2026年8月2日 マルコの福音書13:1~8 「終わりの日のしるし」
イエスが宮から出て行かれるとき、弟子の一人がイエスに言った。「先生、ご覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」すると、イエスは彼に言われた。「この大きな建物を見ているのですか。ここで、どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることは決してありません。」イエスがオリーブ山で宮に向かって座っておられると、ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかにイエスに尋ねた。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのですか。また、それらがすべて終わりに近づくときのしるしは、どのようなものですか。」それで、イエスは彼らに話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『私こそ、その者だ』と言って、多くの人を惑わします。また、戦争や戦争のうわさを聞いても、うろたえてはいけません。そういうことは必ず起こりますが、まだ終わりではありません。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、あちこちで地震があり、飢饉も起こるからです。これらのことは産みの苦しみの始まりです。
マルコ福音書の第13章は、イエスの教えをまとめて語っている最後の部分となります。次の14章からは受難、十字架の出来事に入っていきます。この13章は「小黙示録」と呼ばれています。「小さな黙示録」です。そうしますと「大きな黙示録」がある訳ですが、それは私たちが良く耳にする、新約聖書最後の書簡、「ヨハネの黙示録」です。ヨハネの黙示録には、この世の終わりに起る様々な苦難が描写されていますが、小羊として描かれているイエス・キリストが最終的に全ての敵に勝利され、イエスのご支配、すなわち神の国が完成することが記されています。そしてイエスに従って生きた信仰者の救い、永遠のいのちが実現することが語られています。 ヨハネの黙示録と同じように、マルコ13章にもこの世の終わりのことが語られています。ヨハネの黙示録と決定的に異なる点は、イエスご自身が語っておられる、ということです。捕えられ、十字架につけられる直前に、最後の教えとしてイエスが世の終わりのことをお語りになった、それがこの13章です。本日の箇所はこのように始まっています。イエスが宮から出て行かれるとき、弟子の一人がイエスに言った。「先生、ご覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」
弟子たちのほとんどはガリラヤの田舎町出身です。ですから、都エルサレムにある豪華絢爛たる神殿を見て、感嘆の声を上げました。エルサレム神殿は、クリスマスの物語に登場するヘロデ大王が再建した第3神殿と呼ばれる物ですが、おおよそ50年の歳月をかけて建設され、金ぱくで覆われた豪華絢爛の神殿です。現在、ユダヤ人の人々が祈っている姿が時々報道される、いわゆる「嘆きの壁」というのは、このヘロデの神殿の僅かに残っている下の方の壁の一部です。当時の壁は現在のものよりもずっと高くそびえ立っていました。その壮麗な神殿は、正にイスラエルを象徴する場所でした。しかしイエスはこれに対して、「この大きな建物を見ているのですか。ここで、どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることは決してありません。」とおっしゃいました。この壮麗な神殿が徹底的に破壊される時が来る、とイエスは予告されました。この予告、預言は紀元70年に実現します。ローマ帝国によってエルサレム神殿は徹底的に破壊され、神殿の歴史は終わりを告げました。今では「嘆きの壁」など、ごく僅かな遺跡としてしか、その跡を偲ぶことはできません。
当時、全てのユダヤの人々が、この神殿を誇りにしていました。ここに神の祝福があると信じていました。ところがその意味が次第に逆転していきます。そもそも神殿は、そこで神と出会い、神への礼拝を通して神と交わる場所でした。しかしユダヤの人々は、神殿があるから神は我々と共におられるのだ。神殿がある限り、我々には神の守りがあるのだ、と考えるようになっていきます。本末転倒です。しかしユダヤの人々が誇っていた神殿は滅んでいきます。
