2026/1/25(日)「手放す幸い」マルコ10:17~22 庄司牧師

2026年1月25日 マルコの福音書10:17~22 「手放す幸い」
招詞 マタイの福音書6:33 今週のみ言葉 マルコの福音書10:21
イエスが道に出て行かれると、一人の人が駆け寄り、御前にひざまずいて尋ねた。「良い先生。永遠のいのちを受け継ぐためには、何をしたらよいでしょうか。」イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを『良い』と言うのですか。良い方は神おひとりのほか、だれもいません。戒めはあなたも知っているはずです。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽りの証言をしてはならない。だまし取ってはならない。あなたの父と母を敬え。』」その人はイエスに言った。「先生。私は少年のころから、それらすべてを守ってきました。」イエスは彼を見つめ、いつくしんで言われた。「あなたに欠けていることが一つあります。帰って、あなたが持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。」すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。多くの財産を持っていたからである。( マルコの福音書 10:17-22 SKY17 )
本日の聖書の箇所は、イエスの強烈な警告です。それは富の危険性についてです。イエスは富それ自体が悪であるとは、もちろん決め付けておられませんが、富によってイエスの下に来れなくなってしまう人がいる、という実例が示されています。
10:17 イエスが道に出て行かれると、一人の人が駆け寄り、御前にひざまずいて尋ねた。「良い先生。永遠のいのちを受け継ぐためには、何をしたらよいでしょうか。」
一行がエルサレムへの途上、ユダヤ地方を旅していた時の出来事です。「一人の人が駆け寄り、御前にひざまずいてイエスに尋ねました。」「ひとりの人」とは、並行箇所のマタイの福音書の19章では「青年」、ルカの福音書18章においては「指導者、前の訳では役人」と紹介されています。つまりこの人物は若く、高い地位についていた裕福な人でした。他の人々からすれば、全てを持っていると思われるような人でしたが、彼は富によっては満たされていませんでした。その心には依然として疑問と渇きがありました。 この人がイエスの下へ「駆け寄り」イエスの下に「ひざまずいて」永遠のいのちをどのようにしたら受け継ぐことができるかを尋ねていることから、真剣に、永遠のいのちを得るための答えを探していたことが伺えます。しかし彼はここで的外れの理解と質問を二つしています。
一つはイエスを良い先生と言ったことです。「先生」とは「ラビ」(私の師)という意味で、教師としての尊敬を表す言葉です。つまり彼はイエスを、律法を教えていたラビの一人として見ていたことです。二つ目の的外れは、「永遠のいのちを受け継ぐためには、何をしたらよいでしょうか。」と尋ねていることです。彼は行いによって永遠のいのちを獲得することができると思っていた。そこでイエスは先ず18節で、彼がイエスを一教師として理解していることを正そうとされました。 10:18 イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを『良い』と言うのですか。良い方は神おひとりのほか、だれもいません。
イエスは彼が使った「良い先生」の「良い」ということばを用いて、「良い方は神おひとりです」と言われました。つまり彼が良いと敬っている人間である一教師、一指導者から教えを受けることが永遠のいのちを得るために必要なことではなく、永遠のいのちを得るためには良い方である神に焦点を合わせなければならないと、彼の注意を神に向けさせようとしました。 そしてイエスは、
永遠のいのちを受け継ぐためには、神の教え、戒めである律法を守られなければならないと、具体的にモーセの十戒を引用されました。
10:19 戒めはあなたも知っているはずです。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽りの証言をしてはならない。だまし取ってはならない。あなたの父と母を敬え。』」イエスはあえて、旧約聖書に記されている律法を引用されました。 ここでもし彼が、「主よ、申し訳ありません。私は弱い人間ですから、どうしても守り通す事が出来ません。」と答えていれば、またそのように思っていれば、イエスから助けを得ることができたかもしれません。しかしこの青年はこのように答えました。10:20 その人はイエスに言った。「先生。私は少年のころから、それらすべてを守ってきました。」
