ、その希望にすがらせて下さいますように。 信仰のゆえに受ける苦しみを私たちはそのように受け止め、共に最後まで耐え忍ぶ者でありたいと思います。
祈ります
「忍耐と救いを与える聖霊の助け」
「また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。」
あなたがたは用心していなさい。人々はあなたがたを地方法院に引き渡します。あなたがたは、会堂で打ちたたかれ、わたしのために、総督たちや王たちの前に立たされます。そのようにして彼らに証しするのです。まず福音が、すべての民族に宣べ伝えられなければなりません。人々があなたがたを捕らえて引き渡すとき、何を話そうかと、前もって心配するのはやめなさい。ただ、そのときあなたがたに与えられることを話しなさい。話すのはあなたがたではなく、聖霊です。また、兄弟は兄弟を、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に逆らって立ち、死に至らせます。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。
「小黙示録」と呼ばれているマルコの福音書14章、「世の終わり」を引き続き見ています。終わりの日が近づくにつれ、色々な前兆が現れて来る。だから「惑わされてはいけません」とイエスは警告されました。そしてイエスは9節において、「用心しなさい」つまり「気をつけなさい」と、終わりの日とどのように向き合ったら良いか、イエスを信じるキリスト者に語っておられます。それは「わたしのために」とあるように、イエスを信じ、イエスに従って行く者に起こって来る「終わりの日」における迫害です。9節をお読みします。
あなたがたは用心していなさい。人々はあなたがたを地方法院に引き渡します。あなたがたは、会堂で打ちたたかれ、わたしのために、総督たちや王たちの前に立たされます。そのようにして彼らに証しするのです。会堂や地方法院-小さな裁判所のようなものですが、そのような場所で迫害されていたのはイエスの弟子たち、ユダヤ人たちでした。 迫害する者たちもユダヤ人たちでした。しかしその迫害はやがて拡大して行き、総督たちや王たちからも迫害されることになる、すなわち迫害の範囲が広がって行く。また迫害される方も、ユダヤ人以外の異邦人にも拡大して行く、ということをイエスは語られましたが、それは現実となって行きます。
イエスは10節においてこのように語られました。「まず福音が、すべての民族に宣べ伝えられなければなりません。平行箇所のマタイの福音書の24章においては、福音の拡大が終わりの日と重なり合っていることが記されています。マタイ24:14 御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます。従ってキリストの体なる教会が全世界に建て上げられている、すなわち福音が全世界に届いている現代は、すでに終わりの日が始まっているということであり、私たちはそのような時代に生きている、生かされている、と言えます。
前回共に見て来ましたが、終わりの日である「その日」が来る前に、天変地異などの異常気象、戦争、迫害などが、頻度も強さも増していくとイエスは語られましたから、終わりの日である「その日」にはまだ到達していないものと思われます。終わりの日に裁きが行われる「その日」まではまだ時間がある。しかし迫害は確実に、そして日増しに強まっていく。
そしてイエスはこの世の終わりにおける迫害に直面する時の心構えとして、本日の聖書箇所の中でこのように語られました。11節です。人々があなたがたを捕らえて引き渡すとき、何を話そうかと、前もって心配するのはやめなさい。ただ、そのときあなたがたに与えられることを話しなさい。話すのはあなたがたではなく、聖霊です。
聖霊が迫害において助けて下さる。聖霊が、迫害の中にあってもその中を導かれ、歩ませて下さる。イエスが11節で語られたこと。まさしくそのことが歴史的に起こったのが、新約聖書、使徒の働き6章と7章に描写されています。イエスの弟子の一人であったステパノが、普段ギリシャ語を話すユダヤ人たちと議論をしたことが記されています。彼らはパレスチナの外の地域(ヘレニズム世界)で生まれ育ったため、日常的にギリシア語を使用し、当時の国際的な教養や思想背景を持っていました。ステパノは彼らに向かって「あなたたちの先祖は主なる神から遣わされた預言者たちを迫害し、今度は神ご自身であるイエスを裏切り、殺す者となった。」と語りました。ステパノはさらに、あなたがたは律法を大切にしているといいながら、守ったことがないではないか、と糾弾しました。「しかし、彼が語る時の知恵と御霊に対抗することはできなかった。」とあるように、知恵と聖霊に満たされて語るステパノの論理に、彼らは議論では勝てず、何も言い返すことが出来ませんでした。しかし最終的にステパノは彼らの怒りを買い、石打ちによって殺されてしまいました。殉教です。この時ステパノは扇動された人々によって、サンヘドリンと呼ばれる、祭司長や長老、律法学者など、約70人の議員で構成されていた議会に連れて行かれました。