このような素晴しい建物が破壊されてしまうなんて、それはもうこの世の終わりだ、と弟子たちは考えました。そこでイエスに質問します。イエスがオリーブ山で宮に向かって座っておられると、ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかにイエスに尋ねた。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのですか。また、それらがすべて終わりに近づくときのしるしは、どのようなものですか。弟子たちの質問は、すなわち私たちの質問でもあります。現代を生きている私たちも、とてつもなく大きな事件や災害などが起こると、もうこの世の終わりか、と思うのです。この世界が破局へと向かっているという恐れを抱くのは、当時の人々も私たちも全く同じです。さらに今日は、環境破壊、それに伴う動植物の危機と絶滅。多発する自然災害や世界戦争勃発への恐れなど、当時よりももっと深刻かもしれません。ですから弟子たちの問いは、そのまま現代を生きる私たちの問いでもあり、イエスの終わりの日に対する答えは、すなわち私たちへの答えでもあるのです。イエスの弟子たちは、終わりの日に関して、いつ起こるのか?またその終わりが起こる前に、どのようなしるし、すなわち兆候や前兆があるのか?という二点を尋ねました。 ところでなぜ彼らは世の終わりに関してイエスに質問をしたのでしょうか。それは世の終わりの破局がいつ訪れるのか、その前兆、しるしを見極めて、前もってその時期を知っておきたいからだと思います。あと百年は起きないのであれば、当面は安心していられます。明日かもしれないし百年後かもしれない、それが分からないから不安なのです。だから「終わりの日」を前もって知ることによって、心を定めたい、そして何かをしたい。またはまだ先だと安心したい。そのような心理が働くのだと思います。それに対してイエスは、世の終わりにはこういうことが起こる、ということをお語りになりますが、開口一番に語られたことが警告です。「人に惑わされないように気をつけなさい。」そして以下、現代を生きる私たちも含め、終わりの日には色々な人々から、また現象などから惑わされることになる、また惑わされるであろう、様々な原因が語られていきます。一つは「人を惑わす者」の出現です。「わたしの名を名乗る者が大勢現れる。つまり偽の救い主、偽キリストが現れて、私こそ救い主だ、と言って人々を集めるようになる。また、「戦争のうわさや実際の戦争」です。これも世の終わりの一つのしるしとされています。しかし偽の救い主はイエスの時代にもいましたし、戦争や戦争のうわさなども、それがなかった時代はありません。ですからイエスの時以来、これらのしるしは常に存在しているのであって、世の終わりを知る手がかりにはなりません。またイエスご自身も、「そういうことは必ず起こりますが、まだ終わりではありません。」と語っておられます。 そしてイエスは次の8節において、民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、あちこちで地震があり、飢饉も起こるからです。と、語られ、私たちに襲いかかってくるこのような大きな苦しみについてイエスは続けて、これらのことは産みの苦しみの始まりです。と言われました。既に世の終わりのしるしは現れており、終わりは始まっているが、いつ終わりが来るのか、それまでにどれだけの苦しみを経なければならないのかは誰も知ることができない、とイエスはおっしゃったのです。つまりイエスは、終わりの時がいつ来るのか、その時期を知りたいという弟子たちの願いに答えることを拒まれました。弟子たちは、そして私たちも、終わりの時がいつ来るのかを知って、それに応じて自分の計画を考えたいと願います。終わりを知って、これからの人生の見通しを立てたいと思います。しかしイエスはそのような見通しを立てることをお許しになりません。私たちは世の終わりが何時来るかを知ることはできないのです。つまり将来のこと、これから起こることを、自分の計画の中に組み入れてしまうことはできないということです。なぜ神は、すなわちイエスは、終わりの日を私たちに示して下さらないのでしょうか。 もちろん父なる神だけが終わりの日をご存知であるということもそうですが、それ以上に、もし私たち人間が世の終わりの日が分かったならば、私たちの生活は途端に秩序を失ってしまうでしょう。終わりの日を逆算しながら財産を使い果たし、終わりの日があるのだから今を精一杯楽しもうと刹那的になる。