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2026/7/26(日) 「誰よりも多く投げ入れた人」マルコ12:38~44 庄司牧師

2026年7月26日 マルコの福音書12:38~44「誰よりも多く投げ入れた人」
イエスはその教えの中でこう言われた。「律法学者たちに気をつけなさい。彼らが願うのは、長い衣を着て歩き回ること、広場であいさつされること、会堂で上席に、宴会で上座に座ることです。また、やもめたちの家を食い尽くし、見栄を張って長く祈ります。こういう人たちは、より厳しい罰を受けます。」それから、イエスは献金箱の向かい側に座り、群衆がお金を献金箱へ投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持ちがたくさん投げ入れていた。そこに一人の貧しいやもめが来て、レプタ銅貨二枚を投げ入れた。それは一コドラントに当たる。イエスは弟子たちを呼んで言われた。「まことに、あなたがたに言います。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れている人々の中で、だれよりも多くを投げ入れました。皆はあり余る中から投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っているすべてを、生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから。」
本日の箇所はイエスの警告から始まっています。「律法学者たちに気をつけなさい!」その問題点をイエスは指摘されていきます。彼らは長い衣を着て歩き回ること、そして人々から広場であいさつされることを好みました。 長い衣は彼らが律法学者であることを示すシンボルです。その衣をまとっていると、人々が尊敬して頭を下げるのです。また「広場で挨拶される」ことも彼らが願うことでした。町の広場は市、市場が立つ所でもあり、様々な市民生活が営まれる場です。そこに集まる多くの人々から特別な人として尊敬され、みんなに「先生」と呼ばれて挨拶されることを、律法学者たちは好みました。 彼らは、会堂で上席に座ること、そして宴会で上座に座ることも好きでした。「会堂の上席」というのは、ユダヤ人たちの礼拝の場であるシナゴーグと呼ばれる会堂において、聖書を納めた箱の前の席のようです。 一般の人々の席と向かい合っており、礼拝を司る人の席です。 現在の教会、また礼拝堂で言えば、講壇の上の説教者や司式者の席と思えばよいでしょう。 律法学者たちは常にその席に座ることを望みました。彼らは宴会の場でも上座を求めました。結婚式の披露宴で言えば、主賓のテーブルに席を求めるようなものです。
人々が神への信仰を持っていれば、その神のことばを取り扱っている律法学者たちが尊敬されるのは自然なことであり、当然のことだったかもしれません。しかしいつのまにか人々の尊敬から傲慢になり、人々からの尊敬を得ることを重んじ、求めるようになっていった。始めは彼らも神を信じ、神に喜ばれ、人にも喜ばれるように律法を教えていたかもしません。しかしいつしか「先生、先生」と呼ばれるようになり、神からの見えない、また感じない評価よりも、人からの見える、また感じる評価を求めるようになっていったと思われます。
またイエスは律法学者たちに対して、彼らはやもめたちの家を食い尽くし、見栄を張って長く祈ると指摘されました。 「やもめ」は多くの場合、「みなしご」と並んで社会的弱者、貧しい者の代表として聖書に出てきますが、この場合の「やもめ」は、夫の遺産を受け継いだ金持ちのやもめ、未亡人たちのことです。律法学者たちはそういうやもめたちに寄付をさせる-いわゆる慈善の行為をさせて金を出させていたようです。そのような行為はユダヤの人々にとって大変立派なこととして尊ばれ、尊敬されることでした。そしてやもめだけでなく、そのように彼女たちを指導した律法学者たちの名声も高まりました。そのことを受けてイエスは、彼らはやもめたちの財産を食い尽くしている、と言われたのだと思います。 また律法学者たちの祈りは、深さより長さを特徴としていました。人前で長い祈りをすることで、あの人は敬虔な人、信仰深い立派な人だという評判を得ようとしました。祈りの対象は神です。しかし彼らは自分を立てるために言わば神を利用したのと同じです。彼らは最後にその刈り取りをしなければならないでしょう。イエスは平行箇所のマタイの福音書23章の中で、彼らのことを「白く塗った墓」などと言われました。外見は綺麗にしているが、中は汚れでいっぱいであるとの皮肉であり、批判です。そしてこの23章の中において、イエスが繰り返し使われたことばがありました。「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。」23章の中で7,8回使われています。 彼ら律法学者たちは、見た目には私たちが驚くほどに厳格な、正しい、聖い生き方をしていました。しかしそういう彼らの聖さ、正しさとは、自分自身を誤魔化すための行いであり、演技であり、偽善だ、とイエスはおっしゃるのです。
一方、人の目を意識し、人の目を気遣い、人の目によって自分を評価していた律法学者たちとは異なる、人の評価に全く左右されずに生きている一人の女性が登場します。 エルサレム神殿の内庭には献金箱が設置されていました。宮に出入りする礼拝者が任意、自分の意志をもって自由にお金を投げ入れました。神に献げるお金を入れる箱です。 一説によればこの献金箱の傍らには祭司がいて、人々がそこに入れる献金を記録に留め、そして周囲の人々に聞こえるように、「誰々さんがいくら献金なさいました」と告げていたのではないかと言われています。 
この時イエスは、その献金箱の向かいに座って、人々がそれにお金を入れる様子を見ておられました。「多くの金持ちがたくさん投げ入れていた。」とあります。祭司がその人たちの名前と献金額を読み上げる、すると人々の間から「おお」と感嘆の声が上がる。そのようにして金持ちたちは大いに面目を施していました。そのような中、一人の貧しいやもめがやって来ました。この人は先程の、律法学者たちに食い物にされるような金持ちのやもめではなく、「貧しいやもめ」です。そのやもめが献金箱に、「レプタ銅貨二枚、すなわち一コドラント」を投げ入れました。一レプタは一デナリの128分の一です。一人の労働者が一日働いてもらう賃金が一デナリでした。ですからこの献金がかなり小額だったことが分かります。 献金の記録係がこの献金を人々に告げた時、金持ちたちの献金を報告するのとは、全く違ったのではないかと想像します。恐らく冷めた、冷たい声だったのではないでしょうか。また、回りの人々は軽蔑の目で彼女を見、またことばに出したかもしれません。「それだけか!」「そんなはした金を捧げるなんて、何を考えているんだ!」「あきれた」「よく恥ずかしくないね」
もし彼女が人目を気にしていたとしたら、とてもこの額を献げることはできなかったでしょう。逆に言えば彼女は人目を気にしなかったからこそ、人からの評価によって自分を量ることをしなかったからこそ、この献金を献げることができたと言うことができるのではないでしょうか。 つまり彼女は人との比較から解放されていた、ということです。金持ちたちが多額の献金をしている中でレプタ銅貨二枚を差し出すことは、人の目を気にして、人と自分を見比べて生きている者には到底出来ないことです。「あの人のあんな立派な献げ物の後で、こんなみすぼらしい、ちっぽけなものを献げるなんて恥ずかしい」と思ってしまうでしょう。しかし彼女は周囲の冷たい目や軽蔑のまなざしに関わらず、レプタ二枚を献げました。それは彼女が人の目、人からの評価、評判によってではなく、ただ神を見つめ、ただ神に認められる、神に喜んで頂ければそれでいい、そのように「神中心」に生きていたからに他なりません。彼女はただ、神を見つめていた人でした。人の目を気にすることや、人と自分を見比べて喜んだり悲しんだりすることから解放されている彼女は、乏しい生活費を全部、全て、神に献げてしまいました。それは、自分の生活を全て神の恵み、養い、導きにお委ねしたということです。人と自分を比べて、自分は全てを神に献げているといった、誇るような思いは少しもありません。もしそのような思いが少しでもあったならば、このような献げ物はできなかったでしょう。ですから彼女が生活費も含めた全部を献げたということは、彼女が人の目から自由であるだけでなく、自分で自分の安心を確保しようという思いからも完全に自由であった、ということができるでしょう。だからこそ、神の恵みに、神の支えに、神の備えに全てをお委ねすることができました。このやもめは、翌日からどのようにして生きていくかという思い煩いはありませんでした。ここまで神を信頼し、全てを委ねる生き方ができるとしたら、それはどれほど平安であり、豊かで、幸せな人生ではないでしょうか。
その彼女の姿勢を、態度を、お金を通して自分を献げるという献身を、イエスが感動をもって弟子たちに語られています。イエスは弟子たちを呼んで言われた。「まことに、あなたがたに言います。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れている人々の中で、だれよりも多くを投げ入れました。皆はあり余る中から投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っているすべてを、生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから。」イエスは、このやもめが誰よりも多く投げ入れたと語られました。「まことに」とは、原語のギリシャ語で「アーメン」です。真実です、本当です、という意味であり、私たちが日々の祈りでも用いていることばです。イエスは「アーメン、真実を告げる」と言ってから、彼女は誰よりも多く投げ入れたと語られました。生活費を全て献げるほどに彼女は主なる神を愛し、また日々の生活を支えて下さるという絶対的な信頼、神への揺るぎない信頼を持って生きていました。
ところで本日の箇所は誰に語られているのでしょうか。12章の37節の後半には、「大勢の群衆が、イエスの言われることを喜んで聞いていた。」とあります。この直前には、律法学者たちをはじめとした宗教指導者たちが、イエスとの論争に完全に敗北した姿が描写されています。律法学者たちの姿をいつも見ていた当時の人々は、彼らの鼻持ちならない姿にうんざりさせられながらも、しかし律法の教師である彼らを尊重しないわけにはいかない、という思いでいたようです。 ですから人々にとって、イエスが律法学者たちの悪意ある問いに真正面から答え、完全に論破する姿は、本当に胸のすくものだったでしょう。しかしイエスはその群衆に向かって「律法学者に気をつけなさい」とおっしゃったのです。「気をつけなさい」ということは、あなたがたも律法学者たちと同じようになってしまわないように注意しなさい、ということです。そしてこれは現代における私たち一人一人も同じ、イエスからの警告であると思います。
私たちはこの社会の中で、人々と共に生きている存在です。一人で生きていくことはできません。人と共に生きている以上、人の目が気になり、人が自分をどう評価しているかを気にすることも、また人に評価され、褒められることを求めていくことも、自然なことです。つまりこの律法学者たちの姿は、人間の自然な姿を描き出していると言うことができます。そしてそのような生まれつきの、すなわち罪深い私たちの自然な姿、ありのままの私たち人間の姿というのは、人の目を気にして生き、その中において優越感と劣等感、誇りや妬みが分ち難く存在している、偽善に満ちた、決して幸せとは言えない姿だと思います。しかしそのような本来の自然な人間の姿から解放されている人がいました。それがこの貧しいやもめです。人々から蔑まれるような、馬鹿にされるような額の献金しかしなかった、またはできなかった彼女は、人の目を気にするというところから解放され、人の目によって自分が評価されるということからも解放され、ただ、神に喜ばれたいという一心で、自分の持っている精一杯を献げるような女性でした。彼女が人の目を気にすることから解放され、優越感と劣等感、誇りと妬みの狭間で苦しむことから解放されているのは、主なる神を信じていたからです。神を知る-神がどういうお方であるかということを知り、神との交わりの中で神の人格を知り、経験していく中で培われていった信仰、信頼から来ています。 そして彼女は人ではなく、神が喜ばれること、すなわち神の御心を求め、また神への感謝、神が自分を支えて下さるという確信、保証、安心、平安などを持つに至りました。それらがなければ、自分の生活費全部を献げることはできません。神なら自分を支えて下さる。日々養って下さる。神に対する信仰と信頼が、生活費全てを献げるという、目に見えるにかたちになりました。そしてこの献金の場面にイエスが来られました。イエスは彼女が貧しいということ。二レブタが彼女の全財産だということを知っておられました。そして彼女の心、献身の思いを知っておられ、感心されました。
この一連の出来事-やもめの心、信仰、神に対する信頼、行動は聖書に記されました。 名前も出て来ない一人のとても貧しい女性が、神を信じ、信頼する素晴らしい信仰者として、素晴らしい生き方の模範として、また神は全てを知っておられるという例として、そしてイエスがそのような人を愛しておられるという証として、聖書に記されることになりました。 イエスがこれから十字架に架かっていくという時に、イエスがこの献金箱の前におられたこと。この女性が現れ、持っているものを全て献げたこと。その場面をイエスが見、イエスが語られ、そして聖書に記されていること。これら全ては決して偶然ではないと思います。それは現代を生きる私たちも含め、全て聖書を読む一人一人に語られている出来事です。
イエスはこの数日後、私たち人間の罪を全て背負って、十字架にかかって死なれようとしています。それは律法学者のように自分の能力や財産に頼り、時に誇り、人の目を気にして生きていく私たち人間のために、またそのような歪みの元となった罪のため、罪の身代わりのためでした。
イエスは、このやもめがレブタ銅貨二枚を、心を込めて神に献げるその姿を、じっと見つめておられました。そのまなざしは愛と慈しみに満ちていたでしょう。その同じ温かな眼差しが、イエスを信じる私たち一人一人にも注がれています。
私たちが献げる小さな祈り。私たちの献げもの。隣人に対する、また会ったことも、話をしたこともない人々のために祈る小さな執り成し。そして神への感謝と讃美。 それがどんなにちっぽけであっても、私たちはこのやもめのように、人の目、人の評価から自由になって、人からの誉れを越えて、自分の力、自分の持っているものを、心をこめて神にお献げして生きることができます。そのように私たちを変えて下さるイエスに、またその愛の眼差しに、今日も感謝しつつ、イエスと共に歩んでいきたいと思います。
祈ります
「誰よりも多く投げ入れた人」
この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れている人々の中で、だれよりも多くを投げ入れました。皆はあり余る中から投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っているすべてを、生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから。

