2026年1月4日 マルコの福音書10:1~12「神が創造された絆」
イエスは立ち上がり、そこからユダヤ地方とヨルダンの川向こうに行かれた。群衆がまたイエスのもとに集まって来たので、再びいつものように彼らを教え始められた。すると、パリサイ人たちがやって来て、イエスを試みるために、夫が妻を離縁することは律法にかなっているかどうかと質問した。イエスは答えられた。「モーセはあなたがたに何と命じていますか。」彼らは言った。「モーセは、離縁状を書いて妻を離縁することを許しました。」イエスは言われた。「モーセは、あなたがたの心が頑ななので、この戒めをあなたがたに書いたのです。しかし、創造のはじめから、神は彼らを男と女に造られました。『それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる』のです。ですから、彼らはもはやふたりではなく、一体なのです。こういうわけで、神が結び合わせたものを、人が引き離してはなりません。」家に入ると、弟子たちは再びこの問題についてイエスに尋ねた。イエスは彼らに言われた。「だれでも、自分の妻を離縁し、別の女を妻にする者は、妻に対して姦淫を犯すのです。妻も、夫を離縁して別の男に嫁ぐなら、姦淫を犯すのです。」
今年の年間聖句はマルコの福音書10:45節です。タイトルとは週報にもありますように、「神の国を受け入れる」です。子どもたちが週報の絵とタイトルを書いてくれました。そしてフレームを描いて下さったのは額姉です。凄くかわいい表紙になりました。感謝です。 神の国を支配、統治されておられる神、すなわちイエスの価値観、イエスの規準を、私たちが日常生活の中で受け入れていくこと、その必要があることを共に見ていきたいと思っています。
1節には、イエスは立ち上がり、そこからユダヤ地方とヨルダンの川向こうに行かれた。と記されています。平行箇所のマタイの福音書19章には、「イエスはガリラヤを去り」と記され、「そこを離れて、もはや戻ることはない」というニュアンスが表されています。 三年間に及ぶガリラヤでの働きを終えて、イエスはいよいよ公生涯、最後の舞台であるエルサレム、人類の身代わりの十字架に向かって旅立たれました。 イエスがユダヤ地方に着くと、イエスはいつものように群衆に向かって福音を宣べ伝え始められました。 ここでもパリサイ人たちがやって来ます。「夫が妻を離縁することは律法にかなっているかどうか。」という質問をイエスにぶつけました。 平行箇所のマタイの福音書の19章には、「何か理由があれば、妻を離縁することは律法にかなっているでしょうか。」と彼らは尋ねており、マルコの福音書の方には「何か理由があれば」という表現がありません。よって彼らは離婚の条件というよりも、離婚ということ自体に対して、イエスがどのように考えているかを質問しています。この問いでまず目を引くのは、「夫が妻を」と尋ねられていることです。夫側からの離別の可能性が問われているということです。なぜでしょうか。 それは妻側からの申し出など、当時は考えられなかったからです。当時、離別する権利は夫側だけにあるものと考えられていました。 イエスはその質問に対して、「モーセはあなたがたに何と命じていますか。」と逆に質問しています。彼らは「モーセは、離縁状を書いて妻を離縁することを許しました。」と答えています。
彼らがイエスに答えたことが、旧約聖書、申命記の24章1節に記されています。「人が妻をめとり夫となった後で、もし、妻に何か恥ずべきことを見つけたために気に入らなくなり、離縁状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせ、」パリサイ人たちはここに記されている律法を、神が離婚を許可した根拠として受け止めていました。 当時、この律法の解釈は二通りありました。それは「恥ずべきこと」と「気に入らなくなり」という表現の解釈の違いです。当時のパリサイ派の中には二つの学派があったようです。一つは厳格な律法学者のラビ・シャンマイ派、そしてもう一つは緩やかに、自由に考える律法学者のラビ・ヒレル(ヒルレル)派がありました。厳格なシャンマイ派の方は、「恥ずべきこと」という語彙に重きを置き、姦淫以外の離婚理由を認めないという立場でした。寛容なヒルレル派は「気に入らなくなり」という語彙に重きをおいた解釈をしました。ヒルレル派の解釈でいくと、料理が下手とか、街頭で男性と話をしたとか、夫の前で両親の悪口を言った、など、どんなささいな理由であっても離縁できると考えました。後にこの解釈の適用はさらに広められ、紀元2世紀の有名なラビ・アキバは、今の妻より好きな女、美しい女を見つけた場合にも離婚できるとしました。滅茶苦茶で自分勝手な男の論理です。
