2026/6/21(日)「神の国へのステップ」マルコ12:28~34 庄司牧師

主日礼拝 2026年6月21日(日) 10:40~ 

聖書:マルコの福音書 12章28~34節

説教:庄司牧師

律法学者の一人が来て、彼らが議論するのを聞いていたが、イエスが見事に答えられたのを見て、イエスに尋ねた。「すべての中で、どれが第一の戒めですか。」イエスは答えられた。「第一の戒めはこれです。『聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』第二の戒めはこれです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。』これらよりも重要な命令は、ほかにありません。」律法学者はイエスに言った。「先生、そのとおりです。主は唯一であって、そのほかに主はいない、とあなたが言われたことは、まさにそのとおりです。そして、心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛すること、また、隣人を自分自身のように愛することは、どんな全焼のささげ物やいけにえよりもはるかにすぐれています。」イエスは、彼が賢く答えたのを見て言われた。「あなたは神の国から遠くない。」それから後は、だれもイエスにあえて尋ねる者はいなかった。 本日もまた、律法学者が登場します。しかしイエスに敵対してきた今までの律法学者とは、違うようです。それは彼がイエスから、「あなたは神の国から遠くない」と言われたことからも分かります。しかしこの律法学者は賢く答えたにもかかわらず、イエスから、「あなたは神の国に入ることができる!」とは言われませんでした。なぜでしょうか。神の国に入れることと、神を愛し、隣人を愛することとが、どのような関りがあるのでしょうか。共に見て行きたいと思います。 冒頭にはこのように記されています。律法学者の一人が来て、彼らが議論するのを聞いていたが、イエスが見事に答えられたのを見て、イエスに尋ねた。 「彼らの議論」とは、18節以下、イエスとサドカイ派の人々の復活をめぐる議論です。前回共に見て来ました。この当時、復活をめぐってパリサイ派とサドカイ派が対立していました。サドカイ派は、「復活はない」と言っていたのに対して、パリサイ派は復活を信じていました。そのような中で、イエスが聖書に基づいてはっきりと死者の復活をサドカイ派の人々に語られ、イエスが自分たちと同じことを教えているという親近感を、彼は抱いたようです。 律法学者は、律法、神の教えであり戒めを研究し、自分自身がそれを守るだけでなく、一般の人々に、律法を守って生活するためのアドバイスをしていました。六百以上の戒めを大切なものとしていたことから、膨大な律法をどのように解釈し、またどのように人々に教えるかということをいつも考えていました。そこで彼は、好意を抱いたイエスから、律法で一番大切なことを尋ねることにしました。彼の真面目で真剣な問いに対して、イエスも誠実に、そしてはっきりとお答えになります。29、30節です。 イエスは答えられた。「第一の戒めはこれです。『聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』イエスは旧約聖書、申命記第6章4、5節からの引用をもって、律法の第一としました。ユダヤの人々はこの教えを大切にし、毎日唱えていたものです。 この第一の教え、戒めは、一言で言えば「神を愛しなさい」ということです。神を愛することこそが、あらゆる律法の要、神の民としての生活の中心だとイエスは言われている。 ところで「主を愛しなさい」と命令形で訳されています。原語であるヘブル語では完了形で記されています。ヘブル語では未来に確実にそうなることは、~した、~するようになると、完了形で表します。つまり申命記の6:5節は、「あなたは愛するようになる」と訳すことができるものです。その引用ですから、本日の箇所の12:30節の直訳は「あなたはあなたの心の全てをもって、あなたの精神の全てをもって、あなたの思いの全てをもって、あなたの力の全てをもって、神を愛するだろう。」と訳すことができるものです。 イスラエル民族は神に特別に選ばれている民族であり、神の栄光、素晴らしさを他の民族、部族に伝えていく使命、役割を担っていました。それにも関わらず彼らは神への信仰・不信仰、従順、不従順を繰り返して来ました。しかしその都度預言者などが神から遣わされ、神に立ち返るよう、促されて来ました。旧約聖書にその歩みが描写されています。そのような彼らを神は見捨てることはありませんでした。従ってイスラエルに対する主なる神の深い愛、忍耐、慈しみと恵みを彼らが覚える時、もはや彼らは義務や命令から神を努力して愛していくのはなく、喜んで、感謝を持って自発的に神を愛していくようになる。愛していくはずだ。そのような主なる神の思い、彼らに対する期待が伝わって来ます。 そしてこの神のイスラエル民族に対する愛、忍耐、そして期待は、同じように今を生きる私たちも含め、全ての人類に向けられているものだと思います。 