平行箇所のマタイの福音書の19章において彼は、「私はそれらすべてを守ってきました。何がまだ欠けているのでしょうか」と答えています。 凄い答えです。中々こうは言えないと思います。すべてを守ってきたと断言できるほど、この青年は厳格な生活をしていたと思って間違いないでしょう。 イエスの意図は、律法を守りなさいと問いかけることよって、この青年にそれらを完全に守ることができないと認めさせ、彼の中にある自信を完全に打ち砕いて、彼の目を神の方に向けさせることでした。 この人が自分の持つ罪や人間的な弱さに気付き、そこから神に依り頼むことが、永遠のいのちに至るための第一歩だったからです。もしこの段階で、この青年が改めて自分にある罪に気付き、弱さを認めることができれば、目の前に永遠のいのちを与えるお方がおられました。そのまま罪の赦しと永遠のいのちをイエスに願うことができました。しかし彼はできませんでした。そこでイエスはさらに踏み込んだ問いかけをなされています。21節。あなたが持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。イエスはここで隣人愛に触れています。持っている物を売り払って貧しい人に与えなさいとは、周りの人々に愛を示すための実践、実際的な行動です。
イエスは平行箇所のマタイの福音書19章においても十戒を引用されてこの青年に語りかけておられますが、マルコの福音書で語られた十戒の引用に、さらに一つ加えられています。それは、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」でした。 このことばは、ある時律法の専門家が、「律法の中で、たいせつな戒めはどれですか?」とイエスに尋ねた時に、イエスが答えられた時のものです。 この時イエスは、神が旧約聖書を通して人間に与えられた、人間が守るべき教え、戒めである律法を、短く二つにまとめられました。
一つ目は、「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」でした。 これは人間が神に対して行うべき戒めです。神を神としなさい。偶像を造って拝んではならない。など、モーセの十戒の一番目から四番目に記されていることを一つにまとめられたものです。そして律法の専門家に答えられた二つ目に大切なことが、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」でした。これは人間が人間に対して行うべきことをまとめたものであり、モーセの十戒で言えば、5戒から最後の10戒までに記されていることを一つにまとめられたものです。
あなたが持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。
これは律法が示す、隣人愛の実践でした。 この青年は、「私は少年のころから、それらすべてを守ってきました。何がまだ欠けているのでしょうか」と自信を持ってイエスに答えました。ですから本当に守って来たのであれば、イエスからのこの問いかけに対して、彼は実際の行動を通して応えることができたでしょう。しかし彼が取った行動は異なるものでした。22節に記されています。
10:22 すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。多くの財産を持っていたからである。
彼は悲しみながらイエスの下を立ち去りました。イエスが言われたことは、自分には出来ないという意志表示でした。「全てを売り払って貧しい人にたちに与えなさい」 これは確かに難しい、いや、不可能と言える命令ではないでしょうか。 私たちもイエスに招かれてイエスの下に来ることができました。そして今、イエスを信じる群れである教会に入れられています。この中で、イエスから「全てを売り払って私に従いなさい」と言われた方はおられるでしょうか?
恐らくいないと思います。なぜイエスはこの青年にそのような不可能とも言えることを命じられたのでしょうか。それはこの青年が財産に捕らえられていたからです。奴隷になっていたと言っていいでしょう。財産は本来中立なもののはずです。しかし財産は時に力になります。自分の思いや願いの多くを財産によって、お金によって叶えていくことができるばかりでなく、人々を支配、コントロールさえできるものです。しかしもし財産が神よりも上の存在になるならば、それは偶像礼拝と変わりありません。本日の箇所でイエスが十戒を引用されていますが、それは人が人に対して行うべき戒めの部分、第五戎から第十戎でした。しかし第一戎から四戎の、人が神に対して守るべき教え、戒めの中には、神の他に、他の何物をも神としてはならないとあります。また偶像を作って拝んではならないとあります。 従ってこの青年は、自分の財産を用いて隣人に対して愛や憐れみを示すことが出来なかっただけでなく、財産が神よりも上に来ていた、つまり財産が自分の偶像となり、自分の神になっていたということが明らかにされた訳です。
