福音

ゴスペルカフェ可児 2026/4/3

ゴスペルカフェ可児 第6回の様子です。多くの方が足を運んでくださいました。

来月の開催日は、5月13日金曜日です(第一金曜日ではありません)。

2026/4/5(日)「起死回生」ルカ23:1~12 庄司牧師

2026年4月5日 イースター礼拝 ルカの福音書24:1~12 「起死回生」
24:1 週の初めの日の明け方早く、彼女たちは準備しておいた香料を持って墓に来た。 24:2 見ると、石が墓からわきに転がされていた。24:3 そこで中に入ると、主イエスのからだは見当たらなかった。24:4 そのため途方に暮れていると、見よ、まばゆいばかりの衣を着た人が二人、近くに来た。24:5 彼女たちは恐ろしくなって、地面に顔を伏せた。すると、その人たちはこう言った。「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。 24:6 ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、主がお話しになったことを思い出しなさい。24:7 人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえると言われたでしょう。」24:8 彼女たちはイエスのことばを思い出した。24:9 そして墓から戻って、十一人とほかの人たち全員に、これらのことをすべて報告した。24:10 それは、マグダラのマリア、ヨハンナ、ヤコブの母マリア、そして彼女たちとともにいた、ほかの女たちであった。彼女たちはこれらのことを使徒たちに話したが、24:11 この話はたわごとのように思えたので、使徒たちは彼女たちを信じなかった。24:12 しかしペテロは立ち上がり、走って墓に行った。そして、かがんでのぞき込むと、亜麻布だけが見えた。それで、この出来事に驚きながら自分のところに帰った。
ハッピーイースター!イエスは甦られました。人類最大の敵である死に打ち勝ち、勝利されたイエスを讃美します。また、イエスを信じる者たちにも死への恐怖とそこからの失望、そして死そのものからの解放を与えて下さるお方であることを感謝いたします。
本日の聖書箇所は、人間の常識とそれに伴う絶望と悲しみが表されています。同時に神の非常識とそれに伴う勝利と希望が対比されています。そのことが本日のタイトルである、起死回生です。
「起死回生とは、もとは病気や死にかけた人を生き返らせるという意味から転じて、危機的・絶望的な状況を立て直し、一気に良い方向へ持ち直すことを指して言う。」とあります。従って本日の聖書箇所に示されているイエスの復活は、イエスの死を悲しみ、絶望している女性たちに、また罪から来る死が待ち受けている私たち一人一人の人間にとっても起死回生の出来事です。
イエスを愛し、イエスに付き従ってきた女性たちが登場します。この女性たちは、イエスの体に香料を塗り、もう一度丁寧にお墓に収めようとやって来ました。ここに彼女たちの、そして人間の常識を見ます。彼女たちはイエスが十字架上で死ぬのを見届けています。少し前の23章、49節にはこのように記されています。「イエスの知人たちや、ガリラヤからイエスについて来ていた女たちはみな、離れたところに立ち、これらのことを見ていた。」
「これらのこと」とは、イエスが十字架に至る一連の出来事と、十字架そのものです。彼女たちはイエスがどのように十字架に架かり、また、どのように十字架上で息を引き取られるか、全ての過程を見ていた女性たちです。 それだけではありません。彼女たちはイエスが十字架上で死なれた後、その遺体が墓に運ばれるところまで見届けています。 本日の聖書箇所の直前、23章55節と56節をお読みします。イエスとともにガリラヤから来ていた女たちは、ヨセフの後について行き、墓と、イエスのからだが納められる様子を見届けた。ヨセフとは、イエスを信じる議員の一人でした。彼女たちはイエスの十字架刑を見ただけでなく、ヨセフがイエスの遺体を降ろし、亜麻布で包み、墓に納められる一部始終、全てをその目で見ました。彼女たちはイエスを愛し、イエスにずっと聞き従い、色々な奉仕をして来ました。そして彼女たちが常識と照らし合わせて今、できること。それはただ、イエスの遺体にもう一度丁寧に香料を塗り、丁寧に墓に納めることだけでした。 そのことだけが、彼女たちのイエスへの愛の表明であり、今できる精一杯のことでした。しかし墓に来てみるとイエスの体が見当たりません。彼女たちはどうしようかと途方にくれていました。自分たちのできる最後の、そしてたった一つのことができない。
そのような女性たちの前にイエスのことを伝える者が現れました。他の福音書にはそれが御使い、天使であったと書き記されています。その御使いが彼女たちに語りかけました。24:5b「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。24:6 ここにはおられません。よみがえられたのです。これは事実に基づいた証言であると言えます。「事実」とは、客観的に確認できる「実際に起こった事柄」であり、1つしか存在しないものです。御使いは私たち人間よりも知識、知性、力など、全て人間よりも上の存在です。従ってイエスが甦られたのを実際に起こった事実として、何らかの方法で既に知っていた、認識していたということです。しかし女性たちはその事実を知りません。この嬉しい、また喜ばしい事実に対して、今女性たちが出来ることは、それを信じるか、それとも信じないか、でした。
私たちは聖書を知っています。この後どうなるかも知っています。しかし彼女たちは、十字架に架けられ、死なれ、葬られたイエスがその後どうなるかを知りません。 従って人間の常識からすれば、死んだ人が復活するという話は非常識であり、思いつくことも、また想像すらできないことです。そのため彼女たちは、イエスが復活されたという素晴らしい知らせを信じるための助けが必要でした。その必要、イエスの復活を信じるために必要なこと、助けでありヒントを、御使いが彼女たちに語り、また与えてくれました。それが6節の後半と、7節で語られています。24:6b まだガリラヤにおられたころ、主がお話しになったことを思い出しなさい。24:7 人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえると言われたでしょう。」
何気に読むと気付きませんが、この御使いが語られたことは驚くべきことです。 それは御使いがイエスの復活を知っているということだけではなく、イエスが過去に彼女たちに語られたこと、その内容も知っていた、ということです。ここに御使いが人間の知性や能力を超える存在であることが示されています。 この御使いが、彼女たちがイエスの復活を信じることができるように助けてくれました。それはイエスが彼女たちに語られた「ことば」であり、「約束」を思い出させるということでした。御使いはこのように彼女たちに語りました。「人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえると言われたでしょう。」彼女たちは御使いのことばをヒントに、そして語りかけられたことによって助けられた結果、8節に至ります。
24:8 彼女たちはイエスのことばを思い出した。それは以前イエスが言われた三つのことでした。人の子、すなわちイエスが罪人たちの手に引き渡されること。十字架につけられること。そして三日目に甦ること、です。 彼女たちはイエスのことばを思い出して、イエスの復活、イエスが死から甦ってここにいないことを信じました。彼女たちがイエスの復活を信じた時の様子が、別の著者であり、違う角度からイエスの復活について触れている、マタイの福音書に描写されています。
28章5節から8節をお読みします。お聞き下さい。
御使いは女たちに言った。「あなたがたは、恐れることはありません。十字架につけられたイエスを捜しているのは分かっています。ここにはおられません。前から言っておられたとおり、よみがえられたのです。さあ、納められていた場所を見なさい。そして、急いで行って弟子たちに伝えなさい。『イエスは死人の中からよみがえられました。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれます。そこでお会いできます』と。いいですか、私は確かにあなたがたに伝えました。」彼女たちは恐ろしくはあったが大いに喜んで、急いで墓から立ち去り、弟子たちに知らせようと走って行った。
「彼女たちは恐ろしくはあったが」-当然の反応だと思います。イエスの誕生が御使いによって知らされた時、羊飼いたちも恐れています。しかし彼女たちは「大いに喜んで、急いで墓から立ち去り、弟子たちに知らせようと走って行った。」
彼女たちがイエスの復活という喜びの知らせを信じたゆえに、他の弟子たちに早く伝えようと急いで走って行きました。彼女たちがイエスの復活、甦りを信じなければ、このように行動することはなかったでしょう。 御使いは女性たちに、イエスが復活されたという助け、ヒントをくれました。それは実際に復活されたイエスの体を指し示すというようなものではなく、すでにイエスが女性たちに語られたみ言葉、そして約束を思い出させるというものでした。
イエスの復活を信じた彼女たちにとって、空の墓はどのように映ったでしょうか?イエスの復活を信じる前は、イエスの遺体に香料を塗ることができない。どうしよう。悲しい。空の墓は悲しみの象徴でした。 しかしイエスの復活を信じてから見る空の墓は、もはや悲しみの象徴ではありませんで。 それは逆にイエスの復活という動かぬ証拠であり、大きな喜びの象徴、証になりました。以前イエスに語られていたこと、イエスのことばと約束を信じることによって、彼女たちは絶望と悲しみから、今度は励ましと希望を持つに至る力となりました。
先々週、語られたことばが、その状況を変えるヒントになる、励ましになるこという体験をしました。家族と散歩をしていた時のことです。ホームに入って来る電車を見ようと、駅に向かって歩いていました。途中、いつもと少し違う道を通りました。そこは狭い路地で車通りが少なく、安全な場所だったからです。しばらく歩いていると、道路の先が行き止まりになっているように見えました。私は妻に、「大丈夫かな、このまま駅の方に行けるかな?」と問いかけたところ、「大丈夫ですよ。行けますよ!」という声が別のところから返って来ました。「あれ、今の声は!?」と一瞬思いましたが、それは丁度歩いている道路に面していた家の女性が、私の問いに答えてくれたのでした。私は笑いながら、安心して家族と歩き続けることができました。 しかし殆ど道路が終わりというところまで来た時、その先の道が見えません。本当にメインの道路に戻れるかな?と少し心配になりましたが、細いあぜ道があり、駅に通じる道に戻ることができました。駅に着くと丁度、三つの路線の電車がホームに到着するタイミングでした。異なる三つの車両が入って来るのを、同時に見ることができました。とても嬉しい体験でした。もし女性が私たちに声をかけてくれなかったら、私たちは道を引き返し、三つの車両が入って来るタイミングを逃していたかもしれません。
御使いは、イエスの復活を女性たちに指し示しました。御使いにとってはイエスの復活が事実であっても、復活を見ていない、知らない、想像もつかない女性たちにとっては、イエスの復活を信じることはできませんでした。しかし女性たちはイエスの復活をその目で見なくとも、イエスの復活を信じることができました。それはイエスが以前女性たちに語りかけて下さっていたこと、すなわちイエスが語られたみ言葉であり、約束でした。「人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえる」 イエスはこの女性たちだけでなく、私たちもイエスを信じることができるように、イエスの復活を信じることができるように、イエスが罪からの救い主であることを信じることができるように、ヒントや助けを私たち一人一人にも与えて下さっています。それが聖書であり、イエスを信じるために私たちを導いて下さる聖霊の存在でもあります。次回、三位一体の神の第三位格である、聖霊についてお話をする予定です。
実は今日のメッセージ、今お話していますが、とても苦しいものでした。「どうしよう。何をお話したら良いか分からない!」 ルカの福音書を選んだことを後悔するほどでした。しかしイエスは、私が語ることができるように助けて下さいました。散歩の時の語りかけが今日、この時、メッセージを語る上で大きなヒントになりました。本当にちょっとした出来事でしたが、私にとっては大きな出来事でした。 イエスが生きておられ、働かれ、助けて下さったと私は確信しています。

