2026/5/17(日)「神のものは神に」マルコ12:13~17 庄司牧師

2026年5月17日 マルコの福音書12:13~17「神のものは神に」
さて、彼らはイエスのことばじりをとらえようとして、パリサイ人とヘロデ党の者を数人、イエスのところに遣わした。その人たちはやって来てイエスに言った。「先生。私たちは、あなたが真実な方で、だれにも遠慮しない方だと知っております。人の顔色を見ず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。ところで、カエサルに税金を納めることは、律法にかなっているでしょうか、いないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めるべきでないでしょうか。」イエスは彼らの欺瞞を見抜いて言われた。「なぜわたしを試すのですか。デナリ銀貨を持って来て見せなさい。」彼らが持って来ると、イエスは言われた。「これは、だれの肖像と銘ですか。」彼らは、「カエサルのです」と言った。するとイエスは言われた。「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい。」彼らはイエスのことばに驚嘆した。 (マルコの福音書 12:13-17 SKY17)

祭司長たち、律法学者たち、長老たちなどの宗教指導者たちはイエスに面子を潰され、批判されて来ました。それゆえイエスを捕らえて殺そうとして来ましたが、群衆を恐れて手を下すことができないでいました。彼らはイエスの言葉尻を捕えようと、またやってきました。平行所のマタイの福音書の22章には、「彼らはどのようにしてイエスをことばの罠にかけようかと相談した。」と描写されています。そして今回も悪巧みの質問をイエスに投げかけましたが、イエスがどちらを答えても窮地に追いやることができる質問でした。 彼ら宗教指導者たちは、「パリサイ人とヘロデ党の者を数人、イエスのところに遣わしました。」パリサイ人とヘロデ党の人々は対立関係にありました。犬猿の仲。パリサイ人は、ユダヤの人々が神の選民であることを強調し、旧約聖書の律法を厳格に守ることによって、神の民として誇りをもって生きていました。ですから彼らは異邦人であるローマ帝国の支配下にあり、民族としての自立性を失っていることを非常に苦々しく思っていました。また、異邦人に税を納めることは神の権威を冒涜することであると考え、反対していました。

他方ヘロデ派は、当時のガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスの取り巻きです。ヘロデの領主としての地位は、ローマ帝国の権威によって支えられていました。そのヘロデの権力によって利益を得ていた彼らは、宗教的な理想に生きるのではなく、長いものには巻かれろという現実な路線を取り、ローマの支配を受け入れて、その中でうまくやろうとしていた人々です。彼らは、ローマとの関係を親密に保つために、ローマへの納税を推進していました。ですからパリサイ人と、ヘロデ派の人々は、本来互いに反目し合う関係です。しかし両派の利害の一致、すなわちイエスを殺害するということで、一致団結しました。
彼ら宗教指導者が考えたことばの罠とは、ローマ皇帝に税金を納めることが律法に適っているかどうか、という律法に関わるものでした。ユダヤ人たちが当時最も苦痛に感じていたのは、ローマ帝国が課していた人頭税、青年から壮年に至る一人一人が、ローマに支払わなければならない税金でした。それは自分たちがローマに征服され、支配されていることを思い知らされる、屈辱的な税金でした。ですからユダヤの人々は、いつか神からの救い主、メシヤが現れてローマの支配を打ち砕き、この税金から解放してくれることへの期待がありました。従って皇帝に税金を納めるかどうかは、神の民であるユダヤの人々にとって、ローマ帝国の支配や権力を認めるか否か、という問題でもありました。この問いをイエスに投げかけることによって、彼らはイエスを追い詰めようとしています。 もしもイエスが、皇帝に税金を納めなくてよいと答えたならば、そこはヘロデ派の出番です。彼らはそのことをローマの総督に訴え出れば、イエスはローマへの反逆者として捕えられるでしょう。もしも逆にイエスが、皇帝に税金を納めなさいと答えたならば、それは同時にローマの支配を認めることになります。今度はパリサイ人の出番です。イエスは、神の民であるユダヤ人の魂をローマに売り渡している。その支配に加担している!と言われ、イエスこそメシヤではないかと期待している人々が、失望してイエスの下から去っていくでしょう。このように、どちらを答えても、イエスが窮地に陥らざるを得ない状況を、彼らは作り出しました。
しかも彼らは冷静かつ狡猾です。イエスが質問から逃げないようにしています。それが14節のことばです。「先生。私たちは、あなたが真実な方で、だれにも遠慮しない方だと知っております。人の顔色を見ず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。イエスに対する褒めことばのように聞こえますが、その後「ところで」と質問をしています。だれにも遠慮しない、人の顔色を見ない真実なお方であるあなただからこそ、この質問に答えて下さいね。逃げないで下さいよ。イエスが問いに答えざるを得ない状況を作り出し、イエスを追い込んでいます。彼らがイエスに対してこのような問いを発したのは、神の選びの民であるユダヤ人の神への忠誠と、ローマへの忠誠とは互いに両立しない、という前提があります。彼らはユダヤ人でない異教徒による政治的支配に対して、否定的な立場にいた。しかしイエスは、彼らの考えとは違うことを、銀貨に彫り込まれている肖像を通して教えられます。

