2026/4/19(日)「神にはできる」マルコ11:20~25 庄司牧師

2026年4月19日 マルコの福音書11:20~25「神にはできる」
さて、朝早く、彼らが通りがかりにいちじくの木を見ると、それは根元から枯れていた。ペテロは思い出して、イエスに言った。「先生、ご覧ください。あなたがのろわれた、いちじくの木が枯れています。」イエスは弟子たちに答えられた。「神を信じなさい。まことに、あなたがたに言います。この山に向かい、『立ち上がって、海に入れ』と言い、心の中で疑わずに、自分の言ったとおりになると信じる者には、そのとおりになります。ですから、あなたがたに言います。あなたがたが祈り求めるものは何でも、すでに得たと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。また、祈るために立ち上がるとき、だれかに対し恨んでいることがあるなら、赦しなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの過ちを赦してくださいます。」 
少し前回のお話を振り返りたいと思います。イエスがエルサレムに入城した翌日の月曜日に、 このようなことがありました。マルコの福音書11:12~14 翌日、彼らがベタニアを出たとき、イエスは空腹を覚えられた。葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、その木に何かあるかどうか見に行かれたが、そこに来てみると、葉のほかには何も見つからなかった。いちじくのなる季節ではなかったからである。するとイエスは、その木に向かって言われた。「今後いつまでも、だれもおまえの実を食べることがないように。」弟子たちはこれを聞いていた。この後すぐに続いた出来事が「宮きよめ」でした。そして本日の聖書箇所は、宮きよめの次の日に起きた出来事です。本日の聖書箇所に示されていることをまとめるならば、「神の偉大さと、その偉大な神に対する真実な信仰の大切さ」だと思います。そのことを心に留めつつ、共に見て行きたいと思います。
いちじくが枯れているのを見たペテロは、「今後いつまでも、だれもおまえの実を食べることがないように。」とイエスがいちじくに命じられたことを、イエスがいちじくを呪ったと表現しました。 イエスが命じられただけで枯れたことから、それは奇蹟、負の奇蹟と呼べるかもしれません。
イスラエルのいちじくは、一般的に一年に2回実をつけます。始めになる初なりの実はパーグと呼ばれ、過越の祭りの時期である4月頃に実がなります。前の年に伸びた枝につく小さな実で、葉が出るのとほぼ同時に現れ、あまり甘くはありませんが食用にできます。それに対して2回目になる実はエテナと呼ばれ、その年に新しく伸びた枝につく、甘くて大きな実です。イエスがいちじくを呪われたのは、十字架にかかる過ぎ越しの祭りの頃の4月頃で、本日の聖書箇所の季節と一致しています。従ってこのいちじくの実は「パーグ」がなっているはずでしたが見当たりませんでした。13節においてはこのいちじくが、「葉が茂った」と描写されています。葉が豊かにあったこのいちじくの木は、表面は、見た目は立派でした。しかし実がないということは、その木にとっては中身がないのと同じことです。 見た目が立派で中身が伴わないもの。それと似た出来事が、イエスがエルサレム神殿を清められた、「宮きよめ」です。 イエスがエルサレムの神殿の境内に入られ、そこで行われていることを見た時、売り買いしていた人々を追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返されました。イエスはこの時彼らを、強盗の巣だと言われたほどに怒られた出来事です。そこで礼拝していた人々は、見た目は神に対して信仰深く見えました。生贄の犠牲を供え、神殿にもきちんと献金をしていました。 しかし商人たちは神殿で商売をすることによって異邦人、すなわちユダヤ人以外の礼拝を邪魔し、貧しいユダヤの人々から高い手数料を取っていました。そして神殿を管理し、神への礼拝を取り次ぐ者であった祭司長たちや律法学者たちは、その商人に神殿で商売することを許可し、儲けの一部を、それもかなりのものを自分たちのものとしていました。彼らは貧しい人たちに無関心でした。またユダヤの巡礼者も、簡単に生贄を手に入れることができるということで、神殿で売られていた動物の生贄を、気軽に買い求めていました。見た目は立派で実のなっていないいちじくの木は、同じく見た目は敬虔で、信仰深く見せている人々の中身がない。すなわち神への信仰、礼拝、信頼よりも、ただ儀式だけを優先させ、心も中身も伴っていない人々と同じでした。またイエスはこの時、ご自身が神殿の主、礼拝されるべき神であることを、旧約聖書のイザヤ書から引用され、そこに預言されている救い主は自分のことであるという、言わば神宣言をなされました。しかし人々は自分たちの商売、利益を優先し、目の前の救い主、メシアであるイエスを受け入れませんでした。よってイエスがいちじくの木を枯らした目的は、実質的な信仰を持たない、すなわち信仰の実を結んでいない人々、すなわちイスラエルの一般の人々や、宗教指導者たちへの裁きと警告を、視聴覚教材として弟子たちに見せられた、ということです。イエスは命じただけで枯れてしまったいちじくを指して、「神を信じなさい」と言われました。「神を信じなさい」とは、直接的にはイエスの弟子たちに語られたことばです。色々な思惑はあったにせよ、彼らは既に全財産を捨てて、イエスに従うほどの信仰を持っていました。その彼らに、イエスはさらに神への真実な信仰を求めたと言えます。従って神を信じる私たちの態度も、真実で偽りのない信仰を持つことが、イエスから求められていると思います。 
