ゴスペルカフェ可児 2026/7/3(金)

2026年7月3日に開催されたゴスペルカフェ可児の様子です。

小林伸司さん(Cb.)とトム兼松さん(Gt.)のコラボでした。

開場は教会近くのアトリエ・カフェ「樹の萌」です。

お越しくださった皆さま、ありがとうございました。

2026/6/21(日)「神の国へのステップ」マルコ12:28~34 庄司牧師

2026年6月21日 マルコの福音書12:28~34「神の国へのステップ」
律法学者の一人が来て、彼らが議論するのを聞いていたが、イエスが見事に答えられたのを見て、イエスに尋ねた。「すべての中で、どれが第一の戒めですか。」イエスは答えられた。「第一の戒めはこれです。『聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』第二の戒めはこれです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。』これらよりも重要な命令は、ほかにありません。」律法学者はイエスに言った。「先生、そのとおりです。主は唯一であって、そのほかに主はいない、とあなたが言われたことは、まさにそのとおりです。そして、心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛すること、また、隣人を自分自身のように愛することは、どんな全焼のささげ物やいけにえよりもはるかにすぐれています。」イエスは、彼が賢く答えたのを見て言われた。「あなたは神の国から遠くない。」それから後は、だれもイエスにあえて尋ねる者はいなかった。
本日もまた、律法学者が登場します。しかしイエスに敵対してきた今までの律法学者とは、違うようです。それは彼がイエスから、「あなたは神の国から遠くない」と言われたことからも分かります。しかしこの律法学者は賢く答えたにもかかわらず、イエスから、「あなたは神の国に入ることができる!」とは言われませんでした。なぜでしょうか。神の国に入れることと、神を愛し、隣人を愛することとが、どのような関りがあるのでしょうか。共に見て行きたいと思います。
冒頭にはこのように記されています。律法学者の一人が来て、彼らが議論するのを聞いていたが、イエスが見事に答えられたのを見て、イエスに尋ねた。
「彼らの議論」とは、18節以下、イエスとサドカイ派の人々の復活をめぐる議論です。前回共に見て来ました。この当時、復活をめぐってパリサイ派とサドカイ派が対立していました。サドカイ派は、「復活はない」と言っていたのに対して、パリサイ派は復活を信じていました。そのような中で、イエスが聖書に基づいてはっきりと死者の復活をサドカイ派の人々に語られ、イエスが自分たちと同じことを教えているという親近感を、彼は抱いたようです。 律法学者は、律法、神の教えであり戒めを研究し、自分自身がそれを守るだけでなく、一般の人々に、律法を守って生活するためのアドバイスをしていました。六百以上の戒めを大切なものとしていたことから、膨大な律法をどのように解釈し、またどのように人々に教えるかということをいつも考えていました。そこで彼は、好意を抱いたイエスから、律法で一番大切なことを尋ねることにしました。彼の真面目で真剣な問いに対して、イエスも誠実に、そしてはっきりとお答えになります。29、30節です。
イエスは答えられた。「第一の戒めはこれです。『聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』イエスは旧約聖書、申命記第6章4、5節からの引用をもって、律法の第一としました。ユダヤの人々はこの教えを大切にし、毎日唱えていたものです。 この第一の教え、戒めは、一言で言えば「神を愛しなさい」ということです。神を愛することこそが、あらゆる律法の要、神の民としての生活の中心だとイエスは言われている。 ところで「主を愛しなさい」と命令形で訳されています。原語であるヘブル語では完了形で記されています。ヘブル語では未来に確実にそうなることは、~した、~するようになると、完了形で表します。つまり申命記の6:5節は、「あなたは愛するようになる」と訳すことができるものです。その引用ですから、本日の箇所の12:30節の直訳は「あなたはあなたの心の全てをもって、あなたの精神の全てをもって、あなたの思いの全てをもって、あなたの力の全てをもって、神を愛するだろう。」と訳すことができるものです。
イスラエル民族は神に特別に選ばれている民族であり、神の栄光、素晴らしさを他の民族、部族に伝えていく使命、役割を担っていました。それにも関わらず彼らは神への信仰・不信仰、従順、不従順を繰り返して来ました。しかしその都度預言者などが神から遣わされ、神に立ち返るよう、促されて来ました。旧約聖書にその歩みが描写されています。そのような彼らを神は見捨てることはありませんでした。従ってイスラエルに対する主なる神の深い愛、忍耐、慈しみと恵みを彼らが覚える時、もはや彼らは義務や命令から神を努力して愛していくのはなく、喜んで、感謝を持って自発的に神を愛していくようになる。愛していくはずだ。そのような主なる神の思い、彼らに対する期待が伝わって来ます。 そしてこの神のイスラエル民族に対する愛、忍耐、そして期待は、同じように今を生きる私たちも含め、全ての人類に向けられているものだと思います。
このような神の愛、忍耐、期待や思い、願いが、イエスが言われたもう一つの大切な戒めにも表されています。それが、「隣人を自分のように愛しなさい」です。イエスは旧約聖書、レビ記第19章18節を引用されています。ここには「自分を愛するように隣人を愛しなさい」と記されています。神を愛することと、隣人を愛すること。この二つが分かち難く結び合って、律法の中心をなしているということです。そしてこの第二の戒めも、第一の戒めと同様に、命令形だけでなく、未来形で訳すことが出来る箇所です。「あなたは、あなたの隣人をあなた自身として愛するであろう(愛するようになる。)」この第二の戒めはまた、イエスが言われた第一の戒めである、人間が大切にしなければならない第一の律法である、「神を心から愛するということ」の、コインの表裏のようです。つまり神を心から愛する者は、自分と自分の隣人を愛する者になるということであり、自分と自分の隣人を心から愛する者は、神を心から愛する者になるということです。
イエスは律法学者に「あなたは神の国から遠くない。」と言われました。神の国はあなたの近くにある、あなたはいい線まで来ている、しかしまだそこに到達してはいない、とおっしゃったのです。正直であり、誠実な彼がなお神の国に入ることができないでいる原因は何なのでしょうか。
この律法学者は、「先生、その通りです」と言って、イエスが語られたことを称賛し、同意し、また共感しました。しかし神の国に入ることができるとイエスに言われなかったことから、彼には神への、すなわちイエスへの信仰が無かったことが分かります。つまり彼は自分の力で神を愛し、また隣人を愛していくことができると思っていた、そしてそのように生きていた、ということです。
彼は律法を学ぶことや、人々に律法を教えることに熱心だったかもしれませんが、その中心には最も大切な神がいませんでした。では、私たちはどうでしょうか。