御使いは、女性たちがまだイエスの復活を信じる前、このように彼女たちに語りかけました。
「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。」メッセージの冒頭、始めの方で、私はこのようにお話しました。「本日の聖書箇所は、人間の常識とそれに伴う絶望と悲しみ。神の非常識とそれに伴う勝利と希望が対比されている。」 私は家族と散歩をしている時、語られたことばによって励まされ、その道を引き返すことなく、進み続けることができました。しかしその先で道がなくなってしまうように見え、不安になりました。しかし語られた通り、そこには道がありました。 この女性たちにとって、イエスの死は、イエスと共に歩いて来た道が終わってしまった。その先にもう道はないという絶望と悲しみをもたらしました。しかしイエスは御使いが語ったように、そして彼女たちが信じたように実際に復活され、この後マグダラのマリアやイエスの弟子たちに現れることになります。
私たちもこの目でイエスを見ることはできませんが、女性たちにように、イエスが語られたことば、約束を信じることができます。人間にとってイエスの復活は非常識ですが、神にとって不可能なことはありません。預言も含め、聖書に指し示されているイエスの復活を、聖霊の助けを頂きながら私たちも信じることができます。 そしてイエスは約束通り復活され、今も生きておられます。この道は終わりではないか。この先には何の喜びも希望もないのではないか。私たちはそのような道を通ることがあります。しかしイエスは私たちと神との関係を妨げている罪を十字架で全て背負われ、復活を通して罪と、罪から来る死に勝利して下さいました。イエスを信じる全ての者は、このイエスの復活の力に与ることができます。私たちは「死」で終わりではありません。それが聖書に記されている神の約束、「起死回生」の約束です。そしてそれは永遠に続く約束です。
復活され、今も生きておられ、私たちと共に歩んで下さり、私たちを助け、恵みで満たし、最善の道へと導いて下さる私たちの主、復活された素晴らしいイエスを、これからも信じ続けることができますように。
祈ります
「起死回生」
「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。」

2026/3/1(日)「神の国を受け入れる」マルコ10:35~45 庄司牧師

2026年3月1日 マルコの福音書10:35~45「神の国を受け入れる」
ゼベダイの息子たち、ヤコブとヨハネが、イエスのところに来て言った。「先生。私たちが願うことをかなえていただきたいのです。」イエスは彼らに言われた。「何をしてほしいのですか。」彼らは言った。「あなたが栄光をお受けになるとき、一人があなたの右に、もう一人が左に座るようにしてください。」しかし、イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、自分が何を求めているのか分かっていません。わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができますか。」彼らは「できます」と言った。そこで、イエスは言われた。「確かにあなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることになります。しかし、わたしの右と左に座ることは、わたしが許すことではありません。それは備えられた人たちに与えられるのです。」ほかの十人はこれを聞いて、ヤコブとヨハネに腹を立て始めた。そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められている者たちは、人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。しかし、あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」( マルコの福音書10:35-45 )

