十字架

2026/5/3(日)「何度も、何度でも」マルコ12:1~12 庄司牧師

2026年5月3日 マルコの福音書12:1~12「何度も、何度でも」
それからイエスは、たとえで彼らに話し始められた。「ある人がぶどう園を造った。垣根を巡らし、踏み場を掘り、見張りやぐらを建て、それを農夫たちに貸して旅に出た。収穫の時になったので、ぶどう園の収穫の一部を受け取るため、農夫たちのところにしもべを遣わした。ところが、彼らはそのしもべを捕らえて打ちたたき、何も持たせないで送り返した。そこで、主人は再び別のしもべを遣わしたが、農夫たちはその頭を殴り、辱めた。また別のしもべを遣わしたが、これを殺してしまった。さらに、多くのしもべを遣わしたが、打ちたたいたり、殺したりした。しかし、主人にはもう一人、愛する息子がいた。彼は『私の息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に、息子を彼らのところに遣わした。すると、農夫たちは話し合った。『あれは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は自分たちのものになる。』そして、彼を捕らえて殺し、ぶどう園の外に投げ捨てた。ぶどう園の主人はどうするでしょうか。やって来て、農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるでしょう。あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか。『家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった。これは主がなさったこと。私たちの目には不思議なことだ。』」彼らは、このたとえ話が自分たちを指して語られたことに気づいたので、イエスを捕らえようと思ったが、群衆を恐れた。それでイエスを残して立ち去った。
イエスがたとえを用いて語られている。それが本日の聖書箇所ですが、このように始まっています。「ある人がぶどう園を造った。垣根を巡らし、踏み場を掘り、見張りやぐらを建て、それを農夫たちに貸して旅に出た。このたとえ話の設定です。「ぶどう園を作った」だけではなく、「垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て」と細かく語られています。「搾り場」とあることから、ぶどう酒を造るぶどう園です。垣や見張りのやぐらは、盗賊や動物たちからぶどう園を守るためのものです。 このたとえは旧約聖書、イザヤ書の5章がモチーフ、題材となっています。5:7節の前半をお読みします。万軍の主のぶどう畑はイスラエルの家。ユダの人は、主が喜んで植えたもの。従ってぶどう園を造った主人とは主なる神、ぶどう畑はイスラエルの家、そして植えられている木はユダ、すなわち神に特別に選ばれた、イスラエルの人々であることが分かります。神は彼らイスラエルをエジプトの奴隷状態から解放し、彼らの神となるという特別の関係、契約を結んで下さり、ご自分の民として下さいました。旧約聖書、出エジプト記に描写されています。そして彼らを約束の地に導き入れ、そこに住わせて下さいました。そのイスラエルに対する神の愛と恵みが、必要な全てが整えられているぶどう園に表されています。そして収穫の時季がやって来ました。
ぶどう園が新しく作られた場合、そこから収穫がなされ、ぶどう酒が造られ、利益をあげることができるようになるまでには、何年かの時が必要です。ですから「収穫の時になったので」というのは、その時が過ぎて、いよいよ実際にこのぶどう園から収穫、利益が見込まれるようになった時に、ということが表されています。 主なる神は、このぶどう園に表されているように、イスラエルの人々に与えた賜物や才能などが用いられ、彼らを通してぶどう園が豊かな実を結ぶことを願い、また期待していました。十分に時間を与えた上で、ぶどう園の収穫の一部を受け取るため、農夫たちのところにしもべを遣わしました。しかし彼らはそのしもべたちを受け入れませんでした。
ところが、彼らはそのしもべを捕らえて打ちたたき、何も持たせないで送り返した。そこで、主人は再び別のしもべを遣わしたが、農夫たちはその頭を殴り、辱めた。また別のしもべを遣わしたが、これを殺してしまった。さらに、多くのしもべを遣わしたが、打ちたたいたり、殺したりした。
実際にイスラエルの人々は神に反逆し、神から送られて来た預言者たちを何度も殺して来ました。民の指導者たちは民衆から搾取し、正しい裁きは行われず、他国と争い、人々は神に反逆し、偶像礼拝が頻繁に行われていました。イスラエルの民は本来であれば、全世界に神の恵み、栄光を表していく神の特別な選びの民でしたが、神が望まれた公正も正義も行わず、流血に至るような争いを繰り返して来た。それがイスラエルの歴史です。神は預言者を通してご自分の御心を彼らに知らせ、彼らが悔い改めて神に立ち返るように、多くの預言者を遣わされましたが、彼らは神の期待に応えることができませんでした。
イエスはこのたとえを、直接的には「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか」と問うた、エルサレム神殿の祭司長、律法学者、長老たちに語っておられます。先週見ました。また同時に、神に反逆して来た、イスラエルの民衆にも語られています。
このような悲惨な歴史と現実の中で、ぶどう園の主人なる神が取った最大の決意と行動が、6節に表されています。しかし、主人にはもう一人、愛する息子がいた。彼は『私の息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に、息子を彼らのところに遣わした。
主人は最後に自分の愛する息子を農夫たちの下に送られました。「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」と言って。主人のこの「愛する息子」とは、言うまでもなくイエス・キリストのことです。主人、すなわち父なる神は、「最後に」愛する息子であるイエスを送られました。最後とあるように、イエス以降、どのような預言者も、また神を指し示すような者も天から遣わされていません。
父なる神は、愛と配慮をもって最後に一人息子、イエス・キリストを送って下さいました。しかしとても残念なことですが、イスラエルの人々はこのように応答しました。すると、農夫たちは話し合った。『あれは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は自分たちのものになる。』と相談してその息子を殺し、ぶどう園の外に投げ捨ててしまいました。残酷なイエスの十字架の死が表されていますが、皮肉にも、十字架の死を遂げるイエスご自身が、このたとえを語られ、これから起ころうとしていることを預言しているということです。そしてまさに今、農夫にたとえられている宗教指導者たちが、神の愛する一人息子、イエス・キリストを殺そうとしています。今まで見て来ましたし、これからも見ていくことになりますが、彼らは多くの悪意ある質問によってイエスを捕らえ、殺そうとしてきました。またイスラエルの人々も、イエスが自分たちの期待するメシヤではないと分かった時、その態度を翻し、「十字架につけろ!」と叫び出します。 
それでは私たちはどうなのでしょうか。私たちは宗教指導者でもないし、イエスを裏切る民衆でもないからこのたとえは私たちとは関係がない、と言えるでしょうか。 農夫たちが預けられたぶどう園は、労働と収穫のために必要な全てのものが準備されていた場所でした。
このぶどう園と似ている場所があります。いや、同じかもしれません。 それは私たちが今住んでいる世界です。神は人類の始祖となるアダムとエバを創造され、全ての動植物を統治し、管理するよう命じられました。これは大文化命令とも呼ばれ、旧約聖書、創世記の1章、2章に記されています。そして神は人間が被造物をしっかりと管理できるよう、人間に必要な全てを準備、備え、整えて下さいました。人間が生きるために必要な空気、水、食物、それらを生み出す地球そのもの。また私たち人間もそうです。「神が大地の塵から人を形造り、そこに神の息吹を吹き込んで人とした。」と創世記に記されているように、人間は神に造られたものです。つまり私たちのいのちは神が造られたものであり、それゆえ、神のものであるということです。しかし人間は自分が神に造られたことも、また、神に委ねられている管理者としての使命も忘れてしまいました。自然から一方的に資源を搾取し、環境を破壊し、毎年毎年多くの動植物を絶滅させています。自分に必要な物を超えてもっともっと欲しいと貪るようになりました。つまり人間は、自然、被造物を統治するのではなく、支配、コントロールするようになってしまいました。 そして本日も宗教指導者が取り上げられていますが、彼らは貧しい人々から搾取、支配していました。しかし今の私たちの世界はもっと悲惨かもしれません。コロナ禍を経て貧富の格差は更に拡大し、世界人口の1%が、世界人口のおおよそ半分、もしくはそれ以上の富を独占しています。AIはどんどん進化し、今すでに人類の能力を超え始めています。 神のようになりたい、いや、神を超えたい。そのような願望を感じます。これは神に敵対するだけでなく、自分の能力、才能を神に誇示しようとした、バベルの塔の時の人々の姿と、何ら変わりありません。罪深い人間の姿は、創世記の時代から全く変わっていないということです。また加えて私たち人間は、性別、容姿、能力、賜物、生まれる時代、国、どのような両親の元に生まれるか。自分の名前すらも自分で決めることはできませんでした。
つまりぶどう園全てを主人が作り整えたものであったように、この世界も神が計画され、私たちが生きるために必要な全てを備え、整え、私たちに預け、委ねて下さったものであるということです。ですから私たちは、神から与えられた基本的条件の下で生きているということになります。ですから本日登場するぶどう園は、今私たちが生きている世界を表しているとも言えるのではないでしょうか。 そしてもし私たちが、このぶどう園なる世界において、何がしかの実りを生むことができるとしたら、それは基本的には神が備えて下さった条件や賜物によるものだと言えるでしょう。私たちの努力ということも勿論ありますが、努力が実を結ぶための条件を整えて下さったのは、神です。 しかし私たちも、農夫に例えられた祭司長、律法学者、長老たちや、ぶどうの木にたとえられたイスラエルの人々と同じように、ぶどう園なるこの世界を自分のものにしてしまっているように感じます。そしてそれを作り与えて下さった、本来であれば私たちの主人であるはずの神の恩を忘れ、自分が主人となって生きているような者だと思います。 このように神に敵対し、自分中心に生きている私たちは、神の独り子であるイエスを十字架につけて殺している者と、何ら変わりがないように思えます。ですからもし私たちがイエスの時代に生きていたら、宗教指導者たちや民衆と同じように、イエスを「十字架につけろ!」と叫んでいたに違いありません。そうであるならば、私たちも宗教指導者たちや民衆と同じように、神との関係を回復する道を閉ざされ、神の怒りによって滅ぼされるしかない存在ではないでしょうか。 しかしイエスは、そのような私たちに、今なおたとえを通して語りかけて下さっています。9節です。ぶどう園の主人はどうするでしょうか。やって来て、農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるでしょう。きちんと労働し、きちんと収穫を納める、別の人たちにぶどう園を与えると、イエスは語られました。しかしこのぶどう園は、以前のぶどう園とは違います。また、そのぶどう園を受け継ぐ人々も違います。イエスはそのことを、先の11節、12節でこのように語っておられます。
『家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった。これは主がなさったこと。私たちの目には不思議なことだ。』」詩篇118篇22節、23節からの引用です。「家を建てる者」とは、ユダヤ人の宗教指導者であり、石はメシヤであるイエスを指しています。本来であれば彼ら宗教指導者たちは、イエスを家の要、礎のように中心に据えて、信仰生活、人生を建て上げていくべきでした。しかし彼らはメシヤなるイエスを否定して、十字架につけて殺してしまいます。本来であれば、人間の土台の石となるべきはずのイエスを、捨ててしまった訳です。しかしイエスは死から復活され、ご自身が私たち人間において最も大切な要の石として、家の礎となって下さいました。イエスが家の要の石として、また礎として家の中心に来る。
イエスが中心になって家を支えているように、イエスが中心となって支え、統治、統べ治めている領域があります。それは今年も共に見ている、神の国です。イエスが統治されている領域、場所ですが、イエスはこの神の国を、新しいぶどう園のように、そこで実を結ぶ者たちに与えて下さいます。
従って人々に捨てられたイエスを通して、イエスの十字架と死、そこからの復活を通して、イエスは新しい霊の家、すなわち神の国を建てて下さいました。そして神の国を構成しているのは、全て、イエスを救い主として信じる人々、すなわちキリスト者です。
私たち人間にいのちを与え、いろいろな実りを生むことができるように人生を整え導いて下さる父なる神が、「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」と言って、神に反逆し、敵対し、神を無視して歩む私たちに、独り子イエス・キリストを送って下さいました。 おめでたいとも言える驚くべき信頼と、限りない愛と忍耐が表されています。イエスご自身も、十字架の苦しみを予期、予知しながら、この世界を、特に貧しい人々と共に歩んで下さいました。 父なる神の愛の計画、そしてその計画のために、イエスご自身が十字架という大きな犠牲、代償を、神を無視して自分勝手に歩む私たち人間の罪のために、支払って下さいました。その十字架の代償があり、また罪と死に打ち勝った復活を通して、イエスは神の国の基礎となる、生ける石となって下さいました。 私たちはイエスを信じていますから、私たちと神を隔てていた罪は赦され、神との関係が回復され、イエスを通してすでに神の国に入れられている、幸いな者たちです。

