福音

2026/8/16(日)「忍耐と救いを与える聖霊の助け」マルコ13:9~13 庄司牧師

2026年8月16日 マルコの福音書13:9~13「忍耐と救いを与える聖霊の助け」
あなたがたは用心していなさい。人々はあなたがたを地方法院に引き渡します。あなたがたは、会堂で打ちたたかれ、わたしのために、総督たちや王たちの前に立たされます。そのようにして彼らに証しするのです。まず福音が、すべての民族に宣べ伝えられなければなりません。人々があなたがたを捕らえて引き渡すとき、何を話そうかと、前もって心配するのはやめなさい。ただ、そのときあなたがたに与えられることを話しなさい。話すのはあなたがたではなく、聖霊です。また、兄弟は兄弟を、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に逆らって立ち、死に至らせます。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。
「小黙示録」と呼ばれているマルコの福音書14章、「世の終わり」を引き続き見ています。終わりの日が近づくにつれ、色々な前兆が現れて来る。だから「惑わされてはいけません」とイエスは警告されました。そしてイエスは9節において、「用心しなさい」つまり「気をつけなさい」と、終わりの日とどのように向き合ったら良いか、イエスを信じるキリスト者に語っておられます。それは「わたしのために」とあるように、イエスを信じ、イエスに従って行く者に起こって来る「終わりの日」における迫害です。9節をお読みします。
あなたがたは用心していなさい。人々はあなたがたを地方法院に引き渡します。あなたがたは、会堂で打ちたたかれ、わたしのために、総督たちや王たちの前に立たされます。そのようにして彼らに証しするのです。会堂や地方法院-小さな裁判所のようなものですが、そのような場所で迫害されていたのはイエスの弟子たち、ユダヤ人たちでした。 迫害する者たちもユダヤ人たちでした。しかしその迫害はやがて拡大して行き、総督たちや王たちからも迫害されることになる、すなわち迫害の範囲が広がって行く。また迫害される方も、ユダヤ人以外の異邦人にも拡大して行く、ということをイエスは語られましたが、それは現実となって行きます。
イエスは10節においてこのように語られました。「まず福音が、すべての民族に宣べ伝えられなければなりません。平行箇所のマタイの福音書の24章においては、福音の拡大が終わりの日と重なり合っていることが記されています。マタイ24:14 御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます。従ってキリストの体なる教会が全世界に建て上げられている、すなわち福音が全世界に届いている現代は、すでに終わりの日が始まっているということであり、私たちはそのような時代に生きている、生かされている、と言えます。
前回共に見て来ましたが、終わりの日である「その日」が来る前に、天変地異などの異常気象、戦争、迫害などが、頻度も強さも増していくとイエスは語られましたから、終わりの日である「その日」にはまだ到達していないものと思われます。終わりの日に裁きが行われる「その日」まではまだ時間がある。しかし迫害は確実に、そして日増しに強まっていく。
そしてイエスはこの世の終わりにおける迫害に直面する時の心構えとして、本日の聖書箇所の中でこのように語られました。11節です。人々があなたがたを捕らえて引き渡すとき、何を話そうかと、前もって心配するのはやめなさい。ただ、そのときあなたがたに与えられることを話しなさい。話すのはあなたがたではなく、聖霊です。
聖霊が迫害において助けて下さる。聖霊が、迫害の中にあってもその中を導かれ、歩ませて下さる。イエスが11節で語られたこと。まさしくそのことが歴史的に起こったのが、新約聖書、使徒の働き6章と7章に描写されています。イエスの弟子の一人であったステパノが、普段ギリシャ語を話すユダヤ人たちと議論をしたことが記されています。彼らはパレスチナの外の地域(ヘレニズム世界)で生まれ育ったため、日常的にギリシア語を使用し、当時の国際的な教養や思想背景を持っていました。ステパノは彼らに向かって「あなたたちの先祖は主なる神から遣わされた預言者たちを迫害し、今度は神ご自身であるイエスを裏切り、殺す者となった。」と語りました。ステパノはさらに、あなたがたは律法を大切にしているといいながら、守ったことがないではないか、と糾弾しました。「しかし、彼が語る時の知恵と御霊に対抗することはできなかった。」とあるように、知恵と聖霊に満たされて語るステパノの論理に、彼らは議論では勝てず、何も言い返すことが出来ませんでした。しかし最終的にステパノは彼らの怒りを買い、石打ちによって殺されてしまいました。殉教です。この時ステパノは扇動された人々によって、サンヘドリンと呼ばれる、祭司長や長老、律法学者など、約70人の議員で構成されていた議会に連れて行かれました。彼が議論、弁明をした時、何の準備もできませんでした。しかし「彼が語る時の知恵と御霊に対抗することはできなかった。」と記されている通り、敵対者はステパノに何も言い返すことはできませんでした。また、必要な話すべきことばは聖霊が与えて下さいましたが、その結果は殉教でした。 しかしこの迫害、殉教には続きがあります。ステパノの殉教をきっかけにエルサレム教会が大迫害を受け、イエスを信じるキリスト者たちが、ユダヤやサマリヤの諸地域に散らされ、その結果、教会が各地で立ち上がっていきます。 福音はローマ帝国にまで広がって行きましたが、多くの人々が、火あぶりやライオンの餌食などになるといった凄まじい迫害によっていのちを落として行きました。しかし命がけで信仰を守る殉教者たちの姿や、疫病の時に病人を看病するなど、過酷な状況下でも隣人愛を実践する姿を見た周囲の人々が心を動かされ、数百年間続く迫害においても、キリスト者は増え続けました。 その迫害を受けて、2世紀頃のキリスト教の教父、神学者であったテルトゥリアヌスはこのように述べました。「殉教者の血は、教会の種子、種である」古代ローマ帝国によるキリスト教迫害の時代に、テルトゥリアヌスが権力者や迫害者に向けた言葉です。 キリスト者が信仰のために命を落としても、その流された血や耐え忍ぶ姿が「種」となって、その姿を見ていた人々の心に新たな信仰の芽を呼び起こし、結果として信仰者の群れも、またイエスの体なる教会も大きく成長した、という意味が込められています。実際にキリスト者は迫害されればされるほど増え広がって行き、最終的にはローマ皇帝テオドシウスがキリスト教を国教としました。紀元392年でした。近代においては過去、日本の支配の下で、朝鮮のクリスチャンたちは厳しい迫害を受けました。神社への参拝を強制され、抵抗した多くの人々が殉教して行きました。今日、韓国ではクリスチャンが多くいますが、それは、殉教者たちの流した血が種となったからだと言うことができるでしょう。またインドや中国など、政府や過激派組織による迫害が起きている場所でも、キリスト者たちの強い姿勢や奉仕を通じて、かえってキリスト者が増えて行きました。 また現在のイランですが、政府による厳しい監視や制限、投獄などの困難、迫害がある中、近年急激にキリスト者が増えていると言われています。ローマ帝国の下でもそうだったように、迫害によって信仰が強められ、殉教者が出ることによって教会はむしろ強くなり、増え広がっていきました。
この迫害は歴史的にも起きましたが、個人レベルでも起きた、また起きることになるとイエスは言われます。12節です。また、兄弟は兄弟を、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に逆らって立ち、死に至らせます。個人レベルの迫害によって、兄弟、子、両親など、家族から迫害され、死に至る人がいる、ということをイエスは語られました。肉体的ないのちに関しては、時に迫害によって失われる、つまり殺されてしまうこともある、ということです。そしてその迫害の先にあるものをイエスは13節で語られました。「また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。」
色々な迫害が起こって来る。イエスを信じ、従って来るだけで人々に憎まれる。しかし最後まで耐え忍ぶ人は救われるとイエスは言われました。つまり、迫害され、いのちを落とすようなことがあっても救われるということです。ですからここでイエスが言われている救いとは、肉体的な領域を指していないことは明らかです。前回、「終わりの日のしるし」というメッセージの中で、私たちが神以外に頼みにしているすべては滅び、無くなっていくというお話をしました。それは私たちの体も含まれます。一瞬、瞬きに過ぎない私たちの限りある肉体の人生が少し早くなったとしても、その先にある永遠のいのちを神は見据えておられるため、迫害によって肉体的ないのちを失う人の存在を許しておられる。迫害を許されている。そのように思います。そして殉教していったいのちが、種、種子となって、永遠のいのちを獲得していく人々を起こしていくのだと思います。
先程招詞、礼拝への神からの招きのことばをエペソ人への手紙1章14節から読んで頂きました。「聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。」私たちの肉体は滅びるものであるがゆえに、肉体という存在は地上だけに限ったものです。しかしイエスを信じる者たちは、御国を受け継ぐことができる。イエスの支配されておられる神の国、御国を受け継ぐことができる。すなわち私たちの存在そのものである、霊魂が将来御国を受け継ぐことになる。従って聖霊は、私たちの肉体が例え滅びても、私たちの存在そのものである霊魂が御国に行くことができるよう、保証となって下さる、ということがここに約束されています。また聖霊の働きにおいて、このようなみ言葉を共に見たことがありました。「誰も聖霊によらなければイエスを主と告白することはできません。」私たちはみ言葉を読み、あるいは聞くことを通して、ある日、ある時、イエスを自分の主、救い主と信じました。それゆえ私たちはその時から罪赦され、神との関係が回復し、滅びから救われていますが、その救いに導いて下さったのが聖霊、神ご自身でした。この同じ聖霊、神の霊、神ご自身が、私たちクリスチャンが例え迫害によって捕えられるような時が来ても、また、ステパノのように尋問されるような迫害に直面しても、話すべき、また弁明できることばを与えて下さる。その先がそこからの解放なのか、または肉体的な死である殉教であるかは、神のご計画の中にある。それがもし殉教-肉体的な死であったとしても、その死は無駄にならない。必ずその死、言い換えればイエスによるいのちが散るのを見た他の人々が、その姿によってイエスを信じ、従い、救われていく。イエスによるいのちが種子、種として用いられる。そこには神の選びとご計画があることを思います。迫害の歴史的事実とその結果を踏まえ、私たちはイエスが最後に言われことばに希望を持つことができます。13節。「しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。」私たちは自分の力で、迫害に負けずに信仰を貫き、どんな時でも主イエスを証ししていくことはできないでしょう。それを私たちにさせて下さるのは聖霊です。聖霊は、迫害を始めとする様々な苦しみの中にいる私たちに、その先にある神の救いを待ち望むことができるように、その希望によって私たちが支えられるように、導いて下さいます。その聖霊の働きによって私たちは、苦しみの中でも耐え忍んで信仰を守ることができ、主イエスを証ししていく言葉を与えて頂けます。
この聖霊が弟子たちに与えられたのがペンテコステの出来事でした。そしてこのペンテコステを通して、キリストの体なる教会が誕生しました。この同じ聖霊が働いて下さり、迫害においても、イエスを信じる者たちに語るべきことばを与えて下さる。そしてたとえ迫害によっていのちを失うようなことが起きても、そのいのちは種子、種として、イエスを信じる新しい人々を起こして行く。迫害において、何一つ無駄になるものはない。その聖霊が今この教会にも、そして私たち一人一人にも注がれています。また聖霊は私たちの目を開き、この世の終わりに、主イエス・キリストによる救いが完成することを見つめさせて下さいます。その終りの日に至るまでの道には苦しみや悲しみ、迫害がありますが、私たちは耐え忍んで信仰を守り抜き、主イエス・キリストの福音が全ての民に宣べ伝えられるための証しに用いられていくことができます。
イエスは13節において、「最後まで」耐え忍びなさいと語られました。この最後とはイエスを信じる私たち一人一人の肉体におけるいのちの終わりであり、また、終わりの日です。そしてこの耐え忍ぶということばは希望がある忍耐です。それは迫害の先には救いの完成が待っているからです。

出エジプトの時、モーセがイスラエルの民に宣言しました。「恐れてはならない。しっかり立って、今日あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。」前は大海原、後ろからはエジプト軍が迫って来る。絶体絶命の瞬間でした。このような命の危険、また希望が持てなくなった時、モーセはしっかり立っていなさい、耐え忍びなさいと叫びました。それはその先に希望があるからです。主の救いがあるからです。そして実際に主なる神は彼らを絶対的なピンチから救われました。この同じ神が、私たちをも救って下さいます。救って下さる力を持っておられます。
迫害というのは、神に敵対する力が目に見える形として、また現実にこの世界を支配している者たちがいるということを、私たちに知らしめて来るものです。私たちは迫害によって、また、価値観や生き方の違う人々から受ける様々な試練や困難から、自分の姿がさらけ出されて行きます。それらの困難から、持っていると思っていた豊かさ、信仰、主を信頼する力などが打ち砕かれることもあります。しかしその迫害を、困難を、私たちは自分の力でどうすることもできません。
自分の力によって迫害に打ち勝つことはできません。従って迫害の中で私たちは、もはや自分ではなく、目に見えない神に依り頼み、神のご支配が現れることを待ち望むしかありません。
終わりの日に向けて、「その日」に向けて、迫害は強く、大きくなっていきます。そしてそれは必ず起きることであり、すでに起きています。しかし例えそのような状況になっても、私たちが受ける迫害の苦しみが、伝道の前進という実りを生みます。それゆえにこの苦しみをイエスは、「産みの苦しみ」と呼ばれました。それは信仰による新しいいのちを生み出すための苦しみであり、希望のある苦しみです。 弱い私たちを、主なる神が、イエスが、聖霊を通して支え、導き、その先にある救いを思い出させ、見つめさせ、その希望にすがらせて下さいますように。 信仰のゆえに受ける苦しみを私たちはそのように受け止め、共に最後まで耐え忍ぶ者でありたいと思います。
祈ります
「忍耐と救いを与える聖霊の助け」
「また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。」