先ほどマタイの平行箇所のマタイの福音書を取り上げました。パリサイ人たちが、「何か理由があれば離縁できるか?」という質問をイエスにしたとお話しました。従ってイエスに質問をしたパリサイ人たちは、このヒルレル学派の立場を反映するもので、「どんな理由ででも」妻を離縁できると考えていたことが分かります。 この質問がなされた同時代の人々の中には、ペレア地方の国主、ヘロデ・アンティパスがいました。バプテスマのヨハネが彼の不正な再婚を責め、殺されています。イエスが厳格なことを言えば、いのちに関わる。 またこの時代の人々は自由に離婚できると考えていましたから、やはり厳格なことを言えば、大衆の支持を失うことにもなる。 逆にイエスが
「律法」をないがしろにするようなことを言えば、彼らはイエスを有罪にすることができました。
どちらに転んでもイエスの立場は危うくなるという、イエスを試みるための悪質な質問でした。
この質問に対してイエスはこのように答えられました。5節。10:5 イエスは言われた。「モーセは、あなたがたの心が頑ななので、この戒めをあなたがたに書いたのです。
男性が一方的に女性を離縁できると考えられていたのは、まさに神の御心に反し、また心の頑なな証拠でした。 しかし神はこの人間の身勝手さ、自己中心的な性質を良くご存じです。
結婚は罪深い二人の人間で成り立っていますから、離縁することもあると、神は分かっておられます。 そこで神は、先ほどの申命記24章に代表される律法を、人間に与えられました。言われのない理由によって離婚者、特に女性の権利を守るためでもありました。それは離婚状があれば、女性は他の男性と再婚することができたからです。しかしこの律法を逆に悪用し、離婚状を書きさえすれば、自分の気に入らない妻を簡単に離縁出来ると解釈する、心の頑なな者たちがいました。
そこでイエスは、結婚は神が定められたということと、結婚に関して神に絶対的な主権と基準があることを教えられました。イエスはそのことを6節でこのように語られています。
10:6 しかし、創造のはじめから、神は彼らを男と女に造られました。イエスは「創造のはじめから」、つまり人間の創造の時点からという意味で、神のご計画における結婚の概念を説明されていきます。続く7節、8節です。10:7 『それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、
10:8 ふたりは一体となる』のです。ですから、彼らはもはやふたりではなく、一体なのです。
イエスはここで、創世記1:27節と2:24節を引用しながら、パリサイ人たちの目を、人間男女の創造の、根本的意義に向けさせました。神が人を男と女に創造されたゆえに、それぞれが神から与えられている尊厳を持つ、本来平等な存在であるということを先ず示されました。
またよく夫婦は一心同体と言われますが、英語でいればone flesh、「一つの肉」という意味です。
これは肉体的合一を指すとともに、それまで他人同士であった者が肉親関係となり、一つの家族、家庭を構成することを意味します。強い絆で結ばれた関係です。 そして9節が、今回パリサイ人たちへの答えとして、イエスが持っておられる結婚についての結論です。
10:9 こういうわけで、神が結び合わせたものを、人が引き離してはなりません。」
結婚は一対一の結び付きであり、「分けられない存在」です。他の何者もそこに入ることはできないし、入ってはならない。 また結婚は神が定められたものであって、神の支配の下にある。
従って人間の便宜的で勝手な理由(先ほど見てきたパリサイ人の規定など)によって結婚による男女の結合、一致を解消することは許されない。 結婚は本来神が結び合わせたものであるため、人間の意志や都合によって引き離すことはできないものであると、イエスは主張されました。