そしてイエスは本日の聖書箇所の中で、信仰の対象である神の主権、偉大な力を、23節から25節で強調されています。またここには、神の偉大な力と共に、その神を信じる私たちの信仰との関係、関わりが教えられています。まことに、あなたがたに言います。この山に向かい、『立ち上がって、海に入れ』と言い、心の中で疑わずに、自分の言ったとおりになると信じる者には、そのとおりになります。ですから、あなたがたに言います。あなたがたが祈り求めるものは何でも、すでに得たと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。この箇所を指して、「山をも動かす信仰」と表現されることがあります。私たちが大きな信仰、揺るがない信仰を持つべきだということが言われていますが、このことばが意味すること、また焦点を当てているのは、神を信じる人間の側です。つまり「山をも動かす信仰」と言われるこの箇所の主体は、信じる人間の側です。
しかしイエスがここでフォーカス、焦点を当てておられるのは神の側です。『立ち上がって、海に入れ』とあります。神は天地万物を創造された時、光すら、命じるだけで造られました。 たった一言で地球の動物や植物、私たち人間はおろか、全宇宙を創造された神ですから、山を動かすことなど何の造作も要らず、何の難しいこともありません。また神はそのような創造を、御自身のご計画として一方的に実現されました。 従って神は偉大であり不可能なことはない、そして神は全てのものや全ての事に対して主権を持っておられる、と言うことが23節から25節にかけて描写されています。この神が偉大であり、全てのことに対して主権を持っておられるということを前提に、そして根拠に、私たちは全能の神を信頼して、祈り求めることができます。全ての物事の主体、そして主権は被造物である私たち人間ではなく、神にあることをいつも忘れてはいけません。
従って「心の中で疑わずに、自分の言ったとおりになると信じる者には、そのとおりになります。」とイエスが言われたことを、私たちの信心の力が不可能を可能にする要因であるかのように、誤解してはいけないと言うことです。つまり不可能を可能にするのは、私たちの信仰以前に、創造主である神であり、神ご自身のみわざであるということです。そして「信仰」は、その全能の神と、神の御業を私たちに結びつける接点のようなものです。 また主体が人間の側にあるように思える「信仰」それ自体も、私たちの中から生まれる、何らかの功績のようなものではなく、神ご自身からの賜物、ギフトであることが聖書に記されています。 ですから私たちは神の偉大さに心を留め、その偉大な神が全てにおいて主権を持っておられることを受け止め、信頼し、謙虚に祈り求めることが大切ではないでしょうか。ヨハネの手紙第一5:14,15節にこのようなみ言葉があります。何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。私たちが願うことは何でも神が聞いてくださると分かるなら、私たちは、神に願い求めたことをすでに手にしていると分かります。御心に従って願うなら、神は聞いて下さると記されています。ですから私たちが神に祈り、願い、求める時、それがただの欲望や自分中心ではなく、神の御心であるかどうか。神の主権を心に留めているかどうか。神の素晴らしさ、栄光が表されることであるのかどうか。また神が喜ばれることなのかどうか。そのようなことをいつも心に留め、祈り求めて行く必要があると思います。1990年代後半、韓国のクリスチャンの青年たちが、聖書にある「ヨルダン川の奇跡(ヨシュア記)の出来事」を文字通り信じ、「自分も同じような信仰を持てば、神が川を止めてくださる」と考え、増水していたヨルダン川に入りました。しかし水は止まることなく、何人かの青年が激流に流されて溺死しました。痛ましい事故ですが、ここに二つの問題が示されています。一つ目は聖書の文脈の無視です。ヨシュア記に記されている奇跡は、神がイスラエルという「民族」に対して与えられたものであり、歴史的約束に基づくもの、それも一回限りの出来事です。それが現代を生きる自分たちにも起こるという、聖書解釈の問題がありました。また聖書には「あなたの神である主を試みてはならない」という警告があります。自然の摂理を無視して超自然的な力を期待する行為は信仰ではなく、神を試す行為であり、自分の信仰の誇示、誇るという高慢にも繋がります。「聖書の記述をどのように解釈し、現代の生活に適用すべきか」と考えさせる事故でした。偉大な神を恐れかしこむ。畏怖の念を持って祈り求めていく。