動画メッセージ

2026/4/25(日)「悔い改めに進ませるために」マルコ11:27~33 庄司牧師

2026年4月26日 マルコの福音書11:27~33「悔い改めに進ませるために」     
彼らは再びエルサレムに来た。イエスが宮の中を歩いておられると、祭司長たち、律法学者たち、長老たちがやって来て、こう言った。「何の権威によって、これらのことをしているのですか。だれがあなたに、これらのことをする権威を授けたのですか。」イエスは彼らに言われた。「わたしも一言尋ねましょう。それに答えなさい。そうしたら、何の権威によってこれらのことをしているのか、わたしも言いましょう。ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、それとも人から出たのですか。わたしに答えなさい。」すると、彼らは論じ合った。「もし、天から来たと言えば、それならなぜ、ヨハネを信じなかったのかと言うだろう。だが、人から出たと言えば──。」彼らは群衆を恐れていた。人々がみな、ヨハネは確かに預言者だと思っていたからである。そこで、彼らはイエスに、「分かりません」と答えた。するとイエスは彼らに言われた。「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに言いません。」 (マルコの福音書 11:27-33 SKY17)         
イエスのエルサレム入城、宮きよめ、イエスのことばだけでいちじくの木が枯れる、といった出来事を見て来ました。その後、イエスは再びエルサレムに入られました。イエスがエルサレム神殿の中を歩いていると、イエスの敵対者たちである、祭司長たち、律法学者たち、長老たちがやって来ました。この当時のイスラエルは政治と宗教が一体となっていましたから、宗教指導者イコール国家の指導者です。その彼らが、エルサレム神殿を管理、統治していました。しかしその神殿の中で、田舎のガリラヤから出てきた若者が人々に教え、人々が彼を称賛している。加えて自分たちエリートであり支配者を、偽善者と呼び、叱責、批判して来る。そんなイエスに歯ぎしりしている宗教指導者たちの、悪意あるイエスへの問い、それが本日の背景です。

彼らはこのようにイエスに尋ねました。「何の権威によって、これらのことをしているのですか。だれがあなたに、これらのことをする権威を授けたのですか。」「これら」とはイエスがなされた宮きよめを指していると思われます。また「だれが」という言葉の裏には、神殿の管理を委ねられている自分たち以外に、誰もこのような権威は与えられていはいはずだ、と、自負と怒りが込められているのを感じます。 イエスがその問いに対して、もし自分の権威が「神からだ」言えば、神殿の庭で騒ぎを起こすような権威を神が誰にもお与えになるはずはないと、彼らはイエスを糾弾できたでしょう。またもしイエスが神を父と呼び、自分は神の子としての権威が与えられていると言えば、彼らはイエスをただの人間と見なしていましたから、イエスが神を冒涜しているとして捕らえることができたでしょう。いずれにせよ、この問いはただイエスを捕らえるための罠でした。
イエスは彼らの意図も、また、真理や神のことを求めている訳でもないことも見抜いた上で、彼らの問いに直接答えず、逆に問い返しました。始め彼らがイエスに問うた時は、イエスを窮地に追いやるものであったため、彼らは優位な立場にいました。しかしイエスから逆に問われたことによって立場が逆転します。ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、それとも人から出たのですか。わたしに答えなさい。」彼らはこの問いによって逆に追い詰められてしまいます。バプテスマのヨハネは、イエスが人々に福音を宣べ伝え始める前に現われ、荒れ野で教え、人々の罪を厳しく指摘し、悔い改めを求めました。神に立ち返りなさい!多くの人々がヨハネが神によって遣わされた預言者だと信じ、ヨハネが語ることばは神からのもの、神からのメッセージであることを信じて洗礼を受けました。実際にヨハネの到来と働きは、すでに旧約聖書のイザヤ書やマラキ書などに預言されていました。従ってヨハネの登場と働きは、旧約聖書の預言が成就、実現したことの証でした。またバプテスマのヨハネは、人々の目をイエスの方へと向ける先駆者、イエスの道備えをする使命を持っていた人でもありました。ヨハネはイエスと同じように、宗教指導者たちに正面切って彼らの行いや信仰を批判し、悔い改めを迫りました。また神殿の祭儀を重んじず、民の指導者たちにも従いませんでした。よって宗教指導者たちにとってヨハネは憎むべき者であり、敵でした。しかしイエスはこのヨハネを指して、彼の働きは何の権威によるものだったのか。天から、つまり神からの権威によるのか。それとも人から、つまりヨハネが勝手にしていたことで、本当は何も権威がなかったのか。彼らに問い詰められました。もし彼らがヨハネを「天から」と認めれば、ヨハネはイエスの先駆者ですから、イエスも神からのメシヤであることを認めることになってしまいます。彼らはヨハネもイエスも信じていませんでした。信じたくもなかった訳ですから、このように答えることは絶対に避けたい。 しかしもう一つの答えも彼らを窮地に追い込み、身の危険が及ぶと予測できる答えとなります。だが、人から出たと言えば──。」彼らは群衆を恐れていた。人々がみな、ヨハネは確かに預言者だと思っていたからである。多くの人々が、ヨハネを神から遣わされた預言者だと信じ、悔い改めのしるしの洗礼を、彼から受けていました。またヨハネはヘロデ王を批判して投獄され、獄中で首を切られました。そのこともまた、権力に屈することなく正しい主張をして殉教した預言者として、人々からさらに尊敬を集めることになりました。 そのような人々の前で、「ヨハネの洗礼など人間の勝手な業で神とは関係がない。ヨハネはただの偽預言者だ。」などと言えば、群衆の怒りを買い、殺されてしまうか、または例え殺されなかったとしても、人々の支持を失うことになるのは、目に見えています。 そこで彼らはイエスに、「分かりません」と答えました。そう答える他無かった訳です。宗教指導者たちは、ただ、群衆の顔、評価を恐れました。

しかしこの「分からない」という答えは、彼ら宗教指導者たちの責任でもある、預言者の真偽判断の義務を放棄したことになります。彼らは預言者が真実を告げているのか、あるいは偽りを語っているのかを見極め、審判する重大な義務がありました。この義務は、律法(トーラー)の教えを守り、ユダヤ教の信仰の正統性を維持するために、不可欠な役割でした。イエスから問われていたバプテスマのヨハネも一預言者ですから、彼らはそれが天から、つまり神から遣わされた本当の預言者であるのか、それとも人から、つまり偽預言者であるのかを判断し、審判する重大な義務がありましたが、それを怠ったことになります。それはただ、自分たちの権威を保ち、自分たちの身を守るためでした。 彼らは神の前においても、また人の前においても、忠実でも誠実でもありませんでした。 従って「分かりません。」と言う答えは、最悪な答えだったと言うことになります。加えて彼らの答えは嘘でもありました。 彼ら自身が自ら証言しています。それは、「ヨハネは天から来たのか、それとも人から出たのか。」というイエスの問いに対して、「もし、天から来たと言えば、それならなぜ、ヨハネを信じなかったのかと言うだろう。」という受け答えに表されています。彼らはイエスの答えを予測しています。イエスがヨハネを信じることを彼らに願っているということです。 彼らはイエスの思いも願いも意図も知っていたということです。また彼らはヨハネだけでなく、イエスも、神から遣わされて来たということが事実であると、旧約聖書の預言から知ることができました。彼らは旧約聖書のエキスパートですから、旧約聖書にヨハネと、またメシヤ、救い主なるイエスのことも預言されていることが分かるはずでした。そして実際にその預言が二人において成就、実現していることも分かる、理解することが出来たはずでした。 彼らは事実を知っていながら、ただ、その事実を認めたくなかったのです。ですから彼らはイエスの問いに対して、「ヨハネが天から来たことを認めたくもないし、信じたくありません」と答えるべきでした。それを「分かりません」と答え、自分たちの権力を守りました。嘘をついてまで守り通そうとしました。彼らの嘘と保身、権威への執着、そして権威から生まれる経済的利益や名誉などの貪りが見られます。彼らの人生も生活も、自分が中心であり、自分が王座に座っていました。 
しかし宮きよめに見られるように、そこにイエスがどかどかと入って来て、ご自分の思いのままにされました。彼ら宗教指導者たちは、自分たちの権威、自分たちの場所、自分たちの領域が犯されたと思って不満を持ち、怒りました。
しかしそれは、彼ら宗教指導者たちだけに限りません。現代を生きる私たちにも、私たちの人生にも、私たちの生活にも、私たちの心にも、時にイエスはどかどかと入って来られます。 神であるイエスが、私たちの全く知らなかった権威を持って、私たちの内に踏み込んで来られます。イエスが踏み込んで来られるまでは、ここは自分の世界、自分の心の領域、自分の生活の領域だと思っていました。自分の好きにしてよい場所、自分の思い通りにできる能力や賜物、財産、人間関係。自分が王座に座り、誰にも干渉されず、心地よい世界。そして自分の信じていることが絶対に正しい。自分の生き方が一番素晴らしいと思う。 しかしそこにイエスがどかどかと入って来られる。
イエスが聖書を通し、祈りを通して私たちの内に踏み込んで来られる。
その時、「困る」とか、「煩わしい」とか、反発したくなる気持ちになります。しかしこのような困惑は、私たち信仰者が体験しなくてはならない、大切なことです。つまり信仰を持つということは、自分の物、自分の自由と思っていることがそうではない。実は全てイエスの権威の下に置かれていると認めていくことです。自分が今まで治めて来たと思っていた場所が、領域が、そして自分自身が、本当に生かされて行くことできる権威は自分の内にではなく、主の下にあるということを認めていく。そしてそれを喜んでいく。家庭において、これまで自分勝手に、思い通りに振舞ってきた人。「私は主人だ、家族は自分のルールに従うべきだ。それが幸せだ。」と思っていた人が、イエスに出会って、今度はイエスのルールに自分も家族も委ねていくことを喜ぶ者に変えられて行く。イエスの権威を認め、受け入れ、その権威に従っていく。これが信仰ではないでしょうか。

そしてこの信仰には、謙遜さが伴わないといけないものです。自分の心の中にイエスを迎え入れ、自分がずっと座ってきた王座を降りる。これはイエスを信じて自分を明け渡す信仰と、自ら王座を降りる謙遜さがなければできません。 また勇気もいることです。なぜなら私たちは自分が信じて来た選択と結果の積み重ねによって、今の自分が成り立っているからです。
自分の価値観。自分の優先順位。自分の計画。それが一番だと信じて歩んで来ました。その積み重ねて来た自分が、イエスを信じることによって崩れ去るかもしれません。それは自分を、自分の人生を揺るがす、自分のアイデンティティーが揺さぶられる、大きな出来事です。だから勇気も要ります。 そこから逃げることもできます。 それが宗教指導者たちでした。
しかしそれは、今を生きる私たちも同じです。聖書はいいね、教会もいいね、そしてクリスチャンも素晴らしいね。と言っている人々が、真実にイエスの言われたこと、聖書に記されていることに向き合おうとしないことがあります。そのような人が、「私はどんな宗教も信じない。」と言うかも知れません。「キリスト教は外国の宗教だから自分には関係がない」とも言うかもしれません。
しかしそれはただの言い訳であり、その根底には恐れがあるように思えます。もし本気で聖書を読み、イエスに出会い、真理を知るようになれば、自分が積み重ねて来たものを手放さなければならないのでないか。自分が正しいと信じてきた全てが崩れ去れるのではないか。それでは今まで積み重ねて来た自分はいったいどうなってしまうのだろう。「私は」どうなってしまうのだろう。
嫌だ、私はずっと自分の世界に、自分の価値観に、自分の人生に、その中心に自分の王座を置き、そこにずっとずっと座っていたい。
これが罪です。 罪とは言い換えれば、神を排して、神を脇に置いて、自分自身が自分の王座に居続けること。座り続けることではないでしょうか。自分たちの成すべきことを放棄し、嘘をついてまで権力を守り通した宗教指導者たちは、まさに罪ある人間の姿でした。 しかし神であるイエスを、そして神のことばである聖書を無視し、自分の王座に座り続ける、今を生きる私たちも、何ら変わることはありません。同じだと思います。 イエスは最後に、彼らがわざと知らないと偽っていることを示されるために、「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに言いません。」と言われました。そのように言うことによって、彼らにもう一度考える機会、悔い改めるチャンスを与えたのだと思います。宗教指導者たちが、イエスが言われたことを思い巡らし、旧約の預言がイエスによって成就、実現していることを事実として認め、自分の驕り高ぶりを捨て、権威を手放し、イエスを神と認め、イエスの前に謙り、そのような自分の罪を捨て、悔い改めて救われる機会を与えた、と言うことができるのではないでしょうか。

私たちも同じです。地域において、社会において、人間関係において、自分の生活において、自分の価値観、歩み、信じて築き上げてきた全てのものにおいて。それらを手放し、イエスの権威に従うことができるかどうか。「イエス様、分かりました。これまで私はこの場所が、自分の領域が、自分の思いのままになると思っていました。しかし全てを統治されておられるのは真の王、イエス様、あなたなのですね。」 イエスの権威に従う者は、そこから始まる自由があり、解放があります。宗教指導者たちが手放すことが出来なかった権威、自分の王座。そこに執着する時、私たちも同じように自分で、自分の力だけで生きて行かなければならなくなります。そのような人生は神から離れた罪ある人生であり、苦しいものです。加えてその先には、神からの永遠の断絶、すなわち滅びが待っています。しかし自分の権威や、主張したくなる自分の主権、自分の王座を捨ててイエスに明け渡して行く者たちにもたらされるもの、それは救いです。イエスを信じ、イエスの権威に従うと決心して救いを受けた者には自由と喜び、感謝が溢れます。それはイエスが愛を持って私たちの王座の中心に座って下さり、私たちを最善の人生へと導いて下さることを、経験していくことができるからです。イエスは私たちが悔い改めて、その自由と喜びを私たちに味わって欲しいと忍耐を持って願っておられます。 イエスの忍耐と期待に、私たち一人一人が応答できますように。
お祈りします。
「悔い改めに進ませるために」
主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。Ⅱペテロ3:9

