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2026/2/8(日)「イエスを信じる他に何か必要ですか?」ローマ書3:28 庄司牧師

2026年2月8日 問38 救われるために、イエスさまを信じるほかに何か必要ですか。
イエスを信じる他に何か必要ですか?
答 イエスさまを信じるほかに、何も必要ではありません。私たちは、ただイエスさまを信じることによって義と認められるからです。
聖書「人は律法の行いとは関わりなく、信仰によって義と認められると、私たちは考えているからです。」ローマ人への手紙 3章28節
招詞 ガラテヤ人への手紙3:26
あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神のこどもです。
本日の聖句に入る前に、少し考えて頂きたいことがあります。本日のテーマに関係しています。皆さんは「平和」と「和平」の違いをご存知でしょうか?文字がひっくり返っているというだけでなく、違いがあります。このように説明されています。「平和(へいわ)」は「争いがなく穏やかな状態」を指すのに対し、「和平(わへい)」は「争いをやめて平和な状態へと移行する過程や、そのための仲直り」を意味する。 平和は穏やかな「状態」であり、和平はその穏やかな状態へ変化していく過程である。 従って世界中の人々は、戦争や争いごとがなく、世の中が穏やかで安らかな状態である平和を願っている訳です。ですから戦争など、国々が争っていれば、平和の状態になるために、当事者の国同士が仲直りをする必要があります。そのための話合いや働きかけが和平であると言えます。 そのための実際の話合いや働きかけが、「和平交渉」とか、「和平協議」などと呼ばれます。 平和を願っている私たち人間ですが、平和をもっと願っている存在があります-神です。神は争っている全ての人々が平和になれるよう、和平への働きかけをしておられます。 では誰と誰が争っているのでしょうか?人間と人間もそうですが、もっと大きな根深い争いがあります。それは人間と神です。しかしそれは人間からの一方的な神への挑戦であり、争いであり、戦いです。いつからこの戦いが始まったのでしょうか? それは聖書の初めの書簡、創世記に記されています。人類の祖先であるアダムとエバから始まりました。
人間が一方的に神と争っている。そのことを思い巡らしている時、一つの出来事を思い出しました。                    
大学時代に動物病院でアルバイトをしていた時があります。ある時、きっかけは覚えていませんが、スタッフの人と戦争と神についての話になりました。彼女はこのように言っていました。「神がもしいるとしても、それは戦争が起こることを許しているような神だ。そんな神は信じたくない。」この時私はまだイエスに対する、神に対する信仰がありませんでしたから、「確かにそうだなぁ。」と思ったことを覚えています。 しかしこれは一種の責任転嫁です。人間が神と争っている一つの現われです。なぜなら戦争を起こしているのは人間同士だからです。 神が起こした訳ではありません。人間が持つ、自分は正しいという自己主張と、相手のものを分捕っても良いという欲望から来ています。
それではここで、聖書に目を向けて見たいと思います。聖書に登場する人物の中で、最も神に敵対し、最も神と争った人間は誰でしょうか? それはこのローマ人への手紙を書いた、パウロではないでしょうか。パウロは別の手紙、牢獄の中で書いたピリピ人への手紙の中で、自分の過去をこのように振り返っています。私は生まれて八日目に割礼を受け、イスラエル民族、ベニヤミン部族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法についてはパリサイ人、その熱心については教会を迫害したほどであり、律法による義については非難されるところがない者でした。(ピリピ人への手紙 3:5-6 ) 本日の聖句にも「律法」ということばが出て来ます。律法とは神が人間に与えられた、人間が守るべき教え、戒めです。十戒を始め、旧約聖書に記されているものです。パウロは「律法による義については非難されることがない者だった」と、自ら述べています。 パウロは旧約に記されている神の教え、戒めを努力して守ることにより、神に受け入れられようと、認められようと頑張っていた人物です。その結果、律法を守っていないどころか、十字架につけられた犯罪者と見なされていたイエスを神と信じている連中、キリスト者がどうしても許せませんでした。