このような神の愛、忍耐、期待や思い、願いが、イエスが言われたもう一つの大切な戒めにも表されています。それが、「隣人を自分のように愛しなさい」です。イエスは旧約聖書、レビ記第19章18節を引用されています。ここには「自分を愛するように隣人を愛しなさい」と記されています。神を愛することと、隣人を愛すること。この二つが分かち難く結び合って、律法の中心をなしているということです。そしてこの第二の戒めも、第一の戒めと同様に、命令形だけでなく、未来形で訳すことが出来る箇所です。「あなたは、あなたの隣人をあなた自身として愛するであろう(愛するようになる。)」この第二の戒めはまた、イエスが言われた第一の戒めである、人間が大切にしなければならない第一の律法である、「神を心から愛するということ」の、コインの表裏のようです。つまり神を心から愛する者は、自分と自分の隣人を愛する者になるということであり、自分と自分の隣人を心から愛する者は、神を心から愛する者になるということです。 イエスは律法学者に「あなたは神の国から遠くない。」と言われました。神の国はあなたの近くにある、あなたはいい線まで来ている、しかしまだそこに到達してはいない、とおっしゃったのです。正直であり、誠実な彼がなお神の国に入ることができないでいる原因は何なのでしょうか。 この律法学者は、「先生、その通りです」と言って、イエスが語られたことを称賛し、同意し、また共感しました。しかし神の国に入ることができるとイエスに言われなかったことから、彼には神への、すなわちイエスへの信仰が無かったことが分かります。つまり彼は自分の力で神を愛し、また隣人を愛していくことができると思っていた、そしてそのように生きていた、ということです。 彼は律法を学ぶことや、人々に律法を教えることに熱心だったかもしれませんが、その中心には最も大切な神がいませんでした。では、私たちはどうでしょうか。 心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、神を愛しているでしょうか。旧約聖書、伝道者の書7章には、「順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ」ということばがあります。順境、すなわち順風満帆の時は、人は言われなくても喜びます。しかし逆境、試練や苦難が来ると、私たちはその試練や苦難を通して自分のあり方を吟味したり、成長の機会と捉え感謝するよりも、時に神に責任転嫁、神のせいにしてしまうことがないでしょうか。なぜ神はこのような痛みの経験を許可されたのか、許されたのか?失望したり、怒ったことが、そして現在、怒っていることがないでしょうか。また私たちは、隣人を真実に愛しているでしょうか。イエスが、好きな人だけ愛しなさい、と言っておられないことは明白です。自分に敵対し、迫害する者のために祈りなさい、と言われるのがイエスです。つまり赦せない人を赦し、愛せない人を愛する、これが、イエスが言われる隣人を愛する、ということです。また、自分を愛するよう隣人を愛しなさい、ともイエスは言われました。私たちは時に自分自身を受け入れることが出来なかったり、愛することができないことがあります。自分の過去の過ち、自分で自分のことが自制できない弱さ、悪いことの方に傾く罪深さ、などを通して自分に嫌悪することがあるからです。そのような私たちにイエスは、一人一人が自分自身も受け入れ、赦し、愛するようにと言われています。しかし私たちはそのように人を赦し、自分を赦すという生き方をして来たでしょうか。またしているでしょうか?私自身を見る時、心から神を愛すること、心から自分を愛すること、そして心から隣人を愛すること、できていない、とよく思わされます。神が、イエスが求めておられることからどれだけ自分が離れているか、日常生活の中でも思い知らされます。そして自分の努力によっていくら頑張っても、神の規準に到達することが出来ないと、認めざるを得ません。最近息子にこのように言われました。「パパ、この頃ブチ切れなくなったね!-言ってくれるな~と感心しました。」この時ただ笑うしかありませんでしたが、子どもを叱るというより、感情的に怒ってしまいます。しかも何度も繰り返してしまう。(そして、これを購入しました。掲げる)日々の生活を通して、自分の愛のなさ、忍耐のなさを認めます。もちろん私の弱さは子育てだけに限りません。しかしそのような欠けや弱さのある自分に気づき、時に気付かされ、愕然とする。それは良いことかもしれません。 先週、神が人間に示された人間が生きる上でのルール、神の教え・戒めである十戒を始めとした律法の規準の高さ、厳しさに達することができないと心砕かれる者は、イエスの方に向かうとお話しました。 律法は、私たちをキリストに導く養育係になるというお話でした。律法に示されている神の規準の高さに触れる時、またイエスが言われ、実際に人々に対する愛の言動、その行いを聖書から知る時、自分には心から神を愛することも、また心から自分を愛することも、そして心から隣人を愛することはできない。自分に絶望するしかないのではないでしょうか。しかし私は、自分に絶望することは素晴らしいと思っています。