2026/4/19(日)「神にはできる」マルコ11:20~25 庄司牧師

2026年4月19日 マルコの福音書11:20~25「神にはできる」
さて、朝早く、彼らが通りがかりにいちじくの木を見ると、それは根元から枯れていた。ペテロは思い出して、イエスに言った。「先生、ご覧ください。あなたがのろわれた、いちじくの木が枯れています。」イエスは弟子たちに答えられた。「神を信じなさい。まことに、あなたがたに言います。この山に向かい、『立ち上がって、海に入れ』と言い、心の中で疑わずに、自分の言ったとおりになると信じる者には、そのとおりになります。ですから、あなたがたに言います。あなたがたが祈り求めるものは何でも、すでに得たと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。また、祈るために立ち上がるとき、だれかに対し恨んでいることがあるなら、赦しなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの過ちを赦してくださいます。」 
少し前回のお話を振り返りたいと思います。イエスがエルサレムに入城した翌日の月曜日に、 このようなことがありました。マルコの福音書11:12~14 翌日、彼らがベタニアを出たとき、イエスは空腹を覚えられた。葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、その木に何かあるかどうか見に行かれたが、そこに来てみると、葉のほかには何も見つからなかった。いちじくのなる季節ではなかったからである。するとイエスは、その木に向かって言われた。「今後いつまでも、だれもおまえの実を食べることがないように。」弟子たちはこれを聞いていた。この後すぐに続いた出来事が「宮きよめ」でした。そして本日の聖書箇所は、宮きよめの次の日に起きた出来事です。本日の聖書箇所に示されていることをまとめるならば、「神の偉大さと、その偉大な神に対する真実な信仰の大切さ」だと思います。そのことを心に留めつつ、共に見て行きたいと思います。
いちじくが枯れているのを見たペテロは、「今後いつまでも、だれもおまえの実を食べることがないように。」とイエスがいちじくに命じられたことを、イエスがいちじくを呪ったと表現しました。 イエスが命じられただけで枯れたことから、それは奇蹟、負の奇蹟と呼べるかもしれません。
イスラエルのいちじくは、一般的に一年に2回実をつけます。始めになる初なりの実はパーグと呼ばれ、過越の祭りの時期である4月頃に実がなります。前の年に伸びた枝につく小さな実で、葉が出るのとほぼ同時に現れ、あまり甘くはありませんが食用にできます。それに対して2回目になる実はエテナと呼ばれ、その年に新しく伸びた枝につく、甘くて大きな実です。イエスがいちじくを呪われたのは、十字架にかかる過ぎ越しの祭りの頃の4月頃で、本日の聖書箇所の季節と一致しています。従ってこのいちじくの実は「パーグ」がなっているはずでしたが見当たりませんでした。13節においてはこのいちじくが、「葉が茂った」と描写されています。葉が豊かにあったこのいちじくの木は、表面は、見た目は立派でした。しかし実がないということは、その木にとっては中身がないのと同じことです。 見た目が立派で中身が伴わないもの。それと似た出来事が、イエスがエルサレム神殿を清められた、「宮きよめ」です。 イエスがエルサレムの神殿の境内に入られ、そこで行われていることを見た時、売り買いしていた人々を追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返されました。イエスはこの時彼らを、強盗の巣だと言われたほどに怒られた出来事です。そこで礼拝していた人々は、見た目は神に対して信仰深く見えました。生贄の犠牲を供え、神殿にもきちんと献金をしていました。 しかし商人たちは神殿で商売をすることによって異邦人、すなわちユダヤ人以外の礼拝を邪魔し、貧しいユダヤの人々から高い手数料を取っていました。そして神殿を管理し、神への礼拝を取り次ぐ者であった祭司長たちや律法学者たちは、その商人に神殿で商売することを許可し、儲けの一部を、それもかなりのものを自分たちのものとしていました。彼らは貧しい人たちに無関心でした。またユダヤの巡礼者も、簡単に生贄を手に入れることができるということで、神殿で売られていた動物の生贄を、気軽に買い求めていました。見た目は立派で実のなっていないいちじくの木は、同じく見た目は敬虔で、信仰深く見せている人々の中身がない。すなわち神への信仰、礼拝、信頼よりも、ただ儀式だけを優先させ、心も中身も伴っていない人々と同じでした。またイエスはこの時、ご自身が神殿の主、礼拝されるべき神であることを、旧約聖書のイザヤ書から引用され、そこに預言されている救い主は自分のことであるという、言わば神宣言をなされました。しかし人々は自分たちの商売、利益を優先し、目の前の救い主、メシアであるイエスを受け入れませんでした。よってイエスがいちじくの木を枯らした目的は、実質的な信仰を持たない、すなわち信仰の実を結んでいない人々、すなわちイスラエルの一般の人々や、宗教指導者たちへの裁きと警告を、視聴覚教材として弟子たちに見せられた、ということです。イエスは命じただけで枯れてしまったいちじくを指して、「神を信じなさい」と言われました。「神を信じなさい」とは、直接的にはイエスの弟子たちに語られたことばです。色々な思惑はあったにせよ、彼らは既に全財産を捨てて、イエスに従うほどの信仰を持っていました。その彼らに、イエスはさらに神への真実な信仰を求めたと言えます。従って神を信じる私たちの態度も、真実で偽りのない信仰を持つことが、イエスから求められていると思います。 
そしてイエスは本日の聖書箇所の中で、信仰の対象である神の主権、偉大な力を、23節から25節で強調されています。またここには、神の偉大な力と共に、その神を信じる私たちの信仰との関係、関わりが教えられています。まことに、あなたがたに言います。この山に向かい、『立ち上がって、海に入れ』と言い、心の中で疑わずに、自分の言ったとおりになると信じる者には、そのとおりになります。ですから、あなたがたに言います。あなたがたが祈り求めるものは何でも、すでに得たと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。この箇所を指して、「山をも動かす信仰」と表現されることがあります。私たちが大きな信仰、揺るがない信仰を持つべきだということが言われていますが、このことばが意味すること、また焦点を当てているのは、神を信じる人間の側です。つまり「山をも動かす信仰」と言われるこの箇所の主体は、信じる人間の側です。
しかしイエスがここでフォーカス、焦点を当てておられるのは神の側です。『立ち上がって、海に入れ』とあります。神は天地万物を創造された時、光すら、命じるだけで造られました。 たった一言で地球の動物や植物、私たち人間はおろか、全宇宙を創造された神ですから、山を動かすことなど何の造作も要らず、何の難しいこともありません。また神はそのような創造を、御自身のご計画として一方的に実現されました。 従って神は偉大であり不可能なことはない、そして神は全てのものや全ての事に対して主権を持っておられる、と言うことが23節から25節にかけて描写されています。この神が偉大であり、全てのことに対して主権を持っておられるということを前提に、そして根拠に、私たちは全能の神を信頼して、祈り求めることができます。全ての物事の主体、そして主権は被造物である私たち人間ではなく、神にあることをいつも忘れてはいけません。
従って「心の中で疑わずに、自分の言ったとおりになると信じる者には、そのとおりになります。」とイエスが言われたことを、私たちの信心の力が不可能を可能にする要因であるかのように、誤解してはいけないと言うことです。つまり不可能を可能にするのは、私たちの信仰以前に、創造主である神であり、神ご自身のみわざであるということです。そして「信仰」は、その全能の神と、神の御業を私たちに結びつける接点のようなものです。 また主体が人間の側にあるように思える「信仰」それ自体も、私たちの中から生まれる、何らかの功績のようなものではなく、神ご自身からの賜物、ギフトであることが聖書に記されています。 ですから私たちは神の偉大さに心を留め、その偉大な神が全てにおいて主権を持っておられることを受け止め、信頼し、謙虚に祈り求めることが大切ではないでしょうか。ヨハネの手紙第一5:14,15節にこのようなみ言葉があります。何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。私たちが願うことは何でも神が聞いてくださると分かるなら、私たちは、神に願い求めたことをすでに手にしていると分かります。御心に従って願うなら、神は聞いて下さると記されています。ですから私たちが神に祈り、願い、求める時、それがただの欲望や自分中心ではなく、神の御心であるかどうか。神の主権を心に留めているかどうか。神の素晴らしさ、栄光が表されることであるのかどうか。また神が喜ばれることなのかどうか。そのようなことをいつも心に留め、祈り求めて行く必要があると思います。1990年代後半、韓国のクリスチャンの青年たちが、聖書にある「ヨルダン川の奇跡(ヨシュア記)の出来事」を文字通り信じ、「自分も同じような信仰を持てば、神が川を止めてくださる」と考え、増水していたヨルダン川に入りました。しかし水は止まることなく、何人かの青年が激流に流されて溺死しました。痛ましい事故ですが、ここに二つの問題が示されています。一つ目は聖書の文脈の無視です。ヨシュア記に記されている奇跡は、神がイスラエルという「民族」に対して与えられたものであり、歴史的約束に基づくもの、それも一回限りの出来事です。それが現代を生きる自分たちにも起こるという、聖書解釈の問題がありました。また聖書には「あなたの神である主を試みてはならない」という警告があります。自然の摂理を無視して超自然的な力を期待する行為は信仰ではなく、神を試す行為であり、自分の信仰の誇示、誇るという高慢にも繋がります。「聖書の記述をどのように解釈し、現代の生活に適用すべきか」と考えさせる事故でした。偉大な神を恐れかしこむ。畏怖の念を持って祈り求めていく。同時に先週見ましたが、神を私たちの天の父として、親しみと尊敬を持って祈り求めていく。そしてそれが御心に適う願いであれば、神は全能の力をもってその祈りを叶えて下さる。もし祈りが聞かれないということであれば、それは御心に適っていないか、ベストのタイミングではない。または私たちがこの世における生涯、人生が終わるまでは分からない、ということもあるでしょう。 全ての出来事における主体は神であり、主権も神にある。ということをいつも心に留めつつ、祈り求める必要があると思います。そしてイエスはこの文脈においては唐突に感じられることを語られました。また、祈るために立ち上がるとき、だれかに対し恨んでいることがあるなら、赦しなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの過ちを赦してくださいます。」 本日の聖書箇所は、「神の偉大さと、その偉大な神に対する真実な信仰の大切さ」が示されています。そのことは、ここでイエスが語られた赦しについても同じです。 見せかけの信仰を持っている人々がいました。彼らは神殿で動物の生贄を捧げ、献金もしていました。 彼らが生贄を神に捧げたのは、自分たちの罪を神に赦してもらうことが目的でしたから、彼らの願いの中心は「赦し」でした。しかし彼らは「これだけ捧げているのだから、私の罪は赦されるだろう。これだけ多く捧げたのだから、神は私の願いを叶えてくれるに違いない。」「神は私の罪を見逃し、私に裁きが及ぶことはない。」神の主権、神の恵みから出発するのではなく、自分の行い、自分の思い、願望から出発する姿です。ですから隣人を憎んだり、異邦人を見下すということがあっても、生贄さえ捧げていれば良い、献金をしていれば大丈夫だという思いがありました。 彼らの思いは神の慈しみや恵み、神の愛や赦しとは程遠いものでした。 そのような思いを抱いている人々にイエスは、神からの罪の赦しを得たいと思うなら、真心の伴わないいけにえをささげることよりも、先ず、隣人との和解を目指すべきだと言われました。神との和解、つまり罪の赦しと、隣人との和解は切っても切り離せない関係にあるからです。それはイエスが旧約聖書に記されている律法を二つにまとめられた内容からも明らかです。大切な一つ目は、神を全力をもって愛すること、でした。そして二つ目に大切なことは、自分を愛するように隣人も愛する、ということでした。 従ってイエスに叱責された見せかけの信仰を持っていた彼らの生贄は、神に受け入れられるものではなかったことが分かります。 今イエスの公生涯の最後の1週間を見ています。イエスがエルサレムに、人々の歓喜と期待と共に入られました。しかし彼らがイエスに願ったのはただ、ローマの支配から解放してくれることだけでした。それが叶えられないと分かってからは、十字架につけろと叫ぶ暴徒に変身します。 加えて彼らは真の神を忘れ、自分の商売、自分の利益を神殿での礼拝よりも優先させました。神からの罪の赦しですら、犠牲を捧げれば大丈夫という、言わば物を使って神と取り引きをし、また自分の行いに満足するような者たちでした。 それは今も、現代を生きる私たちも同じではないでしょうか。自己中心に生き、神を無視し、神に敵対して歩んでいます。また自分の良い行いによって満足しているような者たちでもります。 貪欲に支配され、強盗の巣になってしまっているのは、神の選びの民、イスラエルだけではなく、現代を生きる私たち一人一人でもあると思います。全ての人類は、神の民として、神を礼拝する者として創造されましたが、罪によって堕落してしまいました。本来であれば、神の怒りと裁きを受けて、このいちじくの木のように呪われ、滅ぼされてしまうしかない者です。しかしイエスは私たちに向けられていた神の怒りと裁きを、私たちに代って引き受け、背負われ、十字架の死への道を歩んで下さいました。それは私たち全人類の罪のためでした。 旧約聖書に、木にかけられた者は神に呪われた者である、と記されています。まさにあのいちじくの木のように私たちの罪の代わりに罪そのものとなって神に呪われ、枯れてしまったのは、神の独り子イエス・キリストご自身でした。この罪の身代わりの十字架は、いちじくの木が命じられただけで枯れてしまった奇蹟、天地万物の創造の奇蹟を超え、どのような奇蹟ですら及ばないものです。それは神ご自身が、罪ある人間のためにご自分を捨てるという、愛の奇蹟だからです。この十字架の愛の奇蹟を知り、また経験する時、イエスが、すなわち神がどれだけ深く私たちを愛しておられるかが分かります。そしてその愛を受けて、本来であれば赦せないような人を赦すことが出来る時、または例え赦すことができなくとも、その人を赦していけるように願い、祈って行く時、天の父も私たちの罪を赦して下さいます。私たちが自分を傷つける人を赦し、また、欠けや弱さを持っている自分自身も赦される。その赦しも、一つの奇蹟ではないでしょうか。私たちにとって奇蹟に思えること、奇蹟に映ることも神には、天の父には何でもできる。 「神にはできる」という真実な信仰と期待を持って、私たちの必要を、また願いを、私たちの天の父にいつも祈り求めていきたいと思います。
祈ります 「神にはできる」 イエスは弟子たちに答えられた。「神を信じなさい。」