そこで彼はキリスト者を迫害していた訳です。自分の思いと力で律法を努力して守り、その反動からキリスト者を迫害していた人物が、パウロです。それは同時に、パウロ自身も気づいていませんでしたが、神に敵対し、神と争っていたということです。 そのパウロが、律法を守ることによっては「義」とされない。つまり神の前に正しい者と認められない、ということを悟りました。 なぜ悟ったのか。分かったのか。気付いたのか。それは個人的にイエスに出会い、個人的にイエスを神-罪を赦す救い主であると信じ、受け入れたからです。その時の様子は、新約聖書、使徒の働きの9章に描写されています。
この律法の限界を知ったパウロがなぜ、人間が神に義と認められる必要があると、本日の手紙の中で述べているのでしょうか?それは人間と神との関係が壊れ、人間と神が断絶してしまっているからです。 そして壊れてしまった人間と神との関係の原因は、人類の祖先であるアダムとエバが神に反逆し、神から離れ、罪を犯したのが原因です。 現代を生きる私たちもまた、アダムとエバの罪を、そのまま受け継いでいます。 罪によって、神の規準も、愛も、正義も、神との関係も失ってしまっています。 パウロは自分が律法をいのちがけで守って来たと言う経験を通して、人間がどんなに律法を守っても、あらゆる努力をしても、善行を積んでも、神の前に正しいとは認められない、神と断絶している溝、ギャップを埋めることは出来ないと、イエスに出会うことによって悟りました。そしてパウロは、神の前に義と、正しいと認められるには、「信仰」によってでしかない。その信仰はイエスを信じる信仰でなければならない、と、本日の手紙の中で、再三再四述べています。イエスに対する信仰を通して神の前に正しいとされる「義」について、パウロは「贖い」ということばと共に、その関係を説明してくれています。それが本日の聖句の少し前、23,24節に記されています。すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。( ローマ人への手紙 3:23-24 ) 私たちが神の前に義と認められる、正しいと認められるその根拠が「キリスト・イエスの贖い」であるとパウロはここで述べています。
贖いとは、もともと商業用語です。「買い取る」ということです。市場に行って、例えば他人の所有物である奴隷などを、代価を支払うことによって、自分のものにすることを意味します。
旧約聖書の中で例を挙げるならば、神がイスラエルをエジプトから救い出されて、ご自分の民とされた時、「わたしはあなたがたを贖った」と言われています。 新約の時代に入ると、イエス・キリストが、罪の奴隷となり、神に敵対し、神と争っている私たちのところに来てくださいました。そしてご自分のいのちを代価として払ってくださり、イエスを信じる全ての人々を、神のものとして下さいました。これが「贖い」です。 神の前に義と、正しい者と認めて下さいました。このことを「平和」と「和平」ということばにそれぞれ当てはまるならば、イエスの十字架が和平への道、方法であり、そのイエスの和平を受け入れた者に平和が訪れるということです。
和平の中身は「私はあなたの罪を十字架で身代わりに負った。あなたはそれを信じますか?受け入れますか?」という問いかけです。それを信じるか、それとも拒絶するかの選択が、私たちにあります。そして信じる者は全て、金持ちも貧乏も、男も女も大人も子どもも関係なく、神との平和を手にすることができます。 すなわちそれが、神の前に正しいとされる義であり、救いです。 神から一方的に離れ、敵対し、神と争っている罪ある人間は、本来神の愛を受ける取る価値も資格もありません。 私たちが神から好意を得られるようなものは、何一つありません。しかし神は私たちが神の前に義とされる、すなわち正しいとして下さる道,、方法を、イエスの十字架を通して与えて下さいました。それが神の恵みです。恵みとは本来、受けるに値しない者が受ける神からの愛や慈しみ、祝福であり平和です。神は私たちにいのちと成すべき使命を与えられたお方、主権者です。しかし人間は神の約束や期待を破り、裏切りました。つまり神は被害者であり、私たち人間が加害者だと言うことです。しかし神は被害者でありながら、本来であれば私たち加害者がしなければならない償いを、すべてご自分でしてくださいました。 自分の怒りを、ご自分のひとり子に下し、私たちをキリストにあって、傷のないもの、汚れのない者、責められるべきところのない者とみなして下さいました。