2026/8/2(日)「終わりの日のしるし」マルコ13:1~8 庄司牧師

2026年8月2日 マルコの福音書13:1~8 「終わりの日のしるし」
イエスが宮から出て行かれるとき、弟子の一人がイエスに言った。「先生、ご覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」すると、イエスは彼に言われた。「この大きな建物を見ているのですか。ここで、どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることは決してありません。」イエスがオリーブ山で宮に向かって座っておられると、ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかにイエスに尋ねた。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのですか。また、それらがすべて終わりに近づくときのしるしは、どのようなものですか。」それで、イエスは彼らに話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『私こそ、その者だ』と言って、多くの人を惑わします。また、戦争や戦争のうわさを聞いても、うろたえてはいけません。そういうことは必ず起こりますが、まだ終わりではありません。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、あちこちで地震があり、飢饉も起こるからです。これらのことは産みの苦しみの始まりです。
 マルコ福音書の第13章は、イエスの教えをまとめて語っている最後の部分となります。次の14章からは受難、十字架の出来事に入っていきます。この13章は「小黙示録」と呼ばれています。「小さな黙示録」です。そうしますと「大きな黙示録」がある訳ですが、それは私たちが良く耳にする、新約聖書最後の書簡、「ヨハネの黙示録」です。ヨハネの黙示録には、この世の終わりに起る様々な苦難が描写されていますが、小羊として描かれているイエス・キリストが最終的に全ての敵に勝利され、イエスのご支配、すなわち神の国が完成することが記されています。そしてイエスに従って生きた信仰者の救い、永遠のいのちが実現することが語られています。 ヨハネの黙示録と同じように、マルコ13章にもこの世の終わりのことが語られています。ヨハネの黙示録と決定的に異なる点は、イエスご自身が語っておられる、ということです。捕えられ、十字架につけられる直前に、最後の教えとしてイエスが世の終わりのことをお語りになった、それがこの13章です。本日の箇所はこのように始まっています。イエスが宮から出て行かれるとき、弟子の一人がイエスに言った。「先生、ご覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」
弟子たちのほとんどはガリラヤの田舎町出身です。ですから、都エルサレムにある豪華絢爛たる神殿を見て、感嘆の声を上げました。エルサレム神殿は、クリスマスの物語に登場するヘロデ大王が再建した第3神殿と呼ばれる物ですが、おおよそ50年の歳月をかけて建設され、金ぱくで覆われた豪華絢爛の神殿です。現在、ユダヤ人の人々が祈っている姿が時々報道される、いわゆる「嘆きの壁」というのは、このヘロデの神殿の僅かに残っている下の方の壁の一部です。当時の壁は現在のものよりもずっと高くそびえ立っていました。その壮麗な神殿は、正にイスラエルを象徴する場所でした。しかしイエスはこれに対して、「この大きな建物を見ているのですか。ここで、どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることは決してありません。」とおっしゃいました。この壮麗な神殿が徹底的に破壊される時が来る、とイエスは予告されました。この予告、預言は紀元70年に実現します。ローマ帝国によってエルサレム神殿は徹底的に破壊され、神殿の歴史は終わりを告げました。今では「嘆きの壁」など、ごく僅かな遺跡としてしか、その跡を偲ぶことはできません。
当時、全てのユダヤの人々が、この神殿を誇りにしていました。ここに神の祝福があると信じていました。ところがその意味が次第に逆転していきます。そもそも神殿は、そこで神と出会い、神への礼拝を通して神と交わる場所でした。しかしユダヤの人々は、神殿があるから神は我々と共におられるのだ。神殿がある限り、我々には神の守りがあるのだ、と考えるようになっていきます。本末転倒です。しかしユダヤの人々が誇っていた神殿は滅んでいきます。
このような素晴しい建物が破壊されてしまうなんて、それはもうこの世の終わりだ、と弟子たちは考えました。そこでイエスに質問します。イエスがオリーブ山で宮に向かって座っておられると、ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかにイエスに尋ねた。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのですか。また、それらがすべて終わりに近づくときのしるしは、どのようなものですか。弟子たちの質問は、すなわち私たちの質問でもあります。現代を生きている私たちも、とてつもなく大きな事件や災害などが起こると、もうこの世の終わりか、と思うのです。この世界が破局へと向かっているという恐れを抱くのは、当時の人々も私たちも全く同じです。さらに今日は、環境破壊、それに伴う動植物の危機と絶滅。多発する自然災害や世界戦争勃発への恐れなど、当時よりももっと深刻かもしれません。ですから弟子たちの問いは、そのまま現代を生きる私たちの問いでもあり、イエスの終わりの日に対する答えは、すなわち私たちへの答えでもあるのです。イエスの弟子たちは、終わりの日に関して、いつ起こるのか?またその終わりが起こる前に、どのようなしるし、すなわち兆候や前兆があるのか?という二点を尋ねました。 ところでなぜ彼らは世の終わりに関してイエスに質問をしたのでしょうか。それは世の終わりの破局がいつ訪れるのか、その前兆、しるしを見極めて、前もってその時期を知っておきたいからだと思います。あと百年は起きないのであれば、当面は安心していられます。明日かもしれないし百年後かもしれない、それが分からないから不安なのです。だから「終わりの日」を前もって知ることによって、心を定めたい、そして何かをしたい。またはまだ先だと安心したい。そのような心理が働くのだと思います。それに対してイエスは、世の終わりにはこういうことが起こる、ということをお語りになりますが、開口一番に語られたことが警告です。「人に惑わされないように気をつけなさい。」そして以下、現代を生きる私たちも含め、終わりの日には色々な人々から、また現象などから惑わされることになる、また惑わされるであろう、様々な原因が語られていきます。一つは「人を惑わす者」の出現です。「わたしの名を名乗る者が大勢現れる。つまり偽の救い主、偽キリストが現れて、私こそ救い主だ、と言って人々を集めるようになる。また、「戦争のうわさや実際の戦争」です。これも世の終わりの一つのしるしとされています。しかし偽の救い主はイエスの時代にもいましたし、戦争や戦争のうわさなども、それがなかった時代はありません。ですからイエスの時以来、これらのしるしは常に存在しているのであって、世の終わりを知る手がかりにはなりません。またイエスご自身も、「そういうことは必ず起こりますが、まだ終わりではありません。」と語っておられます。 そしてイエスは次の8節において、民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、あちこちで地震があり、飢饉も起こるからです。と、語られ、私たちに襲いかかってくるこのような大きな苦しみについてイエスは続けて、これらのことは産みの苦しみの始まりです。と言われました。既に世の終わりのしるしは現れており、終わりは始まっているが、いつ終わりが来るのか、それまでにどれだけの苦しみを経なければならないのかは誰も知ることができない、とイエスはおっしゃったのです。つまりイエスは、終わりの時がいつ来るのか、その時期を知りたいという弟子たちの願いに答えることを拒まれました。弟子たちは、そして私たちも、終わりの時がいつ来るのかを知って、それに応じて自分の計画を考えたいと願います。終わりを知って、これからの人生の見通しを立てたいと思います。しかしイエスはそのような見通しを立てることをお許しになりません。私たちは世の終わりが何時来るかを知ることはできないのです。つまり将来のこと、これから起こることを、自分の計画の中に組み入れてしまうことはできないということです。なぜ神は、すなわちイエスは、終わりの日を私たちに示して下さらないのでしょうか。 もちろん父なる神だけが終わりの日をご存知であるということもそうですが、それ以上に、もし私たち人間が世の終わりの日が分かったならば、私たちの生活は途端に秩序を失ってしまうでしょう。終わりの日を逆算しながら財産を使い果たし、終わりの日があるのだから今を精一杯楽しもうと刹那的になる。時々新興宗教が「何月何日に世の終わりが来る」と言ってそれを信じた信徒たちが仕事を止め、結婚を諦め、財産を処分し、時に自殺するということがあります。イエスはそのようなことを私たちに望んでおられません。ですから私たちは与えられ、備えられた一日一日を、精一杯、誠実に、そして忠実に仕えていく必要がありますし、逆に言えば、私たちはそれしかできないのではないでしょうか。私たちは、神を自分の計画や予定の中に組み入れてしまうことはできません。 神の計画を前もって知り、それをコントールしようとするならば、それは神を支配したいという願いであり、人間の傲慢です。神のみ業は、人間が計算したり、自分の計画の中に組み込んだりするべきものではなく、神の計画が最善であると信じ、委ねること。待つこと。私たちはそれしかできません。
そしてイエスは、私たちがどのように終わりの日を待ち望んだら良いか、出産の譬えを通して教えて下さっています。出産の前には母親が苦難、痛みを経験しなければなりませんが、その苦しみの先には子どもの誕生と言う、この上ない喜びが待っています。そのように、終わりの日の前には人間が様々な痛み、苦しみ、苦難を経験しなければなりませんが、同じように、その先には喜びがあり、希望があるということをイエスは示しておられます。 では、この世の終わりの先には何が待っているのでしょうか。マルコの福音書1章で見て来ましたが、イエスがこの世界に飛び込んで来られた時、神の国が近づいた、神の国が到来したと言われました。神の国とはイエスが統治される世界であり、イエスの統治そのものです。神の国はイエスと共に到来しました。しかし人類はアダムが神に反逆して以来、すなわち罪を犯してから、罪と、罪から来る死と、サタン、悪魔の支配下に入ってしまいました。人類はこの罪を受け継ぎ、罪から来る神への不従順と不信仰から神を失い、神を失うことによって自分も失いました。自分は何者なのかという、自分のアイデンティティーも失いました。なぜ生まれ、何のために生きるのかという使命も分からなくなってしまいました。さらに神の絶対的な規準を失うことによって、一人一人が勝手に自分の規準を持つようになり、それが最善であると考えるようになり、違う規準を持つ他の人々と争い、時に殺し合うようになりました。また見えない神に頼れなくなった人間は、家や土地、お金などの財産、そして自分の能力、自分の名誉・名声、健康や趣味などの楽しみ、家族など、目に見えるものに頼るようになりました。それらは素晴らしいこと、大切なことですが、ユダヤの人々が誇りとし、希望としていた神殿が滅び、無くなってしまったように、やがて崩れ去る時がやってきます。なぜなら人間が頼りにするものは永遠には続かない物だからです。一切の物には終わりがある。終わりが来る。自分のいのちも含め、そしてこの世、この世界にすら終りの時が来る、崩れ去る時が訪れます。
平行箇所のマタイの福音書24章3節においては、弟子たちはこのようにイエスに尋ねています。
イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちがひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのですか。あなたが来られ、世が終わる時のしるしは、どのようなものですか。」世の終わりのしるしに関して、マルコの福音書にはない、「あなたが来られ」ということばがあります。これはイエスが再びこの世界に来られる再臨を表しています。イエスご自身も、ご自身が裁き主としてこの世界に再び来られる再臨のことを、旧約聖書の預言から引用されています。後から見ていきますが、先の26節にある「人の子が雲に乗って来る」という表現は、旧約聖書、ダニエル書7章に記されている預言を、イエスが引用されたものです。旧約聖書は、イエスの初臨、すなわちクリスマスにおける誕生やイエスの歩み、そして私たち人間の罪の身代わり、贖いである十字架なども預言していますが、それは全て成就、実現しました。イエスが再びこの世界に戻って来られる再臨とその再臨の時に起こることを除いて、旧約聖書に記されている預言は全て成就、実現していると言っても良いでしょう。従ってイエスが再びこの世界に戻って来る、それも裁き主として来られることも、必ず実現します。そしてイエスが再臨される時、この混乱した世界、痛みと苦しみ、罪と死とサタンの支配にある古い世界は世の終わりと共に終わりを告げ、イエスの愛と調和、平和と平安の中での統治、すなわち完成した神の国の支配が、イエスを信じる者たちと共に始まります。しかしその神の国が完成する前、すなわち終わりの日が訪れる前は、イエスが語られるような「産みの苦しみ」が必ずあります。 出産の時に伴う痛み、陣痛は断続的に起こります。そして出産が近づくにつれて、その間隔が小さくなり、また痛みが激しくなります。そして出産の直前、その痛みは最高潮に達し、子どもが産まれます。 そのように神が定められた終わりの日の前には、そのしるしであり、前兆である、「私こそキリスト、救い主だ」と語り出す偽キリストの出現。また戦争のうわさや実際の戦争の勃発。大きな地震のような自然災害、また飢饉。それらは頻度も、また強さも増していきます。 しかし終わりの日がいつ起こるか、またどのように起こるかは、私たちには分かりません。知るよしもありません。 聖書が、そしてイエスが明確に語っておられることは「世の終わりが必ず来る」ということ。しかし「世の終わりがいつ来るかわからない」ということの二つです。イエスご自身も終わりの日の訪れを父なる神に委ねられ、いつ起こるか分からないとおっしゃいました。そして日々、父なる神に与えられていた使命を全うされました。その最たるものが、そしてとてつもなく大きな使命が、私たち人類のために十字架にかかる、ということでした。 私たちはこの世の終わりにおける苦難を、そして痛みを恐れます。 しかし私たちが終わりの日に関して、どのように心配しても、どんなに不安に思っても、また何か備えようと思っても、それを軽減したり、回避することはできません。
私たちにできる唯一のこと。それはイエスのことばに信頼し、イエスに委ねることだけです。
私たち人間の、「終わりの日」への恐れ、不安、そして時に好奇心に働きかけて、偽キリストや、サタンが私たちを欺いてきます。そこでイエスは言われました。「人に惑わされないようにしなさい」
イエスの警告に耳を傾けつつ、産みの苦しみの先にある、神の救い、永遠のいのち、すなわち神の国の完成があるということを、本日も心に留めたいと思います。そして日々自分にできること、自分に与えられているなすべきこと-使命を忠実に、また誠実に行う者でありたいと願います。
祈ります
「終わりの日のしるし」
それで、イエスは彼らに話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。」

