動画メッセージ
礼拝のご案内
偉大なる神さまを賛美し、その祝福に与りましょう。
・分級:日曜日 午前10:00~10:30
・礼拝:日曜日 午前10:40~11:50
(オンライン礼拝も同時刻)
主日礼拝 2026年9月13日(日) 10:40~
「快適さを目指しているクリスチャン」
聖書:ガラテヤ人への手紙 6章9節
説教:クリス宣教師
♪礼拝賛美曲♪
↓クリックすると、Youtube動画で視聴できます ↓
🌈今月のワーシップソング🌈
Still(静まって知れ) 作詞作曲:Reuben Morgan
🌈聖書引用
新日本聖書刊行会 聖書 新改訳2017 (新改訳聖書センター)
ゴスペルカフェ可児のご案内
毎月第1金曜日にすてきなカフェ「樹の萌」さんでギタリスト トム兼松とゲストによるライブが開催されています。演奏を聴きながらアフタヌーンティーはいかがですか?
次回:2026/10/2(金) 14:00~
出演:トム兼松(ギタリスト)&ゲストによる演奏
場所:珈琲 & ギャラリー 「樹の萌」
可児市禅台寺1丁目17
℡ 0574-62-4164
2026/5/31 ゴスペル特別礼拝
・メッセンジャー
アーサー ホーランド牧師
・ゲストミュージシャン
ラニー ラッカーさん
兼松弘子 さん
米田 香さん
Hope Hill Gospel Choir
クリス宣教師の働き
クリス宣教師のYoutubeチャンネル「Chris’ Gasthaus」で、プレイモービルを使った聖書のお話や、日本・ドイツのスウィーツなどを紹介しています。
チャペルコンサート アーカイブ
2026/9/6(日)「偽キリストと偽予言者」マルコ13:21~23 庄司牧師
2026年9月6日 マルコの福音書13:21~23 偽キリストと偽預言者
そのときに、だれかが、『ご覧なさい。ここにキリストがいる』とか、『あそこにいる』とか言っても、信じてはいけません。偽キリストたち、偽預言者たちが現れて、できれば選ばれた者たちを惑わそうと、しるしや不思議を行います。あなたがたは、気をつけていなさい。わたしは、すべてのことを前もって話しました。 (マルコの福音書 13:21-23 SKY17)
世の終わりに臨む時、天変地異、国同士・人同士の争い、憎しみ、戦争、飢饉、色々な災害、そしてキリスト者への迫害。それらが終わりの日の「その日」に向かって頻度も、また激しさも増して来るということを、この13章で見ています。これら苦難が終わりの日において日常的に起こって来るならば、人はどのようなことを考え、また何を待ち望むでしょうか?それらの状況や現状からもたらされる不安や恐怖、そして実際に起きて来る苦難から救い出されること、その救いを、期待をもって待ち望むようになるのではないでしょうか。本日の聖書箇所は、そのような人々の期待を巧みに利用する、偽キリストたちや偽預言者たちの出現を、イエスは警告されています。
イエスはこのように語られました。22節です。偽キリストたち、偽預言者たちが現れて、できれば選ばれた者たちを惑わそうと、しるしや不思議を行います。イエスはここで彼ら偽キリストや偽預言者が、「できれば選ばれた者たちを惑わそうと、しるしや不思議を行います。」と言われました。選ばれた者たちとは、イエスを信じるキリスト者、私たちクリスチャンです。「できれば」とは、可能であれば、という意味ですから、偽キリストや偽預言者がクリスチャンを惑わすのは難しい、ということです。逆に言えば、偽キリストや偽預言者は、イエスを信じていない人々を惑わしやすい、ということになります。なぜでしょうか?それはイエスを信じない人々や聖書を知らない人々は、イエスがこの13章で語られているような世の終わりがあることや、世の終わりに向かってこの世界がどうなっていくか、そしてその終わりの日に際して何に気を付け、どのように歩んでいったら良いか、などが分からないからです。つまり惑わされやすい人とは、聖書にある神のことば、み言葉を知らず、大切にもしない人々である、ということになるでしょう。
その一つの例が、前回見たユダヤ戦争でした。イエスが旧約聖書のダニエル書を引用しながら預言、警告した、将来起こることになるユダヤ戦争-イエスの時代から見れば40年後に実現することですが-イエスが言われたことを信じなかった人々と、イエスを信じて従った人々の人生が、完全に分けられたのを見ました。イエスは、ローマ軍がエルサレムに責めて来ることを預言された時、同時に逃げなさいと言われました。実際にイエスを信じてペレヤ地方に逃げた人々は助かりました。しかしイエスの警告を信ぜず、エルサレムに残った人々は、ローマ軍からの兵糧攻めに遭い、結果的に全滅してしまいました。
色々な状況や噂、影響力のある人々のことばを信じて、「惑わされて生きるか」、それとも神であるイエスが言われることを信じて「惑わされずに生きるか」は、言い方を変えれば、神を信ぜずに生きるか、それとも神を信じて生きるか、ということになります。神を信じない人々は、偽キリストや偽預言者を信じやすい、そしてある人々は実際に信じ、従って生きるでしょう。 しかし神を信じる人々は、イエスの言われることを信じ、また従って生きることになります。 この選択と決断が、終わりの日における歩みにも大きな影響を与える、ということになります。そして選択と決断に伴う歩みは、ユダヤ戦争で生死が完全に分かれたように、人々の歩みを、人生を、救いを真っ二つに分けることになります。救いか滅びか。平安か不安か。安定か不安定か。イエスを信じて歩むかどうかで、私たち人間の歩みは全く異なってきます。では、イエスが警告された、偽キリストや偽預言者を、私たちはどのように見破っていけるでしょうか。イエスの弟子の一人であったヨハネは、その手紙の中で偽預言者についてこのように記しています。
ヨハネの手紙第一4:1~3です。お読みします。愛する者たち、霊をすべて信じてはいけません。偽預言者がたくさん世に出て来たので、その霊が神からのものかどうか、吟味しなさい。神からの霊は、このようにして分かります。人となって来られたイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。イエスを告白しない霊はみな、神からのものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていましたが、今すでに世に来ているのです。
ヨハネはここで、偽預言者について言及していますが、その背後には「霊」の存在、すなわち悪霊の存在があると警告しています。先月の始めの礼拝の中で、イエスが公生涯に入られる前、試みに遭われた時のお話をしました。イエスを試みた相手とは、イエスに敵対する悪魔、サタンでした。またサタンだけでなく、その手下である悪霊たちも神を憎んでいます。その神が愛している人間たちも彼らは憎んでいるため、一人でも多くの人間が神から離れるように策略を巡らしています。また願わくは神の子とされている私たちクリスチャンたちにも神を疑わせ、日々、信仰を奪おうと働いています。その戦略、策略が分かる箇所がルカの福音書4:6でした。第三版の聖書訳でお読みします。ルカの福音書4:6「この国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。 サタンは現代においても巧妙に働いていますが、このサタンはこの世において、この人にならいいという、イエスに反対している人々-力のある政治家や独裁者、地位や名誉を持ち、有名な人々などを選んで、権力や栄光を与えることができるということです。 もちろん全ての人々ではありませんが、繫栄し、栄光を受けている者の背後に、悪魔の働きがあるということです。そしてこの悪魔、悪霊は、そのような影響力の強い人、インフルエンサーに働きかけ、イエスも聖書も知らない、または神を信ぜず、イエスに敵対する人々を、人々を惑わす器として用いることができる、ということです。しかし悪魔、悪霊の誘惑、また惑わしは、国の指導者や政治家など、力や権力を持っている人々に限りません。キリスト者、キリスト者でないに限らず、全ての人類が悪魔の誘惑と惑わしに、日々晒されています。