ではなぜ結婚が大切であり、神聖であるのかと言えば、結婚が「神の三位一体の親密さや一致が反映されている」からです。 神は父、子、聖霊の三つのペルソナ(位格)でありながら、一つの本質(実体)を持つ完全に愛し合う共同体です。 結婚も、二人の人間が一つ(一体)となり、精神的、肉体的、感情的な親密さを享受します。この二者の一致は、三位一体の神の、内的な愛と完全な交わりを、映し出すものとされています。 アダムとエバから全ての人類が生まれて来ましたが、男や女という性別を始めに造られ、そして男と女が結び合うことによる結婚によって三位一体の神の親密さ、永遠の交わり、そして栄光が表されることを、神はご計画されました。
それが結婚の奥義です。従って私たち人間は、結婚の意義や意味について知らなければ、今回のパリサイ人たちや当時の人々のように、自分の都合で結婚し、自分の都合で離婚を考えてしまう危険性があります。 もう一度5節を見たいと思います。
10:5 イエスは言われた。「モーセは、あなたがたの心が頑ななので、この戒めをあなたがたに書いたのです。 離婚は神が「命じ」られたのではなく、「許」されたものであると、イエスはモーセの律法を解釈しています。神は離婚を是認、認めているわけではなく、それは、人間の心が頑ななので、やむを得ず許可されたに過ぎない。 ここでイエスは、「あなたがたの心が頑ななので」と言われました。この「あなたがた」とは、モーセの時代の人々だけでなく、今まさに、自分勝手な理由で妻を一方的に離婚できると考えているパリサイ人たちのような頑迷な人々、またそれは現代を生きる私たちも含まれた、全ての人間に向けられていると感じます。また心が頑なであったのは、イエスの弟子たちも同じでした。10節を見ると、弟子たちがこの問題を再びイエスに尋ねていますが、マタイの福音書を見ると、彼らもパリサイ人たちや当時の人々が考えていたように、理由があれば離婚をしても良いと考えていたことが分かります。 弟子たちの質問に対してイエスはこのように答えられました。10:11 イエスは彼らに言われた。「だれでも、自分の妻を離縁し、別の女を妻にする者は、妻に対して姦淫を犯すのです。マタイ福音書でイエスは、「だれでも、淫らな行い以外の理由で自分の妻を離縁し、別の女を妻とする者は、姦淫を犯すことになるのです。」と、離縁の理由に、「淫らな行い」を加えています。前の訳では「不貞」と訳されています。そして12節に続きます。10:12 妻も、夫を離縁して別の男に嫁ぐなら、姦淫を犯すのです。」イエスがここで教えられていることは、淫らな行い、すなわち不貞や不品行以外の、自分勝手な離縁はそもそも無効であり、それゆえそのような者たちが離縁し、再婚しても、その再婚そのものが無効だということです。つまり「気に入らなくなった」妻を離縁しようとする夫に対して、その身勝手な行為は自分だけでなく、妻や、第二の夫となる者にも姦淫の罪を犯させてしまうことを警告しています。 当時、離縁できる資格は夫にしかなく、妻にはその資格は認められていませんでした。 イエスは離縁において、女性の権利を守る側に立っています。「気に入らなくなった」ということで離縁されるとすれば、女性はますます男性に利用されることになります。とすれば、女性は一人の人格として取り扱われないことになるだけでなく、神の定められた結婚の神聖さも失われる危険があります。ましてや、自分の妻よりもっと魅力的な女性を見つけたときに妻を離縁できるとすれば、これは「むさぼり」と何ら変わりません。 従って姦淫の根本にある問題は「むさぼりを助長する罪」であることが分かります。 イエスはこのように答えることによって弟子たちを教えつつ、目の前にいるパリサイ人たちが離縁に関する質問をした背後にある、動機をえぐり出しています、暴き出しています。それは、今の妻はあきて、他の女に乗り移りたいという動機を、彼らが持っていたということです。つまり彼らにむさぼりがあるゆえに、「離縁状」が記されているモーセの律法を引用し、逆に悪用して、自分たちの悪い行ないを正当化していたということです。 姦淫の罪は、モーセの律法によれば、死刑に値することでした。したがって彼らは、表向きは神のおきてに従っているように見えますが、本質は神のおきてを故意に破り、自分に死罪を招いているということです。 そしてこられのむさぼり、そしてむさぼりに至らせる罪を、現代を生きている私たちも同じように持っています。 なぜなら、結婚を自己中心的に、個人の満足と感情的な充足として捉えている人々がいることからも、明らかだからです。 そして結婚の意義や意味が分からず自己中心的になれば、離婚に関しても同じように、自己中心的な振る舞いをする可能性があります。
