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2026/1/18(日)「神の国の条件」マルコ10:13~16 庄司牧師

2026年1月18日 マルコの福音書10:13~16「神の国の条件」
さて、イエスに触れていただこうと、人々が子どもたちを連れて来た。ところが弟子たちは彼らを叱った。イエスはそれを見て、憤って弟子たちに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。邪魔してはいけません。神の国はこのような者たちのものなのです。まことに、あなたがたに言います。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。」そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。
イエスに触れてもらって祝福して頂こうと、人々が子どもたちをイエスのもとに連れて来ました。しかし弟子たちは、緊迫したエレサレム上りの最中に、子どもたちのために時間も労力も使う必要はない。子どもごときのことでイエスさまの足を止めたくない。子どもたちを連れて来た人々と、子どもたちを叱りました。「叱った」という言葉は、イエスが汚れた霊に対して叱ったと言われた、その言葉と同じ言葉です。とても強いことばです。弟子たちの苛立ちが感じられます。 しかしイエスはそのような弟子たちの姿を見て、憤って弟子たちに言われました。
「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。邪魔してはいけません。神の国はこのような者たちのものなのです。まことに、あなたがたに言います。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。」
イエスご自身が、子どもに、神の国に入るのにふさわしい性質を見出されていることが分かります。そのような子どもの性質、特徴をイエスは、子どもが神の国を「受け入れる」者たちとして紹介されています。 では、子どもはどういった神の国に相応しい特徴を持っているでしょうか。
子ども、幼子の特徴について、ある注解書にはこのように書かれています。「幼子の態度の第一は、ものを平然として受け取る能力、当然のようにして贈り物を受け取る態度である。…第二の特色的態度は、平然と「来る」ことにある。…幼子はたとい親から叱られても夕方には当然のことのように我が家に帰って来るように、親子の関係を疑わない。彼らにはねじれた関係や破れた縁を改善するという考えはなく、関係性への信頼がある。」 なるほど、確かに子どは例え親に怒られても、親子の関係は疑いません。そして親にごめんなさいをすれば、「すぐ、遊ぼう!」と誘って来ます。(私の子どもはそうです)親はいつも食べ物をくれるし、決して自分を見捨てることはないと信頼しています。また彼らは親なり誰かから贈り物があれば、喜んで受け取ります。素直で正直であると言える子どもの姿です。 そして子どもたちの素直な姿だけではなく、12節には、子どもたちの弱さ、弱い立場を感じさせます。それは、子どもたちが両親か誰かに「連れて来られた」存在だからです。自分の力や意志でイエスの下へ来ていません。 子どもたちが親に依存し、親の言うことを聞き、信頼し、従っている素直で正直、そして反面弱い立場、力の弱さを感じさせます。
実際当時のユダヤ社会においては、子どもは人として未熟な存在であり、価値がある存在とは認められていませんでした。目上の者に服従し、世話をされる者であり、尊敬されるべき者ではありませんでした。信仰的なことを悟る知恵もなければ、社会的な身分や地位もないと見なされていた、それが子どもたちでした。 そのため当時の宗教者たちやユダヤ一般の人々は、神の国に入るためには、子どものように功績も取り柄もない者ではなく、賢く知恵ある成熟した大人として、多くの良い行いや功績を持たなければならない!と考えており、弟子たちもその影響を受けていたと思われます。 従って子どものようになって神の国に入るなどということは、ユダヤ人たちにはまったく考えられないことでした。 しかし子どものように単純に何かを「受け入れる」というのは、実は簡単なようで、とても難しいものだと思います。