2026/7/26(日) 「誰よりも多く投げ入れた人」マルコ12:38~44 庄司牧師

2026年7月26日 マルコの福音書12:38~44「誰よりも多く投げ入れた人」
イエスはその教えの中でこう言われた。「律法学者たちに気をつけなさい。彼らが願うのは、長い衣を着て歩き回ること、広場であいさつされること、会堂で上席に、宴会で上座に座ることです。また、やもめたちの家を食い尽くし、見栄を張って長く祈ります。こういう人たちは、より厳しい罰を受けます。」それから、イエスは献金箱の向かい側に座り、群衆がお金を献金箱へ投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持ちがたくさん投げ入れていた。そこに一人の貧しいやもめが来て、レプタ銅貨二枚を投げ入れた。それは一コドラントに当たる。イエスは弟子たちを呼んで言われた。「まことに、あなたがたに言います。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れている人々の中で、だれよりも多くを投げ入れました。皆はあり余る中から投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っているすべてを、生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから。」
本日の箇所はイエスの警告から始まっています。「律法学者たちに気をつけなさい!」その問題点をイエスは指摘されていきます。彼らは長い衣を着て歩き回ること、そして人々から広場であいさつされることを好みました。 長い衣は彼らが律法学者であることを示すシンボルです。その衣をまとっていると、人々が尊敬して頭を下げるのです。また「広場で挨拶される」ことも彼らが願うことでした。町の広場は市、市場が立つ所でもあり、様々な市民生活が営まれる場です。そこに集まる多くの人々から特別な人として尊敬され、みんなに「先生」と呼ばれて挨拶されることを、律法学者たちは好みました。 彼らは、会堂で上席に座ること、そして宴会で上座に座ることも好きでした。「会堂の上席」というのは、ユダヤ人たちの礼拝の場であるシナゴーグと呼ばれる会堂において、聖書を納めた箱の前の席のようです。 一般の人々の席と向かい合っており、礼拝を司る人の席です。 現在の教会、また礼拝堂で言えば、講壇の上の説教者や司式者の席と思えばよいでしょう。 律法学者たちは常にその席に座ることを望みました。彼らは宴会の場でも上座を求めました。結婚式の披露宴で言えば、主賓のテーブルに席を求めるようなものです。
人々が神への信仰を持っていれば、その神のことばを取り扱っている律法学者たちが尊敬されるのは自然なことであり、当然のことだったかもしれません。しかしいつのまにか人々の尊敬から傲慢になり、人々からの尊敬を得ることを重んじ、求めるようになっていった。始めは彼らも神を信じ、神に喜ばれ、人にも喜ばれるように律法を教えていたかもしません。しかしいつしか「先生、先生」と呼ばれるようになり、神からの見えない、また感じない評価よりも、人からの見える、また感じる評価を求めるようになっていったと思われます。
またイエスは律法学者たちに対して、彼らはやもめたちの家を食い尽くし、見栄を張って長く祈ると指摘されました。 「やもめ」は多くの場合、「みなしご」と並んで社会的弱者、貧しい者の代表として聖書に出てきますが、この場合の「やもめ」は、夫の遺産を受け継いだ金持ちのやもめ、未亡人たちのことです。律法学者たちはそういうやもめたちに寄付をさせる-いわゆる慈善の行為をさせて金を出させていたようです。そのような行為はユダヤの人々にとって大変立派なこととして尊ばれ、尊敬されることでした。そしてやもめだけでなく、そのように彼女たちを指導した律法学者たちの名声も高まりました。そのことを受けてイエスは、彼らはやもめたちの財産を食い尽くしている、と言われたのだと思います。 また律法学者たちの祈りは、深さより長さを特徴としていました。人前で長い祈りをすることで、あの人は敬虔な人、信仰深い立派な人だという評判を得ようとしました。祈りの対象は神です。しかし彼らは自分を立てるために言わば神を利用したのと同じです。彼らは最後にその刈り取りをしなければならないでしょう。イエスは平行箇所のマタイの福音書23章の中で、彼らのことを「白く塗った墓」などと言われました。外見は綺麗にしているが、中は汚れでいっぱいであるとの皮肉であり、批判です。そしてこの23章の中において、イエスが繰り返し使われたことばがありました。「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。」23章の中で7,8回使われています。 彼ら律法学者たちは、見た目には私たちが驚くほどに厳格な、正しい、聖い生き方をしていました。しかしそういう彼らの聖さ、正しさとは、自分自身を誤魔化すための行いであり、演技であり、偽善だ、とイエスはおっしゃるのです。
一方、人の目を意識し、人の目を気遣い、人の目によって自分を評価していた律法学者たちとは異なる、人の評価に全く左右されずに生きている一人の女性が登場します。 エルサレム神殿の内庭には献金箱が設置されていました。宮に出入りする礼拝者が任意、自分の意志をもって自由にお金を投げ入れました。神に献げるお金を入れる箱です。 一説によればこの献金箱の傍らには祭司がいて、人々がそこに入れる献金を記録に留め、そして周囲の人々に聞こえるように、「誰々さんがいくら献金なさいました」と告げていたのではないかと言われています。 
この時イエスは、その献金箱の向かいに座って、人々がそれにお金を入れる様子を見ておられました。「多くの金持ちがたくさん投げ入れていた。」とあります。祭司がその人たちの名前と献金額を読み上げる、すると人々の間から「おお」と感嘆の声が上がる。そのようにして金持ちたちは大いに面目を施していました。そのような中、一人の貧しいやもめがやって来ました。この人は先程の、律法学者たちに食い物にされるような金持ちのやもめではなく、「貧しいやもめ」です。そのやもめが献金箱に、「レプタ銅貨二枚、すなわち一コドラント」を投げ入れました。一レプタは一デナリの128分の一です。一人の労働者が一日働いてもらう賃金が一デナリでした。ですからこの献金がかなり小額だったことが分かります。 献金の記録係がこの献金を人々に告げた時、金持ちたちの献金を報告するのとは、全く違ったのではないかと想像します。恐らく冷めた、冷たい声だったのではないでしょうか。また、回りの人々は軽蔑の目で彼女を見、またことばに出したかもしれません。「それだけか!」「そんなはした金を捧げるなんて、何を考えているんだ!」「あきれた」「よく恥ずかしくないね」
もし彼女が人目を気にしていたとしたら、とてもこの額を献げることはできなかったでしょう。逆に言えば彼女は人目を気にしなかったからこそ、人からの評価によって自分を量ることをしなかったからこそ、この献金を献げることができたと言うことができるのではないでしょうか。 つまり彼女は人との比較から解放されていた、ということです。金持ちたちが多額の献金をしている中でレプタ銅貨二枚を差し出すことは、人の目を気にして、人と自分を見比べて生きている者には到底出来ないことです。「あの人のあんな立派な献げ物の後で、こんなみすぼらしい、ちっぽけなものを献げるなんて恥ずかしい」と思ってしまうでしょう。しかし彼女は周囲の冷たい目や軽蔑のまなざしに関わらず、レプタ二枚を献げました。それは彼女が人の目、人からの評価、評判によってではなく、ただ神を見つめ、ただ神に認められる、神に喜んで頂ければそれでいい、そのように「神中心」に生きていたからに他なりません。彼女はただ、神を見つめていた人でした。人の目を気にすることや、人と自分を見比べて喜んだり悲しんだりすることから解放されている彼女は、乏しい生活費を全部、全て、神に献げてしまいました。それは、自分の生活を全て神の恵み、養い、導きにお委ねしたということです。人と自分を比べて、自分は全てを神に献げているといった、誇るような思いは少しもありません。もしそのような思いが少しでもあったならば、このような献げ物はできなかったでしょう。ですから彼女が生活費も含めた全部を献げたということは、彼女が人の目から自由であるだけでなく、自分で自分の安心を確保しようという思いからも完全に自由であった、ということができるでしょう。だからこそ、神の恵みに、神の支えに、神の備えに全てをお委ねすることができました。このやもめは、翌日からどのようにして生きていくかという思い煩いはありませんでした。ここまで神を信頼し、全てを委ねる生き方ができるとしたら、それはどれほど平安であり、豊かで、幸せな人生ではないでしょうか。
その彼女の姿勢を、態度を、お金を通して自分を献げるという献身を、イエスが感動をもって弟子たちに語られています。イエスは弟子たちを呼んで言われた。「まことに、あなたがたに言います。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れている人々の中で、だれよりも多くを投げ入れました。皆はあり余る中から投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っているすべてを、生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから。」イエスは、このやもめが誰よりも多く投げ入れたと語られました。「まことに」とは、原語のギリシャ語で「アーメン」です。真実です、本当です、という意味であり、私たちが日々の祈りでも用いていることばです。イエスは「アーメン、真実を告げる」と言ってから、彼女は誰よりも多く投げ入れたと語られました。生活費を全て献げるほどに彼女は主なる神を愛し、また日々の生活を支えて下さるという絶対的な信頼、神への揺るぎない信頼を持って生きていました。
ところで本日の箇所は誰に語られているのでしょうか。12章の37節の後半には、「大勢の群衆が、イエスの言われることを喜んで聞いていた。」とあります。この直前には、律法学者たちをはじめとした宗教指導者たちが、イエスとの論争に完全に敗北した姿が描写されています。律法学者たちの姿をいつも見ていた当時の人々は、彼らの鼻持ちならない姿にうんざりさせられながらも、しかし律法の教師である彼らを尊重しないわけにはいかない、という思いでいたようです。 ですから人々にとって、イエスが律法学者たちの悪意ある問いに真正面から答え、完全に論破する姿は、本当に胸のすくものだったでしょう。しかしイエスはその群衆に向かって「律法学者に気をつけなさい」とおっしゃったのです。「気をつけなさい」ということは、あなたがたも律法学者たちと同じようになってしまわないように注意しなさい、ということです。そしてこれは現代における私たち一人一人も同じ、イエスからの警告であると思います。
私たちはこの社会の中で、人々と共に生きている存在です。一人で生きていくことはできません。人と共に生きている以上、人の目が気になり、人が自分をどう評価しているかを気にすることも、また人に評価され、褒められることを求めていくことも、自然なことです。つまりこの律法学者たちの姿は、人間の自然な姿を描き出していると言うことができます。そしてそのような生まれつきの、すなわち罪深い私たちの自然な姿、ありのままの私たち人間の姿というのは、人の目を気にして生き、その中において優越感と劣等感、誇りや妬みが分ち難く存在している、偽善に満ちた、決して幸せとは言えない姿だと思います。しかしそのような本来の自然な人間の姿から解放されている人がいました。それがこの貧しいやもめです。人々から蔑まれるような、馬鹿にされるような額の献金しかしなかった、またはできなかった彼女は、人の目を気にするというところから解放され、人の目によって自分が評価されるということからも解放され、ただ、神に喜ばれたいという一心で、自分の持っている精一杯を献げるような女性でした。彼女が人の目を気にすることから解放され、優越感と劣等感、誇りと妬みの狭間で苦しむことから解放されているのは、主なる神を信じていたからです。神を知る-神がどういうお方であるかということを知り、神との交わりの中で神の人格を知り、経験していく中で培われていった信仰、信頼から来ています。 そして彼女は人ではなく、神が喜ばれること、すなわち神の御心を求め、また神への感謝、神が自分を支えて下さるという確信、保証、安心、平安などを持つに至りました。それらがなければ、自分の生活費全部を献げることはできません。神なら自分を支えて下さる。日々養って下さる。神に対する信仰と信頼が、生活費全てを献げるという、目に見えるにかたちになりました。そしてこの献金の場面にイエスが来られました。イエスは彼女が貧しいということ。二レブタが彼女の全財産だということを知っておられました。そして彼女の心、献身の思いを知っておられ、感心されました。
この一連の出来事-やもめの心、信仰、神に対する信頼、行動は聖書に記されました。 名前も出て来ない一人のとても貧しい女性が、神を信じ、信頼する素晴らしい信仰者として、素晴らしい生き方の模範として、また神は全てを知っておられるという例として、そしてイエスがそのような人を愛しておられるという証として、聖書に記されることになりました。 イエスがこれから十字架に架かっていくという時に、イエスがこの献金箱の前におられたこと。この女性が現れ、持っているものを全て献げたこと。その場面をイエスが見、イエスが語られ、そして聖書に記されていること。これら全ては決して偶然ではないと思います。それは現代を生きる私たちも含め、全て聖書を読む一人一人に語られている出来事です。
イエスはこの数日後、私たち人間の罪を全て背負って、十字架にかかって死なれようとしています。それは律法学者のように自分の能力や財産に頼り、時に誇り、人の目を気にして生きていく私たち人間のために、またそのような歪みの元となった罪のため、罪の身代わりのためでした。
イエスは、このやもめがレブタ銅貨二枚を、心を込めて神に献げるその姿を、じっと見つめておられました。そのまなざしは愛と慈しみに満ちていたでしょう。その同じ温かな眼差しが、イエスを信じる私たち一人一人にも注がれています。
私たちが献げる小さな祈り。私たちの献げもの。隣人に対する、また会ったことも、話をしたこともない人々のために祈る小さな執り成し。そして神への感謝と讃美。 それがどんなにちっぽけであっても、私たちはこのやもめのように、人の目、人の評価から自由になって、人からの誉れを越えて、自分の力、自分の持っているものを、心をこめて神にお献げして生きることができます。そのように私たちを変えて下さるイエスに、またその愛の眼差しに、今日も感謝しつつ、イエスと共に歩んでいきたいと思います。
祈ります
「誰よりも多く投げ入れた人」
この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れている人々の中で、だれよりも多くを投げ入れました。皆はあり余る中から投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っているすべてを、生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから。