心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、神を愛しているでしょうか。旧約聖書、伝道者の書7章には、「順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ」ということばがあります。順境、すなわち順風満帆の時は、人は言われなくても喜びます。しかし逆境、試練や苦難が来ると、私たちはその試練や苦難を通して自分のあり方を吟味したり、成長の機会と捉え感謝するよりも、時に神に責任転嫁、神のせいにしてしまうことがないでしょうか。なぜ神はこのような痛みの経験を許可されたのか、許されたのか?失望したり、怒ったことが、そして現在、怒っていることがないでしょうか。また私たちは、隣人を真実に愛しているでしょうか。イエスが、好きな人だけ愛しなさい、と言っておられないことは明白です。自分に敵対し、迫害する者のために祈りなさい、と言われるのがイエスです。つまり赦せない人を赦し、愛せない人を愛する、これが、イエスが言われる隣人を愛する、ということです。また、自分を愛するよう隣人を愛しなさい、ともイエスは言われました。私たちは時に自分自身を受け入れることが出来なかったり、愛することができないことがあります。自分の過去の過ち、自分で自分のことが自制できない弱さ、悪いことの方に傾く罪深さ、などを通して自分に嫌悪することがあるからです。そのような私たちにイエスは、一人一人が自分自身も受け入れ、赦し、愛するようにと言われています。しかし私たちはそのように人を赦し、自分を赦すという生き方をして来たでしょうか。またしているでしょうか?私自身を見る時、心から神を愛すること、心から自分を愛すること、そして心から隣人を愛すること、できていない、とよく思わされます。神が、イエスが求めておられることからどれだけ自分が離れているか、日常生活の中でも思い知らされます。そして自分の努力によっていくら頑張っても、神の規準に到達することが出来ないと、認めざるを得ません。最近息子にこのように言われました。「パパ、この頃ブチ切れなくなったね!-言ってくれるな~と感心しました。」この時ただ笑うしかありませんでしたが、子どもを叱るというより、感情的に怒ってしまいます。しかも何度も繰り返してしまう。(そして、これを購入しました。掲げる)日々の生活を通して、自分の愛のなさ、忍耐のなさを認めます。もちろん私の弱さは子育てだけに限りません。しかしそのような欠けや弱さのある自分に気づき、時に気付かされ、愕然とする。それは良いことかもしれません。
先週、神が人間に示された人間が生きる上でのルール、神の教え・戒めである十戒を始めとした律法の規準の高さ、厳しさに達することができないと心砕かれる者は、イエスの方に向かうとお話しました。 律法は、私たちをキリストに導く養育係になるというお話でした。律法に示されている神の規準の高さに触れる時、またイエスが言われ、実際に人々に対する愛の言動、その行いを聖書から知る時、自分には心から神を愛することも、また心から自分を愛することも、そして心から隣人を愛することはできない。自分に絶望するしかないのではないでしょうか。しかし私は、自分に絶望することは素晴らしいと思っています。そうでなければ、この律法学者のように、知識や知恵があり、正直に、また誠実に生きていたとしても、イエスから、「あなたは神の国に入ることができる。」、とは言われないし、実際入ることはできないからです。すなわちそれは、イエスとの愛の関係を築くことができないことを意味します。 イエスは公に福音を宣べ伝え始められた時、このように宣言されました。「神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」今年もこの神の国について見ています。神の国が近づいたとは、神の国が到来したと訳せることばです。到来ですから、イエスを通して神の国、すなわち神であるイエスが統治される国が、私たち人類の近くまで来た訳ですが、その神の国に誰でも入ることができる訳ではありません。神の国に入るには明確な条件があることを、イエスは言われました。それは、「悔い改める」ことでした。人生の、また自分の生き方、あり方の方向転換です。そしてその向かう先は、救い主、イエス・キリストです。イエスに信頼を置き、イエスを信じて歩む生き方への変換です。そして私たちの主、私たちの人生のあるじになって下さるイエスは、私たちが信頼を置き、頼ることができるに十分な方、また相応しいお方です。なぜなら律法を二つにまとめられたイエスご自身が、その律法を完全に守られたからです。律法に生き、律法を完成させたお方です。
そしてそれは、十字架に表されています。父なる神が罪ある人間を救うために、御子イエス・キリストを十字架にかけて殺す。イエスが全人類の罪を全て背負われて死ぬ。身代わりの死を通して人類を救うという父なる神のご計画に、イエスは完全に従われました。-なぜでしょうか?-それは父なる神を愛し、大切にされ、第一とされたからです。ではなぜイエスは、神を無視し、神に敵対しながら滅びに向かっている私たち人間の全ての罪を、ご自分で全て背負われて、十字架につかれたのでしょうか?-それは私たち一人一人の人間を心から愛しておられるからです。
神の規準を全て、完全に満たし、また私たち人間を心から愛しておられるイエスが、一方誠実ではありますが、自分中心に、また自分の努力で、神を抜きにして生きているような律法学者に対して、「あなたは神の国から遠くない」と言われた、いや、おっしゃって下さいました。彼は神から離れ、自分の力で生きていたような人がしたが、彼の正直さ、誠実さをイエスは認めて下さっていた。
その上でイエスはこのように彼を招いておられると思います。「あなたは神の国から遠くない。あなたに後必要なのは、そして絶対に必要なのは私だ。私に信頼を置き、私を信じて歩みなさい。そうすればあなたは神の国に入ることができる!」「あなたは神の国から遠くない」と言われたのは、この律法学者をご自分お下に招いておられる、そのように私は思っています。そしてこの招きは、全ての人類に、今を生きる私たち一人一人にも向けられている。そのように信じています。
本日はこの神から、すなわちイエスからの招きを、招詞として、礼拝の冒頭で読んで頂きました。
ローマ人への手紙10:17節です。前の訳ではこのように記されています。「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」神を愛することも、自分を愛することも、隣人を愛することもままならない私たち人間ですが、イエスは私たちの罪深さを知り、弱さに同情され、助けて欲しいと願い、求める者には必ず応えて下さるお方です。そしてそのイエスとの愛のある関係に導かれるのに必要なことが、イエスへの信仰です。そしてそれは、イエスのことば、聖書のことばを聞くことから始まります。
イエスの愛の招きに応答し、イエスを信じた者全ては、イエスが統治される神の国に入ることができます。そこはイエスとの愛の交わりが永遠に続く場所です。そしてイエスとの愛の交わりが完成する時は、聖書に何度も何度も記され、預言されている再臨、イエスが再びこの世界に戻って来られる時です。その時私たちは、神を心から愛し、自分を心から愛し、隣人を心から愛するものに造り変えられます。その完成に向かって私たちは日々自分の弱さや欠点、罪深く、愛の足りない者であることを聖書のみ言葉から教えられ、イエスがなされた愛の言動から思い知らされていきます。しかしそれは、イエスへと向かう大きな原動力となること、素晴らしいことです。 神の前に、イエスの前に自分を飾らず、弱さを隠さず、「私は愛が足りません。あなたの助けが必要です。あなたの愛で私を満たして下さい。そして神を愛し、自分を愛し、隣人を愛する者にして下さい。」そのようにイエスに向かう者を、イエスは決して見放すことも、また見捨てられることもありません。その根拠が十字架です。十字架に架かるほど私たち人間を、そして「私を」愛して下さっている証拠ですから。 このイエスの愛に触れられながら、時に慰められ、励まされながら、心から神を、心かから自分を、そして心から隣人を愛していくことができますように。
祈ります。「神の国へのステップ」
イエスは、彼が賢く答えたのを見て言われた。「あなたは神の国から遠くない。」それから後は、だれもイエスにあえて尋ねる者はいなかった。