アダムとエバが善悪の知識の木の実を食べたことで神から離れ、罪の始まりとなってしまいました。それは二人が、神の戒めをそのまま受け入れることができなかった結果です。アダムとエバは自分たちの力で神のようになり、そして神抜きで、自力で生きていくこと願いました。私たち人間は二人の罪だけでなく、性質や性格も受け継いでいます。また特に年齢を重ねていくと、人間は更に自分の知識や経験に頼って生きていきます。 つまり、神に言われることを素直に聞いて、神を信頼して生きていくよりも、自分で納得し、自分が持っている知識に頼り、努力をして(努力は悪いことではありませんが)自分で何かを獲得する、成し遂げようとする性質や性格があるということです。 また加えて、このような知識や経験が邪魔して、当然のようにして贈り物を受け取るといった、子どものような態度を取ることはできません。 贈り物を受けるには自分にそうした資格がなければならないと思ったり、もらうからには何かお返しをしなければと思ってみたり、贈り物をくれるのは何か相手に魂胆があるからだろうと、疑ってしまったりするからです。 子どもたちのように、喜んで素直に平然とは受け取りにくい。 これは神が差し出す恵み、救いを受け取るのを躊躇してしまう態度にも表れています。 自分は神の恵みを受け取るには相応しくない。もっとイエスのこと、聖書のことを知ってからではないといけない。教会がしていることは人集め、布教でしょう。ただイエスを信じるだけで天国にいけるなんて虫が良すぎる。 色々な理由を並べ立て、結局は自分の知識、考え、価値観を優先させてしまいます。 そのように神の恵みすら拒んでしまうのが人間、それも特に、大人の人間の姿であり、態度だと思います。ですから素直で正直、弱く、時に図々しく見える子どもたちを、当時のユダヤ人の大人たちが見下す、下に見るというのは、無理ないことだったかもしれません。
では、子どもたちを下に見ていたイエスの弟子たちは、どういう人間だったでしょうか。「イエス様に軽軽しく近づくな!」そう叱った弟子たちの姿、態度がありました。自分たちはイエスの重みが分かり、イエスにお仕えする資格があると思っていました。しかし彼らは十字架の直前でイエスを裏切り、イエスを見捨てて逃げ出し、「イエスなどそんな男を知らない」と呪いをかけてまで誓う、弱い人間たちでした。 そして本当は弱い弟子たちが、さらに弱いと思われていた子どもたちを下に見ている。このような弟子たちがイエスに近づき、またお仕えする資格が、本当はあるのでしょうか?ないと思います。 彼らは決してイエスの弟子として相応しい者たちではありませんでした。しかしそういう弟子たちを、イエスはあえてご自身の直弟子として選んで下さいました。
私たちには決して分からない、神の一方的な選びでした。物事に無頓着、計算高くないと思われ、イエスに相応しくないと思われている子どもたちよりも、さら相応しくない弟子たちの姿。それはまさに私たち弱い人間であり、人間本来の姿でもあると思います。
そのような弱く愚かな弟子たちに、また群衆にイエスは、「神の国は子どものような者たちのものなのです。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。」
と語りかけられました。それも子どもたちを抱き寄せ、祝福しながらです。 一方見下されている、人々に下に見られている子どもたちは喜んで、イエスの祝福を受け止めました。子どもたちは、自分たちにはイエスの祝福を受ける資格がないなどとは思いません。私は悪い子なのでダメです、などとも言いません。さっきまで悪さをしていたかもしれません。 弱いと思われ、時に図々しいと思われているような子どもたちが、平然とイエスの懐で祝福を受けています。
私は最近、神から語られることを受け入れるということがどういうことか、神の愛、恵み、祝福をそのまま受け入れることがどういうことかを、体験しました。 それは本日の箇所でイエスが語られている、イエスのことばをそのまま受け入れる時にある祝福に通じるものだと思います。
つい最近、先週ですが、気持ちが落ち込んで、まるで自分が穴に陥っていると感じるような時がありました。自分の弱さ、欠点に向き合わなければならない時がありました。 怒りや不安がコントールできず、自分に腹が立ちました。自分が嫌にもなりました。そして自分の非を認めることよりも、他の人のせいにして、自分の立場、思い、プライドを守りたくもなった、時でした。 祈りつつ、神に助けを求めました。そしてある瞬間、主は私に、ヨハネの福音書の8章を示して下さいました。ここには姦淫の現場で捕らえられた女性が登場します。 例のごとく、パリサイ人たちがイエスを罠にかけようとイエスに質問しました。「姦淫をした者は、モーセの律法によれば死刑です。あなたはこの女性をどう思われますか?」彼女が律法を違反していると認めれば、彼女が石打ちの刑を受けても私は文句はない、と認めることになり、この女性がいのちを失うばかりか、イエスは憐れみがないと人々から烙印を押されるにことになります。 また一方、律法に違反していないと言えば、それは嘘になってしまいます。今度はイエスが律法を違反する者として訴えられてしまいます。