そうでなければ、この律法学者のように、知識や知恵があり、正直に、また誠実に生きていたとしても、イエスから、「あなたは神の国に入ることができる。」、とは言われないし、実際入ることはできないからです。すなわちそれは、イエスとの愛の関係を築くことができないことを意味します。 イエスは公に福音を宣べ伝え始められた時、このように宣言されました。「神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」今年もこの神の国について見ています。神の国が近づいたとは、神の国が到来したと訳せることばです。到来ですから、イエスを通して神の国、すなわち神であるイエスが統治される国が、私たち人類の近くまで来た訳ですが、その神の国に誰でも入ることができる訳ではありません。神の国に入るには明確な条件があることを、イエスは言われました。それは、「悔い改める」ことでした。人生の、また自分の生き方、あり方の方向転換です。そしてその向かう先は、救い主、イエス・キリストです。イエスに信頼を置き、イエスを信じて歩む生き方への変換です。そして私たちの主、私たちの人生のあるじになって下さるイエスは、私たちが信頼を置き、頼ることができるに十分な方、また相応しいお方です。なぜなら律法を二つにまとめられたイエスご自身が、その律法を完全に守られたからです。律法に生き、律法を完成させたお方です。 そしてそれは、十字架に表されています。父なる神が罪ある人間を救うために、御子イエス・キリストを十字架にかけて殺す。イエスが全人類の罪を全て背負われて死ぬ。身代わりの死を通して人類を救うという父なる神のご計画に、イエスは完全に従われました。-なぜでしょうか?-それは父なる神を愛し、大切にされ、第一とされたからです。ではなぜイエスは、神を無視し、神に敵対しながら滅びに向かっている私たち人間の全ての罪を、ご自分で全て背負われて、十字架につかれたのでしょうか?-それは私たち一人一人の人間を心から愛しておられるからです。 神の規準を全て、完全に満たし、また私たち人間を心から愛しておられるイエスが、一方誠実ではありますが、自分中心に、また自分の努力で、神を抜きにして生きているような律法学者に対して、「あなたは神の国から遠くない」と言われた、いや、おっしゃって下さいました。彼は神から離れ、自分の力で生きていたような人がしたが、彼の正直さ、誠実さをイエスは認めて下さっていた。 その上でイエスはこのように彼を招いておられると思います。「あなたは神の国から遠くない。あなたに後必要なのは、そして絶対に必要なのは私だ。私に信頼を置き、私を信じて歩みなさい。そうすればあなたは神の国に入ることができる!」「あなたは神の国から遠くない」と言われたのは、この律法学者をご自分お下に招いておられる、そのように私は思っています。そしてこの招きは、全ての人類に、今を生きる私たち一人一人にも向けられている。そのように信じています。 本日はこの神から、すなわちイエスからの招きを、招詞として、礼拝の冒頭で読んで頂きました。 ローマ人への手紙10:17節です。前の訳ではこのように記されています。「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」神を愛することも、自分を愛することも、隣人を愛することもままならない私たち人間ですが、イエスは私たちの罪深さを知り、弱さに同情され、助けて欲しいと願い、求める者には必ず応えて下さるお方です。そしてそのイエスとの愛のある関係に導かれるのに必要なことが、イエスへの信仰です。そしてそれは、イエスのことば、聖書のことばを聞くことから始まります。 イエスの愛の招きに応答し、イエスを信じた者全ては、イエスが統治される神の国に入ることができます。そこはイエスとの愛の交わりが永遠に続く場所です。そしてイエスとの愛の交わりが完成する時は、聖書に何度も何度も記され、預言されている再臨、イエスが再びこの世界に戻って来られる時です。その時私たちは、神を心から愛し、自分を心から愛し、隣人を心から愛するものに造り変えられます。その完成に向かって私たちは日々自分の弱さや欠点、罪深く、愛の足りない者であることを聖書のみ言葉から教えられ、イエスがなされた愛の言動から思い知らされていきます。しかしそれは、イエスへと向かう大きな原動力となること、素晴らしいことです。 神の前に、イエスの前に自分を飾らず、弱さを隠さず、「私は愛が足りません。あなたの助けが必要です。あなたの愛で私を満たして下さい。そして神を愛し、自分を愛し、隣人を愛する者にして下さい。」そのようにイエスに向かう者を、イエスは決して見放すことも、また見捨てられることもありません。その根拠が十字架です。十字架に架かるほど私たち人間を、そして「私を」愛して下さっている証拠ですから。 このイエスの愛に触れられながら、時に慰められ、励まされながら、心から神を、心かから自分を、そして心から隣人を愛していくことができますように。 祈ります。「神の国へのステップ」 イエスは、彼が賢く答えたのを見て言われた。「あなたは神の国から遠くない。」それから後は、だれもイエスにあえて尋ねる者はいなかった。