私たちは、イエスが十字架という犠牲を通して備え、また与え、委ねて下さった神の国と言う新しいぶどう園において、神の栄光、素晴らしさを表すべく、良い実を結んでいくことが期待されています。欠けや弱さ、色々な失敗、また不信仰に陥ることもありますが、イエスはすでに十字架の贖いを通して私たちを深く愛し、受け入れて下さっていることが分かります。そしてイエスは期待を持って、私たち一人一人を、ぶどう園であるこの世界に遣して下さっています。
私たちを新しく造り変えて下さり、また新しいぶどう園とも言える神の国に導いて下さったイエスを中心に、またイエスを信仰生活と人生の礎に据えて、今も生きておられるイエスと共に、歩んで行きたいと願います。
祈ります。
「私たちの体を、神に喜ばれる、聖なる生きた献げ物として、献げることができますように。」
「何度も、何度でも」
しかし、主人にはもう一人、愛する息子がいた。彼は『私の息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に、息子を彼らのところに遣わした。

2026/4/2㈮「わたしはあなたとずっと一緒にいる」ルカ23:33,39~43 庄司牧師

受難日礼拝メッセージ(テキストのみ)

2026年4月2日 ルカの福音書23:33,39~43
タイトル 「わたしはあなたとずっと一緒にいる」
「どくろ」と呼ばれている場所に来ると、そこで彼らはイエスを十字架につけた。また犯罪人たちを、一人は右に、一人は左に十字架につけた。
十字架にかけられていた犯罪人の一人は、イエスをののしり、「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」と言った。すると、もう一人が彼をたしなめて言った。「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。」そして言った。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」
本日は受難日です。罪を犯したことのないお方が、罪ある者として十字架で神に裁かれる。イエスの十字架と、共に十字架に架けられている犯罪人たちに焦点を当てて、お話していきたいと思っています。
ローマ総督ピラトの努力も虚しく、イエスはローマ帝国に反逆する政治犯として、十字架に架けられることになりました。主イエスの他にも、二人の犯罪人がイエスの十字架を中央にして、その右と左で十字架に架けられました。 なぜ二人は十字架刑に処せられたのでしょうか。
ルカの福音書では二人のことを「犯罪人」と記しているだけです。しかしマタイやマルコ福音書では「強盗」としています。 「強盗」という言葉は、単に他人の物を盗む者というより、むしろ反乱を起こす者、革命家を意味します。恐らくこの二人はローマ帝国の支配に抵抗して、暴動ないし反乱を起こして逮捕され、十字架刑に処せられることになった、と思われます。 イエスの十字架を見ながら、イエスを罵っていた群衆がいました。イエスがローマ帝国から自分たちを解放してくれる政治的な王だと期待していた、ユダヤの人々でした。しかし願いが叶わないことが分かり、希望から失望へと、そしてイエスへの怒りへと変わって行きました。 平行箇所を見ると、群衆がイエスを罵っている時に、この二人の強盗も同じようにイエスを罵っていたことが分かります。そのうちの一人はこのようにイエスを罵しりました。「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」従ってもう一人も始めはイエスに対して同じような思いを持っていたようです。二人とも自分はローマ帝国から人々を解放しようと努力した。正しいことを行った。正義を行ったと思っていたはずです。ですから十字架刑に対して、不当な刑罰を受けていると二人とも感じていたはずです。しかし一人の犯罪人はイエスに対する態度が変わっていきます。何があったのでしょうか。
それはイエスの十字架上で語られることばであり、態度であり、そして祈りであったと思います。イエスはまさに十字架に架けられている苦しみの時も、罵る人々に対して不平や不満、怒るといったこともありませんでした。 ヨハネの福音書の19章には、この状況でイエスは、自分の母マリアを心配され、弟子の一人に彼女を託しています。そして何よりこの犯罪人の心の琴線に触れたのが、イエスの祈りだったと思われます。それが34節でイエスが語られたことばであり、祈りです。
23:34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦し下さい。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」彼はこのように思ったと想像します。
「自分を殺そうする者たちに対して、「彼らを赦して下さい」などと祈ることなど人間にはできない。この方こそ神に違いない。そしてこの神が、自分は悪くないと思っているこの私も、そして隣の犯罪人も、そして群衆も、全て自分中心で罪深い人間に対する神の怒りを代わりに受けてくれている。」実際この犯罪人が神に、すなわちイエスに対しての恐れ、畏怖の念を持ったことが分かります。
「おまえは神を恐れないのか。」という、もう一人の犯罪人に対して言ったことば、告白です。裏を返せばこの告白は「おまえと私は違う。私は、神を恐れる。イエスを神として恐れ敬う。」という彼のイエスに対する信仰を感じさせる告白です。そしてもっとイエスに対して踏み込んだ思い、実彼がイエスを神と認め、また信じるという信仰告白が、42節に表されています。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」「あなたが御国に入られるときには」という告白は、この犯罪人が、イエスが御国に行くことだけでなく、御国、すなわち神の国を統べ納める神であることを確信している態度です。そして彼は、神であると信じたイエスに対して、「私を思い出してください」と訴えました。 思い出して下さいとは、忘れないで下さいということです。「自分がしたことは何も悪くないと思っていた。むしろ正しいことをしていたと思っていた。しかしそうではなかった。私はあなたの前に罪ある者。神であるあなたと共に、御国に行くような身分ではない。しかしどうか私が辿った人生を、私の姿を、そして私の存在を、あなたが行かれる神の国においても忘れないで欲しい。頭の片隅でもいいから覚えていて欲しい。」彼の思い出して下さいという告白には、神としてのイエスの前に謙る、一信仰者としての姿勢と信仰を感じさせます。そしてイエスが御国に行くのが相応しい、当然であるという確信を感じさせる告白でもあります。この犯罪者の信仰、そして告白に対してイエスは、「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」と答えられました。
パラダイスとは楽園です。素晴らしい場所であるには違いないですが、大切なのは場所というよりむしろイエスとの「関係」です。この時イエスはこの男に向かって、「わたしと一緒に楽園にいる」と宣言されました。主イエスが一緒にいてくださるところ、そこが楽園であり、パラダイスです。イエスがそこにおられなかったから、そこは楽園でもパラダイスでもありません。イエスは犯罪人に対してこのように答えることによって、彼の信仰告白が本物であること。そして同時に「思い出して下さい」と願った以上のことを約束されたことが分かります。それはこれからもずっと一緒にいるという、いつまでも続くイエスとの関係を約束して下さったからです。

イエスは私たちが激しい苦しみの中で、絶望の中で、すべての人に見捨てられたように思う時ですら、私たちを覚えていてくださり、心に留めて下さいます。また私たちが死を迎える時も、またその後も、ずっと一緒にいて下さるお方です。私たちを見捨てることは決してありません。
「私はあなたのことを覚えている、決して忘れない。そしていつまでも一緒にいる。」この犯罪人だけではなく、イエスを神として、救い主として信じる全ての人に、私たち一人一人に、イエスは同じように約束して下さいます。 そしてイエスは私たちとずっと一緒にいるという約束を守るために、神との妨げとなる私たちの罪を全て、十字架で背負って下さいました。
イエスの十字架を感謝しつつ、共に祈りたいと思います。
「わたしはあなたとずっと一緒にいる」
「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」