どちらを答えてもイエスは不利になる状況でした。イエスはこの問いに対して、「この中で罪の無い者が先ず石を投げなさい」と言われました。すると年長の人からイエスの下を去っていきました。(かっこいい!場面です)そしてイエスはこの女性に対して「わたしもあなたにさばきを下さない。(前の訳では罪に定めない・共同訳では罰しない)行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」と言われました。この宣言が先週、「私」に向けて語られていると感じました。イエスが罪を犯してしまった女性をそのまま受け入れたように、弱い私、葛藤している私、困っている私もそのまま受け入れて下さっているということを、私はこの時再び確信し、喜びと感謝、そして平安に満たされた瞬間でした。今も平安と喜びがあります。
「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。」とイエスは言われました。神の国、神が支配され、統治されている国、御国、天国です。その神の国に入り、永遠のいのちを持つための妨げとなる罪を、イエスは十字架を通して、私たちのために取り除いて下さいました。そのことをただ子どものように信じる。イエスを信頼して受け取る。 自分がその愛に値するために何か努力や善行を積むといったことは必要ない。ということです。
本日の最後の聖書箇所にはこのように記されています。
そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。
イエスは実際に子どもたちだけでなく、子どものように神に、イエスに信頼して近づく者たちすべてを抱きしめ、祝福して下さり、神の国へと導いて下さるお方です。 イエスに感謝しつつ、
お祈りします。
「神の国の条件」(神の国に入る条件)
まことに、あなたがたに言います。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。」

2026/1/11(日)「イエスさまを信じるとどうなりますか?」Ⅰヨハネ5:13 庄司牧師

2026年1月11日 子ども信仰問答 問37
「罪を悔い改めてイエスさまを信じると、私たちはどうなりますか。」
「イエスさまを信じるとどうなりますか?」招詞 ヨハネの福音書20:31
答 私たちの罪はゆるされ、神の子どもとされ、永遠のいのちが与えられます。
“神の御子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書いたのは、永遠のいのちを持っていることを、あなたがたに分からせるためです。”ヨハネの手紙第一 5章13節
月の第二日曜です。いつものように子ども信仰問答からお話をしていきたいと思っています。
本日の聖書の箇所は手紙です。手紙には宛先があり、また目的があります。それは個人であれ、公であっても同じです。相手に、または読者に愛や感謝を伝える、訓戒を与える、などです。
ヨハネの手紙の目的は何でしょうか?ヨハネは何を読者、この手紙を読む人に願っているのでしょうか? ヨハネの手紙の目的、そして願いが本日の箇所に表されています。
神の御子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書いたのは、永遠のいのちを持っていることを、あなたがたに分からせるためです。「これらのこと」と記されています。それは、イエスを信じた人がすでに永遠のいのちを持っていることが分かるために書かれたこの手紙、5章全てのこと、です。 つまりイエスを信じて罪から救われた人は全て、永遠のいのち持っていることを確信して欲しい、良く分かって欲しい、という目的で書かれた手紙だ、ということです。
また、著者のヨハネはもう一つ書簡を記しています。 それはヨハネの福音書です。著者のヨハネは手紙と同じように、ヨハネの福音書においても21章全体を一つのことばでまとめています。
それが本日の証詞、礼拝への神からの招きのことばで読んで頂いた、ヨハネの福音書20:31節です。これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。ヨハネが福音書を書いた目的は、福音書に記されていることを読んだ読者が、イエスを信じて救われ、イエスによっていのちを得るということです。
この20章31節の直前に、イエスの弟子の一人でトマスという人物が登場します。イエスが十字架の死から復活されて、最初に弟子たちの前に顕われた時、彼はその場にいませんでした。彼は他の弟子たちが、イエスが復活したという証言を信ぜず、このように言いました。「私はその手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません。」