2026/6/14(日)「神はいくつの戒めを私たちに与えられましたか?」出エジプト34:28 庄司牧師

2026年6月14日 出エジプト記34:28「神はいくつの戒めを私たちに与えられましたか?」
問41 神さまはシナイ山でいくつの戒めを私たちに与えてくださいましたか?
答 十の戒めです。それは「モーセの十戒」と呼ばれています。
モーセはそこに四十日四十夜、主とともにいた。彼はパンも食べず、水も飲まなかった。そして、石の板に契約のことば、十のことばを書き記した。 (出エジプト記 34:28 SKY17)
招詞 こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認められるためです。 (ガラテヤ人への手紙 3:24 SKY17)
月の第二日曜日ですので、いつものように子ども信仰問答からお話をしていきます。
本日は、旧約聖書、出エジプト記の中に記されている箇所です。ここに登場する民族は、イスラエル民族であり、神に特別に選ばれた民ですが、彼らイスラエルがエジプトで奴隷とされているところから、出エジプト記の話が展開していきます。奴隷という身分と苛酷な労働を彼らは憂い、泣き、叫び、神に助けを求めました。神は彼らの涙に応え、モーセをエジプトからの解放者として遣わします。モーセは神から授かった力によって様々な奇蹟を行い、彼らをエジプトから脱出させます。神はその後、イスラエルの人々をご自分の特別な民として契約を結ばれました。その契約の中身が十戒です。十戒は神が彼らに与えられた教え、戒めである律法の中心となる大切な戒めです。
神は、イスラエル民族を通して全人類を祝福する計画をお立てになりました。 全人類ですから、日本人もイスラエル民族と関係があることが分かります。もちろんモーセの十戒も同じです。この十戒は別の言い方をすれば、人間が生きる上での「ルール」、「規則やきまり」です。
もし人間の世界に「ルール」がなかったらどうなるでしょうか。 昔流行ったアニメ、「北斗の拳」の世界になるということです。地域や社会、国など、私たちの生活の舞台が、力や自己中心的な行動が優先される「無法地帯」になるということです。盗んだり、盗まれたり。暴力を振るったり、振るわれたり。殺したり殺されたり。その全てがOKになる恐ろしい世界です。(現在も)
神はそのような世界になることを望んでおられません。そこで人間が秩序や公正を保つためにルールを設けられた。そのルールの具体的な教え、戒めが十戒だと言えます。 その内容は大きく二つに分けられます。人間が神に対して行うべき4つのルールと、人間が人間に対して行うべき6つのルールです。神に対しての4つのルールとは、人間は、聖書の神である、唯一まことの神を信じること。偶像を造って拝んではならない。神の名をみだりに唱えてはならない。安息日(休息の日)を守ること。これら4つが、人間が神に対して行うべきルールです。
一方人間が人間に行うべきルールが、父母を敬うこと。殺してはならない。姦淫してはならない。この姦淫ですが、ある訳には、配偶者以外と性行為をしない。と訳されています。盗んではならない。偽証をしてはならない。隣人の妻や財産を欲してはならない。という6つの教え、戒めとなっています。
しかし人間がこの十戒を知らない時、すなわち神が願っていることを知らない時、どのような歩みになるでしょうか。それはイスラエルを奴隷としていたエジプトの人々を見ると分かります。
エジプトの人々は動物や太陽などの天体を拝み、王であるパロは自分を神であると自称していました。これはさきほど十戒の中で神を神としなさい、偶像を造って拝んではならない、この二つの戒めを破っていることが分かります。権力を持つ者が神となり、また他の人々も神以外のものを拝んでいる。このような姿は、現代を生きている日本人も含め、多くの国々で今もなお、行われています。エジプトの姿と、日本を含めた私たちの世界とは全く変わりがないことが分かります。
ある姉妹からこのようなお話を聞きました。その姉妹の友達で、ある宗教を信じていた人がいたそうです。早起きを含めた修行、また善行を積むなどをモットーとしていた宗教だと思いますが、自分がした様々な良いことなどを発表する場があったそうです。そこでは参加者が、「私はこのような良いことをした。」「私はこのような素晴らしいことをした。」などと言って、自分のした良いことをアピールというか、自慢する場であったということです。結局その人は、「自分にはそのような良い行いはできない」と感じ、その宗教から遠ざかったということでした。
また新約聖書、コロサイ人の手紙の2章の中には、好き勝手な礼拝、自己卑下、肉体の苦行などを通して神を知り、神に近づこうとする人間の姿が描写されています。また別の聖書箇所には、禁欲的な生活によって、神を知ろうとする、神に近づこうとする人々の存在が描写されている。
逆に、死んだら終わりだからただ今を楽しもうと、神を信ぜず欲望のままに生きる生き方をする人々の存在なども、聖書に書き記されています。そのような人間の姿を、新約聖書を約半分書き記したパウロは、「自己満足」であるとしました。自己満足的に、そして自己流に自分の良いと思うことを通して神を礼拝する、神に受け入れてもらおうと努力する。彼らがそのような振る舞いをする一つの原因に、律法、神のルールを知らないということが挙げられます。しかし私たち人間は例え神の教え、戒めである律法を知っていたとしても、誰一人として律法を完全に守ることによって神を満足させることができる人は、誰もいません。それほど神の規準は人間の規準よりも遥かに高く、また厳しいからです。ではなぜ、神は人間が守ることができないルールである十戒、律法を、モーセを通してイスラエル民族に与えられたのでしょうか?
先程紹介したコロサイ人の手紙の著者であるパウロは、ローマ人への手紙7:7節で、人間には完全に守ることができない律法の効果、働きをこのように具体的に挙げています。
ローマ人への手紙7:7 それでは、どのように言うべきでしょうか。律法は罪なのでしょうか。決してそんなことはありません。むしろ、律法によらなければ、私は罪を知ることはなかったでしょう。実際、律法が「隣人のものを欲してはならない」と言わなければ、私は欲望を知らなかったでしょう。前の訳である新改訳第三版ではこのように訳されていました。律法が、「むさぼってはならない」と言われなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。
子どもが親に、「あれ欲しい。みんな持ってるもん。」というセリフを皆さんも聞いたことがあると思います。しかしそれは子どもだけではありません。あれも欲しい。これも欲しい。他の人の持っているもの、全て欲しい。いやそれ以上に欲しい。私たち人間の欲望は限りがありません。
しかし例えそれを手に入れたとしても、もっとたくさんのもの、もっと面白い物、もっと刺激的なもの、もっと欲しい。もっともっともっと。これが人間のむさぼりです。そしてこのような個人的なむさぼりから争いが生じ、国同士のむさぼりからの争いは、戦争にまで発展します。
パウロは人間の持つむさぼり、もっともっと欲しいという欲望は、律法がなければ分からなかった。律法がなければ、神の教え、戒め、ルールが示されなければ、自分も含め、人間は自分にそのような欲望があることすら分からないだろうと、ここで述べている訳です。そしてパウロはこのむさぼりの原因を罪だとしています。何度もお話して来ましたが、罪とは神から離れていることです。人間が愛と義である神を無視し、時に敵対し、離れてしまっている。神の愛から離れているので、人は自分や家族、友人など、自分に関わる者だけを愛する性質を持つようになりました。そして義である神から離れていることによって、自分の規準が絶対正しいと信じ行動することによって、他の規準を持つ人々とぶつかり、争い、時に人殺しまで発展してしまう。それが罪ある人間の姿です。
著者のパウロは自分の罪と戦った人です。そして最終的にこのような結論に至りました。同じローマ人への手紙の7章です。「私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています。」「私は本当にみじめな人間です。」パウロは罪と戦い、自分の力では打ち勝つことができないことを告白しています。しかしパウロは罪との戦いの中で、神の大きな恵みに気付くことができました。それはパウロが書いた別の手紙であるガラテヤ人への手紙に記されています。礼拝の冒頭で、神から礼拝への招きのことば、招詞で読んで頂いた、ガラテヤ人への手紙3:24節です。
こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認められるためです。律法によって神の思い、また完全さを教えられ、その神の完全な規準を満たすことが出来ないと悟った者は、キリストに向かうことになる。律法によって罪を教えられた人は、律法がその人をイエス・キリストへと導く養育係になるとパウロは語ります。そして子どもは成人すれば養育係が必要なくなるのと同じように、イエスがこの世界に救いをもたらすために来て下さったことにより、律法は必要がなくなったということです。 そしてパウロは続けます。
ガラテヤ人への手紙3:25 しかし、信仰が現れたので、私たちはもはや養育係の下にはいません。
3:26 あなたがたはみな、信仰により、キリストイエスにあって神の子どもです。
神の子どもになる条件とは、罪の解決がなされている人です。つまり神から離れているという罪が赦され、神との関係が回復した人々だけが、神の子となることができます。それが聖書の約束です。そのために私たち人間に必要なことが、イエスに信頼を寄せる、イエスを信じて歩む信仰です。こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認められるためです。イエスへの信仰によって、イエスの信仰のみによって私たち人間は神の前に義と認められる。神の前に正しい者と認められることができる。
神は、古い約束である旧約聖書にある十戒、律法を通して私たちに神の御心を示され、それを守ることができない私たち人間の為に、すなわち罪を解決できない私たち人間の代わりに、愛する一人子、イエス・キリストを、私たちの罪の身代わりとして十字架につけられました。
イエスを信じる者は、イエスの贖いによって神の子とされることができるという、新しい約束、新約聖書に記されている神の約束に私たちが生かされていることを感謝しつつ、今週も共にイエスを見上げて歩みたいと願っています。
祈ります。
「神はいくつの戒めを私たちに与えられましたか?」
答 十の戒めです。それは「モーセの十戒」と呼ばれています。
モーセはそこに四十日四十夜、主とともにいた。彼はパンも食べず、水も飲まなかった。そして、石の板に契約のことば、十のことばを書き記した。
こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認められるためです。