2026/7/19(日)「恵もうと待ち構えておられる主」出エジプト記33:12~19 庄司牧師

2026年7月19日 「恵もうと待ち構えておられる主」出エジプト記33:12~23
さて、モーセは主に言った。「ご覧ください。あなたは私に『この民を連れ上れ』と言われます。しかし、だれを私と一緒に遣わすかを知らせてくださいません。しかも、あなたご自身が、『わたしは、あなたを名指して選び出した。あなたは特にわたしの心にかなっている』と言われました。今、もしも私がみこころにかなっているのでしたら、どうかあなたの道を教えてください。そうすれば、私があなたを知ることができ、みこころにかなうようになれます。この国民があなたの民であることを心に留めてください。」主は言われた。「わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる。」モーセは言った。「もしあなたのご臨在がともに行かないのなら、私たちをここから導き上らないでください。私とあなたの民がみこころにかなっていることは、いったい何によって知られるのでしょう。それは、あなたが私たちと一緒に行き、私とあなたの民が地上のすべての民と異なり、特別に扱われることによるのではないでしょうか。」主はモーセに言われた。「あなたの言ったそのことも、わたしはしよう。あなたはわたしの心にかない、あなたを名指して選び出したのだから。」モーセは言った。「どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」主は言われた。「わたし自身、わたしのあらゆる良きものをあなたの前に通らせ、主の名であなたの前に宣言する。わたしは恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」また言われた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」また主は言われた。「見よ、わたしの傍らに一つの場所がある。あなたは岩の上に立て。わたしの栄光が通り過ぎるときには、わたしはあなたを岩の裂け目に入れる。わたしが通り過ぎるまで、この手であなたをおおっておく。わたしが手をのけると、あなたはわたしのうしろを見るが、わたしの顔は決して見られない。」
出エジプト記を少し振り返ってみたいと思います。神に特別に選ばれたイスラエル民族がエジプトで奴隷にされていましたが、モーセを通して脱出することができました。その後主なる神は、乳と蜜の流れる地と呼ばれる肥沃なカナン、神が約束された地にイスラエルを導いていかれます。 その荒野の旅の途中、シナイ山において、主なる神はイスラエルの民と契約を結んで下さいました。主なる神がイスラエルの神となり、イスラエルは神の民となる、という特別な関係となる契約です。その契約の中身は、十戒を中心とする、イスラエルが守るべき掟、戒めです。エジプトでの奴隷状態からの解放という神による救いを受けたイスラエルの民が、神の民として歩んでいくための指針、ガイドラインが、十戒を中心とする律法によって示されました。イスラエルがシナイ山まで来ると、モーセは十戒が記された石の板を、神から授かるために山に登って行きました。しかしふもとにいた民たちはモーセの帰りが遅いと不安になり、祭司アロンに自分たちを導く目に見える神を造るように要求し、アロンは金の子牛の像を造りました。人々はその金の子牛を神として拝み、その前で不品行の伴う飲めや歌えの騒ぎを始めました。主なる神、イスラエルの神を第一とする、他に像を造って拝んではならない、と言ったことが十戒には記されています。イスラエルの民はそれらの掟を既に聞いており、それを守ると約束し、その約束に基づいて、主なる神は彼らと契約を結んで下さいました。しかし契約のしるしとしての石の板をモーセが神から頂いているまさにその時、彼らは金の子牛の像を造ってそれを拝み、主なる神を裏切ってしまいました。その裏切りであり、神に犯した罪ゆえに、主はイスラエルを怒られました。神は彼らを絶ち滅ぼすとモーセに語られました。しかしモーセは神と民との間に入り、神の怒りを宥めようとします。
怒っておられる主なる神に対してモーセはこのように執り成しました。32章12~14節です。
「主よ。あなたが偉大な力と力強い御手をもって、エジプトの地から導き出されたご自分の民に向かって、どうして御怒りを燃やされるのですか。どうしてエジプト人に、『神は、彼らを山地で殺し、地の面から絶ち滅ぼすために、悪意をもって彼らを連れ出したのだ』と言わせてよいでしょうか。どうか、あなたの燃える怒りを収め、ご自身の民へのわざわいを思い直してください。あなたのしもべアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたはご自分にかけて彼らに誓い、そして彼らに、『わたしはあなたがたの子孫を空の星のように増し加え、わたしが約束したこの地すべてをあなたがたの子孫に与え、彼らは永久にこれをゆずりとして受け継ぐ』と言われました。」すると主は、その民に下すと言ったわざわいを思い直された。
神はわざわいを思い直されました。つまりモーセの執り成し、仲裁に免じて、イスラエルを絶ち滅ぼすことはしない、ということです。 イスラエルは全滅からは免れました。しかしモーセはイスラエルの聖さが保たれるために、罪を犯した者たち3000人を粛清しました。 32章の最後にこのように記されています。こうして主は民を打たれた。彼らが子牛を造ったからである。それはアロンが造ったのであった。モーセが罪を犯した人々を粛清しましたが、「こうして主は民を打たれた」とあることから、神が、罪を犯した者たちを、モーセを用いて打った、粛清した-モーセはただ、神の裁きに従ったということが分かります。神との契約を破り、神に反逆し、神を裏切る。その罪を人は刈り取らなければならない、ということがここに表されています。
そして33章に入ります。神はイスラエルを全滅させることはなさいませんでした。しかしイスラエルに対する怒りと不信はまだ収まっていないように見えます。神はこのようにモーセに語られました。33章3節です。乳と蜜の流れる地にあなたがたを行かせる。しかし、わたしは、あなたがたのただ中にあっては上らない。あなたがたはうなじを固くする民なので、わたしが途中であなたがたを絶ち滅ぼしてしまわないようにするためだ。」出エジプトの時から荒野に至るまで、神はここまでずっとイスラエルと共におられました。しかしここで神は「あなたがたのただ中にあっては上らない。」とモーセに語られました。しかし「乳と蜜の流れる地にあなたがたを行かせる。」と語られていますから、矛盾しているように見えます。 前の節、2節には、「ひとりの使いを遣わす」と語られていることから、自分はイスラエルとはもう同行しないが、代わりに御使い、天使を同行させる、とここで主は語られています。 しかしこの神の語りかけは同時に、彼らに対する憐れみと、約束は守るという誠実な態度でもあります。「もうおまえたちとは一緒にいない、うんざりだ!」という宣言のようにも聞こえますが、主なる神は、彼らを続けてカナンへと導く約束をされました。しかし良く見てみますと、このように神は語られています。「あなたがたはうなじを固くする民なので、わたしが途中であなたがたを絶ち滅ぼしてしまわないようにするためだ。」
「うなじが固い」これは、馬や牛などが首を強張らせて手綱に逆らう様子、つまり飼い主の言うことを聞かない家畜の態度から来ている表現です。このうなじが固いという表現をイスラエル民族に当てはめるならば、神に反抗的、神の御心、ご計画に逆らう姿、態度だということです。実際にイスラエルは主なる神に、また主なる神が選んだモーセに対して頑なでした。しかし裏を返せば、このうなじが固いイスラエルを、ずっと忍耐して導いて来られたのが、主なる神です。加えてこの神は、もし不正を彼らに見るならば、滅ぼさないではおられなくなる。主なる神が義なる正しいお方であるというだけでなく、それでも彼らを滅ぼしたくないという、愛と憐れみに満ちている神であることが分かります。また、神がイスラエルをエジプトから脱出させた始まりは、彼らイスラエルが、主なる神に助けて欲しいと叫んだからでした。
主は忍耐だけでなく、義なる正義の神であり、愛と憐れみに満ちた神であるということです。モーセは今までの経験から、主なる神のこのような素晴らしいご性質、また人格を、十分理解していました。また、叫び、求め、依り頼めば、それに応えて下さるということも。 そこでモーセは神の忍耐、愛、憐れみに訴えつつ、何とか自分たちと共に、カナンの地まで同行して下さるようにと訴えている、それが本日の箇所です。
モーセはこのように主なる神に言いました。「ご覧ください。あなたは私に『この民を連れ上れ』と言われます。しかし、だれを私と一緒に遣わすかを知らせてくださいません。私はあなたたちとは一緒に行かないと、主がイスラエルに対して怒りと不信を表しておられた時、それにも関わらず御使いを送ると主は語られました。しかしこの時点ではまた御使いが送られていませんでした。そこでモーセは御使いなり、誰かイスラエルに同行してくれる存在を、神に確認しました。しかしモーセは次にこのように語りました。しかも、あなたご自身が、『わたしは、あなたを名指して選び出した。あなたは特にわたしの心にかなっている』と言われました。イスラエルに同行してくれる存在を確認する中で主に語った言葉としては、何か不自然な言い回しです。おそらくモーセは、ここでこのような含みを持たせていると思います。「そもそも彼らイスラエルをエジプトから脱出させるために、私をリーダーに任命したのはあなたであり、それがあなたの御心ですよね。私はそのように信じています。」モーセはその確信を持ってさらに主に語りかけている。それが13節です。今、もしも私がみこころにかなっているのでしたら、どうかあなたの道を教えてください。そうすれば、私があなたを知ることができ、みこころにかなうようになれます。この国民があなたの民であることを心に留めてください。」「もしも私がみこころにかなっているのでしたら」とモーセは謙虚に言っていますが、主が自分を選ばれたこと。またイスラエルも神の民として選ばれていることを確信しています。だからこそモーセは、「この国民があなたの民であることを心に留めてください。」と、言うことができました。「イスラエルはあなたの国民です。だから彼らと一緒にカナンの地へと同行して下さい。」これがモーセの本当に言いたいこと、本音です。御使いではなく、主なる神ご自身が自分たちと一緒にいて下さる、すなわち「臨在」されるようにと執り成しています。しかしモーセのこの本当の願いに対して、神はこのように答えられました。主は言われた。「わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる。」これはモーセにとって素晴らしい約束です。モーセはかつて、反逆のイスラエルから何度も不平不満を言われ、挙句の果てには殺されそうになったこともありました。モーセは彼らを率いることに疲れ、「もう十分です。私を殺して下さい!」とまで主に訴えたこともありました。そこで以前のモーセであったならば、主が私と共にいて下さる。休ませて下さる。ありがとう、感謝します、となったでしょう。そこでモーセは、イスラエルを導く働きを終わらせていたかもしれません。しかしモーセはさらに執り成し続けました。
モーセは言った。「もしあなたのご臨在がともに行かないのなら、私たちをここから導き上らないでください。私とあなたの民がみこころにかなっていることは、いったい何によって知られるのでしょう。それは、あなたが私たちと一緒に行き、私とあなたの民が地上のすべての民と異なり、特別に扱われることによるのではないでしょうか。」 「あなたが私たちイスラエル民族を奴隷の地であるエジプトから導き出した時点で、イスラエル民族は特別な民とされています。そして彼らが特別な民とされている証拠が、しるしが、証が、あなたが共にいて下さるという、「臨在」です。だから他の民族とも区別されるように、いや、すでに区別されているイスラエルと共に歩んで下さい。彼らの罪を赦し、これからも導いて下さい。」とモーセは執拗に主に訴えます。その結果が17節です。主はモーセに言われた。「あなたの言ったそのことも、わたしはしよう。あなたはわたしの心にかない、あなたを名指して選び出したのだから。」モーセの執拗な執り成しは実を結びました。イスラエルは偶像を造って拝み、神との契約を破りました。神に対して罪を犯しました。その罪を、咎を、主なる神は赦され、これからもイスラエル民族と共に、約束の地であるカナンに同行すると約束して下さいました。モーセは主なる神が約束されたことを受けて、そのしるし-神の栄光-神だけが持つ主権、尊厳、力、輝き、人格、神が持っておられる素晴らしさの全てを求めました。神がその栄光を見せて下さるのであれば、私たちと共にカナンの地へと同行されることのしるしになる。神はモーセの求めに答えられました。しかし主の栄光を目の当たりにすると人間は死んでしまいます。そこで神の栄光の一部を「後ろ姿」という形でモーセに表すと語って下さいました。この時主はこのように語られました。「わたしは恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」これは主なる神の主権が表されていることばです。神が恵もうと思う者がいる。神が憐れもうと思う者がいる。そのような神の選びが表されています。イスラエルはまさに一方的に神の恵みの中で選ばれました。またイスラエルを赦してくれるようにモーセが執り成し、神はそれに答えられましたが、それは主なる神の恵み、憐れみでした。神はモーセの願いに応える必要はありませんでしたが、モーセに応えて下さいました。それはモーセもイスラエルも、主が恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思うものを憐れむ、という神の選び、神の主権、神のご計画があったからです。主なる神の主権と選び、恵みと憐みがあって、イスラエル民族は存続することができました。そしてイスラエルが存続し、滅ぼされなかったことを通して、救い主、イエス・キリストがイスラエル民族の中からお生まれになりました。イスラエルが滅ぼされなかったのも主なる神のご計画であり、モーセの執り成しに応えられたことも、主なる神の主権、恵み、計画があったからでした。
モーセはイエス・キリストのひな型、モデルであると言われます。モーセがイスラエルの民たちが滅びないように執り成し、祈り、主の怒りを宥めました。それはすなわち、イエス・キリストがされたことと同じです。神から離れ、反逆し、自己中心的に生きる、すなわち罪に生きる私たち一人一人を、神に赦して頂くように、父なる神に執り成し祈って下さいました。今も祈って下さっています。 しかしモーセと決定的に異なるのは、ご自分の身をもって、堕落してしまった私たち人間のために、人類のために、ご自身の体、また全存在を通して執り成して下さったことです。それが十字架による私たち罪の身代わりであり、贖いです。
わたしは恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。主なる神は、一方的に選んで下さった私たち一人一人に、愛と恵みをもって日々導いて下さっています。そして私たちの主、イエス・キリストから、この恵みと憐れみがいつも私たちに注がれています。主なる神に、そしてイエスに感謝しつつ、神の恵みの中に共に生き、また、共に生かされていきたいと思います。
祈ります。「恵もうと待ち構えておられる主」
主は言われた。「わたし自身、わたしのあらゆる良きものをあなたの前に通らせ、主の名であなたの前に宣言する。わたしは恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」

2026/7/12(日)「第一の戒めは何ですか?」申命記4:35 庄司牧師

20260712申命記4:35「第一の戒めは何ですか?」問42 第一の戒めは何ですか。 答「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない」ということです。 (出エジプト記20章3節)聖書”あなたにこのことが示されたのは、主だけが神であり、ほかに神はいないことを、あなたが知るためであった。”申命記4章35節
招詞申命記7:9あなたは、あなたの神、主だけが神であることをよく知らなければならない。主は信頼すべき神であり、ご自分を愛し、ご自分の命令を守る者には恵みの契約を千代までも守られる。