今年のテーマは「神の国を受け入れる」です。前回、金持ちの青年のお話をしました。当時金持ちは神の祝福されている人、それゆえ救いに近い人だと思われていました。しかし彼は神よりも財産に執着したゆえに、神の国に入ることができないとイエスに指摘されました。
神、すなわちイエスが支配されておられる神の国の規準は、私たちの常識、価値観、規準とは「逆」「反対」であるという一つの例です。 本日の聖書箇所は、神の国の規準、すなわちイエスの規準が、人間の規準とは異なる最たるものです。共にみ言葉から見て行きたいと思います。
本日の聖書箇所は、弟子たちの願いから始まっています。
10:35 ゼベダイの息子たち、ヤコブとヨハネが、イエスのところに来て言った。「先生。私たちが願うことをかなえていただきたいのです。」イエスは人の心を見抜かれます。彼らの願いがどういうものであるかを御存知でした。しかしあえて彼らに願いを語らせました。
10:36 「何をしてほしいのですか。」心にあるものをことばに登らせることによって、イエスは彼ら自身が何を考え、何を願っているのかをはっきりさせました。しかし彼らが口に出したことは神の、すなわちイエスの規準の逆、反対のものでした。すなわち御心に適わない願いでした。
10:37 「あなたが栄光をお受けになるとき、一人があなたの右に、もう一人が左に座るようにしてください。」彼らは神の国を地上の王国のように考え、地上と同じような地位と栄光を求めました。主イエスが王となられる時に、自分たちを右と左に座らせてください、すなわち主イエスの側近く、最も高い地位につけてください、と願いました。ヤコブとヨハネは、他の弟子たちよりも偉くなりたいと思った訳です。 これを聞いた他の10人の弟子たちは腹を立てました。二人に出し抜かれたと思ったようです。彼らも権力や栄誉を求め、自分が最も偉くなり、イエスと共に高い地位につきたい、と思っていたことが分かります。かつてイエスの弟子たちは誰が一番偉いかと論じあっていたことがありましたが、全く変わっていません。それに対してイエスは38節で、
10:38 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、自分が何を求めているのか分かっていません。わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができますか。」
10:39 彼らは「できます」と言った。そこで、イエスは言われた。「確かにあなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることになります。
この杯とは何を指しているのでしょうか。イエスは十字架の直前、ゲツセマネの園でこのような祈りを献げられました。「父よ、もし出来るならばこの杯を私からとりのけて下さい」主イエスでさえ、断りたくなるような杯です。
旧約聖書、エレミヤ書、25章15節にはこのような神のことばがあります。まことにイスラエルの神、主は、私にこう言われた。「この憤りのぶどう酒の杯をわたしの手から取り、わたしがあなたを遣わすすべての国々に、これを飲ませよ。」従って杯とは、神の怒りが満たされているものの象徴であることが分かります。その怒りを飲ませるとは、神を信じない、神に従わない国々に、神の裁きが下るということが表されています。 先週出エジプト記を見ました。イスラエルが金の子牛を神として作り、崇め、不品行を行い、神に裁かれました。 しかし今の日本を見ても、また世界を見ても、イスラエルと全く変わりはありません。同じです。 偶像を作り、それを拝み、仕え、従っています。ですからイエスが言われる杯とは、神を信じない、従わない人類に対する神の怒りであり、その怒りは、罪ある全ての人間に向けられているということになります。
ではイエスが言われた、わたしが受けるバプテスマとは何を意味しているのでしょうか。イエスはルカの福音書の中でこのように語られています。ルカの福音書12:50 わたしには受けるべきバプテスマがあります。それが成し遂げられるまで、わたしはどれほど苦しむでしょう。
イエスが言われた受けるべきバプテスマとは、苦しみであることが分かります。そしてそのためにどれほど苦しまなければならないのか、というイエスの責任、義務、そして使命を感じさせることばです。 本日の聖書箇所には、私が受けるバプテスマと、神の怒りが満たされている杯とが結びついています。従って私が受けるバプテスマとは、杯、つまり神の怒りを飲む-すなわち神の怒りをその身に受ける、十字架の痛み、苦しみ、苦難を表していることが分かります。本来であれば犯罪者が架けられる十字架ですが、イエスは神の怒りを人類の身代わりに十字架で受け、その身代わりの苦難のことを、イエスは「私が受けるバプテスマ」と呼ばれました。
ですからイエスが「わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができますか。」ヤコブとヨハネに尋ねられた本当の意味は、あなたたちは神の怒りに触れることが出来ますか?
神の怒りに対して神と人との間に立ってとりなすことが出来ますか?神の怒りを宥めることができますか?神の怒りをその身に受けることができますか?そのように聞いておられるということです。途方もないことをイエスは二人に問われた。ヤコブとヨハネはもちろんそのようなことは分かりません。いや、どのような人間であっても分かるはずがありません。ですから彼らは分からず、その重大な意味を理解できなかったゆえに、簡単に「できます」と答えました。答えることができました。罪に対する、また神の怒りに対する人間の無知、理解の乏しさを弟子たちが代表し、また表していると言えます。 イエスは彼らの無知や無理解を承知の上で、「確かにあなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることになります。」と言われました。
それはイエスがあじあわれる十字架の苦しみとは比べることはできませんが、イエスのために、福音のために彼らが将来受けることになる迫害、痛み、苦難、そして死を予知、預言していることばでもあります。 実際に彼らは苦難や痛みをこれから経験して行くことになります。ヤコブはエルサレムで迫害のためにヘロデ王に殺害されて殉教します。(使徒12:2)そしてヨハネはローマ皇帝ドミティアヌスの迫害によって、パトモスという島に、島流しになりました。(黙示録1:9)
イエスはヤコブとヨハネの将来に起こることを踏まえながら、人間の願いと神のご計画が異なるということを40節で語られました。
10:40 しかし、わたしの右と左に座ることは、わたしが許すことではありません。それは備えられた人たちに与えられるのです。」このような名誉を意のままに与えることはイエスに任せられたのではなく、父なる神にのみ属するということです。 神の子であるイエスですら、父なる神の御心に、ご計画に従っている。そしてそれが人類の身代わりのための十字架である。従って自分の願いや計画よりも、神の御心、ご計画に従って生きることが一番大切である。栄誉や栄光を求めて生きることは重要ではない、ということをイエスは彼らに諭されています。 さらにイエスはここで、彼らが願っている栄誉、求めている栄光が、この世の規準、そして神を知らないで歩んでいる者たちと同じ-ここでは異邦人を代表させて-であることを42節で警告として語られ、そうあってはならない、そのように歩んではならないと43節、44節で語っておられます。
10:42 「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められている者たちは、人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。
10:43 しかし、あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。
イエスは異邦人世界の規準、すなわちこの世の規準と、神の国の規準、イエスご自身の持っておられる規準とを、明確に対比されました。それは自分のためではなく、他者のために仕え、尽くしていくことを使命とする生き方です。 さらに44節においてこのように語られました。
10:44 あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。
しもべとは、自分の身柄(仕事も生活も)が他者に属するいわゆる奴隷の意味です。従ってイエスは、神の国の価値観や生き方、規準はこの世のものとは全く反対で、偉い人、人の上に立ちたいと思っている人はむしろ徹底して仕えなさい。そして先頭に立つ者、支配者は、しもべのように、そして奴隷のように人々のために生きるべきだ、と言われました。 実際にイエスは、弟子たちに教えられたとおりに生きたお方です。45節にそのことが述べられています。
10:45 人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。
イエスの弟子たちがなぜ、仕える者の姿をとるべきなのかという理由、そして根拠が語られています。それはそもそもイエスが、仕えられるためにではなく、仕えるためにこの世に、この世界に来たからだ、ということです。そしてイエスが人々に仕えるためにこの世に来たということが具体的に表されているのが、「十字架」への歩みであり、また「十字架」で成し遂げられたことでした。
「十字架」への歩みと、「十字架」で成し遂げられたことをイエスはここで「贖いの代価」ということばを使って説明されておられます。
何度かお話していますが、贖いとは、戦争の捕虜や奴隷、負債者を解放するため、自由にするために、誰かがその人を買い戻すための身代金を意味します。「多くの人のため」とありますが、これは一部の人ではなく、人類を包括する、人類全てと理解して良いでしょう。イエスが人間として歩まれた今から2000年前の時代を超え、今を生きている日本人も、全ての国、民族も含まれます。イエスは、神を信ぜず、自分勝手に歩んでいる人間に対する神の怒りの杯を、十字架で全て受け止めて下さいました。またイエスが十字架で受け止められたのは神の怒りだけでなく、私たち人間の罪と、罪から来る死でした。さらにイエスは悪魔、サタンが人間の罪を足場にして、人間を奴隷にしているその私たち人間を、十字架を通して解放して下さるお方です。それら全てが十字架の贖いを通して成し遂げられました。 罪に束縛されている人間を解放し、神の怒りを宥め、またサタンの奴隷からも解放する業が十字架です。それもご自身が私たちを生かすためにしもべになり、奴隷となって仕えて下さったからです。 またこの45節には「贖い」という思想だけではありません。「いのちを与えるために来た」とイエスが語られた「いのち」にも深い意味があります。