2026/3/29(日)「強盗の巣」マルコ11:12~19 庄司牧師

2026年3月29日 マルコの福音書11:12~19「強盗の巣」
翌日、彼らがベタニアを出たとき、イエスは空腹を覚えられた。葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、その木に何かあるかどうか見に行かれたが、そこに来てみると、葉のほかには何も見つからなかった。いちじくのなる季節ではなかったからである。するとイエスは、その木に向かって言われた。「今後いつまでも、だれもおまえの実を食べることがないように。」弟子たちはこれを聞いていた。 こうして彼らはエルサレムに着いた。イエスは宮に入り、その中で売り買いしている者たちを追い出し始め、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。また、だれにも、宮を通って物を運ぶことをお許しにならなかった。そして、人々に教えて言われた。「『わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではないか。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にしてしまった。」祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。群衆がみなその教えに驚嘆していたため、彼らはイエスを恐れていたのである。夕方になると、イエスと弟子たちは都の外に出て行った。
本日の聖書箇所は二つの出来事が記されています。葉の茂ったいちじくの木の話と、4福音書全てに記されている「宮きよめ」と呼ばれている出来事です。葉の茂ったいちじくの木の話は、結論として後でもう一度登場しますので、次回取り上げたいと思います。そこで今回は「宮きよめ」と呼ばれる出来事を中心に、お話をしたいと思っています。
先週、イエスが日曜日にエルサレム入城、エルサレムに入られた時のことをお話しました。イエスはエルサレムにいる群衆の、自己中心的で神を信じない不信仰な姿と、将来ローマ帝国に破壊されることになるエルサレムのことを憂い、涙を流されました。そして祈りのため、人々のとりなしのために宮に入られました。
本日の聖書箇所、12節に「翌日」とあります。ですから宮きよめと呼ばれている出来事は、イエスが十字架に架かることになる週の、月曜日であることが分かります。本日登場する「宮」とはエルサレム神殿であり、ヘロデ王によって再建されたものです。イエスはこの神殿で人々が行われていることに怒りを燃やされました。それが本日の聖書箇所に表されています。エルサレムの神殿では、過ぎ越しの祭りに集まった大群衆を相手に、盛んに商売が行われていました。過ぎ越しの祭りとは、旧約聖書、出エジプト記に記されています。以前共に見て来ました。イエスの時代よりさらに約1500年前、彼らの祖先となるイスラエルの民がエジプトで奴隷となって苦役を強いられていた時、神が民の叫びを聞かれ、指導者モーセを通して彼らをエジプトから脱出させた出来事に由来しています。その脱出の際、羊の血を門柱と家の鴨居に塗った者たち-すなわちイスラエル民族は、滅ぼす者から守られました。一方その血を塗らなかったエジプトの初子-初めに生まれた子ども、すなわち長男や長女、家畜に始めに生まれた子どもたちなどは、全て死んでしまいました。この流された血、羊の犠牲を、新約聖書ではイエスが人間の罪を贖う身代わりに流された血であると説明しています。つまり過ぎ越しで犠牲になった羊は、イエス・キリストを予表するもの、イエスの十字架の犠牲、贖いを指し示している、ということです。 ユダヤの人々は、自分たちの先祖が守られたことを感謝し、現在においても過ぎ越しをお祝しています。
本日の聖書箇所に戻ります。 神殿の境内には、一番外側に異邦人の庭と呼ばれるところがあり、そこに両替人や生贄のハトを売る者たちなどがいました。ユダヤ人たちは各地から過ぎ越しの祭りを祝うために神殿に集まって来ましたが、神殿に捧げる動物の犠牲は傷があってはいけないため、祭司に調べてもらわなければならず、その検査は面倒なものでした。 そこで巡礼者たちは、あらかじめ調べられたものであり、また気軽であるため、神殿の境内で売られている検査済みの動物を買いました。加えてユダヤの巡礼者は、神殿に納入金を支払うため、ギリシャやローマの通貨をユダヤの通貨に両替しなければなりませんでした。そこで両替人たちは多くの手数料を取って莫大な金を設けていました。その背後には祭司長や律法学者たちがいました。神殿を管理している立場であるはずの彼らが、自分たちの利益のために率先して彼らの商売を許可し、支援までしていました。それは商人たちの儲けの上前をはねるためでした。 本来は祈りの家であり、敬虔な場所であるはずの神殿が商売に利用されている。 イエスが憤りを覚えたのも無理はありませんが、イエスがもっと怒りを燃やされたことがあります。それは彼らが商売を行っていた「場所」でした。
神殿の境内の一番外側は異邦人の庭と呼ばれますが、神殿の奥に入ることを許されない異邦人にとって、唯一の礼拝の場所でした。その場所で商売が行われていたということは、商売人たちは異邦人たちが神を礼拝するのを妨げていたということになります。そして彼らの礼拝を間接的に妨げていたのが、本来であれば神殿を聖く保ち、礼拝者が神を心から礼拝できるように取り計らう祭司や祭司長たちでした。いつの間にか異邦人の庭が、動物の生贄を売ったり買ったり、また両替の行われる場所になってしまっていました。イエスは激しく怒られましたが、この時の怒りを旧約聖書から引用して表しておられます。それが17節です。
「『わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではないか。これは旧約聖書、イザヤ書56:7節を引用してのことばです。6節の後半から引用してお読みします。
わたしの契約を堅く保つなら、わたしの聖なる山に来させて、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。彼らの全焼のささげ物やいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる。なぜならわたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれるからだ。 つまりイエスは、形式的で、しかも神との契約を守っていない彼らの生贄は、神には受け入れらないと言っておられる訳です。「神殿は商売の行われる場所ではない!心の伴わない形だけの生贄は神に受け入れられない!わたしの家、神殿は、あらゆる民の祈りの家、礼拝の場所、心から神と交わる場所だからだ!」そのような思いを持ってイエスは、人々の間違った行いを激しく怒られ、批判されました。イエスはここで、「わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる。」と、イザヤ書のことばを引用されましたが、その「わたし」とは、主なる神であると同時に、その独り子である主、イエスご自身を指しています。つまりイエスは、自分こそが神殿の主であり、神殿はイエスにとって 「わたしの家」だと宣言されたということです。つまりイエスはご自身を、神殿を司る者であり、また同時に礼拝されるべき対象、すなわち神であるということを宣言されました。イエスは祈りが捧げられる神殿を、「あらゆる民の祈りの家」と呼ばれました。それはユダヤ人たちだけでなく、彼らから蔑まれている異邦人たちも含めた、全ての民族、部族、国民の祈りの家となる、ということです。 宗教指導者たちはイエスを神と信じていませんでしたから、神宣言をされたイエスのことを、神への冒涜であると捉えました。