月の第二日曜日です。本日も子ども信仰問答からお話をしていきます。前回の問41から、モーセの十戒に関することを見ています。第一の戒めは何ですか?という問いの答えとして、出エジプト記20章3節から引用されています。「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。」この問いに対してさらに詳しく語られているのが申命記4:35節です。「あなたにこのことが示されたのは、主だけが神であり、ほかに神はいないことを、あなたが知るためであった。」
神に特別に選ばれた民であるイスラエル民族が、奴隷とされていたエジプトからどのように脱出し、どのように約束の地へと旅をして行くかという、出エジプト記の後の出来事が記されているのが、この申命記です。従って本日見て行く申命記4:35節は、イスラエル民族がエジプトを脱出した時にあった主なる神の介入や奇蹟、また荒野における主の守りと導きなど、出エジプト記に記されている、イスラエル民族の経験が元になっています。そして彼らイスラエルの経験した全ては、「主だけが神であり、ほかに神はいないということを知るための、分かるための、理解するための経験になった。」と、モーセは本日の35節で彼ら、イスラエルに告げています。
出エジプト記に描写されているイスラエル民族の歩みは、決して主なる神の御心に沿ったものではありませんでした。彼らイスラエルは荒野において食べ物や飲み物のことで主に不平を言い、主を試み、また、主が選び、立てたリーダーであるモーセに反逆することによって、主なる神に逆らって来ました。しかし彼らの主なる神に対する不信仰、また不従順は、彼らに大きな代償を支払わせることになりました。

エジプトを脱出したイスラエルが向かった約束の地、カナンまでの直線距離は、出エジプトした時の場所、ラメセスから約200km〜300kmです。敵を避けてカナンに向かって旅をしていったことから、実際はもっと長い距離を移動したのは事実ですが、本来であれば10日から数週間、1か月もあれば到着できる距離です。しかし彼らは40年という長い歳月をかけて荒野をさまよいました。それは偶像礼拝や神への反逆など、彼らの不信仰、不従順に対する神からの罰でした。しかしそれでも主は、イスラエル民族の父祖となるアブラハム、その子孫であるイサク、ヤコブに約束されたように、今のパレスチナにあたる約束の地、カナンに彼らを導いて行かれます。神は荒野での40年の間、彼らをカナンに導くために、敵から彼らを守り、マナをはじめとした、生きるのに必要な食べ物や飲み水などを与えて来られました。彼らが不信仰、不従順であっても、彼らを見捨てることはありませんでした。神は愛と慈しみに満ちておられるだけでなく、約束に誠実で、また忠実なお方であるということが分かります。このような神の愛と守りの中、彼らは40年をかけて、川を隔てたカナンの東側、すなわちヨルダン川の東にやって来ました。イスラエル民族は、これからいよいよヨルダン川を渡ってカナンに地に入って行きますが、その前にモーセはもう一度、神が民と結ばれた契約を、改めて彼らに思い起こさせようとしています。申命記の「申」という文字は、もう一度、とか、再びという意味です。文字通りモーセは、神がイスラエルに与えられた生きる上での指針、ガイドラインである教え、掟、すなわち律法を、もう一度イスラエルに語り聞かせた、それが申命記です。
約束の地、カナンには先住民族がいます。また、彼ら先住民族が信じていた偽りの神々の存在もありました。敵を恐れず、また偽りの神々を彼らのように拝む、つまり偶像礼拝などから守られるためには、主だけが神であり、ほかに神はいないということを、カナンに入る前にもう一度イスラエル民族は確認する必要がありました。そのためモーセは、彼らに今まであった、そしてこれからも必ずあるであろう主の守りと導き、主なる神に従う者にある祝福を、カナンに入る前に思い出させようとしています。
そして本日の箇所、申命記4:35節です。
あなたにこのことが示されたのは、主だけが神であり、ほかに神はいないことを、あなたが知るためであった。「あなたにこのことが示されたのは」と記されています。これらのこととは、彼らイスラエル民族が40年にわたって体験して来た主の守り、導き、祝福です。神が約束されたカナンの地に、これから入っていこうとしている世代は、40年の荒野の放浪の中で不信仰ゆえに死に絶えてしまった人々の子ども、孫にあたる第二世代、第三世代です。彼らは神がモーセを通して偉大な奇蹟を起こされ、奴隷とされていたエジプトから脱出させて下さったこと。紅海が分かれてイスラエルはその中を進み、エジプト軍は飲み込まれてしまったこと。また荒野でのパン、すなわちマナが毎日降った奇蹟など、若い世代は殆ど経験していません。例え経験していたとしても、それは子どもの時であり、その記憶は定かではなかったでしょう。しかし彼ら若い世代は、両親などから、それらの様子を聞く機会がありました。彼らが語り聞かされて来たことは、神が教えられた掟と定めを守ることによって与えられる祝福と助け、逆に守られない時に起こる不幸、裁き、などだったでしょう。そのようなイスラエル民族の歩みですが、荒野における主の守りと祝福が強調されている描写が2章にあります。2:7節です。2:7事実、あなたの神、主は、あなたのしたすべてのことを祝福し、あなたの、この広大な荒野の旅を見守ってくださったのだ。あなたの神、主は、この四十年の間あなたとともにおられ、あなたは、何一つ欠けたものはなかった。イスラエルの荒野の40年の歩みにおける、主の守りと祝福の描写です。その祝福と恵み、主なる神の導きをあなたがた若い世代、次の世代のあなたたちは受け継いでいるのだ。その受け継いだ神の恵みと祝福を忘れず、生涯心から離すことなく歩みなさいとモーセは民に語りかけています。
さきほど、申命記4章は偶像礼拝に巻き込まれる危険性が記されているとお話しました。そしてこの4章には、偶像礼拝を憎悪する主なる神のことが、「ねたむ神」と表現されています。24節です。「あなたの神、主は焼き尽くす火、ねたみの神である。」前の訳では「ねたむ神だからである」と、記されています。主なる神は、主以外の偶像や、太陽、月、星などの被造物をもしイスラエルが拝むことがあれば、つまり偶像礼拝に対しては、焼き尽くす火のように怒りを燃え上がらせ、激しいねたみを覚えられる、ということです。怒るとかねたむという感情は人間らしく、神にはあまり相応しくないように思いますが、それは主なる神がイスラエルのことを、ひいては私たち一人一人の人間を、本気で愛しておられることのしるしです。
本当に愛しているからこそ、自分の愛する者が、人間が勝手に作り出した神々や、神が造られた被造物を神として礼拝する、心奪われることに対して怒りやねたみを覚えられるということです。新共同訳聖書、前の版の訳では、この「ねたみの神」または「ねたむ神」という表現に代わって、「熱情の神」と訳しています。神がイスラエルを、ひいては人類一人一人を、熱情をもって、情熱をもって本気で愛して下さっていることが伝わって来る翻訳です。そして主なる神は、イスラエル民族だけでなく、私たち一人一人をねたむほど愛されておられます。このイスラエル民族を導かれた神、ヤハウェなる神を、私たちは父なる神と呼んでいます。ねたむ神、私たちに熱情をもって接して下さる神は、私たちの信じている神と同じ神です。この主なる神、父なる神が、私たちをねたむほど愛するがゆえに、他の神々の下に行って欲しくない、従って欲しくない、そして主なる神の下で本当のいのちを持って生きて欲しいという願い、思い、熱情から、愛する一人子を私たちに与えるという計画をお立てになりました。そしてその計画を実践して下さったのが、私たちの主、イエス・キリストです。このイエスもまた、羊飼いのない羊のように、神を無視し、偶像に向かい、生きる意味や目的、神の愛を知らずに倒れている人々を見て、心から、はらわたがよじれるほどに憐れみを現わして下さる神です。どれほどの憐れみか。どれほどの愛か。その結晶が十字架であり、十字架に表されています。
かつてイスラエル民族が奴隷とされていたエジプトは、私たちが現在生きている世界、そして私たち人間の罪を象徴している世界です。エジプトの王、パロは、ただの人間でしたが、神と見なされ、自分も神のように振舞っていました。また、エジプトでは動物や天体などが神々となり、偶像礼拝が行われていました。権力を持つ者が神となり、また、人々も神以外のものを拝んでいる。
現代を生きる私たちの世界と全く変わりがありません。しかしエジプトはその高慢なゆえに、また神にそむき、敵対するという罪ゆえに、神に裁かれました。すなわち、神を無視し、神に背を向けて自分が生きたいように生きる先には、裁きが待っているということです。そしてそれは、現代を生きる私たちも同じです。

裁きとは、神から永遠に引き離されるという滅びです。しかしこの罪、滅び、裁き、そこから来る死から脱出させて頂けたのが、私たちキリスト者、クリスチャンです。それはただ、イエス・キリストを救い主として信じた結果です。私たちが救われるために何か善行を積んだり、何か努力したという訳ではありません。それはただ、イエス・キリストにある恵みです。そして私たちはこの恵みのゆえに、エジプトに象徴されるこの罪深い世から、罪深い世界から脱出させて頂けました。そしてそれはただ、イエス・キリスト、私たちの主が成し遂げて下さった十字架の業、十字架を通しての贖いです。イエスが私たちの罪を全て背負って十字架につかれ、死なれ、葬られ、三日目に罪と罪から来る死を滅ぼして復活して下さいました。その復活されたイエスと私たちは一つにされています。前回、新約聖書、ヘブル人への手紙を引用しました。イエス・キリストは復活されて生きているだけでなく、その存在は永遠であるということです。「イエス・キリストは昨日も今日もとこしえに変わることがない」私たちの主、イエス・キリストは今も生きておられます。それも永遠に生きておられます。この永遠に存在されているイエスを信じるということは、永遠のイエスと一つにされることです。それは私たちキリスト者、イエスを主と信じた者が受けるバプテスマ、洗礼に表されています。このバプテスマは、イエスを信じる全ての者が、イエスと一つにされた、また、されていることを象徴的に表すものです。洗礼の時、洗礼に与る者は、水に沈められます。それはイエスと共に罪に死ぬことの象徴です。そして水から上がることは、イエスが罪を滅ぼして復活されたその復活のいのちと一つにされる、復活のいのちに与ることを象徴しています。
従ってイエスが成し遂げられた罪と罪から来る死への勝利は、私たちイエスを信じる者たちにとっても勝利です。つまりイエスにあって私たちは、罪と、罪から来る死に勝利しています。そして永遠に生きておられるイエスと一つにされるということは、イエスを信じて歩む一人一人が、永遠に生きるということです。そして永遠に生きる歩みは、イエスを主と信じた時からすでに始まっています。イエスと共に永遠を生きる-別の言い方をすれば、それは神の子、神の家族とされることであり、神の国に入ることができるということでもあります。
礼拝の冒頭で、神からの礼拝への招きのことば、証詞を読んで頂きました。申命記7:9あなたは、あなたの神、主だけが神であることをよく知らなければならない。主は信頼すべき神であり、ご自分を愛し、ご自分の命令を守る者には恵みの契約を千代までも守られる。私たちキリスト者にとっての主とは、イエス・キリストです。つまりイエスを自分の主人として信頼し、愛し、イエスの命令を率先して、自発的に、また喜んで守り従う者には、恵みの契約が千代、つまり永遠に続くという約束が、すでに旧約聖書に予表され、約束されています。そしてそれは私たちの行いや努力、善行を積むことなどに全く関係がない、ただ、神の、私たちの主、イエス・キリストにある恵みです。
旧約聖書、申命記に描写されている「ねたむ神、すなわち熱情の神」は、新約聖書において、私たちの主、イエス・キリスト、愛と憐みに満ちた神とイコール、同じ神です。私たちはこれからも旧約聖書と新約聖書の繋がりを意識していきたいと思います。そしてこの生きて働いておられる永遠の神と、人格的な交わりを持つことができるようになったこと、そしてこの神を通して救われていることを感謝し、神の愛、愛の神に日々応答していく者でありたいと願います。祈ります
問42「第一の戒めは何ですか?」答「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない」ということです。 (出エジプト記20章3節)聖書”あなたにこのことが示されたのは、主だけが神であり、ほかに神はいないことを、あなたが知るためであった。”申命記4章35節申命記7:9あなたは、あなたの神、主だけが神であることをよく知らなければならない。主は信頼すべき神であり、ご自分を愛し、ご自分の命令を守る者には恵みの契約を千代までも守られる。

2026/7/5(日)「ダビデの子か、それともメシアか」マルコ12:35~37 庄司牧師

2026年7月5日 マルコの福音書12:35~37「ダビデの子か、それともメシアか」
イエスは宮で教えていたとき、こう言われた。「どうして律法学者たちは、キリストをダビデの子だと言うのですか。ダビデ自身が、聖霊によって、こう言っています。『主は、私の主に言われた。「あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで。」』ダビデ自身がキリストを主と呼んでいるのに、どうしてキリストがダビデの子なのでしょう。」大勢の群衆が、イエスの言われることを喜んで聞いていた。 (マルコの福音書 12:35-37 SKY17)