2026/6/21(日)「神の国へのステップ」マルコ12:28~34 庄司牧師

2026年6月21日 マルコの福音書12:28~34「神の国へのステップ」
律法学者の一人が来て、彼らが議論するのを聞いていたが、イエスが見事に答えられたのを見て、イエスに尋ねた。「すべての中で、どれが第一の戒めですか。」イエスは答えられた。「第一の戒めはこれです。『聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』第二の戒めはこれです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。』これらよりも重要な命令は、ほかにありません。」律法学者はイエスに言った。「先生、そのとおりです。主は唯一であって、そのほかに主はいない、とあなたが言われたことは、まさにそのとおりです。そして、心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛すること、また、隣人を自分自身のように愛することは、どんな全焼のささげ物やいけにえよりもはるかにすぐれています。」イエスは、彼が賢く答えたのを見て言われた。「あなたは神の国から遠くない。」それから後は、だれもイエスにあえて尋ねる者はいなかった。
本日もまた、律法学者が登場します。しかしイエスに敵対してきた今までの律法学者とは、違うようです。それは彼がイエスから、「あなたは神の国から遠くない」と言われたことからも分かります。しかしこの律法学者は賢く答えたにもかかわらず、イエスから、「あなたは神の国に入ることができる!」とは言われませんでした。なぜでしょうか。神の国に入れることと、神を愛し、隣人を愛することとが、どのような関りがあるのでしょうか。共に見て行きたいと思います。
冒頭にはこのように記されています。律法学者の一人が来て、彼らが議論するのを聞いていたが、イエスが見事に答えられたのを見て、イエスに尋ねた。
「彼らの議論」とは、18節以下、イエスとサドカイ派の人々の復活をめぐる議論です。前回共に見て来ました。この当時、復活をめぐってパリサイ派とサドカイ派が対立していました。サドカイ派は、「復活はない」と言っていたのに対して、パリサイ派は復活を信じていました。そのような中で、イエスが聖書に基づいてはっきりと死者の復活をサドカイ派の人々に語られ、イエスが自分たちと同じことを教えているという親近感を、彼は抱いたようです。 律法学者は、律法、神の教えであり戒めを研究し、自分自身がそれを守るだけでなく、一般の人々に、律法を守って生活するためのアドバイスをしていました。六百以上の戒めを大切なものとしていたことから、膨大な律法をどのように解釈し、またどのように人々に教えるかということをいつも考えていました。そこで彼は、好意を抱いたイエスから、律法で一番大切なことを尋ねることにしました。彼の真面目で真剣な問いに対して、イエスも誠実に、そしてはっきりとお答えになります。29、30節です。
イエスは答えられた。「第一の戒めはこれです。『聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』イエスは旧約聖書、申命記第6章4、5節からの引用をもって、律法の第一としました。ユダヤの人々はこの教えを大切にし、毎日唱えていたものです。 この第一の教え、戒めは、一言で言えば「神を愛しなさい」ということです。神を愛することこそが、あらゆる律法の要、神の民としての生活の中心だとイエスは言われている。 ところで「主を愛しなさい」と命令形で訳されています。原語であるヘブル語では完了形で記されています。ヘブル語では未来に確実にそうなることは、~した、~するようになると、完了形で表します。つまり申命記の6:5節は、「あなたは愛するようになる」と訳すことができるものです。その引用ですから、本日の箇所の12:30節の直訳は「あなたはあなたの心の全てをもって、あなたの精神の全てをもって、あなたの思いの全てをもって、あなたの力の全てをもって、神を愛するだろう。」と訳すことができるものです。
イスラエル民族は神に特別に選ばれている民族であり、神の栄光、素晴らしさを他の民族、部族に伝えていく使命、役割を担っていました。それにも関わらず彼らは神への信仰・不信仰、従順、不従順を繰り返して来ました。しかしその都度預言者などが神から遣わされ、神に立ち返るよう、促されて来ました。旧約聖書にその歩みが描写されています。そのような彼らを神は見捨てることはありませんでした。従ってイスラエルに対する主なる神の深い愛、忍耐、慈しみと恵みを彼らが覚える時、もはや彼らは義務や命令から神を努力して愛していくのはなく、喜んで、感謝を持って自発的に神を愛していくようになる。愛していくはずだ。そのような主なる神の思い、彼らに対する期待が伝わって来ます。 そしてこの神のイスラエル民族に対する愛、忍耐、そして期待は、同じように今を生きる私たちも含め、全ての人類に向けられているものだと思います。
このような神の愛、忍耐、期待や思い、願いが、イエスが言われたもう一つの大切な戒めにも表されています。それが、「隣人を自分のように愛しなさい」です。イエスは旧約聖書、レビ記第19章18節を引用されています。ここには「自分を愛するように隣人を愛しなさい」と記されています。神を愛することと、隣人を愛すること。この二つが分かち難く結び合って、律法の中心をなしているということです。そしてこの第二の戒めも、第一の戒めと同様に、命令形だけでなく、未来形で訳すことが出来る箇所です。「あなたは、あなたの隣人をあなた自身として愛するであろう(愛するようになる。)」この第二の戒めはまた、イエスが言われた第一の戒めである、人間が大切にしなければならない第一の律法である、「神を心から愛するということ」の、コインの表裏のようです。つまり神を心から愛する者は、自分と自分の隣人を愛する者になるということであり、自分と自分の隣人を心から愛する者は、神を心から愛する者になるということです。
イエスは律法学者に「あなたは神の国から遠くない。」と言われました。神の国はあなたの近くにある、あなたはいい線まで来ている、しかしまだそこに到達してはいない、とおっしゃったのです。正直であり、誠実な彼がなお神の国に入ることができないでいる原因は何なのでしょうか。
この律法学者は、「先生、その通りです」と言って、イエスが語られたことを称賛し、同意し、また共感しました。しかし神の国に入ることができるとイエスに言われなかったことから、彼には神への、すなわちイエスへの信仰が無かったことが分かります。つまり彼は自分の力で神を愛し、また隣人を愛していくことができると思っていた、そしてそのように生きていた、ということです。
彼は律法を学ぶことや、人々に律法を教えることに熱心だったかもしれませんが、その中心には最も大切な神がいませんでした。では、私たちはどうでしょうか。
心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、神を愛しているでしょうか。旧約聖書、伝道者の書7章には、「順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ」ということばがあります。順境、すなわち順風満帆の時は、人は言われなくても喜びます。しかし逆境、試練や苦難が来ると、私たちはその試練や苦難を通して自分のあり方を吟味したり、成長の機会と捉え感謝するよりも、時に神に責任転嫁、神のせいにしてしまうことがないでしょうか。なぜ神はこのような痛みの経験を許可されたのか、許されたのか?失望したり、怒ったことが、そして現在、怒っていることがないでしょうか。また私たちは、隣人を真実に愛しているでしょうか。イエスが、好きな人だけ愛しなさい、と言っておられないことは明白です。自分に敵対し、迫害する者のために祈りなさい、と言われるのがイエスです。つまり赦せない人を赦し、愛せない人を愛する、これが、イエスが言われる隣人を愛する、ということです。また、自分を愛するよう隣人を愛しなさい、ともイエスは言われました。私たちは時に自分自身を受け入れることが出来なかったり、愛することができないことがあります。自分の過去の過ち、自分で自分のことが自制できない弱さ、悪いことの方に傾く罪深さ、などを通して自分に嫌悪することがあるからです。そのような私たちにイエスは、一人一人が自分自身も受け入れ、赦し、愛するようにと言われています。しかし私たちはそのように人を赦し、自分を赦すという生き方をして来たでしょうか。またしているでしょうか?私自身を見る時、心から神を愛すること、心から自分を愛すること、そして心から隣人を愛すること、できていない、とよく思わされます。神が、イエスが求めておられることからどれだけ自分が離れているか、日常生活の中でも思い知らされます。そして自分の努力によっていくら頑張っても、神の規準に到達することが出来ないと、認めざるを得ません。最近息子にこのように言われました。「パパ、この頃ブチ切れなくなったね!-言ってくれるな~と感心しました。」この時ただ笑うしかありませんでしたが、子どもを叱るというより、感情的に怒ってしまいます。しかも何度も繰り返してしまう。(そして、これを購入しました。掲げる)日々の生活を通して、自分の愛のなさ、忍耐のなさを認めます。もちろん私の弱さは子育てだけに限りません。しかしそのような欠けや弱さのある自分に気づき、時に気付かされ、愕然とする。それは良いことかもしれません。
先週、神が人間に示された人間が生きる上でのルール、神の教え・戒めである十戒を始めとした律法の規準の高さ、厳しさに達することができないと心砕かれる者は、イエスの方に向かうとお話しました。 律法は、私たちをキリストに導く養育係になるというお話でした。律法に示されている神の規準の高さに触れる時、またイエスが言われ、実際に人々に対する愛の言動、その行いを聖書から知る時、自分には心から神を愛することも、また心から自分を愛することも、そして心から隣人を愛することはできない。自分に絶望するしかないのではないでしょうか。しかし私は、自分に絶望することは素晴らしいと思っています。そうでなければ、この律法学者のように、知識や知恵があり、正直に、また誠実に生きていたとしても、イエスから、「あなたは神の国に入ることができる。」、とは言われないし、実際入ることはできないからです。すなわちそれは、イエスとの愛の関係を築くことができないことを意味します。 イエスは公に福音を宣べ伝え始められた時、このように宣言されました。「神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」今年もこの神の国について見ています。神の国が近づいたとは、神の国が到来したと訳せることばです。到来ですから、イエスを通して神の国、すなわち神であるイエスが統治される国が、私たち人類の近くまで来た訳ですが、その神の国に誰でも入ることができる訳ではありません。神の国に入るには明確な条件があることを、イエスは言われました。それは、「悔い改める」ことでした。人生の、また自分の生き方、あり方の方向転換です。そしてその向かう先は、救い主、イエス・キリストです。イエスに信頼を置き、イエスを信じて歩む生き方への変換です。そして私たちの主、私たちの人生のあるじになって下さるイエスは、私たちが信頼を置き、頼ることができるに十分な方、また相応しいお方です。なぜなら律法を二つにまとめられたイエスご自身が、その律法を完全に守られたからです。律法に生き、律法を完成させたお方です。
そしてそれは、十字架に表されています。父なる神が罪ある人間を救うために、御子イエス・キリストを十字架にかけて殺す。イエスが全人類の罪を全て背負われて死ぬ。身代わりの死を通して人類を救うという父なる神のご計画に、イエスは完全に従われました。-なぜでしょうか?-それは父なる神を愛し、大切にされ、第一とされたからです。ではなぜイエスは、神を無視し、神に敵対しながら滅びに向かっている私たち人間の全ての罪を、ご自分で全て背負われて、十字架につかれたのでしょうか?-それは私たち一人一人の人間を心から愛しておられるからです。
神の規準を全て、完全に満たし、また私たち人間を心から愛しておられるイエスが、一方誠実ではありますが、自分中心に、また自分の努力で、神を抜きにして生きているような律法学者に対して、「あなたは神の国から遠くない」と言われた、いや、おっしゃって下さいました。彼は神から離れ、自分の力で生きていたような人がしたが、彼の正直さ、誠実さをイエスは認めて下さっていた。
その上でイエスはこのように彼を招いておられると思います。「あなたは神の国から遠くない。あなたに後必要なのは、そして絶対に必要なのは私だ。私に信頼を置き、私を信じて歩みなさい。そうすればあなたは神の国に入ることができる!」「あなたは神の国から遠くない」と言われたのは、この律法学者をご自分お下に招いておられる、そのように私は思っています。そしてこの招きは、全ての人類に、今を生きる私たち一人一人にも向けられている。そのように信じています。
本日はこの神から、すなわちイエスからの招きを、招詞として、礼拝の冒頭で読んで頂きました。
ローマ人への手紙10:17節です。前の訳ではこのように記されています。「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」神を愛することも、自分を愛することも、隣人を愛することもままならない私たち人間ですが、イエスは私たちの罪深さを知り、弱さに同情され、助けて欲しいと願い、求める者には必ず応えて下さるお方です。そしてそのイエスとの愛のある関係に導かれるのに必要なことが、イエスへの信仰です。そしてそれは、イエスのことば、聖書のことばを聞くことから始まります。
イエスの愛の招きに応答し、イエスを信じた者全ては、イエスが統治される神の国に入ることができます。そこはイエスとの愛の交わりが永遠に続く場所です。そしてイエスとの愛の交わりが完成する時は、聖書に何度も何度も記され、預言されている再臨、イエスが再びこの世界に戻って来られる時です。その時私たちは、神を心から愛し、自分を心から愛し、隣人を心から愛するものに造り変えられます。その完成に向かって私たちは日々自分の弱さや欠点、罪深く、愛の足りない者であることを聖書のみ言葉から教えられ、イエスがなされた愛の言動から思い知らされていきます。しかしそれは、イエスへと向かう大きな原動力となること、素晴らしいことです。 神の前に、イエスの前に自分を飾らず、弱さを隠さず、「私は愛が足りません。あなたの助けが必要です。あなたの愛で私を満たして下さい。そして神を愛し、自分を愛し、隣人を愛する者にして下さい。」そのようにイエスに向かう者を、イエスは決して見放すことも、また見捨てられることもありません。その根拠が十字架です。十字架に架かるほど私たち人間を、そして「私を」愛して下さっている証拠ですから。 このイエスの愛に触れられながら、時に慰められ、励まされながら、心から神を、心かから自分を、そして心から隣人を愛していくことができますように。
祈ります。「神の国へのステップ」
イエスは、彼が賢く答えたのを見て言われた。「あなたは神の国から遠くない。」それから後は、だれもイエスにあえて尋ねる者はいなかった。