神が許された離縁の背景は、人間が神の命令された結婚の状態にとどまることができないために、許可された、許されたというものでした。 そしてその原因はむさぼりにありますが、その根底は人間の罪にありました。 つまり人間の心が頑なであるのは、人間が神から離れてしまったゆえの、罪から来ています。 イエスはむさぼりをはじめ、悪の元となっている罪を身代わりに十字架で背負われ、死なれ、罪と罪から来る死に勝利して甦られました。 この罪の赦し、贖いを信じる全ての者を、三位一体の神の愛の交わりに、イエスは永遠に入れて下さいます。 イエスはこの三位一体の神の愛の交わりの中に、イエスを信じる一人一人を招き入れるためにこの世界に来られた、と言うことができます。 「こういうわけで、神が結び合わせたものを、人が引き離してはなりません。」神が創造され、定められた結婚に、三位一体の神の愛と、親密さ、そして永遠に至る交わりの関係が表されています。そしてイエスを信じる私たちは全て、結婚という枠を超え、
この神の愛の交わりの中に、永遠に入れて頂けます。この恵みを覚えつつ、今年もイエスと共に歩ませて頂きたいと思います。 最後に使徒パウロが語られたことば、新約聖書、コリント人への手紙第一6:16,17節をもって、本日のみ言葉の取り次ぎを終わりたいと思います。
あなたがたは知らないのですか。遊女と交わる者は、彼女と一つのからだになります。「ふたりは一体となる」と言われているからです。しかし、主と交わる者は、主と一つの霊になるのです。
祈ります。
「神が創造された絆」
イエスは立ち上がり、そこからユダヤ地方とヨルダンの川向こうに行かれた。群衆がまたイエスのもとに集まって来たので、再びいつものように彼らを教え始められた。すると、パリサイ人たちがやって来て、イエスを試みるために、夫が妻を離縁することは律法にかなっているかどうかと質問した。イエスは答えられた。「モーセはあなたがたに何と命じていますか。」彼らは言った。「モーセは、離縁状を書いて妻を離縁することを許しました。」イエスは言われた。「モーセは、あなたがたの心が頑ななので、この戒めをあなたがたに書いたのです。しかし、創造のはじめから、神は彼らを男と女に造られました。『それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる』のです。ですから、彼らはもはやふたりではなく、一体なのです。こういうわけで、神が結び合わせたものを、人が引き離してはなりません。」家に入ると、弟子たちは再びこの問題についてイエスに尋ねた。イエスは彼らに言われた。「だれでも、自分の妻を離縁し、別の女を妻にする者は、妻に対して姦淫を犯すのです。妻も、夫を離縁して別の男に嫁ぐなら、姦淫を犯すのです。」
今年の年間聖句はマルコの福音書10:45節です。タイトルとは週報にもありますように、「神の国を受け入れる」です。子どもたちが週報の絵とタイトルを書いてくれました。そしてフレームを描いて下さったのは額姉です。凄くかわいい表紙になりました。感謝です。 神の国を支配、統治されておられる神、すなわちイエスの価値観、イエスの規準を、私たちが日常生活の中で受け入れていくこと、その必要があることを共に見ていきたいと思っています。