 本日は12章35節から37節を見て行きます。35節の一つ前の節、34節にはこのように記されています。「それから後(あと)は、だれもイエスにあえて尋ねる者はいなかった。」前回見た箇所です。一人の律法学者が正直で真面目な態度でイエスに接し、律法の中でどれが一番大切であるかをイエスに問いました。それまでイエスに敵対する様々な宗教指導者たちが、入れ替わり立ち替わりイエスを陥れるための質問をして来ました。しかしイエスがあまりにも的確に、いやそれ以上の知恵を持って答えられる様子を見て、イエスの言葉尻を捕らえてローマ帝国に訴える、もしくは民衆の人気を失わせようとして来た他の宗教指導者たちが、ギブアップ、諦めた時の様子です。
ルカの福音書20:40には、「彼らはもうそれ以上何も質問する勇気がなかった。」と記されています。悪意ある質問によってイエスを陥れることよりも、その質問によってかえって自分が不利になる、面目を失う、だからもうあえて冒険はしない。彼らを黙らせるほどに、イエスの答えは彼らを驚嘆させたということです。それほどまでに彼らを論破してきイエスですが、今度は自ら彼らに質問されました。 35節。「律法学者たちは、どうしてキリストをダビデの子と言うのですか。」新共同訳ではこのように翻訳されています。「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。」新改訳ではキリストというところを、新共同訳では「メシア」と訳しています。
この35節は、新約聖書の原文のギリシャ語では「クリストス」と記されています。それを新改訳聖書では「キリスト」と訳しています。この「クリストス」もしくは「キリスト」という言葉は、旧約聖書の原語のへブル語、「メシア」という言葉が元になっています。新共同訳はこのヘブル語のメシアをそのままイエスに当てはめたということです。
このメシアということばの意味は、「油注がれた者」であり、救い主を表します。旧約聖書には、神によって王や祭司などの務めに任命された者は、そのしるしとして、油が注がれました。ですからメシアは神によって立てられ、任命された者ということであり、次第に神が遣わして下さった救い主を意味することばになっていきました。ですからイエスの時代、メシア、すなわちキリストと言えばそれは「救い主」という意味でした。それゆえ「イエス・キリスト」という呼び方は、「イエスこそキリスト、すなわち救い主である」という意味であり、それ自体が一つの信仰告白となって行きました。
またイエスという名前自体が、「神は救いである」という意味です。そして先程お話したイエス・キリストの「キリスト」ということばは、タイトル、称号でもあります。従って「イエス」という名前も、「キリスト」という称号も、共に神の救いが込められています。そして名前に込められた意味だけでなく、愛ある業、イエスが語られたことば、そして行った多くの奇蹟から、イエスは救い主、メシアとして、罪と罪から来る死から全人類を解放して下さるお方である。そのように信じるに足る多くの証拠、しるしをイエスは持っておられました。そしてイエスご自身が具体的に、旧約聖書を通して自らがメシアなる救い主であることを、ユダヤの人々が尊敬し、愛して止まないダビデ王を引き合いに出して、示そうとされました。それが36,37節です。ダビデ自身が、聖霊によって、こう言っています。『主は、私の主に言われた。「あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで。」』ダビデ自身がキリストを主と呼んでいるのに、どうしてキリストがダビデの子なのでしょう。」
この36節は、旧約聖書の詩篇110篇1節からの引用です。当時の人々はこの110篇をダビデの作と信じていました。イエスもその当時の共通認識に基づいて引用されています。そしてこの詩篇はメシア詩篇として有名であり、メシアが世界の支配者として君臨する様子を描いています。
詩篇110篇1節にはこのよう記されています。共に開きましょう。詩篇110:1節は、聖書の中ほど、旧約聖書P1053です。この110:1節を共に読んでみましょう。『主は、私の主に言われた。「あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで。」』これは主なる神が、救い主の勝利とそのご支配の確立を告げておられるところです。主は、私の主に言われたと、「主」という言葉が二度使われています。マルコ福音書の原文においては、両者は同じことばが使われていますが、詩篇の原文においてはこの二つは全く別のことば、単語が使われています。初めに記されている「主」は旧約聖書の原語のヘブル語で「ヤーウェ」あるいは「ヤハウェ」と読まれる、イスラエルの神のみ名を指す固有名詞で、太文字で表されています。私たちが父なる神と呼ぶお方でもあります。文語訳聖書ではこれを「エホバ」と訳していましたが、口語訳から「主」と訳されるようになりました。それに対して次に記されている「わたしの主」の方の「主」は、ヘブル語で「アドーン」と表記され、「主人」という意味の普通名詞です。太文字で表されていません。ですから引用元の詩篇を「主」の違いに注意して訳すのであれば、このようになるでしょう。「イスラエルの神ヤハウェが、私のご主人様にこうお告げになった。」この詩を歌ったのがダビデ自身だとすれば、ダビデ自身が、まだ見ぬ子孫、しかも自分からすれば子どもにあたる人物を、来るべき救い主として「わたしの主、わたしのご主人さま」と呼んだということになります。ダビデにとってのご主人となる「主」とは、メシアなる救い主、イエス・キリストです。またイエスは36節で、「ダビデ自身が、聖霊によって、こう言っています。」と語られました。つまりダビデのこのような告白は、聖霊から預言として受け取った告白である、ということをイエスは示しておられます。
系図の上では、イエスは実際にダビデの子孫としてお生まれになりました。新約聖書の始め、マタイの福音書の1章1節を見ると分かります。「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」 イスラエル民族の重要な父祖であるアブラハムから、彼らが愛し尊敬しているダビデ王を経て、イエスに至る系図です。 ルカの福音書3章にも、イエスがダビデ家の子孫であるヨセフの子どもとしてお生まれになったことが、記されています。そして補足するとすれば、このルカの福音書の3章の系図は、イエスから始まり、人類の始祖であるアダムにまで遡っています。
話を戻します。ユダヤの人々は、この詩篇110篇が、将来到来するメシアが預言されているものとして、誰もが知っていたような詩篇でした。そして彼らはこの詩篇が、特に敵に対するメシアの勝利の歌と考え、解放者なるメシアの姿を思い浮かべていました。イエスが人として歩まれた当時、ユダヤの人々にとっての敵とはローマ帝国でした。従って彼らユダヤの人々は、いつか救い主であるメシアが到来し、ローマ帝国を倒し、ローマから自分たちを解放してくれる。このような思い、願い、期待を、イエスの弟子たちも持っていたということを以前お話したことがあります。すなわち人々は、イエスが支配者であるローマから自分たちを解放して下さる、目に見える政治的・軍事的王としての姿を期待していました。しかしイエスはご自身が目に見える王ではなく、目に見えない霊的な領域を司り、また統べ治める者、救い主としてご自身を証されて来ました。つまり今まで間違って解釈されて来た詩篇110篇1節が、イエスによってようやく正しく理解され、説き明かされたということです。そして旧約聖書に記されている救い主到来の預言が、イエスを通して成就、実現した、ということができます。それはイエスを信じる者に与えられる罪の赦しであり、人間と神との関係の回復であり、永遠に続くいのちという霊的なものです。 イスラエル民族だけ、一民族だけに及ぶ回復や解放ではなく、全ての人類に及ぶ普遍的回復、解放です。
詩篇110篇1節は、天地を造り支配しておられる神が、救い主、イエス・キリストを通して全ての敵を打ち破らせ、ご自分の右の座に就けて下さったという、メシアなるイエスの支配が確立されたことを告げるみことばです。敵とはサタン、神に反逆し、人間を罪に陥れた悪魔です。また、人間がアダムとエバから受け継いでいる罪と、罪から来る死です。さらに罪は、私たちを神の恵みから引き離すものです。神から離れるという罪を犯した結果、私たち人間は人生において心配や恐れ、不安、悲しみ、絶望や争いなどが生み出されてしまいました。しかしイエスはそれら人間の不幸であり絶望の元となる罪を全て背負われ、それら罪と共に十字架に架かって下さいました。そしてその死と共に罪を葬りさり、その死から復活されることによって、人類の罪と、罪から来る悲しみ、痛み、絶望、そして死から勝利して下さいました。イエスは復活を通して、私たち人類に肉体の死を越えた新しいいのちを示され、死はもはや私たちを絶望させるものではなくなりました。そして復活された救い主なるイエスが天に昇り、父なる神の右の座に就いて下さったことを通して、イエスを信じる全ての人々が、イエスのご支配、すなわち神の恵みの下に置かれることができる、と言うことができます。
ところで皆さんは、バルティマイを覚えておられるでしょうか。このマルコの福音書10章の46節に登場する盲人、目が見えず、物乞いをしていた人です。当時のユダヤ人たちは、障害や重い病気などを患っている人は、本人か先祖が罪を犯した結果、その罪に対する神からの罰(呪い)を受けた者であると考えていました。ですからバルティマイのような盲人は、神から呪われた者として、人々から嫌悪されるような存在であり、誰も近寄って来ることはありませんでした。そのような彼ですが、人々がイエスのことを話していることを通して、イエスが自分の目を癒して下さると、イエスに望みを置きました。彼は道ばたから叫びます。「ダビデの子のイエス様、私をあわれんでください」と叫び始めた。多くの人たちが彼を黙らせようとたしなめたが、「ダビデの子よ、私をあわれんでください」と、ますます叫んだ。この時バルティマイはイエスをダビデの子と呼んでいます。バルティマイもまた、イエスのことをダビデの子孫と見なしていることが、この叫びにも表されています。そしてイエスは立ち止まり、他の人に彼を連れて来るように命じられました。イエスはバルティマイにお尋ねになりました。「わたしに何をしてほしいのですか。」並行箇所のルカの福音書によれば彼はこのように答えています。「主よ、目が見えるようにしてください。」
ダビデの子と叫んでいたバルティマイでしたが、イエスが自分の下に来られた時、「主よ、」という呼びかけに変わっています。バルティマイにとってイエスは、自分に全く関わりがない一支配者、一解放者である「ダビデの子」という世間一般に言われていた遠い存在でした。しかし彼は「主よ、」と呼びかけた時、イエスを個人的な神として、個人的なメシア、救い主として信じる、受け入れた瞬間でした。 そのバルティマイに対してイエスはこのように宣言されました。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救いました。」
イエスの宣言の後、このようなことが起こりました。その人はただちに見えるようになり、神をあがめながらイエスについて行った。これを見て、民はみな神を賛美した。これはルカの福音書の記述ですが、イエスは誰にも見向きもされないバルティマイに近寄られ、声をかけられ、実際に彼に手を触れられました。そして実際に彼を癒すことによって、イエスは夢も希望もない、半ば死んでいたような人を生き返らせ、新たに力と生きる希望を与えられました。それを見た回りの人々は神の愛、力、栄光を賛美しました。一人の人の癒やし、人生の回復は、他の人々にも及んでいくということが現わされている出来事です。この目が見えない人の人生の再生、回復は、イエスに信頼を置く、すなわちイエスを自分の主、救い主なるメシアとして信じ、受け入れた時から始まりました。加えて罪の赦しという永遠に関わる救いをも手にしたのが、バルティマイでした。
現代を生きる私たち一人一人も、このバルティマイのように盲目です。目に見えない神、目に見えない悪魔、目に見えない罪、目に見えない神の裁き、目に見えない永遠のいのちなど、霊的な事柄に対してです。そのことに気付くか。そのことを認めることができるか。私たちの永遠を分ける大きな気付きです。
ダビデは将来自分の家系から生まれて来ることになるメシア、イエス・キリストが救い主であることを、聖霊の働きを通してイエスがお生まれになる前から、すでに予知、預言していました。そして人々に蔑まれていたようなバルティマイもまた、イエスをメシアなる救い主として信じ、肉体的な目だけでなく、霊的な目も開かれ、永遠の救いを手にしました。私たちはどうでしょうか。

新約聖書、ヘブル人への手紙に、「イエス・キリストは昨日も今日もとこしえに変わることがない」と記されています。メシアなる救い主イエス・キリストは今も生きておられます。このイエスをダビデの子、聖書に記されている一支配者、一解放者、またはキリスト教を始めた始祖、倫理的に偉大な指導者などと取るか、それとも自分の主、「私の救い主」と取るか。現代を生きる私たちにの大きな違い、永遠に至る違いをもたらします。罪が赦され、神との関係の回復に至るか。そして神との関係の回復を通して、自分自身と他の人々との回復にも影響を与えるか。その違いはただ、イエスに信頼を置くか。イエスを信じて生きていくか。という決心、決断の違いだけです。
私たち人間に最も大切な決断-イエスを信じて歩んで行くという歩みを-今も生きておられるイエス・キリスト、メシアなるイエスが、日々導いて下さいますように。
祈ります
「ダビデの子か、それともメシアか」
ダビデ自身がキリストを主と呼んでいるのに、どうしてキリストがダビデの子なのでしょう。」大勢の群衆が、イエスの言われることを喜んで聞いていた。