同時に先週見ましたが、神を私たちの天の父として、親しみと尊敬を持って祈り求めていく。そしてそれが御心に適う願いであれば、神は全能の力をもってその祈りを叶えて下さる。もし祈りが聞かれないということであれば、それは御心に適っていないか、ベストのタイミングではない。または私たちがこの世における生涯、人生が終わるまでは分からない、ということもあるでしょう。 全ての出来事における主体は神であり、主権も神にある。ということをいつも心に留めつつ、祈り求める必要があると思います。そしてイエスはこの文脈においては唐突に感じられることを語られました。また、祈るために立ち上がるとき、だれかに対し恨んでいることがあるなら、赦しなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの過ちを赦してくださいます。」 本日の聖書箇所は、「神の偉大さと、その偉大な神に対する真実な信仰の大切さ」が示されています。そのことは、ここでイエスが語られた赦しについても同じです。 見せかけの信仰を持っている人々がいました。彼らは神殿で動物の生贄を捧げ、献金もしていました。 彼らが生贄を神に捧げたのは、自分たちの罪を神に赦してもらうことが目的でしたから、彼らの願いの中心は「赦し」でした。しかし彼らは「これだけ捧げているのだから、私の罪は赦されるだろう。これだけ多く捧げたのだから、神は私の願いを叶えてくれるに違いない。」「神は私の罪を見逃し、私に裁きが及ぶことはない。」神の主権、神の恵みから出発するのではなく、自分の行い、自分の思い、願望から出発する姿です。ですから隣人を憎んだり、異邦人を見下すということがあっても、生贄さえ捧げていれば良い、献金をしていれば大丈夫だという思いがありました。 彼らの思いは神の慈しみや恵み、神の愛や赦しとは程遠いものでした。 そのような思いを抱いている人々にイエスは、神からの罪の赦しを得たいと思うなら、真心の伴わないいけにえをささげることよりも、先ず、隣人との和解を目指すべきだと言われました。神との和解、つまり罪の赦しと、隣人との和解は切っても切り離せない関係にあるからです。それはイエスが旧約聖書に記されている律法を二つにまとめられた内容からも明らかです。大切な一つ目は、神を全力をもって愛すること、でした。そして二つ目に大切なことは、自分を愛するように隣人も愛する、ということでした。 従ってイエスに叱責された見せかけの信仰を持っていた彼らの生贄は、神に受け入れられるものではなかったことが分かります。 今イエスの公生涯の最後の1週間を見ています。イエスがエルサレムに、人々の歓喜と期待と共に入られました。しかし彼らがイエスに願ったのはただ、ローマの支配から解放してくれることだけでした。それが叶えられないと分かってからは、十字架につけろと叫ぶ暴徒に変身します。 加えて彼らは真の神を忘れ、自分の商売、自分の利益を神殿での礼拝よりも優先させました。神からの罪の赦しですら、犠牲を捧げれば大丈夫という、言わば物を使って神と取り引きをし、また自分の行いに満足するような者たちでした。 それは今も、現代を生きる私たちも同じではないでしょうか。自己中心に生き、神を無視し、神に敵対して歩んでいます。また自分の良い行いによって満足しているような者たちでもります。 貪欲に支配され、強盗の巣になってしまっているのは、神の選びの民、イスラエルだけではなく、現代を生きる私たち一人一人でもあると思います。全ての人類は、神の民として、神を礼拝する者として創造されましたが、罪によって堕落してしまいました。本来であれば、神の怒りと裁きを受けて、このいちじくの木のように呪われ、滅ぼされてしまうしかない者です。しかしイエスは私たちに向けられていた神の怒りと裁きを、私たちに代って引き受け、背負われ、十字架の死への道を歩んで下さいました。それは私たち全人類の罪のためでした。 旧約聖書に、木にかけられた者は神に呪われた者である、と記されています。まさにあのいちじくの木のように私たちの罪の代わりに罪そのものとなって神に呪われ、枯れてしまったのは、神の独り子イエス・キリストご自身でした。この罪の身代わりの十字架は、いちじくの木が命じられただけで枯れてしまった奇蹟、天地万物の創造の奇蹟を超え、どのような奇蹟ですら及ばないものです。それは神ご自身が、罪ある人間のためにご自分を捨てるという、愛の奇蹟だからです。この十字架の愛の奇蹟を知り、また経験する時、イエスが、すなわち神がどれだけ深く私たちを愛しておられるかが分かります。そしてその愛を受けて、本来であれば赦せないような人を赦すことが出来る時、または例え赦すことができなくとも、その人を赦していけるように願い、祈って行く時、天の父も私たちの罪を赦して下さいます。私たちが自分を傷つける人を赦し、また、欠けや弱さを持っている自分自身も赦される。その赦しも、一つの奇蹟ではないでしょうか。私たちにとって奇蹟に思えること、奇蹟に映ることも神には、天の父には何でもできる。 「神にはできる」という真実な信仰と期待を持って、私たちの必要を、また願いを、私たちの天の父にいつも祈り求めていきたいと思います。
祈ります 「神にはできる」 イエスは弟子たちに答えられた。「神を信じなさい。」