加えてイエスは同じ17節の後半において、おまえたちはそれを『強盗の巣』にしてしまった。」と強いことばで批判されました。これも旧約聖書からの引用だと思われます。エレミヤ書7:10,11節です。そして、わたしの名がつけられているこの宮の、わたしの前にやって来て立ち、「私たちは救われている」と言うが、それは、これらすべての忌み嫌うべきことをするためか。わたしの名がつけられているこの家は、あなたがたの目に強盗の巣と見えたのか。見よ、このわたしもそう見ていた──主のことば──。 エレミヤ書を引用しながらイエスは批判していますが、その対象は、暴利を貪っている商人たち、それを許していた祭司や律法学者たちだけではありません。「売り買いしている人を追い出し始め」と15節にあることから、商人から生贄を買っていたユダヤ人たちにも向けられていることばでした。彼らユダヤ人に共通するのは選民意識です。「アブラハムを父祖とする我らユダヤ人は特別に選ばれている神の民。我々は救われている。それだけはない!このように神殿に来てお金も払って生贄を買って捧げている。神は喜んでくれているはずだ!そして犯した罪はことごとく全て赦されているはずだ!」 しかしイエスは、彼らユダヤの人々が生贄を形式的に、また慣習的に献げていることを見抜いていました。このような民の形式的、偽善的な姿が旧約聖書に記されています。ホセア書です。イエスの時代から750年ほど前に書かれたものですが、イエスの時代の人々と何ら変わることはありません。この時の北イスラエルは経済的には繁栄していましたが、民はバアル崇拝などの偶像崇拝を行いながら、神である主にも生贄を捧げていました。加えて富める者が貧しい者を虐げ、倫理的にも道徳的にも腐敗していた時です。主なる神は預言者ホセアを通して、彼らにその思いを伝えられました。それがホセア書6:6節に描写されています。「わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない。全焼のささげ物よりむしろ、神を知ることである。」
神が求めておられるのは「表面的な儀式(いけにえ)」ではなく、愛に基づく「神との個人的な関係(神を知ること)」であるということです。神が人間に対して、愛と信頼の関係を築き、人格的な交わりを求めておられることを意味します。著者のホセアに語られた主なる神のイスラエル民族に対する思いと、本日の宮清めにおける群衆に対するイエスの思いと重なります。
この神の御心、すなわちイエスの御心に反するのが、今まで見て来たように、神殿を利用して、つまり神を利用して商売をしている人々でした。また、自分の利益のために彼らを支援していた宗教指導者たちでした。そして儀式的に、また形式的に罪だけが赦されれば良いという、言わば神のご機嫌取りをしているユダヤの人々でした。なぜそのように言えるかと言えば、彼らが生贄を持参しないで神殿に来ているからです。生贄を準備、用意せず、神殿で気軽に買えばいいというところに、彼らの神に対する態度が表れています。 イエスはそのような人々が集まっている神殿が強盗の巣のようであると嘆き、憂い、怒られました。 一方イエスは神殿の主として、礼拝されるべき神として、イエスを信じる人々を御前に集めようと、集めたいと願っておられます。そのイエスの思い、願いが、平行箇所のマタイの福音書に表されています。21章14節です。また、宮の中で、目の見えない人たちや足の不自由な人たちがみもとに来たので、イエスは彼らを癒やされた。
いつもイエスがなされる癒しのように見えますが、実はこれは凄いことです。普段であればあり得ないことです。異邦人は異邦人の庭と呼ばれる場所に入ることができました。しかし体に障害を持っている人々は、神殿の本体である聖所、至聖所はもちろんのこと、その境内にすら立ち入ることは許されていませんでした。 しかし彼らは神殿に入って来ました。イエスが神殿で大暴れされ、一時的に神殿がパニックに陥っているその混乱に乗じて。 普段は神殿から締め出されて神殿の門のところで物乞いをすることしかできなかった盲人たち、足の不自由な人々などが神殿内に入り込んで来たということです。イエスを、神を求める姿です。そこでイエスは彼らを癒されました。
イエスは体に障害を持っている人たちを癒すことによって、障害のあるなしに関わらず、またユダヤ人たちが軽蔑していた異邦人、つまり民族の違いに関わらず、イエスを信じる者全ては神殿に入ることができる。また神であるイエスを拝することができる、つまりイエスを神として信じ、礼拝することができる、ということが表しておられます。
今回の宮清めにおいて、イエスの語られたこと、またなされた全てのことは、神殿当局者たちの激しい怒りと敵意をもたらしました。それはイエスがご自分のことを神であると宣言され、商人はおろか、祭司長や律法学者たちのような宗教指導者を批判し、さらに神殿における慣習を破って、障害を持っている人々が神殿に入るのを許可し、癒されたからです。 前回見ましたが、人々が決して触れることのない盲人のバルティマイを、イエスは立ち止まり、声をかけ、触れて癒されました。従って今回も、イエスは差別されている人々にも手を触れて癒されたでしょう。このように神殿の主であり、礼拝されるべき神として、イエスは民族や慣習を超えて、イエスを信じる人々を御前に集めようとされておられます。 このようにイエスは正しいこと、また愛に満ちたことをなされましたが、宗教指導者たちはイエスに反発しました。彼らの敵意が18節に描写されています。
祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。群衆がみなその教えに驚嘆していたため、彼らはイエスを恐れていたのである。
彼らは、群衆がイエスの教えに驚嘆し、イエスを信頼し、さらに支持していく。人気が出ることによって自分たちから離れていくことが赦せませんでした。彼らは群衆を自分たちに惹きつけておきたかった。自分たちが、人々を神に近づけるように手助けする奉仕者とは考えずに、神が、人々を自分に近づけるのを手助けするとことを願っていた、ということです。これは神殿という場所において商売をしていた人々と、同じではないでしょうか。 言わば神を利用して自分の願い、欲望を満たそうとする姿です。 彼らは不正をしていました。また彼らは誤りを犯すだけでは気がすまず、自分の誤りを指摘する者に対して殺意を抱くという、神を知らない者、信じない者がどのように神に向かうのか。敵対するのか。罪深い人間の姿を浮き彫りにしています。恐ろしいことですが、まさにこのような人間の罪が、イエスを十字架に釘付ける原因となりました。 神殿を利用して、神を利用して商売する、儲ける人々をイエスは追い出されました。一方ユダヤ人たちから蔑まれていた異邦人たちが礼拝できるように、宮、神殿をきよめられました。また昔からの慣習を破られ、障害のある人々が神殿に入ることを許可され、イエスを信じ、求める人々を癒されました。別の見方をするならば、イエスは彼らを神殿に招かれた、と言うこともできるかもしれません。
今は受難節です。イエスの十字架の贖い、犠牲に心を留め、思い巡らし感謝を持つ時です。   神殿の主、神の国の主、万物の主であるイエス・キリストが、今も、現代においても、イエスを信じ、イエスを礼拝する者たちを、ご自分の十字架の下に集めようとされておられる。そのように思います。 神殿-現代においては教会において共に集まり、イエスを礼拝できることを感謝します。イエスの十字架がなければ、また招きがなければ、私たちはこのように共にイエスを礼拝することはありませんでした。イエスに感謝しつつ、今日も共にイエスの十字架に目を向けたいと思います。
祈ります。「強盗の巣」
そして、人々に教えて言われた。「『わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではないか。