2026/6/21(日)「神の国へのステップ」マルコ12:28~34 庄司牧師

2026年6月21日 マルコの福音書12:28~34「神の国へのステップ」
律法学者の一人が来て、彼らが議論するのを聞いていたが、イエスが見事に答えられたのを見て、イエスに尋ねた。「すべての中で、どれが第一の戒めですか。」イエスは答えられた。「第一の戒めはこれです。『聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』第二の戒めはこれです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。』これらよりも重要な命令は、ほかにありません。」律法学者はイエスに言った。「先生、そのとおりです。主は唯一であって、そのほかに主はいない、とあなたが言われたことは、まさにそのとおりです。そして、心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛すること、また、隣人を自分自身のように愛することは、どんな全焼のささげ物やいけにえよりもはるかにすぐれています。」イエスは、彼が賢く答えたのを見て言われた。「あなたは神の国から遠くない。」それから後は、だれもイエスにあえて尋ねる者はいなかった。
本日もまた、律法学者が登場します。しかしイエスに敵対してきた今までの律法学者とは、違うようです。それは彼がイエスから、「あなたは神の国から遠くない」と言われたことからも分かります。しかしこの律法学者は賢く答えたにもかかわらず、イエスから、「あなたは神の国に入ることができる!」とは言われませんでした。なぜでしょうか。神の国に入れることと、神を愛し、隣人を愛することとが、どのような関りがあるのでしょうか。共に見て行きたいと思います。
冒頭にはこのように記されています。律法学者の一人が来て、彼らが議論するのを聞いていたが、イエスが見事に答えられたのを見て、イエスに尋ねた。
「彼らの議論」とは、18節以下、イエスとサドカイ派の人々の復活をめぐる議論です。前回共に見て来ました。この当時、復活をめぐってパリサイ派とサドカイ派が対立していました。サドカイ派は、「復活はない」と言っていたのに対して、パリサイ派は復活を信じていました。そのような中で、イエスが聖書に基づいてはっきりと死者の復活をサドカイ派の人々に語られ、イエスが自分たちと同じことを教えているという親近感を、彼は抱いたようです。 律法学者は、律法、神の教えであり戒めを研究し、自分自身がそれを守るだけでなく、一般の人々に、律法を守って生活するためのアドバイスをしていました。六百以上の戒めを大切なものとしていたことから、膨大な律法をどのように解釈し、またどのように人々に教えるかということをいつも考えていました。そこで彼は、好意を抱いたイエスから、律法で一番大切なことを尋ねることにしました。彼の真面目で真剣な問いに対して、イエスも誠実に、そしてはっきりとお答えになります。29、30節です。
イエスは答えられた。「第一の戒めはこれです。『聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』イエスは旧約聖書、申命記第6章4、5節からの引用をもって、律法の第一としました。ユダヤの人々はこの教えを大切にし、毎日唱えていたものです。 この第一の教え、戒めは、一言で言えば「神を愛しなさい」ということです。神を愛することこそが、あらゆる律法の要、神の民としての生活の中心だとイエスは言われている。 ところで「主を愛しなさい」と命令形で訳されています。原語であるヘブル語では完了形で記されています。ヘブル語では未来に確実にそうなることは、~した、~するようになると、完了形で表します。つまり申命記の6:5節は、「あなたは愛するようになる」と訳すことができるものです。その引用ですから、本日の箇所の12:30節の直訳は「あなたはあなたの心の全てをもって、あなたの精神の全てをもって、あなたの思いの全てをもって、あなたの力の全てをもって、神を愛するだろう。」と訳すことができるものです。
イスラエル民族は神に特別に選ばれている民族であり、神の栄光、素晴らしさを他の民族、部族に伝えていく使命、役割を担っていました。それにも関わらず彼らは神への信仰・不信仰、従順、不従順を繰り返して来ました。しかしその都度預言者などが神から遣わされ、神に立ち返るよう、促されて来ました。旧約聖書にその歩みが描写されています。そのような彼らを神は見捨てることはありませんでした。従ってイスラエルに対する主なる神の深い愛、忍耐、慈しみと恵みを彼らが覚える時、もはや彼らは義務や命令から神を努力して愛していくのはなく、喜んで、感謝を持って自発的に神を愛していくようになる。愛していくはずだ。そのような主なる神の思い、彼らに対する期待が伝わって来ます。 そしてこの神のイスラエル民族に対する愛、忍耐、そして期待は、同じように今を生きる私たちも含め、全ての人類に向けられているものだと思います。
このような神の愛、忍耐、期待や思い、願いが、イエスが言われたもう一つの大切な戒めにも表されています。それが、「隣人を自分のように愛しなさい」です。イエスは旧約聖書、レビ記第19章18節を引用されています。ここには「自分を愛するように隣人を愛しなさい」と記されています。神を愛することと、隣人を愛すること。この二つが分かち難く結び合って、律法の中心をなしているということです。そしてこの第二の戒めも、第一の戒めと同様に、命令形だけでなく、未来形で訳すことが出来る箇所です。「あなたは、あなたの隣人をあなた自身として愛するであろう(愛するようになる。)」この第二の戒めはまた、イエスが言われた第一の戒めである、人間が大切にしなければならない第一の律法である、「神を心から愛するということ」の、コインの表裏のようです。つまり神を心から愛する者は、自分と自分の隣人を愛する者になるということであり、自分と自分の隣人を心から愛する者は、神を心から愛する者になるということです。
イエスは律法学者に「あなたは神の国から遠くない。」と言われました。神の国はあなたの近くにある、あなたはいい線まで来ている、しかしまだそこに到達してはいない、とおっしゃったのです。正直であり、誠実な彼がなお神の国に入ることができないでいる原因は何なのでしょうか。
この律法学者は、「先生、その通りです」と言って、イエスが語られたことを称賛し、同意し、また共感しました。しかし神の国に入ることができるとイエスに言われなかったことから、彼には神への、すなわちイエスへの信仰が無かったことが分かります。つまり彼は自分の力で神を愛し、また隣人を愛していくことができると思っていた、そしてそのように生きていた、ということです。
彼は律法を学ぶことや、人々に律法を教えることに熱心だったかもしれませんが、その中心には最も大切な神がいませんでした。では、私たちはどうでしょうか。
心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、神を愛しているでしょうか。旧約聖書、伝道者の書7章には、「順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ」ということばがあります。順境、すなわち順風満帆の時は、人は言われなくても喜びます。しかし逆境、試練や苦難が来ると、私たちはその試練や苦難を通して自分のあり方を吟味したり、成長の機会と捉え感謝するよりも、時に神に責任転嫁、神のせいにしてしまうことがないでしょうか。なぜ神はこのような痛みの経験を許可されたのか、許されたのか?失望したり、怒ったことが、そして現在、怒っていることがないでしょうか。また私たちは、隣人を真実に愛しているでしょうか。イエスが、好きな人だけ愛しなさい、と言っておられないことは明白です。自分に敵対し、迫害する者のために祈りなさい、と言われるのがイエスです。つまり赦せない人を赦し、愛せない人を愛する、これが、イエスが言われる隣人を愛する、ということです。また、自分を愛するよう隣人を愛しなさい、ともイエスは言われました。私たちは時に自分自身を受け入れることが出来なかったり、愛することができないことがあります。自分の過去の過ち、自分で自分のことが自制できない弱さ、悪いことの方に傾く罪深さ、などを通して自分に嫌悪することがあるからです。そのような私たちにイエスは、一人一人が自分自身も受け入れ、赦し、愛するようにと言われています。しかし私たちはそのように人を赦し、自分を赦すという生き方をして来たでしょうか。またしているでしょうか?私自身を見る時、心から神を愛すること、心から自分を愛すること、そして心から隣人を愛すること、できていない、とよく思わされます。神が、イエスが求めておられることからどれだけ自分が離れているか、日常生活の中でも思い知らされます。そして自分の努力によっていくら頑張っても、神の規準に到達することが出来ないと、認めざるを得ません。最近息子にこのように言われました。「パパ、この頃ブチ切れなくなったね!-言ってくれるな~と感心しました。」この時ただ笑うしかありませんでしたが、子どもを叱るというより、感情的に怒ってしまいます。しかも何度も繰り返してしまう。(そして、これを購入しました。掲げる)日々の生活を通して、自分の愛のなさ、忍耐のなさを認めます。もちろん私の弱さは子育てだけに限りません。しかしそのような欠けや弱さのある自分に気づき、時に気付かされ、愕然とする。それは良いことかもしれません。
先週、神が人間に示された人間が生きる上でのルール、神の教え・戒めである十戒を始めとした律法の規準の高さ、厳しさに達することができないと心砕かれる者は、イエスの方に向かうとお話しました。 律法は、私たちをキリストに導く養育係になるというお話でした。律法に示されている神の規準の高さに触れる時、またイエスが言われ、実際に人々に対する愛の言動、その行いを聖書から知る時、自分には心から神を愛することも、また心から自分を愛することも、そして心から隣人を愛することはできない。自分に絶望するしかないのではないでしょうか。しかし私は、自分に絶望することは素晴らしいと思っています。そうでなければ、この律法学者のように、知識や知恵があり、正直に、また誠実に生きていたとしても、イエスから、「あなたは神の国に入ることができる。」、とは言われないし、実際入ることはできないからです。すなわちそれは、イエスとの愛の関係を築くことができないことを意味します。 イエスは公に福音を宣べ伝え始められた時、このように宣言されました。「神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」今年もこの神の国について見ています。神の国が近づいたとは、神の国が到来したと訳せることばです。到来ですから、イエスを通して神の国、すなわち神であるイエスが統治される国が、私たち人類の近くまで来た訳ですが、その神の国に誰でも入ることができる訳ではありません。神の国に入るには明確な条件があることを、イエスは言われました。それは、「悔い改める」ことでした。人生の、また自分の生き方、あり方の方向転換です。そしてその向かう先は、救い主、イエス・キリストです。イエスに信頼を置き、イエスを信じて歩む生き方への変換です。そして私たちの主、私たちの人生のあるじになって下さるイエスは、私たちが信頼を置き、頼ることができるに十分な方、また相応しいお方です。なぜなら律法を二つにまとめられたイエスご自身が、その律法を完全に守られたからです。律法に生き、律法を完成させたお方です。
そしてそれは、十字架に表されています。父なる神が罪ある人間を救うために、御子イエス・キリストを十字架にかけて殺す。イエスが全人類の罪を全て背負われて死ぬ。身代わりの死を通して人類を救うという父なる神のご計画に、イエスは完全に従われました。-なぜでしょうか?-それは父なる神を愛し、大切にされ、第一とされたからです。ではなぜイエスは、神を無視し、神に敵対しながら滅びに向かっている私たち人間の全ての罪を、ご自分で全て背負われて、十字架につかれたのでしょうか?-それは私たち一人一人の人間を心から愛しておられるからです。
神の規準を全て、完全に満たし、また私たち人間を心から愛しておられるイエスが、一方誠実ではありますが、自分中心に、また自分の努力で、神を抜きにして生きているような律法学者に対して、「あなたは神の国から遠くない」と言われた、いや、おっしゃって下さいました。彼は神から離れ、自分の力で生きていたような人がしたが、彼の正直さ、誠実さをイエスは認めて下さっていた。
その上でイエスはこのように彼を招いておられると思います。「あなたは神の国から遠くない。あなたに後必要なのは、そして絶対に必要なのは私だ。私に信頼を置き、私を信じて歩みなさい。そうすればあなたは神の国に入ることができる!」「あなたは神の国から遠くない」と言われたのは、この律法学者をご自分お下に招いておられる、そのように私は思っています。そしてこの招きは、全ての人類に、今を生きる私たち一人一人にも向けられている。そのように信じています。
本日はこの神から、すなわちイエスからの招きを、招詞として、礼拝の冒頭で読んで頂きました。
ローマ人への手紙10:17節です。前の訳ではこのように記されています。「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」神を愛することも、自分を愛することも、隣人を愛することもままならない私たち人間ですが、イエスは私たちの罪深さを知り、弱さに同情され、助けて欲しいと願い、求める者には必ず応えて下さるお方です。そしてそのイエスとの愛のある関係に導かれるのに必要なことが、イエスへの信仰です。そしてそれは、イエスのことば、聖書のことばを聞くことから始まります。
イエスの愛の招きに応答し、イエスを信じた者全ては、イエスが統治される神の国に入ることができます。そこはイエスとの愛の交わりが永遠に続く場所です。そしてイエスとの愛の交わりが完成する時は、聖書に何度も何度も記され、預言されている再臨、イエスが再びこの世界に戻って来られる時です。その時私たちは、神を心から愛し、自分を心から愛し、隣人を心から愛するものに造り変えられます。その完成に向かって私たちは日々自分の弱さや欠点、罪深く、愛の足りない者であることを聖書のみ言葉から教えられ、イエスがなされた愛の言動から思い知らされていきます。しかしそれは、イエスへと向かう大きな原動力となること、素晴らしいことです。 神の前に、イエスの前に自分を飾らず、弱さを隠さず、「私は愛が足りません。あなたの助けが必要です。あなたの愛で私を満たして下さい。そして神を愛し、自分を愛し、隣人を愛する者にして下さい。」そのようにイエスに向かう者を、イエスは決して見放すことも、また見捨てられることもありません。その根拠が十字架です。十字架に架かるほど私たち人間を、そして「私を」愛して下さっている証拠ですから。 このイエスの愛に触れられながら、時に慰められ、励まされながら、心から神を、心かから自分を、そして心から隣人を愛していくことができますように。
祈ります。「神の国へのステップ」
イエスは、彼が賢く答えたのを見て言われた。「あなたは神の国から遠くない。」それから後は、だれもイエスにあえて尋ねる者はいなかった。