2026/6/7(日)「生きている者の神」マルコ12:18~27 庄司牧師

2026年6月7日 マルコの福音書12:18~27「生きている者の神」
また、復活はないと言っているサドカイ人たちが、イエスのところに来て質問した。「先生、モーセは私たちのためにこう書いています。『もし、ある人の兄が死んで妻を後に残し、子を残さなかった場合、その弟が兄嫁を妻にして、兄のために子孫を起こさなければならない。』さて、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、死んで子孫を残しませんでした。次男が兄嫁を妻にしましたが、やはり死んで子孫を残しませんでした。三男も同様でした。こうして、七人とも子孫を残しませんでした。最後に、その妻も死にました。復活の際、彼らがよみがえるとき、彼女は彼らのうちのだれの妻になるのでしょうか。七人とも彼女を妻にしたのですが。」イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、聖書も神の力も知らないので、そのために思い違いをしているのではありませんか。死人の中からよみがえるときには、人はめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです。死人がよみがえることについては、モーセの書にある柴の箇所で、神がモーセにどう語られたか、あなたがたは読んだことがないのですか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあります。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。あなたがたは大変な思い違いをしています。」 (マルコの福音書 12:18-27 SKY17)
人類の罪の身代わりのため、イエスは十字架への歩みを進めている-その最後の1週間を共に見ています。11章から最後の16章まで続きます。 再び、イエスの下へ刺客が送られて来ました。それがパリサイ派と並ぶ党派であるサドカイ派の人々でした。当時のサドカイ派の人々は祭司長、および長老たちからなる富裕層の指導者たちです。彼らは現実主義的な保守派で、支配体制の現状維持を何よりも望んでいました。つまり彼らは前回見たヘロデ派のように、ローマ帝国と関係を保つことによって、自分たちの支配と利益を優先しているようなグループでした。 彼らはモーセ五書、すなわち旧約聖書の最初の五つの書物、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記のみを聖書と見なし、信仰の規範としていました。モーセが書いたと言い伝えられており、「モーセ五書」と呼ばれているものです。十戒を中心とする律法がそこに記され、聖書の中でもとても大切な部分です。 この5つの書物には、死んだ者が復活するということは直接的には書かれていません。それゆえサドカイ派の人々は、死者の復活はないと断言していた。また彼らサドカイ派の人々は、祭司として神殿で仕えるような立場にありましたが、復活だけでなく、目に見えない天使や悪魔などの霊的存在も信じていませんでした。加えて人間の運命は神によって完全に決定されているという考えには立たず、人間が自由に自分の道を、人生を決定できる、自由意思を重んじていました。つまり、彼らは神の主権や計画なども信じていなかったわけです。この世における自分の利益だけに興味があるようなサドカイ派の人々が、イエスに論争を挑んで来た、それが本日聖書の箇所です。サドカイ派の人々の質問は、「七人の兄弟がいて、長男は結婚したが死に、子がいなかったので、その妻を弟に残した。そして、次男も三男も、そして七人までもが彼女を妻にした。そして最後にその妻も死んだ。もし復活があるとすれば、彼女は七人のうちのだれの妻になるのか。」というものでした。 これは「レビラート婚(レビレート)婚」と言われるものです。子孫を絶やさないようにすることで家系を守り、またその家系の財産の維持や、遺された妻や子どもの生活保障などが目的でした。世界の国々にある制度のようです。旧約聖書、申命記25章にこの規定が記されています。実例が、イエスの直接の系列となるユダ部族、ユダに見ることができます。創世記38章に記されています。後でご覧下さい。
7人の夫が次々に死んで行く中で、一人の妻をそれぞれがめとる。 理論的にはあり得る話ですが、実際的には到底起こらない話です。イエスはこの質問に対して、ノーを突き付けました。 イエスは彼らに対して24節で「思い違いをしている」、27節においては「大変な思い違いをしている」と、二度にわたって彼らの間違いが致命的であることを指摘しています。
イエスは彼らの間違いを指摘しながら、復活とは本当はどのようなものであるかを、25節から27節で説明されて行きます。先に26節と27節の前半を見たいと思います。死人がよみがえることについては、モーセの書にある柴の箇所で、神がモーセにどう語られたか、あなたがたは読んだことがないのですか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあります。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。イエスは26節でアブラハム、イサク、ヤコブという、神の選びの民であるイスラエル民族における、重要な祖先の名前を挙げられました。彼らは神を信じる信仰者でした。 なぜイエスは彼らの名前を挙げられたのでしょうか。
それは、サドカイ派の人々がモーセ五書のみを信じていたため、そのモーセ五書の中に、死人が甦るということが直接的ではないものの、示されているからです。それがアブラハム、イサク、ヤコブであり、イエスはモーセ五書の第二巻、出エジプト記の3章6節を引用されました。
『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』この箇所は、エジプトで奴隷とされていたイスラエル民族が神に助けを叫び求めた時、主なる神が燃える柴の中からモーセに現れた時の場面です。神はモーセを選び、イスラエルをエジプトから脱出させる器として、またリーダーとして選ばれました。この時神は、アブラハム、イサク、ヤコブの名前を挙げながら、ご自分を現わされました。すなわち神は、モーセから見れば400年~500年前に生きていたアブラハム、イサク、ヤコブと今なお契約関係にあることを示されています。その契約とは、神を信じる者が義とされ、すなわち神の前に正しい者と認められ、神の祝福を受け継ぐ者となるというものでした。つまり神はモーセに対して、彼らを導いた神は、あなたの神でもあるのだと、モーセに語られているということです。「アブラハム、イサク、ヤコブを導いた神である私は、あなたにとっても同じ神だ。この同じ神があなたを遣わし、共にいるのだから、あなたはイスラエルをエジプトから脱出させることができる!大丈夫だ!」神はご自身を宣言されると共に、モーセを励ましている箇所でもあります。 イエスはこの箇所を引用された時に、27節の前半において、神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。と語られました。つまり、イスラエルの祖先であるアブラハム、イサク、ヤコブは、今も神の前に生きているということです。彼らが今も生きているということを踏まえて、25節にある、「死人の中からよみがえるときには」と言われたイエスのことばを考えてみたいと思います。 アブラハム、イサク、ヤコブのように、神の前に生きていることと、よみがえるということは、異なるということです。私たちのいのちが終わる時、肉体の機能は停止し、肉体はその形も機能も維持することはできません。そして崩壊、すなわち腐り、最終的には神が聖書で語られているように、最初に取られた土に返ります。人間の組織が土の成分と殆ど同じだと言うことは、以前お話したことがあります。 この肉体の死と崩壊という現実は、アブラハムにもイサクにもヤコブにも当てはまりました。彼らも普通の人間だったからです。 ですから彼らが死んだ時も、肉体は滅んでしまいました。しかしイエスは彼らが今も生きていると語られています。つまり彼らが神の前に生きているというのは、肉体ではなく、霊魂であると言えるでしょう。人間が霊、肉体、魂からできていると聖書に記されている通りです。死んでしまっても、神を信じる信仰者であれば、霊魂の状態で神の前に生きている。 旧約聖書に登場する人々の時代は、イエスはまだ受肉していませんでしたが、三位一体の神-父なる神、子なるキリスト、聖霊なる神は一つの神です。ですから主なる神を信じていた旧約時代の信仰者は、すなわちイエス・キリストを神として信じ、イエスの前に生きているということでもあります。この現実を踏まえて25節を見たいと思います。この箇所は今回のサドカイ人の質問に対してのイエスの答えです。死人の中からよみがえるときには、人はめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです。
「死人の中からよみがえるとき」とは、イエスがこの世に、この世界に再び戻って来られる再臨の時に、イエスを信じて死んだ者たちがよみがえる時を意味します。 新約聖書、コリント人への手紙の第一、15章には、イエスが再臨された時に、イエスを信じて亡くなった信仰者に与えられる甦りと、甦った者に与えられる復活の体について記されています。また彼ら信仰者は、つまり私たち信仰者は、将来復活した時、「天の御使いたちのよう」とあるように、男と女という性別も無くなると考えられています。つまり、この世における結婚の制度-男と女が結びつくといった関係が、私たちが召された後はもはやない、ということになります。またユダヤ人とユダヤ人以外の民族である、異邦人といった民族の違いも、将来一つになると聖書に記されています。
ところで皆さんは、「復活においては、めとることも嫁ぐこともない」イエスが言われたこのことばをどのように受け止められるでしょうか。ある人にとっては、このことばはとても寂しいことだと思われかもしれません。そのように思う人は幸せな夫婦関係に生きていた、また生きていると言えるでしょう。しかしある人にとっては逆に、このことばは大いなる解放の知らせかもしれません。この世では我慢しているが、復活してまであの人と一緒なのはごめんこうむる!感謝です!と思う人もいるかもしれません。また独身の人や、離婚、再婚などを経験した人々にとっては、このイエスのことばをどのように捉えたら良いのかと、戸惑う人もいるかもしれません。しかしこれら全ての反応は、死者からの復活を、この世の人生の延長上に見ているから起こる反応だと思います。そこで、イエスが言われる復活について、私たちが正しく理解するための大切なポイントが、先ほども触れましたが、イエスが25節の後半で語られた、「天の御使いたちのようです」にあると思います。もう一度この25節をお読みします。死人の中からよみがえるときには、人はめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです。天の御使い、すなわち天使ですが、天使のようになるとは、何か白い衣を着て背中に翼のある者になるということではありません。 原語のギリシャ語を見ると「天にいる御使い」となっています。「天にいる」、ということが大切です。天にいるとは、神のみ手の内に置かれている、神と共に存在しているということです。今私たちは朽ちて行く肉体を纏い、罪と死とサタンが支配しているこの世、この世界に生きていますが、イエスを信じる信仰者が復活する時、全てが変わるということです。 御使いが神の御手にあるように、復活した私たちが神の御手の中にあり、神が共にいて下さるという神の守りを、神の恵みを、神の平安を、神の愛を、もっとはっきりと、知る者にされるということです。経験できる者にされるということです。
そのような祝福が復活にあるとすれば、今のこの世における私たちの人間関係がいかに歪んでいても、時に壊れていても、復活の時に神のみ手の内に置かれることによって、新しく完成されるということではないでしょうか。ですから、今この人生において良い夫婦関係を与えられている人は、復活において、今以上の完成された関係が与えられるでしょう。また、今この人生においては夫婦の間に問題があり、復活してまで一緒にいたくないと思っている人には、そのような問題や罪が全て解決され、解消された新しい関係が与えられるでしょう。それはもちろん、二人ともイエスを信じていなければなりませんが。 また、この世の人生においては結婚しなかったり、離婚を経験したり、複数の人と結婚した人においても、それらのことを越えた新しい、祝福された関係が与えられるでしょう。 いずれの場合も、この世における関係が復活において継続するのでなく、完成するということです。そしてこの完成は、夫婦の関係だけの話で終わりません。家族、友人、知人から、この世において知り合うことができた、全てイエスを信じた人々、また信じている人々との人間関係に及ぶものです。私たちはこの世の人生において様々な人間関係の中に生きています。恵まれた、喜ばしい関係もあれば、顔も見たくない、という問題に満ちた関係もあります。それらの関係や問題が、復活して神のみ手の内に置かれることによって、全て解決されます。それは、人間関係を悪くしてしまっている、元々の原因である罪が、イエスを信じることによってすでに解決されているからです。
復活というのはこのように、様々な罪や弱さを抱えてこの世の人生を歩んでいる私たちが、神の恵みの力によって新しくされ、御手の内に、御手の中に置かれ、この世においてはどうしようもなくまとわり着く罪が拭い去られ、一切の苦しみや悲しみから解放されて、新しく生かされるということです。それが神の力であり、恵みです。この神の約束は必ず成就、実現します。 私たちはイエスを信じていますから、将来必ず復活します。しかし今はまだ肉体という限界があり、神の御手の内には直接的にはいない私たちにとっては、復活を信じて日々待ち望み、また期待して過ごして行くことが大切ではないでしょうか。そのように歩みが、私たちの信仰であると言えます。
そしてその私たちの信仰と復活の保証がイエス・キリストです。 私たちの復活の先駆けとして、また私たちが将来復活して新しい体が与えられる、その保証として、死人の中から最初に復活されたのが、私たちの主、イエス・キリストです。肉体の死がイエスを一時捕えましたが、生きている者の神である主なる神が、その死を打ち破り、永遠の命を生きることができる、新しい体をイエスに与えて下さいました。そしてイエスを信じる者は全て、イエスの復活に与る者となります。イエスを信じる者が受けるバプテスマ、洗礼は、私たちがイエスと合わされている、一つであるということを表しているものですが、それは復活も同じです。イエスを信じた人は全て、イエスが死から復活されて今も生きておられるように、私たちも将来復活して、御国を受け継ぐ世継ぎとして神の御手に置かれ、私たちは神と共にあり、神の恵みと平安を、永遠に持ち続ける者とされます。私たちが将来必ず与えられる復活と、将来必ず与えられる復活の体を期待し、また同時に、先にイエスを信じて天に召された人々との再会を待ち望みたいと思います。
復活され、今も生きておられるイエスと共に、これからも歩んで行きたいと願います。最後に、イエスが群衆に語られたことば、ヨハネの福音書6:40節のことばをもって、本日のみ言葉の取り次ぎを終わりたいと思います。ヨハネの福音書6:40節 わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです。」
祈ります 「生きている者の神」
神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。あなたがたは大変な思い違いをしています。