2026/6/14(日)「神はいくつの戒めを私たちに与えられましたか?」出エジプト34:28 庄司牧師

主日礼拝 2026年6月14日(日) 10:40~ 

聖書:出エジプト記 34章28節

説教:庄司牧師

🌈聖書引用
 新日本聖書刊行会 聖書 新改訳2017 (新改訳聖書センター)

 

問41 神さまはシナイ山でいくつの戒めを私たちに与えてくださいましたか?
答 十の戒めです。
それは「モーセの十戒」と呼ばれています。 モーセはそこに四十日四十夜、主とともにいた。彼はパンも食べず、水も飲まなかった。そして、石の板に契約のことば、十のことばを書き記した。 (出エジプト記 34:28 SKY17) 招詞 こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認められるためです。 (ガラテヤ人への手紙 3:24 SKY17) 月の第二日曜日ですので、いつものように子ども信仰問答からお話をしていきます。 本日は、旧約聖書、出エジプト記の中に記されている箇所です。ここに登場する民族は、イスラエル民族であり、神に特別に選ばれた民ですが、彼らイスラエルがエジプトで奴隷とされているところから、出エジプト記の話が展開していきます。奴隷という身分と苛酷な労働を彼らは憂い、泣き、叫び、神に助けを求めました。神は彼らの涙に応え、モーセをエジプトからの解放者として遣わします。モーセは神から授かった力によって様々な奇蹟を行い、彼らをエジプトから脱出させます。神はその後、イスラエルの人々をご自分の特別な民として契約を結ばれました。その契約の中身が十戒です。十戒は神が彼らに与えられた教え、戒めである律法の中心となる大切な戒めです。 神は、イスラエル民族を通して全人類を祝福する計画をお立てになりました。 全人類ですから、日本人もイスラエル民族と関係があることが分かります。もちろんモーセの十戒も同じです。この十戒は別の言い方をすれば、人間が生きる上での「ルール」、「規則やきまり」です。 もし人間の世界に「ルール」がなかったらどうなるでしょうか。 昔流行ったアニメ、「北斗の拳」の世界になるということです。地域や社会、国など、私たちの生活の舞台が、力や自己中心的な行動が優先される「無法地帯」になるということです。盗んだり、盗まれたり。暴力を振るったり、振るわれたり。殺したり殺されたり。その全てがOKになる恐ろしい世界です。(現在も) 神はそのような世界になることを望んでおられません。そこで人間が秩序や公正を保つためにルールを設けられた。そのルールの具体的な教え、戒めが十戒だと言えます。 その内容は大きく二つに分けられます。人間が神に対して行うべき4つのルールと、人間が人間に対して行うべき6つのルールです。神に対しての4つのルールとは、人間は、聖書の神である、唯一まことの神を信じること。偶像を造って拝んではならない。神の名をみだりに唱えてはならない。安息日(休息の日)を守ること。これら4つが、人間が神に対して行うべきルールです。 一方人間が人間に行うべきルールが、父母を敬うこと。殺してはならない。姦淫してはならない。この姦淫ですが、ある訳には、配偶者以外と性行為をしない。と訳されています。盗んではならない。偽証をしてはならない。隣人の妻や財産を欲してはならない。という6つの教え、戒めとなっています。 しかし人間がこの十戒を知らない時、すなわち神が願っていることを知らない時、どのような歩みになるでしょうか。それはイスラエルを奴隷としていたエジプトの人々を見ると分かります。 エジプトの人々は動物や太陽などの天体を拝み、王であるパロは自分を神であると自称していました。これはさきほど十戒の中で神を神としなさい、偶像を造って拝んではならない、この二つの戒めを破っていることが分かります。権力を持つ者が神となり、また他の人々も神以外のものを拝んでいる。このような姿は、現代を生きている日本人も含め、多くの国々で今もなお、行われています。エジプトの姿と、日本を含めた私たちの世界とは全く変わりがないことが分かります。 ある姉妹からこのようなお話を聞きました。その姉妹の友達で、ある宗教を信じていた人がいたそうです。早起きを含めた修行、また善行を積むなどをモットーとしていた宗教だと思いますが、自分がした様々な良いことなどを発表する場があったそうです。そこでは参加者が、「私はこのような良いことをした。」「私はこのような素晴らしいことをした。」などと言って、自分のした良いことをアピールというか、自慢する場であったということです。結局その人は、「自分にはそのような良い行いはできない」と感じ、その宗教から遠ざかったということでした。 また新約聖書、コロサイ人の手紙の2章の中には、好き勝手な礼拝、自己卑下、肉体の苦行などを通して神を知り、神に近づこうとする人間の姿が描写されています。また別の聖書箇所には、禁欲的な生活によって、神を知ろうとする、神に近づこうとする人々の存在が描写されている。 逆に、死んだら終わりだからただ今を楽しもうと、神を信ぜず欲望のままに生きる生き方をする人々の存在なども、聖書に書き記されています。そのような人間の姿を、新約聖書を約半分書き記したパウロは、「自己満足」であるとしました。自己満足的に、そして自己流に自分の良いと思うことを通して神を礼拝する、神に受け入れてもらおうと努力する。彼らがそのような振る舞いをする一つの原因に、律法、神のルールを知らないということが挙げられます。しかし私たち人間は例え神の教え、戒めである律法を知っていたとしても、誰一人として律法を完全に守ることによって神を満足させることができる人は、誰もいません。