1節には、イエスは立ち上がり、そこからユダヤ地方とヨルダンの川向こうに行かれた。と記されています。平行箇所のマタイの福音書19章には、「イエスはガリラヤを去り」と記され、「そこを離れて、もはや戻ることはない」というニュアンスが表されています。 三年間に及ぶガリラヤでの働きを終えて、イエスはいよいよ公生涯、最後の舞台であるエルサレム、人類の身代わりの十字架に向かって旅立たれました。 イエスがユダヤ地方に着くと、イエスはいつものように群衆に向かって福音を宣べ伝え始められました。 ここでもパリサイ人たちがやって来ます。「夫が妻を離縁することは律法にかなっているかどうか。」という質問をイエスにぶつけました。 平行箇所のマタイの福音書の19章には、「何か理由があれば、妻を離縁することは律法にかなっているでしょうか。」と彼らは尋ねており、マルコの福音書の方には「何か理由があれば」という表現がありません。よって彼らは離婚の条件というよりも、離婚ということ自体に対して、イエスがどのように考えているかを質問しています。この問いでまず目を引くのは、「夫が妻を」と尋ねられていることです。夫側からの離別の可能性が問われているということです。なぜでしょうか。 それは妻側からの申し出など、当時は考えられなかったからです。当時、離別する権利は夫側だけにあるものと考えられていました。 イエスはその質問に対して、「モーセはあなたがたに何と命じていますか。」と逆に質問しています。彼らは「モーセは、離縁状を書いて妻を離縁することを許しました。」と答えています。
彼らがイエスに答えたことが、旧約聖書、申命記の24章1節に記されています。「人が妻をめとり夫となった後で、もし、妻に何か恥ずべきことを見つけたために気に入らなくなり、離縁状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせ、」パリサイ人たちはここに記されている律法を、神が離婚を許可した根拠として受け止めていました。 当時、この律法の解釈は二通りありました。それは「恥ずべきこと」と「気に入らなくなり」という表現の解釈の違いです。当時のパリサイ派の中には二つの学派があったようです。一つは厳格な律法学者のラビ・シャンマイ派、そしてもう一つは緩やかに、自由に考える律法学者のラビ・ヒレル(ヒルレル)派がありました。厳格なシャンマイ派の方は、「恥ずべきこと」という語彙に重きを置き、姦淫以外の離婚理由を認めないという立場でした。寛容なヒルレル派は「気に入らなくなり」という語彙に重きをおいた解釈をしました。ヒルレル派の解釈でいくと、料理が下手とか、街頭で男性と話をしたとか、夫の前で両親の悪口を言った、など、どんなささいな理由であっても離縁できると考えました。後にこの解釈の適用はさらに広められ、紀元2世紀の有名なラビ・アキバは、今の妻より好きな女、美しい女を見つけた場合にも離婚できるとしました。滅茶苦茶で自分勝手な男の論理です。
先ほどマタイの平行箇所のマタイの福音書を取り上げました。パリサイ人たちが、「何か理由があれば離縁できるか?」という質問をイエスにしたとお話しました。従ってイエスに質問をしたパリサイ人たちは、このヒルレル学派の立場を反映するもので、「どんな理由ででも」妻を離縁できると考えていたことが分かります。 この質問がなされた同時代の人々の中には、ペレア地方の国主、ヘロデ・アンティパスがいました。バプテスマのヨハネが彼の不正な再婚を責め、殺されています。イエスが厳格なことを言えば、いのちに関わる。 またこの時代の人々は自由に離婚できると考えていましたから、やはり厳格なことを言えば、大衆の支持を失うことにもなる。 逆にイエスが
「律法」をないがしろにするようなことを言えば、彼らはイエスを有罪にすることができました。
どちらに転んでもイエスの立場は危うくなるという、イエスを試みるための悪質な質問でした。
この質問に対してイエスはこのように答えられました。5節。10:5 イエスは言われた。「モーセは、あなたがたの心が頑ななので、この戒めをあなたがたに書いたのです。
男性が一方的に女性を離縁できると考えられていたのは、まさに神の御心に反し、また心の頑なな証拠でした。 しかし神はこの人間の身勝手さ、自己中心的な性質を良くご存じです。
結婚は罪深い二人の人間で成り立っていますから、離縁することもあると、神は分かっておられます。 そこで神は、先ほどの申命記24章に代表される律法を、人間に与えられました。言われのない理由によって離婚者、特に女性の権利を守るためでもありました。それは離婚状があれば、女性は他の男性と再婚することができたからです。しかしこの律法を逆に悪用し、離婚状を書きさえすれば、自分の気に入らない妻を簡単に離縁出来ると解釈する、心の頑なな者たちがいました。