2026/6/7(日)「生きている者の神」マルコ12:18~27 庄司牧師

2026年6月7日 マルコの福音書12:18~27「生きている者の神」
また、復活はないと言っているサドカイ人たちが、イエスのところに来て質問した。「先生、モーセは私たちのためにこう書いています。『もし、ある人の兄が死んで妻を後に残し、子を残さなかった場合、その弟が兄嫁を妻にして、兄のために子孫を起こさなければならない。』さて、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、死んで子孫を残しませんでした。次男が兄嫁を妻にしましたが、やはり死んで子孫を残しませんでした。三男も同様でした。こうして、七人とも子孫を残しませんでした。最後に、その妻も死にました。復活の際、彼らがよみがえるとき、彼女は彼らのうちのだれの妻になるのでしょうか。七人とも彼女を妻にしたのですが。」イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、聖書も神の力も知らないので、そのために思い違いをしているのではありませんか。死人の中からよみがえるときには、人はめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです。死人がよみがえることについては、モーセの書にある柴の箇所で、神がモーセにどう語られたか、あなたがたは読んだことがないのですか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあります。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。あなたがたは大変な思い違いをしています。」 (マルコの福音書 12:18-27 SKY17)
人類の罪の身代わりのため、イエスは十字架への歩みを進めている-その最後の1週間を共に見ています。11章から最後の16章まで続きます。 再び、イエスの下へ刺客が送られて来ました。それがパリサイ派と並ぶ党派であるサドカイ派の人々でした。当時のサドカイ派の人々は祭司長、および長老たちからなる富裕層の指導者たちです。彼らは現実主義的な保守派で、支配体制の現状維持を何よりも望んでいました。つまり彼らは前回見たヘロデ派のように、ローマ帝国と関係を保つことによって、自分たちの支配と利益を優先しているようなグループでした。 彼らはモーセ五書、すなわち旧約聖書の最初の五つの書物、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記のみを聖書と見なし、信仰の規範としていました。モーセが書いたと言い伝えられており、「モーセ五書」と呼ばれているものです。十戒を中心とする律法がそこに記され、聖書の中でもとても大切な部分です。 この5つの書物には、死んだ者が復活するということは直接的には書かれていません。それゆえサドカイ派の人々は、死者の復活はないと断言していた。また彼らサドカイ派の人々は、祭司として神殿で仕えるような立場にありましたが、復活だけでなく、目に見えない天使や悪魔などの霊的存在も信じていませんでした。加えて人間の運命は神によって完全に決定されているという考えには立たず、人間が自由に自分の道を、人生を決定できる、自由意思を重んじていました。つまり、彼らは神の主権や計画なども信じていなかったわけです。この世における自分の利益だけに興味があるようなサドカイ派の人々が、イエスに論争を挑んで来た、それが本日聖書の箇所です。サドカイ派の人々の質問は、「七人の兄弟がいて、長男は結婚したが死に、子がいなかったので、その妻を弟に残した。そして、次男も三男も、そして七人までもが彼女を妻にした。そして最後にその妻も死んだ。もし復活があるとすれば、彼女は七人のうちのだれの妻になるのか。」というものでした。 これは「レビラート婚(レビレート)婚」と言われるものです。子孫を絶やさないようにすることで家系を守り、またその家系の財産の維持や、遺された妻や子どもの生活保障などが目的でした。世界の国々にある制度のようです。旧約聖書、申命記25章にこの規定が記されています。実例が、イエスの直接の系列となるユダ部族、ユダに見ることができます。創世記38章に記されています。後でご覧下さい。
7人の夫が次々に死んで行く中で、一人の妻をそれぞれがめとる。 理論的にはあり得る話ですが、実際的には到底起こらない話です。イエスはこの質問に対して、ノーを突き付けました。 イエスは彼らに対して24節で「思い違いをしている」、27節においては「大変な思い違いをしている」と、二度にわたって彼らの間違いが致命的であることを指摘しています。
イエスは彼らの間違いを指摘しながら、復活とは本当はどのようなものであるかを、25節から27節で説明されて行きます。先に26節と27節の前半を見たいと思います。死人がよみがえることについては、モーセの書にある柴の箇所で、神がモーセにどう語られたか、あなたがたは読んだことがないのですか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあります。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。イエスは26節でアブラハム、イサク、ヤコブという、神の選びの民であるイスラエル民族における、重要な祖先の名前を挙げられました。彼らは神を信じる信仰者でした。 なぜイエスは彼らの名前を挙げられたのでしょうか。
それは、サドカイ派の人々がモーセ五書のみを信じていたため、そのモーセ五書の中に、死人が甦るということが直接的ではないものの、示されているからです。それがアブラハム、イサク、ヤコブであり、イエスはモーセ五書の第二巻、出エジプト記の3章6節を引用されました。
『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』この箇所は、エジプトで奴隷とされていたイスラエル民族が神に助けを叫び求めた時、主なる神が燃える柴の中からモーセに現れた時の場面です。神はモーセを選び、イスラエルをエジプトから脱出させる器として、またリーダーとして選ばれました。この時神は、アブラハム、イサク、ヤコブの名前を挙げながら、ご自分を現わされました。すなわち神は、モーセから見れば400年~500年前に生きていたアブラハム、イサク、ヤコブと今なお契約関係にあることを示されています。その契約とは、神を信じる者が義とされ、すなわち神の前に正しい者と認められ、神の祝福を受け継ぐ者となるというものでした。つまり神はモーセに対して、彼らを導いた神は、あなたの神でもあるのだと、モーセに語られているということです。「アブラハム、イサク、ヤコブを導いた神である私は、あなたにとっても同じ神だ。この同じ神があなたを遣わし、共にいるのだから、あなたはイスラエルをエジプトから脱出させることができる!大丈夫だ!」神はご自身を宣言されると共に、モーセを励ましている箇所でもあります。 イエスはこの箇所を引用された時に、27節の前半において、神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。と語られました。つまり、イスラエルの祖先であるアブラハム、イサク、ヤコブは、今も神の前に生きているということです。彼らが今も生きているということを踏まえて、25節にある、「死人の中からよみがえるときには」と言われたイエスのことばを考えてみたいと思います。 アブラハム、イサク、ヤコブのように、神の前に生きていることと、よみがえるということは、異なるということです。私たちのいのちが終わる時、肉体の機能は停止し、肉体はその形も機能も維持することはできません。そして崩壊、すなわち腐り、最終的には神が聖書で語られているように、最初に取られた土に返ります。人間の組織が土の成分と殆ど同じだと言うことは、以前お話したことがあります。 この肉体の死と崩壊という現実は、アブラハムにもイサクにもヤコブにも当てはまりました。彼らも普通の人間だったからです。 ですから彼らが死んだ時も、肉体は滅んでしまいました。しかしイエスは彼らが今も生きていると語られています。つまり彼らが神の前に生きているというのは、肉体ではなく、霊魂であると言えるでしょう。人間が霊、肉体、魂からできていると聖書に記されている通りです。死んでしまっても、神を信じる信仰者であれば、霊魂の状態で神の前に生きている。 旧約聖書に登場する人々の時代は、イエスはまだ受肉していませんでしたが、三位一体の神-父なる神、子なるキリスト、聖霊なる神は一つの神です。ですから主なる神を信じていた旧約時代の信仰者は、すなわちイエス・キリストを神として信じ、イエスの前に生きているということでもあります。この現実を踏まえて25節を見たいと思います。この箇所は今回のサドカイ人の質問に対してのイエスの答えです。死人の中からよみがえるときには、人はめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです。
「死人の中からよみがえるとき」とは、イエスがこの世に、この世界に再び戻って来られる再臨の時に、イエスを信じて死んだ者たちがよみがえる時を意味します。 新約聖書、コリント人への手紙の第一、15章には、イエスが再臨された時に、イエスを信じて亡くなった信仰者に与えられる甦りと、甦った者に与えられる復活の体について記されています。また彼ら信仰者は、つまり私たち信仰者は、将来復活した時、「天の御使いたちのよう」とあるように、男と女という性別も無くなると考えられています。つまり、この世における結婚の制度-男と女が結びつくといった関係が、私たちが召された後はもはやない、ということになります。またユダヤ人とユダヤ人以外の民族である、異邦人といった民族の違いも、将来一つになると聖書に記されています。
ところで皆さんは、「復活においては、めとることも嫁ぐこともない」イエスが言われたこのことばをどのように受け止められるでしょうか。ある人にとっては、このことばはとても寂しいことだと思われかもしれません。そのように思う人は幸せな夫婦関係に生きていた、また生きていると言えるでしょう。しかしある人にとっては逆に、このことばは大いなる解放の知らせかもしれません。この世では我慢しているが、復活してまであの人と一緒なのはごめんこうむる!感謝です!と思う人もいるかもしれません。また独身の人や、離婚、再婚などを経験した人々にとっては、このイエスのことばをどのように捉えたら良いのかと、戸惑う人もいるかもしれません。しかしこれら全ての反応は、死者からの復活を、この世の人生の延長上に見ているから起こる反応だと思います。そこで、イエスが言われる復活について、私たちが正しく理解するための大切なポイントが、先ほども触れましたが、イエスが25節の後半で語られた、「天の御使いたちのようです」にあると思います。もう一度この25節をお読みします。死人の中からよみがえるときには、人はめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです。天の御使い、すなわち天使ですが、天使のようになるとは、何か白い衣を着て背中に翼のある者になるということではありません。 原語のギリシャ語を見ると「天にいる御使い」となっています。「天にいる」、ということが大切です。天にいるとは、神のみ手の内に置かれている、神と共に存在しているということです。今私たちは朽ちて行く肉体を纏い、罪と死とサタンが支配しているこの世、この世界に生きていますが、イエスを信じる信仰者が復活する時、全てが変わるということです。 御使いが神の御手にあるように、復活した私たちが神の御手の中にあり、神が共にいて下さるという神の守りを、神の恵みを、神の平安を、神の愛を、もっとはっきりと、知る者にされるということです。経験できる者にされるということです。
そのような祝福が復活にあるとすれば、今のこの世における私たちの人間関係がいかに歪んでいても、時に壊れていても、復活の時に神のみ手の内に置かれることによって、新しく完成されるということではないでしょうか。ですから、今この人生において良い夫婦関係を与えられている人は、復活において、今以上の完成された関係が与えられるでしょう。また、今この人生においては夫婦の間に問題があり、復活してまで一緒にいたくないと思っている人には、そのような問題や罪が全て解決され、解消された新しい関係が与えられるでしょう。それはもちろん、二人ともイエスを信じていなければなりませんが。 また、この世の人生においては結婚しなかったり、離婚を経験したり、複数の人と結婚した人においても、それらのことを越えた新しい、祝福された関係が与えられるでしょう。 いずれの場合も、この世における関係が復活において継続するのでなく、完成するということです。そしてこの完成は、夫婦の関係だけの話で終わりません。家族、友人、知人から、この世において知り合うことができた、全てイエスを信じた人々、また信じている人々との人間関係に及ぶものです。私たちはこの世の人生において様々な人間関係の中に生きています。恵まれた、喜ばしい関係もあれば、顔も見たくない、という問題に満ちた関係もあります。それらの関係や問題が、復活して神のみ手の内に置かれることによって、全て解決されます。それは、人間関係を悪くしてしまっている、元々の原因である罪が、イエスを信じることによってすでに解決されているからです。
復活というのはこのように、様々な罪や弱さを抱えてこの世の人生を歩んでいる私たちが、神の恵みの力によって新しくされ、御手の内に、御手の中に置かれ、この世においてはどうしようもなくまとわり着く罪が拭い去られ、一切の苦しみや悲しみから解放されて、新しく生かされるということです。それが神の力であり、恵みです。この神の約束は必ず成就、実現します。 私たちはイエスを信じていますから、将来必ず復活します。しかし今はまだ肉体という限界があり、神の御手の内には直接的にはいない私たちにとっては、復活を信じて日々待ち望み、また期待して過ごして行くことが大切ではないでしょうか。そのように歩みが、私たちの信仰であると言えます。
そしてその私たちの信仰と復活の保証がイエス・キリストです。 私たちの復活の先駆けとして、また私たちが将来復活して新しい体が与えられる、その保証として、死人の中から最初に復活されたのが、私たちの主、イエス・キリストです。肉体の死がイエスを一時捕えましたが、生きている者の神である主なる神が、その死を打ち破り、永遠の命を生きることができる、新しい体をイエスに与えて下さいました。そしてイエスを信じる者は全て、イエスの復活に与る者となります。イエスを信じる者が受けるバプテスマ、洗礼は、私たちがイエスと合わされている、一つであるということを表しているものですが、それは復活も同じです。イエスを信じた人は全て、イエスが死から復活されて今も生きておられるように、私たちも将来復活して、御国を受け継ぐ世継ぎとして神の御手に置かれ、私たちは神と共にあり、神の恵みと平安を、永遠に持ち続ける者とされます。私たちが将来必ず与えられる復活と、将来必ず与えられる復活の体を期待し、また同時に、先にイエスを信じて天に召された人々との再会を待ち望みたいと思います。
復活され、今も生きておられるイエスと共に、これからも歩んで行きたいと願います。最後に、イエスが群衆に語られたことば、ヨハネの福音書6:40節のことばをもって、本日のみ言葉の取り次ぎを終わりたいと思います。ヨハネの福音書6:40節 わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです。」
祈ります 「生きている者の神」
神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。あなたがたは大変な思い違いをしています。