イエスは彼らの欺瞞、嘘、偽善、下心を見抜いた上で、デナリ銀貨を持って来させました。デナリ銀貨はローマ帝国が発行している銀貨でした。ユダヤにおいてもそれが日常的に使われており、税金もそれによって納められていました。デナリ銀貨にはローマ皇帝、当時はティベリウスの肖像が彫られ、その名が記されていました。このように当時のデナリ銀貨には、皇帝の肖像が刻まれ、また、「ローマ皇帝は神の子である」と銘が刻まれていました。イエスはその銀貨を皆に示しながら「これは、だれの肖像と銘ですか」と問われました。それを問われれば彼らも、「カエサル、皇帝のものです」と答えざるを得ません。するとイエスは「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」と言われました。当時の感覚では、貨幣はそれを発行した支配者のものでした。従って皇帝の肖像と銘のある銀貨は、皇帝のものです。皇帝のものであるお金を皇帝に返すのだから、税金は当然納めるべきものだとイエスが婉曲的に語られたことによって、皇帝への反逆のかどでイエスを訴えようとしていた、ヘロデ派の思惑は外れました。
新約聖書、ローマ人への手紙の13章に記されていますが、神はこの地上における人間生活に秩序をもたらすために、人間的支配者を立てられて、人々を支配することを許されています。 またユダヤ人たちはローマの平和、経済、交通といったように、ローマの帝国の恩恵を受けていました。ですからその通貨で税金を納め、社会的な責任を果たすことは妥当なことであり、また必要なことであったと言えます。しかし一番は、この秩序を作られたのは神であり、神によって認められた制度に基づく納税の問題ですから、それは当然果たすべきものでした。 ここでイエスはカイザルのものはカイザルに返しなさい、つまり税金を払いなさいと言われた訳ですが、それで終わりではありませんでした。そのすぐ後に、「神のものは神に返しなさい」と続けられました。
それでは「神のもの」とは何でしょうか。旧約聖書の始めの書簡、創世記1,2章に、神の創造の御業が描写されています。人間が生きるために必要な全てを備えて下さった、神の偉大な力、主権、知恵、配慮、人間に対する愛を感じることができる箇所です。そしてこの創造の業が他の書簡にも描写されています。その一つを取り上げたいと思います。旧約聖書、詩篇の24篇、1,2節です。
「地とそこに満ちているもの 世界とその中に住んでいるもの それは主のもの。」「主が 海に地の基を据え 川の上に それを堅く立てられたからだ。」
私たちが労働して得た賃金は私たち、自分のものとなります。また何か絵を描いたり、作曲などをしても、その作品は私たちのものとなります。そうしますと、神が造られたものは神のものとなります。つまり、この世界全ては神のものであるということです。太陽も、月も、星も、地球も、動植物や、私たち人間一人一人も、です。その神のものを神に返しなさいと、イエスは言われました。私たちは今、人間としてこの世界に住み、生きています。人間としてどのように神に何かを返すとなれば、私たち人間が持っているもの全て、ということになるのではないでしょうか。私たちの体、魂、心、霊、人生、労働、愛、信仰、経験、財産など、私たちの持っているもの、全てだということになります。そしてイエスは実際に、私たちが神のものであるということを、デナリ銀貨を通して教えておられます。
イエスは皇帝の肖像が刻まれたデナリ銀貨を持って来させ、「これは、だれの肖像と銘ですか。」と尋ねられました。この「肖像」と訳された新約聖書の原語であるギリシャ語は、「エイコーン」いうことばが使われています。このことばは「肖像」だけでなく、「似姿」とも訳すことができることばです。そしてこの「エイコーン」ということばは、先ほど触れた創世記1,2章、その中でも、    1章27節-「神は人をご自身のかたちとして創造された。」というみ言葉を連想させるものです。つまり人間は神のかたちに、神の似姿に刻まれて創造されたと、創世記は語っている訳です。   皇帝の肖像、似姿を刻まれたデナリ銀貨が「カイザル、すなわち皇帝のもの」であるなら、神のかたち、神の似姿に刻まれて創造された、私たち人間は「神のもの」です。イエスは直接的にはイエスに敵対する宗教指導者たちに、ひいては私たち人間一人一人に、「あなた方は神の肖像、神の似姿を刻み込まれて、彫り込まれている存在だ。あなた方は神の作品であり、神のものだ。」と言っておられるのです。 従ってイエスが、「神のものは神に返しなさい」と彼ら宗教指導者たちに対して語られた本当の意味は、「あなたがたは神の似姿として刻み込まれた者だ。作品だ。それゆえ自分自身を神に返す生き方、神の栄光を表して生きていかなければならないのに、あなたがたはそれをしていない!」と糾弾したことになります。 イエスの答えに対して彼らは驚嘆しました。「イエスに驚嘆した」と、その時の彼らの驚きの様子が記されています。これは当時のユダヤ人たちが、人が神のかたち、神の肖像であり、神に似せて刻まれ、造られていることを知っていた、と、想像できるものです。
ですから本来私たち人間は、神の似姿を刻まれた神のものとして生きていかなければならない、ということです。神は人間を含め、全ての被造物を造られました。ですから神のものとは、天地万物全てであり、「神のもの」とされている私たち人間、ひいては私たちのいのちや人生、つまりわたしたちそのものです。ですから私たちが神に与えられている人生、賜物、時間、能力などを用いて、神の素晴らしさ、栄光を表していくことが、人間が神に創造された本来の目的です。この目的に沿えずに自分の栄光ばかり、そして自分中心に生きる時に心が虚しくなるのは、神の私たちの創造の意図に、神の御心に反する生き方をしているからだと思います。旧約聖書に記されていますが、ソロモンは大富豪でした。しかし彼は神から徐々に遠ざかり、最後は「空の空。すべては空。」という告白を、伝道者の書でしています。 どんなに地位や名誉、財産があっても心が満たされることがないというのは、神の意図に、神の目的に、神の御心に反しているからです。人間が神の肖像に、神の似姿として刻まれ、創造された、一つの証、証拠ではないでしょうか。