私たちは神の前に謙り、イエスを通しての尊い贈り物である「救い」を、感謝して受け入れて歩むことができます。しかしイエスを信じて受け入れることがなければ、自分のものにはなりません。 信仰だけが、人間のためになされた神のみわざを受け取る通路です。 同じ3章の21節で、パウロはこのように記しています。「すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。そこに差別はありません。」神のみわざ、すなわち十字架を通しての救いに結びつくものは、ただ信仰だけです。 もし「信仰」ということが分かりににくいと言うことであれば、「神のみわざを全面的に受ける態度」とも言えますし、「神の真実に対する応答」と言っても良いでしょう。
イエスが私たちに与えて下さった和平への道、方法が十字架でした。そしてそれを受け取る全ての者に、神との平和が与えられます。神との平和を持つ者は、他の人との平和も持つことができます。全ての人々がイエスを受け入れ、神との平和に導かれるならば、戦争はなくなるでしょう。
神との関係が回復、修復することが、私たち人間にとって一番大切です。その平和は、イエスを信じることによって与えられる永遠のいのちと共に、永遠に続く神との愛の関係でもあります。
私たちに十字架の贖いを通して「義」と「救い」の道、方法を示され、また与えて下さったイエスに感謝しつつ、お祈りしたいと思います。 
祈ります。
救われるために、イエスさまを信じるほかに何か必要ですか。
答 イエスさまを信じるほかに、何も必要ではありません。私たちは、ただイエスさまを信じることによって義と認められるからです。ローマ人への手紙 3章28節
「人は律法の行いとは関わりなく、信仰によって義と認められると、私たちは考えているからです。」
招詞 ガラテヤ人への手紙3:26
あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神のこどもです。 

2026/1/11(日)「イエスさまを信じるとどうなりますか?」Ⅰヨハネ5:13 庄司牧師

2026年1月11日 子ども信仰問答 問37
「罪を悔い改めてイエスさまを信じると、私たちはどうなりますか。」
「イエスさまを信じるとどうなりますか?」招詞 ヨハネの福音書20:31
答 私たちの罪はゆるされ、神の子どもとされ、永遠のいのちが与えられます。
“神の御子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書いたのは、永遠のいのちを持っていることを、あなたがたに分からせるためです。”ヨハネの手紙第一 5章13節
月の第二日曜です。いつものように子ども信仰問答からお話をしていきたいと思っています。
本日の聖書の箇所は手紙です。手紙には宛先があり、また目的があります。それは個人であれ、公であっても同じです。相手に、または読者に愛や感謝を伝える、訓戒を与える、などです。
ヨハネの手紙の目的は何でしょうか?ヨハネは何を読者、この手紙を読む人に願っているのでしょうか? ヨハネの手紙の目的、そして願いが本日の箇所に表されています。
神の御子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書いたのは、永遠のいのちを持っていることを、あなたがたに分からせるためです。「これらのこと」と記されています。それは、イエスを信じた人がすでに永遠のいのちを持っていることが分かるために書かれたこの手紙、5章全てのこと、です。 つまりイエスを信じて罪から救われた人は全て、永遠のいのち持っていることを確信して欲しい、良く分かって欲しい、という目的で書かれた手紙だ、ということです。
また、著者のヨハネはもう一つ書簡を記しています。 それはヨハネの福音書です。著者のヨハネは手紙と同じように、ヨハネの福音書においても21章全体を一つのことばでまとめています。
それが本日の証詞、礼拝への神からの招きのことばで読んで頂いた、ヨハネの福音書20:31節です。これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。ヨハネが福音書を書いた目的は、福音書に記されていることを読んだ読者が、イエスを信じて救われ、イエスによっていのちを得るということです。