彼が議論、弁明をした時、何の準備もできませんでした。しかし「彼が語る時の知恵と御霊に対抗することはできなかった。」と記されている通り、敵対者はステパノに何も言い返すことはできませんでした。また、必要な話すべきことばは聖霊が与えて下さいましたが、その結果は殉教でした。 しかしこの迫害、殉教には続きがあります。ステパノの殉教をきっかけにエルサレム教会が大迫害を受け、イエスを信じるキリスト者たちが、ユダヤやサマリヤの諸地域に散らされ、その結果、教会が各地で立ち上がっていきます。 福音はローマ帝国にまで広がって行きましたが、多くの人々が、火あぶりやライオンの餌食などになるといった凄まじい迫害によっていのちを落として行きました。しかし命がけで信仰を守る殉教者たちの姿や、疫病の時に病人を看病するなど、過酷な状況下でも隣人愛を実践する姿を見た周囲の人々が心を動かされ、数百年間続く迫害においても、キリスト者は増え続けました。 その迫害を受けて、2世紀頃のキリスト教の教父、神学者であったテルトゥリアヌスはこのように述べました。「殉教者の血は、教会の種子、種である」古代ローマ帝国によるキリスト教迫害の時代に、テルトゥリアヌスが権力者や迫害者に向けた言葉です。 キリスト者が信仰のために命を落としても、その流された血や耐え忍ぶ姿が「種」となって、その姿を見ていた人々の心に新たな信仰の芽を呼び起こし、結果として信仰者の群れも、またイエスの体なる教会も大きく成長した、という意味が込められています。実際にキリスト者は迫害されればされるほど増え広がって行き、最終的にはローマ皇帝テオドシウスがキリスト教を国教としました。紀元392年でした。近代においては過去、日本の支配の下で、朝鮮のクリスチャンたちは厳しい迫害を受けました。神社への参拝を強制され、抵抗した多くの人々が殉教して行きました。今日、韓国ではクリスチャンが多くいますが、それは、殉教者たちの流した血が種となったからだと言うことができるでしょう。またインドや中国など、政府や過激派組織による迫害が起きている場所でも、キリスト者たちの強い姿勢や奉仕を通じて、かえってキリスト者が増えて行きました。 また現在のイランですが、政府による厳しい監視や制限、投獄などの困難、迫害がある中、近年急激にキリスト者が増えていると言われています。ローマ帝国の下でもそうだったように、迫害によって信仰が強められ、殉教者が出ることによって教会はむしろ強くなり、増え広がっていきました。
この迫害は歴史的にも起きましたが、個人レベルでも起きた、また起きることになるとイエスは言われます。12節です。また、兄弟は兄弟を、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に逆らって立ち、死に至らせます。個人レベルの迫害によって、兄弟、子、両親など、家族から迫害され、死に至る人がいる、ということをイエスは語られました。肉体的ないのちに関しては、時に迫害によって失われる、つまり殺されてしまうこともある、ということです。そしてその迫害の先にあるものをイエスは13節で語られました。「また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。」
色々な迫害が起こって来る。イエスを信じ、従って来るだけで人々に憎まれる。しかし最後まで耐え忍ぶ人は救われるとイエスは言われました。つまり、迫害され、いのちを落とすようなことがあっても救われるということです。ですからここでイエスが言われている救いとは、肉体的な領域を指していないことは明らかです。前回、「終わりの日のしるし」というメッセージの中で、私たちが神以外に頼みにしているすべては滅び、無くなっていくというお話をしました。それは私たちの体も含まれます。一瞬、瞬きに過ぎない私たちの限りある肉体の人生が少し早くなったとしても、その先にある永遠のいのちを神は見据えておられるため、迫害によって肉体的ないのちを失う人の存在を許しておられる。迫害を許されている。そのように思います。そして殉教していったいのちが、種、種子となって、永遠のいのちを獲得していく人々を起こしていくのだと思います。
先程招詞、礼拝への神からの招きのことばをエペソ人への手紙1章14節から読んで頂きました。「聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。」私たちの肉体は滅びるものであるがゆえに、肉体という存在は地上だけに限ったものです。しかしイエスを信じる者たちは、御国を受け継ぐことができる。イエスの支配されておられる神の国、御国を受け継ぐことができる。すなわち私たちの存在そのものである、霊魂が将来御国を受け継ぐことになる。従って聖霊は、私たちの肉体が例え滅びても、私たちの存在そのものである霊魂が御国に行くことができるよう、保証となって下さる、ということがここに約束されています。また聖霊の働きにおいて、このようなみ言葉を共に見たことがありました。「誰も聖霊によらなければイエスを主と告白することはできません。」私たちはみ言葉を読み、あるいは聞くことを通して、ある日、ある時、イエスを自分の主、救い主と信じました。