2026/4/12(日)「聖霊の働きをどのように受けることができますか?」ルカ:11:9,13

2026年4月12日 問40 あなたは聖霊のはたらきをどのようにして受けることができますか。聖霊の働きをどのように受けることができますか? 招詞 箴言8:17
答 それは、私たちが聖霊を与えてくださいと祈り求めることによってです。                             
本日の聖書箇所は、祈りと聖霊の関係が記されています。聖霊とは、父なる神、子なるイエス・キリストと並ぶ、三位一体の第三の位格である神ご自身です。また、父と子と聖霊は一つの神です。三位一体の神は、私たち人間が理性的に、また完全に納得して理解することのできない神の深さ、豊かさを表していると言えます。 聖霊は霊ですから形はなく、風や息のように目に見えずに働かれます。また「助け主」や「慰め主」とも呼ばれ、神、すなわちイエスを信じる全ての人々に内住、内に住んで下さり、正しい道へと導く役割を果たします。
それではこれから、本日の聖書箇所の9節と13節を含む、イエスが一連の譬えで語っておられる5節から13節を見てみたいと思いますが、交読、交互に読みたいと思います。私が奇数節、皆さんは偶数節、そして最後の13節は一緒に読みましょう。ルカの福音書11:5~13
当時の旅行は徒歩でした。昼の暑さを避けて、夕方から夜にかけて旅をすることがあったため、旅人が夜中に友人宅に到着することがあったようです。また当時の旅行は空腹や渇きによって倒れたり、盗賊などに出会うこともあり、命がけでした。ですから旅人に食べ物を与えるというのは、歓迎してごちそうすると言うよりも、その人の命を助けるという意味を持っていたようです。しかしながら真夜中に、友人の友人にパンを貸してくれと頼まれても、面倒であり、迷惑な話です。しかししつこく頼めば、必要なものが与えられるだろうと、イエスは譬えを通して語られました。そしてイエスは11節から13節において、仕方なく友人にパンを与えた人の態度と、天の父が求める人に必要なものを与える態度の決定的な違いを、親と子の関係から語られました。 そのことをイエスは11、12節において、子どもが魚を求めているのに、魚の代わりに蛇を与えるような父親がいるでしょうか。卵を求めているのに、サソリを与えるような父親がいるでしょうか。と、言われました。親であれば、魚を欲しがる子供に蛇を与えたり、卵を欲しがるのにさそりを与えたりはしない。子どもに対して恐ろしいもの、害を与えるような親はいないと言われました。イエスは続けて13節において、「あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っています。」と言われました。「あなたがたは悪い者であっても」というのは、罪があり、欠けが多く、弱さをかかえているあなたがた人間は、ということです。確かに私たちは、神をないがしろにし、隣人を自分の利害なしに本当に愛することできない罪人です。しかしそんな私たちですら自分の子どもは愛しており、精一杯自分なりに良い物を与えようとします。
そして13節が注目すべきところです。「それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。」これこそがイエスが言おうとしておられることです。つまりイエスは、欠けのある人間の親でさえ子どもに対する愛を持ち、子どもに良い物を与えようとする。しかしそれよりもはるかに大きく深く広い愛を持っておられる天の父は、ご自分に求める者たちに最高で、最善の物を与えて下さる。それが聖霊だ!ということです。私たち人間は、たとえ友人であっても、損得勘定や利害関係などによって動くような者です。それが、「悪い者である」とイエスが言われる私たちの姿ではないでしょうか。しかしながら悪い者である人間であっても、親は子に、その求める物をできるだけ与える。しかし天の父は、不純な動機や損得勘定などによってではなく、またいやいやながらでもなく、喜んで、求める者に良い物を与えて下さるのだ、と、イエスはここで強調されています。そして注目すべき13節において最も大切なことは、「天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」と言われていることです。                 聖霊を与えてくださるとはどういうことでしょうか。聖霊が与えられることによって私たちはどうなるのでしょうか。そのことが新約聖書、ローマ人への手紙の第8章14、15節に記されています。神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。御霊、即ち聖霊は私たちを「神の子」にして下さるということです。そして私たちは父なる神を自分の霊的な親として、「アバ、父-すなわち、お父ちゃん」と親しく呼びかけ、祈る者とされることができる、また、すでにそのような者にされているということがここに表されています。 聖霊は、イエスを信じる私たちを、救い主イエス・キリストと結びつけ、それによって私たちを神の子とし、神に向かって「父よ」と呼びかけて祈る者として下さるということです。聖霊こそ、神が私たちに与えて下さる最も良いものであり、良いものの中心です。それは神と人間の絆を生み出し、天の父が私たちのお父さんになって下さるということです。 この親子関係以上の関係をもって、私たちは天の父が必要なもの、最も良いものを与えて下さると信頼して祈り求めることができます。天の父に信頼して祈る態度をイエスは10節で、「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれでも、求める者は手に入れ、探す者は見出し、たたく者には開かれます。」という態度として表されました。また、この時制は現在進行形になっています。すなわち、求め続けなさい。探し続けなさい。たたき続けなさい。と、天の父を信じて祈り求める私たち信仰者のあり方をイエスは示され、また励ましておられます。 また、私たちに人間においても、子どもを本当に愛している親は、今この子に何が必要であるかを考え、必要なものを必要な時に与えようとします。子どもが求めても、今は与えるべきでない、今はその時でないと考えれば、「だめ」と言います。我慢させます。子どもは、自分の願いを聞いてくれないことで親を恨んだりすることもあるかもしれませんが、それは子どもの最善を考え、願っているからです。私たち罪ある人間の親子関係においてさえそういうことであるならば、天の父、まことの父となって下さる神は私たちに、本当に必要なものを、必要な時に与えて下さいます。しかし自分の願い通りに求めているものが与えられず、苦しまなければならないときでも、聖霊はそれが神のみ旨であり、最善であると理解させ、忍耐して待ち望む力も与えて下さいます。                                     また聖霊は私たち人間を滅びから救って下さる働きをして下さいます。神に反逆し、神から離れ、罪を犯してしまった人間の行く先は滅びであると聖書に記されています。神との永遠の別離です。イエスを主と告白する-すなわちイエスが、自分が信じて従っていく神であるという決心であり告白は、聖霊の助け、力がなければ、罪ある人間にはできない、と言うことを前回見ました。救いはイエス・キリストにしかないと聖書に記されていますから、聖霊が人間を滅びから救って下さる働きをされておられるのが分かります。そしてこの滅びから救われた者は、天の父なる神がその人の父となり、神の子となる身分が与えられる。イエスを信じ、罪赦され救われた一人一人が神の子であるという証印、印、保証になって下さるのも聖霊であると、聖書に記され、また約束されています。日々神の御心を知り、悟るためにどうしても必要な聖書の理解も、聖霊が助けて下さいます。 さらに私たちがイエスの体である教会に繋がり、イエスを目指して成長していくことができるための助け、力も聖霊が与えて下さいます。すなわち聖霊とは、私たちが罪から救われる上で最も大切な働きをして下さり、また、神を信じる一人一人がイエスの体である教会に繋がり、イエスを目指して成長していくことができるよう、日々の歩みを支え、助けて下さる存在でもあります。私たちは聖霊を通して神の子とされ、父となって下さった父なる神に信頼し、必要なものを祈り求めることが出来ます。それは罪を犯す前に持っていた、神と人間との麗しい関係が回復されているからこそ、できることでもあります。 神は人間をご自身のかたちに似せて創造されました。(知情意、善悪を判断、三位一体の交わりに生きる-他者と生きる人間も同じ、芸術のような美的センス、創造性など)神と人間は完全な愛と調和を持っていました。しかし人類の祖先であるアダムとエバが罪を犯し、その罪から死が入り、全人類に広がったと聖書は記しています。以前召天者記念礼拝でお話したと思いますが、人間が死を恐れるのは、死が不自然だからだと思います。死が、食べることや眠ることのように人間にとって自然なものであるならば、人間が死を恐れることはないはずだからです。しかし人間は死を恐れる。死が本来人間になかったものであり、不自然なものである。罪から死が入り、全人類に広がったということが真実であり、また聖書が正しいことを、皮肉にも全人類が身をもって証明しているのではないでしょうか。しかしキリスト者、クリスチャンはあまり死を恐れません。それは信仰によって滅びから救われていると確信していることもありますが、死の原因となっている罪の解決が神によってなされていることが本能的に、また霊的に分かり、平安が与えられているからだと思います。そのように死に対しての恐れを取り除き、平安を与えるのも聖霊の働きであると言えます。このように私たち人間が最も必要なもの、必要なことが聖霊と聖霊の働きにあるということです。罪によって神と断絶し、滅びに向かっている私たちの罪が赦され、神との関係を回復させて頂けるのはまさに聖霊の働きです。イエスを信じる私たちは、聖霊を通して神の子とされ、天の父をお父ちゃんと呼べる関係にして頂けました。この素晴らしい聖霊、神ご自身が、イエスを信じる全ての人に与えられる。このような大きな恵みが他にあるでしょうか!? 神の子とされていることを感謝しつつ、日々大胆に、時にしつこく、聖霊を与えて下さいと父なる神に祈り求める者でありたいと願います。最後に、ヨハネの福音書の16:7節を読んで、み言葉の取り次ぎを終わりたいと思います。
しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。 (ヨハネの福音書16:7)
祈ります
問40 あなたは聖霊のはたらきをどのようにして受けることができますか。
答 それは、私たちが聖霊を与えてくださいと祈り求めることによってです。
ですから、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っています。それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。」
身代わりの死である十字架、死、復活(イースター)昇天、神の右に座し、聖霊を送られるイエス。

2026/4/5(日)「起死回生」ルカ23:1~12 庄司牧師

2026年4月5日 イースター礼拝 ルカの福音書24:1~12 「起死回生」
24:1 週の初めの日の明け方早く、彼女たちは準備しておいた香料を持って墓に来た。 24:2 見ると、石が墓からわきに転がされていた。24:3 そこで中に入ると、主イエスのからだは見当たらなかった。24:4 そのため途方に暮れていると、見よ、まばゆいばかりの衣を着た人が二人、近くに来た。24:5 彼女たちは恐ろしくなって、地面に顔を伏せた。すると、その人たちはこう言った。「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。 24:6 ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、主がお話しになったことを思い出しなさい。24:7 人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえると言われたでしょう。」24:8 彼女たちはイエスのことばを思い出した。24:9 そして墓から戻って、十一人とほかの人たち全員に、これらのことをすべて報告した。24:10 それは、マグダラのマリア、ヨハンナ、ヤコブの母マリア、そして彼女たちとともにいた、ほかの女たちであった。彼女たちはこれらのことを使徒たちに話したが、24:11 この話はたわごとのように思えたので、使徒たちは彼女たちを信じなかった。24:12 しかしペテロは立ち上がり、走って墓に行った。そして、かがんでのぞき込むと、亜麻布だけが見えた。それで、この出来事に驚きながら自分のところに帰った。
ハッピーイースター!イエスは甦られました。人類最大の敵である死に打ち勝ち、勝利されたイエスを讃美します。また、イエスを信じる者たちにも死への恐怖とそこからの失望、そして死そのものからの解放を与えて下さるお方であることを感謝いたします。
本日の聖書箇所は、人間の常識とそれに伴う絶望と悲しみが表されています。同時に神の非常識とそれに伴う勝利と希望が対比されています。そのことが本日のタイトルである、起死回生です。
「起死回生とは、もとは病気や死にかけた人を生き返らせるという意味から転じて、危機的・絶望的な状況を立て直し、一気に良い方向へ持ち直すことを指して言う。」とあります。従って本日の聖書箇所に示されているイエスの復活は、イエスの死を悲しみ、絶望している女性たちに、また罪から来る死が待ち受けている私たち一人一人の人間にとっても起死回生の出来事です。
イエスを愛し、イエスに付き従ってきた女性たちが登場します。この女性たちは、イエスの体に香料を塗り、もう一度丁寧にお墓に収めようとやって来ました。ここに彼女たちの、そして人間の常識を見ます。彼女たちはイエスが十字架上で死ぬのを見届けています。少し前の23章、49節にはこのように記されています。「イエスの知人たちや、ガリラヤからイエスについて来ていた女たちはみな、離れたところに立ち、これらのことを見ていた。」
「これらのこと」とは、イエスが十字架に至る一連の出来事と、十字架そのものです。彼女たちはイエスがどのように十字架に架かり、また、どのように十字架上で息を引き取られるか、全ての過程を見ていた女性たちです。 それだけではありません。彼女たちはイエスが十字架上で死なれた後、その遺体が墓に運ばれるところまで見届けています。 本日の聖書箇所の直前、23章55節と56節をお読みします。イエスとともにガリラヤから来ていた女たちは、ヨセフの後について行き、墓と、イエスのからだが納められる様子を見届けた。ヨセフとは、イエスを信じる議員の一人でした。彼女たちはイエスの十字架刑を見ただけでなく、ヨセフがイエスの遺体を降ろし、亜麻布で包み、墓に納められる一部始終、全てをその目で見ました。彼女たちはイエスを愛し、イエスにずっと聞き従い、色々な奉仕をして来ました。そして彼女たちが常識と照らし合わせて今、できること。それはただ、イエスの遺体にもう一度丁寧に香料を塗り、丁寧に墓に納めることだけでした。 そのことだけが、彼女たちのイエスへの愛の表明であり、今できる精一杯のことでした。しかし墓に来てみるとイエスの体が見当たりません。彼女たちはどうしようかと途方にくれていました。自分たちのできる最後の、そしてたった一つのことができない。
そのような女性たちの前にイエスのことを伝える者が現れました。他の福音書にはそれが御使い、天使であったと書き記されています。その御使いが彼女たちに語りかけました。24:5b「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。24:6 ここにはおられません。よみがえられたのです。これは事実に基づいた証言であると言えます。「事実」とは、客観的に確認できる「実際に起こった事柄」であり、1つしか存在しないものです。御使いは私たち人間よりも知識、知性、力など、全て人間よりも上の存在です。従ってイエスが甦られたのを実際に起こった事実として、何らかの方法で既に知っていた、認識していたということです。しかし女性たちはその事実を知りません。この嬉しい、また喜ばしい事実に対して、今女性たちが出来ることは、それを信じるか、それとも信じないか、でした。
私たちは聖書を知っています。この後どうなるかも知っています。しかし彼女たちは、十字架に架けられ、死なれ、葬られたイエスがその後どうなるかを知りません。 従って人間の常識からすれば、死んだ人が復活するという話は非常識であり、思いつくことも、また想像すらできないことです。そのため彼女たちは、イエスが復活されたという素晴らしい知らせを信じるための助けが必要でした。その必要、イエスの復活を信じるために必要なこと、助けでありヒントを、御使いが彼女たちに語り、また与えてくれました。それが6節の後半と、7節で語られています。24:6b まだガリラヤにおられたころ、主がお話しになったことを思い出しなさい。24:7 人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえると言われたでしょう。」
何気に読むと気付きませんが、この御使いが語られたことは驚くべきことです。 それは御使いがイエスの復活を知っているということだけではなく、イエスが過去に彼女たちに語られたこと、その内容も知っていた、ということです。ここに御使いが人間の知性や能力を超える存在であることが示されています。 この御使いが、彼女たちがイエスの復活を信じることができるように助けてくれました。それはイエスが彼女たちに語られた「ことば」であり、「約束」を思い出させるということでした。御使いはこのように彼女たちに語りました。「人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえると言われたでしょう。」彼女たちは御使いのことばをヒントに、そして語りかけられたことによって助けられた結果、8節に至ります。
24:8 彼女たちはイエスのことばを思い出した。それは以前イエスが言われた三つのことでした。人の子、すなわちイエスが罪人たちの手に引き渡されること。十字架につけられること。そして三日目に甦ること、です。 彼女たちはイエスのことばを思い出して、イエスの復活、イエスが死から甦ってここにいないことを信じました。彼女たちがイエスの復活を信じた時の様子が、別の著者であり、違う角度からイエスの復活について触れている、マタイの福音書に描写されています。
28章5節から8節をお読みします。お聞き下さい。
御使いは女たちに言った。「あなたがたは、恐れることはありません。十字架につけられたイエスを捜しているのは分かっています。ここにはおられません。前から言っておられたとおり、よみがえられたのです。さあ、納められていた場所を見なさい。そして、急いで行って弟子たちに伝えなさい。『イエスは死人の中からよみがえられました。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれます。そこでお会いできます』と。いいですか、私は確かにあなたがたに伝えました。」彼女たちは恐ろしくはあったが大いに喜んで、急いで墓から立ち去り、弟子たちに知らせようと走って行った。
「彼女たちは恐ろしくはあったが」-当然の反応だと思います。イエスの誕生が御使いによって知らされた時、羊飼いたちも恐れています。しかし彼女たちは「大いに喜んで、急いで墓から立ち去り、弟子たちに知らせようと走って行った。」
彼女たちがイエスの復活という喜びの知らせを信じたゆえに、他の弟子たちに早く伝えようと急いで走って行きました。彼女たちがイエスの復活、甦りを信じなければ、このように行動することはなかったでしょう。 御使いは女性たちに、イエスが復活されたという助け、ヒントをくれました。それは実際に復活されたイエスの体を指し示すというようなものではなく、すでにイエスが女性たちに語られたみ言葉、そして約束を思い出させるというものでした。
イエスの復活を信じた彼女たちにとって、空の墓はどのように映ったでしょうか?イエスの復活を信じる前は、イエスの遺体に香料を塗ることができない。どうしよう。悲しい。空の墓は悲しみの象徴でした。 しかしイエスの復活を信じてから見る空の墓は、もはや悲しみの象徴ではありませんで。 それは逆にイエスの復活という動かぬ証拠であり、大きな喜びの象徴、証になりました。以前イエスに語られていたこと、イエスのことばと約束を信じることによって、彼女たちは絶望と悲しみから、今度は励ましと希望を持つに至る力となりました。
先々週、語られたことばが、その状況を変えるヒントになる、励ましになるこという体験をしました。家族と散歩をしていた時のことです。ホームに入って来る電車を見ようと、駅に向かって歩いていました。途中、いつもと少し違う道を通りました。そこは狭い路地で車通りが少なく、安全な場所だったからです。しばらく歩いていると、道路の先が行き止まりになっているように見えました。私は妻に、「大丈夫かな、このまま駅の方に行けるかな?」と問いかけたところ、「大丈夫ですよ。行けますよ!」という声が別のところから返って来ました。「あれ、今の声は!?」と一瞬思いましたが、それは丁度歩いている道路に面していた家の女性が、私の問いに答えてくれたのでした。私は笑いながら、安心して家族と歩き続けることができました。 しかし殆ど道路が終わりというところまで来た時、その先の道が見えません。本当にメインの道路に戻れるかな?と少し心配になりましたが、細いあぜ道があり、駅に通じる道に戻ることができました。駅に着くと丁度、三つの路線の電車がホームに到着するタイミングでした。異なる三つの車両が入って来るのを、同時に見ることができました。とても嬉しい体験でした。もし女性が私たちに声をかけてくれなかったら、私たちは道を引き返し、三つの車両が入って来るタイミングを逃していたかもしれません。
御使いは、イエスの復活を女性たちに指し示しました。御使いにとってはイエスの復活が事実であっても、復活を見ていない、知らない、想像もつかない女性たちにとっては、イエスの復活を信じることはできませんでした。しかし女性たちはイエスの復活をその目で見なくとも、イエスの復活を信じることができました。それはイエスが以前女性たちに語りかけて下さっていたこと、すなわちイエスが語られたみ言葉であり、約束でした。「人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえる」 イエスはこの女性たちだけでなく、私たちもイエスを信じることができるように、イエスの復活を信じることができるように、イエスが罪からの救い主であることを信じることができるように、ヒントや助けを私たち一人一人にも与えて下さっています。それが聖書であり、イエスを信じるために私たちを導いて下さる聖霊の存在でもあります。次回、三位一体の神の第三位格である、聖霊についてお話をする予定です。
実は今日のメッセージ、今お話していますが、とても苦しいものでした。「どうしよう。何をお話したら良いか分からない!」 ルカの福音書を選んだことを後悔するほどでした。しかしイエスは、私が語ることができるように助けて下さいました。散歩の時の語りかけが今日、この時、メッセージを語る上で大きなヒントになりました。本当にちょっとした出来事でしたが、私にとっては大きな出来事でした。 イエスが生きておられ、働かれ、助けて下さったと私は確信しています。