ヨハネはこのような偽預言者、すなわち悪霊の影響を受けている人々の語ることを吟味しなさい、と警告しています。吟味する上でもっとも大切なことが、イエスを告白する霊かどうか。すなわち語りかけている人が聖霊の影響を受け、またイエスの証をしているかどうか、ということが吟味の規準になると、ヨハネは述べています。聖霊の影響を受けている人が語ること、それはイエスの栄光、素晴らしさを称え、表します。またイエスのことば、すなわち聖書にあるみ言葉を通して人々を励まし、慰め、力を与えることが出来ます。つまり、語りかけられた側の考え方や価値観、生活や人生がプラス、上向きの方向になっていくということです。またこの励ましは、世の終わりに人々が臨む時、更に人々を力付けるでしょう。しかし語りかけている者が聖霊ではなく、悪霊の教えや力を受けているとしたら。先々週の礼拝において、ある宗教団体に所属していた方が証をして下さいました。彼はその組織の聖書解釈に矛盾を感じるも、同じ仲間から切り離されることを恐れて、なかなか組織を抜け出せなかった、と語っておられました。組織を抜けると背教扱いされ、仲間から断罪され、捨てられる。それは彼にとって恐怖でした。同じように、この組織から恐怖や混乱がもたらされ、破滅した人たちが他にもたくさんいます。ある人は、組織が特定した終わりの日やイエスの再臨を信じて、大学などに進学することを止めました。ある人は結婚を諦め、ある人は財産を全て使ってしまい、ある人は自死してしまいました。恐怖で束縛され、自由も信仰も奪われた結果でした。そのようになってしまう人々が実であるとするならば、その実をつけさせる木がおかしいことは明らかです。またこの組織は今まで何度も、終わりの日や、イエスの再臨の日、ハルマゲドンなどの日を、何年何月に実現する、と言ったように特定してきました。それが外れると、キリストは目に見えない天において、神の王国の王として即位した、というような弁解や、教義の変更を行ってきました。彼らは終わりの日、すなわちイエスが再臨されることが、自分たちだけに知らされている、と語ってきました。ではイエスご自身は、再びこの世界に来られる、すなわちご自身の再臨についてどのようなことを語っておられるでしょうか。平行箇所のマタイの福音書24:27,28において、イエスはこのように語られています。人の子の到来は、稲妻が東から出て西にひらめくのと同じようにして実現するのです。死体のあるところには、禿鷹が集まります。これはどういう意味でしょうか。
キリストの再臨は、稲妻が東から出て西にひらめくように、一瞬のうちに、しかし誰が見ても分かるように来る、ということです。またそれは、ハゲタカが死体を容易に見つけてそこに集まって来るのと同じような明瞭さを持っている。誰が見ても分かる、という事です。すなわちイエス・キリストの再臨は、全ての人々にとって、容易に見ることができる形で起こるということを意味します。
従ってイエスが再びこの世界に来られる終わりの日には、その力と栄光とを全ての人が見るということです。そしてイエスの再臨と共に世の終わりが来ます。つまり21節にあるように、誰かが「ここにいる、あそこにいる」と、教えてもらわなければならないような仕方でイエスは来られるのではない、ということです。ですから特定の組織、団体だけにそのような預言のことばが与えられている、ということ自体がすでに間違っています。 もう一つの組織を挙げます。この宗教団体の教祖は韓国人でしたが、自分を再臨のキリストと宣言していました。彼は偽キリストです。なぜ断言できるか。それは、彼がすでに死んでいるからです。もし神であれば死ぬことはありません。彼が死んでいる、という事実から、彼が偽キリストであることは明白です。従って彼の「後継者」という存在も矛盾しています。 他にも自分をキリストと名乗る教祖がいます。まだ生きている者もありますが、同じく亡くなっている者もいます。偽キリストたちが私たちの回りに実際に存在します。
また聖書においても、偽預言者が登場します。背景は、パウロとバルナバが行った、第一回伝道旅行の時です。新約聖書、使徒の働きの13:6節にはこのように記されています。バルイエスという名のユダヤ人で、偽預言者であった。魔術師であったともこの6節にありますが、彼は偽預言者でした。この男はパウロとバルナバに反対して、総督を信仰から遠ざけようとした、とこの6節の後に記されています。ローマ帝国の総督を信仰から遠ざける、すなわちイエスとイエスの福音を総督から遠ざける働きをしていたことが分かります。イエスの福音が伝わらないように、人を通して、また偽預言者を通して邪魔をする力、悪魔、サタンの働きがあることが分かります。
また見た目や人格的にも魅力があり、人々から人気があり、地位や名声がある人であっても、福音に反している、反キリストのような人々が世の中にたくさんいます。そのような人々の中で、悪魔、サタンから力を受けて、イエスから人々を引き離そうとする存在があることを忘れてはいけません。そしてこの妨害は、世が終わりの日に向かっていくに連れ、激しくなっていくことでしょう。また新約聖書だけでなく、旧約聖書においても、偽預言者について記されているところがあります。またこれは同時に警告でもあります。申命記13:1~3節です。このように警告されています。あなたがたのうちに預言者または夢見る者が現れ、あなたに何かのしるしや不思議を示し、あなたに告げたそのしるしと不思議が実現して、「さあ、あなたが知らなかったほかの神々に従い、これに仕えよう」と言っても、その預言者、夢見る者のことばに聞き従ってはならない。奇蹟が行われるだけでは、真の預言者であることの証拠にはならない、と明確に警告されています。
旧新約聖書を通して、偽預言者、偽キリスト者に注意しなければならないとありますが、それら全てを踏まえてイエスは最後の23節において、「気をつけていなさい」と言われました。これは文法的には現在進行形の命令です。すなわち、このような偽者に対して絶えず警戒していなさい、という意味が込められています。 最後にイエスは「すべてのことを前もって話しました。」と言われました。これは終末、終わりの日に関することを具体的に、そして全て漏らさず示されたというよりは、終わりの日において起きて来る色々な現象や、偽キリスト、偽預言者に惑わされることないように、そのような危険に対してあらゆる面から注意を与えた。という意味でしょう。イエスは多くの奇蹟や不思議、力あるしるしを行われましたが、それら目に見える現象によって人を引きつけ、またそれによって従わせようとはなさいませんでした。それよりももっと地味に、謙虚に、そして恥と苦痛に満ちている-本来ならば犯罪人がかけられる十字架-において、私たち人間の罪全てを背負って、十字架にかかって死んで下さいました。しかしイエスは十字架の死から復活され、再び私たちの世界に王として、イエスの十字架による贖い、救いを信じた一人一人のキリスト者、私たちを迎えに来て下さいます。
戦争、地震、飢饉などの苦難や、キリスト者への迫害という、終わりの日に向かって起きて来る様々な前兆が現れ、世の中が騒然としても、また偽キリスト、偽預言者が登場しても、終わりの日が訪れたわけではありません。また神からの啓示を受けた、という人、人々、組織や団体が、現代においても増々増えて行くでしょう。しかしイエスが再臨されるまでは、その全てが偽者です。私たちは惑わされてはなりません。
イエスの勝利はすでに復活に表されています。イエスは復活を通して悪魔、サタンやその手下の悪霊どもに勝利されています。また人類を縛って来た罪と、罪から来る死にも勝利して下さっています。終わりの日、そしてイエスが再臨される「その日」においても、復活された力ある神、イエスの助けと守り、そして勝利があることを、私たちはいつも心に留めたいと思います。そして迫害や患難の中にあっても絶望し、倒れることなく、すでに終わりの日にある今を、一歩一歩、忠実に、共に歩んで行きたいと願います。