「いのち」は、新約聖書の原語のギリシャ語で「プシュケー」ということばが使われていますが、いのちという意味の他に、魂、生涯、自分自身などを意味することばでもあります。 イエスは私たちたちを罪と死と、サタンの奴隷から解放するために私たちを贖って下さいましたが、その代価、すなわち私たち人類に捧げて下さったのはいのちだけではない-心、感情、意志などを含む魂、イエスの歩まれた全生涯、そしてイエスご自身。すなわちイエスは、イエスが持っておられるすべてを、私たちのために与え尽くして下さった、ということが表されていることばです。 そしてその全てが、十字架に集中、結集していると言えます。イエスの十字架の死は、「多くの人の身代金」としての、死でした。捕えられ、捕虜となっているのは私たちのことです。自分たちを右と左に座らせてくださいと願った二人の弟子たちも、それに憤慨した他の弟子たちも、そして人と自分とを見比べることによって一喜一憂している私たちも、すなわち罪の中に足を取られ、身動きできない私たち一人一人の人間のための、身代金でした。イエスが十字架に架かるほどに父なる神の御心に、またご計画に従順に従われました。それほどまでに私たち人間に仕えて下さったゆえに、今私たちはイエスの十字架の贖いを信じることによって罪赦され、神の子とされる特権に与ることができました。そしてイエスによって救われた私たちもまた、イエスが人々に仕えられたように、人に仕えていく者として召されています。どれだけ仕えることが出来るのか、他の人と比べてどうなのか、などということは問題にはなりません。不十分にしか出来ないかもしれませんが、それでも喜んで、感謝しつつ、自分に出来ることを通して人に仕えていく。イエスを模範として。
イエスの仕える姿は、この世、この世界の規準の逆、反対です。そしてその反対の規準にある神の国に、私たちはイエスを通して入れて頂けました。イエスに感謝しつつ、神の国、すなわちイエスの規準によって歩み、人々に仕えていくことができますように。
祈ります。
「神の国を受け入れる」
人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。

