2026/7/26(日) 「誰よりも多く投げ入れた人」マルコ12:38~44 庄司牧師

2026年7月26日 マルコの福音書12:38~44「誰よりも多く投げ入れた人」
イエスはその教えの中でこう言われた。「律法学者たちに気をつけなさい。彼らが願うのは、長い衣を着て歩き回ること、広場であいさつされること、会堂で上席に、宴会で上座に座ることです。また、やもめたちの家を食い尽くし、見栄を張って長く祈ります。こういう人たちは、より厳しい罰を受けます。」それから、イエスは献金箱の向かい側に座り、群衆がお金を献金箱へ投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持ちがたくさん投げ入れていた。そこに一人の貧しいやもめが来て、レプタ銅貨二枚を投げ入れた。それは一コドラントに当たる。イエスは弟子たちを呼んで言われた。「まことに、あなたがたに言います。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れている人々の中で、だれよりも多くを投げ入れました。皆はあり余る中から投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っているすべてを、生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから。」
本日の箇所はイエスの警告から始まっています。「律法学者たちに気をつけなさい!」その問題点をイエスは指摘されていきます。彼らは長い衣を着て歩き回ること、そして人々から広場であいさつされることを好みました。 長い衣は彼らが律法学者であることを示すシンボルです。その衣をまとっていると、人々が尊敬して頭を下げるのです。また「広場で挨拶される」ことも彼らが願うことでした。町の広場は市、市場が立つ所でもあり、様々な市民生活が営まれる場です。そこに集まる多くの人々から特別な人として尊敬され、みんなに「先生」と呼ばれて挨拶されることを、律法学者たちは好みました。 彼らは、会堂で上席に座ること、そして宴会で上座に座ることも好きでした。「会堂の上席」というのは、ユダヤ人たちの礼拝の場であるシナゴーグと呼ばれる会堂において、聖書を納めた箱の前の席のようです。 一般の人々の席と向かい合っており、礼拝を司る人の席です。 現在の教会、また礼拝堂で言えば、講壇の上の説教者や司式者の席と思えばよいでしょう。 律法学者たちは常にその席に座ることを望みました。彼らは宴会の場でも上座を求めました。結婚式の披露宴で言えば、主賓のテーブルに席を求めるようなものです。
人々が神への信仰を持っていれば、その神のことばを取り扱っている律法学者たちが尊敬されるのは自然なことであり、当然のことだったかもしれません。しかしいつのまにか人々の尊敬から傲慢になり、人々からの尊敬を得ることを重んじ、求めるようになっていった。始めは彼らも神を信じ、神に喜ばれ、人にも喜ばれるように律法を教えていたかもしません。しかしいつしか「先生、先生」と呼ばれるようになり、神からの見えない、また感じない評価よりも、人からの見える、また感じる評価を求めるようになっていったと思われます。
またイエスは律法学者たちに対して、彼らはやもめたちの家を食い尽くし、見栄を張って長く祈ると指摘されました。 「やもめ」は多くの場合、「みなしご」と並んで社会的弱者、貧しい者の代表として聖書に出てきますが、この場合の「やもめ」は、夫の遺産を受け継いだ金持ちのやもめ、未亡人たちのことです。律法学者たちはそういうやもめたちに寄付をさせる-いわゆる慈善の行為をさせて金を出させていたようです。そのような行為はユダヤの人々にとって大変立派なこととして尊ばれ、尊敬されることでした。そしてやもめだけでなく、そのように彼女たちを指導した律法学者たちの名声も高まりました。そのことを受けてイエスは、彼らはやもめたちの財産を食い尽くしている、と言われたのだと思います。 また律法学者たちの祈りは、深さより長さを特徴としていました。人前で長い祈りをすることで、あの人は敬虔な人、信仰深い立派な人だという評判を得ようとしました。祈りの対象は神です。しかし彼らは自分を立てるために言わば神を利用したのと同じです。彼らは最後にその刈り取りをしなければならないでしょう。イエスは平行箇所のマタイの福音書23章の中で、彼らのことを「白く塗った墓」などと言われました。外見は綺麗にしているが、中は汚れでいっぱいであるとの皮肉であり、批判です。そしてこの23章の中において、イエスが繰り返し使われたことばがありました。「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。」23章の中で7,8回使われています。 彼ら律法学者たちは、見た目には私たちが驚くほどに厳格な、正しい、聖い生き方をしていました。しかしそういう彼らの聖さ、正しさとは、自分自身を誤魔化すための行いであり、演技であり、偽善だ、とイエスはおっしゃるのです。