そこでイエスは、結婚は神が定められたということと、結婚に関して神に絶対的な主権と基準があることを教えられました。イエスはそのことを6節でこのように語られています。
10:6 しかし、創造のはじめから、神は彼らを男と女に造られました。イエスは「創造のはじめから」、つまり人間の創造の時点からという意味で、神のご計画における結婚の概念を説明されていきます。続く7節、8節です。10:7 『それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、
10:8 ふたりは一体となる』のです。ですから、彼らはもはやふたりではなく、一体なのです。
イエスはここで、創世記1:27節と2:24節を引用しながら、パリサイ人たちの目を、人間男女の創造の、根本的意義に向けさせました。神が人を男と女に創造されたゆえに、それぞれが神から与えられている尊厳を持つ、本来平等な存在であるということを先ず示されました。
またよく夫婦は一心同体と言われますが、英語でいればone flesh、「一つの肉」という意味です。
これは肉体的合一を指すとともに、それまで他人同士であった者が肉親関係となり、一つの家族、家庭を構成することを意味します。強い絆で結ばれた関係です。 そして9節が、今回パリサイ人たちへの答えとして、イエスが持っておられる結婚についての結論です。
10:9 こういうわけで、神が結び合わせたものを、人が引き離してはなりません。」
結婚は一対一の結び付きであり、「分けられない存在」です。他の何者もそこに入ることはできないし、入ってはならない。 また結婚は神が定められたものであって、神の支配の下にある。
従って人間の便宜的で勝手な理由(先ほど見てきたパリサイ人の規定など)によって結婚による男女の結合、一致を解消することは許されない。 結婚は本来神が結び合わせたものであるため、人間の意志や都合によって引き離すことはできないものであると、イエスは主張されました。
ではなぜ結婚が大切であり、神聖であるのかと言えば、結婚が「神の三位一体の親密さや一致が反映されている」からです。 神は父、子、聖霊の三つのペルソナ(位格)でありながら、一つの本質(実体)を持つ完全に愛し合う共同体です。 結婚も、二人の人間が一つ(一体)となり、精神的、肉体的、感情的な親密さを享受します。この二者の一致は、三位一体の神の、内的な愛と完全な交わりを、映し出すものとされています。 アダムとエバから全ての人類が生まれて来ましたが、男や女という性別を始めに造られ、そして男と女が結び合うことによる結婚によって三位一体の神の親密さ、永遠の交わり、そして栄光が表されることを、神はご計画されました。
それが結婚の奥義です。従って私たち人間は、結婚の意義や意味について知らなければ、今回のパリサイ人たちや当時の人々のように、自分の都合で結婚し、自分の都合で離婚を考えてしまう危険性があります。 もう一度5節を見たいと思います。
10:5 イエスは言われた。「モーセは、あなたがたの心が頑ななので、この戒めをあなたがたに書いたのです。 離婚は神が「命じ」られたのではなく、「許」されたものであると、イエスはモーセの律法を解釈しています。神は離婚を是認、認めているわけではなく、それは、人間の心が頑ななので、やむを得ず許可されたに過ぎない。 ここでイエスは、「あなたがたの心が頑ななので」と言われました。この「あなたがた」とは、モーセの時代の人々だけでなく、今まさに、自分勝手な理由で妻を一方的に離婚できると考えているパリサイ人たちのような頑迷な人々、またそれは現代を生きる私たちも含まれた、全ての人間に向けられていると感じます。また心が頑なであったのは、イエスの弟子たちも同じでした。10節を見ると、弟子たちがこの問題を再びイエスに尋ねていますが、マタイの福音書を見ると、彼らもパリサイ人たちや当時の人々が考えていたように、理由があれば離婚をしても良いと考えていたことが分かります。 弟子たちの質問に対してイエスはこのように答えられました。