それほど神の規準は人間の規準よりも遥かに高く、また厳しいからです。ではなぜ、神は人間が守ることができないルールである十戒、律法を、モーセを通してイスラエル民族に与えられたのでしょうか? 先程紹介したコロサイ人の手紙の著者であるパウロは、ローマ人への手紙7:7節で、人間には完全に守ることができない律法の効果、働きをこのように具体的に挙げています。 ローマ人への手紙7:7 それでは、どのように言うべきでしょうか。律法は罪なのでしょうか。決してそんなことはありません。むしろ、律法によらなければ、私は罪を知ることはなかったでしょう。実際、律法が「隣人のものを欲してはならない」と言わなければ、私は欲望を知らなかったでしょう。前の訳である新改訳第三版ではこのように訳されていました。律法が、「むさぼってはならない」と言われなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。 子どもが親に、「あれ欲しい。みんな持ってるもん。」というセリフを皆さんも聞いたことがあると思います。しかしそれは子どもだけではありません。あれも欲しい。これも欲しい。他の人の持っているもの、全て欲しい。いやそれ以上に欲しい。私たち人間の欲望は限りがありません。 しかし例えそれを手に入れたとしても、もっとたくさんのもの、もっと面白い物、もっと刺激的なもの、もっと欲しい。もっともっともっと。これが人間のむさぼりです。そしてこのような個人的なむさぼりから争いが生じ、国同士のむさぼりからの争いは、戦争にまで発展します。 パウロは人間の持つむさぼり、もっともっと欲しいという欲望は、律法がなければ分からなかった。律法がなければ、神の教え、戒め、ルールが示されなければ、自分も含め、人間は自分にそのような欲望があることすら分からないだろうと、ここで述べている訳です。そしてパウロはこのむさぼりの原因を罪だとしています。何度もお話して来ましたが、罪とは神から離れていることです。人間が愛と義である神を無視し、時に敵対し、離れてしまっている。神の愛から離れているので、人は自分や家族、友人など、自分に関わる者だけを愛する性質を持つようになりました。そして義である神から離れていることによって、自分の規準が絶対正しいと信じ行動することによって、他の規準を持つ人々とぶつかり、争い、時に人殺しまで発展してしまう。それが罪ある人間の姿です。 著者のパウロは自分の罪と戦った人です。そして最終的にこのような結論に至りました。同じローマ人への手紙の7章です。「私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています。」「私は本当にみじめな人間です。」パウロは罪と戦い、自分の力では打ち勝つことができないことを告白しています。しかしパウロは罪との戦いの中で、神の大きな恵みに気付くことができました。それはパウロが書いた別の手紙であるガラテヤ人への手紙に記されています。礼拝の冒頭で、神から礼拝への招きのことば、招詞で読んで頂いた、ガラテヤ人への手紙3:24節です。 こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認められるためです。律法によって神の思い、また完全さを教えられ、その神の完全な規準を満たすことが出来ないと悟った者は、キリストに向かうことになる。律法によって罪を教えられた人は、律法がその人をイエス・キリストへと導く養育係になるとパウロは語ります。そして子どもは成人すれば養育係が必要なくなるのと同じように、イエスがこの世界に救いをもたらすために来て下さったことにより、律法は必要がなくなったということです。 そしてパウロは続けます。 ガラテヤ人への手紙3:25 しかし、信仰が現れたので、私たちはもはや養育係の下にはいません。 3:26 あなたがたはみな、信仰により、キリストイエスにあって神の子どもです。 神の子どもになる条件とは、罪の解決がなされている人です。つまり神から離れているという罪が赦され、神との関係が回復した人々だけが、神の子となることができます。それが聖書の約束です。そのために私たち人間に必要なことが、イエスに信頼を寄せる、イエスを信じて歩む信仰です。こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認められるためです。イエスへの信仰によって、イエスの信仰のみによって私たち人間は神の前に義と認められる。神の前に正しい者と認められることができる。 神は、古い約束である旧約聖書にある十戒、律法を通して私たちに神の御心を示され、それを守ることができない私たち人間の為に、すなわち罪を解決できない私たち人間の代わりに、愛する一人子、イエス・キリストを、私たちの罪の身代わりとして十字架につけられました。 イエスを信じる者は、イエスの贖いによって神の子とされることができるという、新しい約束、新約聖書に記されている神の約束に私たちが生かされていることを感謝しつつ、今週も共にイエスを見上げて歩みたいと願っています。 祈ります。 「神はいくつの戒めを私たちに与えられましたか?」 答 十の戒めです。それは「モーセの十戒」と呼ばれています。 モーセはそこに四十日四十夜、主とともにいた。彼はパンも食べず、水も飲まなかった。そして、石の板に契約のことば、十のことばを書き記した。 こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認められるためです。