この20章31節の直前に、イエスの弟子の一人でトマスという人物が登場します。イエスが十字架の死から復活されて、最初に弟子たちの前に顕われた時、彼はその場にいませんでした。彼は他の弟子たちが、イエスが復活したという証言を信ぜず、このように言いました。「私はその手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません。」
しかしイエスは再び弟子たちの前に現れ、その時トマスにこのように言われました。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」イエスはトマスが他の弟子たちに言ったこと、また、トマスの心も全て見抜いておられることが分かります。そしてトマスはイエスに答えました。「私の主、私の神よ。」イエスをまことの神であるあると信じたトマスに、イエスはこのように言われました。
「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」トマスはイエスの復活を疑いましたが、イエスの復活を実際に目で見て信じました。
新約聖書の中の人物で、イエスを信じなかったばかりか、更にクリスチャンを迫害していた人物がいます。パウロです。 彼はイエスの声を聞き、様々な奇蹟を通して回心、その行いと態度を悔い改めて、イエスを神であると信じた人です。パウロが記したローマ人への手紙10:17節において、彼はこのように語っています。前の聖書訳、第三版でお読みします。「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」イエスの弟子たち、また当時の人々は、イエスから直接イエスのことばを聞くことができました。パウロは、イエスのことば、すなわち福音を聞くことから、イエスを信じる信仰が始まると記しました。 イエスの時代に生きていた人々は、実際に神であるイエスを見、その声を直接聞くことができる特権に与っていましたが、現代を生きる私たちは、当時存在しなかった新約聖書を読むことができる特権に与っています。 旧約聖書に預言され、指し示されている救い主、イエスがどのように誕生され、どのように歩まれ、どのように死なれ、どのように復活されたかが分かる、旧新約聖書の連続性を見ることができます。 つまり現代を生きる私たちは、イエスが語られたことが記されている「聖書」を読み、また聞き、イエスに対する信仰を持つことができる特権に与っている、ということです。イエスに対する信仰はこのように、イエスのみ言葉に聞き、読み、触れるところから始まります。
しかし人は、永遠のいのちに関わることが分からないと、どうなるでしょうか?この地上に生きるいのちのみを見て、そこに意味を見つけようとしていくと、どのようになるでしょうか?
そのことが良く表されているのが旧約聖書、伝道者の書だと思います。著者はダビデ王の息子、ソロモンだと考えられていますが、彼は神から知恵が与えられていました。 それでソロモンは学問の世界を追求しました。しかし虚しさが残りました。そこで快楽を求め、実際に味わいました。しかしやはり虚しさが残りました。 そして自分の邸宅の事業にとりかかりました。また金銀を集め、しもべとたくさんのそばめも得ました。しかし彼は伝道者の書、1章1~3節でこのように告白しています。「エルサレムの王、ダビデの子、伝道者のことば。空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。日の下でどんなに労苦しても、それが人に何の益になるだろうか。 始めは神を信じ、従っていたソロモンでしたが、だんだんと神から離れ信仰を失っていく半面、私たちが経験できないような、あらゆる快楽を経験しました。しかしその全てが虚しかったと告白しています。地上でのいのちのみに焦点を当てている歩みは、その場その場、その日その日が楽しく、充実していれば良いという歩みになり、結局は全て虚しいという結論に至ってしまうことが、ソロモンの人生に表わされています。 一方さきほど少し触れた、パウロの歩みはどうだったでしょうか。