2026/2/22(日)「取り戻すために捨てる」出エジプト33:1~5 庄司牧師

2026年2月22日 「取り戻すために捨てる」 出エジプト33:1~6
主はモーセに言われた。「あなたも、あなたがエジプトの地から連れ上った民も、ここから上って行って、わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓って、『これをあなたの子孫に与える』と言った地に行け。わたしはあなたがたの前に一人の使いを遣わし、カナン人、アモリ人、ヒッタイト人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人を追い払い、乳と蜜の流れる地にあなたがたを行かせる。しかし、わたしは、あなたがたのただ中にあっては上らない。あなたがたはうなじを固くする民なので、わたしが途中であなたがたを絶ち滅ぼしてしまわないようにするためだ。」民はこの悪い知らせを聞いて嘆き悲しみ、一人も飾り物を身に着ける者はいなかった。主はモーセに次のように命じておられた。「イスラエルの子らに言え。『あなたがたは、うなじを固くする民だ。一時でも、あなたがたのただ中にあって上って行こうものなら、わたしはあなたがたを絶ち滅ぼしてしまうだろう。今、飾り物を身から取り外しなさい。そうすれば、あなたがたのために何をするべきかを考えよう。』」それでイスラエルの子らは、ホレブの山以後、自分の飾り物を外した。
今までの経緯を少し振り返ってみたいと思います。 イスラエルがまだエジプトで奴隷とされていた時に、主はモーセにこのように語られました。3:7,8をお読みします。後でお開き下さい。
主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみを確かに見、追い立てる者たちの前での彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを確かに知っている。わたしが下って来たのは、エジプトの手から彼らを救い出し、その地から、広く良い地、乳と蜜の流れる地に、カナン人、ヒッタイト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる場所に、彼らを導き上るためである。
神が約束された素晴らしい地であるカナン、現在のパレスチナと、そこに住んでいる民族が列挙されていますが、本日の聖書の箇所と同じです。 神はこの約束を守るためにリーダーとしてモーセを立て、実際に奴隷となっていたエジプトから、イスラエル民族を脱出させました。 神はまた、カナンの地にイスラエルを導き入れるために、この後彼らと契約を結ばれました。 その時の様子が以前共に見て来ましたが、24章に描写されています。「私の他に神があってはならない。偶像を造って拝んではならない。父と母を敬え、殺してはならない。犯してはならない。」など、10の教え戒めである十戒を中心とする教え、戒めがモーセを通じて伝えられ、彼らがそれを理解し、同意し、従うと決心してから結ばれた契約でした。この契約をもって神がイスラエルの神となり、イスラエルは神の民となるという特別な関係が結ばれた契約でもありました。
神と民の契約が結ばれた後、神はモーセをシナイ山に登らせました。さらにモーセに契約の細かい内容を伝えるためでした。それが25章から31章に記されています。 主なる神はモーセに全ての契約の内容を伝えると、最後に、契約のしるしとなる神の教えや戒めが記されている石の板を、モーセに授けました。その時の様子が31章の最後、18節に描写されています。
こうして主は、シナイ山でモーセと語り終えたとき、さとしの板を二枚、すなわち神の指で書き記された石の板をモーセにお授けになった。
モーセがシナイ山で主なる神から契約の内容を聞かされている時、山のふもとにいるイスラエルの民に起こった出来事が32章に記されています。悲惨な内容です。その出来事の結果、主なる神がイスラエルに決断されたこと、それも良くない、悲しい決断-が本日の聖書の箇所です。神がイスラエルにとって悲しい決断をされた背景は、イスラエルの民たちが犯した偶像礼拝でした。
モーセの帰りが遅い、どうかなってしまったのかと不安になったイスラエルの民は、自分たちを導く目に見える神を造るように祭司アロンに要求し、アロンは金の子牛の像を造りました。 人々はその金の子牛を神として拝み、その前で飲めや歌えの祭りを始めました。その最中にモーセが戻り、その様子を見て激しく怒りました。先ほど触れましたが、モーセが手にしていた石の板に記されている十戒には、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。あなたはいかなる像も造ってはならない。それらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない」と書かれています。 イスラエルの民はそれらの掟を既に聞いており、それを守ると約束しました。それゆえ神はイスラエルと契約を結んで下さったのです。しかしモーセが契約の印として石の板を神からいただいているまさにその時、イスラエルは金の子牛の像を造ってそれを拝むという、主なる神を裏切る罪を犯してしまいました。 この時モーセは、手にしていた石の板を砕きました。民が犯してしまった罪のために、神との契約が破綻-壊れ、台無しになってしまったということを表しています。この時神の怒りがイスラエルに向かって燃え上がり、彼らを絶ち滅ぼすとまで言われました。そこでモーセは神に執り成しました。罪を犯した民たちに代わって彼らのために祈り、神が下そうとしていた裁きが留められるように、神の憐れみを求めました。
神はモーセの執り成しの祈りに応えられ、金の子牛を拝んで、神に罪を犯した約三千人が主に打たれましたが、イスラエル民族全てが絶ち滅ぼされるという裁きは留められました。神は、罪は罪として本人に刈り取らせる義なる神であると同時に、情け深く、憐れみに富み、怒るに遅いお方であるということが表されています。
金の子牛を作って拝むというのは偶像礼拝であり、神との契約、約束を破る大きな罪でした。しかしイスラエルはそれまでにもずっと神を忍耐させて来ました。主なる神は、彼らイスラエル民族を、かつて奴隷とされていたエジプトからモーセを通して連れ出されましたが、その後、荒野におけるイスラエルの人々は、まさに主への不平、不満のオンパレードでした。しかし神はそのような彼らに対しても真実で誠実でした。 彼らイスラエルが、水がない!と言えば岩から水を出され、お腹が減ったと言えばうずらやマナ-天からのパンを降らせ、敵に攻撃されれば、その敵からも守って下さいました。 しかし彼らは神の真実、誠実さを裏切って金の子牛を作って拝むという、大きな罪を犯してしまう。彼らの自己中心的な身勝手さ、頑なで自分の思いに固執し、それを通そうと我を張る。神の御心をなかなか受け入れず、信じようとせず、従おうとしない、神からすればまことに扱いにくい、不従順な民であり、それは今に始まったことではない、ということです。 しかしそれでもモーセがいる間はモーセが神と民の間に立ち、仲介者、仲立ちをしてくれました。つまり彼らは神の御心を自ら求めるというよりも、モーセが言ったことに条件反射的に、もしくは仕方がなく従って来たという態度だったということです。その姿勢、態度が、モーセ不在の時に明らかになりました。 彼らに元々ある不信仰、不従順、自己中心性が、金の子牛を勝手に作り、神として礼拝するという偶像礼拝という形で露わにされ、明らかにされたに過ぎません。 そこで神は、彼らにショック療法を施されます。それが本日の聖書箇所です。
本日の聖書箇所の内容をまとめるならば、このようになるかもしれません。「私はあなたがたとは共に約束の地には行かない。もし一緒にいけば、あなたがたを滅ぼしてしまうかもしれない。私の代わりにあなたがたを導く御使い、天使は送る。しかし自分たち勝手にやりなさい。」
つまり本日の聖書箇所はある意味、イスラエルの民たちに対して愛想を尽かしている神がおられる、そのような場面です。 「民はこの悪い知らせを聞いて嘆き悲しみ」とありますから、主からの宣告はイスラエルにとってかなりのショックとなりました。
本日の出来事を、私たちが待ち望んでいる御国、神の国と関連させて想像して見て下さい。私たちクリスチャンが神の国に入ることができるのは、イエスが神であり、私たちの罪を赦し、神との関係を回復させて下さる救い主だと信じたからでした。 しかし私たちが自分の生涯を終えて神の国に復活の体を持って入る時、そこにイエスがおられなかったら。つまり神の気配も臨在もなかったならば。どんなに神の国が素晴らしくても神の国自身の意味も必要性も、価値もありません。
確かにイスラエルの民は不信仰で不従順でした。しかし神が共におられるということを経験してきました。出エジプトの時も、敵から守られた時も、必要な全てが与えられて来たことも。 彼らは神の臨在を肌で感じ、また経験して来ました。そしてそのショックは良い結果をもたらすことになります。 本日の聖書箇所において主なる神は、彼らに愛想を尽かしながらも、イスラエルの民を滅ぼすのではなく、以前約束されたように、彼らの祖先であるアブラハム、イサク、ヤコブに約束された土地に民を導こうとされています。しかし主ご自身はともに行かない、と言われました。その理由は神が聖なるお方であり、イスラエルの民の頑なさを見逃すことができないからです。もし彼らとカナンの地へと一緒にいて不正を見るならば、滅ぼさないではおられなくなる。神は民たちの罪を見逃すことはできない。そこで主なる神の代わりに、主の使いすなわち御使いが彼らを導くことになりました。しかし約束の地に導いてくれる御使いがどんなに偉大であり、また例え大きな力があっても、今までイスラエル民族を導いて来られた主なる神とは全く異なります。 神が自分たちとは共におられない-この時のイスラエルの人々の反応が4節に描写されています。民はこの悪い知らせを聞いて嘆き悲しみ、一人も飾り物を身に着ける者はいなかった。
彼らイスラエル民族は、これらの飾り物をどこから手にいれたのでしょうか。 この財産はイスラエルがまだエジプトで奴隷にされていた時、それも出エジプトの直前に得たものです。 神に言われた方法で、羊の血を家の鴨居と門柱に塗った者たち、すなわちイスラエル民族だけ、滅ぼす者が過ぎ去ってくれました。しかしそのことを知らなかったエジプトは、初子、すなわち初めに生まれた長男や長女、家畜に最初に生まれた子どもも含め、全て死んでしまいました。そして全エジプトで激しい泣き叫びが起こっている時に、彼らイスラエルはこのように行動しました。12章35節、36節にはこのように記されています。イスラエルの子らはモーセのことばどおりに行い、エジプトに銀の飾り、金の飾り、そして衣服を求めた。主はエジプトがこの民に好意を持つようにされたので、エジプト人は彼らの求めを聞き入れた。こうして彼らはエジプトからはぎ取った。
はぎとったとありますから、エジプト人は自分の思いを遥かに超えて、イスラエルの人々に自分の金品を与えた、与えてしまったわけです。そしてそれは主なる神から出たものでした。しかしこれらイスラエルの人々の財産となった金銀、装飾品などの財産が、金の子牛の像を作る材料になり、礼拝の対象、つまり偶像礼拝に繋がってしまいました。そこで神は、彼らの偶像礼拝の元となった財産を手放すように命じられた。それが5節です。
4節において、イスラエルの民たちは自発的に装飾品を外しました。しかしそれはあくまで神が共におられないということに対する悲しみであり、神の怒りに対する恐れなどといった感情でした。従ってこれらの行為は、神を信じ、受け入れ、従順に従っていくという信仰から出ているものではありません。あくまでも感情のレベルです。 そこで神は信仰の伴う悔い改め、すなわち神に立ち返るという方向転換を、目に見える行動を通して求められました。それが5節です。主はモーセに次のように命じておられた。「イスラエルの子らに言え。『あなたがたは、うなじを固くする民だ。一時でも、あなたがたのただ中にあって上って行こうものなら、わたしはあなたがたを絶ち滅ぼしてしまうだろう。今、飾り物を身から取り外しなさい。そうすれば、あなたがたのために何をするべきかを考えよう。』」あなたがたを絶ち滅ぼしてしまうかもしれないから、と、主はイスラエルの人々と共に行かない理由も述べておられますが、ここには同時に主の憐れみがあります。
今、飾り物を身から取り外しなさい。そうすれば、あなたがたのために何をするべきかを考えよう。
この彼らに対する主からの命令は「神のみ言葉への従順」を求めるものであり、自分たちの持っていた金や銀などが偶像礼拝の元になったことをしっかりと認識し、罪と認め、その元となった金銀、財産を自分から切り離して神に献げなさい、という命令でした。神から与えられたものですから本来は神のものであり、神にお返しすることになりますが、財産との決別という意志・決心を、行動をもって、神への献身を見える形で表しなさい、というものでした。彼らイスラエル民族は、神の悔い改めへの招きに、チャレンジ-挑戦に、憐れみと恵みに応答しました。さらにはモーセの執り成しの祈りもあり、神は「幕屋」と呼ばれるところに臨在され、モーセを介して会って下さり、イスラエル民族から離れたり、見捨てることはなされませんでした。 この幕屋は移動式のテントのようなものですが、神がイスラエルと出会う場所として、この33章に記されています。
そしてこの幕屋は、イスラエルの民たちが外し、献げた装飾品、つまり彼らの金、銀、銅などの財産が、神が住まわれる「幕屋」を作るための材料として、自発的に献げられたものから造られました。 つまり神が彼らに向けて悔い改めを命じられ、彼らイエスエルはその悔い改めへの招きに応答した結果だと言うことです。 イスラエルの不信仰、不従順、高慢の源になった金品を、神は罪の悔い改めの証としただけでなく、神が臨在される幕屋、すなわち、神のために、神の栄光のために、神が聖なる物へと変えて下さったということです。神の愛、忍耐、憐れみなど、神の素晴らしさが表されています。
神が共に行かないと言われた時、イスラエルは悲しみました。 私たちも神が自分から離れてしまっている、神が遠くに感じられるような時があります。しかし神は私たちを決して見捨てることはなさいません。 神は私たちが立ち直ることができるように、また、神に立ち返ることができる機会、チャンスを与えて下さるお方です。また同時に、私たちが神の御心からそれていかないように、いつも見守り、また実際的な導きをして下さるお方でもあります。
神がどんな時にも共にいて下さっていることを感謝し、今週も共に信仰の歩みをして行きたいと願っています。
祈ります。
「取り戻すために捨てる」(神との関係を取り戻すために、自分の執着しているものを捨てる)
それでイスラエルの子らは、ホレブの山以後、自分の飾り物を外した。
招詞 詩篇51:17
神へのいけにえは 砕かれた霊。打たれ 砕かれた心。神よ あなたはそれを蔑まれません。

2026/2/15(日)「先頭に立つイエス」マルコ10:32~34 庄司牧師

2026年2月15日 マルコの福音書10:32~34「先頭に立つイエス」
さて、一行はエルサレムに上る途上にあった。イエスは弟子たちの先に立って行かれた。弟子たちは驚き、ついて行く人たちは恐れを覚えた。すると、イエスは再び十二人をそばに呼んで、ご自分に起ころうとしていることを話し始められた。「ご覧なさい。わたしたちはエルサレムに上って行きます。そして、人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡されます。彼らは人の子を死刑に定め、異邦人に引き渡します。異邦人は人の子を嘲り、唾をかけ、むちで打ち、殺します。しかし、人の子は三日後によみがえります。」( マルコの福音書 10:32-34 SKY17 )