2026/6/14(日)「神はいくつの戒めを私たちに与えられましたか?」出エジプト34:28 庄司牧師

2026年6月14日 出エジプト記34:28「神はいくつの戒めを私たちに与えられましたか?」
問41 神さまはシナイ山でいくつの戒めを私たちに与えてくださいましたか?
答 十の戒めです。それは「モーセの十戒」と呼ばれています。
モーセはそこに四十日四十夜、主とともにいた。彼はパンも食べず、水も飲まなかった。そして、石の板に契約のことば、十のことばを書き記した。 (出エジプト記 34:28 SKY17)
招詞 こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認められるためです。 (ガラテヤ人への手紙 3:24 SKY17)
月の第二日曜日ですので、いつものように子ども信仰問答からお話をしていきます。
本日は、旧約聖書、出エジプト記の中に記されている箇所です。ここに登場する民族は、イスラエル民族であり、神に特別に選ばれた民ですが、彼らイスラエルがエジプトで奴隷とされているところから、出エジプト記の話が展開していきます。奴隷という身分と苛酷な労働を彼らは憂い、泣き、叫び、神に助けを求めました。神は彼らの涙に応え、モーセをエジプトからの解放者として遣わします。モーセは神から授かった力によって様々な奇蹟を行い、彼らをエジプトから脱出させます。神はその後、イスラエルの人々をご自分の特別な民として契約を結ばれました。その契約の中身が十戒です。十戒は神が彼らに与えられた教え、戒めである律法の中心となる大切な戒めです。
神は、イスラエル民族を通して全人類を祝福する計画をお立てになりました。 全人類ですから、日本人もイスラエル民族と関係があることが分かります。もちろんモーセの十戒も同じです。この十戒は別の言い方をすれば、人間が生きる上での「ルール」、「規則やきまり」です。
もし人間の世界に「ルール」がなかったらどうなるでしょうか。 昔流行ったアニメ、「北斗の拳」の世界になるということです。地域や社会、国など、私たちの生活の舞台が、力や自己中心的な行動が優先される「無法地帯」になるということです。盗んだり、盗まれたり。暴力を振るったり、振るわれたり。殺したり殺されたり。その全てがOKになる恐ろしい世界です。(現在も)
神はそのような世界になることを望んでおられません。そこで人間が秩序や公正を保つためにルールを設けられた。そのルールの具体的な教え、戒めが十戒だと言えます。 その内容は大きく二つに分けられます。人間が神に対して行うべき4つのルールと、人間が人間に対して行うべき6つのルールです。神に対しての4つのルールとは、人間は、聖書の神である、唯一まことの神を信じること。偶像を造って拝んではならない。神の名をみだりに唱えてはならない。安息日(休息の日)を守ること。これら4つが、人間が神に対して行うべきルールです。
一方人間が人間に行うべきルールが、父母を敬うこと。殺してはならない。姦淫してはならない。この姦淫ですが、ある訳には、配偶者以外と性行為をしない。と訳されています。盗んではならない。偽証をしてはならない。隣人の妻や財産を欲してはならない。という6つの教え、戒めとなっています。
しかし人間がこの十戒を知らない時、すなわち神が願っていることを知らない時、どのような歩みになるでしょうか。それはイスラエルを奴隷としていたエジプトの人々を見ると分かります。
エジプトの人々は動物や太陽などの天体を拝み、王であるパロは自分を神であると自称していました。これはさきほど十戒の中で神を神としなさい、偶像を造って拝んではならない、この二つの戒めを破っていることが分かります。権力を持つ者が神となり、また他の人々も神以外のものを拝んでいる。このような姿は、現代を生きている日本人も含め、多くの国々で今もなお、行われています。エジプトの姿と、日本を含めた私たちの世界とは全く変わりがないことが分かります。
ある姉妹からこのようなお話を聞きました。その姉妹の友達で、ある宗教を信じていた人がいたそうです。早起きを含めた修行、また善行を積むなどをモットーとしていた宗教だと思いますが、自分がした様々な良いことなどを発表する場があったそうです。そこでは参加者が、「私はこのような良いことをした。」「私はこのような素晴らしいことをした。」などと言って、自分のした良いことをアピールというか、自慢する場であったということです。結局その人は、「自分にはそのような良い行いはできない」と感じ、その宗教から遠ざかったということでした。
また新約聖書、コロサイ人の手紙の2章の中には、好き勝手な礼拝、自己卑下、肉体の苦行などを通して神を知り、神に近づこうとする人間の姿が描写されています。また別の聖書箇所には、禁欲的な生活によって、神を知ろうとする、神に近づこうとする人々の存在が描写されている。
逆に、死んだら終わりだからただ今を楽しもうと、神を信ぜず欲望のままに生きる生き方をする人々の存在なども、聖書に書き記されています。そのような人間の姿を、新約聖書を約半分書き記したパウロは、「自己満足」であるとしました。自己満足的に、そして自己流に自分の良いと思うことを通して神を礼拝する、神に受け入れてもらおうと努力する。彼らがそのような振る舞いをする一つの原因に、律法、神のルールを知らないということが挙げられます。しかし私たち人間は例え神の教え、戒めである律法を知っていたとしても、誰一人として律法を完全に守ることによって神を満足させることができる人は、誰もいません。それほど神の規準は人間の規準よりも遥かに高く、また厳しいからです。ではなぜ、神は人間が守ることができないルールである十戒、律法を、モーセを通してイスラエル民族に与えられたのでしょうか?
先程紹介したコロサイ人の手紙の著者であるパウロは、ローマ人への手紙7:7節で、人間には完全に守ることができない律法の効果、働きをこのように具体的に挙げています。
ローマ人への手紙7:7 それでは、どのように言うべきでしょうか。律法は罪なのでしょうか。決してそんなことはありません。むしろ、律法によらなければ、私は罪を知ることはなかったでしょう。実際、律法が「隣人のものを欲してはならない」と言わなければ、私は欲望を知らなかったでしょう。前の訳である新改訳第三版ではこのように訳されていました。律法が、「むさぼってはならない」と言われなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。
子どもが親に、「あれ欲しい。みんな持ってるもん。」というセリフを皆さんも聞いたことがあると思います。しかしそれは子どもだけではありません。あれも欲しい。これも欲しい。他の人の持っているもの、全て欲しい。いやそれ以上に欲しい。私たち人間の欲望は限りがありません。
しかし例えそれを手に入れたとしても、もっとたくさんのもの、もっと面白い物、もっと刺激的なもの、もっと欲しい。もっともっともっと。これが人間のむさぼりです。そしてこのような個人的なむさぼりから争いが生じ、国同士のむさぼりからの争いは、戦争にまで発展します。
パウロは人間の持つむさぼり、もっともっと欲しいという欲望は、律法がなければ分からなかった。律法がなければ、神の教え、戒め、ルールが示されなければ、自分も含め、人間は自分にそのような欲望があることすら分からないだろうと、ここで述べている訳です。そしてパウロはこのむさぼりの原因を罪だとしています。何度もお話して来ましたが、罪とは神から離れていることです。人間が愛と義である神を無視し、時に敵対し、離れてしまっている。神の愛から離れているので、人は自分や家族、友人など、自分に関わる者だけを愛する性質を持つようになりました。そして義である神から離れていることによって、自分の規準が絶対正しいと信じ行動することによって、他の規準を持つ人々とぶつかり、争い、時に人殺しまで発展してしまう。それが罪ある人間の姿です。
著者のパウロは自分の罪と戦った人です。そして最終的にこのような結論に至りました。同じローマ人への手紙の7章です。「私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています。」「私は本当にみじめな人間です。」パウロは罪と戦い、自分の力では打ち勝つことができないことを告白しています。しかしパウロは罪との戦いの中で、神の大きな恵みに気付くことができました。それはパウロが書いた別の手紙であるガラテヤ人への手紙に記されています。礼拝の冒頭で、神から礼拝への招きのことば、招詞で読んで頂いた、ガラテヤ人への手紙3:24節です。
こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認められるためです。律法によって神の思い、また完全さを教えられ、その神の完全な規準を満たすことが出来ないと悟った者は、キリストに向かうことになる。律法によって罪を教えられた人は、律法がその人をイエス・キリストへと導く養育係になるとパウロは語ります。そして子どもは成人すれば養育係が必要なくなるのと同じように、イエスがこの世界に救いをもたらすために来て下さったことにより、律法は必要がなくなったということです。 そしてパウロは続けます。
ガラテヤ人への手紙3:25 しかし、信仰が現れたので、私たちはもはや養育係の下にはいません。
3:26 あなたがたはみな、信仰により、キリストイエスにあって神の子どもです。
神の子どもになる条件とは、罪の解決がなされている人です。つまり神から離れているという罪が赦され、神との関係が回復した人々だけが、神の子となることができます。それが聖書の約束です。そのために私たち人間に必要なことが、イエスに信頼を寄せる、イエスを信じて歩む信仰です。こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認められるためです。イエスへの信仰によって、イエスの信仰のみによって私たち人間は神の前に義と認められる。神の前に正しい者と認められることができる。
神は、古い約束である旧約聖書にある十戒、律法を通して私たちに神の御心を示され、それを守ることができない私たち人間の為に、すなわち罪を解決できない私たち人間の代わりに、愛する一人子、イエス・キリストを、私たちの罪の身代わりとして十字架につけられました。
イエスを信じる者は、イエスの贖いによって神の子とされることができるという、新しい約束、新約聖書に記されている神の約束に私たちが生かされていることを感謝しつつ、今週も共にイエスを見上げて歩みたいと願っています。
祈ります。
「神はいくつの戒めを私たちに与えられましたか?」
答 十の戒めです。それは「モーセの十戒」と呼ばれています。
モーセはそこに四十日四十夜、主とともにいた。彼はパンも食べず、水も飲まなかった。そして、石の板に契約のことば、十のことばを書き記した。
こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認められるためです。