2026/3/22(日)「それぞれの思惑」マルコ11:1~11 庄司牧師

2026年3月22日 マルコの福音書11:1~11 「それぞれの思惑」
さて、一行がエルサレムに近づき、オリーブ山のふもとのベテパゲとベタニアに来たとき、イエスはこう言って二人の弟子を遣わされた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばが、つながれているのに気がつくでしょう。それをほどいて、引いて来なさい。もしだれかが、『なぜそんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐに、またここにお返しします』と言いなさい。」弟子たちは出かけて行き、表通りにある家の戸口に、子ろばがつながれているのを見つけたので、それをほどいた。すると、そこに立っていた何人かが言った。「子ろばをほどいたりして、どうするのか。」弟子たちが、イエスの言われたとおりに話すと、彼らは許してくれた。それで、子ろばをイエスのところに引いて行き、自分たちの上着をその上に掛けた。イエスはそれに乗られた。すると、多くの人たちが自分たちの上着を道に敷き、ほかの人たちは葉の付いた枝を野から切って来て敷いた。そして、前を行く人たちも、後に続く人たちも叫んだ。「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。祝福あれ、われらの父ダビデの、来たるべき国に。ホサナ、いと高き所に。」こうしてイエスはエルサレムに着き、宮に入られた。そして、すべてを見て回った後、すでに夕方になっていたので、十二人と一緒にベタニアに出て行かれた。

いよいよイエスと弟子の一行は、十字架の待っているエルサレムに入城(入場⇔退場ではない)することになります。イエスの公生涯の三年半、そのほとんどはガリラヤとその周辺を舞台とした宣教でした。しかし公生涯の最後の一週間は、イスラエルの中心地であるエルサレムにおいての宣教です。わずか一週間のエルサレム宣教の記述は、マルコの福音書16章のうち、11~16章の6章分、三分の一ほどを費やしています。イエスの十字架、葬り、復活がどれほど大切なのかが分かります。 1節に記されていますが、イエスと弟子たちはエリコの町を出発し、長い坂道を上って、オリーブ山のふもとのベテパゲ、またその近くにあるベタニアの町までやって来ました。 これはイエスが十字架にかけられる前の週の、金曜日に当たります。イエスの一行は、翌日の土曜日は安息日だったためそのままエルサレムには入らず、ベタニアでマルタとマリア、ラザロの家で一日を過ごされ、日曜日にエルサレムに入られました。
エルサレムに入られる時、イエスは二人の弟子を使いに出して、「向こうの村」からロバを借りて来るように言われました。「向こうの村」とはベテパゲかベタニアのどちらかになります。 ベタニアにはマルタとマリア、ラザロの家がありました。彼らはイエスを愛し、従い、協力を惜しまない家族でした。またこのベタニアだけでなく、隣の町のベテパゲにも、イエスの弟子や協力者がいたと思われます。それでロバの持ち主は以前から、イエスのためにできることがあれば、何か手伝うと言っていたかもしれません。いずれにせよ、イエスが命じられた通り、イエスの使いはロバを借りることができました。 二人の弟子たちとロバの持ち主のやり取りは、イエスが予知、前もって全てを知っておられることの現われです。 イエスの言われたことは実際に成就、実現しました。そしてイエスがロバに乗ってエルサレムに到着した時の人々の様子が、8節から10節に描写されています。8節にはこのように記されています。多くの人たちが自分たちの上着を道に敷き、ほかの人たちは葉の付いた枝を野から切って来て敷いた。人々がイエスを大歓迎している様子が描写されています。葉の付いた枝を敷いたとありますが、ヨハネの福音書の12章には、その葉の付いた枝を「棕櫚の木」と記しています。そのため現在では、イエスがエルサレムに入城した日を記念して、イースターの一週間前の日曜日を、「棕櫚の日曜日」と呼んでいます。