時々新興宗教が「何月何日に世の終わりが来る」と言ってそれを信じた信徒たちが仕事を止め、結婚を諦め、財産を処分し、時に自殺するということがあります。イエスはそのようなことを私たちに望んでおられません。ですから私たちは与えられ、備えられた一日一日を、精一杯、誠実に、そして忠実に仕えていく必要がありますし、逆に言えば、私たちはそれしかできないのではないでしょうか。私たちは、神を自分の計画や予定の中に組み入れてしまうことはできません。 神の計画を前もって知り、それをコントールしようとするならば、それは神を支配したいという願いであり、人間の傲慢です。神のみ業は、人間が計算したり、自分の計画の中に組み込んだりするべきものではなく、神の計画が最善であると信じ、委ねること。待つこと。私たちはそれしかできません。
そしてイエスは、私たちがどのように終わりの日を待ち望んだら良いか、出産の譬えを通して教えて下さっています。出産の前には母親が苦難、痛みを経験しなければなりませんが、その苦しみの先には子どもの誕生と言う、この上ない喜びが待っています。そのように、終わりの日の前には人間が様々な痛み、苦しみ、苦難を経験しなければなりませんが、同じように、その先には喜びがあり、希望があるということをイエスは示しておられます。 では、この世の終わりの先には何が待っているのでしょうか。マルコの福音書1章で見て来ましたが、イエスがこの世界に飛び込んで来られた時、神の国が近づいた、神の国が到来したと言われました。神の国とはイエスが統治される世界であり、イエスの統治そのものです。神の国はイエスと共に到来しました。しかし人類はアダムが神に反逆して以来、すなわち罪を犯してから、罪と、罪から来る死と、サタン、悪魔の支配下に入ってしまいました。人類はこの罪を受け継ぎ、罪から来る神への不従順と不信仰から神を失い、神を失うことによって自分も失いました。自分は何者なのかという、自分のアイデンティティーも失いました。なぜ生まれ、何のために生きるのかという使命も分からなくなってしまいました。さらに神の絶対的な規準を失うことによって、一人一人が勝手に自分の規準を持つようになり、それが最善であると考えるようになり、違う規準を持つ他の人々と争い、時に殺し合うようになりました。また見えない神に頼れなくなった人間は、家や土地、お金などの財産、そして自分の能力、自分の名誉・名声、健康や趣味などの楽しみ、家族など、目に見えるものに頼るようになりました。それらは素晴らしいこと、大切なことですが、ユダヤの人々が誇りとし、希望としていた神殿が滅び、無くなってしまったように、やがて崩れ去る時がやってきます。なぜなら人間が頼りにするものは永遠には続かない物だからです。一切の物には終わりがある。終わりが来る。自分のいのちも含め、そしてこの世、この世界にすら終りの時が来る、崩れ去る時が訪れます。
平行箇所のマタイの福音書24章3節においては、弟子たちはこのようにイエスに尋ねています。
イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちがひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのですか。あなたが来られ、世が終わる時のしるしは、どのようなものですか。」世の終わりのしるしに関して、マルコの福音書にはない、「あなたが来られ」ということばがあります。これはイエスが再びこの世界に来られる再臨を表しています。イエスご自身も、ご自身が裁き主としてこの世界に再び来られる再臨のことを、旧約聖書の預言から引用されています。後から見ていきますが、先の26節にある「人の子が雲に乗って来る」という表現は、旧約聖書、ダニエル書7章に記されている預言を、イエスが引用されたものです。旧約聖書は、イエスの初臨、すなわちクリスマスにおける誕生やイエスの歩み、そして私たち人間の罪の身代わり、贖いである十字架なども預言していますが、それは全て成就、実現しました。イエスが再びこの世界に戻って来られる再臨とその再臨の時に起こることを除いて、旧約聖書に記されている預言は全て成就、実現していると言っても良いでしょう。従ってイエスが再びこの世界に戻って来る、それも裁き主として来られることも、必ず実現します。そしてイエスが再臨される時、この混乱した世界、痛みと苦しみ、罪と死とサタンの支配にある古い世界は世の終わりと共に終わりを告げ、イエスの愛と調和、平和と平安の中での統治、すなわち完成した神の国の支配が、イエスを信じる者たちと共に始まります。