ゴスペルカフェ可児 2026/6/5(金)

2026年6月5日㈮、ゴスペルカフェ可児 第8回が開催されました。

ゲストはピアノの三戸 香さん、トム兼松さんをお迎え。

“酒とバラの日々”“川の流れのように”“鈴懸の径”など馴染みのある曲のセッションを楽しんでいただきました。。

2026/5/31日「HERE IS LOVE ここに愛がある」Ⅰヨハネ4:7~11 アーサー・ホーランド師

「HERE IS LOVE ここに愛がある」

ゴスペル特別礼拝

2026年5月31日(日) 10:30~ 

聖書:ヨハネの手紙第一 4章7~11節

メッセンジャー:
 アーサー ホーランド師

ミュージックゲスト:
 ラニー ラッカー
 兼松 弘子
 米田 香
 Hope Hill Gospel Choir

2026/5/24(日)「世界に浸透して行く御霊」使徒1:1~9 庄司牧師

2026年5月24日 使徒の働き 1:1~9「世界に浸透して行く御霊」 テオフィロ様。私は前の書で、イエスが行い始め、また教え始められたすべてのことについて書き記しました。それは、お選びになった使徒たちに聖霊によって命じた後、天に上げられた日までのことでした。イエスは苦しみを受けた後、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。四十日にわたって彼らに現れ、神の国のことを語られた。使徒たちと一緒にいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなたがたは間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられるからです。」そこで使徒たちは、一緒に集まったとき、イエスに尋ねた。「主よ。イスラエルのために国を再興してくださるのは、この時なのですか。」イエスは彼らに言われた。「いつとか、どんな時とかいうことは、あなたがたの知るところではありません。それは、父がご自分の権威をもって定めておられることです。しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」こう言ってから、イエスは使徒たちが見ている間に上げられた。そして雲がイエスを包み、彼らの目には見えなくなった。