一方イエスがロバに乗ってエルサレムに入られることは、旧約聖書に記されている預言の成就、実現でもありました。旧約聖書、ゼカリヤ書にはこのように記されています。9章9節。
娘シオンよ、大いに喜べ。娘エルサレムよ、喜び叫べ。見よ、あなたの王があなたのところに来る。義なる者で、勝利を得、柔和な者で、ろばに乗って。雌ろばの子である、ろばに乗って。
ゼカリヤ書に記されているシオンの娘とは、エルサレムの住民を指す詩的な表現です。イエスの生まれる前、約500年前に書き記されたザカリヤ書ですが、果たしてその預言通りにイエスはロバに乗ってエルサレムに入城されました。群衆がイエスの入城をこの預言の観点から見て、イエスを王として迎えたことは疑う余地がありません。また人々は歓喜のあまり、讃美をもってイエスを迎え入れています。この時の様子が9節と10節に描写されています。
「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。祝福あれ、われらの父ダビデの、来たるべき国に。ホサナ、いと高き所に。」これは詩篇を群衆が引用してイエスを讃美している姿です。
「ホサナ」ということばは、現代においても神やイエスへの深い感謝、称賛、喜びを表す言葉として使われています。 群衆は熱狂的にエルサレムに入城したイエスを大歓迎しました。
ここまで見ると、イエスがエルサレムに入られたことは、何も問題がないように思えます。しかし同じ出来事が、別の角度で記されている他の福音書と読み比べて見る時、色々な人間模様が見え、また群衆それぞれに、イエスに対する様々な思惑があることが見えて来ます。

例えばマタイの福音書の21:10,11節です。ホサナと叫んでイエスを大歓迎している様子はマルコの福音書と変わりませんが、このように描写されています。
こうしてイエスがエルサレムに入られると、都中が大騒ぎになり、「この人はだれなのか」と言った。群衆は「この人はガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言っていた。
イエスを大歓迎している群衆の中に、「この人はだれなのか」と、イエスが何者であるかが分かっていない人々がいたということが分かります。また「この人はだれなのか」という問いに対して
「この人はガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と答えた別の群衆がありました。イエスを力ある一預言者として捉えていますが、罪から救う救い主とは捉えていません。つまりそこにいた群衆は、イエスが偉大な者であると認識していたかもしれませんが、ただの人間として捉えているということが分かります。
また、平行箇所のヨハネの福音書12章には、このような宗教指導者のことばが記されています。
それで、パリサイ人たちは互いに言った。「見てみなさい。何一つうまくいっていない。見なさい。世はこぞってあの人の後について行ってしまった。」

イエスが人々に人気となり、自分たちから人々が去っていくのを嘆き、またイエスに嫉妬している姿です。彼らはイエスの人気が高まり、それが暴動に発展すれば、ローマ帝国の軍隊が介入して自分たちの立場が危うくなる。嫉妬だけでなく、自分の身を守ろうろうとする保身も垣間見えます。そこからイエスを殺害したいという思いにまで発展していき、実際にイエスを十字架に架けていく動力となっていきます。
マルコの福音書に戻りますが、10節で群衆は、われらの父ダビデの、来たるべき国に。とイエスを歓迎しています。一方マタイの福音書の21章には、「ホサナ、ダビデの子に」と、群衆がイエスを賛美しています。「ダビデの国、ダビデの子」と群衆が賛美したのは、イエスがダビデ王の子孫として、強かったダビデ王国を再び復興させてくれる、この世の政治的な王であると捉えていたということです。その力を持ってローマ帝国を蹴散らし、ユダヤをローマ帝国から解放し、再びダビデ王国を復興してくれる。群衆はそのような期待を、イエスに対して持ちました。
罪を赦し、神との関係を回復させるためにイエスがこの世界に来て下さった救い主である、ということを、群衆のほとんどが理解していない、分かっていないということです。

棕櫚の枝を持ってイエスを熱烈に歓迎した人々が、数日後にはイエスを十字架につけろと叫ぶ者たちに変わっていきます。例え宗教指導者である祭司長やパリサイ人、律法学者の巧みな扇動に乗せられたとはいえ、です。イエスを大喜びで迎えた人々が、僅か一週間の後、「この男を殺せ!」と叫ぶ者に変わっている。自分の上着を差し出して「ホサナ」と歓声を上げてイエスを迎えた人々が、一週間後には「十字架につけろ。殺せ」と叫びだす。なぜでしょうか。
それはこの後イエスが、自分たちをローマ帝国から解放しないことが分かったからです。彼らは自分たちの期待が裏切られたからです。彼らの思惑、目論見が叶わなかったからです。彼らはイエスに対する失望を怒りに変え、イエスに敵対する者になってしまいました。これが罪深い人間の姿だと言わざるを得ません。

本日の聖書の箇所には他にも色々な人々、色々な思惑を持っている人々が登場します。
ラザロをはじめ、イエスがなさった奇蹟、しるしを見たい、確かめたいと好奇心で集まっている人々。過ぎ越しの祭りを祝いに来た巡礼中だった人々。イエスの力ある奇蹟を見て、地上の力ある王とみなす人々。イエスが武力でローマ帝国から解放してくれるとイエスに望みを置いた人々。イエスが何者なのか疑っている人々。イエスを旧約聖書に登場する一預言者とみなしている人々。そしてイエスの人気を自分たちの人気と比べて憎しみ、嫌悪する人々。一方その中には先週見たバルティマイをはじめ、イエスに信頼し、イエスを罪からの救い主と信仰をもって従っていた人々もいました。
イエス・キリストを通して、色々な人間がいることが浮き彫りになっていきます。

一方群衆からの歓迎と讃美を受けられたイエスの思い、心情はどのようなものだったでしょうか。本日見ているマルコの福音書、マタイ、ヨハネの福音書にはこの時のイエスの思いは描写されていません。沈黙しています。それはルカの福音書においてのみ、イエスの思いが描かれています。ルカの福音書19章41節、42節です。このように描写されています。エルサレムに近づいて、都をご覧になったイエスは、この都のために泣いて、言われた。「もし、平和に向かう道を、この日おまえも知っていたら──。しかし今、それはおまえの目から隠されている。」
色々な思惑のある人々。イエスによってもたらされようとしている、神の国の訪れを見ようとしない人々。神との平和、神の恵みを拒んでしまった人々。このような驕り高ぶりの結果、それから40年足らずの間にこのエルサレムはローマ軍によって徹底的に破壊され、エルサレムに住む人々は死と苦しみを味わうことになりました。エルサレムの現実の姿と、将来のエルサレムに対してイエスは涙を流されました。