しかしイエスは再び弟子たちの前に現れ、その時トマスにこのように言われました。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」イエスはトマスが他の弟子たちに言ったこと、また、トマスの心も全て見抜いておられることが分かります。そしてトマスはイエスに答えました。「私の主、私の神よ。」イエスをまことの神であるあると信じたトマスに、イエスはこのように言われました。
「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」トマスはイエスの復活を疑いましたが、イエスの復活を実際に目で見て信じました。
新約聖書の中の人物で、イエスを信じなかったばかりか、更にクリスチャンを迫害していた人物がいます。パウロです。 彼はイエスの声を聞き、様々な奇蹟を通して回心、その行いと態度を悔い改めて、イエスを神であると信じた人です。パウロが記したローマ人への手紙10:17節において、彼はこのように語っています。前の聖書訳、第三版でお読みします。「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」イエスの弟子たち、また当時の人々は、イエスから直接イエスのことばを聞くことができました。パウロは、イエスのことば、すなわち福音を聞くことから、イエスを信じる信仰が始まると記しました。 イエスの時代に生きていた人々は、実際に神であるイエスを見、その声を直接聞くことができる特権に与っていましたが、現代を生きる私たちは、当時存在しなかった新約聖書を読むことができる特権に与っています。 旧約聖書に預言され、指し示されている救い主、イエスがどのように誕生され、どのように歩まれ、どのように死なれ、どのように復活されたかが分かる、旧新約聖書の連続性を見ることができます。 つまり現代を生きる私たちは、イエスが語られたことが記されている「聖書」を読み、また聞き、イエスに対する信仰を持つことができる特権に与っている、ということです。イエスに対する信仰はこのように、イエスのみ言葉に聞き、読み、触れるところから始まります。
しかし人は、永遠のいのちに関わることが分からないと、どうなるでしょうか?この地上に生きるいのちのみを見て、そこに意味を見つけようとしていくと、どのようになるでしょうか?
そのことが良く表されているのが旧約聖書、伝道者の書だと思います。著者はダビデ王の息子、ソロモンだと考えられていますが、彼は神から知恵が与えられていました。 それでソロモンは学問の世界を追求しました。しかし虚しさが残りました。そこで快楽を求め、実際に味わいました。しかしやはり虚しさが残りました。 そして自分の邸宅の事業にとりかかりました。また金銀を集め、しもべとたくさんのそばめも得ました。しかし彼は伝道者の書、1章1~3節でこのように告白しています。「エルサレムの王、ダビデの子、伝道者のことば。空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。日の下でどんなに労苦しても、それが人に何の益になるだろうか。 始めは神を信じ、従っていたソロモンでしたが、だんだんと神から離れ信仰を失っていく半面、私たちが経験できないような、あらゆる快楽を経験しました。しかしその全てが虚しかったと告白しています。地上でのいのちのみに焦点を当てている歩みは、その場その場、その日その日が楽しく、充実していれば良いという歩みになり、結局は全て虚しいという結論に至ってしまうことが、ソロモンの人生に表わされています。 一方さきほど少し触れた、パウロの歩みはどうだったでしょうか。
テモテへの手紙第二、4章6~8節で、パウロはこのように書き送っています。私はすでに注ぎのささげ物となっています。私が世を去る時が来ました。私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。あとは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。その日には、正しいさばき主である主が、それを私に授けてくださいます。私だけでなく、主の現れを慕い求めている人には、だれにでも授けてくださるのです。 ローマ皇帝ネロの迫害により捕らえられたパウロが、殉教の直前、ローマの牢獄から書き送った手紙に書き記された、彼の遺言とも言えるメッセージです。 肉体的な死が最後ではなく、死んだ後に主なるイエスに面と向かって出会うことができ、しかもイエスから直接報いを受けることを確信しているパウロの姿があります。 パウロはエリートな律法学者でした。