2026/6/7(日)「生きている者の神」マルコ12:18~27 庄司牧師

聖餐式礼拝 2026年6月7日(日) 10:40~ 

聖書:マルコの福音書 12章18~27節

説教:庄司牧師

🌈聖書引用
 新日本聖書刊行会 聖書 新改訳2017 (新改訳聖書センター)

 

また、復活はないと言っているサドカイ人たちが、イエスのところに来て質問した。「先生、モーセは私たちのためにこう書いています。『もし、ある人の兄が死んで妻を後に残し、子を残さなかった場合、その弟が兄嫁を妻にして、兄のために子孫を起こさなければならない。』
さて、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、死んで子孫を残しませんでした。次男が兄嫁を妻にしましたが、やはり死んで子孫を残しませんでした。三男も同様でした。こうして、七人とも子孫を残しませんでした。最後に、その妻も死にました。復活の際、彼らがよみがえるとき、彼女は彼らのうちのだれの妻になるのでしょうか。七人とも彼女を妻にしたのですが。」イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、聖書も神の力も知らないので、そのために思い違いをしているのではありませんか。死人の中からよみがえるときには、人はめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです。死人がよみがえることについては、モーセの書にある柴の箇所で、神がモーセにどう語られたか、あなたがたは読んだことがないのですか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあります。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。あなたがたは大変な思い違いをしています。」 (マルコの福音書 12:18-27 SKY17) 人類の罪の身代わりのため、イエスは十字架への歩みを進めている-その最後の1週間を共に見ています。11章から最後の16章まで続きます。 再び、イエスの下へ刺客が送られて来ました。それがパリサイ派と並ぶ党派であるサドカイ派の人々でした。当時のサドカイ派の人々は祭司長、および長老たちからなる富裕層の指導者たちです。彼らは現実主義的な保守派で、支配体制の現状維持を何よりも望んでいました。つまり彼らは前回見たヘロデ派のように、ローマ帝国と関係を保つことによって、自分たちの支配と利益を優先しているようなグループでした。 彼らはモーセ五書、すなわち旧約聖書の最初の五つの書物、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記のみを聖書と見なし、信仰の規範としていました。モーセが書いたと言い伝えられており、「モーセ五書」と呼ばれているものです。十戒を中心とする律法がそこに記され、聖書の中でもとても大切な部分です。 この5つの書物には、死んだ者が復活するということは直接的には書かれていません。それゆえサドカイ派の人々は、死者の復活はないと断言していた。また彼らサドカイ派の人々は、祭司として神殿で仕えるような立場にありましたが、復活だけでなく、目に見えない天使や悪魔などの霊的存在も信じていませんでした。加えて人間の運命は神によって完全に決定されているという考えには立たず、人間が自由に自分の道を、人生を決定できる、自由意思を重んじていました。つまり、彼らは神の主権や計画なども信じていなかったわけです。この世における自分の利益だけに興味があるようなサドカイ派の人々が、イエスに論争を挑んで来た、それが本日聖書の箇所です。サドカイ派の人々の質問は、「七人の兄弟がいて、長男は結婚したが死に、子がいなかったので、その妻を弟に残した。そして、次男も三男も、そして七人までもが彼女を妻にした。そして最後にその妻も死んだ。もし復活があるとすれば、彼女は七人のうちのだれの妻になるのか。」というものでした。 これは「レビラート婚(レビレート)婚」と言われるものです。子孫を絶やさないようにすることで家系を守り、またその家系の財産の維持や、遺された妻や子どもの生活保障などが目的でした。世界の国々にある制度のようです。旧約聖書、申命記25章にこの規定が記されています。実例が、イエスの直接の系列となるユダ部族、ユダに見ることができます。創世記38章に記されています。後でご覧下さい。 7人の夫が次々に死んで行く中で、一人の妻をそれぞれがめとる。 理論的にはあり得る話ですが、実際的には到底起こらない話です。イエスはこの質問に対して、ノーを突き付けました。 イエスは彼らに対して24節で「思い違いをしている」、27節においては「大変な思い違いをしている」と、二度にわたって彼らの間違いが致命的であることを指摘しています。 イエスは彼らの間違いを指摘しながら、復活とは本当はどのようなものであるかを、25節から27節で説明されて行きます。先に26節と27節の前半を見たいと思います。死人がよみがえることについては、モーセの書にある柴の箇所で、神がモーセにどう語られたか、あなたがたは読んだことがないのですか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあります。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。イエスは26節でアブラハム、イサク、ヤコブという、神の選びの民であるイスラエル民族における、重要な祖先の名前を挙げられました。彼らは神を信じる信仰者でした。 なぜイエスは彼らの名前を挙げられたのでしょうか。 それは、サドカイ派の人々がモーセ五書のみを信じていたため、そのモーセ五書の中に、死人が甦るということが直接的ではないものの、示されているからです。それがアブラハム、イサク、ヤコブであり、イエスはモーセ五書の第二巻、出エジプト記の3章6節を引用されました。 『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』この箇所は、エジプトで奴隷とされていたイスラエル民族が神に助けを叫び求めた時、主なる神が燃える柴の中からモーセに現れた時の場面です。神はモーセを選び、イスラエルをエジプトから脱出させる器として、またリーダーとして選ばれました。この時神は、アブラハム、イサク、ヤコブの名前を挙げながら、ご自分を現わされました。すなわち神は、モーセから見れば400年~500年前に生きていたアブラハム、イサク、ヤコブと今なお契約関係にあることを示されています。その契約とは、神を信じる者が義とされ、すなわち神の前に正しい者と認められ、神の祝福を受け継ぐ者となるというものでした。つまり神はモーセに対して、彼らを導いた神は、あなたの神でもあるのだと、モーセに語られているということです。「アブラハム、イサク、ヤコブを導いた神である私は、あなたにとっても同じ神だ。この同じ神があなたを遣わし、共にいるのだから、あなたはイスラエルをエジプトから脱出させることができる!大丈夫だ!」神はご自身を宣言されると共に、モーセを励ましている箇所でもあります。 イエスはこの箇所を引用された時に、27節の前半において、神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。と語られました。つまり、イスラエルの祖先であるアブラハム、イサク、ヤコブは、今も神の前に生きているということです。彼らが今も生きているということを踏まえて、25節にある、「死人の中からよみがえるときには」と言われたイエスのことばを考えてみたいと思います。 アブラハム、イサク、ヤコブのように、神の前に生きていることと、よみがえるということは、異なるということです。私たちのいのちが終わる時、肉体の機能は停止し、肉体はその形も機能も維持することはできません。そして崩壊、すなわち腐り、最終的には神が聖書で語られているように、最初に取られた土に返ります。