しかしその神の国が完成する前、すなわち終わりの日が訪れる前は、イエスが語られるような「産みの苦しみ」が必ずあります。 出産の時に伴う痛み、陣痛は断続的に起こります。そして出産が近づくにつれて、その間隔が小さくなり、また痛みが激しくなります。そして出産の直前、その痛みは最高潮に達し、子どもが産まれます。 そのように神が定められた終わりの日の前には、そのしるしであり、前兆である、「私こそキリスト、救い主だ」と語り出す偽キリストの出現。また戦争のうわさや実際の戦争の勃発。大きな地震のような自然災害、また飢饉。それらは頻度も、また強さも増していきます。 しかし終わりの日がいつ起こるか、またどのように起こるかは、私たちには分かりません。知るよしもありません。 聖書が、そしてイエスが明確に語っておられることは「世の終わりが必ず来る」ということ。しかし「世の終わりがいつ来るかわからない」ということの二つです。イエスご自身も終わりの日の訪れを父なる神に委ねられ、いつ起こるか分からないとおっしゃいました。そして日々、父なる神に与えられていた使命を全うされました。その最たるものが、そしてとてつもなく大きな使命が、私たち人類のために十字架にかかる、ということでした。 私たちはこの世の終わりにおける苦難を、そして痛みを恐れます。 しかし私たちが終わりの日に関して、どのように心配しても、どんなに不安に思っても、また何か備えようと思っても、それを軽減したり、回避することはできません。
私たちにできる唯一のこと。それはイエスのことばに信頼し、イエスに委ねることだけです。
私たち人間の、「終わりの日」への恐れ、不安、そして時に好奇心に働きかけて、偽キリストや、サタンが私たちを欺いてきます。そこでイエスは言われました。「人に惑わされないようにしなさい」
イエスの警告に耳を傾けつつ、産みの苦しみの先にある、神の救い、永遠のいのち、すなわち神の国の完成があるということを、本日も心に留めたいと思います。そして日々自分にできること、自分に与えられているなすべきこと-使命を忠実に、また誠実に行う者でありたいと願います。
祈ります
「終わりの日のしるし」
それで、イエスは彼らに話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。」
イエスが宮から出て行かれるとき、弟子の一人がイエスに言った。「先生、ご覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」すると、イエスは彼に言われた。「この大きな建物を見ているのですか。ここで、どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることは決してありません。」イエスがオリーブ山で宮に向かって座っておられると、ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかにイエスに尋ねた。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのですか。また、それらがすべて終わりに近づくときのしるしは、どのようなものですか。」それで、イエスは彼らに話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『私こそ、その者だ』と言って、多くの人を惑わします。また、戦争や戦争のうわさを聞いても、うろたえてはいけません。そういうことは必ず起こりますが、まだ終わりではありません。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、あちこちで地震があり、飢饉も起こるからです。これらのことは産みの苦しみの始まりです。
マルコ福音書の第13章は、イエスの教えをまとめて語っている最後の部分となります。次の14章からは受難、十字架の出来事に入っていきます。この13章は「小黙示録」と呼ばれています。「小さな黙示録」です。そうしますと「大きな黙示録」がある訳ですが、それは私たちが良く耳にする、新約聖書最後の書簡、「ヨハネの黙示録」です。ヨハネの黙示録には、この世の終わりに起る様々な苦難が描写されていますが、小羊として描かれているイエス・キリストが最終的に全ての敵に勝利され、イエスのご支配、すなわち神の国が完成することが記されています。そしてイエスに従って生きた信仰者の救い、永遠のいのちが実現することが語られています。 ヨハネの黙示録と同じように、マルコ13章にもこの世の終わりのことが語られています。ヨハネの黙示録と決定的に異なる点は、イエスご自身が語っておられる、ということです。捕えられ、十字架につけられる直前に、最後の教えとしてイエスが世の終わりのことをお語りになった、それがこの13章です。本日の箇所はこのように始まっています。イエスが宮から出て行かれるとき、弟子の一人がイエスに言った。「先生、ご覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」