旧約聖書、イザヤ書49:16節に、このような有名なみ言葉があります。
「見よ、わたしは手のひらにあなたを刻んだ。あなたの城壁は、いつもわたしの前にある。」
古代、重要なことを忘れないために、自分の手のひらに文字や印を刻む習慣があったそうです。ここに登場する手は神のことを表し、手のひらに刻まれたのは直接的な文脈では、神の選びの民であるイスラエルですが、これは、私たち一人一人にも向けられていることばです。なぜなら、私たち一人一人が神のかたちに、神の肖像に、神の似姿に刻まれて、彫り込まれて創造され、いのちを吹き込まれて生きる者となったからです。またあなたの城壁、石垣は常にわたしの前にあると、神が常に私たちのために石垣となり、城壁となって守り、支えて下さっている、平安を与えて下さっていると、ここに記されています。 神は、私たちの一人一人の名前や存在を、ご自身の「手のひら」に彫り込み、刻みつけ、決して忘れることはない、いつも見守っていると、約束して下さっています。

神に覚えられている。これは私たちにとって大きな慰めと励ましです。しかも私たちはただ神に覚えられているだけではありません。神の手に刻みこまれ、その刻み込まれた私たち一人一人を、神は毎日見つめ、見守り、愛して下さっています。そればかりか、その神の愛は、神の独り子を十字架につけて私たちの罪の身代わりにさせるほどの愛です。 神が、全存在をかけて私たちを愛して下さっている。私たち一人一人にその神の愛が注がれている、尊い存在です。

食べるにも、飲むにも、何をするにも、神の栄光、神の素晴らしさを表しなさいと、使徒パウロは語りました。私たちは自分の持っている、というより、神に与えられ、委ねられた何をもって神にお返ししていくことができるでしょうか。その神の願い、御心を求めつつ、共に祈り、教えられていきたいと思います。

祈ります
「神のものは神に」
するとイエスは言われた。「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい。」
ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。(ローマ人への手紙12:1)