本日は、イエスを信じる者たちの上に聖霊が注がれ、その使徒たちを中心として教会が誕生するに至った聖霊降臨日、教会の誕生日とも言えるペンテコステです。教会とは、この世からこの世界から神によって呼び出され、取り出されたイエスを信じる人々の群れです。聖霊が降ったのは、イエスが十字架の死から復活されてからは50日目、天に昇られてからは10日目の出来事でした。世界宣教が聖霊を通してどのように前進、成長していったかを、共に見ていきたいと思います。
始めの1節において著者のルカは、テオフィロという人物に向けて挨拶をしています。テオフィロはローマ政府の高官です。ルカは、ルカの福音書においても冒頭で同じような挨拶をしていることから、テオフィロに代表されるユダヤ人以外の異邦人全体を対象として、福音書と使徒の働きを書き記したと言うことができるでしょう。 ルカは1節において、「前の書」と記しました。ルカの福音書のことです。使徒の働きは言わば、ルカの福音書の続編にあたります。すなわち、ルカの福音書に記されている事実、内容が根底にあって、使徒の働きは記されています。ですからルカの福音書と使徒の働きは密接に関わっているばかりでなく、繋がりあっています。そのことを示すために著者のルカは1,2節において、福音書に記されている事実、内容を次のようにまとめました。
私は前の書で、イエスが行い始め、また教え始められたすべてのことについて書き記しました。それは、お選びになった使徒たちに聖霊によって命じた後、天に上げられた日までのことでした。福音書に記された事実、内容とは、イエスの誕生、悪魔の試み、変貌、十字架の死、死からの復活、昇天などです。特に十字架の死と、そこからの復活、そして昇天がなければ、使徒の働きという書簡も、また世界宣教もありません。それはこの続編である使徒の働きが、イエスの復活と昇天が土台になっているからです。そこでルカは、世界宣教の土台ともなった十字架、復活、昇天を、この使徒の働きにおいてもう一度描写しています。1:3にはこのように記されています。イエスは苦しみを受けた後、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。四十日にわたって彼らに現れ、神の国のことを語られた。「イエスは苦しみを受けた」「ご自分が生きていることを使徒たちに示された」とは、イエスの十字架と復活に対応しています。そしてイエスは40日にわたってご自分が生きていることを使徒たちに示された後、「天に上げられた」すなわち昇天されたことが、9節に記されています。著者のルカは、イエスの御業は十字架、復活、昇天において完結したのではなく、その働きが聖霊を通して今もなお続いていることを、使徒の働きの中で描写しています。 ルカは聖霊の力、働きを書き綴って行く前に、復活されたイエスが神の国について語られたことを記しています。3節の後半です。 「四十日にわたって彼らに現れ、神の国のことを語られた。」イエスが復活され、イエスの弟子たちに現れて語られたこととは「神の国」についてでした。神の国とはイエスが統治、統べ治める国のこと、イエスが統治される領域です。今年も神の国を共に見て来ました。神の国とは、物理的な場所でもありますが、イエスとの愛の関係が永遠に続く場所です。イエスは「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」と言う宣言をもって、福音-罪の赦しや体の甦り、永遠のいのちなどと言った人類にとって良き良知らせ、なくてはならない知らせを宣べ伝え始められました。神であるイエスに背を向けて歩んでいた歩みを方向転換し、イエスの方に向き直るという悔い改めをする人は誰でも神の国に入ることができるという良い知らせ、福音、グッドニュースが、イエスによって私たち人類にもたらされました。 この神の国について、弟子たちがイエスに尋ねています。6節です。使徒たちは、一緒に集まったとき、イエスに尋ねた。「主よ。イスラエルのために国を再興してくださるのは、この時なのですか。」弟子たちはイエスに「イスラエルのために国を再興、すなわち建て直して下さるのは、この時ですか」と尋ねています。イスラエルのために国を建て直す、それは旧約聖書に預言されていたメシヤ、救い主が現れる時に実現すると期待されていた救いです。いつか救い主なるメシヤが到来し、敵であるローマ帝国の支配から解放して、かつてダビデ王が統治していた王国のような神の国を確立する、そういう救いをイスラエルの民は待ち望んでいました。その民の望みがイエスでした。しかしイエスが自分たちをローマから解放することがないと分かった時、彼らは失望し、怒り、イエスを十字架につけろと叫び出しました。
しかしイエスは十字架の死から復活され、今も生きておられる。死に勝利して復活されたイエスこそ、まことのメシヤ、救い主であり、このイエスならイスラエルの国を再興することがお出来になる。イエスの弟子たちは再びイエスに期待を抱き、イスラエルはいつ建て直されるのかと質問した訳です。イエスは7節でこのようにお答えになりました。イエスは彼らに言われた。「いつとか、どんな時とかいうことは、あなたがたの知るところではありません。それは、父がご自分の権威をもって定めておられることです。「時や時期は、父なる神がお決めになることであって、あなたがたの知るところではない。」救いの完成の時期は神がお決めになるのだから、それが今すぐにとか、もう間もなく起る、などと考えることは、父なる神の権威を侵害することだ、という答えでした。 イエスが十字架の死から復活され、今も生きておられる。そしてまもなく聖霊を送って下さる。神の救いは完成した。イエスによって建て直される神の国に入ることができる!使徒たちはそう思ったに違いありません。それに対してイエスは、そうではない、と言われるのです。神の救いのみ業は、まだ継続している、先がある。同時にイエスは、使徒たちだけで救いの御業を行うのではない。これからは聖霊、神の霊が助けてくれる。あなたたちは自分の力で神の国を宣べ伝えるのではない。 そしてイエスは励ましと共に、預言的に語られたのが8節です。
1:8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」
神の国が神の霊である聖霊を通して、イエスを信じ、従う使徒たちによって拡大、成長していく。使徒たちは神の国の拡大、成長のために参与、参加することになる。それも聖霊の力によって、ということが語られています。イエスは「聖霊が臨むとき、力を受け、わたしの証人となる。」と語られました。「証人」とは事実を証言する人です。そして事実ほど説得力を持つものは他にありません。この文脈における事実とは、イエスの十字架の死と死からの復活、そして昇天です。使徒たちはこの事実の目撃者であり、証人でした。従って世界宣教のために、すなわち人々が悔い改めて神の国に入ることができるために、イエスは彼ら使徒たちが、イエス・キリストの十字架の死と復活、昇天という事実を語り続ける「証人」として、証し続ける力を、聖霊によって与えると約束されました。 従って彼ら使徒たちは、イエスが私たち人間の罪の身代わりに十字架に架かられたこと、死とサタンに勝利して復活され、聖霊を送るために昇天されたことなどを、自分の損得や感情、迫害に関わらずに力強く人々に証言できるよう、聖霊がその力を与えて下さるということです。
イエスを知らないと見捨て、裏切ったペテロも、聖霊が注がれた後はイエスの十字架と復活の証人となり続け、最後は殉教していきました。このように聖霊が臨むことによって与えられる力とは、キリストの証人となるための力、証人となり続ける力であると言うことができます。
また、この使徒の働きは未完、まだ完成していないと言われます。それはイエスが始められた宣教の働きは、イエスの弟子である使徒たちに聖霊を通して引き継がれ、またこの同じ聖霊が、現代を生きている私たちキリスト者にも注がれ、働かれ、私たちも福音宣教、世界宣教の働きに参加しているからです。そしてこの宣教を助けて下さる、導いて下さる聖霊は、イエスが昇天されなければ私たちに注がれることはありませんでした。 十字架に架かられる直前、イエスは弟子たちに聖霊を送ると約束して下さっている記事が、ヨハネの福音書にもあります。16:7です。「しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。」この助け主が聖霊です。この助け主なる聖霊が、イエスの十字架、復活、昇天を力強く証する力を使徒たちに、ひいてはイエスを信じる全ての人々に注がれています。与えられています。そして私たちイエスを信じて歩むキリスト者も、この聖霊、すなわち神ご自身と共に福音を宣べ伝えていくことになります。宣べ伝えて行くことができます。
この聖霊なる神が、私たち人間のこと、心、状況すら全て知っておられることが分かる証を、ここで紹介したいと思います。「いのちのことば社の広報誌『たねまき』四月号に載っている記事です。その中に世界189の国と地域で活動をしているEHCという団体の紹介があります。-福音文書(トラクト)を通してすべての家庭に、イエス・キリストを証している団体です。 舞台は中米のコスタリカです。 ある晴れた土曜日、メルビン・モラ牧師と教会の人々が集まり、公園に来てトラクトを配り、祈り、人々と語り合っていました。その時メルビン牧師は、その公園の少し離れたベンチに、一人で座る男性がとても気になりました。まるで聖霊が自分の目をその男性へと向けさせ、彼の下に行くようにと強く促し、また導かれているのを感じたそうです。 その導きに従い、メルビン牧師は男性の隣に座りました。そして神の愛と憐れみ、イエスによる赦しについて語り始めました。すると間もなく、男性は涙を流し始めました。「今、ナイフを持っているんだ。今日、誰かを殺すつもりだった。」彼は怒りと絶望、闇に押しつぶされ、人生を決定的に変えてしまう選択の瀬戸際に立っていました。しかしこの時、聖霊なる神がメルビン牧師を通して介入されました。福音を通して聖霊に触れられたこの男性は悔い改め、イエスに人生を委ねる決断をしました。そして暴力を手放す決意のしるしとして、メルビン牧師にナイフを手渡しました。 彼は破壊ではなくいのちを、絶望ではなく希望を選び取りました。神は彼らの伝道、福音宣教を用いて、彼の人生を永遠に変える瞬間を備えていて下さいました。 この証は、どんな人にも、またどんな心であっても、またどんな境遇であっても、神は求める者に触れて下さるお方であるということを、私たちに思い起こさせてくれます。しかしこの物語はここで終わりませんでした。地元の教会が、彼を愛と交わりを持って受け入れ、寄り添い、弟子訓練と霊的サポートを続けました。 彼は今仕事を持ち、安定と尊厳を取り戻しました。壊れていた夫婦関係も修復され、家族の間に和解が生まれました。また彼は借金をしていましたが、神はその負債を返済する道さえ備えてくださったそうです。神の介入の物語であり、証ですが、そこには聖霊の働き、また導きがありました。その導きに従った人を通して福音が一番必要な時に、一番必要な人に届きました。彼は救われました。
一人の人生が変えられ、家族全体が変えられた素晴らしい証です。そしてこの男性も家族も、社会を変えて行くでしょう。しかしこの素晴らしい証は、イエスが昇天されなければ起きることはありませんでした。
イエスは聖霊の力、また助けによって、宣教の広がりと成長を、「エルサレム、ユダヤとサマリヤ、そして地の果てまで」と表現されました。イエスの宣教の働きはユダヤとガリラヤ、エルサレムなど、物理的には狭い地域に限られていた宣教でした。しかし聖霊を通して使徒たちに引き継がれ、今を生きる私たちキリスト者にも引き継がれている宣教の働きは、イエスの働きよりももっと大きく、そして広いものです。実際に福音は極東、東の果てと言われているこの日本にまで届きました。使徒たちはこの福音宣教、世界宣教のために選ばれ、召されていますが、この同じ聖霊が今を生きる私たち一人一人にも注がれています。私たちもまた、使徒たちと同じようにこの聖霊によって私たちの回りの人々-家族、友人、知人、近所の人から学校や職場、普段買い物をするお店から旅先に至るまで、出会う人たち全てが、私たちが福音を宣べ伝える相手です。そして神である御霊、聖霊は、個人に、個人の心に、状況に、家族に、社会に、あらゆる領域に浸透していかれます。
そしてこれからも浸透して行き、人々を救いへと導いていかれるでしょう。