それゆえ私たちはその時から罪赦され、神との関係が回復し、滅びから救われていますが、その救いに導いて下さったのが聖霊、神ご自身でした。この同じ聖霊、神の霊、神ご自身が、私たちクリスチャンが例え迫害によって捕えられるような時が来ても、また、ステパノのように尋問されるような迫害に直面しても、話すべき、また弁明できることばを与えて下さる。その先がそこからの解放なのか、または肉体的な死である殉教であるかは、神のご計画の中にある。それがもし殉教-肉体的な死であったとしても、その死は無駄にならない。必ずその死、言い換えればイエスによるいのちが散るのを見た他の人々が、その姿によってイエスを信じ、従い、救われていく。イエスによるいのちが種子、種として用いられる。そこには神の選びとご計画があることを思います。迫害の歴史的事実とその結果を踏まえ、私たちはイエスが最後に言われことばに希望を持つことができます。13節。「しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。」私たちは自分の力で、迫害に負けずに信仰を貫き、どんな時でも主イエスを証ししていくことはできないでしょう。それを私たちにさせて下さるのは聖霊です。聖霊は、迫害を始めとする様々な苦しみの中にいる私たちに、その先にある神の救いを待ち望むことができるように、その希望によって私たちが支えられるように、導いて下さいます。その聖霊の働きによって私たちは、苦しみの中でも耐え忍んで信仰を守ることができ、主イエスを証ししていく言葉を与えて頂けます。
この聖霊が弟子たちに与えられたのがペンテコステの出来事でした。そしてこのペンテコステを通して、キリストの体なる教会が誕生しました。この同じ聖霊が働いて下さり、迫害においても、イエスを信じる者たちに語るべきことばを与えて下さる。そしてたとえ迫害によっていのちを失うようなことが起きても、そのいのちは種子、種として、イエスを信じる新しい人々を起こして行く。迫害において、何一つ無駄になるものはない。その聖霊が今この教会にも、そして私たち一人一人にも注がれています。また聖霊は私たちの目を開き、この世の終わりに、主イエス・キリストによる救いが完成することを見つめさせて下さいます。その終りの日に至るまでの道には苦しみや悲しみ、迫害がありますが、私たちは耐え忍んで信仰を守り抜き、主イエス・キリストの福音が全ての民に宣べ伝えられるための証しに用いられていくことができます。
イエスは13節において、「最後まで」耐え忍びなさいと語られました。この最後とはイエスを信じる私たち一人一人の肉体におけるいのちの終わりであり、また、終わりの日です。そしてこの耐え忍ぶということばは希望がある忍耐です。それは迫害の先には救いの完成が待っているからです。
出エジプトの時、モーセがイスラエルの民に宣言しました。「恐れてはならない。しっかり立って、今日あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。」前は大海原、後ろからはエジプト軍が迫って来る。絶体絶命の瞬間でした。このような命の危険、また希望が持てなくなった時、モーセはしっかり立っていなさい、耐え忍びなさいと叫びました。それはその先に希望があるからです。主の救いがあるからです。そして実際に主なる神は彼らを絶対的なピンチから救われました。この同じ神が、私たちをも救って下さいます。救って下さる力を持っておられます。
迫害というのは、神に敵対する力が目に見える形として、また現実にこの世界を支配している者たちがいるということを、私たちに知らしめて来るものです。私たちは迫害によって、また、価値観や生き方の違う人々から受ける様々な試練や困難から、自分の姿がさらけ出されて行きます。それらの困難から、持っていると思っていた豊かさ、信仰、主を信頼する力などが打ち砕かれることもあります。しかしその迫害を、困難を、私たちは自分の力でどうすることもできません。
自分の力によって迫害に打ち勝つことはできません。従って迫害の中で私たちは、もはや自分ではなく、目に見えない神に依り頼み、神のご支配が現れることを待ち望むしかありません。
終わりの日に向けて、「その日」に向けて、迫害は強く、大きくなっていきます。そしてそれは必ず起きることであり、すでに起きています。しかし例えそのような状況になっても、私たちが受ける迫害の苦しみが、伝道の前進という実りを生みます。それゆえにこの苦しみをイエスは、「産みの苦しみ」と呼ばれました。それは信仰による新しいいのちを生み出すための苦しみであり、希望のある苦しみです。 弱い私たちを、主なる神が、イエスが、聖霊を通して支え、導き、その先にある救いを思い出させ、見つめさせ、その希望にすがらせて下さいますように。 信仰のゆえに受ける苦しみを私たちはそのように受け止め、共に最後まで耐え忍ぶ者でありたいと思います。
祈ります
「忍耐と救いを与える聖霊の助け」
「また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。」





