私たち人間は理想を求めます。追い求める存在です。それは神に対しても同じです。強くて優しい神が欲しい。奇蹟を経験させてくれる神が欲しい。分かり易く理解できる神が欲しい。自分の願いを叶え、自分の思い通りに動いてくれる神が欲しい。
イエスは、私たち人間が持つ神概念、神に求める理想や期待を否定され、覆されました。 それは子ロバにまたがり、エルサレムに入城する姿を通して表されています。イエスはロバに乗ってエルサレムに入られました。 普通王のように偉大な者であれば、馬に乗って登場します。敵に勝ち、自分の国に帰って来た英雄は、凱旋の時に馬に乗って来ることからも分かります。 馬は勝利の象徴であり、戦いの象徴です。 もし馬でエルサレムに入ってこれば、それは見栄えも良いものです。
しかしイエスはエルサレムにロバで入城されました。しかもロバの子どもです。まだ体の未成熟な子ロバがヨチヨチ歩くその上に、メシヤなるお方が乗っている。あまりにも滑稽な、間の抜けた光景ではないでしょうか。 この登場によってイエスは、戦いの王を求める群衆に対し、自分の理想や期待を求める群衆に対し、ご自身が平和の王であることを宣言されています。声なき宣言です。子ロバにまたがる平和の君、キリストとして、イエスは人々にご自身を現わされました。 そしてイエスがキリスト、救い主として完成されるのが、十字架を通してでした。
11節、こうしてイエスはエルサレムに着き、宮に入られた。群衆のイエスに対する無理解、勝手な理想と期待、自己中心的な姿を見た後イエスは、将来のエルサレムの姿と重ねながら、涙と共に、神が臨在される宮に入られました。罪深い人間の身代わりのために十字架に架けられるという、神が立てられたご計画をいよいよ実行に移されていく時の痛み、孤独、叫びを祈られたのだと思います。 イエスは父なる神の御心を第一にされました。いのちをかけて神のご計画に従われ、ロバに乗って来られるほどに謙られ、柔和なお方でした。 それは全て、私たち人間への愛でした。

私たち人間の様々な思惑を超えて、イエスは十字架を通して私たち人間の救いを完成させて下さったお方です。そのイエスの十字架の苦しみを、十字架を偲ぶ受難節で覚え、また感謝をお捧げしたいと思います。
祈ります
「それぞれの思惑」
こうしてイエスはエルサレムに着き、宮に入られた。
十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。
(Ⅰコリント1:18)
この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。
(Ⅰコリント1:21)

2026/3/1(日)「神の国を受け入れる」マルコ10:35~45 庄司牧師

2026年3月1日 マルコの福音書10:35~45「神の国を受け入れる」
ゼベダイの息子たち、ヤコブとヨハネが、イエスのところに来て言った。「先生。私たちが願うことをかなえていただきたいのです。」イエスは彼らに言われた。「何をしてほしいのですか。」彼らは言った。「あなたが栄光をお受けになるとき、一人があなたの右に、もう一人が左に座るようにしてください。」しかし、イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、自分が何を求めているのか分かっていません。わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができますか。」彼らは「できます」と言った。そこで、イエスは言われた。「確かにあなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることになります。しかし、わたしの右と左に座ることは、わたしが許すことではありません。それは備えられた人たちに与えられるのです。」ほかの十人はこれを聞いて、ヤコブとヨハネに腹を立て始めた。そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められている者たちは、人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。しかし、あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」( マルコの福音書10:35-45 )