祈ります。
偽キリストと偽預言者
あなたがたは、気をつけていなさい。わたしは、すべてのことを前もって話しました。
そのときに、だれかが、『ご覧なさい。ここにキリストがいる』とか、『あそこにいる』とか言っても、信じてはいけません。偽キリストたち、偽預言者たちが現れて、できれば選ばれた者たちを惑わそうと、しるしや不思議を行います。あなたがたは、気をつけていなさい。わたしは、すべてのことを前もって話しました。 (マルコの福音書 13:21-23 SKY17)
世の終わりに臨む時、天変地異、国同士・人同士の争い、憎しみ、戦争、飢饉、色々な災害、そしてキリスト者への迫害。それらが終わりの日の「その日」に向かって頻度も、また激しさも増して来るということを、この13章で見ています。これら苦難が終わりの日において日常的に起こって来るならば、人はどのようなことを考え、また何を待ち望むでしょうか?それらの状況や現状からもたらされる不安や恐怖、そして実際に起きて来る苦難から救い出されること、その救いを、期待をもって待ち望むようになるのではないでしょうか。本日の聖書箇所は、そのような人々の期待を巧みに利用する、偽キリストたちや偽預言者たちの出現を、イエスは警告されています。
イエスはこのように語られました。22節です。偽キリストたち、偽預言者たちが現れて、できれば選ばれた者たちを惑わそうと、しるしや不思議を行います。イエスはここで彼ら偽キリストや偽預言者が、「できれば選ばれた者たちを惑わそうと、しるしや不思議を行います。」と言われました。選ばれた者たちとは、イエスを信じるキリスト者、私たちクリスチャンです。「できれば」とは、可能であれば、という意味ですから、偽キリストや偽預言者がクリスチャンを惑わすのは難しい、ということです。逆に言えば、偽キリストや偽預言者は、イエスを信じていない人々を惑わしやすい、ということになります。なぜでしょうか?それはイエスを信じない人々や聖書を知らない人々は、イエスがこの13章で語られているような世の終わりがあることや、世の終わりに向かってこの世界がどうなっていくか、そしてその終わりの日に際して何に気を付け、どのように歩んでいったら良いか、などが分からないからです。つまり惑わされやすい人とは、聖書にある神のことば、み言葉を知らず、大切にもしない人々である、ということになるでしょう。
その一つの例が、前回見たユダヤ戦争でした。イエスが旧約聖書のダニエル書を引用しながら預言、警告した、将来起こることになるユダヤ戦争-イエスの時代から見れば40年後に実現することですが-イエスが言われたことを信じなかった人々と、イエスを信じて従った人々の人生が、完全に分けられたのを見ました。イエスは、ローマ軍がエルサレムに責めて来ることを預言された時、同時に逃げなさいと言われました。実際にイエスを信じてペレヤ地方に逃げた人々は助かりました。しかしイエスの警告を信ぜず、エルサレムに残った人々は、ローマ軍からの兵糧攻めに遭い、結果的に全滅してしまいました。
色々な状況や噂、影響力のある人々のことばを信じて、「惑わされて生きるか」、それとも神であるイエスが言われることを信じて「惑わされずに生きるか」は、言い方を変えれば、神を信ぜずに生きるか、それとも神を信じて生きるか、ということになります。神を信じない人々は、偽キリストや偽預言者を信じやすい、そしてある人々は実際に信じ、従って生きるでしょう。 しかし神を信じる人々は、イエスの言われることを信じ、また従って生きることになります。 この選択と決断が、終わりの日における歩みにも大きな影響を与える、ということになります。そして選択と決断に伴う歩みは、ユダヤ戦争で生死が完全に分かれたように、人々の歩みを、人生を、救いを真っ二つに分けることになります。救いか滅びか。平安か不安か。安定か不安定か。イエスを信じて歩むかどうかで、私たち人間の歩みは全く異なってきます。では、イエスが警告された、偽キリストや偽預言者を、私たちはどのように見破っていけるでしょうか。イエスの弟子の一人であったヨハネは、その手紙の中で偽預言者についてこのように記しています。
ヨハネの手紙第一4:1~3です。お読みします。愛する者たち、霊をすべて信じてはいけません。偽預言者がたくさん世に出て来たので、その霊が神からのものかどうか、吟味しなさい。神からの霊は、このようにして分かります。人となって来られたイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。イエスを告白しない霊はみな、神からのものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていましたが、今すでに世に来ているのです。
ヨハネはここで、偽預言者について言及していますが、その背後には「霊」の存在、すなわち悪霊の存在があると警告しています。先月の始めの礼拝の中で、イエスが公生涯に入られる前、試みに遭われた時のお話をしました。イエスを試みた相手とは、イエスに敵対する悪魔、サタンでした。またサタンだけでなく、その手下である悪霊たちも神を憎んでいます。その神が愛している人間たちも彼らは憎んでいるため、一人でも多くの人間が神から離れるように策略を巡らしています。また願わくは神の子とされている私たちクリスチャンたちにも神を疑わせ、日々、信仰を奪おうと働いています。その戦略、策略が分かる箇所がルカの福音書4:6でした。第三版の聖書訳でお読みします。ルカの福音書4:6「この国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。 サタンは現代においても巧妙に働いていますが、このサタンはこの世において、この人にならいいという、イエスに反対している人々-力のある政治家や独裁者、地位や名誉を持ち、有名な人々などを選んで、権力や栄光を与えることができるということです。 もちろん全ての人々ではありませんが、繫栄し、栄光を受けている者の背後に、悪魔の働きがあるということです。そしてこの悪魔、悪霊は、そのような影響力の強い人、インフルエンサーに働きかけ、イエスも聖書も知らない、または神を信ぜず、イエスに敵対する人々を、人々を惑わす器として用いることができる、ということです。しかし悪魔、悪霊の誘惑、また惑わしは、国の指導者や政治家など、力や権力を持っている人々に限りません。キリスト者、キリスト者でないに限らず、全ての人類が悪魔の誘惑と惑わしに、日々晒されています。