人間の組織が土の成分と殆ど同じだと言うことは、以前お話したことがあります。 この肉体の死と崩壊という現実は、アブラハムにもイサクにもヤコブにも当てはまりました。彼らも普通の人間だったからです。 ですから彼らが死んだ時も、肉体は滅んでしまいました。しかしイエスは彼らが今も生きていると語られています。つまり彼らが神の前に生きているというのは、肉体ではなく、霊魂であると言えるでしょう。人間が霊、肉体、魂からできていると聖書に記されている通りです。死んでしまっても、神を信じる信仰者であれば、霊魂の状態で神の前に生きている。 旧約聖書に登場する人々の時代は、イエスはまだ受肉していませんでしたが、三位一体の神-父なる神、子なるキリスト、聖霊なる神は一つの神です。ですから主なる神を信じていた旧約時代の信仰者は、すなわちイエス・キリストを神として信じ、イエスの前に生きているということでもあります。この現実を踏まえて25節を見たいと思います。この箇所は今回のサドカイ人の質問に対してのイエスの答えです。死人の中からよみがえるときには、人はめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです。 「死人の中からよみがえるとき」とは、イエスがこの世に、この世界に再び戻って来られる再臨の時に、イエスを信じて死んだ者たちがよみがえる時を意味します。 新約聖書、コリント人への手紙の第一、15章には、イエスが再臨された時に、イエスを信じて亡くなった信仰者に与えられる甦りと、甦った者に与えられる復活の体について記されています。また彼ら信仰者は、つまり私たち信仰者は、将来復活した時、「天の御使いたちのよう」とあるように、男と女という性別も無くなると考えられています。つまり、この世における結婚の制度-男と女が結びつくといった関係が、私たちが召された後はもはやない、ということになります。またユダヤ人とユダヤ人以外の民族である、異邦人といった民族の違いも、将来一つになると聖書に記されています。 ところで皆さんは、「復活においては、めとることも嫁ぐこともない」イエスが言われたこのことばをどのように受け止められるでしょうか。ある人にとっては、このことばはとても寂しいことだと思われかもしれません。そのように思う人は幸せな夫婦関係に生きていた、また生きていると言えるでしょう。しかしある人にとっては逆に、このことばは大いなる解放の知らせかもしれません。この世では我慢しているが、復活してまであの人と一緒なのはごめんこうむる!感謝です!と思う人もいるかもしれません。また独身の人や、離婚、再婚などを経験した人々にとっては、このイエスのことばをどのように捉えたら良いのかと、戸惑う人もいるかもしれません。しかしこれら全ての反応は、死者からの復活を、この世の人生の延長上に見ているから起こる反応だと思います。そこで、イエスが言われる復活について、私たちが正しく理解するための大切なポイントが、先ほども触れましたが、イエスが25節の後半で語られた、「天の御使いたちのようです」にあると思います。もう一度この25節をお読みします。死人の中からよみがえるときには、人はめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです。天の御使い、すなわち天使ですが、天使のようになるとは、何か白い衣を着て背中に翼のある者になるということではありません。 原語のギリシャ語を見ると「天にいる御使い」となっています。「天にいる」、ということが大切です。天にいるとは、神のみ手の内に置かれている、神と共に存在しているということです。今私たちは朽ちて行く肉体を纏い、罪と死とサタンが支配しているこの世、この世界に生きていますが、イエスを信じる信仰者が復活する時、全てが変わるということです。 御使いが神の御手にあるように、復活した私たちが神の御手の中にあり、神が共にいて下さるという神の守りを、神の恵みを、神の平安を、神の愛を、もっとはっきりと、知る者にされるということです。経験できる者にされるということです。 そのような祝福が復活にあるとすれば、今のこの世における私たちの人間関係がいかに歪んでいても、時に壊れていても、復活の時に神のみ手の内に置かれることによって、新しく完成されるということではないでしょうか。ですから、今この人生において良い夫婦関係を与えられている人は、復活において、今以上の完成された関係が与えられるでしょう。また、今この人生においては夫婦の間に問題があり、復活してまで一緒にいたくないと思っている人には、そのような問題や罪が全て解決され、解消された新しい関係が与えられるでしょう。それはもちろん、二人ともイエスを信じていなければなりませんが。 また、この世の人生においては結婚しなかったり、離婚を経験したり、複数の人と結婚した人においても、それらのことを越えた新しい、祝福された関係が与えられるでしょう。 いずれの場合も、この世における関係が復活において継続するのでなく、完成するということです。そしてこの完成は、夫婦の関係だけの話で終わりません。家族、友人、知人から、この世において知り合うことができた、全てイエスを信じた人々、また信じている人々との人間関係に及ぶものです。私たちはこの世の人生において様々な人間関係の中に生きています。恵まれた、喜ばしい関係もあれば、顔も見たくない、という問題に満ちた関係もあります。それらの関係や問題が、復活して神のみ手の内に置かれることによって、全て解決されます。それは、人間関係を悪くしてしまっている、元々の原因である罪が、イエスを信じることによってすでに解決されているからです。 復活というのはこのように、様々な罪や弱さを抱えてこの世の人生を歩んでいる私たちが、神の恵みの力によって新しくされ、御手の内に、御手の中に置かれ、この世においてはどうしようもなくまとわり着く罪が拭い去られ、一切の苦しみや悲しみから解放されて、新しく生かされるということです。それが神の力であり、恵みです。この神の約束は必ず成就、実現します。 私たちはイエスを信じていますから、将来必ず復活します。しかし今はまだ肉体という限界があり、神の御手の内には直接的にはいない私たちにとっては、復活を信じて日々待ち望み、また期待して過ごして行くことが大切ではないでしょうか。そのように歩みが、私たちの信仰であると言えます。 そしてその私たちの信仰と復活の保証がイエス・キリストです。 私たちの復活の先駆けとして、また私たちが将来復活して新しい体が与えられる、その保証として、死人の中から最初に復活されたのが、私たちの主、イエス・キリストです。肉体の死がイエスを一時捕えましたが、生きている者の神である主なる神が、その死を打ち破り、永遠の命を生きることができる、新しい体をイエスに与えて下さいました。そしてイエスを信じる者は全て、イエスの復活に与る者となります。イエスを信じる者が受けるバプテスマ、洗礼は、私たちがイエスと合わされている、一つであるということを表しているものですが、それは復活も同じです。イエスを信じた人は全て、イエスが死から復活されて今も生きておられるように、私たちも将来復活して、御国を受け継ぐ世継ぎとして神の御手に置かれ、私たちは神と共にあり、神の恵みと平安を、永遠に持ち続ける者とされます。私たちが将来必ず与えられる復活と、将来必ず与えられる復活の体を期待し、また同時に、先にイエスを信じて天に召された人々との再会を待ち望みたいと思います。 復活され、今も生きておられるイエスと共に、これからも歩んで行きたいと願います。最後に、イエスが群衆に語られたことば、ヨハネの福音書6:40節のことばをもって、本日のみ言葉の取り次ぎを終わりたいと思います。ヨハネの福音書6:40節 わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです。」
祈ります 「生きている者の神」 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。あなたがたは大変な思い違いをしています。