今年のテーマは「神の国を受け入れる」です。前回、金持ちの青年のお話をしました。当時金持ちは神の祝福されている人、それゆえ救いに近い人だと思われていました。しかし彼は神よりも財産に執着したゆえに、神の国に入ることができないとイエスに指摘されました。
神、すなわちイエスが支配されておられる神の国の規準は、私たちの常識、価値観、規準とは「逆」「反対」であるという一つの例です。 本日の聖書箇所は、神の国の規準、すなわちイエスの規準が、人間の規準とは異なる最たるものです。共にみ言葉から見て行きたいと思います。
本日の聖書箇所は、弟子たちの願いから始まっています。
10:35 ゼベダイの息子たち、ヤコブとヨハネが、イエスのところに来て言った。「先生。私たちが願うことをかなえていただきたいのです。」イエスは人の心を見抜かれます。彼らの願いがどういうものであるかを御存知でした。しかしあえて彼らに願いを語らせました。
10:36 「何をしてほしいのですか。」心にあるものをことばに登らせることによって、イエスは彼ら自身が何を考え、何を願っているのかをはっきりさせました。しかし彼らが口に出したことは神の、すなわちイエスの規準の逆、反対のものでした。すなわち御心に適わない願いでした。
10:37 「あなたが栄光をお受けになるとき、一人があなたの右に、もう一人が左に座るようにしてください。」彼らは神の国を地上の王国のように考え、地上と同じような地位と栄光を求めました。主イエスが王となられる時に、自分たちを右と左に座らせてください、すなわち主イエスの側近く、最も高い地位につけてください、と願いました。ヤコブとヨハネは、他の弟子たちよりも偉くなりたいと思った訳です。 これを聞いた他の10人の弟子たちは腹を立てました。二人に出し抜かれたと思ったようです。彼らも権力や栄誉を求め、自分が最も偉くなり、イエスと共に高い地位につきたい、と思っていたことが分かります。かつてイエスの弟子たちは誰が一番偉いかと論じあっていたことがありましたが、全く変わっていません。それに対してイエスは38節で、
10:38 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、自分が何を求めているのか分かっていません。わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができますか。」
10:39 彼らは「できます」と言った。そこで、イエスは言われた。「確かにあなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることになります。
この杯とは何を指しているのでしょうか。イエスは十字架の直前、ゲツセマネの園でこのような祈りを献げられました。「父よ、もし出来るならばこの杯を私からとりのけて下さい」主イエスでさえ、断りたくなるような杯です。
旧約聖書、エレミヤ書、25章15節にはこのような神のことばがあります。まことにイスラエルの神、主は、私にこう言われた。「この憤りのぶどう酒の杯をわたしの手から取り、わたしがあなたを遣わすすべての国々に、これを飲ませよ。」従って杯とは、神の怒りが満たされているものの象徴であることが分かります。その怒りを飲ませるとは、神を信じない、神に従わない国々に、神の裁きが下るということが表されています。 先週出エジプト記を見ました。イスラエルが金の子牛を神として作り、崇め、不品行を行い、神に裁かれました。 しかし今の日本を見ても、また世界を見ても、イスラエルと全く変わりはありません。同じです。 偶像を作り、それを拝み、仕え、従っています。ですからイエスが言われる杯とは、神を信じない、従わない人類に対する神の怒りであり、その怒りは、罪ある全ての人間に向けられているということになります。
ではイエスが言われた、わたしが受けるバプテスマとは何を意味しているのでしょうか。イエスはルカの福音書の中でこのように語られています。ルカの福音書12:50 わたしには受けるべきバプテスマがあります。それが成し遂げられるまで、わたしはどれほど苦しむでしょう。
イエスが言われた受けるべきバプテスマとは、苦しみであることが分かります。そしてそのためにどれほど苦しまなければならないのか、というイエスの責任、義務、そして使命を感じさせることばです。 本日の聖書箇所には、私が受けるバプテスマと、神の怒りが満たされている杯とが結びついています。従って私が受けるバプテスマとは、杯、つまり神の怒りを飲む-すなわち神の怒りをその身に受ける、十字架の痛み、苦しみ、苦難を表していることが分かります。本来であれば犯罪者が架けられる十字架ですが、イエスは神の怒りを人類の身代わりに十字架で受け、その身代わりの苦難のことを、イエスは「私が受けるバプテスマ」と呼ばれました。
ですからイエスが「わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができますか。」ヤコブとヨハネに尋ねられた本当の意味は、あなたたちは神の怒りに触れることが出来ますか?
神の怒りに対して神と人との間に立ってとりなすことが出来ますか?神の怒りを宥めることができますか?神の怒りをその身に受けることができますか?そのように聞いておられるということです。途方もないことをイエスは二人に問われた。ヤコブとヨハネはもちろんそのようなことは分かりません。いや、どのような人間であっても分かるはずがありません。ですから彼らは分からず、その重大な意味を理解できなかったゆえに、簡単に「できます」と答えました。答えることができました。罪に対する、また神の怒りに対する人間の無知、理解の乏しさを弟子たちが代表し、また表していると言えます。 イエスは彼らの無知や無理解を承知の上で、「確かにあなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることになります。」と言われました。
それはイエスがあじあわれる十字架の苦しみとは比べることはできませんが、イエスのために、福音のために彼らが将来受けることになる迫害、痛み、苦難、そして死を予知、預言していることばでもあります。 実際に彼らは苦難や痛みをこれから経験して行くことになります。ヤコブはエルサレムで迫害のためにヘロデ王に殺害されて殉教します。(使徒12:2)そしてヨハネはローマ皇帝ドミティアヌスの迫害によって、パトモスという島に、島流しになりました。(黙示録1:9)
イエスはヤコブとヨハネの将来に起こることを踏まえながら、人間の願いと神のご計画が異なるということを40節で語られました。
10:40 しかし、わたしの右と左に座ることは、わたしが許すことではありません。それは備えられた人たちに与えられるのです。」このような名誉を意のままに与えることはイエスに任せられたのではなく、父なる神にのみ属するということです。 神の子であるイエスですら、父なる神の御心に、ご計画に従っている。そしてそれが人類の身代わりのための十字架である。従って自分の願いや計画よりも、神の御心、ご計画に従って生きることが一番大切である。栄誉や栄光を求めて生きることは重要ではない、ということをイエスは彼らに諭されています。 さらにイエスはここで、彼らが願っている栄誉、求めている栄光が、この世の規準、そして神を知らないで歩んでいる者たちと同じ-ここでは異邦人を代表させて-であることを42節で警告として語られ、そうあってはならない、そのように歩んではならないと43節、44節で語っておられます。
10:42 「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められている者たちは、人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。
10:43 しかし、あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。
イエスは異邦人世界の規準、すなわちこの世の規準と、神の国の規準、イエスご自身の持っておられる規準とを、明確に対比されました。それは自分のためではなく、他者のために仕え、尽くしていくことを使命とする生き方です。 さらに44節においてこのように語られました。
10:44 あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。
しもべとは、自分の身柄(仕事も生活も)が他者に属するいわゆる奴隷の意味です。従ってイエスは、神の国の価値観や生き方、規準はこの世のものとは全く反対で、偉い人、人の上に立ちたいと思っている人はむしろ徹底して仕えなさい。そして先頭に立つ者、支配者は、しもべのように、そして奴隷のように人々のために生きるべきだ、と言われました。 実際にイエスは、弟子たちに教えられたとおりに生きたお方です。45節にそのことが述べられています。
10:45 人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。
イエスの弟子たちがなぜ、仕える者の姿をとるべきなのかという理由、そして根拠が語られています。それはそもそもイエスが、仕えられるためにではなく、仕えるためにこの世に、この世界に来たからだ、ということです。そしてイエスが人々に仕えるためにこの世に来たということが具体的に表されているのが、「十字架」への歩みであり、また「十字架」で成し遂げられたことでした。
「十字架」への歩みと、「十字架」で成し遂げられたことをイエスはここで「贖いの代価」ということばを使って説明されておられます。
何度かお話していますが、贖いとは、戦争の捕虜や奴隷、負債者を解放するため、自由にするために、誰かがその人を買い戻すための身代金を意味します。「多くの人のため」とありますが、これは一部の人ではなく、人類を包括する、人類全てと理解して良いでしょう。イエスが人間として歩まれた今から2000年前の時代を超え、今を生きている日本人も、全ての国、民族も含まれます。イエスは、神を信ぜず、自分勝手に歩んでいる人間に対する神の怒りの杯を、十字架で全て受け止めて下さいました。またイエスが十字架で受け止められたのは神の怒りだけでなく、私たち人間の罪と、罪から来る死でした。さらにイエスは悪魔、サタンが人間の罪を足場にして、人間を奴隷にしているその私たち人間を、十字架を通して解放して下さるお方です。それら全てが十字架の贖いを通して成し遂げられました。 罪に束縛されている人間を解放し、神の怒りを宥め、またサタンの奴隷からも解放する業が十字架です。それもご自身が私たちを生かすためにしもべになり、奴隷となって仕えて下さったからです。 またこの45節には「贖い」という思想だけではありません。「いのちを与えるために来た」とイエスが語られた「いのち」にも深い意味があります。

「いのち」は、新約聖書の原語のギリシャ語で「プシュケー」ということばが使われていますが、いのちという意味の他に、魂、生涯、自分自身などを意味することばでもあります。 イエスは私たちたちを罪と死と、サタンの奴隷から解放するために私たちを贖って下さいましたが、その代価、すなわち私たち人類に捧げて下さったのはいのちだけではない-心、感情、意志などを含む魂、イエスの歩まれた全生涯、そしてイエスご自身。すなわちイエスは、イエスが持っておられるすべてを、私たちのために与え尽くして下さった、ということが表されていることばです。 そしてその全てが、十字架に集中、結集していると言えます。イエスの十字架の死は、「多くの人の身代金」としての、死でした。捕えられ、捕虜となっているのは私たちのことです。自分たちを右と左に座らせてくださいと願った二人の弟子たちも、それに憤慨した他の弟子たちも、そして人と自分とを見比べることによって一喜一憂している私たちも、すなわち罪の中に足を取られ、身動きできない私たち一人一人の人間のための、身代金でした。イエスが十字架に架かるほどに父なる神の御心に、またご計画に従順に従われました。それほどまでに私たち人間に仕えて下さったゆえに、今私たちはイエスの十字架の贖いを信じることによって罪赦され、神の子とされる特権に与ることができました。そしてイエスによって救われた私たちもまた、イエスが人々に仕えられたように、人に仕えていく者として召されています。どれだけ仕えることが出来るのか、他の人と比べてどうなのか、などということは問題にはなりません。不十分にしか出来ないかもしれませんが、それでも喜んで、感謝しつつ、自分に出来ることを通して人に仕えていく。イエスを模範として。
イエスの仕える姿は、この世、この世界の規準の逆、反対です。そしてその反対の規準にある神の国に、私たちはイエスを通して入れて頂けました。イエスに感謝しつつ、神の国、すなわちイエスの規準によって歩み、人々に仕えていくことができますように。
祈ります。
「神の国を受け入れる」
人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。

「イエスの個別指導」

2024年3月31日(日) イースター礼拝

聖書:ルカの福音書 24章13~27節

説教:庄司牧師

賛美♪(曲名をクリックするとYoutubeで視聴できます)  
🌈聖書引用
 新日本聖書刊行会 聖書 新改訳2017 (新改訳聖書センター)

「安全第一!?」

2024年2月25日(日) 主日礼拝

聖書:ダニエル書 1章6~17節

説教:クリス宣教師

賛美♪
 イエスよ十字架に     新聖歌    101番 
 わが主イエスよ、ひたすら 讃美歌21  483番
 天のみ民も        讃美歌21   29番

🌈聖書引用
 新日本聖書刊行会 聖書 新改訳2017 (新改訳聖書センター)