ヨハネはこのような偽預言者、すなわち悪霊の影響を受けている人々の語ることを吟味しなさい、と警告しています。吟味する上でもっとも大切なことが、イエスを告白する霊かどうか。すなわち語りかけている人が聖霊の影響を受け、またイエスの証をしているかどうか、ということが吟味の規準になると、ヨハネは述べています。聖霊の影響を受けている人が語ること、それはイエスの栄光、素晴らしさを称え、表します。またイエスのことば、すなわち聖書にあるみ言葉を通して人々を励まし、慰め、力を与えることが出来ます。つまり、語りかけられた側の考え方や価値観、生活や人生がプラス、上向きの方向になっていくということです。またこの励ましは、世の終わりに人々が臨む時、更に人々を力付けるでしょう。しかし語りかけている者が聖霊ではなく、悪霊の教えや力を受けているとしたら。先々週の礼拝において、ある宗教団体に所属していた方が証をして下さいました。彼はその組織の聖書解釈に矛盾を感じるも、同じ仲間から切り離されることを恐れて、なかなか組織を抜け出せなかった、と語っておられました。組織を抜けると背教扱いされ、仲間から断罪され、捨てられる。それは彼にとって恐怖でした。同じように、この組織から恐怖や混乱がもたらされ、破滅した人たちが他にもたくさんいます。ある人は、組織が特定した終わりの日やイエスの再臨を信じて、大学などに進学することを止めました。ある人は結婚を諦め、ある人は財産を全て使ってしまい、ある人は自死してしまいました。恐怖で束縛され、自由も信仰も奪われた結果でした。そのようになってしまう人々が実であるとするならば、その実をつけさせる木がおかしいことは明らかです。またこの組織は今まで何度も、終わりの日や、イエスの再臨の日、ハルマゲドンなどの日を、何年何月に実現する、と言ったように特定してきました。それが外れると、キリストは目に見えない天において、神の王国の王として即位した、というような弁解や、教義の変更を行ってきました。彼らは終わりの日、すなわちイエスが再臨されることが、自分たちだけに知らされている、と語ってきました。ではイエスご自身は、再びこの世界に来られる、すなわちご自身の再臨についてどのようなことを語っておられるでしょうか。平行箇所のマタイの福音書24:27,28において、イエスはこのように語られています。人の子の到来は、稲妻が東から出て西にひらめくのと同じようにして実現するのです。死体のあるところには、禿鷹が集まります。これはどういう意味でしょうか。
キリストの再臨は、稲妻が東から出て西にひらめくように、一瞬のうちに、しかし誰が見ても分かるように来る、ということです。またそれは、ハゲタカが死体を容易に見つけてそこに集まって来るのと同じような明瞭さを持っている。誰が見ても分かる、という事です。すなわちイエス・キリストの再臨は、全ての人々にとって、容易に見ることができる形で起こるということを意味します。
従ってイエスが再びこの世界に来られる終わりの日には、その力と栄光とを全ての人が見るということです。そしてイエスの再臨と共に世の終わりが来ます。つまり21節にあるように、誰かが「ここにいる、あそこにいる」と、教えてもらわなければならないような仕方でイエスは来られるのではない、ということです。ですから特定の組織、団体だけにそのような預言のことばが与えられている、ということ自体がすでに間違っています。 もう一つの組織を挙げます。この宗教団体の教祖は韓国人でしたが、自分を再臨のキリストと宣言していました。彼は偽キリストです。なぜ断言できるか。それは、彼がすでに死んでいるからです。もし神であれば死ぬことはありません。彼が死んでいる、という事実から、彼が偽キリストであることは明白です。従って彼の「後継者」という存在も矛盾しています。 他にも自分をキリストと名乗る教祖がいます。まだ生きている者もありますが、同じく亡くなっている者もいます。偽キリストたちが私たちの回りに実際に存在します。
また聖書においても、偽預言者が登場します。背景は、パウロとバルナバが行った、第一回伝道旅行の時です。新約聖書、使徒の働きの13:6節にはこのように記されています。バルイエスという名のユダヤ人で、偽預言者であった。魔術師であったともこの6節にありますが、彼は偽預言者でした。この男はパウロとバルナバに反対して、総督を信仰から遠ざけようとした、とこの6節の後に記されています。ローマ帝国の総督を信仰から遠ざける、すなわちイエスとイエスの福音を総督から遠ざける働きをしていたことが分かります。イエスの福音が伝わらないように、人を通して、また偽預言者を通して邪魔をする力、悪魔、サタンの働きがあることが分かります。
また見た目や人格的にも魅力があり、人々から人気があり、地位や名声がある人であっても、福音に反している、反キリストのような人々が世の中にたくさんいます。そのような人々の中で、悪魔、サタンから力を受けて、イエスから人々を引き離そうとする存在があることを忘れてはいけません。そしてこの妨害は、世が終わりの日に向かっていくに連れ、激しくなっていくことでしょう。また新約聖書だけでなく、旧約聖書においても、偽預言者について記されているところがあります。またこれは同時に警告でもあります。申命記13:1~3節です。このように警告されています。あなたがたのうちに預言者または夢見る者が現れ、あなたに何かのしるしや不思議を示し、あなたに告げたそのしるしと不思議が実現して、「さあ、あなたが知らなかったほかの神々に従い、これに仕えよう」と言っても、その預言者、夢見る者のことばに聞き従ってはならない。奇蹟が行われるだけでは、真の預言者であることの証拠にはならない、と明確に警告されています。
旧新約聖書を通して、偽預言者、偽キリスト者に注意しなければならないとありますが、それら全てを踏まえてイエスは最後の23節において、「気をつけていなさい」と言われました。これは文法的には現在進行形の命令です。すなわち、このような偽者に対して絶えず警戒していなさい、という意味が込められています。 最後にイエスは「すべてのことを前もって話しました。」と言われました。これは終末、終わりの日に関することを具体的に、そして全て漏らさず示されたというよりは、終わりの日において起きて来る色々な現象や、偽キリスト、偽預言者に惑わされることないように、そのような危険に対してあらゆる面から注意を与えた。という意味でしょう。イエスは多くの奇蹟や不思議、力あるしるしを行われましたが、それら目に見える現象によって人を引きつけ、またそれによって従わせようとはなさいませんでした。それよりももっと地味に、謙虚に、そして恥と苦痛に満ちている-本来ならば犯罪人がかけられる十字架-において、私たち人間の罪全てを背負って、十字架にかかって死んで下さいました。しかしイエスは十字架の死から復活され、再び私たちの世界に王として、イエスの十字架による贖い、救いを信じた一人一人のキリスト者、私たちを迎えに来て下さいます。
戦争、地震、飢饉などの苦難や、キリスト者への迫害という、終わりの日に向かって起きて来る様々な前兆が現れ、世の中が騒然としても、また偽キリスト、偽預言者が登場しても、終わりの日が訪れたわけではありません。また神からの啓示を受けた、という人、人々、組織や団体が、現代においても増々増えて行くでしょう。しかしイエスが再臨されるまでは、その全てが偽者です。私たちは惑わされてはなりません。
イエスの勝利はすでに復活に表されています。イエスは復活を通して悪魔、サタンやその手下の悪霊どもに勝利されています。また人類を縛って来た罪と、罪から来る死にも勝利して下さっています。終わりの日、そしてイエスが再臨される「その日」においても、復活された力ある神、イエスの助けと守り、そして勝利があることを、私たちはいつも心に留めたいと思います。そして迫害や患難の中にあっても絶望し、倒れることなく、すでに終わりの日にある今を、一歩一歩、忠実に、共に歩んで行きたいと願います。
祈ります。
偽キリストと偽預言者
あなたがたは、気をつけていなさい。わたしは、すべてのことを前もって話しました。
2026/8/30(日)「差し迫る苦難と主の憐れみ」マルコ13:14~20 庄司牧師
2026年8月30日 マルコの福音書13:14~20 差し迫る苦難と主の憐れみ
『荒らす忌まわしいもの』が、立ってはならない所に立っているのを見たら──読者はよく理解せよ──ユダヤにいる人たちは山へ逃げなさい。屋上にいる人は、家から何かを持ち出そうと、下に降りたり、中に入ったりしてはいけません。畑にいる人は、上着を取りに戻ってはいけません。それらの日、身重の女たちと乳飲み子を持つ女たちは哀れです。このことが冬に起こらないように祈りなさい。それらの日には、神が創造された被造世界のはじめから今に至るまでなかったような、また、今後も決してないような苦難が起こるからです。もし主が、その日数を少なくしてくださらなかったら、一人も救われないでしょう。しかし、主は、ご自分が選んだ人たちのために、その日数を少なくしてくださいました。