しかしその地位も名誉も立場も捨てて、イエスが神である、救い主であると人々に宣べ伝えるようになりました。キリスト者を迫害する者から、同胞のユダヤ人たちから迫害され、いのちを狙われ、最後は殉教して行く者となりました。しかし彼の歩みと人生は、永遠のいのちを持っている確信のゆえであり、証そのものでした。イエスの直近の弟子、12人の11人が殉教していきましたが、永遠のいのちを持っている確信がなければできないことです。 12月の最後の礼拝で、シラス兄に証をして頂きました。彼が持っていたプロのバレーボール選手になるという夢と目標が、自分自身をイエスから引き離していきました。 彼は最終的にプロになることを諦めましたが、神を抜きに送っていた生活は、彼がイエスとの関係を持っていた時にはなかった、死に対しての恐れを抱かせるようになっていきました。チャペルニュースにその証が載っています。しかし彼は挫折をきっかけに、再びイエスの下に帰ってきました。そして今、シラス兄は死への恐れを持っていません。それは永遠のいのちを確信できるようになったからです。永遠のいのちを持っていると言う確信は日々の歩み、考え方、生活、そして人生を変えて行く力となりました。 このメッセージを考えながら、私自身はどうかと問いかけました。もし私に永遠のいのちを持っているという確信がなかったら、どうなるだろうか? 最初に浮かんだのは、11月にある召天者記念礼拝や、告別式、イースターの後で行われる墓前礼拝など、語ることができなくなるだろうと思いました。 しかし私は永遠のいのちを持っている確信があるゆえに、イエスを信じている人々が再び、神の国で再会できるという希望を、確信を持って語ることができます。 
そして永遠のいのちを持っているというこの確信は、私自身-例えば理不尽なこと、肉体的な痛み、生活の中で起こる様々な試みや苦難などにも、意味を与えています。それは、永遠に続くいのちを持っているという確信、そしてその視点から、今の状況やあり方見つめることができるからです。今の歩みが永遠の時の中で起きていることとして考えるならば、意味のない試練や苦難はないと思っています。永遠のいのちを持っているという確信があるかないか。私たちの人生を大きく左右するものです。イエスは疑うトマスにこのように語られました。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」現代を生きる私たちは、肉眼で直接、イエスを見ることはできません。しかしイエスが語られたことば、聖書が与えられています。それを否定することもできれば、受け入れることもできます。私たち次第です。 受け入れた者は、すなわちイエスを神であり救い主であると信じるならば、罪赦され、永遠のいのちが与えられる、すなわち救われます。それは神の約束だからです。そしてイエスを信じ、すでに救われた人が、永遠のいのちが与えられていることを確信するのもやはり、イエスが語られたことばを信じ、受け止めるかどうかにかかっています。 本日の聖句には「永遠のいのちを持っていることを、あなたがたに分からせるためです。」と記されています。この「持っている」ということばは、現在形が使われています。 イエスを信じてすでに永遠のいのちを受けた信仰者が、イエスに対する同じ信仰によって、「永遠のいのち」を、確信を持って「持ち」続けるように、いうことが表されているようです。 そしてこれはヨハネだけでなく、神が、すなわち永遠のいのちを与えて下さったイエスご自身が、願っておられることでもあります。
イエスを信じる人は全て永遠のいのちを持っている。 この確信を、本日のみ言葉を聞いた全ての人が持つようにと、願います。祈ります。
「イエスさまを信じるとどうなりますか?」
答え 私たちの罪はゆるされ、神の子どもとされ、永遠のいのちが与えられます。
神の御子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書いたのは、永遠のいのちを持っていることを、あなたがたに分からせるためです。

2026/1/4(日)「神が創造された絆」マルコ10:1~12 庄司牧師

2026年1月4日 マルコの福音書10:1~12「神が創造された絆」