ゴスペルカフェ可児 2026/6/5(金)

2026年6月5日㈮、ゴスペルカフェ可児 第8回が開催されました。

ゲストはピアノの三戸 香さん、トム兼松さんをお迎え。

“酒とバラの日々”“川の流れのように”“鈴懸の径”など馴染みのある曲のセッションを楽しんでいただきました。。

ゴスペルカフェ可児 2026/5/15(金)

2026年5月15日㈮、ゴスペルカフェ可児 第7回が開催されました。

松浦千華さん(sax,kb)とトム兼松さん(gt)のコラボ。

今回はタイから旅行中の女性2人が立ち寄ってくださって、記念撮影もありました。

良い思い出となり、いつの日か来日した時に立ち寄ってくださることを願います。

ゴスペルカフェは、岐阜県可児市禅台寺にあるカフェ「樹の萌」さんで、

毎月 第1金曜日に開催を予定しています(今回は連休、お店の都合などで第3でした)。

参加費はワンドリンクのご注文で大丈夫です。気軽にお立ちよりください。

次回は6月5日㈮を予定しています。

2026/5/3(日)「何度も、何度でも」マルコ12:1~12 庄司牧師

2026年5月3日 マルコの福音書12:1~12「何度も、何度でも」
それからイエスは、たとえで彼らに話し始められた。「ある人がぶどう園を造った。垣根を巡らし、踏み場を掘り、見張りやぐらを建て、それを農夫たちに貸して旅に出た。収穫の時になったので、ぶどう園の収穫の一部を受け取るため、農夫たちのところにしもべを遣わした。ところが、彼らはそのしもべを捕らえて打ちたたき、何も持たせないで送り返した。そこで、主人は再び別のしもべを遣わしたが、農夫たちはその頭を殴り、辱めた。また別のしもべを遣わしたが、これを殺してしまった。さらに、多くのしもべを遣わしたが、打ちたたいたり、殺したりした。しかし、主人にはもう一人、愛する息子がいた。彼は『私の息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に、息子を彼らのところに遣わした。すると、農夫たちは話し合った。『あれは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は自分たちのものになる。』そして、彼を捕らえて殺し、ぶどう園の外に投げ捨てた。ぶどう園の主人はどうするでしょうか。やって来て、農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるでしょう。あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか。『家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった。これは主がなさったこと。私たちの目には不思議なことだ。』」彼らは、このたとえ話が自分たちを指して語られたことに気づいたので、イエスを捕らえようと思ったが、群衆を恐れた。それでイエスを残して立ち去った。
イエスがたとえを用いて語られている。それが本日の聖書箇所ですが、このように始まっています。「ある人がぶどう園を造った。垣根を巡らし、踏み場を掘り、見張りやぐらを建て、それを農夫たちに貸して旅に出た。このたとえ話の設定です。「ぶどう園を作った」だけではなく、「垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て」と細かく語られています。「搾り場」とあることから、ぶどう酒を造るぶどう園です。垣や見張りのやぐらは、盗賊や動物たちからぶどう園を守るためのものです。 このたとえは旧約聖書、イザヤ書の5章がモチーフ、題材となっています。5:7節の前半をお読みします。万軍の主のぶどう畑はイスラエルの家。ユダの人は、主が喜んで植えたもの。従ってぶどう園を造った主人とは主なる神、ぶどう畑はイスラエルの家、そして植えられている木はユダ、すなわち神に特別に選ばれた、イスラエルの人々であることが分かります。神は彼らイスラエルをエジプトの奴隷状態から解放し、彼らの神となるという特別の関係、契約を結んで下さり、ご自分の民として下さいました。旧約聖書、出エジプト記に描写されています。そして彼らを約束の地に導き入れ、そこに住わせて下さいました。そのイスラエルに対する神の愛と恵みが、必要な全てが整えられているぶどう園に表されています。そして収穫の時季がやって来ました。
ぶどう園が新しく作られた場合、そこから収穫がなされ、ぶどう酒が造られ、利益をあげることができるようになるまでには、何年かの時が必要です。ですから「収穫の時になったので」というのは、その時が過ぎて、いよいよ実際にこのぶどう園から収穫、利益が見込まれるようになった時に、ということが表されています。 主なる神は、このぶどう園に表されているように、イスラエルの人々に与えた賜物や才能などが用いられ、彼らを通してぶどう園が豊かな実を結ぶことを願い、また期待していました。十分に時間を与えた上で、ぶどう園の収穫の一部を受け取るため、農夫たちのところにしもべを遣わしました。しかし彼らはそのしもべたちを受け入れませんでした。
ところが、彼らはそのしもべを捕らえて打ちたたき、何も持たせないで送り返した。そこで、主人は再び別のしもべを遣わしたが、農夫たちはその頭を殴り、辱めた。また別のしもべを遣わしたが、これを殺してしまった。さらに、多くのしもべを遣わしたが、打ちたたいたり、殺したりした。
実際にイスラエルの人々は神に反逆し、神から送られて来た預言者たちを何度も殺して来ました。民の指導者たちは民衆から搾取し、正しい裁きは行われず、他国と争い、人々は神に反逆し、偶像礼拝が頻繁に行われていました。イスラエルの民は本来であれば、全世界に神の恵み、栄光を表していく神の特別な選びの民でしたが、神が望まれた公正も正義も行わず、流血に至るような争いを繰り返して来た。それがイスラエルの歴史です。神は預言者を通してご自分の御心を彼らに知らせ、彼らが悔い改めて神に立ち返るように、多くの預言者を遣わされましたが、彼らは神の期待に応えることができませんでした。
イエスはこのたとえを、直接的には「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか」と問うた、エルサレム神殿の祭司長、律法学者、長老たちに語っておられます。先週見ました。また同時に、神に反逆して来た、イスラエルの民衆にも語られています。
このような悲惨な歴史と現実の中で、ぶどう園の主人なる神が取った最大の決意と行動が、6節に表されています。しかし、主人にはもう一人、愛する息子がいた。彼は『私の息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に、息子を彼らのところに遣わした。
主人は最後に自分の愛する息子を農夫たちの下に送られました。「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」と言って。主人のこの「愛する息子」とは、言うまでもなくイエス・キリストのことです。主人、すなわち父なる神は、「最後に」愛する息子であるイエスを送られました。最後とあるように、イエス以降、どのような預言者も、また神を指し示すような者も天から遣わされていません。
父なる神は、愛と配慮をもって最後に一人息子、イエス・キリストを送って下さいました。しかしとても残念なことですが、イスラエルの人々はこのように応答しました。すると、農夫たちは話し合った。『あれは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は自分たちのものになる。』と相談してその息子を殺し、ぶどう園の外に投げ捨ててしまいました。残酷なイエスの十字架の死が表されていますが、皮肉にも、十字架の死を遂げるイエスご自身が、このたとえを語られ、これから起ころうとしていることを預言しているということです。そしてまさに今、農夫にたとえられている宗教指導者たちが、神の愛する一人息子、イエス・キリストを殺そうとしています。今まで見て来ましたし、これからも見ていくことになりますが、彼らは多くの悪意ある質問によってイエスを捕らえ、殺そうとしてきました。またイスラエルの人々も、イエスが自分たちの期待するメシヤではないと分かった時、その態度を翻し、「十字架につけろ!」と叫び出します。 
それでは私たちはどうなのでしょうか。私たちは宗教指導者でもないし、イエスを裏切る民衆でもないからこのたとえは私たちとは関係がない、と言えるでしょうか。 農夫たちが預けられたぶどう園は、労働と収穫のために必要な全てのものが準備されていた場所でした。
このぶどう園と似ている場所があります。いや、同じかもしれません。 それは私たちが今住んでいる世界です。神は人類の始祖となるアダムとエバを創造され、全ての動植物を統治し、管理するよう命じられました。これは大文化命令とも呼ばれ、旧約聖書、創世記の1章、2章に記されています。そして神は人間が被造物をしっかりと管理できるよう、人間に必要な全てを準備、備え、整えて下さいました。人間が生きるために必要な空気、水、食物、それらを生み出す地球そのもの。また私たち人間もそうです。「神が大地の塵から人を形造り、そこに神の息吹を吹き込んで人とした。」と創世記に記されているように、人間は神に造られたものです。つまり私たちのいのちは神が造られたものであり、それゆえ、神のものであるということです。しかし人間は自分が神に造られたことも、また、神に委ねられている管理者としての使命も忘れてしまいました。自然から一方的に資源を搾取し、環境を破壊し、毎年毎年多くの動植物を絶滅させています。自分に必要な物を超えてもっともっと欲しいと貪るようになりました。つまり人間は、自然、被造物を統治するのではなく、支配、コントロールするようになってしまいました。 そして本日も宗教指導者が取り上げられていますが、彼らは貧しい人々から搾取、支配していました。しかし今の私たちの世界はもっと悲惨かもしれません。コロナ禍を経て貧富の格差は更に拡大し、世界人口の1%が、世界人口のおおよそ半分、もしくはそれ以上の富を独占しています。AIはどんどん進化し、今すでに人類の能力を超え始めています。 神のようになりたい、いや、神を超えたい。そのような願望を感じます。これは神に敵対するだけでなく、自分の能力、才能を神に誇示しようとした、バベルの塔の時の人々の姿と、何ら変わりありません。罪深い人間の姿は、創世記の時代から全く変わっていないということです。また加えて私たち人間は、性別、容姿、能力、賜物、生まれる時代、国、どのような両親の元に生まれるか。自分の名前すらも自分で決めることはできませんでした。
つまりぶどう園全てを主人が作り整えたものであったように、この世界も神が計画され、私たちが生きるために必要な全てを備え、整え、私たちに預け、委ねて下さったものであるということです。ですから私たちは、神から与えられた基本的条件の下で生きているということになります。ですから本日登場するぶどう園は、今私たちが生きている世界を表しているとも言えるのではないでしょうか。 そしてもし私たちが、このぶどう園なる世界において、何がしかの実りを生むことができるとしたら、それは基本的には神が備えて下さった条件や賜物によるものだと言えるでしょう。私たちの努力ということも勿論ありますが、努力が実を結ぶための条件を整えて下さったのは、神です。 しかし私たちも、農夫に例えられた祭司長、律法学者、長老たちや、ぶどうの木にたとえられたイスラエルの人々と同じように、ぶどう園なるこの世界を自分のものにしてしまっているように感じます。そしてそれを作り与えて下さった、本来であれば私たちの主人であるはずの神の恩を忘れ、自分が主人となって生きているような者だと思います。 このように神に敵対し、自分中心に生きている私たちは、神の独り子であるイエスを十字架につけて殺している者と、何ら変わりがないように思えます。ですからもし私たちがイエスの時代に生きていたら、宗教指導者たちや民衆と同じように、イエスを「十字架につけろ!」と叫んでいたに違いありません。そうであるならば、私たちも宗教指導者たちや民衆と同じように、神との関係を回復する道を閉ざされ、神の怒りによって滅ぼされるしかない存在ではないでしょうか。 しかしイエスは、そのような私たちに、今なおたとえを通して語りかけて下さっています。9節です。ぶどう園の主人はどうするでしょうか。やって来て、農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるでしょう。きちんと労働し、きちんと収穫を納める、別の人たちにぶどう園を与えると、イエスは語られました。しかしこのぶどう園は、以前のぶどう園とは違います。また、そのぶどう園を受け継ぐ人々も違います。イエスはそのことを、先の11節、12節でこのように語っておられます。
『家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった。これは主がなさったこと。私たちの目には不思議なことだ。』」詩篇118篇22節、23節からの引用です。「家を建てる者」とは、ユダヤ人の宗教指導者であり、石はメシヤであるイエスを指しています。本来であれば彼ら宗教指導者たちは、イエスを家の要、礎のように中心に据えて、信仰生活、人生を建て上げていくべきでした。しかし彼らはメシヤなるイエスを否定して、十字架につけて殺してしまいます。本来であれば、人間の土台の石となるべきはずのイエスを、捨ててしまった訳です。しかしイエスは死から復活され、ご自身が私たち人間において最も大切な要の石として、家の礎となって下さいました。イエスが家の要の石として、また礎として家の中心に来る。
イエスが中心になって家を支えているように、イエスが中心となって支え、統治、統べ治めている領域があります。それは今年も共に見ている、神の国です。イエスが統治されている領域、場所ですが、イエスはこの神の国を、新しいぶどう園のように、そこで実を結ぶ者たちに与えて下さいます。
従って人々に捨てられたイエスを通して、イエスの十字架と死、そこからの復活を通して、イエスは新しい霊の家、すなわち神の国を建てて下さいました。そして神の国を構成しているのは、全て、イエスを救い主として信じる人々、すなわちキリスト者です。
私たち人間にいのちを与え、いろいろな実りを生むことができるように人生を整え導いて下さる父なる神が、「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」と言って、神に反逆し、敵対し、神を無視して歩む私たちに、独り子イエス・キリストを送って下さいました。 おめでたいとも言える驚くべき信頼と、限りない愛と忍耐が表されています。イエスご自身も、十字架の苦しみを予期、予知しながら、この世界を、特に貧しい人々と共に歩んで下さいました。 父なる神の愛の計画、そしてその計画のために、イエスご自身が十字架という大きな犠牲、代償を、神を無視して自分勝手に歩む私たち人間の罪のために、支払って下さいました。その十字架の代償があり、また罪と死に打ち勝った復活を通して、イエスは神の国の基礎となる、生ける石となって下さいました。 私たちはイエスを信じていますから、私たちと神を隔てていた罪は赦され、神との関係が回復され、イエスを通してすでに神の国に入れられている、幸いな者たちです。