御使いは、女性たちがまだイエスの復活を信じる前、このように彼女たちに語りかけました。
「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。」メッセージの冒頭、始めの方で、私はこのようにお話しました。「本日の聖書箇所は、人間の常識とそれに伴う絶望と悲しみ。神の非常識とそれに伴う勝利と希望が対比されている。」 私は家族と散歩をしている時、語られたことばによって励まされ、その道を引き返すことなく、進み続けることができました。しかしその先で道がなくなってしまうように見え、不安になりました。しかし語られた通り、そこには道がありました。 この女性たちにとって、イエスの死は、イエスと共に歩いて来た道が終わってしまった。その先にもう道はないという絶望と悲しみをもたらしました。しかしイエスは御使いが語ったように、そして彼女たちが信じたように実際に復活され、この後マグダラのマリアやイエスの弟子たちに現れることになります。
私たちもこの目でイエスを見ることはできませんが、女性たちにように、イエスが語られたことば、約束を信じることができます。人間にとってイエスの復活は非常識ですが、神にとって不可能なことはありません。預言も含め、聖書に指し示されているイエスの復活を、聖霊の助けを頂きながら私たちも信じることができます。 そしてイエスは約束通り復活され、今も生きておられます。この道は終わりではないか。この先には何の喜びも希望もないのではないか。私たちはそのような道を通ることがあります。しかしイエスは私たちと神との関係を妨げている罪を十字架で全て背負われ、復活を通して罪と、罪から来る死に勝利して下さいました。イエスを信じる全ての者は、このイエスの復活の力に与ることができます。私たちは「死」で終わりではありません。それが聖書に記されている神の約束、「起死回生」の約束です。そしてそれは永遠に続く約束です。
復活され、今も生きておられ、私たちと共に歩んで下さり、私たちを助け、恵みで満たし、最善の道へと導いて下さる私たちの主、復活された素晴らしいイエスを、これからも信じ続けることができますように。
祈ります
「起死回生」
「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。」

2026/3/29(日)「強盗の巣」マルコ11:12~19 庄司牧師

2026年3月29日 マルコの福音書11:12~19「強盗の巣」
翌日、彼らがベタニアを出たとき、イエスは空腹を覚えられた。葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、その木に何かあるかどうか見に行かれたが、そこに来てみると、葉のほかには何も見つからなかった。いちじくのなる季節ではなかったからである。するとイエスは、その木に向かって言われた。「今後いつまでも、だれもおまえの実を食べることがないように。」弟子たちはこれを聞いていた。 こうして彼らはエルサレムに着いた。イエスは宮に入り、その中で売り買いしている者たちを追い出し始め、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。また、だれにも、宮を通って物を運ぶことをお許しにならなかった。そして、人々に教えて言われた。「『わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではないか。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にしてしまった。」祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。群衆がみなその教えに驚嘆していたため、彼らはイエスを恐れていたのである。夕方になると、イエスと弟子たちは都の外に出て行った。
本日の聖書箇所は二つの出来事が記されています。葉の茂ったいちじくの木の話と、4福音書全てに記されている「宮きよめ」と呼ばれている出来事です。葉の茂ったいちじくの木の話は、結論として後でもう一度登場しますので、次回取り上げたいと思います。そこで今回は「宮きよめ」と呼ばれる出来事を中心に、お話をしたいと思っています。
先週、イエスが日曜日にエルサレム入城、エルサレムに入られた時のことをお話しました。イエスはエルサレムにいる群衆の、自己中心的で神を信じない不信仰な姿と、将来ローマ帝国に破壊されることになるエルサレムのことを憂い、涙を流されました。そして祈りのため、人々のとりなしのために宮に入られました。
本日の聖書箇所、12節に「翌日」とあります。ですから宮きよめと呼ばれている出来事は、イエスが十字架に架かることになる週の、月曜日であることが分かります。本日登場する「宮」とはエルサレム神殿であり、ヘロデ王によって再建されたものです。イエスはこの神殿で人々が行われていることに怒りを燃やされました。それが本日の聖書箇所に表されています。エルサレムの神殿では、過ぎ越しの祭りに集まった大群衆を相手に、盛んに商売が行われていました。過ぎ越しの祭りとは、旧約聖書、出エジプト記に記されています。以前共に見て来ました。イエスの時代よりさらに約1500年前、彼らの祖先となるイスラエルの民がエジプトで奴隷となって苦役を強いられていた時、神が民の叫びを聞かれ、指導者モーセを通して彼らをエジプトから脱出させた出来事に由来しています。その脱出の際、羊の血を門柱と家の鴨居に塗った者たち-すなわちイスラエル民族は、滅ぼす者から守られました。一方その血を塗らなかったエジプトの初子-初めに生まれた子ども、すなわち長男や長女、家畜に始めに生まれた子どもたちなどは、全て死んでしまいました。この流された血、羊の犠牲を、新約聖書ではイエスが人間の罪を贖う身代わりに流された血であると説明しています。つまり過ぎ越しで犠牲になった羊は、イエス・キリストを予表するもの、イエスの十字架の犠牲、贖いを指し示している、ということです。 ユダヤの人々は、自分たちの先祖が守られたことを感謝し、現在においても過ぎ越しをお祝しています。
本日の聖書箇所に戻ります。 神殿の境内には、一番外側に異邦人の庭と呼ばれるところがあり、そこに両替人や生贄のハトを売る者たちなどがいました。ユダヤ人たちは各地から過ぎ越しの祭りを祝うために神殿に集まって来ましたが、神殿に捧げる動物の犠牲は傷があってはいけないため、祭司に調べてもらわなければならず、その検査は面倒なものでした。 そこで巡礼者たちは、あらかじめ調べられたものであり、また気軽であるため、神殿の境内で売られている検査済みの動物を買いました。加えてユダヤの巡礼者は、神殿に納入金を支払うため、ギリシャやローマの通貨をユダヤの通貨に両替しなければなりませんでした。そこで両替人たちは多くの手数料を取って莫大な金を設けていました。その背後には祭司長や律法学者たちがいました。神殿を管理している立場であるはずの彼らが、自分たちの利益のために率先して彼らの商売を許可し、支援までしていました。それは商人たちの儲けの上前をはねるためでした。 本来は祈りの家であり、敬虔な場所であるはずの神殿が商売に利用されている。 イエスが憤りを覚えたのも無理はありませんが、イエスがもっと怒りを燃やされたことがあります。それは彼らが商売を行っていた「場所」でした。
神殿の境内の一番外側は異邦人の庭と呼ばれますが、神殿の奥に入ることを許されない異邦人にとって、唯一の礼拝の場所でした。その場所で商売が行われていたということは、商売人たちは異邦人たちが神を礼拝するのを妨げていたということになります。そして彼らの礼拝を間接的に妨げていたのが、本来であれば神殿を聖く保ち、礼拝者が神を心から礼拝できるように取り計らう祭司や祭司長たちでした。いつの間にか異邦人の庭が、動物の生贄を売ったり買ったり、また両替の行われる場所になってしまっていました。イエスは激しく怒られましたが、この時の怒りを旧約聖書から引用して表しておられます。それが17節です。
「『わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではないか。これは旧約聖書、イザヤ書56:7節を引用してのことばです。6節の後半から引用してお読みします。
わたしの契約を堅く保つなら、わたしの聖なる山に来させて、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。彼らの全焼のささげ物やいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる。なぜならわたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれるからだ。 つまりイエスは、形式的で、しかも神との契約を守っていない彼らの生贄は、神には受け入れらないと言っておられる訳です。「神殿は商売の行われる場所ではない!心の伴わない形だけの生贄は神に受け入れられない!わたしの家、神殿は、あらゆる民の祈りの家、礼拝の場所、心から神と交わる場所だからだ!」そのような思いを持ってイエスは、人々の間違った行いを激しく怒られ、批判されました。イエスはここで、「わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる。」と、イザヤ書のことばを引用されましたが、その「わたし」とは、主なる神であると同時に、その独り子である主、イエスご自身を指しています。つまりイエスは、自分こそが神殿の主であり、神殿はイエスにとって 「わたしの家」だと宣言されたということです。つまりイエスはご自身を、神殿を司る者であり、また同時に礼拝されるべき対象、すなわち神であるということを宣言されました。イエスは祈りが捧げられる神殿を、「あらゆる民の祈りの家」と呼ばれました。それはユダヤ人たちだけでなく、彼らから蔑まれている異邦人たちも含めた、全ての民族、部族、国民の祈りの家となる、ということです。 宗教指導者たちはイエスを神と信じていませんでしたから、神宣言をされたイエスのことを、神への冒涜であると捉えました。加えてイエスは同じ17節の後半において、おまえたちはそれを『強盗の巣』にしてしまった。」と強いことばで批判されました。これも旧約聖書からの引用だと思われます。エレミヤ書7:10,11節です。そして、わたしの名がつけられているこの宮の、わたしの前にやって来て立ち、「私たちは救われている」と言うが、それは、これらすべての忌み嫌うべきことをするためか。わたしの名がつけられているこの家は、あなたがたの目に強盗の巣と見えたのか。見よ、このわたしもそう見ていた──主のことば──。 エレミヤ書を引用しながらイエスは批判していますが、その対象は、暴利を貪っている商人たち、それを許していた祭司や律法学者たちだけではありません。「売り買いしている人を追い出し始め」と15節にあることから、商人から生贄を買っていたユダヤ人たちにも向けられていることばでした。彼らユダヤ人に共通するのは選民意識です。「アブラハムを父祖とする我らユダヤ人は特別に選ばれている神の民。我々は救われている。それだけはない!このように神殿に来てお金も払って生贄を買って捧げている。神は喜んでくれているはずだ!そして犯した罪はことごとく全て赦されているはずだ!」 しかしイエスは、彼らユダヤの人々が生贄を形式的に、また慣習的に献げていることを見抜いていました。このような民の形式的、偽善的な姿が旧約聖書に記されています。ホセア書です。イエスの時代から750年ほど前に書かれたものですが、イエスの時代の人々と何ら変わることはありません。この時の北イスラエルは経済的には繁栄していましたが、民はバアル崇拝などの偶像崇拝を行いながら、神である主にも生贄を捧げていました。加えて富める者が貧しい者を虐げ、倫理的にも道徳的にも腐敗していた時です。主なる神は預言者ホセアを通して、彼らにその思いを伝えられました。それがホセア書6:6節に描写されています。「わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない。全焼のささげ物よりむしろ、神を知ることである。」
神が求めておられるのは「表面的な儀式(いけにえ)」ではなく、愛に基づく「神との個人的な関係(神を知ること)」であるということです。神が人間に対して、愛と信頼の関係を築き、人格的な交わりを求めておられることを意味します。著者のホセアに語られた主なる神のイスラエル民族に対する思いと、本日の宮清めにおける群衆に対するイエスの思いと重なります。
この神の御心、すなわちイエスの御心に反するのが、今まで見て来たように、神殿を利用して、つまり神を利用して商売をしている人々でした。また、自分の利益のために彼らを支援していた宗教指導者たちでした。そして儀式的に、また形式的に罪だけが赦されれば良いという、言わば神のご機嫌取りをしているユダヤの人々でした。なぜそのように言えるかと言えば、彼らが生贄を持参しないで神殿に来ているからです。生贄を準備、用意せず、神殿で気軽に買えばいいというところに、彼らの神に対する態度が表れています。 イエスはそのような人々が集まっている神殿が強盗の巣のようであると嘆き、憂い、怒られました。 一方イエスは神殿の主として、礼拝されるべき神として、イエスを信じる人々を御前に集めようと、集めたいと願っておられます。そのイエスの思い、願いが、平行箇所のマタイの福音書に表されています。21章14節です。また、宮の中で、目の見えない人たちや足の不自由な人たちがみもとに来たので、イエスは彼らを癒やされた。
いつもイエスがなされる癒しのように見えますが、実はこれは凄いことです。普段であればあり得ないことです。異邦人は異邦人の庭と呼ばれる場所に入ることができました。しかし体に障害を持っている人々は、神殿の本体である聖所、至聖所はもちろんのこと、その境内にすら立ち入ることは許されていませんでした。 しかし彼らは神殿に入って来ました。イエスが神殿で大暴れされ、一時的に神殿がパニックに陥っているその混乱に乗じて。 普段は神殿から締め出されて神殿の門のところで物乞いをすることしかできなかった盲人たち、足の不自由な人々などが神殿内に入り込んで来たということです。イエスを、神を求める姿です。そこでイエスは彼らを癒されました。
イエスは体に障害を持っている人たちを癒すことによって、障害のあるなしに関わらず、またユダヤ人たちが軽蔑していた異邦人、つまり民族の違いに関わらず、イエスを信じる者全ては神殿に入ることができる。また神であるイエスを拝することができる、つまりイエスを神として信じ、礼拝することができる、ということが表しておられます。
今回の宮清めにおいて、イエスの語られたこと、またなされた全てのことは、神殿当局者たちの激しい怒りと敵意をもたらしました。それはイエスがご自分のことを神であると宣言され、商人はおろか、祭司長や律法学者たちのような宗教指導者を批判し、さらに神殿における慣習を破って、障害を持っている人々が神殿に入るのを許可し、癒されたからです。 前回見ましたが、人々が決して触れることのない盲人のバルティマイを、イエスは立ち止まり、声をかけ、触れて癒されました。従って今回も、イエスは差別されている人々にも手を触れて癒されたでしょう。このように神殿の主であり、礼拝されるべき神として、イエスは民族や慣習を超えて、イエスを信じる人々を御前に集めようとされておられます。 このようにイエスは正しいこと、また愛に満ちたことをなされましたが、宗教指導者たちはイエスに反発しました。彼らの敵意が18節に描写されています。
祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。群衆がみなその教えに驚嘆していたため、彼らはイエスを恐れていたのである。
彼らは、群衆がイエスの教えに驚嘆し、イエスを信頼し、さらに支持していく。人気が出ることによって自分たちから離れていくことが赦せませんでした。彼らは群衆を自分たちに惹きつけておきたかった。自分たちが、人々を神に近づけるように手助けする奉仕者とは考えずに、神が、人々を自分に近づけるのを手助けするとことを願っていた、ということです。これは神殿という場所において商売をしていた人々と、同じではないでしょうか。 言わば神を利用して自分の願い、欲望を満たそうとする姿です。 彼らは不正をしていました。また彼らは誤りを犯すだけでは気がすまず、自分の誤りを指摘する者に対して殺意を抱くという、神を知らない者、信じない者がどのように神に向かうのか。敵対するのか。罪深い人間の姿を浮き彫りにしています。恐ろしいことですが、まさにこのような人間の罪が、イエスを十字架に釘付ける原因となりました。 神殿を利用して、神を利用して商売する、儲ける人々をイエスは追い出されました。一方ユダヤ人たちから蔑まれていた異邦人たちが礼拝できるように、宮、神殿をきよめられました。また昔からの慣習を破られ、障害のある人々が神殿に入ることを許可され、イエスを信じ、求める人々を癒されました。別の見方をするならば、イエスは彼らを神殿に招かれた、と言うこともできるかもしれません。
今は受難節です。イエスの十字架の贖い、犠牲に心を留め、思い巡らし感謝を持つ時です。   神殿の主、神の国の主、万物の主であるイエス・キリストが、今も、現代においても、イエスを信じ、イエスを礼拝する者たちを、ご自分の十字架の下に集めようとされておられる。そのように思います。 神殿-現代においては教会において共に集まり、イエスを礼拝できることを感謝します。イエスの十字架がなければ、また招きがなければ、私たちはこのように共にイエスを礼拝することはありませんでした。イエスに感謝しつつ、今日も共にイエスの十字架に目を向けたいと思います。
祈ります。「強盗の巣」
そして、人々に教えて言われた。「『わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではないか。

