2026年10月25日 マルコの福音書13:28~32「消え去ることのないイエスのことば」
いちじくの木から教訓を学びなさい。枝が柔らかくなって葉が出て来ると、夏が近いことが分かります。同じように、これらのことが起こるのを見たら、あなたがたは、人の子が戸口まで近づいていることを知りなさい。まことに、あなたがたに言います。これらのことがすべて起こるまでは、この時代が過ぎ去ることは決してありません。天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。ただし、その日、その時がいつなのかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。父だけが知っておられます。 (マルコの福音書 13:28-32 SKY17)
世の終わりが描写されている、小黙示録と呼ばれているマルコの福音書の13章を見ていますが、次回が13章の最後になります。イエスは本日の箇所で、「これらのことが起こるのを見たら人の子が戸口まで近づいていることを知りなさい。」と言われました。「これらのこと」とは、「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉も起こる」ということや、キリストに従う者が「みなの者に憎まれます」という迫害や、神殿に荒らす憎むべきものが立つようになる、などを指しています。荒らす憎むべきものとは、旧約聖書、ダニエル書に預言されていることをイエスが引用されながら、イエスの時代からは約40年後に起こることになる、ローマ軍のエルサレム侵攻のことを指していました。 イエスの預言の通りエルサレムはローマ軍に囲まれ、兵糧攻めに遭い、餓死者が数え切れないほど出、最後はローマ軍の剣によって全滅しました。エルサレムは陥落し、ローマ軍の手に落ちました。エルサレム神殿も完全に破壊され、今は見ることも出来ません。世界史ではユダヤ戦争と呼ばれる出来事でした。
壮麗な神殿を誇り、神への礼拝がおろそかになり、形式主義に陥っていたユダヤの人々に対する、神の裁きでした。またこのエルサレム神殿陥落というイエスの預言は、不信仰な人々に対する、いや、全ての人類が直面することになる、世の終わりの神の裁きと重なられています。つまりエルサレムの破滅の預言、そしてその成就、実現は、終わりの日に起こる全世界の神の裁きの予兆、その中の一つのしるしに過ぎない、ということです。
その終わりの日を予期するために、イエスはいちじくの木から学ぶようにとおっしゃいました。 いちじくの木から教訓を学びなさい。枝が柔らかくなって葉が出て来ると、夏が近いことが分かります。イスラエルの人々にとって身近な植物であったオリーブが一年中葉をつけているのに対し、いちじくは冬になると枯れてしまったかのように葉を落とし、夏になると一転して青々とした葉を茂らせます。人々はいちじくの木が徐々に葉をつけていく様を見て、夏の訪れを感じることができました。日本に住む私たちも、植物の変化を見ることによって季節の変化を感じます。自然の変化が時を告げるしるしとなっています。 イエスはそのように、いちじくを実物教育として、終わりの時、イエスが再臨される「その日」「その時」を悟るようにと語られました。「これらのこと」すなわちこのような世の終わりの前兆、しるしを見るならば、「あなたがたは、人の子が戸口まで近づいていることを知りなさい」とイエスは言われました。春夏秋冬というように、季節が巡ることは円の動きであり、サイクルです。一方人の子が戸口まで近づいている。これは円の動きというよりも直線的な動きです。なぜなら季節は巡って来ますが、神が天地万物を創造されてから、イエスが再びこの世界に来られる終わりの日までの時間、そして歴史は、再び巡って来ない一度限りのものだからです。もう二度とは巡って来ない歴史的、直線的出来事である終わりの時が近づいていることを、いちじくから知り、また悟りなさいとイエスは言われます。
さきほど、万物には始まりがあり、終わりがあるとお話しました。その始まりは聖書の初めの書簡、創世記1章1節に記されています。「はじめに神が天と地を創造された」天と地、すなわち神が創造された全ての被造物には、始まりがあることが示されています。この万物を造り出された存在が、無限の存在である「神」です。
また神が有限ではなく、無限の存在であることが、旧約聖書の第二巻、創世記に続く出エジプト記に記されています。イスラエルの民をエジプトでの奴隷の苦しみから救い出すために、主なる神は指導者としてモーセをお立てになりました。この時モーセは、自分を遣わそうとしている神の名前を尋ねました。この時主なる神は、「わたしはある」と答えられました。出エジプト記3章14節にある宣言です。この宣言は、「わたしは過去から存在し、現在も存在し、未来も存在し続ける。そのような無限の神である。」それがこの宣言の意味です。
新約聖書においてはイエスが、同じような神宣言をされています。マタイの福音書の14章の中での出来事です。イエスに強いて船に乗せられた弟子たちは、一晩中向かい風のために波に悩まされ、向こう岸に中々辿りつけませんでした。その時イエスは、湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれました。 イエスを見た弟子たちは、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげました。恐怖を覚え、あわてふためいている弟子たちに対してイエスは、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と語りかけられました。 この「わたしだ」というのは、「幽霊などではない、わたしだよ」という意味ですが、原語のギリシャ語では「エゴー・エイミー」と表現されており、英語で言えば「Iam.」です。この文脈では「わたしだ」と訳して良いのですが、このイエスが言われたことばはもっと深い意味を持っています。それは、モーセに現れた主なる神の宣言と同じ意味合いを持っているからです。すなわちイエスご自身が言われた、「エゴ―・エイミー」は、イエスご自身が過去から存在し、現在も存在し、未来も存在し続ける、無限の神であるという宣言です。このようにイエスは、旧約聖書、出エジプト記においてモーセに現れ、ご自身を無限の存在として現わされた主なる神と等しい神、ご自身を無限の神であると宣言されました。
この無限の神であるイエス・キリストが言われたことばをもう一度お読みします。
天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。
前の訳では、「天地は消え去る」ということばを、「天地は滅びる」、また、天地が「過ぎ去る」と訳している聖書もあります。30節には、この時代は過ぎ去るとあります。闇と光が共存する時代、この世の悪が力を持っているように思える、不条理が支配する時代を意味すると考えられます。
しかしこの様な時代は過ぎ去って行く。また30、31節の中で、天地万物が消え去る、過ぎ去り、滅びていくということばが三度も用いられ、それが必ず起こるということが強調されています。一方わたしのことばは決して消え去ることがないとイエス言われました。これは消え去り、過ぎ去り、滅んでいく時代や万物に対して、イエスことばが永遠に残るということの対比です。
わたしたちの世界は滅びて行く。わたしたちの営みは過ぎ去って行く。しかしそのような中にあっても決して滅びないものがある。それが、イエスが言われた「わたしのことば」すなわちイエスが語られたこと、新約聖書に記されている、イエスがお語りになった一つ一つのことばはもちろん、それらを含め、聖書全体を通して、神が人間に語りかけておられるすべてのことばを指しています。「神のことば」という時、ただ聖書に記録された文言を思い浮かべるだけでは不十分です。
神のことばが私たち人間一人一人に語りかけられている、一人として無関係ではない、ということを知り、気付くことが大切です。
また神は、すなわちイエスは、「そのことば」を通して、愛をもって私たち一人一人に関わろうとして下さっている、という事実に目を向けることが大切です。イエスが宣言されたこと、約束されたこと、それはことばによってであり、目に見えませんが、その全てが私たちに対する愛で貫かれています。その見えないイエスのことばとイエスの愛が、目に見えるものとなったものがあります。それが十字架です。 新約聖書、コリント人への手紙第一1:18節にはこのようなことばがあります。「十字架のことばは、滅びに至る者たちにとっては愚かであっても、救いを受ける私たち一人一人にとっては神の力です。」十字架のことばそれは目に見えないイエスの「ことば」と、目に見える「十字架」が織り合わさった表現です。
イエスはことばをもって多くのことをなさいました。ことばだけで寝たきりの人が起き上がり、萎えた手がピンと伸びる。ことばだけで崩れてしまった皮膚が再生する。ことばだけで嵐が一瞬にして鎮められ、水は葡萄酒に変えられる。ことばだけでパンや魚が一瞬にして何百倍、何千倍に増え、ことばだけで死人も甦らせました。それら全ての癒やしや奇蹟は、病に苦しむ人々のための癒やしであり、空腹や疲れている人々の肉体の必要を満たすことであり、弟子たちにご自分が神であるということを示すためであり、罪と、罪から来る死を悲しんでいる人のためでした。イエスがことばによってなされた根底の全てには、私たち人間一人一人に対する愛がありました。そしてことばの伴ったイエスの愛は、十字架と深く結びついています。
癒しや奇蹟は素晴らしい出来事です。神の御名が褒めたたえられる、驚くべきことです。しかし十字架は違います。人間が考え出した中で最も残酷な刑であり、恥辱と長い痛みが伴うものです。そしてその刑は、本来犯罪人が架けられるものでした。その十字架に、「神の一人子が架けられる」人類史上、最も悲惨で、残酷な出来事でした。しかしその十字架の内容を知る時、意味が分かる時、そしてその十字架を信じ受け入れる時、人類史上最も悲惨な十字架は、信じ受け入れた人にとっては、最も素晴らしいものに変えられます。それは十字架を信じることだけが、偉大な神と接点を持つことができる、また、罪ある人間が、愛と憐みの神に立ち返ることができる、唯一の道だからです。
さきほど、ことばをもってイエスが多くのことをなされた、その例を挙げました。素晴らしい、栄光に富んだこと、驚くべきことです。しかしイエスとの接点がなければ、すなわちイエスとの関わりがなければ、それは聖書に記されているただの出来事に過ぎません。「イエスはそんなに凄いことをしたの、ふーん。」で終わってしまいます。イエスと接点がないからです。しかしイエスと接点がある人が、イエスと関わりのある人が、すなわちイエスと人格的な交わりがある人がこのような癒しや奇蹟を知る時、また分かる時、どのように反応するでしょうか。「イエスは素晴らしい。そしてイエスの素晴らしい力ある業は、(私にも)して下さることだ。私の人生にも起こることだ。」それはイエスのなさった御業と、自分を結びつけることができるからです。結び付けて考えることができるからです。結び付けて感じることができるからです。その私たちをイエスと結びつける最たるもの、それが人類史上最も残酷な十字架でした。しかしイエスを信じ受け入れる時、最も悲惨な十字架は、愛に満ちた、私たち罪ある人間を救うための唯一の道であることが分かります。
目に見えないイエスのことばと、目に見える十字架。この二つに共通するのはイエスの愛です。
そして私たち人間がそのイエスの愛に応答していくのは、信仰しかありません。信仰を持ってイエスの愛に応答していく。私たちにはそれしかできません。その応答をするかしないか。それが私たち人間を真っ二つに分けます。「十字架のことばは、滅びに至る者たちにとっては愚かであっても、救いを受ける私たち一人一人にとっては神の力です。」
これは救いか-すなわち罪赦され、神と永遠を共にすることになるのか、それとも滅びか-すなわち罪がそのまま残り、その罪が妨げとなって神から永遠に引き離されることになるか、そのどちらか、ということになります。十字架が人間を二つに分けることになる。そしてこの救いと滅びが決定する日が終わりの日、すなわちイエスがこの世に主権を持って力強く再び来られる日、再臨の日です。イエスはこのように言われました。
ただし、その日、その時がいつなのかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。父だけが知っておられます。
キリストの栄光の現れ時でもある「その日」がいつであるかを、父なる神以外の誰も知らない、「子」であるイエスご自身も知らないというのは、驚くべきことではないでしょうか。終わりの日のことを知らない、または興味がないという、イエスの態度、姿勢は、イエスが父なる神に「その日」「その時」が最善な時に、最善なタイミングで起こるということを信頼され、また委ねている姿勢、態度、そして証です。そのように神に信頼する態度、姿勢を、私たちも持ちたいと願います。
イエスが再び来られる再臨の日、その日のタイミングも、神に主権があり、神の最善の時に起こるということを、信じて委ねて行くという、私たちの信仰の姿勢に関わることだからです。
私たちを愛して止まない主なるイエスが、再びこの世界に戻って来て下さいます。罪と死と、サタンが支配するこの世にあって、苦難や痛み、理不尽なことが多くあるこの世にあって、イエスが再び私たちを迎えに来て下さるとは、何と慰めと励ましに満ちていることでしょうか。
世には終わりがあるということを、イエスのことばから明確に教えられつつ、しかし一方で、その日がいつ来るかは知らされていない。私たちはこの二つのメッセージの狭間に生かされています。そのような中で、今日も、イエスの目に見えないことばと、目に見える十字架、そしてその根底にある愛に、目を留めたいと思います。いつかは天地万物が滅びることになりますが、イエスが十字架と共に語られたことば、約束は必ず実現するということに希望を置き、喜びと感謝をもって、終わりの日である今を、一日一日、共に生かされて行きたいと願います。
本日のタイトルは、「消え去ることのないイエスのことば」ですが、それに少しことばをつけ加えて、本日のみ言葉の取り次ぎを終わりたいと思います。その新しいタイトルとは、
「消え去ることのないイエスのことばと愛」です。
お祈りします
天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。
いちじくの木から教訓を学びなさい。枝が柔らかくなって葉が出て来ると、夏が近いことが分かります。同じように、これらのことが起こるのを見たら、あなたがたは、人の子が戸口まで近づいていることを知りなさい。まことに、あなたがたに言います。これらのことがすべて起こるまでは、この時代が過ぎ去ることは決してありません。天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。ただし、その日、その時がいつなのかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。父だけが知っておられます。 (マルコの福音書 13:28-32 SKY17)
世の終わりが描写されている、小黙示録と呼ばれているマルコの福音書の13章を見ていますが、次回が13章の最後になります。イエスは本日の箇所で、「これらのことが起こるのを見たら人の子が戸口まで近づいていることを知りなさい。」と言われました。「これらのこと」とは、「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉も起こる」ということや、キリストに従う者が「みなの者に憎まれます」という迫害や、神殿に荒らす憎むべきものが立つようになる、などを指しています。荒らす憎むべきものとは、旧約聖書、ダニエル書に預言されていることをイエスが引用されながら、イエスの時代からは約40年後に起こることになる、ローマ軍のエルサレム侵攻のことを指していました。 イエスの預言の通りエルサレムはローマ軍に囲まれ、兵糧攻めに遭い、餓死者が数え切れないほど出、最後はローマ軍の剣によって全滅しました。エルサレムは陥落し、ローマ軍の手に落ちました。エルサレム神殿も完全に破壊され、今は見ることも出来ません。世界史ではユダヤ戦争と呼ばれる出来事でした。
壮麗な神殿を誇り、神への礼拝がおろそかになり、形式主義に陥っていたユダヤの人々に対する、神の裁きでした。またこのエルサレム神殿陥落というイエスの預言は、不信仰な人々に対する、いや、全ての人類が直面することになる、世の終わりの神の裁きと重なられています。つまりエルサレムの破滅の預言、そしてその成就、実現は、終わりの日に起こる全世界の神の裁きの予兆、その中の一つのしるしに過ぎない、ということです。
その終わりの日を予期するために、イエスはいちじくの木から学ぶようにとおっしゃいました。 いちじくの木から教訓を学びなさい。枝が柔らかくなって葉が出て来ると、夏が近いことが分かります。イスラエルの人々にとって身近な植物であったオリーブが一年中葉をつけているのに対し、いちじくは冬になると枯れてしまったかのように葉を落とし、夏になると一転して青々とした葉を茂らせます。人々はいちじくの木が徐々に葉をつけていく様を見て、夏の訪れを感じることができました。日本に住む私たちも、植物の変化を見ることによって季節の変化を感じます。自然の変化が時を告げるしるしとなっています。 イエスはそのように、いちじくを実物教育として、終わりの時、イエスが再臨される「その日」「その時」を悟るようにと語られました。「これらのこと」すなわちこのような世の終わりの前兆、しるしを見るならば、「あなたがたは、人の子が戸口まで近づいていることを知りなさい」とイエスは言われました。春夏秋冬というように、季節が巡ることは円の動きであり、サイクルです。一方人の子が戸口まで近づいている。これは円の動きというよりも直線的な動きです。なぜなら季節は巡って来ますが、神が天地万物を創造されてから、イエスが再びこの世界に来られる終わりの日までの時間、そして歴史は、再び巡って来ない一度限りのものだからです。もう二度とは巡って来ない歴史的、直線的出来事である終わりの時が近づいていることを、いちじくから知り、また悟りなさいとイエスは言われます。
さきほど、万物には始まりがあり、終わりがあるとお話しました。その始まりは聖書の初めの書簡、創世記1章1節に記されています。「はじめに神が天と地を創造された」天と地、すなわち神が創造された全ての被造物には、始まりがあることが示されています。この万物を造り出された存在が、無限の存在である「神」です。
また神が有限ではなく、無限の存在であることが、旧約聖書の第二巻、創世記に続く出エジプト記に記されています。イスラエルの民をエジプトでの奴隷の苦しみから救い出すために、主なる神は指導者としてモーセをお立てになりました。この時モーセは、自分を遣わそうとしている神の名前を尋ねました。この時主なる神は、「わたしはある」と答えられました。出エジプト記3章14節にある宣言です。この宣言は、「わたしは過去から存在し、現在も存在し、未来も存在し続ける。そのような無限の神である。」それがこの宣言の意味です。
新約聖書においてはイエスが、同じような神宣言をされています。マタイの福音書の14章の中での出来事です。イエスに強いて船に乗せられた弟子たちは、一晩中向かい風のために波に悩まされ、向こう岸に中々辿りつけませんでした。その時イエスは、湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれました。 イエスを見た弟子たちは、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげました。恐怖を覚え、あわてふためいている弟子たちに対してイエスは、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と語りかけられました。 この「わたしだ」というのは、「幽霊などではない、わたしだよ」という意味ですが、原語のギリシャ語では「エゴー・エイミー」と表現されており、英語で言えば「Iam.」です。この文脈では「わたしだ」と訳して良いのですが、このイエスが言われたことばはもっと深い意味を持っています。それは、モーセに現れた主なる神の宣言と同じ意味合いを持っているからです。すなわちイエスご自身が言われた、「エゴ―・エイミー」は、イエスご自身が過去から存在し、現在も存在し、未来も存在し続ける、無限の神であるという宣言です。このようにイエスは、旧約聖書、出エジプト記においてモーセに現れ、ご自身を無限の存在として現わされた主なる神と等しい神、ご自身を無限の神であると宣言されました。
この無限の神であるイエス・キリストが言われたことばをもう一度お読みします。
天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。
前の訳では、「天地は消え去る」ということばを、「天地は滅びる」、また、天地が「過ぎ去る」と訳している聖書もあります。30節には、この時代は過ぎ去るとあります。闇と光が共存する時代、この世の悪が力を持っているように思える、不条理が支配する時代を意味すると考えられます。
しかしこの様な時代は過ぎ去って行く。また30、31節の中で、天地万物が消え去る、過ぎ去り、滅びていくということばが三度も用いられ、それが必ず起こるということが強調されています。一方わたしのことばは決して消え去ることがないとイエス言われました。これは消え去り、過ぎ去り、滅んでいく時代や万物に対して、イエスことばが永遠に残るということの対比です。
わたしたちの世界は滅びて行く。わたしたちの営みは過ぎ去って行く。しかしそのような中にあっても決して滅びないものがある。それが、イエスが言われた「わたしのことば」すなわちイエスが語られたこと、新約聖書に記されている、イエスがお語りになった一つ一つのことばはもちろん、それらを含め、聖書全体を通して、神が人間に語りかけておられるすべてのことばを指しています。「神のことば」という時、ただ聖書に記録された文言を思い浮かべるだけでは不十分です。
神のことばが私たち人間一人一人に語りかけられている、一人として無関係ではない、ということを知り、気付くことが大切です。
また神は、すなわちイエスは、「そのことば」を通して、愛をもって私たち一人一人に関わろうとして下さっている、という事実に目を向けることが大切です。イエスが宣言されたこと、約束されたこと、それはことばによってであり、目に見えませんが、その全てが私たちに対する愛で貫かれています。その見えないイエスのことばとイエスの愛が、目に見えるものとなったものがあります。それが十字架です。 新約聖書、コリント人への手紙第一1:18節にはこのようなことばがあります。「十字架のことばは、滅びに至る者たちにとっては愚かであっても、救いを受ける私たち一人一人にとっては神の力です。」十字架のことばそれは目に見えないイエスの「ことば」と、目に見える「十字架」が織り合わさった表現です。
イエスはことばをもって多くのことをなさいました。ことばだけで寝たきりの人が起き上がり、萎えた手がピンと伸びる。ことばだけで崩れてしまった皮膚が再生する。ことばだけで嵐が一瞬にして鎮められ、水は葡萄酒に変えられる。ことばだけでパンや魚が一瞬にして何百倍、何千倍に増え、ことばだけで死人も甦らせました。それら全ての癒やしや奇蹟は、病に苦しむ人々のための癒やしであり、空腹や疲れている人々の肉体の必要を満たすことであり、弟子たちにご自分が神であるということを示すためであり、罪と、罪から来る死を悲しんでいる人のためでした。イエスがことばによってなされた根底の全てには、私たち人間一人一人に対する愛がありました。そしてことばの伴ったイエスの愛は、十字架と深く結びついています。
癒しや奇蹟は素晴らしい出来事です。神の御名が褒めたたえられる、驚くべきことです。しかし十字架は違います。人間が考え出した中で最も残酷な刑であり、恥辱と長い痛みが伴うものです。そしてその刑は、本来犯罪人が架けられるものでした。その十字架に、「神の一人子が架けられる」人類史上、最も悲惨で、残酷な出来事でした。しかしその十字架の内容を知る時、意味が分かる時、そしてその十字架を信じ受け入れる時、人類史上最も悲惨な十字架は、信じ受け入れた人にとっては、最も素晴らしいものに変えられます。それは十字架を信じることだけが、偉大な神と接点を持つことができる、また、罪ある人間が、愛と憐みの神に立ち返ることができる、唯一の道だからです。
さきほど、ことばをもってイエスが多くのことをなされた、その例を挙げました。素晴らしい、栄光に富んだこと、驚くべきことです。しかしイエスとの接点がなければ、すなわちイエスとの関わりがなければ、それは聖書に記されているただの出来事に過ぎません。「イエスはそんなに凄いことをしたの、ふーん。」で終わってしまいます。イエスと接点がないからです。しかしイエスと接点がある人が、イエスと関わりのある人が、すなわちイエスと人格的な交わりがある人がこのような癒しや奇蹟を知る時、また分かる時、どのように反応するでしょうか。「イエスは素晴らしい。そしてイエスの素晴らしい力ある業は、(私にも)して下さることだ。私の人生にも起こることだ。」それはイエスのなさった御業と、自分を結びつけることができるからです。結び付けて考えることができるからです。結び付けて感じることができるからです。その私たちをイエスと結びつける最たるもの、それが人類史上最も残酷な十字架でした。しかしイエスを信じ受け入れる時、最も悲惨な十字架は、愛に満ちた、私たち罪ある人間を救うための唯一の道であることが分かります。
目に見えないイエスのことばと、目に見える十字架。この二つに共通するのはイエスの愛です。
そして私たち人間がそのイエスの愛に応答していくのは、信仰しかありません。信仰を持ってイエスの愛に応答していく。私たちにはそれしかできません。その応答をするかしないか。それが私たち人間を真っ二つに分けます。「十字架のことばは、滅びに至る者たちにとっては愚かであっても、救いを受ける私たち一人一人にとっては神の力です。」
これは救いか-すなわち罪赦され、神と永遠を共にすることになるのか、それとも滅びか-すなわち罪がそのまま残り、その罪が妨げとなって神から永遠に引き離されることになるか、そのどちらか、ということになります。十字架が人間を二つに分けることになる。そしてこの救いと滅びが決定する日が終わりの日、すなわちイエスがこの世に主権を持って力強く再び来られる日、再臨の日です。イエスはこのように言われました。
ただし、その日、その時がいつなのかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。父だけが知っておられます。
キリストの栄光の現れ時でもある「その日」がいつであるかを、父なる神以外の誰も知らない、「子」であるイエスご自身も知らないというのは、驚くべきことではないでしょうか。終わりの日のことを知らない、または興味がないという、イエスの態度、姿勢は、イエスが父なる神に「その日」「その時」が最善な時に、最善なタイミングで起こるということを信頼され、また委ねている姿勢、態度、そして証です。そのように神に信頼する態度、姿勢を、私たちも持ちたいと願います。
イエスが再び来られる再臨の日、その日のタイミングも、神に主権があり、神の最善の時に起こるということを、信じて委ねて行くという、私たちの信仰の姿勢に関わることだからです。
私たちを愛して止まない主なるイエスが、再びこの世界に戻って来て下さいます。罪と死と、サタンが支配するこの世にあって、苦難や痛み、理不尽なことが多くあるこの世にあって、イエスが再び私たちを迎えに来て下さるとは、何と慰めと励ましに満ちていることでしょうか。
世には終わりがあるということを、イエスのことばから明確に教えられつつ、しかし一方で、その日がいつ来るかは知らされていない。私たちはこの二つのメッセージの狭間に生かされています。そのような中で、今日も、イエスの目に見えないことばと、目に見える十字架、そしてその根底にある愛に、目を留めたいと思います。いつかは天地万物が滅びることになりますが、イエスが十字架と共に語られたことば、約束は必ず実現するということに希望を置き、喜びと感謝をもって、終わりの日である今を、一日一日、共に生かされて行きたいと願います。
本日のタイトルは、「消え去ることのないイエスのことば」ですが、それに少しことばをつけ加えて、本日のみ言葉の取り次ぎを終わりたいと思います。その新しいタイトルとは、
「消え去ることのないイエスのことばと愛」です。
お祈りします
天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。