私たちプロテスタント教会が外典と呼んでいる書物群に、マカベヤ書という書物があります。これら外典は、旧新約聖書の間の400年ほどの空白の時代、中間時代と呼ばれている時代に記されたものです。このマカベヤ書に記されている出来事が、本日の14節に描写されています。
14節の背景を少しお話しします。 紀元前167年に、当時ユダヤを支配していたシリアのアンティオコス・エピファネスという王が、エルサレムに攻め込んで来ます。略奪を行っただけでなく、エルサレム神殿に乗り込み、最も神聖なる場所・祭壇に、ギリシャの神ゼウスの像を置き、ユダヤ人たちに拝むことを強要しました。異邦人の神、しかもその偶像が神殿に置かれることは、イスラエルの人々にとっては主なる神への最大の冒瀆であり、神の民であるイスラエルへの、この上ない侮辱でした。その結果彼らの間に激しい反発、そして反乱が起こりました。反乱の中でマカベヤという人物が首謀者になってユダヤ人たちが立ち上がり、いのちを投げ出して戦います。
この反乱に、普段は隠遁生活をしていたエッセネ派ですら参加し、この反乱による戦いは壮絶を極めたと言われます。世界史ではマカベヤ戦争と呼ばれますが、ユダヤ軍が軍事力においては圧倒的に優位なシリア軍を命がけの戦いの末に打ち負かす。その戦いがマカベヤ書に記されています。
この戦いは、既に旧約聖書ダニエル書に預言されていました。それが14節です。『荒らす忌まわしいもの』が、立ってはならない所に立っているのを見たら──読者はよく理解せよ──ユダヤにいる人たちは山へ逃げなさい。この14節はダニエル書11:31節から引用されています。このように記されています。「彼の軍隊は立ち上がり、砦である聖所を冒し、常供のささげ物を取り払い、荒らす忌まわしいものを据える。」アンティオコス王の軍隊が神殿を冒し、普段捧げられているささげ物を取り払い、忌まわしい偶像を据えた。ダニエルが預言を記してからおおよそ300年後に、またイエスの時代から見れば200年ほど前に、この預言は成就、実現しました。このダニエル書11:31節の他、その前後9章や12章に記されている預言は、アンティオコス王のエルサレム侵攻だけにとどまりません。それはイエスが語られた時からは未来となる、別の出来事も指し示しています。それがローマ軍のイスラエル侵攻です。イエスの時代から見ればおおよそ40年後、紀元70年にそれは起きました。ローマ軍のエルサレム侵攻のことを、イエスは平行箇所のルカの福音書21:20節において、このように語られています。しかし、エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、そのときには、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。 イエスは14節でダニエル書11:31節を引用することによって、エピファネス王のエルサレム侵攻と破壊、そして神への冒涜という預言がすでに成就、実現していることを示されました。そしてそれを踏まえ、未来に起こるローマ軍のイスラエル侵攻と破壊という出来事も、同じくダニエル書を引用することによって預言されていました。そしてイエスが預言された約40年後、実際にローマ軍がエルサレムに侵攻して来た時、多くのユダヤ人たちがエルサレムに集結しました。マカベヤ戦争を思い起こしての行動だったに違いありません。「私たちも先代の人々のように団結し、エルサレムを、エルサレム神殿を守るために戦うのだ!」あるいはエルサレムにいれば大丈夫だ、神が絶対に守って下さるはずだ。そのような思いを持って、エルサレムに集まった人々もいたでしょう。しかしローマ軍はエルサレムには直ぐには攻め込まず、まず町の回りを包囲しました。ローマ軍の包囲によって食物が都に入らなくなり、エルサレムの都は激しい飢餓状態に陥ります。そしてついに人食いまでをするような悲惨な状況になり、餓死者が数え切れないほど出ました。弱り果てたユダヤ人たちは、最後はローマ軍の剣によって全滅してしまいました。エルサレムは陥落し、ローマ軍の手に落ちました。エルサレム神殿も完全に破壊され、今は見ることも出来ません。世界史ではユダヤ戦争と呼ばれる出来事です。
イエスはダニエル書を引用しつつ、このユダヤ戦争を預言するにあたって、次のような警告を人々に与えておられました。それが本日の14節から16節に記されています。「山へ逃げなさい」、「屋上にいる人は、家から何かを持ち出そうと、下に降りたり、中に入ったりしてはいけません。」
当時の家の屋上・屋根は平らでした。そしてそこを色々なことに利用していました。また屋根に上がる為の外階段が付いていました。ですからローマ軍が来るような危急の事が起こったら、部屋の中に降りていってはいけない。外階段からそのまま外に逃げなさいという意味です。加えて彼らの財産となる「上着」も持ち出してはならない。事は一刻を争う。一刻の猶予もない。また、住み慣れたエルサレムを離れることは、季節が良い時であっても困難です。そこでイエスは、身重の女性たちや乳飲み子を抱える女性たちが、さらに逃げることが困難となる冬にならないように祈りなさい、と言われました。実際にイエスを信じていた人々は、イエスの預言であり命令を信じ、従い、ローマ軍が攻めて来ると直ぐにエルサレムを脱出し、ペレヤと呼ばれる地域へ移動し難を免れたと、エウセビオスという歴史家が記しています。
しかしダニエル書の預言は、アンティオコス王とローマ軍隊の2回に及ぶエルサレム侵攻、破壊の成就、実現で終わるのでしょうか。 14節においてこの書を記した著者は、「読者はよく理解せよ」と注意書きを挿入しました。これは勿論イエスのことばではなく、イエスの言葉を後に記した聖書記者の注意書き、著者であるマルコのことばでしょう。マルコはなぜこの注意書きを挿入したのでしょうか。そのヒントが、イエスが語られた19節です。
それらの日には、神が創造された被造世界のはじめから今に至るまでなかったような、また、今後も決してないような苦難が起こるからです。
マカベヤ戦争やユダヤ戦争がどんなに悲惨なものであっても、「神が創造された被造世界のはじめから今に至るまでなかったような、また、今後も決してないような苦難。」では決してありません。19節でイエスが語られたことはもっと規模が大きくて悲惨なもの。混乱と破壊を想像させるに難くないものです。つまり著者のマルコは、イエスが語られた19節の預言が、マカベヤ戦争、ユダヤ戦争の事出来事を超え、終わりの日、それもイエスが再臨される時に世界が裁かれる「その日」である大艱難であることを感じ、見据え、また聖霊の促しもあって、注意書きを入れたのだと思います。
従って著者のマルコによる注意書きは、これから約40年後に起こることになる、ローマ帝国の侵略にユダヤ人たちが備えなければいけないということを超え、この世の終わりに臨んでいる私たち読者に向けられていることばでもあります。
ローマ軍がエルサレムに攻め込んで来たユダヤ戦争において、多くのユダヤ人たちはエルサレムに集結しました。それはエルサレム神殿を守るためでした。神殿を守るということが、自分たちの信仰を守ることとイコールであり、神殿を失うなら自分たちの信仰も失う。 彼らユダヤ人にとってエルサレム神殿というのは、人間が唯一神と交わることを許されている場所でした。人間は罪深く汚れているから、決して神と直接交わりをすることなど許されない。ただ神殿においてだけ、神の憐れみの内に、人間が神と交わりをすることができる。その神殿を失うということは、神との接点を失う。そのように彼らは考えていました。それほど彼らにとってエルサレム神殿は特別なものでした。それゆえ紀元70年のローマ軍のエルサレム侵攻の時、彼らは神殿と運命を共にしました。
しかしイエスは違います。イエスは彼らに逃げなさいとおっしゃいました。これはつまり、神殿を捨てなさいということです。神殿を守る必要は無い。そこで戦ってならない。戦う必要もない。なぜイエスは逃げなさいと言われたのでしょうか?