2026/3/22(日)「それぞれの思惑」マルコ11:1~11 庄司牧師

2026年3月22日 マルコの福音書11:1~11 「それぞれの思惑」
さて、一行がエルサレムに近づき、オリーブ山のふもとのベテパゲとベタニアに来たとき、イエスはこう言って二人の弟子を遣わされた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばが、つながれているのに気がつくでしょう。それをほどいて、引いて来なさい。もしだれかが、『なぜそんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐに、またここにお返しします』と言いなさい。」弟子たちは出かけて行き、表通りにある家の戸口に、子ろばがつながれているのを見つけたので、それをほどいた。すると、そこに立っていた何人かが言った。「子ろばをほどいたりして、どうするのか。」弟子たちが、イエスの言われたとおりに話すと、彼らは許してくれた。それで、子ろばをイエスのところに引いて行き、自分たちの上着をその上に掛けた。イエスはそれに乗られた。すると、多くの人たちが自分たちの上着を道に敷き、ほかの人たちは葉の付いた枝を野から切って来て敷いた。そして、前を行く人たちも、後に続く人たちも叫んだ。「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。祝福あれ、われらの父ダビデの、来たるべき国に。ホサナ、いと高き所に。」こうしてイエスはエルサレムに着き、宮に入られた。そして、すべてを見て回った後、すでに夕方になっていたので、十二人と一緒にベタニアに出て行かれた。

いよいよイエスと弟子の一行は、十字架の待っているエルサレムに入城(入場⇔退場ではない)することになります。イエスの公生涯の三年半、そのほとんどはガリラヤとその周辺を舞台とした宣教でした。しかし公生涯の最後の一週間は、イスラエルの中心地であるエルサレムにおいての宣教です。わずか一週間のエルサレム宣教の記述は、マルコの福音書16章のうち、11~16章の6章分、三分の一ほどを費やしています。イエスの十字架、葬り、復活がどれほど大切なのかが分かります。 1節に記されていますが、イエスと弟子たちはエリコの町を出発し、長い坂道を上って、オリーブ山のふもとのベテパゲ、またその近くにあるベタニアの町までやって来ました。 これはイエスが十字架にかけられる前の週の、金曜日に当たります。イエスの一行は、翌日の土曜日は安息日だったためそのままエルサレムには入らず、ベタニアでマルタとマリア、ラザロの家で一日を過ごされ、日曜日にエルサレムに入られました。
エルサレムに入られる時、イエスは二人の弟子を使いに出して、「向こうの村」からロバを借りて来るように言われました。「向こうの村」とはベテパゲかベタニアのどちらかになります。 ベタニアにはマルタとマリア、ラザロの家がありました。彼らはイエスを愛し、従い、協力を惜しまない家族でした。またこのベタニアだけでなく、隣の町のベテパゲにも、イエスの弟子や協力者がいたと思われます。それでロバの持ち主は以前から、イエスのためにできることがあれば、何か手伝うと言っていたかもしれません。いずれにせよ、イエスが命じられた通り、イエスの使いはロバを借りることができました。 二人の弟子たちとロバの持ち主のやり取りは、イエスが予知、前もって全てを知っておられることの現われです。 イエスの言われたことは実際に成就、実現しました。そしてイエスがロバに乗ってエルサレムに到着した時の人々の様子が、8節から10節に描写されています。8節にはこのように記されています。多くの人たちが自分たちの上着を道に敷き、ほかの人たちは葉の付いた枝を野から切って来て敷いた。人々がイエスを大歓迎している様子が描写されています。葉の付いた枝を敷いたとありますが、ヨハネの福音書の12章には、その葉の付いた枝を「棕櫚の木」と記しています。そのため現在では、イエスがエルサレムに入城した日を記念して、イースターの一週間前の日曜日を、「棕櫚の日曜日」と呼んでいます。

一方イエスがロバに乗ってエルサレムに入られることは、旧約聖書に記されている預言の成就、実現でもありました。旧約聖書、ゼカリヤ書にはこのように記されています。9章9節。
娘シオンよ、大いに喜べ。娘エルサレムよ、喜び叫べ。見よ、あなたの王があなたのところに来る。義なる者で、勝利を得、柔和な者で、ろばに乗って。雌ろばの子である、ろばに乗って。
ゼカリヤ書に記されているシオンの娘とは、エルサレムの住民を指す詩的な表現です。イエスの生まれる前、約500年前に書き記されたザカリヤ書ですが、果たしてその預言通りにイエスはロバに乗ってエルサレムに入城されました。群衆がイエスの入城をこの預言の観点から見て、イエスを王として迎えたことは疑う余地がありません。また人々は歓喜のあまり、讃美をもってイエスを迎え入れています。この時の様子が9節と10節に描写されています。
「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。祝福あれ、われらの父ダビデの、来たるべき国に。ホサナ、いと高き所に。」これは詩篇を群衆が引用してイエスを讃美している姿です。
「ホサナ」ということばは、現代においても神やイエスへの深い感謝、称賛、喜びを表す言葉として使われています。 群衆は熱狂的にエルサレムに入城したイエスを大歓迎しました。
ここまで見ると、イエスがエルサレムに入られたことは、何も問題がないように思えます。しかし同じ出来事が、別の角度で記されている他の福音書と読み比べて見る時、色々な人間模様が見え、また群衆それぞれに、イエスに対する様々な思惑があることが見えて来ます。

例えばマタイの福音書の21:10,11節です。ホサナと叫んでイエスを大歓迎している様子はマルコの福音書と変わりませんが、このように描写されています。
こうしてイエスがエルサレムに入られると、都中が大騒ぎになり、「この人はだれなのか」と言った。群衆は「この人はガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言っていた。
イエスを大歓迎している群衆の中に、「この人はだれなのか」と、イエスが何者であるかが分かっていない人々がいたということが分かります。また「この人はだれなのか」という問いに対して
「この人はガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と答えた別の群衆がありました。イエスを力ある一預言者として捉えていますが、罪から救う救い主とは捉えていません。つまりそこにいた群衆は、イエスが偉大な者であると認識していたかもしれませんが、ただの人間として捉えているということが分かります。
また、平行箇所のヨハネの福音書12章には、このような宗教指導者のことばが記されています。
それで、パリサイ人たちは互いに言った。「見てみなさい。何一つうまくいっていない。見なさい。世はこぞってあの人の後について行ってしまった。」

イエスが人々に人気となり、自分たちから人々が去っていくのを嘆き、またイエスに嫉妬している姿です。彼らはイエスの人気が高まり、それが暴動に発展すれば、ローマ帝国の軍隊が介入して自分たちの立場が危うくなる。嫉妬だけでなく、自分の身を守ろうろうとする保身も垣間見えます。そこからイエスを殺害したいという思いにまで発展していき、実際にイエスを十字架に架けていく動力となっていきます。
マルコの福音書に戻りますが、10節で群衆は、われらの父ダビデの、来たるべき国に。とイエスを歓迎しています。一方マタイの福音書の21章には、「ホサナ、ダビデの子に」と、群衆がイエスを賛美しています。「ダビデの国、ダビデの子」と群衆が賛美したのは、イエスがダビデ王の子孫として、強かったダビデ王国を再び復興させてくれる、この世の政治的な王であると捉えていたということです。その力を持ってローマ帝国を蹴散らし、ユダヤをローマ帝国から解放し、再びダビデ王国を復興してくれる。群衆はそのような期待を、イエスに対して持ちました。
罪を赦し、神との関係を回復させるためにイエスがこの世界に来て下さった救い主である、ということを、群衆のほとんどが理解していない、分かっていないということです。

棕櫚の枝を持ってイエスを熱烈に歓迎した人々が、数日後にはイエスを十字架につけろと叫ぶ者たちに変わっていきます。例え宗教指導者である祭司長やパリサイ人、律法学者の巧みな扇動に乗せられたとはいえ、です。イエスを大喜びで迎えた人々が、僅か一週間の後、「この男を殺せ!」と叫ぶ者に変わっている。自分の上着を差し出して「ホサナ」と歓声を上げてイエスを迎えた人々が、一週間後には「十字架につけろ。殺せ」と叫びだす。なぜでしょうか。
それはこの後イエスが、自分たちをローマ帝国から解放しないことが分かったからです。彼らは自分たちの期待が裏切られたからです。彼らの思惑、目論見が叶わなかったからです。彼らはイエスに対する失望を怒りに変え、イエスに敵対する者になってしまいました。これが罪深い人間の姿だと言わざるを得ません。

本日の聖書の箇所には他にも色々な人々、色々な思惑を持っている人々が登場します。
ラザロをはじめ、イエスがなさった奇蹟、しるしを見たい、確かめたいと好奇心で集まっている人々。過ぎ越しの祭りを祝いに来た巡礼中だった人々。イエスの力ある奇蹟を見て、地上の力ある王とみなす人々。イエスが武力でローマ帝国から解放してくれるとイエスに望みを置いた人々。イエスが何者なのか疑っている人々。イエスを旧約聖書に登場する一預言者とみなしている人々。そしてイエスの人気を自分たちの人気と比べて憎しみ、嫌悪する人々。一方その中には先週見たバルティマイをはじめ、イエスに信頼し、イエスを罪からの救い主と信仰をもって従っていた人々もいました。
イエス・キリストを通して、色々な人間がいることが浮き彫りになっていきます。

一方群衆からの歓迎と讃美を受けられたイエスの思い、心情はどのようなものだったでしょうか。本日見ているマルコの福音書、マタイ、ヨハネの福音書にはこの時のイエスの思いは描写されていません。沈黙しています。それはルカの福音書においてのみ、イエスの思いが描かれています。ルカの福音書19章41節、42節です。このように描写されています。エルサレムに近づいて、都をご覧になったイエスは、この都のために泣いて、言われた。「もし、平和に向かう道を、この日おまえも知っていたら──。しかし今、それはおまえの目から隠されている。」
色々な思惑のある人々。イエスによってもたらされようとしている、神の国の訪れを見ようとしない人々。神との平和、神の恵みを拒んでしまった人々。このような驕り高ぶりの結果、それから40年足らずの間にこのエルサレムはローマ軍によって徹底的に破壊され、エルサレムに住む人々は死と苦しみを味わうことになりました。エルサレムの現実の姿と、将来のエルサレムに対してイエスは涙を流されました。

私たち人間は理想を求めます。追い求める存在です。それは神に対しても同じです。強くて優しい神が欲しい。奇蹟を経験させてくれる神が欲しい。分かり易く理解できる神が欲しい。自分の願いを叶え、自分の思い通りに動いてくれる神が欲しい。
イエスは、私たち人間が持つ神概念、神に求める理想や期待を否定され、覆されました。 それは子ロバにまたがり、エルサレムに入城する姿を通して表されています。イエスはロバに乗ってエルサレムに入られました。 普通王のように偉大な者であれば、馬に乗って登場します。敵に勝ち、自分の国に帰って来た英雄は、凱旋の時に馬に乗って来ることからも分かります。 馬は勝利の象徴であり、戦いの象徴です。 もし馬でエルサレムに入ってこれば、それは見栄えも良いものです。
しかしイエスはエルサレムにロバで入城されました。しかもロバの子どもです。まだ体の未成熟な子ロバがヨチヨチ歩くその上に、メシヤなるお方が乗っている。あまりにも滑稽な、間の抜けた光景ではないでしょうか。 この登場によってイエスは、戦いの王を求める群衆に対し、自分の理想や期待を求める群衆に対し、ご自身が平和の王であることを宣言されています。声なき宣言です。子ロバにまたがる平和の君、キリストとして、イエスは人々にご自身を現わされました。 そしてイエスがキリスト、救い主として完成されるのが、十字架を通してでした。
11節、こうしてイエスはエルサレムに着き、宮に入られた。群衆のイエスに対する無理解、勝手な理想と期待、自己中心的な姿を見た後イエスは、将来のエルサレムの姿と重ねながら、涙と共に、神が臨在される宮に入られました。罪深い人間の身代わりのために十字架に架けられるという、神が立てられたご計画をいよいよ実行に移されていく時の痛み、孤独、叫びを祈られたのだと思います。 イエスは父なる神の御心を第一にされました。いのちをかけて神のご計画に従われ、ロバに乗って来られるほどに謙られ、柔和なお方でした。 それは全て、私たち人間への愛でした。