私たちは、イエスが十字架という犠牲を通して備え、また与え、委ねて下さった神の国と言う新しいぶどう園において、神の栄光、素晴らしさを表すべく、良い実を結んでいくことが期待されています。欠けや弱さ、色々な失敗、また不信仰に陥ることもありますが、イエスはすでに十字架の贖いを通して私たちを深く愛し、受け入れて下さっていることが分かります。そしてイエスは期待を持って、私たち一人一人を、ぶどう園であるこの世界に遣して下さっています。
私たちを新しく造り変えて下さり、また新しいぶどう園とも言える神の国に導いて下さったイエスを中心に、またイエスを信仰生活と人生の礎に据えて、今も生きておられるイエスと共に、歩んで行きたいと願います。
祈ります。
「私たちの体を、神に喜ばれる、聖なる生きた献げ物として、献げることができますように。」
「何度も、何度でも」
しかし、主人にはもう一人、愛する息子がいた。彼は『私の息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に、息子を彼らのところに遣わした。

2026/4/25(日)「悔い改めに進ませるために」マルコ11:27~33 庄司牧師

2026年4月26日 マルコの福音書11:27~33「悔い改めに進ませるために」     
彼らは再びエルサレムに来た。イエスが宮の中を歩いておられると、祭司長たち、律法学者たち、長老たちがやって来て、こう言った。「何の権威によって、これらのことをしているのですか。だれがあなたに、これらのことをする権威を授けたのですか。」イエスは彼らに言われた。「わたしも一言尋ねましょう。それに答えなさい。そうしたら、何の権威によってこれらのことをしているのか、わたしも言いましょう。ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、それとも人から出たのですか。わたしに答えなさい。」すると、彼らは論じ合った。「もし、天から来たと言えば、それならなぜ、ヨハネを信じなかったのかと言うだろう。だが、人から出たと言えば──。」彼らは群衆を恐れていた。人々がみな、ヨハネは確かに預言者だと思っていたからである。そこで、彼らはイエスに、「分かりません」と答えた。するとイエスは彼らに言われた。「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに言いません。」 (マルコの福音書 11:27-33 SKY17)         
イエスのエルサレム入城、宮きよめ、イエスのことばだけでいちじくの木が枯れる、といった出来事を見て来ました。その後、イエスは再びエルサレムに入られました。イエスがエルサレム神殿の中を歩いていると、イエスの敵対者たちである、祭司長たち、律法学者たち、長老たちがやって来ました。この当時のイスラエルは政治と宗教が一体となっていましたから、宗教指導者イコール国家の指導者です。その彼らが、エルサレム神殿を管理、統治していました。しかしその神殿の中で、田舎のガリラヤから出てきた若者が人々に教え、人々が彼を称賛している。加えて自分たちエリートであり支配者を、偽善者と呼び、叱責、批判して来る。そんなイエスに歯ぎしりしている宗教指導者たちの、悪意あるイエスへの問い、それが本日の背景です。

彼らはこのようにイエスに尋ねました。「何の権威によって、これらのことをしているのですか。だれがあなたに、これらのことをする権威を授けたのですか。」「これら」とはイエスがなされた宮きよめを指していると思われます。また「だれが」という言葉の裏には、神殿の管理を委ねられている自分たち以外に、誰もこのような権威は与えられていはいはずだ、と、自負と怒りが込められているのを感じます。 イエスがその問いに対して、もし自分の権威が「神からだ」言えば、神殿の庭で騒ぎを起こすような権威を神が誰にもお与えになるはずはないと、彼らはイエスを糾弾できたでしょう。またもしイエスが神を父と呼び、自分は神の子としての権威が与えられていると言えば、彼らはイエスをただの人間と見なしていましたから、イエスが神を冒涜しているとして捕らえることができたでしょう。いずれにせよ、この問いはただイエスを捕らえるための罠でした。
イエスは彼らの意図も、また、真理や神のことを求めている訳でもないことも見抜いた上で、彼らの問いに直接答えず、逆に問い返しました。始め彼らがイエスに問うた時は、イエスを窮地に追いやるものであったため、彼らは優位な立場にいました。しかしイエスから逆に問われたことによって立場が逆転します。ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、それとも人から出たのですか。わたしに答えなさい。」彼らはこの問いによって逆に追い詰められてしまいます。バプテスマのヨハネは、イエスが人々に福音を宣べ伝え始める前に現われ、荒れ野で教え、人々の罪を厳しく指摘し、悔い改めを求めました。神に立ち返りなさい!多くの人々がヨハネが神によって遣わされた預言者だと信じ、ヨハネが語ることばは神からのもの、神からのメッセージであることを信じて洗礼を受けました。実際にヨハネの到来と働きは、すでに旧約聖書のイザヤ書やマラキ書などに預言されていました。従ってヨハネの登場と働きは、旧約聖書の預言が成就、実現したことの証でした。またバプテスマのヨハネは、人々の目をイエスの方へと向ける先駆者、イエスの道備えをする使命を持っていた人でもありました。ヨハネはイエスと同じように、宗教指導者たちに正面切って彼らの行いや信仰を批判し、悔い改めを迫りました。また神殿の祭儀を重んじず、民の指導者たちにも従いませんでした。よって宗教指導者たちにとってヨハネは憎むべき者であり、敵でした。しかしイエスはこのヨハネを指して、彼の働きは何の権威によるものだったのか。天から、つまり神からの権威によるのか。それとも人から、つまりヨハネが勝手にしていたことで、本当は何も権威がなかったのか。彼らに問い詰められました。もし彼らがヨハネを「天から」と認めれば、ヨハネはイエスの先駆者ですから、イエスも神からのメシヤであることを認めることになってしまいます。彼らはヨハネもイエスも信じていませんでした。信じたくもなかった訳ですから、このように答えることは絶対に避けたい。 しかしもう一つの答えも彼らを窮地に追い込み、身の危険が及ぶと予測できる答えとなります。だが、人から出たと言えば──。」彼らは群衆を恐れていた。人々がみな、ヨハネは確かに預言者だと思っていたからである。多くの人々が、ヨハネを神から遣わされた預言者だと信じ、悔い改めのしるしの洗礼を、彼から受けていました。またヨハネはヘロデ王を批判して投獄され、獄中で首を切られました。そのこともまた、権力に屈することなく正しい主張をして殉教した預言者として、人々からさらに尊敬を集めることになりました。 そのような人々の前で、「ヨハネの洗礼など人間の勝手な業で神とは関係がない。ヨハネはただの偽預言者だ。」などと言えば、群衆の怒りを買い、殺されてしまうか、または例え殺されなかったとしても、人々の支持を失うことになるのは、目に見えています。 そこで彼らはイエスに、「分かりません」と答えました。そう答える他無かった訳です。宗教指導者たちは、ただ、群衆の顔、評価を恐れました。

しかしこの「分からない」という答えは、彼ら宗教指導者たちの責任でもある、預言者の真偽判断の義務を放棄したことになります。彼らは預言者が真実を告げているのか、あるいは偽りを語っているのかを見極め、審判する重大な義務がありました。この義務は、律法(トーラー)の教えを守り、ユダヤ教の信仰の正統性を維持するために、不可欠な役割でした。イエスから問われていたバプテスマのヨハネも一預言者ですから、彼らはそれが天から、つまり神から遣わされた本当の預言者であるのか、それとも人から、つまり偽預言者であるのかを判断し、審判する重大な義務がありましたが、それを怠ったことになります。それはただ、自分たちの権威を保ち、自分たちの身を守るためでした。 彼らは神の前においても、また人の前においても、忠実でも誠実でもありませんでした。 従って「分かりません。」と言う答えは、最悪な答えだったと言うことになります。加えて彼らの答えは嘘でもありました。 彼ら自身が自ら証言しています。それは、「ヨハネは天から来たのか、それとも人から出たのか。」というイエスの問いに対して、「もし、天から来たと言えば、それならなぜ、ヨハネを信じなかったのかと言うだろう。」という受け答えに表されています。彼らはイエスの答えを予測しています。イエスがヨハネを信じることを彼らに願っているということです。 彼らはイエスの思いも願いも意図も知っていたということです。また彼らはヨハネだけでなく、イエスも、神から遣わされて来たということが事実であると、旧約聖書の預言から知ることができました。彼らは旧約聖書のエキスパートですから、旧約聖書にヨハネと、またメシヤ、救い主なるイエスのことも預言されていることが分かるはずでした。そして実際にその預言が二人において成就、実現していることも分かる、理解することが出来たはずでした。 彼らは事実を知っていながら、ただ、その事実を認めたくなかったのです。ですから彼らはイエスの問いに対して、「ヨハネが天から来たことを認めたくもないし、信じたくありません」と答えるべきでした。それを「分かりません」と答え、自分たちの権力を守りました。嘘をついてまで守り通そうとしました。彼らの嘘と保身、権威への執着、そして権威から生まれる経済的利益や名誉などの貪りが見られます。彼らの人生も生活も、自分が中心であり、自分が王座に座っていました。 
しかし宮きよめに見られるように、そこにイエスがどかどかと入って来て、ご自分の思いのままにされました。彼ら宗教指導者たちは、自分たちの権威、自分たちの場所、自分たちの領域が犯されたと思って不満を持ち、怒りました。
しかしそれは、彼ら宗教指導者たちだけに限りません。現代を生きる私たちにも、私たちの人生にも、私たちの生活にも、私たちの心にも、時にイエスはどかどかと入って来られます。 神であるイエスが、私たちの全く知らなかった権威を持って、私たちの内に踏み込んで来られます。イエスが踏み込んで来られるまでは、ここは自分の世界、自分の心の領域、自分の生活の領域だと思っていました。自分の好きにしてよい場所、自分の思い通りにできる能力や賜物、財産、人間関係。自分が王座に座り、誰にも干渉されず、心地よい世界。そして自分の信じていることが絶対に正しい。自分の生き方が一番素晴らしいと思う。 しかしそこにイエスがどかどかと入って来られる。
イエスが聖書を通し、祈りを通して私たちの内に踏み込んで来られる。
その時、「困る」とか、「煩わしい」とか、反発したくなる気持ちになります。しかしこのような困惑は、私たち信仰者が体験しなくてはならない、大切なことです。つまり信仰を持つということは、自分の物、自分の自由と思っていることがそうではない。実は全てイエスの権威の下に置かれていると認めていくことです。自分が今まで治めて来たと思っていた場所が、領域が、そして自分自身が、本当に生かされて行くことできる権威は自分の内にではなく、主の下にあるということを認めていく。そしてそれを喜んでいく。家庭において、これまで自分勝手に、思い通りに振舞ってきた人。「私は主人だ、家族は自分のルールに従うべきだ。それが幸せだ。」と思っていた人が、イエスに出会って、今度はイエスのルールに自分も家族も委ねていくことを喜ぶ者に変えられて行く。イエスの権威を認め、受け入れ、その権威に従っていく。これが信仰ではないでしょうか。

そしてこの信仰には、謙遜さが伴わないといけないものです。自分の心の中にイエスを迎え入れ、自分がずっと座ってきた王座を降りる。これはイエスを信じて自分を明け渡す信仰と、自ら王座を降りる謙遜さがなければできません。 また勇気もいることです。なぜなら私たちは自分が信じて来た選択と結果の積み重ねによって、今の自分が成り立っているからです。
自分の価値観。自分の優先順位。自分の計画。それが一番だと信じて歩んで来ました。その積み重ねて来た自分が、イエスを信じることによって崩れ去るかもしれません。それは自分を、自分の人生を揺るがす、自分のアイデンティティーが揺さぶられる、大きな出来事です。だから勇気も要ります。 そこから逃げることもできます。 それが宗教指導者たちでした。
しかしそれは、今を生きる私たちも同じです。聖書はいいね、教会もいいね、そしてクリスチャンも素晴らしいね。と言っている人々が、真実にイエスの言われたこと、聖書に記されていることに向き合おうとしないことがあります。そのような人が、「私はどんな宗教も信じない。」と言うかも知れません。「キリスト教は外国の宗教だから自分には関係がない」とも言うかもしれません。
しかしそれはただの言い訳であり、その根底には恐れがあるように思えます。もし本気で聖書を読み、イエスに出会い、真理を知るようになれば、自分が積み重ねて来たものを手放さなければならないのでないか。自分が正しいと信じてきた全てが崩れ去れるのではないか。それでは今まで積み重ねて来た自分はいったいどうなってしまうのだろう。「私は」どうなってしまうのだろう。
嫌だ、私はずっと自分の世界に、自分の価値観に、自分の人生に、その中心に自分の王座を置き、そこにずっとずっと座っていたい。
これが罪です。 罪とは言い換えれば、神を排して、神を脇に置いて、自分自身が自分の王座に居続けること。座り続けることではないでしょうか。自分たちの成すべきことを放棄し、嘘をついてまで権力を守り通した宗教指導者たちは、まさに罪ある人間の姿でした。 しかし神であるイエスを、そして神のことばである聖書を無視し、自分の王座に座り続ける、今を生きる私たちも、何ら変わることはありません。同じだと思います。 イエスは最後に、彼らがわざと知らないと偽っていることを示されるために、「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに言いません。」と言われました。そのように言うことによって、彼らにもう一度考える機会、悔い改めるチャンスを与えたのだと思います。宗教指導者たちが、イエスが言われたことを思い巡らし、旧約の預言がイエスによって成就、実現していることを事実として認め、自分の驕り高ぶりを捨て、権威を手放し、イエスを神と認め、イエスの前に謙り、そのような自分の罪を捨て、悔い改めて救われる機会を与えた、と言うことができるのではないでしょうか。

私たちも同じです。地域において、社会において、人間関係において、自分の生活において、自分の価値観、歩み、信じて築き上げてきた全てのものにおいて。それらを手放し、イエスの権威に従うことができるかどうか。「イエス様、分かりました。これまで私はこの場所が、自分の領域が、自分の思いのままになると思っていました。しかし全てを統治されておられるのは真の王、イエス様、あなたなのですね。」 イエスの権威に従う者は、そこから始まる自由があり、解放があります。宗教指導者たちが手放すことが出来なかった権威、自分の王座。そこに執着する時、私たちも同じように自分で、自分の力だけで生きて行かなければならなくなります。そのような人生は神から離れた罪ある人生であり、苦しいものです。加えてその先には、神からの永遠の断絶、すなわち滅びが待っています。しかし自分の権威や、主張したくなる自分の主権、自分の王座を捨ててイエスに明け渡して行く者たちにもたらされるもの、それは救いです。イエスを信じ、イエスの権威に従うと決心して救いを受けた者には自由と喜び、感謝が溢れます。それはイエスが愛を持って私たちの王座の中心に座って下さり、私たちを最善の人生へと導いて下さることを、経験していくことができるからです。イエスは私たちが悔い改めて、その自由と喜びを私たちに味わって欲しいと忍耐を持って願っておられます。 イエスの忍耐と期待に、私たち一人一人が応答できますように。
お祈りします。
「悔い改めに進ませるために」
主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。Ⅱペテロ3:9

2026/4/12(日)「聖霊の働きをどのように受けることができますか?」ルカ:11:9,13

2026年4月12日 問40 あなたは聖霊のはたらきをどのようにして受けることができますか。聖霊の働きをどのように受けることができますか? 招詞 箴言8:17
答 それは、私たちが聖霊を与えてくださいと祈り求めることによってです。                             
本日の聖書箇所は、祈りと聖霊の関係が記されています。聖霊とは、父なる神、子なるイエス・キリストと並ぶ、三位一体の第三の位格である神ご自身です。また、父と子と聖霊は一つの神です。三位一体の神は、私たち人間が理性的に、また完全に納得して理解することのできない神の深さ、豊かさを表していると言えます。 聖霊は霊ですから形はなく、風や息のように目に見えずに働かれます。また「助け主」や「慰め主」とも呼ばれ、神、すなわちイエスを信じる全ての人々に内住、内に住んで下さり、正しい道へと導く役割を果たします。
それではこれから、本日の聖書箇所の9節と13節を含む、イエスが一連の譬えで語っておられる5節から13節を見てみたいと思いますが、交読、交互に読みたいと思います。私が奇数節、皆さんは偶数節、そして最後の13節は一緒に読みましょう。ルカの福音書11:5~13
当時の旅行は徒歩でした。昼の暑さを避けて、夕方から夜にかけて旅をすることがあったため、旅人が夜中に友人宅に到着することがあったようです。また当時の旅行は空腹や渇きによって倒れたり、盗賊などに出会うこともあり、命がけでした。ですから旅人に食べ物を与えるというのは、歓迎してごちそうすると言うよりも、その人の命を助けるという意味を持っていたようです。しかしながら真夜中に、友人の友人にパンを貸してくれと頼まれても、面倒であり、迷惑な話です。しかししつこく頼めば、必要なものが与えられるだろうと、イエスは譬えを通して語られました。そしてイエスは11節から13節において、仕方なく友人にパンを与えた人の態度と、天の父が求める人に必要なものを与える態度の決定的な違いを、親と子の関係から語られました。 そのことをイエスは11、12節において、子どもが魚を求めているのに、魚の代わりに蛇を与えるような父親がいるでしょうか。卵を求めているのに、サソリを与えるような父親がいるでしょうか。と、言われました。親であれば、魚を欲しがる子供に蛇を与えたり、卵を欲しがるのにさそりを与えたりはしない。子どもに対して恐ろしいもの、害を与えるような親はいないと言われました。イエスは続けて13節において、「あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っています。」と言われました。「あなたがたは悪い者であっても」というのは、罪があり、欠けが多く、弱さをかかえているあなたがた人間は、ということです。確かに私たちは、神をないがしろにし、隣人を自分の利害なしに本当に愛することできない罪人です。しかしそんな私たちですら自分の子どもは愛しており、精一杯自分なりに良い物を与えようとします。
そして13節が注目すべきところです。「それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。」これこそがイエスが言おうとしておられることです。つまりイエスは、欠けのある人間の親でさえ子どもに対する愛を持ち、子どもに良い物を与えようとする。しかしそれよりもはるかに大きく深く広い愛を持っておられる天の父は、ご自分に求める者たちに最高で、最善の物を与えて下さる。それが聖霊だ!ということです。私たち人間は、たとえ友人であっても、損得勘定や利害関係などによって動くような者です。それが、「悪い者である」とイエスが言われる私たちの姿ではないでしょうか。しかしながら悪い者である人間であっても、親は子に、その求める物をできるだけ与える。しかし天の父は、不純な動機や損得勘定などによってではなく、またいやいやながらでもなく、喜んで、求める者に良い物を与えて下さるのだ、と、イエスはここで強調されています。そして注目すべき13節において最も大切なことは、「天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」と言われていることです。                 聖霊を与えてくださるとはどういうことでしょうか。聖霊が与えられることによって私たちはどうなるのでしょうか。そのことが新約聖書、ローマ人への手紙の第8章14、15節に記されています。神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。御霊、即ち聖霊は私たちを「神の子」にして下さるということです。そして私たちは父なる神を自分の霊的な親として、「アバ、父-すなわち、お父ちゃん」と親しく呼びかけ、祈る者とされることができる、また、すでにそのような者にされているということがここに表されています。 聖霊は、イエスを信じる私たちを、救い主イエス・キリストと結びつけ、それによって私たちを神の子とし、神に向かって「父よ」と呼びかけて祈る者として下さるということです。聖霊こそ、神が私たちに与えて下さる最も良いものであり、良いものの中心です。それは神と人間の絆を生み出し、天の父が私たちのお父さんになって下さるということです。 この親子関係以上の関係をもって、私たちは天の父が必要なもの、最も良いものを与えて下さると信頼して祈り求めることができます。天の父に信頼して祈る態度をイエスは10節で、「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれでも、求める者は手に入れ、探す者は見出し、たたく者には開かれます。」という態度として表されました。また、この時制は現在進行形になっています。すなわち、求め続けなさい。探し続けなさい。たたき続けなさい。と、天の父を信じて祈り求める私たち信仰者のあり方をイエスは示され、また励ましておられます。 また、私たちに人間においても、子どもを本当に愛している親は、今この子に何が必要であるかを考え、必要なものを必要な時に与えようとします。子どもが求めても、今は与えるべきでない、今はその時でないと考えれば、「だめ」と言います。我慢させます。子どもは、自分の願いを聞いてくれないことで親を恨んだりすることもあるかもしれませんが、それは子どもの最善を考え、願っているからです。私たち罪ある人間の親子関係においてさえそういうことであるならば、天の父、まことの父となって下さる神は私たちに、本当に必要なものを、必要な時に与えて下さいます。しかし自分の願い通りに求めているものが与えられず、苦しまなければならないときでも、聖霊はそれが神のみ旨であり、最善であると理解させ、忍耐して待ち望む力も与えて下さいます。                                     また聖霊は私たち人間を滅びから救って下さる働きをして下さいます。神に反逆し、神から離れ、罪を犯してしまった人間の行く先は滅びであると聖書に記されています。神との永遠の別離です。イエスを主と告白する-すなわちイエスが、自分が信じて従っていく神であるという決心であり告白は、聖霊の助け、力がなければ、罪ある人間にはできない、と言うことを前回見ました。救いはイエス・キリストにしかないと聖書に記されていますから、聖霊が人間を滅びから救って下さる働きをされておられるのが分かります。そしてこの滅びから救われた者は、天の父なる神がその人の父となり、神の子となる身分が与えられる。イエスを信じ、罪赦され救われた一人一人が神の子であるという証印、印、保証になって下さるのも聖霊であると、聖書に記され、また約束されています。日々神の御心を知り、悟るためにどうしても必要な聖書の理解も、聖霊が助けて下さいます。 さらに私たちがイエスの体である教会に繋がり、イエスを目指して成長していくことができるための助け、力も聖霊が与えて下さいます。すなわち聖霊とは、私たちが罪から救われる上で最も大切な働きをして下さり、また、神を信じる一人一人がイエスの体である教会に繋がり、イエスを目指して成長していくことができるよう、日々の歩みを支え、助けて下さる存在でもあります。私たちは聖霊を通して神の子とされ、父となって下さった父なる神に信頼し、必要なものを祈り求めることが出来ます。それは罪を犯す前に持っていた、神と人間との麗しい関係が回復されているからこそ、できることでもあります。 神は人間をご自身のかたちに似せて創造されました。(知情意、善悪を判断、三位一体の交わりに生きる-他者と生きる人間も同じ、芸術のような美的センス、創造性など)神と人間は完全な愛と調和を持っていました。しかし人類の祖先であるアダムとエバが罪を犯し、その罪から死が入り、全人類に広がったと聖書は記しています。以前召天者記念礼拝でお話したと思いますが、人間が死を恐れるのは、死が不自然だからだと思います。死が、食べることや眠ることのように人間にとって自然なものであるならば、人間が死を恐れることはないはずだからです。しかし人間は死を恐れる。死が本来人間になかったものであり、不自然なものである。罪から死が入り、全人類に広がったということが真実であり、また聖書が正しいことを、皮肉にも全人類が身をもって証明しているのではないでしょうか。しかしキリスト者、クリスチャンはあまり死を恐れません。それは信仰によって滅びから救われていると確信していることもありますが、死の原因となっている罪の解決が神によってなされていることが本能的に、また霊的に分かり、平安が与えられているからだと思います。そのように死に対しての恐れを取り除き、平安を与えるのも聖霊の働きであると言えます。このように私たち人間が最も必要なもの、必要なことが聖霊と聖霊の働きにあるということです。罪によって神と断絶し、滅びに向かっている私たちの罪が赦され、神との関係を回復させて頂けるのはまさに聖霊の働きです。イエスを信じる私たちは、聖霊を通して神の子とされ、天の父をお父ちゃんと呼べる関係にして頂けました。この素晴らしい聖霊、神ご自身が、イエスを信じる全ての人に与えられる。このような大きな恵みが他にあるでしょうか!? 神の子とされていることを感謝しつつ、日々大胆に、時にしつこく、聖霊を与えて下さいと父なる神に祈り求める者でありたいと願います。最後に、ヨハネの福音書の16:7節を読んで、み言葉の取り次ぎを終わりたいと思います。
しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。 (ヨハネの福音書16:7)
祈ります
問40 あなたは聖霊のはたらきをどのようにして受けることができますか。
答 それは、私たちが聖霊を与えてくださいと祈り求めることによってです。
ですから、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っています。それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。」
身代わりの死である十字架、死、復活(イースター)昇天、神の右に座し、聖霊を送られるイエス。