私たちキリスト者一人一人が達することができる人が、人々が、私たちの回りに置かれています。その身近な人々に聖霊、御霊を通して福音を伝えていく。それが私たち一人一人のキリスト者に委ねられた福音宣教、世界宣教であると言えるでしょう。御霊なる神に信頼して、これからも共に、世界宣教を実践して行く者でありたいと願っています。
祈ります
「世界に浸透して行く御霊」                 
1:8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」 

ゴスペルカフェ可児 2026/5/15(金)

2026年5月15日㈮、ゴスペルカフェ可児 第7回が開催されました。

松浦千華さん(sax,kb)とトム兼松さん(gt)のコラボ。

今回はタイから旅行中の女性2人が立ち寄ってくださって、記念撮影もありました。

良い思い出となり、いつの日か来日した時に立ち寄ってくださることを願います。

ゴスペルカフェは、岐阜県可児市禅台寺にあるカフェ「樹の萌」さんで、

毎月 第1金曜日に開催を予定しています(今回は連休、お店の都合などで第3でした)。

参加費はワンドリンクのご注文で大丈夫です。気軽にお立ちよりください。

次回は6月5日㈮を予定しています。

2026/5/17(日)「神のものは神に」マルコ12:13~17 庄司牧師

2026年5月17日 マルコの福音書12:13~17「神のものは神に」
さて、彼らはイエスのことばじりをとらえようとして、パリサイ人とヘロデ党の者を数人、イエスのところに遣わした。その人たちはやって来てイエスに言った。「先生。私たちは、あなたが真実な方で、だれにも遠慮しない方だと知っております。人の顔色を見ず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。ところで、カエサルに税金を納めることは、律法にかなっているでしょうか、いないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めるべきでないでしょうか。」イエスは彼らの欺瞞を見抜いて言われた。「なぜわたしを試すのですか。デナリ銀貨を持って来て見せなさい。」彼らが持って来ると、イエスは言われた。「これは、だれの肖像と銘ですか。」彼らは、「カエサルのです」と言った。するとイエスは言われた。「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい。」彼らはイエスのことばに驚嘆した。 (マルコの福音書 12:13-17 SKY17)

祭司長たち、律法学者たち、長老たちなどの宗教指導者たちはイエスに面子を潰され、批判されて来ました。それゆえイエスを捕らえて殺そうとして来ましたが、群衆を恐れて手を下すことができないでいました。彼らはイエスの言葉尻を捕えようと、またやってきました。平行所のマタイの福音書の22章には、「彼らはどのようにしてイエスをことばの罠にかけようかと相談した。」と描写されています。そして今回も悪巧みの質問をイエスに投げかけましたが、イエスがどちらを答えても窮地に追いやることができる質問でした。 彼ら宗教指導者たちは、「パリサイ人とヘロデ党の者を数人、イエスのところに遣わしました。」パリサイ人とヘロデ党の人々は対立関係にありました。犬猿の仲。パリサイ人は、ユダヤの人々が神の選民であることを強調し、旧約聖書の律法を厳格に守ることによって、神の民として誇りをもって生きていました。ですから彼らは異邦人であるローマ帝国の支配下にあり、民族としての自立性を失っていることを非常に苦々しく思っていました。また、異邦人に税を納めることは神の権威を冒涜することであると考え、反対していました。

他方ヘロデ派は、当時のガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスの取り巻きです。ヘロデの領主としての地位は、ローマ帝国の権威によって支えられていました。そのヘロデの権力によって利益を得ていた彼らは、宗教的な理想に生きるのではなく、長いものには巻かれろという現実な路線を取り、ローマの支配を受け入れて、その中でうまくやろうとしていた人々です。彼らは、ローマとの関係を親密に保つために、ローマへの納税を推進していました。ですからパリサイ人と、ヘロデ派の人々は、本来互いに反目し合う関係です。しかし両派の利害の一致、すなわちイエスを殺害するということで、一致団結しました。
彼ら宗教指導者が考えたことばの罠とは、ローマ皇帝に税金を納めることが律法に適っているかどうか、という律法に関わるものでした。ユダヤ人たちが当時最も苦痛に感じていたのは、ローマ帝国が課していた人頭税、青年から壮年に至る一人一人が、ローマに支払わなければならない税金でした。それは自分たちがローマに征服され、支配されていることを思い知らされる、屈辱的な税金でした。ですからユダヤの人々は、いつか神からの救い主、メシヤが現れてローマの支配を打ち砕き、この税金から解放してくれることへの期待がありました。従って皇帝に税金を納めるかどうかは、神の民であるユダヤの人々にとって、ローマ帝国の支配や権力を認めるか否か、という問題でもありました。この問いをイエスに投げかけることによって、彼らはイエスを追い詰めようとしています。 もしもイエスが、皇帝に税金を納めなくてよいと答えたならば、そこはヘロデ派の出番です。彼らはそのことをローマの総督に訴え出れば、イエスはローマへの反逆者として捕えられるでしょう。もしも逆にイエスが、皇帝に税金を納めなさいと答えたならば、それは同時にローマの支配を認めることになります。今度はパリサイ人の出番です。イエスは、神の民であるユダヤ人の魂をローマに売り渡している。その支配に加担している!と言われ、イエスこそメシヤではないかと期待している人々が、失望してイエスの下から去っていくでしょう。このように、どちらを答えても、イエスが窮地に陥らざるを得ない状況を、彼らは作り出しました。
しかも彼らは冷静かつ狡猾です。イエスが質問から逃げないようにしています。それが14節のことばです。「先生。私たちは、あなたが真実な方で、だれにも遠慮しない方だと知っております。人の顔色を見ず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。イエスに対する褒めことばのように聞こえますが、その後「ところで」と質問をしています。だれにも遠慮しない、人の顔色を見ない真実なお方であるあなただからこそ、この質問に答えて下さいね。逃げないで下さいよ。イエスが問いに答えざるを得ない状況を作り出し、イエスを追い込んでいます。彼らがイエスに対してこのような問いを発したのは、神の選びの民であるユダヤ人の神への忠誠と、ローマへの忠誠とは互いに両立しない、という前提があります。彼らはユダヤ人でない異教徒による政治的支配に対して、否定的な立場にいた。しかしイエスは、彼らの考えとは違うことを、銀貨に彫り込まれている肖像を通して教えられます。