テモテへの手紙第二、4章6~8節で、パウロはこのように書き送っています。私はすでに注ぎのささげ物となっています。私が世を去る時が来ました。私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。あとは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。その日には、正しいさばき主である主が、それを私に授けてくださいます。私だけでなく、主の現れを慕い求めている人には、だれにでも授けてくださるのです。 ローマ皇帝ネロの迫害により捕らえられたパウロが、殉教の直前、ローマの牢獄から書き送った手紙に書き記された、彼の遺言とも言えるメッセージです。 肉体的な死が最後ではなく、死んだ後に主なるイエスに面と向かって出会うことができ、しかもイエスから直接報いを受けることを確信しているパウロの姿があります。 パウロはエリートな律法学者でした。しかしその地位も名誉も立場も捨てて、イエスが神である、救い主であると人々に宣べ伝えるようになりました。キリスト者を迫害する者から、同胞のユダヤ人たちから迫害され、いのちを狙われ、最後は殉教して行く者となりました。しかし彼の歩みと人生は、永遠のいのちを持っている確信のゆえであり、証そのものでした。イエスの直近の弟子、12人の11人が殉教していきましたが、永遠のいのちを持っている確信がなければできないことです。 12月の最後の礼拝で、シラス兄に証をして頂きました。彼が持っていたプロのバレーボール選手になるという夢と目標が、自分自身をイエスから引き離していきました。 彼は最終的にプロになることを諦めましたが、神を抜きに送っていた生活は、彼がイエスとの関係を持っていた時にはなかった、死に対しての恐れを抱かせるようになっていきました。チャペルニュースにその証が載っています。しかし彼は挫折をきっかけに、再びイエスの下に帰ってきました。そして今、シラス兄は死への恐れを持っていません。それは永遠のいのちを確信できるようになったからです。永遠のいのちを持っていると言う確信は日々の歩み、考え方、生活、そして人生を変えて行く力となりました。 このメッセージを考えながら、私自身はどうかと問いかけました。もし私に永遠のいのちを持っているという確信がなかったら、どうなるだろうか? 最初に浮かんだのは、11月にある召天者記念礼拝や、告別式、イースターの後で行われる墓前礼拝など、語ることができなくなるだろうと思いました。 しかし私は永遠のいのちを持っている確信があるゆえに、イエスを信じている人々が再び、神の国で再会できるという希望を、確信を持って語ることができます。 
そして永遠のいのちを持っているというこの確信は、私自身-例えば理不尽なこと、肉体的な痛み、生活の中で起こる様々な試みや苦難などにも、意味を与えています。それは、永遠に続くいのちを持っているという確信、そしてその視点から、今の状況やあり方見つめることができるからです。今の歩みが永遠の時の中で起きていることとして考えるならば、意味のない試練や苦難はないと思っています。永遠のいのちを持っているという確信があるかないか。私たちの人生を大きく左右するものです。イエスは疑うトマスにこのように語られました。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」現代を生きる私たちは、肉眼で直接、イエスを見ることはできません。しかしイエスが語られたことば、聖書が与えられています。それを否定することもできれば、受け入れることもできます。私たち次第です。 受け入れた者は、すなわちイエスを神であり救い主であると信じるならば、罪赦され、永遠のいのちが与えられる、すなわち救われます。それは神の約束だからです。そしてイエスを信じ、すでに救われた人が、永遠のいのちが与えられていることを確信するのもやはり、イエスが語られたことばを信じ、受け止めるかどうかにかかっています。 本日の聖句には「永遠のいのちを持っていることを、あなたがたに分からせるためです。」と記されています。この「持っている」ということばは、現在形が使われています。 イエスを信じてすでに永遠のいのちを受けた信仰者が、イエスに対する同じ信仰によって、「永遠のいのち」を、確信を持って「持ち」続けるように、いうことが表されているようです。 そしてこれはヨハネだけでなく、神が、すなわち永遠のいのちを与えて下さったイエスご自身が、願っておられることでもあります。
イエスを信じる人は全て永遠のいのちを持っている。 この確信を、本日のみ言葉を聞いた全ての人が持つようにと、願います。祈ります。
「イエスさまを信じるとどうなりますか?」
答え 私たちの罪はゆるされ、神の子どもとされ、永遠のいのちが与えられます。
神の御子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書いたのは、永遠のいのちを持っていることを、あなたがたに分からせるためです。