私たち人間の様々な思惑を超えて、イエスは十字架を通して私たち人間の救いを完成させて下さったお方です。そのイエスの十字架の苦しみを、十字架を偲ぶ受難節で覚え、また感謝をお捧げしたいと思います。
祈ります
「それぞれの思惑」
こうしてイエスはエルサレムに着き、宮に入られた。
十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。
(Ⅰコリント1:18)
この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。
(Ⅰコリント1:21)

2026/3/15(日)「癒しよりも大切なこと」マルコ10:46~52 庄司牧師

2026年3月15日 マルコの福音書10:46~52 「癒しより大切なこと」
さて、一行はエリコに着いた。そしてイエスが、弟子たちや多くの群衆と一緒にエリコを出て行かれると、ティマイの子のバルティマイという目の見えない物乞いが、道端に座っていた。彼は、ナザレのイエスがおられると聞いて、「ダビデの子のイエス様、私をあわれんでください」と叫び始めた。多くの人たちが彼を黙らせようとたしなめたが、「ダビデの子よ、私をあわれんでください」と、ますます叫んだ。イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい」と言われた。そこで、彼らはその目の見えない人を呼んで、「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたを呼んでおられる」と言った。その人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。イエスは彼に言われた。「わたしに何をしてほしいのですか。」すると、その目の見えない人は言った。「先生、目が見えるようにしてください。」そこでイエスは言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救いました。」すると、すぐに彼は見えるようになり、道を進むイエスについて行った。

 マルコの福音書、10章の最後に記されている出来事です。本日の箇所において著者のマルコは、二つの大切なことを理解するようと、読み手に願っているように思います。 その一つは、イエスが私たち人間に仕えるためにこの世界に来て下さったこと。もう一つは、バルティマイのように霊の目が開かれ、大切なことを悟り、救われることです。 人に仕える大切さは、先週取り挙げたマルコの福音書10章45節において、イエスご自身が語られたことでした。
人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。
神の一人子であり、神そのものであるイエスが、「人間」となってこの世界に飛びこんで来て下さいました。イエスは父なる神の御心に100%、完全に従われました。それは贖いのためでした。
罪と死と、サタンの奴隷になっている私たち人間のために、イエスはご自分のいのちを、十字架で代価として支払って下さいました。しもべとして、徹底的に私たち人間に仕えて下さったのがイエスですが、そのしもべとして姿勢、姿・態度が、本日の聖書の箇所である、バルティマイの癒しにも表されています。

当時、宗教指導者であったラビなどは、歩きながら人々に教えていました。おそらくイエスもエリコの町において、歩きながら人々を教え、福音を語っておられたと思います。そんな中、盲目であるバルティマイが叫んでいます。 48節に、「多くの人たちが彼を黙らせようとたしなめた」とありますが、たしなめるということばは、「厳しく言う」とか、「非難する」という意味が含まれている強いことばです。「うるさい、邪魔だ!イエスが言っていることが聞こえないじゃないか!イエスが盲人のお前なんかを相手をする訳ないだろ!どうせお前の目は癒されない!」バルティマイに対して汚いことば、誹謗中傷などが飛び交っていたと想像します。当時のユダヤ人たちは、障害や重い病気などを患っている人は、本人か先祖が罪を犯したゆえに、その罪に対する神からの罰(呪い)であると考えられていました。ですからバルティマイのような盲人は、神から呪われた者として、人々から嫌悪されるような存在であり、誰も近寄って来ることはなかったでしょう。
誰も見向きもしない存在。誰も近寄って来ない存在。それがバルティマイでした。
バルティマイが叫んでいる騒然としている最中、イエスはどういう状況にあったでしょうか。
イエスご自身、緊迫している状況にありました。 イエスとイエスの弟子の一行がエリコの町までやって来ました。これからイエスが十字架に架けられるために向かって行くエルサレムから、わずか3,40キロほどしか離れていません。エリコの町から歩いて1日から2日かかかるというくらい、エルサレムに近づいて来ました。これから全人類の罪を十字架で全て背負って死ぬという、神からの、途方もない使命を全うする時が近づいて来ました。 イエスが一人の盲人に関わり合っている余裕は、肉体的にも、また精神的にもないような場面です。しかしイエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい」と、言われました。彼の叫びがイエスの足を止めました。彼の熱心が、イエスの足を止め、イエスを振り向かせました。そしてイエスは彼を癒されました。
このマルコの福音書では、信仰を通して彼が癒されたことが記されています。平行箇所のルカの福音書の18章においては、イエスがことばで命じることによってバルティマイは癒されています。また同じく平行箇所のマタイの福音書の20章においては、イエスが実際に彼の目に触れて癒しておられます。生きるための力も希望も喜びもなく、社会から排除されていたバルティマイのために、イエスは立ち止まり、声をかけ、体に触れられ、癒されました。
またマタイの福音書の20章には、「イエスは深くあわれんで」という、バルティマイに対するイエスの深い同情が描写されています。イエスは深く憐れみつつ、バルティマイに声をかけ、手で触れて癒されました。「私は仕えられるためではなく、仕えるために来た」とイエスは言われました。社会の底辺にいたようなバルティマイに対してもイエスは誠実に、また優しく振舞われました。ですからイエスのバルティマイへの対応は、イエスが仕えるために来たと言われたことが本当であり、偽りではないことの試金石、証となっています。 全ての人類、私たち全ての人間に仕えるために私たちの世界に来て下さった、それが私たちの主、イエス・キリストです。

著者のマルコが本日の箇所で強調したのは二つでした。イエスが仕えるために来たと語られたことが本当であったこと。そしてもう一つは、私たちの霊的な目が開かれ、救われることです。
なぜバルティマイが救われていると言えるのか。すなわち罪が赦され、神との関係が回復したのが分かるのか。 それはバルティマイが、癒された後にイエスについて行ったからです。バルティマイは目が癒された後、「道を進むイエスについて行った」と、最後の節である52節に記されています。 前の聖書訳は、「イエスの行かれるところについて行った」と訳されています。そのどちらの翻訳においても、バルティマイはイエスが行かれるところにはどこにでもついて行く、ついて行ったという含みがある表現です。イエスの後について行く、従って行くというバルティマイの意志、決意、イエスに対する強い信頼を感じさせる表現が使われています。バルティマイがイエスを自分の主、救い主であると信じなければできない行動であり、あり方です。また著者のマルコは彼の名前を記しました。彼の名前が聖書に載るということは、おそらく初代教会において、彼がキリストの弟子として活躍した可能性を示しています。この後聖書の中に彼の名前は出て来ませんが、名前が載っているということで、彼の活躍が暗示されていると言えるでしょう。
バルティマイは盲目であり46節を見ると、道端に座っていたと記されています。座っていたという時制を見ると、バルティマイはそこにずっと座っていたことが分かる時制です。つまり彼は長い間盲目であったため、物乞いをせざるを得ない状況だったということです。 もしかすると生まれつき盲目であり、彼の家族はすでに亡くなったか、または家族に捨てられてしまったということも考えられます。いずれにせよ彼が孤独だったことには変わりありません。しかしイエスに出会い、彼は肉体的な目だけでなく、イエスを知り、信じるという霊的な目も開かれました。それゆえイエスが神であり、救い主であるということを信じることが出来ました。 家族も、仕事も、地位も名誉も何も持っていなかったバルティマイは、神との関係が回復し、神の子とされ、神の家族に迎え入れられ、更にイエスの弟子としてイエスについていきました。彼の人生は大きく変わりました。人々に見下され、価値があるとは見なされない、何も持っていないような者が救いを受ける。イエスを信じることによる大転換、大逆転劇がバルティマイに起こりました。

イエスがこの世界におられた時、他にもイエスを知る機会があり、実際にイエスと接することができた人は、バルティマイだけではありません-大勢いました、
イエスに敵対していましたが、旧約聖書を教えていた民の指導者でもあった律法学者やパリサイ人たち。イエスに悪霊を追い出してもらった人々。病を癒してもらった人々。イエスの奇蹟を見、あるいは経験した多くの群衆などです。 その中にはバルティマイとは正反対の立場にあった、金持ちの青年も含まれます。彼は財産も高い地位も名誉も、人がうらやむ全てを持っていました。しかしイエスの下から立ち去っていきました。この青年をはじめ、多くの人々がイエスと接点がありました。もっとイエスを知ることも、さらに一歩踏み込んでイエスを信じることもできました。しかしイエスから立ち去って行きました。
聖書によれば、またイエスご自身が言われることばによれば、イエスと信仰によって繋がらなかった者は、イエスの贖いの代価に伴う罪の赦しや神の子とされる特権、永遠のいのちなどに与ることができません。神の国に入れる者と入れない者は、イエスを信じるか信じないかで決まります。

また、バルティマイが救われているという根拠は、彼の叫びにも表れています。彼はイエスのことを「ダビデの子」と叫びました。当時のユダヤの人々は、救い主、メシヤがダビデの子孫から出ると信じていました。バルティマイは、目は見えませんでしたが、耳は聞こえていました。彼は他の人々からイエスの噂や色々な御業を聞いてきた結果、イエスをすでに救い主であると信じました。彼の叫びから、また、イエスに呼ばれて踊り上がってイエスの下に来た、と言う描写からも明らかです。 イエスが自分のところに来て下さるだけで自分は癒される。そのような強い確信をバルティマイが持っていたことが分かります。そして彼はイエスを信じているがゆえに、癒しのチャンスを絶対に自分のものにしようとしました。しかし彼ができることは叫ぶことだけでした。それゆえ彼は自分の出来ること、イエスを信じる信仰を、叫ぶことを通して表明しました。 加えて彼の信仰とその確信は、上着を投げ捨てたことにも表されています。 この上着とは、普段着の上に羽織る厚手の布やマントのようなものです。多機能でした。昼間は寒さを防ぎ、夜は寒さを防ぐだけでなく、毛布の代わりになるような、特に貧しいに人にとっては命を守るほどに大切なものでした。それゆえ、バルティマイの持っていた唯一の財産であったと言えるものです。 この上着はバルティマイにとって、ただの上着ではありませんでした。生活の基盤であり、自分の全て、でした。これを投げ捨てる。まるでこれまでの自分を捨て、自分の持っているものをイエスに差し出す。
イエスに対する献身の現れにも見えます。

バルティマイのイエスに対する信仰、信頼、意志、決意、決断、献身の思いに、イエスはしっかりと応答して下さいました。イエスは52節においてこのようにバルティマイに語られました。
「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救いました。」この後すぐにバルティマイは癒されました。実際にバルティマイを癒されたのはイエスご自身です。実際に彼を癒し、同時に永遠のいのちを与え、滅びから救われたのはイエスご自身でした。しかしイエスは、彼自身の信仰が彼を、バルティマイ自身を救った-救いを彼の手柄としているほどに、彼の信仰を高く評価されています。イエスはバルティマイの信仰、決心、決断、意志、献身の思いに応えるだけではなく、彼の信仰を尊んでおられます。自分の持っている全てをかけてイエスの下にきたバルティマイに対する、イエスの愛と憐れみ、優しさが、バルティマイへの応答を通して豊かに表されています。

そしてバルティマイはイエスの行くところにはどこにでも、進まれるところにはどんな場所でもついて行くことになります。 こうしてバルティマイは数日後、十字架上で叫び声を上げられるイエスの姿を見ることになります。イエスに開いて頂いたその目で、自分の目を開いて下さったお方が十字架につけられる光景をしっかりと見たのです。自分のために足を留め、立ち止って下さったイエス。自分という存在を認め、肉体的な目を開いて下さったイエス。霊的な目も開き、永遠のいのちも与えて下さったイエス。 その愛すべきイエスが自分の罪の身代わりのために、人々の罪の身代わりのために十字架に架けられている。
この時バルティマイは、自分の存在の重みを感じたはずです。私のためにイエスは十字架に架かって下さるほど私を愛しておられる。私をそれほどまでに価値のある者なのだ。 感謝と痛みが、バルティマイの胸にあったと思います。

バルティマイだけではありません。私たちの信仰に応えて下さったイエス。私たちを高価で尊いと言って下さり、認めて下さったイエス。罪人である私たちを、私を憐れみ、愛され、ご自分を献げ尽くして下さったイエス。

この神の子、救い主であるイエス・キリストが、私たちの神、私の主になって下さったことを感謝しつつ、これからもイエスについて行く者、足跡に従う者でありたいと願います。
祈ります
「癒しより大切なこと」
そこでイエスは言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救いました。」すると、すぐに彼は見えるようになり、道を進むイエスについて行った。