イエスは立ち上がり、そこからユダヤ地方とヨルダンの川向こうに行かれた。群衆がまたイエスのもとに集まって来たので、再びいつものように彼らを教え始められた。すると、パリサイ人たちがやって来て、イエスを試みるために、夫が妻を離縁することは律法にかなっているかどうかと質問した。イエスは答えられた。「モーセはあなたがたに何と命じていますか。」彼らは言った。「モーセは、離縁状を書いて妻を離縁することを許しました。」イエスは言われた。「モーセは、あなたがたの心が頑ななので、この戒めをあなたがたに書いたのです。しかし、創造のはじめから、神は彼らを男と女に造られました。『それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる』のです。ですから、彼らはもはやふたりではなく、一体なのです。こういうわけで、神が結び合わせたものを、人が引き離してはなりません。」家に入ると、弟子たちは再びこの問題についてイエスに尋ねた。イエスは彼らに言われた。「だれでも、自分の妻を離縁し、別の女を妻にする者は、妻に対して姦淫を犯すのです。妻も、夫を離縁して別の男に嫁ぐなら、姦淫を犯すのです。」
今年の年間聖句はマルコの福音書10:45節です。タイトルとは週報にもありますように、「神の国を受け入れる」です。子どもたちが週報の絵とタイトルを書いてくれました。そしてフレームを描いて下さったのは額姉です。凄くかわいい表紙になりました。感謝です。 神の国を支配、統治されておられる神、すなわちイエスの価値観、イエスの規準を、私たちが日常生活の中で受け入れていくこと、その必要があることを共に見ていきたいと思っています。
1節には、イエスは立ち上がり、そこからユダヤ地方とヨルダンの川向こうに行かれた。と記されています。平行箇所のマタイの福音書19章には、「イエスはガリラヤを去り」と記され、「そこを離れて、もはや戻ることはない」というニュアンスが表されています。 三年間に及ぶガリラヤでの働きを終えて、イエスはいよいよ公生涯、最後の舞台であるエルサレム、人類の身代わりの十字架に向かって旅立たれました。 イエスがユダヤ地方に着くと、イエスはいつものように群衆に向かって福音を宣べ伝え始められました。 ここでもパリサイ人たちがやって来ます。「夫が妻を離縁することは律法にかなっているかどうか。」という質問をイエスにぶつけました。 平行箇所のマタイの福音書の19章には、「何か理由があれば、妻を離縁することは律法にかなっているでしょうか。」と彼らは尋ねており、マルコの福音書の方には「何か理由があれば」という表現がありません。よって彼らは離婚の条件というよりも、離婚ということ自体に対して、イエスがどのように考えているかを質問しています。この問いでまず目を引くのは、「夫が妻を」と尋ねられていることです。夫側からの離別の可能性が問われているということです。なぜでしょうか。 それは妻側からの申し出など、当時は考えられなかったからです。当時、離別する権利は夫側だけにあるものと考えられていました。 イエスはその質問に対して、「モーセはあなたがたに何と命じていますか。」と逆に質問しています。彼らは「モーセは、離縁状を書いて妻を離縁することを許しました。」と答えています。
彼らがイエスに答えたことが、旧約聖書、申命記の24章1節に記されています。「人が妻をめとり夫となった後で、もし、妻に何か恥ずべきことを見つけたために気に入らなくなり、離縁状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせ、」パリサイ人たちはここに記されている律法を、神が離婚を許可した根拠として受け止めていました。 当時、この律法の解釈は二通りありました。それは「恥ずべきこと」と「気に入らなくなり」という表現の解釈の違いです。当時のパリサイ派の中には二つの学派があったようです。一つは厳格な律法学者のラビ・シャンマイ派、そしてもう一つは緩やかに、自由に考える律法学者のラビ・ヒレル(ヒルレル)派がありました。厳格なシャンマイ派の方は、「恥ずべきこと」という語彙に重きを置き、姦淫以外の離婚理由を認めないという立場でした。寛容なヒルレル派は「気に入らなくなり」という語彙に重きをおいた解釈をしました。ヒルレル派の解釈でいくと、料理が下手とか、街頭で男性と話をしたとか、夫の前で両親の悪口を言った、など、どんなささいな理由であっても離縁できると考えました。後にこの解釈の適用はさらに広められ、紀元2世紀の有名なラビ・アキバは、今の妻より好きな女、美しい女を見つけた場合にも離婚できるとしました。滅茶苦茶で自分勝手な男の論理です。
先ほどマタイの平行箇所のマタイの福音書を取り上げました。パリサイ人たちが、「何か理由があれば離縁できるか?」という質問をイエスにしたとお話しました。従ってイエスに質問をしたパリサイ人たちは、このヒルレル学派の立場を反映するもので、「どんな理由ででも」妻を離縁できると考えていたことが分かります。 この質問がなされた同時代の人々の中には、ペレア地方の国主、ヘロデ・アンティパスがいました。バプテスマのヨハネが彼の不正な再婚を責め、殺されています。イエスが厳格なことを言えば、いのちに関わる。 またこの時代の人々は自由に離婚できると考えていましたから、やはり厳格なことを言えば、大衆の支持を失うことにもなる。 逆にイエスが