イエスは彼らの欺瞞、嘘、偽善、下心を見抜いた上で、デナリ銀貨を持って来させました。デナリ銀貨はローマ帝国が発行している銀貨でした。ユダヤにおいてもそれが日常的に使われており、税金もそれによって納められていました。デナリ銀貨にはローマ皇帝、当時はティベリウスの肖像が彫られ、その名が記されていました。このように当時のデナリ銀貨には、皇帝の肖像が刻まれ、また、「ローマ皇帝は神の子である」と銘が刻まれていました。イエスはその銀貨を皆に示しながら「これは、だれの肖像と銘ですか」と問われました。それを問われれば彼らも、「カエサル、皇帝のものです」と答えざるを得ません。するとイエスは「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」と言われました。当時の感覚では、貨幣はそれを発行した支配者のものでした。従って皇帝の肖像と銘のある銀貨は、皇帝のものです。皇帝のものであるお金を皇帝に返すのだから、税金は当然納めるべきものだとイエスが婉曲的に語られたことによって、皇帝への反逆のかどでイエスを訴えようとしていた、ヘロデ派の思惑は外れました。
新約聖書、ローマ人への手紙の13章に記されていますが、神はこの地上における人間生活に秩序をもたらすために、人間的支配者を立てられて、人々を支配することを許されています。 またユダヤ人たちはローマの平和、経済、交通といったように、ローマの帝国の恩恵を受けていました。ですからその通貨で税金を納め、社会的な責任を果たすことは妥当なことであり、また必要なことであったと言えます。しかし一番は、この秩序を作られたのは神であり、神によって認められた制度に基づく納税の問題ですから、それは当然果たすべきものでした。 ここでイエスはカイザルのものはカイザルに返しなさい、つまり税金を払いなさいと言われた訳ですが、それで終わりではありませんでした。そのすぐ後に、「神のものは神に返しなさい」と続けられました。
それでは「神のもの」とは何でしょうか。旧約聖書の始めの書簡、創世記1,2章に、神の創造の御業が描写されています。人間が生きるために必要な全てを備えて下さった、神の偉大な力、主権、知恵、配慮、人間に対する愛を感じることができる箇所です。そしてこの創造の業が他の書簡にも描写されています。その一つを取り上げたいと思います。旧約聖書、詩篇の24篇、1,2節です。
「地とそこに満ちているもの 世界とその中に住んでいるもの それは主のもの。」「主が 海に地の基を据え 川の上に それを堅く立てられたからだ。」
私たちが労働して得た賃金は私たち、自分のものとなります。また何か絵を描いたり、作曲などをしても、その作品は私たちのものとなります。そうしますと、神が造られたものは神のものとなります。つまり、この世界全ては神のものであるということです。太陽も、月も、星も、地球も、動植物や、私たち人間一人一人も、です。その神のものを神に返しなさいと、イエスは言われました。私たちは今、人間としてこの世界に住み、生きています。人間としてどのように神に何かを返すとなれば、私たち人間が持っているもの全て、ということになるのではないでしょうか。私たちの体、魂、心、霊、人生、労働、愛、信仰、経験、財産など、私たちの持っているもの、全てだということになります。そしてイエスは実際に、私たちが神のものであるということを、デナリ銀貨を通して教えておられます。
イエスは皇帝の肖像が刻まれたデナリ銀貨を持って来させ、「これは、だれの肖像と銘ですか。」と尋ねられました。この「肖像」と訳された新約聖書の原語であるギリシャ語は、「エイコーン」いうことばが使われています。このことばは「肖像」だけでなく、「似姿」とも訳すことができることばです。そしてこの「エイコーン」ということばは、先ほど触れた創世記1,2章、その中でも、    1章27節-「神は人をご自身のかたちとして創造された。」というみ言葉を連想させるものです。つまり人間は神のかたちに、神の似姿に刻まれて創造されたと、創世記は語っている訳です。   皇帝の肖像、似姿を刻まれたデナリ銀貨が「カイザル、すなわち皇帝のもの」であるなら、神のかたち、神の似姿に刻まれて創造された、私たち人間は「神のもの」です。イエスは直接的にはイエスに敵対する宗教指導者たちに、ひいては私たち人間一人一人に、「あなた方は神の肖像、神の似姿を刻み込まれて、彫り込まれている存在だ。あなた方は神の作品であり、神のものだ。」と言っておられるのです。 従ってイエスが、「神のものは神に返しなさい」と彼ら宗教指導者たちに対して語られた本当の意味は、「あなたがたは神の似姿として刻み込まれた者だ。作品だ。それゆえ自分自身を神に返す生き方、神の栄光を表して生きていかなければならないのに、あなたがたはそれをしていない!」と糾弾したことになります。 イエスの答えに対して彼らは驚嘆しました。「イエスに驚嘆した」と、その時の彼らの驚きの様子が記されています。これは当時のユダヤ人たちが、人が神のかたち、神の肖像であり、神に似せて刻まれ、造られていることを知っていた、と、想像できるものです。
ですから本来私たち人間は、神の似姿を刻まれた神のものとして生きていかなければならない、ということです。神は人間を含め、全ての被造物を造られました。ですから神のものとは、天地万物全てであり、「神のもの」とされている私たち人間、ひいては私たちのいのちや人生、つまりわたしたちそのものです。ですから私たちが神に与えられている人生、賜物、時間、能力などを用いて、神の素晴らしさ、栄光を表していくことが、人間が神に創造された本来の目的です。この目的に沿えずに自分の栄光ばかり、そして自分中心に生きる時に心が虚しくなるのは、神の私たちの創造の意図に、神の御心に反する生き方をしているからだと思います。旧約聖書に記されていますが、ソロモンは大富豪でした。しかし彼は神から徐々に遠ざかり、最後は「空の空。すべては空。」という告白を、伝道者の書でしています。 どんなに地位や名誉、財産があっても心が満たされることがないというのは、神の意図に、神の目的に、神の御心に反しているからです。人間が神の肖像に、神の似姿として刻まれ、創造された、一つの証、証拠ではないでしょうか。

旧約聖書、イザヤ書49:16節に、このような有名なみ言葉があります。
「見よ、わたしは手のひらにあなたを刻んだ。あなたの城壁は、いつもわたしの前にある。」
古代、重要なことを忘れないために、自分の手のひらに文字や印を刻む習慣があったそうです。ここに登場する手は神のことを表し、手のひらに刻まれたのは直接的な文脈では、神の選びの民であるイスラエルですが、これは、私たち一人一人にも向けられていることばです。なぜなら、私たち一人一人が神のかたちに、神の肖像に、神の似姿に刻まれて、彫り込まれて創造され、いのちを吹き込まれて生きる者となったからです。またあなたの城壁、石垣は常にわたしの前にあると、神が常に私たちのために石垣となり、城壁となって守り、支えて下さっている、平安を与えて下さっていると、ここに記されています。 神は、私たちの一人一人の名前や存在を、ご自身の「手のひら」に彫り込み、刻みつけ、決して忘れることはない、いつも見守っていると、約束して下さっています。

神に覚えられている。これは私たちにとって大きな慰めと励ましです。しかも私たちはただ神に覚えられているだけではありません。神の手に刻みこまれ、その刻み込まれた私たち一人一人を、神は毎日見つめ、見守り、愛して下さっています。そればかりか、その神の愛は、神の独り子を十字架につけて私たちの罪の身代わりにさせるほどの愛です。 神が、全存在をかけて私たちを愛して下さっている。私たち一人一人にその神の愛が注がれている、尊い存在です。

食べるにも、飲むにも、何をするにも、神の栄光、神の素晴らしさを表しなさいと、使徒パウロは語りました。私たちは自分の持っている、というより、神に与えられ、委ねられた何をもって神にお返ししていくことができるでしょうか。その神の願い、御心を求めつつ、共に祈り、教えられていきたいと思います。

祈ります
「神のものは神に」
するとイエスは言われた。「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい。」
ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。(ローマ人への手紙12:1)