それは神殿が必要なくなるからです。イエスはこの後十字架に架けられることになります。そしてイエスが十字架に架けられることが、イエスが「逃げなさい」と言われた根拠です。
イエスが十字架上で息を引き取られた時、神殿の幕が上から下へと、真っ二つに引き裂かれました。神殿の幕とは、神殿の中で最も神聖な至聖所の幕のことです。至聖所は神が臨在される神聖な場所であり、そこには大祭司が年に一度しか入ることが出来ませんでした。そして神殿の聖所と至聖所を隔てる幕は、そのまま人間と神の隔て、断裂を象徴するものでもありました。しかしその幕は、イエスが死なれた時に上から下に向けて裂かれました。つまり神が一方的にその幕を取り去って下さった訳です。人間の罪から始まった神と人間の間にあった隔てが、そして断裂が、イエスの十字架を通して取り除かれたということです。 神であるイエス・キリストが、神との隔てとなっていた私たちの罪を全て身代わりとして背負われ、死なれました。そのことによって、神殿においてたった一人の大祭司が、神と人々の仲介役として、年に一度神殿で神との交わりを頂く、そのような必要がなくなりました。イエスの身代わりの十字架が自分の罪の為であったと信じる人は誰であっても、神との親しい交わりをすることが許されるようになりました。
この十字架を踏まえイエスは、「あなた方は神殿を命がけで守る必要はもうない。これから私が神と人間の隔ての壁を壊し、取り去る。もはやあなたがたに神殿は必要ない。神殿を捨てて逃げなさい。」
という意味を、「逃げなさい」ということばに込められたのだと感じます。
また聖書には、このように記されているところがあります。「あなたがたは神の神殿です。」私たちイエスを信じる一人一人が、イエスの十字架を通して、神が宿る神殿となる、ということです。つまり神殿にあった神の臨在は、イエスを信じるキリスト者一人一人に移されることになる。だから目に見える神殿のために、いのちを張る必要はもはや無い。
新約聖書、コリント人への手紙第二6:16節にこのようなことばがあります。
私たちは生ける神の宮なのです。神がこう言われるとおりです。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。 (コリント人への手紙 第二 6:16 SKY17)
イエスがこの世界に来たことにより、神はもはや神殿に臨在されることはなくなりました。私たちの内に生きて下さる。そればかりでなく、私たち一人一人が神の宮、生ける神の神殿となる。
かつてのエルサレム神殿に匹敵する価値が、いや、それ以上の価値であり尊さが、イエスを信じる私たち一人一人にある、ということです。私たちが、何かができる、できない、忍耐する、しない、努力をする、しない、などに関わらず、イエスの十字架によってすでに価値のある者とされている。だから神殿を守るような戦いをする必要は、もはやない。戦いや努力、自分の力で神と交わりをし、また救われようとする必要はない。救いはすでにイエスの十字架によって完成されている。私たちはただ、イエスによって価値ある者とされている、ということです。
この神であるイエスが、今も、そしてこの瞬間も聖霊を通して私たちと共にいて下さいます。そして私たちが本当にすべき大切な戦い、断固死守すべき場所、それは神が住まいとされる私たち一人一人の体であり、存在です。私たちイエスを信じる一人一人が、神のご臨在を示し、また表す神殿です。神であり、私たちの主であるイエスが、私たち一人一人を神の霊である聖霊が宿る聖なる、そして価値のある生ける神の宮、神殿として下さった。そしてそのように価値ある者として見つめて下さっている。
最後の20節にはこのように記されています。しかし、主は、ご自分が選んだ人たちのために、その日数を少なくしてくださいました。終わりの日の「その日」に向かって激しくなって行く苦難や迫害に対して、イエスは選んだ人たち、すなわちイエスを信じるキリスト者、クリスチャンが苦難や迫害に耐えることができるように、その日数を少なくして下さったと聖書は告げています。
「日数を少なくして下さった」とありますが、文法的には過去形が使われています。それは日数が短くされるという未来における出来事が、既に過去において決定されている、神が既に計画され、予定されているということが、強調されています。つまりこの20節も、終わりの日に臨む私たち、イエスを信じる全てのキリスト者にとって、励ましの預言であるということです。
神は、イエスは、救いに選ばれた者を忘れず、全てのキリスト者、現代を生きる私たち一人一人のキリスト者が、苦難や迫害に耐えることが出来るように、その苦難の時を少なく、短くして下さる。そして既に短くして下さいました。イエスの私たちに対する愛、配慮、恵み、憐れみを感じます。
私たちは自分の中に、救われるべき理由は何もありません。自分が他の人よりも立派であるとか、信仰深いということでもありませんし、忍耐強いわけでもありません。それはただ、私たちを一方的に選び、恵まれ、支えておられる神がおられる、ということです。そのイエスが、「その日」に向かって激しくなって行く苦難においても、また迫害においても、共にいて下さいます。
イエスの十字架を通して、また聖霊を通して、イエスを信じる私たち一人一人を尊い生ける神の宮、神殿として下さったイエスに感謝と讃美を捧げます。そして終わりの日である、「その日」に向かって、与えられた一日一日を、共に、大切に過ごしていきたいと願います。
祈ります
差し迫る苦難と主の憐れみ
しかし、主は、ご自分が選んだ人たちのために、その日数を少なくしてくださいました。
『荒らす忌まわしいもの』が、立ってはならない所に立っているのを見たら──読者はよく理解せよ──ユダヤにいる人たちは山へ逃げなさい。屋上にいる人は、家から何かを持ち出そうと、下に降りたり、中に入ったりしてはいけません。畑にいる人は、上着を取りに戻ってはいけません。それらの日、身重の女たちと乳飲み子を持つ女たちは哀れです。このことが冬に起こらないように祈りなさい。それらの日には、神が創造された被造世界のはじめから今に至るまでなかったような、また、今後も決してないような苦難が起こるからです。もし主が、その日数を少なくしてくださらなかったら、一人も救われないでしょう。しかし、主は、ご自分が選んだ人たちのために、その日数を少なくしてくださいました。
私たちプロテスタント教会が外典と呼んでいる書物群に、マカベヤ書という書物があります。これら外典は、旧新約聖書の間の400年ほどの空白の時代、中間時代と呼ばれている時代に記されたものです。このマカベヤ書に記されている出来事が、本日の14節に描写されています。
14節の背景を少しお話しします。 紀元前167年に、当時ユダヤを支配していたシリアのアンティオコス・エピファネスという王が、エルサレムに攻め込んで来ます。略奪を行っただけでなく、エルサレム神殿に乗り込み、最も神聖なる場所・祭壇に、ギリシャの神ゼウスの像を置き、ユダヤ人たちに拝むことを強要しました。異邦人の神、しかもその偶像が神殿に置かれることは、イスラエルの人々にとっては主なる神への最大の冒瀆であり、神の民であるイスラエルへの、この上ない侮辱でした。その結果彼らの間に激しい反発、そして反乱が起こりました。反乱の中でマカベヤという人物が首謀者になってユダヤ人たちが立ち上がり、いのちを投げ出して戦います。