2026/6/7(日)「生きている者の神」マルコ12:18~27 庄司牧師

2026年6月7日 マルコの福音書12:18~27「生きている者の神」
また、復活はないと言っているサドカイ人たちが、イエスのところに来て質問した。「先生、モーセは私たちのためにこう書いています。『もし、ある人の兄が死んで妻を後に残し、子を残さなかった場合、その弟が兄嫁を妻にして、兄のために子孫を起こさなければならない。』さて、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、死んで子孫を残しませんでした。次男が兄嫁を妻にしましたが、やはり死んで子孫を残しませんでした。三男も同様でした。こうして、七人とも子孫を残しませんでした。最後に、その妻も死にました。復活の際、彼らがよみがえるとき、彼女は彼らのうちのだれの妻になるのでしょうか。七人とも彼女を妻にしたのですが。」イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、聖書も神の力も知らないので、そのために思い違いをしているのではありませんか。死人の中からよみがえるときには、人はめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです。死人がよみがえることについては、モーセの書にある柴の箇所で、神がモーセにどう語られたか、あなたがたは読んだことがないのですか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあります。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。あなたがたは大変な思い違いをしています。」 (マルコの福音書 12:18-27 SKY17)
人類の罪の身代わりのため、イエスは十字架への歩みを進めている-その最後の1週間を共に見ています。11章から最後の16章まで続きます。 再び、イエスの下へ刺客が送られて来ました。それがパリサイ派と並ぶ党派であるサドカイ派の人々でした。当時のサドカイ派の人々は祭司長、および長老たちからなる富裕層の指導者たちです。彼らは現実主義的な保守派で、支配体制の現状維持を何よりも望んでいました。つまり彼らは前回見たヘロデ派のように、ローマ帝国と関係を保つことによって、自分たちの支配と利益を優先しているようなグループでした。 彼らはモーセ五書、すなわち旧約聖書の最初の五つの書物、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記のみを聖書と見なし、信仰の規範としていました。モーセが書いたと言い伝えられており、「モーセ五書」と呼ばれているものです。十戒を中心とする律法がそこに記され、聖書の中でもとても大切な部分です。 この5つの書物には、死んだ者が復活するということは直接的には書かれていません。それゆえサドカイ派の人々は、死者の復活はないと断言していた。また彼らサドカイ派の人々は、祭司として神殿で仕えるような立場にありましたが、復活だけでなく、目に見えない天使や悪魔などの霊的存在も信じていませんでした。加えて人間の運命は神によって完全に決定されているという考えには立たず、人間が自由に自分の道を、人生を決定できる、自由意思を重んじていました。つまり、彼らは神の主権や計画なども信じていなかったわけです。この世における自分の利益だけに興味があるようなサドカイ派の人々が、イエスに論争を挑んで来た、それが本日聖書の箇所です。サドカイ派の人々の質問は、「七人の兄弟がいて、長男は結婚したが死に、子がいなかったので、その妻を弟に残した。そして、次男も三男も、そして七人までもが彼女を妻にした。そして最後にその妻も死んだ。もし復活があるとすれば、彼女は七人のうちのだれの妻になるのか。」というものでした。 これは「レビラート婚(レビレート)婚」と言われるものです。子孫を絶やさないようにすることで家系を守り、またその家系の財産の維持や、遺された妻や子どもの生活保障などが目的でした。世界の国々にある制度のようです。旧約聖書、申命記25章にこの規定が記されています。実例が、イエスの直接の系列となるユダ部族、ユダに見ることができます。創世記38章に記されています。後でご覧下さい。
7人の夫が次々に死んで行く中で、一人の妻をそれぞれがめとる。 理論的にはあり得る話ですが、実際的には到底起こらない話です。イエスはこの質問に対して、ノーを突き付けました。 イエスは彼らに対して24節で「思い違いをしている」、27節においては「大変な思い違いをしている」と、二度にわたって彼らの間違いが致命的であることを指摘しています。
イエスは彼らの間違いを指摘しながら、復活とは本当はどのようなものであるかを、25節から27節で説明されて行きます。先に26節と27節の前半を見たいと思います。死人がよみがえることについては、モーセの書にある柴の箇所で、神がモーセにどう語られたか、あなたがたは読んだことがないのですか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあります。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。イエスは26節でアブラハム、イサク、ヤコブという、神の選びの民であるイスラエル民族における、重要な祖先の名前を挙げられました。彼らは神を信じる信仰者でした。 なぜイエスは彼らの名前を挙げられたのでしょうか。
それは、サドカイ派の人々がモーセ五書のみを信じていたため、そのモーセ五書の中に、死人が甦るということが直接的ではないものの、示されているからです。それがアブラハム、イサク、ヤコブであり、イエスはモーセ五書の第二巻、出エジプト記の3章6節を引用されました。
『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』この箇所は、エジプトで奴隷とされていたイスラエル民族が神に助けを叫び求めた時、主なる神が燃える柴の中からモーセに現れた時の場面です。神はモーセを選び、イスラエルをエジプトから脱出させる器として、またリーダーとして選ばれました。この時神は、アブラハム、イサク、ヤコブの名前を挙げながら、ご自分を現わされました。すなわち神は、モーセから見れば400年~500年前に生きていたアブラハム、イサク、ヤコブと今なお契約関係にあることを示されています。その契約とは、神を信じる者が義とされ、すなわち神の前に正しい者と認められ、神の祝福を受け継ぐ者となるというものでした。つまり神はモーセに対して、彼らを導いた神は、あなたの神でもあるのだと、モーセに語られているということです。「アブラハム、イサク、ヤコブを導いた神である私は、あなたにとっても同じ神だ。この同じ神があなたを遣わし、共にいるのだから、あなたはイスラエルをエジプトから脱出させることができる!大丈夫だ!」神はご自身を宣言されると共に、モーセを励ましている箇所でもあります。 イエスはこの箇所を引用された時に、27節の前半において、神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。と語られました。つまり、イスラエルの祖先であるアブラハム、イサク、ヤコブは、今も神の前に生きているということです。彼らが今も生きているということを踏まえて、25節にある、「死人の中からよみがえるときには」と言われたイエスのことばを考えてみたいと思います。 アブラハム、イサク、ヤコブのように、神の前に生きていることと、よみがえるということは、異なるということです。私たちのいのちが終わる時、肉体の機能は停止し、肉体はその形も機能も維持することはできません。そして崩壊、すなわち腐り、最終的には神が聖書で語られているように、最初に取られた土に返ります。人間の組織が土の成分と殆ど同じだと言うことは、以前お話したことがあります。 この肉体の死と崩壊という現実は、アブラハムにもイサクにもヤコブにも当てはまりました。彼らも普通の人間だったからです。 ですから彼らが死んだ時も、肉体は滅んでしまいました。しかしイエスは彼らが今も生きていると語られています。つまり彼らが神の前に生きているというのは、肉体ではなく、霊魂であると言えるでしょう。人間が霊、肉体、魂からできていると聖書に記されている通りです。死んでしまっても、神を信じる信仰者であれば、霊魂の状態で神の前に生きている。 旧約聖書に登場する人々の時代は、イエスはまだ受肉していませんでしたが、三位一体の神-父なる神、子なるキリスト、聖霊なる神は一つの神です。ですから主なる神を信じていた旧約時代の信仰者は、すなわちイエス・キリストを神として信じ、イエスの前に生きているということでもあります。この現実を踏まえて25節を見たいと思います。この箇所は今回のサドカイ人の質問に対してのイエスの答えです。死人の中からよみがえるときには、人はめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです。
「死人の中からよみがえるとき」とは、イエスがこの世に、この世界に再び戻って来られる再臨の時に、イエスを信じて死んだ者たちがよみがえる時を意味します。 新約聖書、コリント人への手紙の第一、15章には、イエスが再臨された時に、イエスを信じて亡くなった信仰者に与えられる甦りと、甦った者に与えられる復活の体について記されています。また彼ら信仰者は、つまり私たち信仰者は、将来復活した時、「天の御使いたちのよう」とあるように、男と女という性別も無くなると考えられています。つまり、この世における結婚の制度-男と女が結びつくといった関係が、私たちが召された後はもはやない、ということになります。またユダヤ人とユダヤ人以外の民族である、異邦人といった民族の違いも、将来一つになると聖書に記されています。
ところで皆さんは、「復活においては、めとることも嫁ぐこともない」イエスが言われたこのことばをどのように受け止められるでしょうか。ある人にとっては、このことばはとても寂しいことだと思われかもしれません。そのように思う人は幸せな夫婦関係に生きていた、また生きていると言えるでしょう。しかしある人にとっては逆に、このことばは大いなる解放の知らせかもしれません。この世では我慢しているが、復活してまであの人と一緒なのはごめんこうむる!感謝です!と思う人もいるかもしれません。また独身の人や、離婚、再婚などを経験した人々にとっては、このイエスのことばをどのように捉えたら良いのかと、戸惑う人もいるかもしれません。しかしこれら全ての反応は、死者からの復活を、この世の人生の延長上に見ているから起こる反応だと思います。そこで、イエスが言われる復活について、私たちが正しく理解するための大切なポイントが、先ほども触れましたが、イエスが25節の後半で語られた、「天の御使いたちのようです」にあると思います。もう一度この25節をお読みします。死人の中からよみがえるときには、人はめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです。天の御使い、すなわち天使ですが、天使のようになるとは、何か白い衣を着て背中に翼のある者になるということではありません。 原語のギリシャ語を見ると「天にいる御使い」となっています。「天にいる」、ということが大切です。天にいるとは、神のみ手の内に置かれている、神と共に存在しているということです。今私たちは朽ちて行く肉体を纏い、罪と死とサタンが支配しているこの世、この世界に生きていますが、イエスを信じる信仰者が復活する時、全てが変わるということです。 御使いが神の御手にあるように、復活した私たちが神の御手の中にあり、神が共にいて下さるという神の守りを、神の恵みを、神の平安を、神の愛を、もっとはっきりと、知る者にされるということです。経験できる者にされるということです。
そのような祝福が復活にあるとすれば、今のこの世における私たちの人間関係がいかに歪んでいても、時に壊れていても、復活の時に神のみ手の内に置かれることによって、新しく完成されるということではないでしょうか。ですから、今この人生において良い夫婦関係を与えられている人は、復活において、今以上の完成された関係が与えられるでしょう。また、今この人生においては夫婦の間に問題があり、復活してまで一緒にいたくないと思っている人には、そのような問題や罪が全て解決され、解消された新しい関係が与えられるでしょう。それはもちろん、二人ともイエスを信じていなければなりませんが。 また、この世の人生においては結婚しなかったり、離婚を経験したり、複数の人と結婚した人においても、それらのことを越えた新しい、祝福された関係が与えられるでしょう。 いずれの場合も、この世における関係が復活において継続するのでなく、完成するということです。そしてこの完成は、夫婦の関係だけの話で終わりません。家族、友人、知人から、この世において知り合うことができた、全てイエスを信じた人々、また信じている人々との人間関係に及ぶものです。私たちはこの世の人生において様々な人間関係の中に生きています。恵まれた、喜ばしい関係もあれば、顔も見たくない、という問題に満ちた関係もあります。それらの関係や問題が、復活して神のみ手の内に置かれることによって、全て解決されます。それは、人間関係を悪くしてしまっている、元々の原因である罪が、イエスを信じることによってすでに解決されているからです。
復活というのはこのように、様々な罪や弱さを抱えてこの世の人生を歩んでいる私たちが、神の恵みの力によって新しくされ、御手の内に、御手の中に置かれ、この世においてはどうしようもなくまとわり着く罪が拭い去られ、一切の苦しみや悲しみから解放されて、新しく生かされるということです。それが神の力であり、恵みです。この神の約束は必ず成就、実現します。 私たちはイエスを信じていますから、将来必ず復活します。しかし今はまだ肉体という限界があり、神の御手の内には直接的にはいない私たちにとっては、復活を信じて日々待ち望み、また期待して過ごして行くことが大切ではないでしょうか。そのように歩みが、私たちの信仰であると言えます。
そしてその私たちの信仰と復活の保証がイエス・キリストです。 私たちの復活の先駆けとして、また私たちが将来復活して新しい体が与えられる、その保証として、死人の中から最初に復活されたのが、私たちの主、イエス・キリストです。肉体の死がイエスを一時捕えましたが、生きている者の神である主なる神が、その死を打ち破り、永遠の命を生きることができる、新しい体をイエスに与えて下さいました。そしてイエスを信じる者は全て、イエスの復活に与る者となります。イエスを信じる者が受けるバプテスマ、洗礼は、私たちがイエスと合わされている、一つであるということを表しているものですが、それは復活も同じです。イエスを信じた人は全て、イエスが死から復活されて今も生きておられるように、私たちも将来復活して、御国を受け継ぐ世継ぎとして神の御手に置かれ、私たちは神と共にあり、神の恵みと平安を、永遠に持ち続ける者とされます。私たちが将来必ず与えられる復活と、将来必ず与えられる復活の体を期待し、また同時に、先にイエスを信じて天に召された人々との再会を待ち望みたいと思います。
復活され、今も生きておられるイエスと共に、これからも歩んで行きたいと願います。最後に、イエスが群衆に語られたことば、ヨハネの福音書6:40節のことばをもって、本日のみ言葉の取り次ぎを終わりたいと思います。ヨハネの福音書6:40節 わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです。」
祈ります 「生きている者の神」
神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。あなたがたは大変な思い違いをしています。

2026/5/31日「HERE IS LOVE ここに愛がある」Ⅰヨハネ4:7~11 アーサー・ホーランド師

「HERE IS LOVE ここに愛がある」

ゴスペル特別礼拝

2026年5月31日(日) 10:30~ 

聖書:ヨハネの手紙第一 4章7~11節

メッセンジャー:
 アーサー ホーランド師

ミュージックゲスト:
 ラニー ラッカー
 兼松 弘子
 米田 香
 Hope Hill Gospel Choir

2026/5/17(日)「神のものは神に」マルコ12:13~17 庄司牧師

2026年5月17日 マルコの福音書12:13~17「神のものは神に」
さて、彼らはイエスのことばじりをとらえようとして、パリサイ人とヘロデ党の者を数人、イエスのところに遣わした。その人たちはやって来てイエスに言った。「先生。私たちは、あなたが真実な方で、だれにも遠慮しない方だと知っております。人の顔色を見ず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。ところで、カエサルに税金を納めることは、律法にかなっているでしょうか、いないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めるべきでないでしょうか。」イエスは彼らの欺瞞を見抜いて言われた。「なぜわたしを試すのですか。デナリ銀貨を持って来て見せなさい。」彼らが持って来ると、イエスは言われた。「これは、だれの肖像と銘ですか。」彼らは、「カエサルのです」と言った。するとイエスは言われた。「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい。」彼らはイエスのことばに驚嘆した。 (マルコの福音書 12:13-17 SKY17)

祭司長たち、律法学者たち、長老たちなどの宗教指導者たちはイエスに面子を潰され、批判されて来ました。それゆえイエスを捕らえて殺そうとして来ましたが、群衆を恐れて手を下すことができないでいました。彼らはイエスの言葉尻を捕えようと、またやってきました。平行所のマタイの福音書の22章には、「彼らはどのようにしてイエスをことばの罠にかけようかと相談した。」と描写されています。そして今回も悪巧みの質問をイエスに投げかけましたが、イエスがどちらを答えても窮地に追いやることができる質問でした。 彼ら宗教指導者たちは、「パリサイ人とヘロデ党の者を数人、イエスのところに遣わしました。」パリサイ人とヘロデ党の人々は対立関係にありました。犬猿の仲。パリサイ人は、ユダヤの人々が神の選民であることを強調し、旧約聖書の律法を厳格に守ることによって、神の民として誇りをもって生きていました。ですから彼らは異邦人であるローマ帝国の支配下にあり、民族としての自立性を失っていることを非常に苦々しく思っていました。また、異邦人に税を納めることは神の権威を冒涜することであると考え、反対していました。

他方ヘロデ派は、当時のガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスの取り巻きです。ヘロデの領主としての地位は、ローマ帝国の権威によって支えられていました。そのヘロデの権力によって利益を得ていた彼らは、宗教的な理想に生きるのではなく、長いものには巻かれろという現実な路線を取り、ローマの支配を受け入れて、その中でうまくやろうとしていた人々です。彼らは、ローマとの関係を親密に保つために、ローマへの納税を推進していました。ですからパリサイ人と、ヘロデ派の人々は、本来互いに反目し合う関係です。しかし両派の利害の一致、すなわちイエスを殺害するということで、一致団結しました。
彼ら宗教指導者が考えたことばの罠とは、ローマ皇帝に税金を納めることが律法に適っているかどうか、という律法に関わるものでした。ユダヤ人たちが当時最も苦痛に感じていたのは、ローマ帝国が課していた人頭税、青年から壮年に至る一人一人が、ローマに支払わなければならない税金でした。それは自分たちがローマに征服され、支配されていることを思い知らされる、屈辱的な税金でした。ですからユダヤの人々は、いつか神からの救い主、メシヤが現れてローマの支配を打ち砕き、この税金から解放してくれることへの期待がありました。従って皇帝に税金を納めるかどうかは、神の民であるユダヤの人々にとって、ローマ帝国の支配や権力を認めるか否か、という問題でもありました。この問いをイエスに投げかけることによって、彼らはイエスを追い詰めようとしています。 もしもイエスが、皇帝に税金を納めなくてよいと答えたならば、そこはヘロデ派の出番です。彼らはそのことをローマの総督に訴え出れば、イエスはローマへの反逆者として捕えられるでしょう。もしも逆にイエスが、皇帝に税金を納めなさいと答えたならば、それは同時にローマの支配を認めることになります。今度はパリサイ人の出番です。イエスは、神の民であるユダヤ人の魂をローマに売り渡している。その支配に加担している!と言われ、イエスこそメシヤではないかと期待している人々が、失望してイエスの下から去っていくでしょう。このように、どちらを答えても、イエスが窮地に陥らざるを得ない状況を、彼らは作り出しました。
しかも彼らは冷静かつ狡猾です。イエスが質問から逃げないようにしています。それが14節のことばです。「先生。私たちは、あなたが真実な方で、だれにも遠慮しない方だと知っております。人の顔色を見ず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。イエスに対する褒めことばのように聞こえますが、その後「ところで」と質問をしています。だれにも遠慮しない、人の顔色を見ない真実なお方であるあなただからこそ、この質問に答えて下さいね。逃げないで下さいよ。イエスが問いに答えざるを得ない状況を作り出し、イエスを追い込んでいます。彼らがイエスに対してこのような問いを発したのは、神の選びの民であるユダヤ人の神への忠誠と、ローマへの忠誠とは互いに両立しない、という前提があります。彼らはユダヤ人でない異教徒による政治的支配に対して、否定的な立場にいた。しかしイエスは、彼らの考えとは違うことを、銀貨に彫り込まれている肖像を通して教えられます。