ゴスペルカフェ可児 2026/6/5(金)

2026年6月5日㈮、ゴスペルカフェ可児 第8回が開催されました。

ゲストはピアノの三戸 香さん、トム兼松さんをお迎え。

“酒とバラの日々”“川の流れのように”“鈴懸の径”など馴染みのある曲のセッションを楽しんでいただきました。。

2026/5/31日「HERE IS LOVE ここに愛がある」Ⅰヨハネ4:7~11 アーサー・ホーランド師

「HERE IS LOVE ここに愛がある」

ゴスペル特別礼拝

2026年5月31日(日) 10:30~ 

聖書:ヨハネの手紙第一 4章7~11節

メッセンジャー:
 アーサー ホーランド師

ミュージックゲスト:
 ラニー ラッカー
 兼松 弘子
 米田 香
 Hope Hill Gospel Choir

ゴスペルカフェ可児 2026/5/15(金)

2026年5月15日㈮、ゴスペルカフェ可児 第7回が開催されました。

松浦千華さん(sax,kb)とトム兼松さん(gt)のコラボ。

今回はタイから旅行中の女性2人が立ち寄ってくださって、記念撮影もありました。

良い思い出となり、いつの日か来日した時に立ち寄ってくださることを願います。

ゴスペルカフェは、岐阜県可児市禅台寺にあるカフェ「樹の萌」さんで、

毎月 第1金曜日に開催を予定しています(今回は連休、お店の都合などで第3でした)。

参加費はワンドリンクのご注文で大丈夫です。気軽にお立ちよりください。

次回は6月5日㈮を予定しています。