この反乱に、普段は隠遁生活をしていたエッセネ派ですら参加し、この反乱による戦いは壮絶を極めたと言われます。世界史ではマカベヤ戦争と呼ばれますが、ユダヤ軍が軍事力においては圧倒的に優位なシリア軍を命がけの戦いの末に打ち負かす。その戦いがマカベヤ書に記されています。
この戦いは、既に旧約聖書ダニエル書に預言されていました。それが14節です。『荒らす忌まわしいもの』が、立ってはならない所に立っているのを見たら──読者はよく理解せよ──ユダヤにいる人たちは山へ逃げなさい。この14節はダニエル書11:31節から引用されています。このように記されています。「彼の軍隊は立ち上がり、砦である聖所を冒し、常供のささげ物を取り払い、荒らす忌まわしいものを据える。」アンティオコス王の軍隊が神殿を冒し、普段捧げられているささげ物を取り払い、忌まわしい偶像を据えた。ダニエルが預言を記してからおおよそ300年後に、またイエスの時代から見れば200年ほど前に、この預言は成就、実現しました。このダニエル書11:31節の他、その前後9章や12章に記されている預言は、アンティオコス王のエルサレム侵攻だけにとどまりません。それはイエスが語られた時からは未来となる、別の出来事も指し示しています。それがローマ軍のイスラエル侵攻です。イエスの時代から見ればおおよそ40年後、紀元70年にそれは起きました。ローマ軍のエルサレム侵攻のことを、イエスは平行箇所のルカの福音書21:20節において、このように語られています。しかし、エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、そのときには、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。 イエスは14節でダニエル書11:31節を引用することによって、エピファネス王のエルサレム侵攻と破壊、そして神への冒涜という預言がすでに成就、実現していることを示されました。そしてそれを踏まえ、未来に起こるローマ軍のイスラエル侵攻と破壊という出来事も、同じくダニエル書を引用することによって預言されていました。そしてイエスが預言された約40年後、実際にローマ軍がエルサレムに侵攻して来た時、多くのユダヤ人たちがエルサレムに集結しました。マカベヤ戦争を思い起こしての行動だったに違いありません。「私たちも先代の人々のように団結し、エルサレムを、エルサレム神殿を守るために戦うのだ!」あるいはエルサレムにいれば大丈夫だ、神が絶対に守って下さるはずだ。そのような思いを持って、エルサレムに集まった人々もいたでしょう。しかしローマ軍はエルサレムには直ぐには攻め込まず、まず町の回りを包囲しました。ローマ軍の包囲によって食物が都に入らなくなり、エルサレムの都は激しい飢餓状態に陥ります。そしてついに人食いまでをするような悲惨な状況になり、餓死者が数え切れないほど出ました。弱り果てたユダヤ人たちは、最後はローマ軍の剣によって全滅してしまいました。エルサレムは陥落し、ローマ軍の手に落ちました。エルサレム神殿も完全に破壊され、今は見ることも出来ません。世界史ではユダヤ戦争と呼ばれる出来事です。
イエスはダニエル書を引用しつつ、このユダヤ戦争を預言するにあたって、次のような警告を人々に与えておられました。それが本日の14節から16節に記されています。「山へ逃げなさい」、「屋上にいる人は、家から何かを持ち出そうと、下に降りたり、中に入ったりしてはいけません。」
当時の家の屋上・屋根は平らでした。そしてそこを色々なことに利用していました。また屋根に上がる為の外階段が付いていました。ですからローマ軍が来るような危急の事が起こったら、部屋の中に降りていってはいけない。外階段からそのまま外に逃げなさいという意味です。加えて彼らの財産となる「上着」も持ち出してはならない。事は一刻を争う。一刻の猶予もない。また、住み慣れたエルサレムを離れることは、季節が良い時であっても困難です。そこでイエスは、身重の女性たちや乳飲み子を抱える女性たちが、さらに逃げることが困難となる冬にならないように祈りなさい、と言われました。実際にイエスを信じていた人々は、イエスの預言であり命令を信じ、従い、ローマ軍が攻めて来ると直ぐにエルサレムを脱出し、ペレヤと呼ばれる地域へ移動し難を免れたと、エウセビオスという歴史家が記しています。
しかしダニエル書の預言は、アンティオコス王とローマ軍隊の2回に及ぶエルサレム侵攻、破壊の成就、実現で終わるのでしょうか。 14節においてこの書を記した著者は、「読者はよく理解せよ」と注意書きを挿入しました。これは勿論イエスのことばではなく、イエスの言葉を後に記した聖書記者の注意書き、著者であるマルコのことばでしょう。マルコはなぜこの注意書きを挿入したのでしょうか。そのヒントが、イエスが語られた19節です。
それらの日には、神が創造された被造世界のはじめから今に至るまでなかったような、また、今後も決してないような苦難が起こるからです。
マカベヤ戦争やユダヤ戦争がどんなに悲惨なものであっても、「神が創造された被造世界のはじめから今に至るまでなかったような、また、今後も決してないような苦難。」では決してありません。19節でイエスが語られたことはもっと規模が大きくて悲惨なもの。混乱と破壊を想像させるに難くないものです。つまり著者のマルコは、イエスが語られた19節の預言が、マカベヤ戦争、ユダヤ戦争の事出来事を超え、終わりの日、それもイエスが再臨される時に世界が裁かれる「その日」である大艱難であることを感じ、見据え、また聖霊の促しもあって、注意書きを入れたのだと思います。
従って著者のマルコによる注意書きは、これから約40年後に起こることになる、ローマ帝国の侵略にユダヤ人たちが備えなければいけないということを超え、この世の終わりに臨んでいる私たち読者に向けられていることばでもあります。
ローマ軍がエルサレムに攻め込んで来たユダヤ戦争において、多くのユダヤ人たちはエルサレムに集結しました。それはエルサレム神殿を守るためでした。神殿を守るということが、自分たちの信仰を守ることとイコールであり、神殿を失うなら自分たちの信仰も失う。 彼らユダヤ人にとってエルサレム神殿というのは、人間が唯一神と交わることを許されている場所でした。人間は罪深く汚れているから、決して神と直接交わりをすることなど許されない。ただ神殿においてだけ、神の憐れみの内に、人間が神と交わりをすることができる。その神殿を失うということは、神との接点を失う。そのように彼らは考えていました。それほど彼らにとってエルサレム神殿は特別なものでした。それゆえ紀元70年のローマ軍のエルサレム侵攻の時、彼らは神殿と運命を共にしました。
しかしイエスは違います。イエスは彼らに逃げなさいとおっしゃいました。これはつまり、神殿を捨てなさいということです。神殿を守る必要は無い。そこで戦ってならない。戦う必要もない。なぜイエスは逃げなさいと言われたのでしょうか?