イエスは彼らの欺瞞、嘘、偽善、下心を見抜いた上で、デナリ銀貨を持って来させました。デナリ銀貨はローマ帝国が発行している銀貨でした。ユダヤにおいてもそれが日常的に使われており、税金もそれによって納められていました。デナリ銀貨にはローマ皇帝、当時はティベリウスの肖像が彫られ、その名が記されていました。このように当時のデナリ銀貨には、皇帝の肖像が刻まれ、また、「ローマ皇帝は神の子である」と銘が刻まれていました。イエスはその銀貨を皆に示しながら「これは、だれの肖像と銘ですか」と問われました。それを問われれば彼らも、「カエサル、皇帝のものです」と答えざるを得ません。するとイエスは「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」と言われました。当時の感覚では、貨幣はそれを発行した支配者のものでした。従って皇帝の肖像と銘のある銀貨は、皇帝のものです。皇帝のものであるお金を皇帝に返すのだから、税金は当然納めるべきものだとイエスが婉曲的に語られたことによって、皇帝への反逆のかどでイエスを訴えようとしていた、ヘロデ派の思惑は外れました。
新約聖書、ローマ人への手紙の13章に記されていますが、神はこの地上における人間生活に秩序をもたらすために、人間的支配者を立てられて、人々を支配することを許されています。 またユダヤ人たちはローマの平和、経済、交通といったように、ローマの帝国の恩恵を受けていました。ですからその通貨で税金を納め、社会的な責任を果たすことは妥当なことであり、また必要なことであったと言えます。しかし一番は、この秩序を作られたのは神であり、神によって認められた制度に基づく納税の問題ですから、それは当然果たすべきものでした。 ここでイエスはカイザルのものはカイザルに返しなさい、つまり税金を払いなさいと言われた訳ですが、それで終わりではありませんでした。そのすぐ後に、「神のものは神に返しなさい」と続けられました。
それでは「神のもの」とは何でしょうか。旧約聖書の始めの書簡、創世記1,2章に、神の創造の御業が描写されています。人間が生きるために必要な全てを備えて下さった、神の偉大な力、主権、知恵、配慮、人間に対する愛を感じることができる箇所です。そしてこの創造の業が他の書簡にも描写されています。その一つを取り上げたいと思います。旧約聖書、詩篇の24篇、1,2節です。
「地とそこに満ちているもの 世界とその中に住んでいるもの それは主のもの。」「主が 海に地の基を据え 川の上に それを堅く立てられたからだ。」
私たちが労働して得た賃金は私たち、自分のものとなります。また何か絵を描いたり、作曲などをしても、その作品は私たちのものとなります。そうしますと、神が造られたものは神のものとなります。つまり、この世界全ては神のものであるということです。太陽も、月も、星も、地球も、動植物や、私たち人間一人一人も、です。その神のものを神に返しなさいと、イエスは言われました。私たちは今、人間としてこの世界に住み、生きています。人間としてどのように神に何かを返すとなれば、私たち人間が持っているもの全て、ということになるのではないでしょうか。私たちの体、魂、心、霊、人生、労働、愛、信仰、経験、財産など、私たちの持っているもの、全てだということになります。そしてイエスは実際に、私たちが神のものであるということを、デナリ銀貨を通して教えておられます。
イエスは皇帝の肖像が刻まれたデナリ銀貨を持って来させ、「これは、だれの肖像と銘ですか。」と尋ねられました。この「肖像」と訳された新約聖書の原語であるギリシャ語は、「エイコーン」いうことばが使われています。このことばは「肖像」だけでなく、「似姿」とも訳すことができることばです。そしてこの「エイコーン」ということばは、先ほど触れた創世記1,2章、その中でも、    1章27節-「神は人をご自身のかたちとして創造された。」というみ言葉を連想させるものです。つまり人間は神のかたちに、神の似姿に刻まれて創造されたと、創世記は語っている訳です。   皇帝の肖像、似姿を刻まれたデナリ銀貨が「カイザル、すなわち皇帝のもの」であるなら、神のかたち、神の似姿に刻まれて創造された、私たち人間は「神のもの」です。イエスは直接的にはイエスに敵対する宗教指導者たちに、ひいては私たち人間一人一人に、「あなた方は神の肖像、神の似姿を刻み込まれて、彫り込まれている存在だ。あなた方は神の作品であり、神のものだ。」と言っておられるのです。 従ってイエスが、「神のものは神に返しなさい」と彼ら宗教指導者たちに対して語られた本当の意味は、「あなたがたは神の似姿として刻み込まれた者だ。作品だ。それゆえ自分自身を神に返す生き方、神の栄光を表して生きていかなければならないのに、あなたがたはそれをしていない!」と糾弾したことになります。 イエスの答えに対して彼らは驚嘆しました。「イエスに驚嘆した」と、その時の彼らの驚きの様子が記されています。これは当時のユダヤ人たちが、人が神のかたち、神の肖像であり、神に似せて刻まれ、造られていることを知っていた、と、想像できるものです。
ですから本来私たち人間は、神の似姿を刻まれた神のものとして生きていかなければならない、ということです。神は人間を含め、全ての被造物を造られました。ですから神のものとは、天地万物全てであり、「神のもの」とされている私たち人間、ひいては私たちのいのちや人生、つまりわたしたちそのものです。ですから私たちが神に与えられている人生、賜物、時間、能力などを用いて、神の素晴らしさ、栄光を表していくことが、人間が神に創造された本来の目的です。この目的に沿えずに自分の栄光ばかり、そして自分中心に生きる時に心が虚しくなるのは、神の私たちの創造の意図に、神の御心に反する生き方をしているからだと思います。旧約聖書に記されていますが、ソロモンは大富豪でした。しかし彼は神から徐々に遠ざかり、最後は「空の空。すべては空。」という告白を、伝道者の書でしています。 どんなに地位や名誉、財産があっても心が満たされることがないというのは、神の意図に、神の目的に、神の御心に反しているからです。人間が神の肖像に、神の似姿として刻まれ、創造された、一つの証、証拠ではないでしょうか。

旧約聖書、イザヤ書49:16節に、このような有名なみ言葉があります。
「見よ、わたしは手のひらにあなたを刻んだ。あなたの城壁は、いつもわたしの前にある。」
古代、重要なことを忘れないために、自分の手のひらに文字や印を刻む習慣があったそうです。ここに登場する手は神のことを表し、手のひらに刻まれたのは直接的な文脈では、神の選びの民であるイスラエルですが、これは、私たち一人一人にも向けられていることばです。なぜなら、私たち一人一人が神のかたちに、神の肖像に、神の似姿に刻まれて、彫り込まれて創造され、いのちを吹き込まれて生きる者となったからです。またあなたの城壁、石垣は常にわたしの前にあると、神が常に私たちのために石垣となり、城壁となって守り、支えて下さっている、平安を与えて下さっていると、ここに記されています。 神は、私たちの一人一人の名前や存在を、ご自身の「手のひら」に彫り込み、刻みつけ、決して忘れることはない、いつも見守っていると、約束して下さっています。

神に覚えられている。これは私たちにとって大きな慰めと励ましです。しかも私たちはただ神に覚えられているだけではありません。神の手に刻みこまれ、その刻み込まれた私たち一人一人を、神は毎日見つめ、見守り、愛して下さっています。そればかりか、その神の愛は、神の独り子を十字架につけて私たちの罪の身代わりにさせるほどの愛です。 神が、全存在をかけて私たちを愛して下さっている。私たち一人一人にその神の愛が注がれている、尊い存在です。

食べるにも、飲むにも、何をするにも、神の栄光、神の素晴らしさを表しなさいと、使徒パウロは語りました。私たちは自分の持っている、というより、神に与えられ、委ねられた何をもって神にお返ししていくことができるでしょうか。その神の願い、御心を求めつつ、共に祈り、教えられていきたいと思います。

祈ります
「神のものは神に」
するとイエスは言われた。「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい。」
ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。(ローマ人への手紙12:1)

2026/5/10(日)「だれのてこのて」ヨハネ20:24~29 庄司牧師

2026年5月10日「だれのてこのて」ヨハネの福音書20:24~29
さきほど「だれのてこのて」の絵本を一緒に見ました。 赤ちゃんの手を見たら、赤ちゃんとわかる。フライパンで料理をしている人の手を見たらコックさん、料理人だとわかる。聴診器を持っている人の手を見たら、お医者さんだとわかる。お手紙を持っている人の手を見たら、郵便屋さんだとわかる。では、手の傷跡を見たら?それも両手に傷の跡を見たら?それは優しい優しいイエスさまだとわかる。人間の手は、その人がどういう人かを表していると言えるでしょう。
この絵本を描いた人は、イエスさまの両手に傷跡があるのを、絵に描きました。そしてその傷跡があるイエスさまを指して、イエスさまは優しいお方である描きました。そうしますと、イエスさまが優しいお方であるとこの絵本の作者が言っているのは、この傷跡と関係がありそうです。
イエスさまは神さまであり、また人間であることが聖書に記されています。そしてこのイエスさまは、実際に傷ついたお方であり、とても優しいお方です。それは十字架を見ると分かります。それでは、本日の聖書の箇所を読んでみたいと思います。
十二弟子の一人で、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちは彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」と言った。八日後、弟子たちは再び家の中におり、トマスも彼らと一緒にいた。戸には鍵がかけられていたが、イエスがやって来て、彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスはイエスに答えた。「私の主、私の神よ。」イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」
今日のお話の前に、大きな大きな出来事がありました。 それは、イエスさまが人々に憎まれ、十字架にかけられて殺されてしまったことです。しかしイエスさまは三日目に死から甦られました。そして甦ったイエスさまは、イエスさまを信じて従ってきた弟子たちのもとに現われてくれました。しかしこの時、イエスさまの弟子の一人、トマスがその場にいませんでした。今日の聖書箇所にはこのように記されていました。
十二弟子の一人で、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
それでほかの弟子たちはトマスに「私たちは主を見た」と言った。とあります。「私たちは復活されたイエスさまを見たよ。復活されたイエスさまに会ったよ。」と弟子たちがトマスに告げた訳です。この時トマスはこのように言いました。「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」
トマスはイエスさまが死から甦られたことを信じることができませんでした。だから実際にイエスさまが十字架に釘付けられたその釘の跡に指を入れ、またイエスさまは十字架上で脇腹を槍で刺されていましたから、その脇腹の穴に手を入れてみなければ信じない、と他の弟子たちに言いました。

他の弟子たちがイエスさまは復活されたと言って、イエスさまの復活を信じている中で、「私は信じることができない」と言うのは、すごく勇気がいることだと思います。トマスは、「信じることはできない」と、他の弟子たちに言わないで、黙っていることもできました。そしてもし黙っていれば、他の弟子たちから何も言われずに済んだでしょう。 でもトマスは、自分の心に、自分自身に嘘をつくことができませんでした。だからトマスは正直な人だったと思います。そしてトマス自身も、イエスさまの復活を信じたかったのではないでしょうか。イエスさまが大好きで、イエスさまを愛して、ずっと一緒に過ごして来ました。そのイエスさまが十字架で殺されてしまった。でも甦った。またお会いできる。こんなに嬉しいことはないからです。でも信じることができませんでした。それからしばらく時間が経ちました。このように聖書に記されていました。
八日後、弟子たちは再び家の中におり、トマスも彼らと一緒にいた。戸には鍵がかけられていたが、イエスがやって来て、彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

今度はトマスの前に、復活されたイエスさまが直接現れてくれました。ここからイエスさまは凄いな、と分かることがあります。それは、イエスさまが十字架の死から本当に甦られたということです。人間で、死から甦ることができる人はいません。イエスさまは人間でしたが、同時に神さまであったことが、この復活を通して分かります。イエスさまは凄いお方です。またイエスさまは、何でも知っているということです。始めにイエスさまが甦られた時、トマスはその場にいませんでした。そこでトマスは他の弟子たちに、「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」と言いましたが、イエスさまは、トマスがそのように語ったことを御存知だったということです。それはイエスさまがトマスが言っていたことを繰り返していることから分かります。イエスさまは何でも知っておられる凄いお方です。
そしてイエスさまは優しいお方です。イエスさまが始めに復活された時、他の弟子たちがその場に10人いました。しかし今回現れてくれたのは、トマスのためだけだったと思います。
イエスさまの復活を信じたいけど信じることができない。トマスの心の苦しみや悲しみ、もどかしさなどを知って、イエスさまはトマスだけのために現れて下さった。とても優しいお方です。

この時トマスは、「私の主、私の神よ。」とイエスさまに告げました。あなたは私の神です。もう一度、また改めて信じます。というトマスの信仰の告白でした。またこの告白には、あなたのことを愛し続けます、とか、これからも従っていきます、といった気持ちもあったと思います。
この時イエスさまは、「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」 と、トマスに告げられました。
トマスは他の弟子たちからイエスさまの復活のことを告げられた時、信じることができませんでした。イエスさまの復活を実際に見ていなかったからです。しかしイエスさまは、ご自分のことを実際に見なくても、信じることができるよ、とトマスに語りかけてくれました。そしてこのイエスさまが言われたことば、「見ないで信じる人たちは幸いです。」ということばは、今の僕たち、私たちにも語られていることばだと思います。

このヨハネの福音書を書いた、イエスさまの弟子の一人であるヨハネは、イエスさまが語られた、「見ないで信じる人たちは幸いです。」ということばの後、このように書き記しています。
このことばは今日の朝、丁度、日曜学校でお話したことばでもあります。
これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。

これらのこと-それは聖書に記されていることです。イエスさまが語られたこと、たくさんの奇蹟を行われたこと、そして十字架の死と、死からの復活などです。私たちは今、この目でイエスさまを見ることも、また会うこともできません。しかし見ないでイエスさまを信じることができます。それはイエスさまご自身が、「見ないで信じる者は幸い、幸せな人だよ。」と、今を生きる僕たち私たちにも語りかけて下さっているからです。イエスはさまは、僕たちにできないことを、決して言われません。 そしてイエスさまの両手の傷跡は、僕たち私たちのための傷跡でもあります。僕たちの悪い心-嘘を言うこと。盗んだり、悪口や陰口などで人を傷つけること。神さまなんていない、イエスなんて信じないと、えばってしまうこと、など。このような悪い心や気持ち、神さまを信じないで自分勝手に生きることなどを、聖書では罪と呼んでいます。 イエスさまは僕たち全ての人間が持っている罪を全部背負われて、十字架に架かって僕たちの代わりに死んでくれました。それは僕たち、私たちの罪を赦すためでした。そしてイエスさまを信じる者は、死んでも終わらない。その先-永遠があるよ、ということを、死から復活したことで、僕たち私たちにも知らせてくれました。また、今も教えてくれています。

今日の絵本の最後は、「わたしのて いえすさまと いつもいっしょ」で終わっています。(スライド見せる)イエスさまを見れなくても、実際に会えなくても、僕たち私たちは、聖書に書いてあること-イエスさまがお話したこと、教えてくれたことを通してイエスさまを知り、信じることができます。 そしてイエスさまを信じる人は誰でも、死から甦って今も生きておられるイエスさまと、ずっとずっと一緒にいることができます。一緒に過ごすことができます。イエスさまが聖書で約束してくれています。 僕たち私たちを愛してくれているイエスさまが、神さまが、ただイエスさまを信じるだけでずっとずっと一緒にいてくれる。それは僕たち人間にとって、一番幸せなことです。嬉しくて嬉しくて仕方がない。喜びと感謝、そして今日たくさん神さまに讃美を歌いましたが、讃美が溢れます。

このイエスさまを、「私の主、私の神」と、ここにいるみんなが信じることができますように。そのように願っています。
お祈りします
「だれのてこのて」
イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」