イエスはマタイの福音書の6章で群衆や弟子たちにこのように語られました。
だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神と富とに仕えることはできません。( マタイの福音書 6:24 SKY17 ) この青年は、自分の富、財産を重んじ、他方、すなわち神を軽んじていたということです。ですから彼は神からの教え、戒めを子どもの頃から守って来たと自負、自信を持ってイエスに答えましたが、それは表面的であり、形式的であり、神に対して心も、信仰も、愛もなかったことが分かります。
そこでイエスは、彼が奴隷になっている富から、財産から解放するために、「財産を全て売り払って私に従いなさい。」と、あえて不可能とも言えることを命じられました。これはイエスの愛ゆえの命令であり、挑戦でした。 もし彼がこのイエスからの命令に対して「私は出来ません。助けて下さい。憐れんで下さい。」とイエスの下を去らず、イエスに助けを求めたのであれば、イエスは彼を助けることができたと思います。 すなわち富、財産を最も価値あるものとしていた彼の思い、執着から解放し、神でしか満たすことの出来ない、永遠のいのちという、霊的な飢え渇きを満たすことができたはずです。
この青年はイエスを一教師、一指導者と見ていました。これは誤りでしたが、永遠のいのちを求めてイエスの下に来ることができました。 それは良かったのです。最高な、これ以上のないベストな選択でした。しかし彼は最悪な選択をしてしまいました。それはイエスの下から立ち去ってしまったということです。 彼は永遠のいのちよりも財産を、富を、神であるイエスよりも自分と自分の生き方を選んでしまいました。
しかしイエスは、このような青年に対しても、愛を持っておられることが分かります。「イエスは彼を見つめ、いつくしんで言われた」とありますが、ギリシャ語本文には神だけが持つ「アガペー・愛」(名詞)が、ここでは「アガパオー・愛する」という動詞として使われています。神の愛、アガペーとは、その対象に愛される価値があるなしに関わらず、自発的に自分を与える犠牲的な愛を意味することばです。 従って直訳するならば、「イエスは、神ご自身だけが持つ愛を持って、彼に目を留めながら言われた」となるでしょう。イエスは、彼が執着している財産を彼から切り離し、すなわち富という奴隷から解放して、彼が求めていた永遠のいのちを、心からお与えになりたいと思っておられる、ということがここに表されています。
偶像、そして偶像礼拝とは、人間が持つ心の欲望を神とし、それを第一として拝むことです。そこには富だけでなく、健康、長寿、権力なども含まれます。 そしてこの青年のように神の代わりにそれらを第一とし、依存して生きようとする時、それらは人を奴隷として縛りつけるようになります。 本人はそれらを自分の支配に置き、コントロールできると思っていますが、この青年のように、気付けば縛られ、奴隷とされ、永遠のいのちを与えることができる唯一のお方、イエスを退ける、自ら遠ざかってしまう結果になります。 これは現代においても全く変わりがありません。
何かを神よりも上に置く。それらを神よりも高い価値あるものとする。そして神とする。目に見えるものから目に見えないものまで、私たちは多くの偶像に取り囲まれています。 このような偶像礼拝は、人間が持つ罪と、悪魔、サタンが働く領域でもあり、霊的なものであると思います。

私たちは知らない内にこれらに奴隷とされ、自分から抜け出ることはできません。それは唯一、イエスの助けによってのみです。 イエスは私たちを奴隷状態から解放して下さる力ある神であり、その根底にはこの青年に注がれ、また私たち全ての人間にも注がれている愛があります。
全ての人間をご自分の下に招き、全ての人間を奴隷状態から解放し、永遠のいのちを与えたい。
このイエスの愛と願い、そして力は、十字架と復活に集中しています。奴隷状態に導く私たちの罪を、神であるイエスが代わりに背負われ、私たちの罪と共に死んで下さいました。 そして罪と、罪から来る死を滅ぼして、復活して下さいました。それは私たち一人一人の人間のためでした。
ここにアガペーの愛があり、私たちを罪と死と、様々な奴隷状態から解放することができる、力が表されています。 聖書から、またイエスが語られたみ言葉から、私たちはイエスよりも大切して来た様々な偶像の存在を知り、捨て去ることができました。今も捨て続けています。
私たちが持つ偶像と偶像礼拝から解放して下さり、永遠のいのちを受け継ぐ者として下さったイエスに、心から感謝します。
祈ります。
「手放す幸い」
あなたが持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。