2026年6月14日 出エジプト記34:28「神はいくつの戒めを私たちに与えられましたか?」
問41 神さまはシナイ山でいくつの戒めを私たちに与えてくださいましたか?
答 十の戒めです。それは「モーセの十戒」と呼ばれています。
モーセはそこに四十日四十夜、主とともにいた。彼はパンも食べず、水も飲まなかった。そして、石の板に契約のことば、十のことばを書き記した。 (出エジプト記 34:28 SKY17)
招詞 こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認められるためです。 (ガラテヤ人への手紙 3:24 SKY17)
月の第二日曜日ですので、いつものように子ども信仰問答からお話をしていきます。
本日は、旧約聖書、出エジプト記の中に記されている箇所です。ここに登場する民族は、イスラエル民族であり、神に特別に選ばれた民ですが、彼らイスラエルがエジプトで奴隷とされているところから、出エジプト記の話が展開していきます。奴隷という身分と苛酷な労働を彼らは憂い、泣き、叫び、神に助けを求めました。神は彼らの涙に応え、モーセをエジプトからの解放者として遣わします。モーセは神から授かった力によって様々な奇蹟を行い、彼らをエジプトから脱出させます。神はその後、イスラエルの人々をご自分の特別な民として契約を結ばれました。その契約の中身が十戒です。十戒は神が彼らに与えられた教え、戒めである律法の中心となる大切な戒めです。
神は、イスラエル民族を通して全人類を祝福する計画をお立てになりました。 全人類ですから、日本人もイスラエル民族と関係があることが分かります。もちろんモーセの十戒も同じです。この十戒は別の言い方をすれば、人間が生きる上での「ルール」、「規則やきまり」です。
もし人間の世界に「ルール」がなかったらどうなるでしょうか。 昔流行ったアニメ、「北斗の拳」の世界になるということです。地域や社会、国など、私たちの生活の舞台が、力や自己中心的な行動が優先される「無法地帯」になるということです。盗んだり、盗まれたり。暴力を振るったり、振るわれたり。殺したり殺されたり。その全てがOKになる恐ろしい世界です。(現在も)
神はそのような世界になることを望んでおられません。そこで人間が秩序や公正を保つためにルールを設けられた。そのルールの具体的な教え、戒めが十戒だと言えます。 その内容は大きく二つに分けられます。人間が神に対して行うべき4つのルールと、人間が人間に対して行うべき6つのルールです。神に対しての4つのルールとは、人間は、聖書の神である、唯一まことの神を信じること。偶像を造って拝んではならない。神の名をみだりに唱えてはならない。安息日(休息の日)を守ること。これら4つが、人間が神に対して行うべきルールです。
一方人間が人間に行うべきルールが、父母を敬うこと。殺してはならない。姦淫してはならない。この姦淫ですが、ある訳には、配偶者以外と性行為をしない。と訳されています。盗んではならない。偽証をしてはならない。隣人の妻や財産を欲してはならない。という6つの教え、戒めとなっています。
しかし人間がこの十戒を知らない時、すなわち神が願っていることを知らない時、どのような歩みになるでしょうか。それはイスラエルを奴隷としていたエジプトの人々を見ると分かります。
エジプトの人々は動物や太陽などの天体を拝み、王であるパロは自分を神であると自称していました。これはさきほど十戒の中で神を神としなさい、偶像を造って拝んではならない、この二つの戒めを破っていることが分かります。権力を持つ者が神となり、また他の人々も神以外のものを拝んでいる。このような姿は、現代を生きている日本人も含め、多くの国々で今もなお、行われています。エジプトの姿と、日本を含めた私たちの世界とは全く変わりがないことが分かります。