本日の聖書箇所は、十字架に架けられるということを、イエスが再び語られている箇所です。受難予告と呼ばれているものですが、その三回目の予告です。その予告が成就、実現されるべく、
イエスと弟子たちの一行は、十字架が待っているエルサレムに向かって行きます。一直線に進んで行きます。
それも弟子たちの先頭を切ってです。弟子たちはイエスの緊迫した表情、態度を読み取っていたのでしょうか。驚きと恐れをもってイエスについていきます。本日は三回目の受難予告ですが、では一回目の予告と、二回目の予告はそれぞれどのようなものだったでしょうか。少し振り返ってみたいと思います。 一回目の受難予告は8:31節に記されています。
「それからイエスは、人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。」
二回目は9:31節においてです。
それは、イエスが弟子たちに教えて「人の子は人々の手に引き渡され、殺される。しかし、殺されて三日後によみがえる」と言っておられたからである。
そして三回目の予告が本日の箇所です。
「ご覧なさい。わたしたちはエルサレムに上って行きます。そして、人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡されます。彼らは人の子を死刑に定め、異邦人に引き渡します。異邦人は人の子を嘲り、唾をかけ、むちで打ち、殺します。しかし、人の子は三日後によみがえります。」 三回目の予告にあって、一回目と二回目にないことば、それは「異邦人」ということばです。イエスご自身が異邦人に引き渡されると記されているのは、この三回目だけです。異邦人とは、ユダヤ人以外の民族のことを指しますが、実際にイエスを十字架に架けたのは異邦人であるローマ人です。
イエスにずっと敵対してきた律法学者たちやパリサイ人たちなどはユダヤ人でした。 彼らはずっとイエスを殺したいと願っていましたが、この当時ユダヤはローマ帝国の植民地であり、彼らが誰かを死刑にするというような権限は持っていませんでした。そこで彼らは民衆を扇動してイエスをローマ帝国、もしくはローマ帝国の皇帝に反逆する政治犯に仕立て上げ、ローマ人の手によって殺させようとしました。
それではこれから、本日の受難予告が全て成就、実現していくことを、共に見て行きたいと思っています。 もう一度10:34をお読みします。イエスはこのように語られました。「異邦人は人の子を嘲り、唾をかけ、むちで打ち、殺します。しかし、人の子は三日後によみがえります。」ここに「あざけり」、「唾をかけ」、「むちで打ち」とありますが、この先の15章において全て成就、実現しています。イエスが異邦人であるローマ人に、すなわちローマの兵士たちにあざけられる、かれかわれ、彼らから唾をかけられ、むちで打たれるといった全てが、15章に描写されています。後でお読み下さい。イエスが言われたことがあまりにも事実と合致するので、これは「事後預言」、つまり実際に事が起こった後にそれを見た者たちがその様子を記したのだ、という学者がいるほどです。しかしこのような描写であり預言は、旧約聖書の詩編やイザヤ書などにも見られます。

詩編22:7節にはこのように記されています。「私を見る者はみな 私を嘲ります。口をとがらせ 頭を振ります。」 またイザヤ書50:6節にはこのような描写があります。「打つ者に背中を任せ、ひげを抜く者に頬を任せ、侮辱されても、唾をかけられても、顔を隠さなかった。」 イエスの受難の預言です。 そして有名な、イザヤ書53章があります。こちらもイエスの十字架の苦しみの預言ですが、それは神の計画であり、イエスが神の御心に従順に従われたということが描写、預言されている聖書箇所です。その中の一つの節を引用します。イザヤ書53章10節にはこのように記されています。「彼を砕いて病を負わせることは主のみこころであった。彼が自分のいのちを代償のささげ物とするなら、末長く子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。」 彼、すなわちイエスが、代償のささげ物となった、ということが記されています。
代償とは身代わりであり、ささげ物とは生贄です。 旧約聖書には律法が記されています。神が与えられたものですが、人間が行うべき生活や信仰の指針、言わばガイドラインです。その律法の中に、動物の生贄によって人間の罪が赦されるという掟がありました。それは、人間の罪が赦されるためには、動物の血が流されなければならない。すなわち動物のいのちが人間の罪の身代わりに献げられなければならない。その動物の生贄なしでは人間の罪の赦しはないという掟でした。新約聖書、ヘブル人への手紙の9章には、律法に記されている生贄について、このように説明されています。9章22節「律法によれば、ほとんどすべてのものは血によってきよめられます。血を流すことがなければ、罪の赦しはありません。」
しかしこの先の10章において、動物の血、すなわち動物が人間の罪の身代わりになるには不十分である。ということが記されています。

そこで完全な生贄として、また神への献げ物としてこの世界に飛びこんで来て下さったのが、イエス・キリストでした。へブル人への手紙10章の5節と7節の一部を引用します。ですからキリストは、この世界に来てこう言われました。..『今、わたしはここに来ております。巻物の書にわたしのことが書いてあります。神よ、あなたのみこころを行うために。』」巻物の書とは旧約聖書のことを指します。旧約聖書は巻物に記されていました。 そして先ほど見た旧約聖書に見られる預言の通り、神の御心に従ってこの世界に来たとイエスは言われます。さらにへブル人への手紙の10章の10節には、このように記されています。「このみこころにしたがって、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけ献げられたことにより、私たちは聖なるものとされています。」イエスご自身が一度だけ献げられたとあります。そしてその方法が十字架でした。イエスが自分の罪のために、十字架で身代わりになって下さったと信じることによって、人は聖められる、つまり罪赦されるということが表されています。そしてそれは父なる神の御心でした。
動物の生贄は人間の罪の身代わりとしては不十分でした。しかしイエスは違います。十字架で一度だけ献げられるだけで十分である。動物の生贄と違って、イエスの生贄がいかに完全で完璧で、神の御心に適うものであったかが分かります。

先週「義」についてお話をしました。神の前に正しいとされる、正しいと認められることが聖書に記されている「義」という意味でした。また言い方を変えれば、それは救いです。
人はイエスを信じることによって罪赦され、神の前に正しいと認められます。 そして罪が赦されているということは、永遠のいのちが与えられているということですから、それは救われていると言うことができます。 ですからイエスを信じて義とされることと、滅びから救われているということは、それぞれの持つことばの正確な意味は異なりますが、イコールの関係です。

そして私たち人間が神の前に義、正しい者とみなされ、救われるためには、イエスの十字架がどうしても必要です。なぜなら、イエスは私たち人間がどうしても解決できない罪を全て、十字架で身代わりに背負われたからです。「身代わりに背負われた」とは、難しいことばで言えば「贖い」でした。 このことも先週お話しました。 贖いとは、もともと商業用語、ビジネス用語であり、「買い取る」という意味でした。 (そしてこれは当時における文脈ですが)市場などに行って、他人の所有物である奴隷などを、代価を支払うことによって自分のものにする、というような意味でした。イエスは罪の奴隷となっている私たち人間を、ご自身のいのちをもって買い取られ、私たちを罪の奴隷から解放して下さるお方です。