弟子たちのほとんどはガリラヤの田舎町出身です。ですから、都エルサレムにある豪華絢爛たる神殿を見て、感嘆の声を上げました。エルサレム神殿は、クリスマスの物語に登場するヘロデ大王が再建した第3神殿と呼ばれる物ですが、おおよそ50年の歳月をかけて建設され、金ぱくで覆われた豪華絢爛の神殿です。現在、ユダヤ人の人々が祈っている姿が時々報道される、いわゆる「嘆きの壁」というのは、このヘロデの神殿の僅かに残っている下の方の壁の一部です。当時の壁は現在のものよりもずっと高くそびえ立っていました。その壮麗な神殿は、正にイスラエルを象徴する場所でした。しかしイエスはこれに対して、「この大きな建物を見ているのですか。ここで、どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることは決してありません。」とおっしゃいました。この壮麗な神殿が徹底的に破壊される時が来る、とイエスは予告されました。この予告、預言は紀元70年に実現します。ローマ帝国によってエルサレム神殿は徹底的に破壊され、神殿の歴史は終わりを告げました。今では「嘆きの壁」など、ごく僅かな遺跡としてしか、その跡を偲ぶことはできません。
当時、全てのユダヤの人々が、この神殿を誇りにしていました。ここに神の祝福があると信じていました。ところがその意味が次第に逆転していきます。そもそも神殿は、そこで神と出会い、神への礼拝を通して神と交わる場所でした。しかしユダヤの人々は、神殿があるから神は我々と共におられるのだ。神殿がある限り、我々には神の守りがあるのだ、と考えるようになっていきます。本末転倒です。しかしユダヤの人々が誇っていた神殿は滅んでいきます。
このような素晴しい建物が破壊されてしまうなんて、それはもうこの世の終わりだ、と弟子たちは考えました。そこでイエスに質問します。イエスがオリーブ山で宮に向かって座っておられると、ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかにイエスに尋ねた。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのですか。また、それらがすべて終わりに近づくときのしるしは、どのようなものですか。弟子たちの質問は、すなわち私たちの質問でもあります。現代を生きている私たちも、とてつもなく大きな事件や災害などが起こると、もうこの世の終わりか、と思うのです。この世界が破局へと向かっているという恐れを抱くのは、当時の人々も私たちも全く同じです。さらに今日は、環境破壊、それに伴う動植物の危機と絶滅。多発する自然災害や世界戦争勃発への恐れなど、当時よりももっと深刻かもしれません。ですから弟子たちの問いは、そのまま現代を生きる私たちの問いでもあり、イエスの終わりの日に対する答えは、すなわち私たちへの答えでもあるのです。イエスの弟子たちは、終わりの日に関して、いつ起こるのか?またその終わりが起こる前に、どのようなしるし、すなわち兆候や前兆があるのか?という二点を尋ねました。 ところでなぜ彼らは世の終わりに関してイエスに質問をしたのでしょうか。それは世の終わりの破局がいつ訪れるのか、その前兆、しるしを見極めて、前もってその時期を知っておきたいからだと思います。あと百年は起きないのであれば、当面は安心していられます。明日かもしれないし百年後かもしれない、それが分からないから不安なのです。だから「終わりの日」を前もって知ることによって、心を定めたい、そして何かをしたい。またはまだ先だと安心したい。そのような心理が働くのだと思います。それに対してイエスは、世の終わりにはこういうことが起こる、ということをお語りになりますが、開口一番に語られたことが警告です。「人に惑わされないように気をつけなさい。」そして以下、現代を生きる私たちも含め、終わりの日には色々な人々から、また現象などから惑わされることになる、また惑わされるであろう、様々な原因が語られていきます。一つは「人を惑わす者」の出現です。「わたしの名を名乗る者が大勢現れる。つまり偽の救い主、偽キリストが現れて、私こそ救い主だ、と言って人々を集めるようになる。また、「戦争のうわさや実際の戦争」です。これも世の終わりの一つのしるしとされています。しかし偽の救い主はイエスの時代にもいましたし、戦争や戦争のうわさなども、それがなかった時代はありません。ですからイエスの時以来、これらのしるしは常に存在しているのであって、世の終わりを知る手がかりにはなりません。またイエスご自身も、「そういうことは必ず起こりますが、まだ終わりではありません。」と語っておられます。 そしてイエスは次の8節において、民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、あちこちで地震があり、飢饉も起こるからです。と、語られ、私たちに襲いかかってくるこのような大きな苦しみについてイエスは続けて、これらのことは産みの苦しみの始まりです。と言われました。既に世の終わりのしるしは現れており、終わりは始まっているが、いつ終わりが来るのか、それまでにどれだけの苦しみを経なければならないのかは誰も知ることができない、とイエスはおっしゃったのです。つまりイエスは、終わりの時がいつ来るのか、その時期を知りたいという弟子たちの願いに答えることを拒まれました。弟子たちは、そして私たちも、終わりの時がいつ来るのかを知って、それに応じて自分の計画を考えたいと願います。終わりを知って、これからの人生の見通しを立てたいと思います。しかしイエスはそのような見通しを立てることをお許しになりません。私たちは世の終わりが何時来るかを知ることはできないのです。つまり将来のこと、これから起こることを、自分の計画の中に組み入れてしまうことはできないということです。なぜ神は、すなわちイエスは、終わりの日を私たちに示して下さらないのでしょうか。 もちろん父なる神だけが終わりの日をご存知であるということもそうですが、それ以上に、もし私たち人間が世の終わりの日が分かったならば、私たちの生活は途端に秩序を失ってしまうでしょう。終わりの日を逆算しながら財産を使い果たし、終わりの日があるのだから今を精一杯楽しもうと刹那的になる。時々新興宗教が「何月何日に世の終わりが来る」と言ってそれを信じた信徒たちが仕事を止め、結婚を諦め、財産を処分し、時に自殺するということがあります。イエスはそのようなことを私たちに望んでおられません。ですから私たちは与えられ、備えられた一日一日を、精一杯、誠実に、そして忠実に仕えていく必要がありますし、逆に言えば、私たちはそれしかできないのではないでしょうか。私たちは、神を自分の計画や予定の中に組み入れてしまうことはできません。 神の計画を前もって知り、それをコントールしようとするならば、それは神を支配したいという願いであり、人間の傲慢です。神のみ業は、人間が計算したり、自分の計画の中に組み込んだりするべきものではなく、神の計画が最善であると信じ、委ねること。待つこと。私たちはそれしかできません。
そしてイエスは、私たちがどのように終わりの日を待ち望んだら良いか、出産の譬えを通して教えて下さっています。出産の前には母親が苦難、痛みを経験しなければなりませんが、その苦しみの先には子どもの誕生と言う、この上ない喜びが待っています。そのように、終わりの日の前には人間が様々な痛み、苦しみ、苦難を経験しなければなりませんが、同じように、その先には喜びがあり、希望があるということをイエスは示しておられます。 では、この世の終わりの先には何が待っているのでしょうか。マルコの福音書1章で見て来ましたが、イエスがこの世界に飛び込んで来られた時、神の国が近づいた、神の国が到来したと言われました。神の国とはイエスが統治される世界であり、イエスの統治そのものです。神の国はイエスと共に到来しました。しかし人類はアダムが神に反逆して以来、すなわち罪を犯してから、罪と、罪から来る死と、サタン、悪魔の支配下に入ってしまいました。人類はこの罪を受け継ぎ、罪から来る神への不従順と不信仰から神を失い、神を失うことによって自分も失いました。自分は何者なのかという、自分のアイデンティティーも失いました。なぜ生まれ、何のために生きるのかという使命も分からなくなってしまいました。さらに神の絶対的な規準を失うことによって、一人一人が勝手に自分の規準を持つようになり、それが最善であると考えるようになり、違う規準を持つ他の人々と争い、時に殺し合うようになりました。また見えない神に頼れなくなった人間は、家や土地、お金などの財産、そして自分の能力、自分の名誉・名声、健康や趣味などの楽しみ、家族など、目に見えるものに頼るようになりました。それらは素晴らしいこと、大切なことですが、ユダヤの人々が誇りとし、希望としていた神殿が滅び、無くなってしまったように、やがて崩れ去る時がやってきます。なぜなら人間が頼りにするものは永遠には続かない物だからです。一切の物には終わりがある。終わりが来る。自分のいのちも含め、そしてこの世、この世界にすら終りの時が来る、崩れ去る時が訪れます。