10:11 イエスは彼らに言われた。「だれでも、自分の妻を離縁し、別の女を妻にする者は、妻に対して姦淫を犯すのです。マタイ福音書でイエスは、「だれでも、淫らな行い以外の理由で自分の妻を離縁し、別の女を妻とする者は、姦淫を犯すことになるのです。」と、離縁の理由に、「淫らな行い」を加えています。前の訳では「不貞」と訳されています。そして12節に続きます。10:12 妻も、夫を離縁して別の男に嫁ぐなら、姦淫を犯すのです。」イエスがここで教えられていることは、淫らな行い、すなわち不貞や不品行以外の、自分勝手な離縁はそもそも無効であり、それゆえそのような者たちが離縁し、再婚しても、その再婚そのものが無効だということです。つまり「気に入らなくなった」妻を離縁しようとする夫に対して、その身勝手な行為は自分だけでなく、妻や、第二の夫となる者にも姦淫の罪を犯させてしまうことを警告しています。 当時、離縁できる資格は夫にしかなく、妻にはその資格は認められていませんでした。 イエスは離縁において、女性の権利を守る側に立っています。「気に入らなくなった」ということで離縁されるとすれば、女性はますます男性に利用されることになります。とすれば、女性は一人の人格として取り扱われないことになるだけでなく、神の定められた結婚の神聖さも失われる危険があります。ましてや、自分の妻よりもっと魅力的な女性を見つけたときに妻を離縁できるとすれば、これは「むさぼり」と何ら変わりません。 従って姦淫の根本にある問題は「むさぼりを助長する罪」であることが分かります。 イエスはこのように答えることによって弟子たちを教えつつ、目の前にいるパリサイ人たちが離縁に関する質問をした背後にある、動機をえぐり出しています、暴き出しています。それは、今の妻はあきて、他の女に乗り移りたいという動機を、彼らが持っていたということです。つまり彼らにむさぼりがあるゆえに、「離縁状」が記されているモーセの律法を引用し、逆に悪用して、自分たちの悪い行ないを正当化していたということです。 姦淫の罪は、モーセの律法によれば、死刑に値することでした。したがって彼らは、表向きは神のおきてに従っているように見えますが、本質は神のおきてを故意に破り、自分に死罪を招いているということです。 そしてこられのむさぼり、そしてむさぼりに至らせる罪を、現代を生きている私たちも同じように持っています。 なぜなら、結婚を自己中心的に、個人の満足と感情的な充足として捉えている人々がいることからも、明らかだからです。 そして結婚の意義や意味が分からず自己中心的になれば、離婚に関しても同じように、自己中心的な振る舞いをする可能性があります。
神が許された離縁の背景は、人間が神の命令された結婚の状態にとどまることができないために、許可された、許されたというものでした。 そしてその原因はむさぼりにありますが、その根底は人間の罪にありました。 つまり人間の心が頑なであるのは、人間が神から離れてしまったゆえの、罪から来ています。 イエスはむさぼりをはじめ、悪の元となっている罪を身代わりに十字架で背負われ、死なれ、罪と罪から来る死に勝利して甦られました。 この罪の赦し、贖いを信じる全ての者を、三位一体の神の愛の交わりに、イエスは永遠に入れて下さいます。 イエスはこの三位一体の神の愛の交わりの中に、イエスを信じる一人一人を招き入れるためにこの世界に来られた、と言うことができます。 「こういうわけで、神が結び合わせたものを、人が引き離してはなりません。」神が創造され、定められた結婚に、三位一体の神の愛と、親密さ、そして永遠に至る交わりの関係が表されています。そしてイエスを信じる私たちは全て、結婚という枠を超え、
この神の愛の交わりの中に、永遠に入れて頂けます。この恵みを覚えつつ、今年もイエスと共に歩ませて頂きたいと思います。 最後に使徒パウロが語られたことば、新約聖書、コリント人への手紙第一6:16,17節をもって、本日のみ言葉の取り次ぎを終わりたいと思います。
あなたがたは知らないのですか。遊女と交わる者は、彼女と一つのからだになります。「ふたりは一体となる」と言われているからです。しかし、主と交わる者は、主と一つの霊になるのです。
祈ります。
「神が創造された絆」