一方、人の目を意識し、人の目を気遣い、人の目によって自分を評価していた律法学者たちとは異なる、人の評価に全く左右されずに生きている一人の女性が登場します。 エルサレム神殿の内庭には献金箱が設置されていました。宮に出入りする礼拝者が任意、自分の意志をもって自由にお金を投げ入れました。神に献げるお金を入れる箱です。 一説によればこの献金箱の傍らには祭司がいて、人々がそこに入れる献金を記録に留め、そして周囲の人々に聞こえるように、「誰々さんがいくら献金なさいました」と告げていたのではないかと言われています。 
この時イエスは、その献金箱の向かいに座って、人々がそれにお金を入れる様子を見ておられました。「多くの金持ちがたくさん投げ入れていた。」とあります。祭司がその人たちの名前と献金額を読み上げる、すると人々の間から「おお」と感嘆の声が上がる。そのようにして金持ちたちは大いに面目を施していました。そのような中、一人の貧しいやもめがやって来ました。この人は先程の、律法学者たちに食い物にされるような金持ちのやもめではなく、「貧しいやもめ」です。そのやもめが献金箱に、「レプタ銅貨二枚、すなわち一コドラント」を投げ入れました。一レプタは一デナリの128分の一です。一人の労働者が一日働いてもらう賃金が一デナリでした。ですからこの献金がかなり小額だったことが分かります。 献金の記録係がこの献金を人々に告げた時、金持ちたちの献金を報告するのとは、全く違ったのではないかと想像します。恐らく冷めた、冷たい声だったのではないでしょうか。また、回りの人々は軽蔑の目で彼女を見、またことばに出したかもしれません。「それだけか!」「そんなはした金を捧げるなんて、何を考えているんだ!」「あきれた」「よく恥ずかしくないね」
もし彼女が人目を気にしていたとしたら、とてもこの額を献げることはできなかったでしょう。逆に言えば彼女は人目を気にしなかったからこそ、人からの評価によって自分を量ることをしなかったからこそ、この献金を献げることができたと言うことができるのではないでしょうか。 つまり彼女は人との比較から解放されていた、ということです。金持ちたちが多額の献金をしている中でレプタ銅貨二枚を差し出すことは、人の目を気にして、人と自分を見比べて生きている者には到底出来ないことです。「あの人のあんな立派な献げ物の後で、こんなみすぼらしい、ちっぽけなものを献げるなんて恥ずかしい」と思ってしまうでしょう。しかし彼女は周囲の冷たい目や軽蔑のまなざしに関わらず、レプタ二枚を献げました。それは彼女が人の目、人からの評価、評判によってではなく、ただ神を見つめ、ただ神に認められる、神に喜んで頂ければそれでいい、そのように「神中心」に生きていたからに他なりません。彼女はただ、神を見つめていた人でした。人の目を気にすることや、人と自分を見比べて喜んだり悲しんだりすることから解放されている彼女は、乏しい生活費を全部、全て、神に献げてしまいました。それは、自分の生活を全て神の恵み、養い、導きにお委ねしたということです。人と自分を比べて、自分は全てを神に献げているといった、誇るような思いは少しもありません。もしそのような思いが少しでもあったならば、このような献げ物はできなかったでしょう。ですから彼女が生活費も含めた全部を献げたということは、彼女が人の目から自由であるだけでなく、自分で自分の安心を確保しようという思いからも完全に自由であった、ということができるでしょう。だからこそ、神の恵みに、神の支えに、神の備えに全てをお委ねすることができました。このやもめは、翌日からどのようにして生きていくかという思い煩いはありませんでした。ここまで神を信頼し、全てを委ねる生き方ができるとしたら、それはどれほど平安であり、豊かで、幸せな人生ではないでしょうか。
その彼女の姿勢を、態度を、お金を通して自分を献げるという献身を、イエスが感動をもって弟子たちに語られています。イエスは弟子たちを呼んで言われた。「まことに、あなたがたに言います。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れている人々の中で、だれよりも多くを投げ入れました。皆はあり余る中から投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っているすべてを、生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから。」イエスは、このやもめが誰よりも多く投げ入れたと語られました。「まことに」とは、原語のギリシャ語で「アーメン」です。真実です、本当です、という意味であり、私たちが日々の祈りでも用いていることばです。イエスは「アーメン、真実を告げる」と言ってから、彼女は誰よりも多く投げ入れたと語られました。生活費を全て献げるほどに彼女は主なる神を愛し、また日々の生活を支えて下さるという絶対的な信頼、神への揺るぎない信頼を持って生きていました。