ある姉妹からこのようなお話を聞きました。その姉妹の友達で、ある宗教を信じていた人がいたそうです。早起きを含めた修行、また善行を積むなどをモットーとしていた宗教だと思いますが、自分がした様々な良いことなどを発表する場があったそうです。そこでは参加者が、「私はこのような良いことをした。」「私はこのような素晴らしいことをした。」などと言って、自分のした良いことをアピールというか、自慢する場であったということです。結局その人は、「自分にはそのような良い行いはできない」と感じ、その宗教から遠ざかったということでした。
また新約聖書、コロサイ人の手紙の2章の中には、好き勝手な礼拝、自己卑下、肉体の苦行などを通して神を知り、神に近づこうとする人間の姿が描写されています。また別の聖書箇所には、禁欲的な生活によって、神を知ろうとする、神に近づこうとする人々の存在が描写されている。
逆に、死んだら終わりだからただ今を楽しもうと、神を信ぜず欲望のままに生きる生き方をする人々の存在なども、聖書に書き記されています。そのような人間の姿を、新約聖書を約半分書き記したパウロは、「自己満足」であるとしました。自己満足的に、そして自己流に自分の良いと思うことを通して神を礼拝する、神に受け入れてもらおうと努力する。彼らがそのような振る舞いをする一つの原因に、律法、神のルールを知らないということが挙げられます。しかし私たち人間は例え神の教え、戒めである律法を知っていたとしても、誰一人として律法を完全に守ることによって神を満足させることができる人は、誰もいません。それほど神の規準は人間の規準よりも遥かに高く、また厳しいからです。ではなぜ、神は人間が守ることができないルールである十戒、律法を、モーセを通してイスラエル民族に与えられたのでしょうか?
先程紹介したコロサイ人の手紙の著者であるパウロは、ローマ人への手紙7:7節で、人間には完全に守ることができない律法の効果、働きをこのように具体的に挙げています。
ローマ人への手紙7:7 それでは、どのように言うべきでしょうか。律法は罪なのでしょうか。決してそんなことはありません。むしろ、律法によらなければ、私は罪を知ることはなかったでしょう。実際、律法が「隣人のものを欲してはならない」と言わなければ、私は欲望を知らなかったでしょう。前の訳である新改訳第三版ではこのように訳されていました。律法が、「むさぼってはならない」と言われなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。
子どもが親に、「あれ欲しい。みんな持ってるもん。」というセリフを皆さんも聞いたことがあると思います。しかしそれは子どもだけではありません。あれも欲しい。これも欲しい。他の人の持っているもの、全て欲しい。いやそれ以上に欲しい。私たち人間の欲望は限りがありません。
しかし例えそれを手に入れたとしても、もっとたくさんのもの、もっと面白い物、もっと刺激的なもの、もっと欲しい。もっともっともっと。これが人間のむさぼりです。そしてこのような個人的なむさぼりから争いが生じ、国同士のむさぼりからの争いは、戦争にまで発展します。
パウロは人間の持つむさぼり、もっともっと欲しいという欲望は、律法がなければ分からなかった。律法がなければ、神の教え、戒め、ルールが示されなければ、自分も含め、人間は自分にそのような欲望があることすら分からないだろうと、ここで述べている訳です。そしてパウロはこのむさぼりの原因を罪だとしています。何度もお話して来ましたが、罪とは神から離れていることです。人間が愛と義である神を無視し、時に敵対し、離れてしまっている。神の愛から離れているので、人は自分や家族、友人など、自分に関わる者だけを愛する性質を持つようになりました。そして義である神から離れていることによって、自分の規準が絶対正しいと信じ行動することによって、他の規準を持つ人々とぶつかり、争い、時に人殺しまで発展してしまう。それが罪ある人間の姿です。
著者のパウロは自分の罪と戦った人です。そして最終的にこのような結論に至りました。同じローマ人への手紙の7章です。「私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています。」「私は本当にみじめな人間です。」パウロは罪と戦い、自分の力では打ち勝つことができないことを告白しています。しかしパウロは罪との戦いの中で、神の大きな恵みに気付くことができました。それはパウロが書いた別の手紙であるガラテヤ人への手紙に記されています。礼拝の冒頭で、神から礼拝への招きのことば、招詞で読んで頂いた、ガラテヤ人への手紙3:24節です。
こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認められるためです。律法によって神の思い、また完全さを教えられ、その神の完全な規準を満たすことが出来ないと悟った者は、キリストに向かうことになる。律法によって罪を教えられた人は、律法がその人をイエス・キリストへと導く養育係になるとパウロは語ります。そして子どもは成人すれば養育係が必要なくなるのと同じように、イエスがこの世界に救いをもたらすために来て下さったことにより、律法は必要がなくなったということです。 そしてパウロは続けます。
ガラテヤ人への手紙3:25 しかし、信仰が現れたので、私たちはもはや養育係の下にはいません。
3:26 あなたがたはみな、信仰により、キリストイエスにあって神の子どもです。
神の子どもになる条件とは、罪の解決がなされている人です。つまり神から離れているという罪が赦され、神との関係が回復した人々だけが、神の子となることができます。それが聖書の約束です。そのために私たち人間に必要なことが、イエスに信頼を寄せる、イエスを信じて歩む信仰です。こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認められるためです。イエスへの信仰によって、イエスの信仰のみによって私たち人間は神の前に義と認められる。神の前に正しい者と認められることができる。
神は、古い約束である旧約聖書にある十戒、律法を通して私たちに神の御心を示され、それを守ることができない私たち人間の為に、すなわち罪を解決できない私たち人間の代わりに、愛する一人子、イエス・キリストを、私たちの罪の身代わりとして十字架につけられました。
イエスを信じる者は、イエスの贖いによって神の子とされることができるという、新しい約束、新約聖書に記されている神の約束に私たちが生かされていることを感謝しつつ、今週も共にイエスを見上げて歩みたいと願っています。
祈ります。
「神はいくつの戒めを私たちに与えられましたか?」
答 十の戒めです。それは「モーセの十戒」と呼ばれています。
モーセはそこに四十日四十夜、主とともにいた。彼はパンも食べず、水も飲まなかった。そして、石の板に契約のことば、十のことばを書き記した。
こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認められるためです。
問41 神さまはシナイ山でいくつの戒めを私たちに与えてくださいましたか?
答 十の戒めです。それは「モーセの十戒」と呼ばれています。
モーセはそこに四十日四十夜、主とともにいた。彼はパンも食べず、水も飲まなかった。そして、石の板に契約のことば、十のことばを書き記した。 (出エジプト記 34:28 SKY17)
招詞 こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認められるためです。 (ガラテヤ人への手紙 3:24 SKY17)
月の第二日曜日ですので、いつものように子ども信仰問答からお話をしていきます。
本日は、旧約聖書、出エジプト記の中に記されている箇所です。ここに登場する民族は、イスラエル民族であり、神に特別に選ばれた民ですが、彼らイスラエルがエジプトで奴隷とされているところから、出エジプト記の話が展開していきます。奴隷という身分と苛酷な労働を彼らは憂い、泣き、叫び、神に助けを求めました。神は彼らの涙に応え、モーセをエジプトからの解放者として遣わします。モーセは神から授かった力によって様々な奇蹟を行い、彼らをエジプトから脱出させます。神はその後、イスラエルの人々をご自分の特別な民として契約を結ばれました。その契約の中身が十戒です。十戒は神が彼らに与えられた教え、戒めである律法の中心となる大切な戒めです。