またイエスの受難の告知は、並行箇所のマタイの福音書とルカの福音書にも記されています。
そしてそのルカの福音書の18章には、受難告知における弟子たちの反応が記されています。そこには弟子たちが霊的に盲目であるという、すなわちそれは私たち人間の姿でもありますが-表されています。弟子たちには、これらのことは何一つ分からなかった。彼らにはこのことばが隠されていて、話されたことが理解できなかった。ルカの福音書18:34 イエスからじきじきにことばを聞いて来た弟子たちさえこうです。 彼らは漁師に必要な舟も、網も、家族も、イエスに付き従い、福音を宣べ伝えるために後に残して来たような信仰者であり、献身的な人間たちです。そのような人間たちですら、イエスの言われた十字架と復活のことが理解できない。 つまり私たち人間が、どれだけ神の真理や霊的な事柄に対して盲目であるか、ということです。 真理も霊的な事柄も分からない人間は、前回見た金持ちの青年のようになってしまう可能性が高いと言えます。すなわち富、財産、名誉など、自分の目に見えるもの、感じることができるものに頼り、いつしかそれらから逆に支配され、奴隷とされてしまう。イエスを信じることによって罪が赦され、神の子、神の家族の特権とされることと比べれば、遥かに価値のないものに執着してしまう。そのような弱さが人間にあるということです。そしてその先は、神との永遠の別離、すなわち滅びです。イエスは本日の10:34節を、これから起こる預言として語られました。異邦人は人の子を嘲り、唾をかけ、むちで打ち、殺します。しかし、人の子は三日後によみがえります。」ここに「しかし」とあります。どんでん返し、大逆転が表されています。イエスは十字架の死で終わりませんでした。イエスの十字架の死の先には復活があります。イエスは三回にわたって弟子たちに死から甦る、復活するということを語って来られましたが、弟子たちの耳にも心にも入りませんでした。私たちも「受難予告」ということばを使います。実際に私も使っています。しかしイエスのことばを見るならば、そこには「しかし」ということばにつづく復活が、確かに、はっきりと示されています。 過去二回の受難予告においてもそうでした。私は苦しめられ、殺され、そして甦る。従って実際は、「受難予告」よりも、「受難と甦りの予告」と言い換えた方が正確な言い回しです。 しかしペテロも弟子たちも、イエスのことばを私たちと同じように「受難予告」として受け取ってしまいました。死んで終わりだということです。しかし人間を罪と死とサタンから解放する十字架の御業は、イエスの勝利の御業です。ですからイエスがエルサレムに向かって行くということは、罪と死と、サタンへの勝利のための、栄光に満ちた行進であると言うことができます。そしてもしイエスを、十字架を通しての勝利者として弟子たちが捉えていたのであれば、イエスが先頭を切って進んで行かれる時に、彼らに驚きや怖れ、不安を覚えることはなかったかもしれません。

本日の出来事の後、イエスの弟子のヤコブとヨハネがイエスに頼み事をします。再来週の聖書箇所です。「あなたが栄光をお受けになるとき、一人があなたの右に、もう一人が左に座るようにしてください。」自分たちが右大臣、左大臣になりたいと願っているということは、イエスを政治的な王として捉えていたということです。しかしこの時、他の弟子たちがこの二人に腹を立てていることから、彼らも同じことを考え、願っていたことが分かります。 霊的に盲目なだけでなく、自分の利益しか考えられないようなイエスの弟子たち。そしてこの姿、態度は、同じく霊的に盲目であり、自己中心的な私たち人間の姿を表していると言えます。 しかしそのような弟子たちの前を、すなわち罪深い私たち人間の先頭を切って、十字架への道を進んで行かれるイエスがおられます。 そしてその栄光の行進は、私たち全ての人間が持つ罪を身代わりに背負うための十字架であり、罪と死とサタンを打ち破って甦る復活のためでした。

最後に、ガラテヤ人の手紙1:4節を引用して、本日のみ言葉の取り次ぎを終わりたいと思います。
キリストは、今の悪の時代から私たちを救い出すために、私たちの罪のためにご自分を与えてくださいました。私たちの父である神のみこころにしたがったのです。
祈ります
「先頭に立つイエス」
さて、一行はエルサレムに上る途上にあった。イエスは弟子たちの先に立って行かれた。弟子たちは驚き、ついて行く人たちは恐れを覚えた。すると、イエスは再び十二人をそばに呼んで、ご自分に起ころうとしていることを話し始められた。