ところで本日の箇所は誰に語られているのでしょうか。12章の37節の後半には、「大勢の群衆が、イエスの言われることを喜んで聞いていた。」とあります。この直前には、律法学者たちをはじめとした宗教指導者たちが、イエスとの論争に完全に敗北した姿が描写されています。律法学者たちの姿をいつも見ていた当時の人々は、彼らの鼻持ちならない姿にうんざりさせられながらも、しかし律法の教師である彼らを尊重しないわけにはいかない、という思いでいたようです。 ですから人々にとって、イエスが律法学者たちの悪意ある問いに真正面から答え、完全に論破する姿は、本当に胸のすくものだったでしょう。しかしイエスはその群衆に向かって「律法学者に気をつけなさい」とおっしゃったのです。「気をつけなさい」ということは、あなたがたも律法学者たちと同じようになってしまわないように注意しなさい、ということです。そしてこれは現代における私たち一人一人も同じ、イエスからの警告であると思います。
私たちはこの社会の中で、人々と共に生きている存在です。一人で生きていくことはできません。人と共に生きている以上、人の目が気になり、人が自分をどう評価しているかを気にすることも、また人に評価され、褒められることを求めていくことも、自然なことです。つまりこの律法学者たちの姿は、人間の自然な姿を描き出していると言うことができます。そしてそのような生まれつきの、すなわち罪深い私たちの自然な姿、ありのままの私たち人間の姿というのは、人の目を気にして生き、その中において優越感と劣等感、誇りや妬みが分ち難く存在している、偽善に満ちた、決して幸せとは言えない姿だと思います。しかしそのような本来の自然な人間の姿から解放されている人がいました。それがこの貧しいやもめです。人々から蔑まれるような、馬鹿にされるような額の献金しかしなかった、またはできなかった彼女は、人の目を気にするというところから解放され、人の目によって自分が評価されるということからも解放され、ただ、神に喜ばれたいという一心で、自分の持っている精一杯を献げるような女性でした。彼女が人の目を気にすることから解放され、優越感と劣等感、誇りと妬みの狭間で苦しむことから解放されているのは、主なる神を信じていたからです。神を知る-神がどういうお方であるかということを知り、神との交わりの中で神の人格を知り、経験していく中で培われていった信仰、信頼から来ています。 そして彼女は人ではなく、神が喜ばれること、すなわち神の御心を求め、また神への感謝、神が自分を支えて下さるという確信、保証、安心、平安などを持つに至りました。それらがなければ、自分の生活費全部を献げることはできません。神なら自分を支えて下さる。日々養って下さる。神に対する信仰と信頼が、生活費全てを献げるという、目に見えるにかたちになりました。そしてこの献金の場面にイエスが来られました。イエスは彼女が貧しいということ。二レブタが彼女の全財産だということを知っておられました。そして彼女の心、献身の思いを知っておられ、感心されました。
この一連の出来事-やもめの心、信仰、神に対する信頼、行動は聖書に記されました。 名前も出て来ない一人のとても貧しい女性が、神を信じ、信頼する素晴らしい信仰者として、素晴らしい生き方の模範として、また神は全てを知っておられるという例として、そしてイエスがそのような人を愛しておられるという証として、聖書に記されることになりました。 イエスがこれから十字架に架かっていくという時に、イエスがこの献金箱の前におられたこと。この女性が現れ、持っているものを全て献げたこと。その場面をイエスが見、イエスが語られ、そして聖書に記されていること。これら全ては決して偶然ではないと思います。それは現代を生きる私たちも含め、全て聖書を読む一人一人に語られている出来事です。
イエスはこの数日後、私たち人間の罪を全て背負って、十字架にかかって死なれようとしています。それは律法学者のように自分の能力や財産に頼り、時に誇り、人の目を気にして生きていく私たち人間のために、またそのような歪みの元となった罪のため、罪の身代わりのためでした。
イエスは、このやもめがレブタ銅貨二枚を、心を込めて神に献げるその姿を、じっと見つめておられました。そのまなざしは愛と慈しみに満ちていたでしょう。その同じ温かな眼差しが、イエスを信じる私たち一人一人にも注がれています。
私たちが献げる小さな祈り。私たちの献げもの。隣人に対する、また会ったことも、話をしたこともない人々のために祈る小さな執り成し。そして神への感謝と讃美。 それがどんなにちっぽけであっても、私たちはこのやもめのように、人の目、人の評価から自由になって、人からの誉れを越えて、自分の力、自分の持っているものを、心をこめて神にお献げして生きることができます。そのように私たちを変えて下さるイエスに、またその愛の眼差しに、今日も感謝しつつ、イエスと共に歩んでいきたいと思います。
祈ります
「誰よりも多く投げ入れた人」
この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れている人々の中で、だれよりも多くを投げ入れました。皆はあり余る中から投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っているすべてを、生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから。