イエス

2026/1/11(日)「イエスさまを信じるとどうなりますか?」Ⅰヨハネ5:13 庄司牧師

2026年1月11日 子ども信仰問答 問37
「罪を悔い改めてイエスさまを信じると、私たちはどうなりますか。」
「イエスさまを信じるとどうなりますか?」招詞 ヨハネの福音書20:31
答 私たちの罪はゆるされ、神の子どもとされ、永遠のいのちが与えられます。
“神の御子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書いたのは、永遠のいのちを持っていることを、あなたがたに分からせるためです。”ヨハネの手紙第一 5章13節
月の第二日曜です。いつものように子ども信仰問答からお話をしていきたいと思っています。
本日の聖書の箇所は手紙です。手紙には宛先があり、また目的があります。それは個人であれ、公であっても同じです。相手に、または読者に愛や感謝を伝える、訓戒を与える、などです。
ヨハネの手紙の目的は何でしょうか?ヨハネは何を読者、この手紙を読む人に願っているのでしょうか? ヨハネの手紙の目的、そして願いが本日の箇所に表されています。
神の御子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書いたのは、永遠のいのちを持っていることを、あなたがたに分からせるためです。「これらのこと」と記されています。それは、イエスを信じた人がすでに永遠のいのちを持っていることが分かるために書かれたこの手紙、5章全てのこと、です。 つまりイエスを信じて罪から救われた人は全て、永遠のいのち持っていることを確信して欲しい、良く分かって欲しい、という目的で書かれた手紙だ、ということです。
また、著者のヨハネはもう一つ書簡を記しています。 それはヨハネの福音書です。著者のヨハネは手紙と同じように、ヨハネの福音書においても21章全体を一つのことばでまとめています。
それが本日の証詞、礼拝への神からの招きのことばで読んで頂いた、ヨハネの福音書20:31節です。これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。ヨハネが福音書を書いた目的は、福音書に記されていることを読んだ読者が、イエスを信じて救われ、イエスによっていのちを得るということです。
この20章31節の直前に、イエスの弟子の一人でトマスという人物が登場します。イエスが十字架の死から復活されて、最初に弟子たちの前に顕われた時、彼はその場にいませんでした。彼は他の弟子たちが、イエスが復活したという証言を信ぜず、このように言いました。「私はその手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません。」
しかしイエスは再び弟子たちの前に現れ、その時トマスにこのように言われました。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」イエスはトマスが他の弟子たちに言ったこと、また、トマスの心も全て見抜いておられることが分かります。そしてトマスはイエスに答えました。「私の主、私の神よ。」イエスをまことの神であるあると信じたトマスに、イエスはこのように言われました。
「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」トマスはイエスの復活を疑いましたが、イエスの復活を実際に目で見て信じました。
新約聖書の中の人物で、イエスを信じなかったばかりか、更にクリスチャンを迫害していた人物がいます。パウロです。 彼はイエスの声を聞き、様々な奇蹟を通して回心、その行いと態度を悔い改めて、イエスを神であると信じた人です。パウロが記したローマ人への手紙10:17節において、彼はこのように語っています。前の聖書訳、第三版でお読みします。「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」イエスの弟子たち、また当時の人々は、イエスから直接イエスのことばを聞くことができました。パウロは、イエスのことば、すなわち福音を聞くことから、イエスを信じる信仰が始まると記しました。 イエスの時代に生きていた人々は、実際に神であるイエスを見、その声を直接聞くことができる特権に与っていましたが、現代を生きる私たちは、当時存在しなかった新約聖書を読むことができる特権に与っています。 旧約聖書に預言され、指し示されている救い主、イエスがどのように誕生され、どのように歩まれ、どのように死なれ、どのように復活されたかが分かる、旧新約聖書の連続性を見ることができます。 つまり現代を生きる私たちは、イエスが語られたことが記されている「聖書」を読み、また聞き、イエスに対する信仰を持つことができる特権に与っている、ということです。イエスに対する信仰はこのように、イエスのみ言葉に聞き、読み、触れるところから始まります。
しかし人は、永遠のいのちに関わることが分からないと、どうなるでしょうか?この地上に生きるいのちのみを見て、そこに意味を見つけようとしていくと、どのようになるでしょうか?
そのことが良く表されているのが旧約聖書、伝道者の書だと思います。著者はダビデ王の息子、ソロモンだと考えられていますが、彼は神から知恵が与えられていました。 それでソロモンは学問の世界を追求しました。しかし虚しさが残りました。そこで快楽を求め、実際に味わいました。しかしやはり虚しさが残りました。 そして自分の邸宅の事業にとりかかりました。また金銀を集め、しもべとたくさんのそばめも得ました。しかし彼は伝道者の書、1章1~3節でこのように告白しています。「エルサレムの王、ダビデの子、伝道者のことば。空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。日の下でどんなに労苦しても、それが人に何の益になるだろうか。 始めは神を信じ、従っていたソロモンでしたが、だんだんと神から離れ信仰を失っていく半面、私たちが経験できないような、あらゆる快楽を経験しました。しかしその全てが虚しかったと告白しています。地上でのいのちのみに焦点を当てている歩みは、その場その場、その日その日が楽しく、充実していれば良いという歩みになり、結局は全て虚しいという結論に至ってしまうことが、ソロモンの人生に表わされています。 一方さきほど少し触れた、パウロの歩みはどうだったでしょうか。
テモテへの手紙第二、4章6~8節で、パウロはこのように書き送っています。私はすでに注ぎのささげ物となっています。私が世を去る時が来ました。私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。あとは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。その日には、正しいさばき主である主が、それを私に授けてくださいます。私だけでなく、主の現れを慕い求めている人には、だれにでも授けてくださるのです。 ローマ皇帝ネロの迫害により捕らえられたパウロが、殉教の直前、ローマの牢獄から書き送った手紙に書き記された、彼の遺言とも言えるメッセージです。 肉体的な死が最後ではなく、死んだ後に主なるイエスに面と向かって出会うことができ、しかもイエスから直接報いを受けることを確信しているパウロの姿があります。 パウロはエリートな律法学者でした。しかしその地位も名誉も立場も捨てて、イエスが神である、救い主であると人々に宣べ伝えるようになりました。キリスト者を迫害する者から、同胞のユダヤ人たちから迫害され、いのちを狙われ、最後は殉教して行く者となりました。しかし彼の歩みと人生は、永遠のいのちを持っている確信のゆえであり、証そのものでした。イエスの直近の弟子、12人の11人が殉教していきましたが、永遠のいのちを持っている確信がなければできないことです。 12月の最後の礼拝で、シラス兄に証をして頂きました。彼が持っていたプロのバレーボール選手になるという夢と目標が、自分自身をイエスから引き離していきました。 彼は最終的にプロになることを諦めましたが、神を抜きに送っていた生活は、彼がイエスとの関係を持っていた時にはなかった、死に対しての恐れを抱かせるようになっていきました。チャペルニュースにその証が載っています。しかし彼は挫折をきっかけに、再びイエスの下に帰ってきました。そして今、シラス兄は死への恐れを持っていません。それは永遠のいのちを確信できるようになったからです。永遠のいのちを持っていると言う確信は日々の歩み、考え方、生活、そして人生を変えて行く力となりました。 このメッセージを考えながら、私自身はどうかと問いかけました。もし私に永遠のいのちを持っているという確信がなかったら、どうなるだろうか? 最初に浮かんだのは、11月にある召天者記念礼拝や、告別式、イースターの後で行われる墓前礼拝など、語ることができなくなるだろうと思いました。 しかし私は永遠のいのちを持っている確信があるゆえに、イエスを信じている人々が再び、神の国で再会できるという希望を、確信を持って語ることができます。 
そして永遠のいのちを持っているというこの確信は、私自身-例えば理不尽なこと、肉体的な痛み、生活の中で起こる様々な試みや苦難などにも、意味を与えています。それは、永遠に続くいのちを持っているという確信、そしてその視点から、今の状況やあり方見つめることができるからです。今の歩みが永遠の時の中で起きていることとして考えるならば、意味のない試練や苦難はないと思っています。永遠のいのちを持っているという確信があるかないか。私たちの人生を大きく左右するものです。イエスは疑うトマスにこのように語られました。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」現代を生きる私たちは、肉眼で直接、イエスを見ることはできません。しかしイエスが語られたことば、聖書が与えられています。それを否定することもできれば、受け入れることもできます。私たち次第です。 受け入れた者は、すなわちイエスを神であり救い主であると信じるならば、罪赦され、永遠のいのちが与えられる、すなわち救われます。それは神の約束だからです。そしてイエスを信じ、すでに救われた人が、永遠のいのちが与えられていることを確信するのもやはり、イエスが語られたことばを信じ、受け止めるかどうかにかかっています。 本日の聖句には「永遠のいのちを持っていることを、あなたがたに分からせるためです。」と記されています。この「持っている」ということばは、現在形が使われています。 イエスを信じてすでに永遠のいのちを受けた信仰者が、イエスに対する同じ信仰によって、「永遠のいのち」を、確信を持って「持ち」続けるように、いうことが表されているようです。 そしてこれはヨハネだけでなく、神が、すなわち永遠のいのちを与えて下さったイエスご自身が、願っておられることでもあります。
イエスを信じる人は全て永遠のいのちを持っている。 この確信を、本日のみ言葉を聞いた全ての人が持つようにと、願います。祈ります。
「イエスさまを信じるとどうなりますか?」
答え 私たちの罪はゆるされ、神の子どもとされ、永遠のいのちが与えられます。
神の御子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書いたのは、永遠のいのちを持っていることを、あなたがたに分からせるためです。

「イエス様はどのような人間になりましたか?」

2024年10月13日(日) 主日礼拝

聖書:イザヤ書 7章14節

説教:庄司牧師

賛美♪
 栄光イエスにあれ 新聖歌 165番

応答の賛美♪
 冠も天の座も 讃美歌21 521番

頌栄🌈
 み栄あれや  讃美歌21 28番

今月のワーシップ♪
 わたしを守る方  作詞:長沢崇史 作曲:長沢崇史 & GRP

🌈聖書引用
 新日本聖書刊行会 聖書 新改訳2017 (新改訳聖書センター)

 

「私は望む」

2024年6月2日(日) 聖餐式礼拝

聖書:マルコの福音書 1章40~45節

説教:庄司牧師

🌈聖書引用
 新日本聖書刊行会 聖書 新改訳2017 (新改訳聖書センター)

 

「安全第一!?」

2024年2月25日(日) 主日礼拝

聖書:ダニエル書 1章6~17節

説教:クリス宣教師

賛美♪
 イエスよ十字架に     新聖歌    101番 
 わが主イエスよ、ひたすら 讃美歌21  483番
 天のみ民も        讃美歌21   29番

🌈聖書引用
 新日本聖書刊行会 聖書 新改訳2017 (新改訳聖書センター)

 

「永遠の定め」

2022年 12月4日 アドベント第二主日礼拝

聖書:ミカ書 5章1~6節

説教:庄司牧師

🌈聖書引用
 新日本聖書刊行会 聖書 新改訳2017 (新改訳聖書センター)

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