平行箇所のマタイの福音書24章3節においては、弟子たちはこのようにイエスに尋ねています。
イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちがひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのですか。あなたが来られ、世が終わる時のしるしは、どのようなものですか。」世の終わりのしるしに関して、マルコの福音書にはない、「あなたが来られ」ということばがあります。これはイエスが再びこの世界に来られる再臨を表しています。イエスご自身も、ご自身が裁き主としてこの世界に再び来られる再臨のことを、旧約聖書の預言から引用されています。後から見ていきますが、先の26節にある「人の子が雲に乗って来る」という表現は、旧約聖書、ダニエル書7章に記されている預言を、イエスが引用されたものです。旧約聖書は、イエスの初臨、すなわちクリスマスにおける誕生やイエスの歩み、そして私たち人間の罪の身代わり、贖いである十字架なども預言していますが、それは全て成就、実現しました。イエスが再びこの世界に戻って来られる再臨とその再臨の時に起こることを除いて、旧約聖書に記されている預言は全て成就、実現していると言っても良いでしょう。従ってイエスが再びこの世界に戻って来る、それも裁き主として来られることも、必ず実現します。そしてイエスが再臨される時、この混乱した世界、痛みと苦しみ、罪と死とサタンの支配にある古い世界は世の終わりと共に終わりを告げ、イエスの愛と調和、平和と平安の中での統治、すなわち完成した神の国の支配が、イエスを信じる者たちと共に始まります。しかしその神の国が完成する前、すなわち終わりの日が訪れる前は、イエスが語られるような「産みの苦しみ」が必ずあります。 出産の時に伴う痛み、陣痛は断続的に起こります。そして出産が近づくにつれて、その間隔が小さくなり、また痛みが激しくなります。そして出産の直前、その痛みは最高潮に達し、子どもが産まれます。 そのように神が定められた終わりの日の前には、そのしるしであり、前兆である、「私こそキリスト、救い主だ」と語り出す偽キリストの出現。また戦争のうわさや実際の戦争の勃発。大きな地震のような自然災害、また飢饉。それらは頻度も、また強さも増していきます。 しかし終わりの日がいつ起こるか、またどのように起こるかは、私たちには分かりません。知るよしもありません。 聖書が、そしてイエスが明確に語っておられることは「世の終わりが必ず来る」ということ。しかし「世の終わりがいつ来るかわからない」ということの二つです。イエスご自身も終わりの日の訪れを父なる神に委ねられ、いつ起こるか分からないとおっしゃいました。そして日々、父なる神に与えられていた使命を全うされました。その最たるものが、そしてとてつもなく大きな使命が、私たち人類のために十字架にかかる、ということでした。 私たちはこの世の終わりにおける苦難を、そして痛みを恐れます。 しかし私たちが終わりの日に関して、どのように心配しても、どんなに不安に思っても、また何か備えようと思っても、それを軽減したり、回避することはできません。
私たちにできる唯一のこと。それはイエスのことばに信頼し、イエスに委ねることだけです。
私たち人間の、「終わりの日」への恐れ、不安、そして時に好奇心に働きかけて、偽キリストや、サタンが私たちを欺いてきます。そこでイエスは言われました。「人に惑わされないようにしなさい」
イエスの警告に耳を傾けつつ、産みの苦しみの先にある、神の救い、永遠のいのち、すなわち神の国の完成があるということを、本日も心に留めたいと思います。そして日々自分にできること、自分に与えられているなすべきこと-使命を忠実に、また誠実に行う者でありたいと願います。
祈ります
「終わりの日のしるし」
それで、イエスは彼らに話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。」