神は、イスラエル民族を通して全人類を祝福する計画をお立てになりました。 全人類ですから、日本人もイスラエル民族と関係があることが分かります。もちろんモーセの十戒も同じです。この十戒は別の言い方をすれば、人間が生きる上での「ルール」、「規則やきまり」です。
もし人間の世界に「ルール」がなかったらどうなるでしょうか。 昔流行ったアニメ、「北斗の拳」の世界になるということです。地域や社会、国など、私たちの生活の舞台が、力や自己中心的な行動が優先される「無法地帯」になるということです。盗んだり、盗まれたり。暴力を振るったり、振るわれたり。殺したり殺されたり。その全てがOKになる恐ろしい世界です。(現在も)
神はそのような世界になることを望んでおられません。そこで人間が秩序や公正を保つためにルールを設けられた。そのルールの具体的な教え、戒めが十戒だと言えます。 その内容は大きく二つに分けられます。人間が神に対して行うべき4つのルールと、人間が人間に対して行うべき6つのルールです。神に対しての4つのルールとは、人間は、聖書の神である、唯一まことの神を信じること。偶像を造って拝んではならない。神の名をみだりに唱えてはならない。安息日(休息の日)を守ること。これら4つが、人間が神に対して行うべきルールです。
一方人間が人間に行うべきルールが、父母を敬うこと。殺してはならない。姦淫してはならない。この姦淫ですが、ある訳には、配偶者以外と性行為をしない。と訳されています。盗んではならない。偽証をしてはならない。隣人の妻や財産を欲してはならない。という6つの教え、戒めとなっています。
しかし人間がこの十戒を知らない時、すなわち神が願っていることを知らない時、どのような歩みになるでしょうか。それはイスラエルを奴隷としていたエジプトの人々を見ると分かります。
エジプトの人々は動物や太陽などの天体を拝み、王であるパロは自分を神であると自称していました。これはさきほど十戒の中で神を神としなさい、偶像を造って拝んではならない、この二つの戒めを破っていることが分かります。権力を持つ者が神となり、また他の人々も神以外のものを拝んでいる。このような姿は、現代を生きている日本人も含め、多くの国々で今もなお、行われています。エジプトの姿と、日本を含めた私たちの世界とは全く変わりがないことが分かります。
ある姉妹からこのようなお話を聞きました。その姉妹の友達で、ある宗教を信じていた人がいたそうです。早起きを含めた修行、また善行を積むなどをモットーとしていた宗教だと思いますが、自分がした様々な良いことなどを発表する場があったそうです。そこでは参加者が、「私はこのような良いことをした。」「私はこのような素晴らしいことをした。」などと言って、自分のした良いことをアピールというか、自慢する場であったということです。結局その人は、「自分にはそのような良い行いはできない」と感じ、その宗教から遠ざかったということでした。
また新約聖書、コロサイ人の手紙の2章の中には、好き勝手な礼拝、自己卑下、肉体の苦行などを通して神を知り、神に近づこうとする人間の姿が描写されています。また別の聖書箇所には、禁欲的な生活によって、神を知ろうとする、神に近づこうとする人々の存在が描写されている。
逆に、死んだら終わりだからただ今を楽しもうと、神を信ぜず欲望のままに生きる生き方をする人々の存在なども、聖書に書き記されています。そのような人間の姿を、新約聖書を約半分書き記したパウロは、「自己満足」であるとしました。自己満足的に、そして自己流に自分の良いと思うことを通して神を礼拝する、神に受け入れてもらおうと努力する。彼らがそのような振る舞いをする一つの原因に、律法、神のルールを知らないということが挙げられます。しかし私たち人間は例え神の教え、戒めである律法を知っていたとしても、誰一人として律法を完全に守ることによって神を満足させることができる人は、誰もいません。それほど神の規準は人間の規準よりも遥かに高く、また厳しいからです。ではなぜ、神は人間が守ることができないルールである十戒、律法を、モーセを通してイスラエル民族に与えられたのでしょうか?