「律法」をないがしろにするようなことを言えば、彼らはイエスを有罪にすることができました。
どちらに転んでもイエスの立場は危うくなるという、イエスを試みるための悪質な質問でした。
この質問に対してイエスはこのように答えられました。5節。10:5 イエスは言われた。「モーセは、あなたがたの心が頑ななので、この戒めをあなたがたに書いたのです。
男性が一方的に女性を離縁できると考えられていたのは、まさに神の御心に反し、また心の頑なな証拠でした。 しかし神はこの人間の身勝手さ、自己中心的な性質を良くご存じです。
結婚は罪深い二人の人間で成り立っていますから、離縁することもあると、神は分かっておられます。 そこで神は、先ほどの申命記24章に代表される律法を、人間に与えられました。言われのない理由によって離婚者、特に女性の権利を守るためでもありました。それは離婚状があれば、女性は他の男性と再婚することができたからです。しかしこの律法を逆に悪用し、離婚状を書きさえすれば、自分の気に入らない妻を簡単に離縁出来ると解釈する、心の頑なな者たちがいました。
そこでイエスは、結婚は神が定められたということと、結婚に関して神に絶対的な主権と基準があることを教えられました。イエスはそのことを6節でこのように語られています。
10:6 しかし、創造のはじめから、神は彼らを男と女に造られました。イエスは「創造のはじめから」、つまり人間の創造の時点からという意味で、神のご計画における結婚の概念を説明されていきます。続く7節、8節です。10:7 『それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、
10:8 ふたりは一体となる』のです。ですから、彼らはもはやふたりではなく、一体なのです。
イエスはここで、創世記1:27節と2:24節を引用しながら、パリサイ人たちの目を、人間男女の創造の、根本的意義に向けさせました。神が人を男と女に創造されたゆえに、それぞれが神から与えられている尊厳を持つ、本来平等な存在であるということを先ず示されました。
またよく夫婦は一心同体と言われますが、英語でいればone flesh、「一つの肉」という意味です。
これは肉体的合一を指すとともに、それまで他人同士であった者が肉親関係となり、一つの家族、家庭を構成することを意味します。強い絆で結ばれた関係です。 そして9節が、今回パリサイ人たちへの答えとして、イエスが持っておられる結婚についての結論です。
10:9 こういうわけで、神が結び合わせたものを、人が引き離してはなりません。」
結婚は一対一の結び付きであり、「分けられない存在」です。他の何者もそこに入ることはできないし、入ってはならない。 また結婚は神が定められたものであって、神の支配の下にある。
従って人間の便宜的で勝手な理由(先ほど見てきたパリサイ人の規定など)によって結婚による男女の結合、一致を解消することは許されない。 結婚は本来神が結び合わせたものであるため、人間の意志や都合によって引き離すことはできないものであると、イエスは主張されました。
ではなぜ結婚が大切であり、神聖であるのかと言えば、結婚が「神の三位一体の親密さや一致が反映されている」からです。 神は父、子、聖霊の三つのペルソナ(位格)でありながら、一つの本質(実体)を持つ完全に愛し合う共同体です。 結婚も、二人の人間が一つ(一体)となり、精神的、肉体的、感情的な親密さを享受します。この二者の一致は、三位一体の神の、内的な愛と完全な交わりを、映し出すものとされています。 アダムとエバから全ての人類が生まれて来ましたが、男や女という性別を始めに造られ、そして男と女が結び合うことによる結婚によって三位一体の神の親密さ、永遠の交わり、そして栄光が表されることを、神はご計画されました。
それが結婚の奥義です。従って私たち人間は、結婚の意義や意味について知らなければ、今回のパリサイ人たちや当時の人々のように、自分の都合で結婚し、自分の都合で離婚を考えてしまう危険性があります。 もう一度5節を見たいと思います。