2026/1/25(日)「手放す幸い」マルコ10:17~22 庄司牧師

2026年1月25日 マルコの福音書10:17~22 「手放す幸い」
招詞 マタイの福音書6:33 今週のみ言葉 マルコの福音書10:21
イエスが道に出て行かれると、一人の人が駆け寄り、御前にひざまずいて尋ねた。「良い先生。永遠のいのちを受け継ぐためには、何をしたらよいでしょうか。」イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを『良い』と言うのですか。良い方は神おひとりのほか、だれもいません。戒めはあなたも知っているはずです。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽りの証言をしてはならない。だまし取ってはならない。あなたの父と母を敬え。』」その人はイエスに言った。「先生。私は少年のころから、それらすべてを守ってきました。」イエスは彼を見つめ、いつくしんで言われた。「あなたに欠けていることが一つあります。帰って、あなたが持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。」すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。多くの財産を持っていたからである。( マルコの福音書 10:17-22 SKY17 )
本日の聖書の箇所は、イエスの強烈な警告です。それは富の危険性についてです。イエスは富それ自体が悪であるとは、もちろん決め付けておられませんが、富によってイエスの下に来れなくなってしまう人がいる、という実例が示されています。
10:17 イエスが道に出て行かれると、一人の人が駆け寄り、御前にひざまずいて尋ねた。「良い先生。永遠のいのちを受け継ぐためには、何をしたらよいでしょうか。」
一行がエルサレムへの途上、ユダヤ地方を旅していた時の出来事です。「一人の人が駆け寄り、御前にひざまずいてイエスに尋ねました。」「ひとりの人」とは、並行箇所のマタイの福音書の19章では「青年」、ルカの福音書18章においては「指導者、前の訳では役人」と紹介されています。つまりこの人物は若く、高い地位についていた裕福な人でした。他の人々からすれば、全てを持っていると思われるような人でしたが、彼は富によっては満たされていませんでした。その心には依然として疑問と渇きがありました。 この人がイエスの下へ「駆け寄り」イエスの下に「ひざまずいて」永遠のいのちをどのようにしたら受け継ぐことができるかを尋ねていることから、真剣に、永遠のいのちを得るための答えを探していたことが伺えます。しかし彼はここで的外れの理解と質問を二つしています。
一つはイエスを良い先生と言ったことです。「先生」とは「ラビ」(私の師)という意味で、教師としての尊敬を表す言葉です。つまり彼はイエスを、律法を教えていたラビの一人として見ていたことです。二つ目の的外れは、「永遠のいのちを受け継ぐためには、何をしたらよいでしょうか。」と尋ねていることです。彼は行いによって永遠のいのちを獲得することができると思っていた。そこでイエスは先ず18節で、彼がイエスを一教師として理解していることを正そうとされました。 10:18 イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを『良い』と言うのですか。良い方は神おひとりのほか、だれもいません。
イエスは彼が使った「良い先生」の「良い」ということばを用いて、「良い方は神おひとりです」と言われました。つまり彼が良いと敬っている人間である一教師、一指導者から教えを受けることが永遠のいのちを得るために必要なことではなく、永遠のいのちを得るためには良い方である神に焦点を合わせなければならないと、彼の注意を神に向けさせようとしました。 そしてイエスは、
永遠のいのちを受け継ぐためには、神の教え、戒めである律法を守られなければならないと、具体的にモーセの十戒を引用されました。
10:19 戒めはあなたも知っているはずです。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽りの証言をしてはならない。だまし取ってはならない。あなたの父と母を敬え。』」イエスはあえて、旧約聖書に記されている律法を引用されました。 ここでもし彼が、「主よ、申し訳ありません。私は弱い人間ですから、どうしても守り通す事が出来ません。」と答えていれば、またそのように思っていれば、イエスから助けを得ることができたかもしれません。しかしこの青年はこのように答えました。10:20 その人はイエスに言った。「先生。私は少年のころから、それらすべてを守ってきました。」
平行箇所のマタイの福音書の19章において彼は、「私はそれらすべてを守ってきました。何がまだ欠けているのでしょうか」と答えています。 凄い答えです。中々こうは言えないと思います。すべてを守ってきたと断言できるほど、この青年は厳格な生活をしていたと思って間違いないでしょう。 イエスの意図は、律法を守りなさいと問いかけることよって、この青年にそれらを完全に守ることができないと認めさせ、彼の中にある自信を完全に打ち砕いて、彼の目を神の方に向けさせることでした。 この人が自分の持つ罪や人間的な弱さに気付き、そこから神に依り頼むことが、永遠のいのちに至るための第一歩だったからです。もしこの段階で、この青年が改めて自分にある罪に気付き、弱さを認めることができれば、目の前に永遠のいのちを与えるお方がおられました。そのまま罪の赦しと永遠のいのちをイエスに願うことができました。しかし彼はできませんでした。そこでイエスはさらに踏み込んだ問いかけをなされています。21節。あなたが持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。イエスはここで隣人愛に触れています。持っている物を売り払って貧しい人に与えなさいとは、周りの人々に愛を示すための実践、実際的な行動です。
イエスは平行箇所のマタイの福音書19章においても十戒を引用されてこの青年に語りかけておられますが、マルコの福音書で語られた十戒の引用に、さらに一つ加えられています。それは、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」でした。 このことばは、ある時律法の専門家が、「律法の中で、たいせつな戒めはどれですか?」とイエスに尋ねた時に、イエスが答えられた時のものです。 この時イエスは、神が旧約聖書を通して人間に与えられた、人間が守るべき教え、戒めである律法を、短く二つにまとめられました。
一つ目は、「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」でした。 これは人間が神に対して行うべき戒めです。神を神としなさい。偶像を造って拝んではならない。など、モーセの十戒の一番目から四番目に記されていることを一つにまとめられたものです。そして律法の専門家に答えられた二つ目に大切なことが、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」でした。これは人間が人間に対して行うべきことをまとめたものであり、モーセの十戒で言えば、5戒から最後の10戒までに記されていることを一つにまとめられたものです。
あなたが持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。
これは律法が示す、隣人愛の実践でした。 この青年は、「私は少年のころから、それらすべてを守ってきました。何がまだ欠けているのでしょうか」と自信を持ってイエスに答えました。ですから本当に守って来たのであれば、イエスからのこの問いかけに対して、彼は実際の行動を通して応えることができたでしょう。しかし彼が取った行動は異なるものでした。22節に記されています。
10:22 すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。多くの財産を持っていたからである。
彼は悲しみながらイエスの下を立ち去りました。イエスが言われたことは、自分には出来ないという意志表示でした。「全てを売り払って貧しい人にたちに与えなさい」 これは確かに難しい、いや、不可能と言える命令ではないでしょうか。 私たちもイエスに招かれてイエスの下に来ることができました。そして今、イエスを信じる群れである教会に入れられています。この中で、イエスから「全てを売り払って私に従いなさい」と言われた方はおられるでしょうか?
恐らくいないと思います。なぜイエスはこの青年にそのような不可能とも言えることを命じられたのでしょうか。それはこの青年が財産に捕らえられていたからです。奴隷になっていたと言っていいでしょう。財産は本来中立なもののはずです。しかし財産は時に力になります。自分の思いや願いの多くを財産によって、お金によって叶えていくことができるばかりでなく、人々を支配、コントロールさえできるものです。しかしもし財産が神よりも上の存在になるならば、それは偶像礼拝と変わりありません。本日の箇所でイエスが十戒を引用されていますが、それは人が人に対して行うべき戒めの部分、第五戎から第十戎でした。しかし第一戎から四戎の、人が神に対して守るべき教え、戒めの中には、神の他に、他の何物をも神としてはならないとあります。また偶像を作って拝んではならないとあります。 従ってこの青年は、自分の財産を用いて隣人に対して愛や憐れみを示すことが出来なかっただけでなく、財産が神よりも上に来ていた、つまり財産が自分の偶像となり、自分の神になっていたということが明らかにされた訳です。
イエスはマタイの福音書の6章で群衆や弟子たちにこのように語られました。
だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神と富とに仕えることはできません。( マタイの福音書 6:24 SKY17 ) この青年は、自分の富、財産を重んじ、他方、すなわち神を軽んじていたということです。ですから彼は神からの教え、戒めを子どもの頃から守って来たと自負、自信を持ってイエスに答えましたが、それは表面的であり、形式的であり、神に対して心も、信仰も、愛もなかったことが分かります。
そこでイエスは、彼が奴隷になっている富から、財産から解放するために、「財産を全て売り払って私に従いなさい。」と、あえて不可能とも言えることを命じられました。これはイエスの愛ゆえの命令であり、挑戦でした。 もし彼がこのイエスからの命令に対して「私は出来ません。助けて下さい。憐れんで下さい。」とイエスの下を去らず、イエスに助けを求めたのであれば、イエスは彼を助けることができたと思います。 すなわち富、財産を最も価値あるものとしていた彼の思い、執着から解放し、神でしか満たすことの出来ない、永遠のいのちという、霊的な飢え渇きを満たすことができたはずです。
この青年はイエスを一教師、一指導者と見ていました。これは誤りでしたが、永遠のいのちを求めてイエスの下に来ることができました。 それは良かったのです。最高な、これ以上のないベストな選択でした。しかし彼は最悪な選択をしてしまいました。それはイエスの下から立ち去ってしまったということです。 彼は永遠のいのちよりも財産を、富を、神であるイエスよりも自分と自分の生き方を選んでしまいました。
しかしイエスは、このような青年に対しても、愛を持っておられることが分かります。「イエスは彼を見つめ、いつくしんで言われた」とありますが、ギリシャ語本文には神だけが持つ「アガペー・愛」(名詞)が、ここでは「アガパオー・愛する」という動詞として使われています。神の愛、アガペーとは、その対象に愛される価値があるなしに関わらず、自発的に自分を与える犠牲的な愛を意味することばです。 従って直訳するならば、「イエスは、神ご自身だけが持つ愛を持って、彼に目を留めながら言われた」となるでしょう。イエスは、彼が執着している財産を彼から切り離し、すなわち富という奴隷から解放して、彼が求めていた永遠のいのちを、心からお与えになりたいと思っておられる、ということがここに表されています。
偶像、そして偶像礼拝とは、人間が持つ心の欲望を神とし、それを第一として拝むことです。そこには富だけでなく、健康、長寿、権力なども含まれます。 そしてこの青年のように神の代わりにそれらを第一とし、依存して生きようとする時、それらは人を奴隷として縛りつけるようになります。 本人はそれらを自分の支配に置き、コントロールできると思っていますが、この青年のように、気付けば縛られ、奴隷とされ、永遠のいのちを与えることができる唯一のお方、イエスを退ける、自ら遠ざかってしまう結果になります。 これは現代においても全く変わりがありません。
何かを神よりも上に置く。それらを神よりも高い価値あるものとする。そして神とする。目に見えるものから目に見えないものまで、私たちは多くの偶像に取り囲まれています。 このような偶像礼拝は、人間が持つ罪と、悪魔、サタンが働く領域でもあり、霊的なものであると思います。

私たちは知らない内にこれらに奴隷とされ、自分から抜け出ることはできません。それは唯一、イエスの助けによってのみです。 イエスは私たちを奴隷状態から解放して下さる力ある神であり、その根底にはこの青年に注がれ、また私たち全ての人間にも注がれている愛があります。
全ての人間をご自分の下に招き、全ての人間を奴隷状態から解放し、永遠のいのちを与えたい。
このイエスの愛と願い、そして力は、十字架と復活に集中しています。奴隷状態に導く私たちの罪を、神であるイエスが代わりに背負われ、私たちの罪と共に死んで下さいました。 そして罪と、罪から来る死を滅ぼして、復活して下さいました。それは私たち一人一人の人間のためでした。
ここにアガペーの愛があり、私たちを罪と死と、様々な奴隷状態から解放することができる、力が表されています。 聖書から、またイエスが語られたみ言葉から、私たちはイエスよりも大切して来た様々な偶像の存在を知り、捨て去ることができました。今も捨て続けています。
私たちが持つ偶像と偶像礼拝から解放して下さり、永遠のいのちを受け継ぐ者として下さったイエスに、心から感謝します。
祈ります。
「手放す幸い」
あなたが持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。