2026/3/8(日)「自分の力でイエスを信じることができますか?」Ⅰコリント12:3b 庄司牧師

2026年3月8日 問39 あなたは自分で罪を悔い改め、イエスさまを信じることができますか。
「自分の力でイエスを信じることができますか?」
答 いいえ。聖霊が私たちの心にはたらいて、イエスさまを信じるようにしてくださるのです。
招詞Ⅰ ヨハネ4:3イエスを告白しない霊はみな、神からのものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていましたが、今すでに世に来ているのです。                                       
今週のみ言葉 コリント人への手紙第一12章3節b
聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。          
月の第二日曜日です。いつものように子ども信仰問答からお話をしていきます。本日はコリントにある(今のギリシャ)に向けて書かれた手紙です。著者はかつてキリスト者を迫害していたパウロです。彼はイエスを信じてから大きく変えられました。パウロは他の手紙で、自分のことを  「キリスト・イエスのしもべ、パウロ」と紹介していることからも分かります。イエスを自分の主人、自分はそのしもべ、奴隷であると認識している挨拶です。本日の聖書箇所も、主人としもべの関係が記されています。それは「イエスは主」と記されているからです。イエスを主と、自分の主人と呼ぶことが出来るのは、パウロを始めとして、イエスを信じる人々、つまり私たちも含まれます。本日の信仰問答の質問には、「自分で罪を悔い改め、イエスさまを信じることができますか。」とありました。悔い改めとは方向転換です。何からの方向転換と言えば、罪からの方向転換。 罪とは、言い換えれば自分中心です。神を無視し、時に神に敵対し、ただ自分だけに焦点を合わせて生きることです。自分の思い、願い、欲求など、自分のしたいことだけをする、自分が人生の主であるという生き方です。そこからの方向転換ですから、自分中心に生き、神から離れて生きているという罪に背を向け、イエスの方に向き直る。目を向ける。イエスの方に焦点を合わせていく姿勢、態度、そして生き方が、罪を悔い改める者に起こる、方向転換です。従って悔い改めとは、自分の罪を認め、イエスの愛と救いを受け入れ、新しい生き方へと踏み出す、深い決心、決意が込められていることばです。この宣言を心からするには、つまりイエスを自分の主と心から信じて告白することは、普通人間にはできません。それは、人間は自分が主、主人であるという生き方をしているからです。自分の生きたいように生きる。私たち生まれつきの人間は、そのような権利があり、そのような自由があると思っています。それは自分という存在が自分のものであり、自分自身に所属するものであると思っているからです。これは自分が「生きている」という状態です。しかしイエスが主という生き方は、主権が神に移ります。自分のいのちが、人生が、権利が、自由が…、神にある。自分の人生の主権を神が持っていると信じ、委ねて行く生き方です。ですからその生き方は、自分が生きるのではなく、神に、「生かされている」と言う歩みになっていきます。 人間はアダムとエバから続く罪を持っていますから、自分の力でそのような変化を生み出すことはできません。その力と転換をもたらすのはただ、神のみ、聖霊の力と導きです。また「イエスは主です」と言う告白は、イエスの33年間の公生涯において成された御業が、「私のためであった」と信じる告白でもあります。イエスが罪の身代わりに十字架で死なれた、それは私のためであった。そしてイエスが死者の中から甦られたのは、復活のいのちを私に与えるためであった。そのように信じ、受け入れるという信仰告白でもあります。 ですからイエスを主と告白する者は、すなわちイエスを自分の救い主であると信じ、イエスに従っていきたいと願う者は、おのずと生き方が変わっていきます。 これまで自分が自分の人生の主人として生きてきたことを止め、イエスの教えに従い、イエスが自分の人生を導いて下さると信じ、委ねていく人生となっていきます。従って「イエスは主です」という告白は、自らの全生活、全人生をイエスに委ねる、私たちキリスト者の根本的かつ最も短い宣言であり、信仰告白であると言えるでしょう。そしてこれは私たちの努力や行いにはよらず、神からのギフト、プレゼントであるということを、パウロは12章1節で述べています。さて、兄弟たち。御霊の賜物については、私はあなたがたに知らずにいてほしくありません。つまりイエスを主と告白できるのは、御霊、聖霊の働きであるのと同時に、これは私たちにとって賜物であるということです。賜物とは「贈り物」を意味します。受けるに値しない者に与えられる、神の一方的な好意です。神が、すなわちイエス・キリストが私たち人間に御霊を贈られたのは、私たちが御霊を通して救われて欲しいという願いからでもありますが、他にも理由、目的があります。そのことが7節に記されています。
皆の益となるために、一人ひとりに御霊の現れが与えられているのです。」 本日見ている12章には、具体的な御霊の現れが記されています。 ある人には信仰、癒し、預言などが、御霊の実際的な現れとして記されています。 コリントの教会は賜物が豊かに与えられている教会であったと、パウロはこの手紙に記しています。一方同時に、これらの賜物を誇っていた人々がいました。その結果、コリント教会に分裂、分派などといった問題が起こりました。コリント人への手紙は、そのような問題を起こしている人々に宛てた手紙でもあります。しかし本来賜物は、その賜物が与えられた人が自分を誇るためのものではなく、7節に記されているように、皆の益となるためだということを、私たちも心に留めておく必要があります。 これは霊的な賜物に限りません。その人の持っている能力、持ち物、経験、生まれから人格や性格などの違いも、皆が益となるためだと言うことです。
つまりキリストの体である教会が多様性に富み、豊かで、キリストの素晴らしさが表されるために、私たちはそれぞれが異なる能力や賜物が与えられ、教会に置かれている、合わされていると言うことです。そして教会が励まされ、徳が高められ、キリストの体が一致して建て上げられるためには、私たち一人一人が必要です。そのために神は、キリストの体である教会が建て上げられるために、私たち一人一人を招いて下さっています。 それゆえここにおられるお一人一人は、イエスに招かれ、イエスの体、可児キリスト教会を建て上げるために必要なお一人一人です。
この後、益田兄弟姉妹の転入会式が行われます。お二人にそれぞれ証をして頂きますが、この教会に来られるきっかけがいくつかありました。それは御霊、聖霊の導きであっただけでなく、イエスがお二人を-益田さん家族を-可児キリスト教会を建て上げるために招いて下さったと言うことができます。 感謝です。 キリストの体である可児キリスト教会を、これからも皆さんと共に、建て上げていきたいと願っています。
祈ります(聖霊、信仰、み言葉、イエスの十字架、復活、教会への招き、神のご計画)
あなたは自分で罪を悔い改め、イエスさまを信じることができますか。            
答 いいえ。聖霊が私たちの心にはたらいて、イエスさまを信じるようにしてくださるのです。
今週のみ言葉 コリント人への手紙第一12章3節b
聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。 

2026/3/1(日)「神の国を受け入れる」マルコ10:35~45 庄司牧師

2026年3月1日 マルコの福音書10:35~45「神の国を受け入れる」
ゼベダイの息子たち、ヤコブとヨハネが、イエスのところに来て言った。「先生。私たちが願うことをかなえていただきたいのです。」イエスは彼らに言われた。「何をしてほしいのですか。」彼らは言った。「あなたが栄光をお受けになるとき、一人があなたの右に、もう一人が左に座るようにしてください。」しかし、イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、自分が何を求めているのか分かっていません。わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができますか。」彼らは「できます」と言った。そこで、イエスは言われた。「確かにあなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることになります。しかし、わたしの右と左に座ることは、わたしが許すことではありません。それは備えられた人たちに与えられるのです。」ほかの十人はこれを聞いて、ヤコブとヨハネに腹を立て始めた。そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められている者たちは、人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。しかし、あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」( マルコの福音書10:35-45 )

今年のテーマは「神の国を受け入れる」です。前回、金持ちの青年のお話をしました。当時金持ちは神の祝福されている人、それゆえ救いに近い人だと思われていました。しかし彼は神よりも財産に執着したゆえに、神の国に入ることができないとイエスに指摘されました。
神、すなわちイエスが支配されておられる神の国の規準は、私たちの常識、価値観、規準とは「逆」「反対」であるという一つの例です。 本日の聖書箇所は、神の国の規準、すなわちイエスの規準が、人間の規準とは異なる最たるものです。共にみ言葉から見て行きたいと思います。
本日の聖書箇所は、弟子たちの願いから始まっています。
10:35 ゼベダイの息子たち、ヤコブとヨハネが、イエスのところに来て言った。「先生。私たちが願うことをかなえていただきたいのです。」イエスは人の心を見抜かれます。彼らの願いがどういうものであるかを御存知でした。しかしあえて彼らに願いを語らせました。
10:36 「何をしてほしいのですか。」心にあるものをことばに登らせることによって、イエスは彼ら自身が何を考え、何を願っているのかをはっきりさせました。しかし彼らが口に出したことは神の、すなわちイエスの規準の逆、反対のものでした。すなわち御心に適わない願いでした。
10:37 「あなたが栄光をお受けになるとき、一人があなたの右に、もう一人が左に座るようにしてください。」彼らは神の国を地上の王国のように考え、地上と同じような地位と栄光を求めました。主イエスが王となられる時に、自分たちを右と左に座らせてください、すなわち主イエスの側近く、最も高い地位につけてください、と願いました。ヤコブとヨハネは、他の弟子たちよりも偉くなりたいと思った訳です。 これを聞いた他の10人の弟子たちは腹を立てました。二人に出し抜かれたと思ったようです。彼らも権力や栄誉を求め、自分が最も偉くなり、イエスと共に高い地位につきたい、と思っていたことが分かります。かつてイエスの弟子たちは誰が一番偉いかと論じあっていたことがありましたが、全く変わっていません。それに対してイエスは38節で、
10:38 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、自分が何を求めているのか分かっていません。わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができますか。」
10:39 彼らは「できます」と言った。そこで、イエスは言われた。「確かにあなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることになります。
この杯とは何を指しているのでしょうか。イエスは十字架の直前、ゲツセマネの園でこのような祈りを献げられました。「父よ、もし出来るならばこの杯を私からとりのけて下さい」主イエスでさえ、断りたくなるような杯です。
旧約聖書、エレミヤ書、25章15節にはこのような神のことばがあります。まことにイスラエルの神、主は、私にこう言われた。「この憤りのぶどう酒の杯をわたしの手から取り、わたしがあなたを遣わすすべての国々に、これを飲ませよ。」従って杯とは、神の怒りが満たされているものの象徴であることが分かります。その怒りを飲ませるとは、神を信じない、神に従わない国々に、神の裁きが下るということが表されています。 先週出エジプト記を見ました。イスラエルが金の子牛を神として作り、崇め、不品行を行い、神に裁かれました。 しかし今の日本を見ても、また世界を見ても、イスラエルと全く変わりはありません。同じです。 偶像を作り、それを拝み、仕え、従っています。ですからイエスが言われる杯とは、神を信じない、従わない人類に対する神の怒りであり、その怒りは、罪ある全ての人間に向けられているということになります。
ではイエスが言われた、わたしが受けるバプテスマとは何を意味しているのでしょうか。イエスはルカの福音書の中でこのように語られています。ルカの福音書12:50 わたしには受けるべきバプテスマがあります。それが成し遂げられるまで、わたしはどれほど苦しむでしょう。
イエスが言われた受けるべきバプテスマとは、苦しみであることが分かります。そしてそのためにどれほど苦しまなければならないのか、というイエスの責任、義務、そして使命を感じさせることばです。 本日の聖書箇所には、私が受けるバプテスマと、神の怒りが満たされている杯とが結びついています。従って私が受けるバプテスマとは、杯、つまり神の怒りを飲む-すなわち神の怒りをその身に受ける、十字架の痛み、苦しみ、苦難を表していることが分かります。本来であれば犯罪者が架けられる十字架ですが、イエスは神の怒りを人類の身代わりに十字架で受け、その身代わりの苦難のことを、イエスは「私が受けるバプテスマ」と呼ばれました。
ですからイエスが「わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができますか。」ヤコブとヨハネに尋ねられた本当の意味は、あなたたちは神の怒りに触れることが出来ますか?
神の怒りに対して神と人との間に立ってとりなすことが出来ますか?神の怒りを宥めることができますか?神の怒りをその身に受けることができますか?そのように聞いておられるということです。途方もないことをイエスは二人に問われた。ヤコブとヨハネはもちろんそのようなことは分かりません。いや、どのような人間であっても分かるはずがありません。ですから彼らは分からず、その重大な意味を理解できなかったゆえに、簡単に「できます」と答えました。答えることができました。罪に対する、また神の怒りに対する人間の無知、理解の乏しさを弟子たちが代表し、また表していると言えます。 イエスは彼らの無知や無理解を承知の上で、「確かにあなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることになります。」と言われました。
それはイエスがあじあわれる十字架の苦しみとは比べることはできませんが、イエスのために、福音のために彼らが将来受けることになる迫害、痛み、苦難、そして死を予知、預言していることばでもあります。 実際に彼らは苦難や痛みをこれから経験して行くことになります。ヤコブはエルサレムで迫害のためにヘロデ王に殺害されて殉教します。(使徒12:2)そしてヨハネはローマ皇帝ドミティアヌスの迫害によって、パトモスという島に、島流しになりました。(黙示録1:9)
イエスはヤコブとヨハネの将来に起こることを踏まえながら、人間の願いと神のご計画が異なるということを40節で語られました。
10:40 しかし、わたしの右と左に座ることは、わたしが許すことではありません。それは備えられた人たちに与えられるのです。」このような名誉を意のままに与えることはイエスに任せられたのではなく、父なる神にのみ属するということです。 神の子であるイエスですら、父なる神の御心に、ご計画に従っている。そしてそれが人類の身代わりのための十字架である。従って自分の願いや計画よりも、神の御心、ご計画に従って生きることが一番大切である。栄誉や栄光を求めて生きることは重要ではない、ということをイエスは彼らに諭されています。 さらにイエスはここで、彼らが願っている栄誉、求めている栄光が、この世の規準、そして神を知らないで歩んでいる者たちと同じ-ここでは異邦人を代表させて-であることを42節で警告として語られ、そうあってはならない、そのように歩んではならないと43節、44節で語っておられます。
10:42 「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められている者たちは、人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。
10:43 しかし、あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。
イエスは異邦人世界の規準、すなわちこの世の規準と、神の国の規準、イエスご自身の持っておられる規準とを、明確に対比されました。それは自分のためではなく、他者のために仕え、尽くしていくことを使命とする生き方です。 さらに44節においてこのように語られました。
10:44 あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。
しもべとは、自分の身柄(仕事も生活も)が他者に属するいわゆる奴隷の意味です。従ってイエスは、神の国の価値観や生き方、規準はこの世のものとは全く反対で、偉い人、人の上に立ちたいと思っている人はむしろ徹底して仕えなさい。そして先頭に立つ者、支配者は、しもべのように、そして奴隷のように人々のために生きるべきだ、と言われました。 実際にイエスは、弟子たちに教えられたとおりに生きたお方です。45節にそのことが述べられています。
10:45 人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。
イエスの弟子たちがなぜ、仕える者の姿をとるべきなのかという理由、そして根拠が語られています。それはそもそもイエスが、仕えられるためにではなく、仕えるためにこの世に、この世界に来たからだ、ということです。そしてイエスが人々に仕えるためにこの世に来たということが具体的に表されているのが、「十字架」への歩みであり、また「十字架」で成し遂げられたことでした。
「十字架」への歩みと、「十字架」で成し遂げられたことをイエスはここで「贖いの代価」ということばを使って説明されておられます。
何度かお話していますが、贖いとは、戦争の捕虜や奴隷、負債者を解放するため、自由にするために、誰かがその人を買い戻すための身代金を意味します。「多くの人のため」とありますが、これは一部の人ではなく、人類を包括する、人類全てと理解して良いでしょう。イエスが人間として歩まれた今から2000年前の時代を超え、今を生きている日本人も、全ての国、民族も含まれます。イエスは、神を信ぜず、自分勝手に歩んでいる人間に対する神の怒りの杯を、十字架で全て受け止めて下さいました。またイエスが十字架で受け止められたのは神の怒りだけでなく、私たち人間の罪と、罪から来る死でした。さらにイエスは悪魔、サタンが人間の罪を足場にして、人間を奴隷にしているその私たち人間を、十字架を通して解放して下さるお方です。それら全てが十字架の贖いを通して成し遂げられました。 罪に束縛されている人間を解放し、神の怒りを宥め、またサタンの奴隷からも解放する業が十字架です。それもご自身が私たちを生かすためにしもべになり、奴隷となって仕えて下さったからです。 またこの45節には「贖い」という思想だけではありません。「いのちを与えるために来た」とイエスが語られた「いのち」にも深い意味があります。

「いのち」は、新約聖書の原語のギリシャ語で「プシュケー」ということばが使われていますが、いのちという意味の他に、魂、生涯、自分自身などを意味することばでもあります。 イエスは私たちたちを罪と死と、サタンの奴隷から解放するために私たちを贖って下さいましたが、その代価、すなわち私たち人類に捧げて下さったのはいのちだけではない-心、感情、意志などを含む魂、イエスの歩まれた全生涯、そしてイエスご自身。すなわちイエスは、イエスが持っておられるすべてを、私たちのために与え尽くして下さった、ということが表されていることばです。 そしてその全てが、十字架に集中、結集していると言えます。イエスの十字架の死は、「多くの人の身代金」としての、死でした。捕えられ、捕虜となっているのは私たちのことです。自分たちを右と左に座らせてくださいと願った二人の弟子たちも、それに憤慨した他の弟子たちも、そして人と自分とを見比べることによって一喜一憂している私たちも、すなわち罪の中に足を取られ、身動きできない私たち一人一人の人間のための、身代金でした。イエスが十字架に架かるほどに父なる神の御心に、またご計画に従順に従われました。それほどまでに私たち人間に仕えて下さったゆえに、今私たちはイエスの十字架の贖いを信じることによって罪赦され、神の子とされる特権に与ることができました。そしてイエスによって救われた私たちもまた、イエスが人々に仕えられたように、人に仕えていく者として召されています。どれだけ仕えることが出来るのか、他の人と比べてどうなのか、などということは問題にはなりません。不十分にしか出来ないかもしれませんが、それでも喜んで、感謝しつつ、自分に出来ることを通して人に仕えていく。イエスを模範として。
イエスの仕える姿は、この世、この世界の規準の逆、反対です。そしてその反対の規準にある神の国に、私たちはイエスを通して入れて頂けました。イエスに感謝しつつ、神の国、すなわちイエスの規準によって歩み、人々に仕えていくことができますように。
祈ります。
「神の国を受け入れる」
人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。

2026/2/22(日)「取り戻すために捨てる」出エジプト33:1~5 庄司牧師

2026年2月22日 「取り戻すために捨てる」 出エジプト33:1~6
主はモーセに言われた。「あなたも、あなたがエジプトの地から連れ上った民も、ここから上って行って、わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓って、『これをあなたの子孫に与える』と言った地に行け。わたしはあなたがたの前に一人の使いを遣わし、カナン人、アモリ人、ヒッタイト人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人を追い払い、乳と蜜の流れる地にあなたがたを行かせる。しかし、わたしは、あなたがたのただ中にあっては上らない。あなたがたはうなじを固くする民なので、わたしが途中であなたがたを絶ち滅ぼしてしまわないようにするためだ。」民はこの悪い知らせを聞いて嘆き悲しみ、一人も飾り物を身に着ける者はいなかった。主はモーセに次のように命じておられた。「イスラエルの子らに言え。『あなたがたは、うなじを固くする民だ。一時でも、あなたがたのただ中にあって上って行こうものなら、わたしはあなたがたを絶ち滅ぼしてしまうだろう。今、飾り物を身から取り外しなさい。そうすれば、あなたがたのために何をするべきかを考えよう。』」それでイスラエルの子らは、ホレブの山以後、自分の飾り物を外した。
今までの経緯を少し振り返ってみたいと思います。 イスラエルがまだエジプトで奴隷とされていた時に、主はモーセにこのように語られました。3:7,8をお読みします。後でお開き下さい。
主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみを確かに見、追い立てる者たちの前での彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを確かに知っている。わたしが下って来たのは、エジプトの手から彼らを救い出し、その地から、広く良い地、乳と蜜の流れる地に、カナン人、ヒッタイト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる場所に、彼らを導き上るためである。
神が約束された素晴らしい地であるカナン、現在のパレスチナと、そこに住んでいる民族が列挙されていますが、本日の聖書の箇所と同じです。 神はこの約束を守るためにリーダーとしてモーセを立て、実際に奴隷となっていたエジプトから、イスラエル民族を脱出させました。 神はまた、カナンの地にイスラエルを導き入れるために、この後彼らと契約を結ばれました。 その時の様子が以前共に見て来ましたが、24章に描写されています。「私の他に神があってはならない。偶像を造って拝んではならない。父と母を敬え、殺してはならない。犯してはならない。」など、10の教え戒めである十戒を中心とする教え、戒めがモーセを通じて伝えられ、彼らがそれを理解し、同意し、従うと決心してから結ばれた契約でした。この契約をもって神がイスラエルの神となり、イスラエルは神の民となるという特別な関係が結ばれた契約でもありました。
神と民の契約が結ばれた後、神はモーセをシナイ山に登らせました。さらにモーセに契約の細かい内容を伝えるためでした。それが25章から31章に記されています。 主なる神はモーセに全ての契約の内容を伝えると、最後に、契約のしるしとなる神の教えや戒めが記されている石の板を、モーセに授けました。その時の様子が31章の最後、18節に描写されています。
こうして主は、シナイ山でモーセと語り終えたとき、さとしの板を二枚、すなわち神の指で書き記された石の板をモーセにお授けになった。
モーセがシナイ山で主なる神から契約の内容を聞かされている時、山のふもとにいるイスラエルの民に起こった出来事が32章に記されています。悲惨な内容です。その出来事の結果、主なる神がイスラエルに決断されたこと、それも良くない、悲しい決断-が本日の聖書の箇所です。神がイスラエルにとって悲しい決断をされた背景は、イスラエルの民たちが犯した偶像礼拝でした。
モーセの帰りが遅い、どうかなってしまったのかと不安になったイスラエルの民は、自分たちを導く目に見える神を造るように祭司アロンに要求し、アロンは金の子牛の像を造りました。 人々はその金の子牛を神として拝み、その前で飲めや歌えの祭りを始めました。その最中にモーセが戻り、その様子を見て激しく怒りました。先ほど触れましたが、モーセが手にしていた石の板に記されている十戒には、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。あなたはいかなる像も造ってはならない。それらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない」と書かれています。 イスラエルの民はそれらの掟を既に聞いており、それを守ると約束しました。それゆえ神はイスラエルと契約を結んで下さったのです。しかしモーセが契約の印として石の板を神からいただいているまさにその時、イスラエルは金の子牛の像を造ってそれを拝むという、主なる神を裏切る罪を犯してしまいました。 この時モーセは、手にしていた石の板を砕きました。民が犯してしまった罪のために、神との契約が破綻-壊れ、台無しになってしまったということを表しています。この時神の怒りがイスラエルに向かって燃え上がり、彼らを絶ち滅ぼすとまで言われました。そこでモーセは神に執り成しました。罪を犯した民たちに代わって彼らのために祈り、神が下そうとしていた裁きが留められるように、神の憐れみを求めました。
神はモーセの執り成しの祈りに応えられ、金の子牛を拝んで、神に罪を犯した約三千人が主に打たれましたが、イスラエル民族全てが絶ち滅ぼされるという裁きは留められました。神は、罪は罪として本人に刈り取らせる義なる神であると同時に、情け深く、憐れみに富み、怒るに遅いお方であるということが表されています。
金の子牛を作って拝むというのは偶像礼拝であり、神との契約、約束を破る大きな罪でした。しかしイスラエルはそれまでにもずっと神を忍耐させて来ました。主なる神は、彼らイスラエル民族を、かつて奴隷とされていたエジプトからモーセを通して連れ出されましたが、その後、荒野におけるイスラエルの人々は、まさに主への不平、不満のオンパレードでした。しかし神はそのような彼らに対しても真実で誠実でした。 彼らイスラエルが、水がない!と言えば岩から水を出され、お腹が減ったと言えばうずらやマナ-天からのパンを降らせ、敵に攻撃されれば、その敵からも守って下さいました。 しかし彼らは神の真実、誠実さを裏切って金の子牛を作って拝むという、大きな罪を犯してしまう。彼らの自己中心的な身勝手さ、頑なで自分の思いに固執し、それを通そうと我を張る。神の御心をなかなか受け入れず、信じようとせず、従おうとしない、神からすればまことに扱いにくい、不従順な民であり、それは今に始まったことではない、ということです。 しかしそれでもモーセがいる間はモーセが神と民の間に立ち、仲介者、仲立ちをしてくれました。つまり彼らは神の御心を自ら求めるというよりも、モーセが言ったことに条件反射的に、もしくは仕方がなく従って来たという態度だったということです。その姿勢、態度が、モーセ不在の時に明らかになりました。 彼らに元々ある不信仰、不従順、自己中心性が、金の子牛を勝手に作り、神として礼拝するという偶像礼拝という形で露わにされ、明らかにされたに過ぎません。 そこで神は、彼らにショック療法を施されます。それが本日の聖書箇所です。
本日の聖書箇所の内容をまとめるならば、このようになるかもしれません。「私はあなたがたとは共に約束の地には行かない。もし一緒にいけば、あなたがたを滅ぼしてしまうかもしれない。私の代わりにあなたがたを導く御使い、天使は送る。しかし自分たち勝手にやりなさい。」
つまり本日の聖書箇所はある意味、イスラエルの民たちに対して愛想を尽かしている神がおられる、そのような場面です。 「民はこの悪い知らせを聞いて嘆き悲しみ」とありますから、主からの宣告はイスラエルにとってかなりのショックとなりました。
本日の出来事を、私たちが待ち望んでいる御国、神の国と関連させて想像して見て下さい。私たちクリスチャンが神の国に入ることができるのは、イエスが神であり、私たちの罪を赦し、神との関係を回復させて下さる救い主だと信じたからでした。 しかし私たちが自分の生涯を終えて神の国に復活の体を持って入る時、そこにイエスがおられなかったら。つまり神の気配も臨在もなかったならば。どんなに神の国が素晴らしくても神の国自身の意味も必要性も、価値もありません。
確かにイスラエルの民は不信仰で不従順でした。しかし神が共におられるということを経験してきました。出エジプトの時も、敵から守られた時も、必要な全てが与えられて来たことも。 彼らは神の臨在を肌で感じ、また経験して来ました。そしてそのショックは良い結果をもたらすことになります。 本日の聖書箇所において主なる神は、彼らに愛想を尽かしながらも、イスラエルの民を滅ぼすのではなく、以前約束されたように、彼らの祖先であるアブラハム、イサク、ヤコブに約束された土地に民を導こうとされています。しかし主ご自身はともに行かない、と言われました。その理由は神が聖なるお方であり、イスラエルの民の頑なさを見逃すことができないからです。もし彼らとカナンの地へと一緒にいて不正を見るならば、滅ぼさないではおられなくなる。神は民たちの罪を見逃すことはできない。そこで主なる神の代わりに、主の使いすなわち御使いが彼らを導くことになりました。しかし約束の地に導いてくれる御使いがどんなに偉大であり、また例え大きな力があっても、今までイスラエル民族を導いて来られた主なる神とは全く異なります。 神が自分たちとは共におられない-この時のイスラエルの人々の反応が4節に描写されています。民はこの悪い知らせを聞いて嘆き悲しみ、一人も飾り物を身に着ける者はいなかった。
彼らイスラエル民族は、これらの飾り物をどこから手にいれたのでしょうか。 この財産はイスラエルがまだエジプトで奴隷にされていた時、それも出エジプトの直前に得たものです。 神に言われた方法で、羊の血を家の鴨居と門柱に塗った者たち、すなわちイスラエル民族だけ、滅ぼす者が過ぎ去ってくれました。しかしそのことを知らなかったエジプトは、初子、すなわち初めに生まれた長男や長女、家畜に最初に生まれた子どもも含め、全て死んでしまいました。そして全エジプトで激しい泣き叫びが起こっている時に、彼らイスラエルはこのように行動しました。12章35節、36節にはこのように記されています。イスラエルの子らはモーセのことばどおりに行い、エジプトに銀の飾り、金の飾り、そして衣服を求めた。主はエジプトがこの民に好意を持つようにされたので、エジプト人は彼らの求めを聞き入れた。こうして彼らはエジプトからはぎ取った。
はぎとったとありますから、エジプト人は自分の思いを遥かに超えて、イスラエルの人々に自分の金品を与えた、与えてしまったわけです。そしてそれは主なる神から出たものでした。しかしこれらイスラエルの人々の財産となった金銀、装飾品などの財産が、金の子牛の像を作る材料になり、礼拝の対象、つまり偶像礼拝に繋がってしまいました。そこで神は、彼らの偶像礼拝の元となった財産を手放すように命じられた。それが5節です。
4節において、イスラエルの民たちは自発的に装飾品を外しました。しかしそれはあくまで神が共におられないということに対する悲しみであり、神の怒りに対する恐れなどといった感情でした。従ってこれらの行為は、神を信じ、受け入れ、従順に従っていくという信仰から出ているものではありません。あくまでも感情のレベルです。 そこで神は信仰の伴う悔い改め、すなわち神に立ち返るという方向転換を、目に見える行動を通して求められました。それが5節です。主はモーセに次のように命じておられた。「イスラエルの子らに言え。『あなたがたは、うなじを固くする民だ。一時でも、あなたがたのただ中にあって上って行こうものなら、わたしはあなたがたを絶ち滅ぼしてしまうだろう。今、飾り物を身から取り外しなさい。そうすれば、あなたがたのために何をするべきかを考えよう。』」あなたがたを絶ち滅ぼしてしまうかもしれないから、と、主はイスラエルの人々と共に行かない理由も述べておられますが、ここには同時に主の憐れみがあります。
今、飾り物を身から取り外しなさい。そうすれば、あなたがたのために何をするべきかを考えよう。
この彼らに対する主からの命令は「神のみ言葉への従順」を求めるものであり、自分たちの持っていた金や銀などが偶像礼拝の元になったことをしっかりと認識し、罪と認め、その元となった金銀、財産を自分から切り離して神に献げなさい、という命令でした。神から与えられたものですから本来は神のものであり、神にお返しすることになりますが、財産との決別という意志・決心を、行動をもって、神への献身を見える形で表しなさい、というものでした。彼らイスラエル民族は、神の悔い改めへの招きに、チャレンジ-挑戦に、憐れみと恵みに応答しました。さらにはモーセの執り成しの祈りもあり、神は「幕屋」と呼ばれるところに臨在され、モーセを介して会って下さり、イスラエル民族から離れたり、見捨てることはなされませんでした。 この幕屋は移動式のテントのようなものですが、神がイスラエルと出会う場所として、この33章に記されています。
そしてこの幕屋は、イスラエルの民たちが外し、献げた装飾品、つまり彼らの金、銀、銅などの財産が、神が住まわれる「幕屋」を作るための材料として、自発的に献げられたものから造られました。 つまり神が彼らに向けて悔い改めを命じられ、彼らイエスエルはその悔い改めへの招きに応答した結果だと言うことです。 イスラエルの不信仰、不従順、高慢の源になった金品を、神は罪の悔い改めの証としただけでなく、神が臨在される幕屋、すなわち、神のために、神の栄光のために、神が聖なる物へと変えて下さったということです。神の愛、忍耐、憐れみなど、神の素晴らしさが表されています。
神が共に行かないと言われた時、イスラエルは悲しみました。 私たちも神が自分から離れてしまっている、神が遠くに感じられるような時があります。しかし神は私たちを決して見捨てることはなさいません。 神は私たちが立ち直ることができるように、また、神に立ち返ることができる機会、チャンスを与えて下さるお方です。また同時に、私たちが神の御心からそれていかないように、いつも見守り、また実際的な導きをして下さるお方でもあります。
神がどんな時にも共にいて下さっていることを感謝し、今週も共に信仰の歩みをして行きたいと願っています。
祈ります。
「取り戻すために捨てる」(神との関係を取り戻すために、自分の執着しているものを捨てる)
それでイスラエルの子らは、ホレブの山以後、自分の飾り物を外した。
招詞 詩篇51:17
神へのいけにえは 砕かれた霊。打たれ 砕かれた心。神よ あなたはそれを蔑まれません。