10:5 イエスは言われた。「モーセは、あなたがたの心が頑ななので、この戒めをあなたがたに書いたのです。 離婚は神が「命じ」られたのではなく、「許」されたものであると、イエスはモーセの律法を解釈しています。神は離婚を是認、認めているわけではなく、それは、人間の心が頑ななので、やむを得ず許可されたに過ぎない。 ここでイエスは、「あなたがたの心が頑ななので」と言われました。この「あなたがた」とは、モーセの時代の人々だけでなく、今まさに、自分勝手な理由で妻を一方的に離婚できると考えているパリサイ人たちのような頑迷な人々、またそれは現代を生きる私たちも含まれた、全ての人間に向けられていると感じます。また心が頑なであったのは、イエスの弟子たちも同じでした。10節を見ると、弟子たちがこの問題を再びイエスに尋ねていますが、マタイの福音書を見ると、彼らもパリサイ人たちや当時の人々が考えていたように、理由があれば離婚をしても良いと考えていたことが分かります。 弟子たちの質問に対してイエスはこのように答えられました。10:11 イエスは彼らに言われた。「だれでも、自分の妻を離縁し、別の女を妻にする者は、妻に対して姦淫を犯すのです。マタイ福音書でイエスは、「だれでも、淫らな行い以外の理由で自分の妻を離縁し、別の女を妻とする者は、姦淫を犯すことになるのです。」と、離縁の理由に、「淫らな行い」を加えています。前の訳では「不貞」と訳されています。そして12節に続きます。10:12 妻も、夫を離縁して別の男に嫁ぐなら、姦淫を犯すのです。」イエスがここで教えられていることは、淫らな行い、すなわち不貞や不品行以外の、自分勝手な離縁はそもそも無効であり、それゆえそのような者たちが離縁し、再婚しても、その再婚そのものが無効だということです。つまり「気に入らなくなった」妻を離縁しようとする夫に対して、その身勝手な行為は自分だけでなく、妻や、第二の夫となる者にも姦淫の罪を犯させてしまうことを警告しています。 当時、離縁できる資格は夫にしかなく、妻にはその資格は認められていませんでした。 イエスは離縁において、女性の権利を守る側に立っています。「気に入らなくなった」ということで離縁されるとすれば、女性はますます男性に利用されることになります。とすれば、女性は一人の人格として取り扱われないことになるだけでなく、神の定められた結婚の神聖さも失われる危険があります。ましてや、自分の妻よりもっと魅力的な女性を見つけたときに妻を離縁できるとすれば、これは「むさぼり」と何ら変わりません。 従って姦淫の根本にある問題は「むさぼりを助長する罪」であることが分かります。 イエスはこのように答えることによって弟子たちを教えつつ、目の前にいるパリサイ人たちが離縁に関する質問をした背後にある、動機をえぐり出しています、暴き出しています。それは、今の妻はあきて、他の女に乗り移りたいという動機を、彼らが持っていたということです。つまり彼らにむさぼりがあるゆえに、「離縁状」が記されているモーセの律法を引用し、逆に悪用して、自分たちの悪い行ないを正当化していたということです。 姦淫の罪は、モーセの律法によれば、死刑に値することでした。したがって彼らは、表向きは神のおきてに従っているように見えますが、本質は神のおきてを故意に破り、自分に死罪を招いているということです。 そしてこられのむさぼり、そしてむさぼりに至らせる罪を、現代を生きている私たちも同じように持っています。 なぜなら、結婚を自己中心的に、個人の満足と感情的な充足として捉えている人々がいることからも、明らかだからです。 そして結婚の意義や意味が分からず自己中心的になれば、離婚に関しても同じように、自己中心的な振る舞いをする可能性があります。
神が許された離縁の背景は、人間が神の命令された結婚の状態にとどまることができないために、許可された、許されたというものでした。 そしてその原因はむさぼりにありますが、その根底は人間の罪にありました。 つまり人間の心が頑なであるのは、人間が神から離れてしまったゆえの、罪から来ています。 イエスはむさぼりをはじめ、悪の元となっている罪を身代わりに十字架で背負われ、死なれ、罪と罪から来る死に勝利して甦られました。 この罪の赦し、贖いを信じる全ての者を、三位一体の神の愛の交わりに、イエスは永遠に入れて下さいます。 イエスはこの三位一体の神の愛の交わりの中に、イエスを信じる一人一人を招き入れるためにこの世界に来られた、と言うことができます。 「こういうわけで、神が結び合わせたものを、人が引き離してはなりません。」神が創造され、定められた結婚に、三位一体の神の愛と、親密さ、そして永遠に至る交わりの関係が表されています。そしてイエスを信じる私たちは全て、結婚という枠を超え、
この神の愛の交わりの中に、永遠に入れて頂けます。この恵みを覚えつつ、今年もイエスと共に歩ませて頂きたいと思います。 最後に使徒パウロが語られたことば、新約聖書、コリント人への手紙第一6:16,17節をもって、本日のみ言葉の取り次ぎを終わりたいと思います。
あなたがたは知らないのですか。遊女と交わる者は、彼女と一つのからだになります。「ふたりは一体となる」と言われているからです。しかし、主と交わる者は、主と一つの霊になるのです。
祈ります。
「神が創造された絆」