先程紹介したコロサイ人の手紙の著者であるパウロは、ローマ人への手紙7:7節で、人間には完全に守ることができない律法の効果、働きをこのように具体的に挙げています。
ローマ人への手紙7:7 それでは、どのように言うべきでしょうか。律法は罪なのでしょうか。決してそんなことはありません。むしろ、律法によらなければ、私は罪を知ることはなかったでしょう。実際、律法が「隣人のものを欲してはならない」と言わなければ、私は欲望を知らなかったでしょう。前の訳である新改訳第三版ではこのように訳されていました。律法が、「むさぼってはならない」と言われなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。
子どもが親に、「あれ欲しい。みんな持ってるもん。」というセリフを皆さんも聞いたことがあると思います。しかしそれは子どもだけではありません。あれも欲しい。これも欲しい。他の人の持っているもの、全て欲しい。いやそれ以上に欲しい。私たち人間の欲望は限りがありません。
しかし例えそれを手に入れたとしても、もっとたくさんのもの、もっと面白い物、もっと刺激的なもの、もっと欲しい。もっともっともっと。これが人間のむさぼりです。そしてこのような個人的なむさぼりから争いが生じ、国同士のむさぼりからの争いは、戦争にまで発展します。
パウロは人間の持つむさぼり、もっともっと欲しいという欲望は、律法がなければ分からなかった。律法がなければ、神の教え、戒め、ルールが示されなければ、自分も含め、人間は自分にそのような欲望があることすら分からないだろうと、ここで述べている訳です。そしてパウロはこのむさぼりの原因を罪だとしています。何度もお話して来ましたが、罪とは神から離れていることです。人間が愛と義である神を無視し、時に敵対し、離れてしまっている。神の愛から離れているので、人は自分や家族、友人など、自分に関わる者だけを愛する性質を持つようになりました。そして義である神から離れていることによって、自分の規準が絶対正しいと信じ行動することによって、他の規準を持つ人々とぶつかり、争い、時に人殺しまで発展してしまう。それが罪ある人間の姿です。
著者のパウロは自分の罪と戦った人です。そして最終的にこのような結論に至りました。同じローマ人への手紙の7章です。「私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています。」「私は本当にみじめな人間です。」パウロは罪と戦い、自分の力では打ち勝つことができないことを告白しています。しかしパウロは罪との戦いの中で、神の大きな恵みに気付くことができました。それはパウロが書いた別の手紙であるガラテヤ人への手紙に記されています。礼拝の冒頭で、神から礼拝への招きのことば、招詞で読んで頂いた、ガラテヤ人への手紙3:24節です。
こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認められるためです。律法によって神の思い、また完全さを教えられ、その神の完全な規準を満たすことが出来ないと悟った者は、キリストに向かうことになる。律法によって罪を教えられた人は、律法がその人をイエス・キリストへと導く養育係になるとパウロは語ります。そして子どもは成人すれば養育係が必要なくなるのと同じように、イエスがこの世界に救いをもたらすために来て下さったことにより、律法は必要がなくなったということです。 そしてパウロは続けます。
ガラテヤ人への手紙3:25 しかし、信仰が現れたので、私たちはもはや養育係の下にはいません。
3:26 あなたがたはみな、信仰により、キリストイエスにあって神の子どもです。
神の子どもになる条件とは、罪の解決がなされている人です。つまり神から離れているという罪が赦され、神との関係が回復した人々だけが、神の子となることができます。それが聖書の約束です。そのために私たち人間に必要なことが、イエスに信頼を寄せる、イエスを信じて歩む信仰です。こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認められるためです。イエスへの信仰によって、イエスの信仰のみによって私たち人間は神の前に義と認められる。神の前に正しい者と認められることができる。
神は、古い約束である旧約聖書にある十戒、律法を通して私たちに神の御心を示され、それを守ることができない私たち人間の為に、すなわち罪を解決できない私たち人間の代わりに、愛する一人子、イエス・キリストを、私たちの罪の身代わりとして十字架につけられました。
イエスを信じる者は、イエスの贖いによって神の子とされることができるという、新しい約束、新約聖書に記されている神の約束に私たちが生かされていることを感謝しつつ、今週も共にイエスを見上げて歩みたいと願っています。
祈ります。
「神はいくつの戒めを私たちに与えられましたか?」
答 十の戒めです。それは「モーセの十戒」と呼ばれています。
モーセはそこに四十日四十夜、主とともにいた。彼はパンも食べず、水も飲まなかった。そして、石の板に契約のことば、十のことばを書き記した。
こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認められるためです。