それは神殿が必要なくなるからです。イエスはこの後十字架に架けられることになります。そしてイエスが十字架に架けられることが、イエスが「逃げなさい」と言われた根拠です。
イエスが十字架上で息を引き取られた時、神殿の幕が上から下へと、真っ二つに引き裂かれました。神殿の幕とは、神殿の中で最も神聖な至聖所の幕のことです。至聖所は神が臨在される神聖な場所であり、そこには大祭司が年に一度しか入ることが出来ませんでした。そして神殿の聖所と至聖所を隔てる幕は、そのまま人間と神の隔て、断裂を象徴するものでもありました。しかしその幕は、イエスが死なれた時に上から下に向けて裂かれました。つまり神が一方的にその幕を取り去って下さった訳です。人間の罪から始まった神と人間の間にあった隔てが、そして断裂が、イエスの十字架を通して取り除かれたということです。 神であるイエス・キリストが、神との隔てとなっていた私たちの罪を全て身代わりとして背負われ、死なれました。そのことによって、神殿においてたった一人の大祭司が、神と人々の仲介役として、年に一度神殿で神との交わりを頂く、そのような必要がなくなりました。イエスの身代わりの十字架が自分の罪の為であったと信じる人は誰であっても、神との親しい交わりをすることが許されるようになりました。
この十字架を踏まえイエスは、「あなた方は神殿を命がけで守る必要はもうない。これから私が神と人間の隔ての壁を壊し、取り去る。もはやあなたがたに神殿は必要ない。神殿を捨てて逃げなさい。」
という意味を、「逃げなさい」ということばに込められたのだと感じます。
また聖書には、このように記されているところがあります。「あなたがたは神の神殿です。」私たちイエスを信じる一人一人が、イエスの十字架を通して、神が宿る神殿となる、ということです。つまり神殿にあった神の臨在は、イエスを信じるキリスト者一人一人に移されることになる。だから目に見える神殿のために、いのちを張る必要はもはや無い。
新約聖書、コリント人への手紙第二6:16節にこのようなことばがあります。
私たちは生ける神の宮なのです。神がこう言われるとおりです。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。 (コリント人への手紙 第二 6:16 SKY17)
イエスがこの世界に来たことにより、神はもはや神殿に臨在されることはなくなりました。私たちの内に生きて下さる。そればかりでなく、私たち一人一人が神の宮、生ける神の神殿となる。
かつてのエルサレム神殿に匹敵する価値が、いや、それ以上の価値であり尊さが、イエスを信じる私たち一人一人にある、ということです。私たちが、何かができる、できない、忍耐する、しない、努力をする、しない、などに関わらず、イエスの十字架によってすでに価値のある者とされている。だから神殿を守るような戦いをする必要は、もはやない。戦いや努力、自分の力で神と交わりをし、また救われようとする必要はない。救いはすでにイエスの十字架によって完成されている。私たちはただ、イエスによって価値ある者とされている、ということです。
この神であるイエスが、今も、そしてこの瞬間も聖霊を通して私たちと共にいて下さいます。そして私たちが本当にすべき大切な戦い、断固死守すべき場所、それは神が住まいとされる私たち一人一人の体であり、存在です。私たちイエスを信じる一人一人が、神のご臨在を示し、また表す神殿です。神であり、私たちの主であるイエスが、私たち一人一人を神の霊である聖霊が宿る聖なる、そして価値のある生ける神の宮、神殿として下さった。そしてそのように価値ある者として見つめて下さっている。
最後の20節にはこのように記されています。しかし、主は、ご自分が選んだ人たちのために、その日数を少なくしてくださいました。終わりの日の「その日」に向かって激しくなって行く苦難や迫害に対して、イエスは選んだ人たち、すなわちイエスを信じるキリスト者、クリスチャンが苦難や迫害に耐えることができるように、その日数を少なくして下さったと聖書は告げています。
「日数を少なくして下さった」とありますが、文法的には過去形が使われています。それは日数が短くされるという未来における出来事が、既に過去において決定されている、神が既に計画され、予定されているということが、強調されています。つまりこの20節も、終わりの日に臨む私たち、イエスを信じる全てのキリスト者にとって、励ましの預言であるということです。
神は、イエスは、救いに選ばれた者を忘れず、全てのキリスト者、現代を生きる私たち一人一人のキリスト者が、苦難や迫害に耐えることが出来るように、その苦難の時を少なく、短くして下さる。そして既に短くして下さいました。イエスの私たちに対する愛、配慮、恵み、憐れみを感じます。
私たちは自分の中に、救われるべき理由は何もありません。自分が他の人よりも立派であるとか、信仰深いということでもありませんし、忍耐強いわけでもありません。それはただ、私たちを一方的に選び、恵まれ、支えておられる神がおられる、ということです。そのイエスが、「その日」に向かって激しくなって行く苦難においても、また迫害においても、共にいて下さいます。
イエスの十字架を通して、また聖霊を通して、イエスを信じる私たち一人一人を尊い生ける神の宮、神殿として下さったイエスに感謝と讃美を捧げます。そして終わりの日である、「その日」に向かって、与えられた一日一日を、共に、大切に過ごしていきたいと願います。
祈ります
差し迫る苦難と主の憐れみ
しかし、主は、ご自分が選んだ人たちのために、その日数を少なくしてくださいました。
2026/8/23(日)神学生による証し 佐藤兄 長江兄
「あなたはどこへ向かおうとしているのか?」
聖書:ルカの福音書 9章57~62節
証し:佐藤兄
「エホバの証人からキリストの証人へ」
聖書:ヨハネの福音書 19章38~39節
証し:長江兄
2026/8/16(日)「忍耐と救いを与える聖霊の助け」マルコ13:9~13 庄司牧師
2026年8月16日 マルコの福音書13:9~13「忍耐と救いを与える聖霊の助け」
あなたがたは用心していなさい。人々はあなたがたを地方法院に引き渡します。あなたがたは、会堂で打ちたたかれ、わたしのために、総督たちや王たちの前に立たされます。そのようにして彼らに証しするのです。まず福音が、すべての民族に宣べ伝えられなければなりません。人々があなたがたを捕らえて引き渡すとき、何を話そうかと、前もって心配するのはやめなさい。ただ、そのときあなたがたに与えられることを話しなさい。話すのはあなたがたではなく、聖霊です。また、兄弟は兄弟を、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に逆らって立ち、死に至らせます。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。
「小黙示録」と呼ばれているマルコの福音書14章、「世の終わり」を引き続き見ています。終わりの日が近づくにつれ、色々な前兆が現れて来る。だから「惑わされてはいけません」とイエスは警告されました。そしてイエスは9節において、「用心しなさい」つまり「気をつけなさい」と、終わりの日とどのように向き合ったら良いか、イエスを信じるキリスト者に語っておられます。それは「わたしのために」とあるように、イエスを信じ、イエスに従って行く者に起こって来る「終わりの日」における迫害です。9節をお読みします。
あなたがたは用心していなさい。人々はあなたがたを地方法院に引き渡します。あなたがたは、会堂で打ちたたかれ、わたしのために、総督たちや王たちの前に立たされます。そのようにして彼らに証しするのです。会堂や地方法院-小さな裁判所のようなものですが、そのような場所で迫害されていたのはイエスの弟子たち、ユダヤ人たちでした。 迫害する者たちもユダヤ人たちでした。しかしその迫害はやがて拡大して行き、総督たちや王たちからも迫害されることになる、すなわち迫害の範囲が広がって行く。また迫害される方も、ユダヤ人以外の異邦人にも拡大して行く、ということをイエスは語られましたが、それは現実となって行きます。
イエスは10節においてこのように語られました。「まず福音が、すべての民族に宣べ伝えられなければなりません。平行箇所のマタイの福音書の24章においては、福音の拡大が終わりの日と重なり合っていることが記されています。マタイ24:14 御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます。従ってキリストの体なる教会が全世界に建て上げられている、すなわち福音が全世界に届いている現代は、すでに終わりの日が始まっているということであり、私たちはそのような時代に生きている、生かされている、と言えます。
前回共に見て来ましたが、終わりの日である「その日」が来る前に、天変地異などの異常気象、戦争、迫害などが、頻度も強さも増していくとイエスは語られましたから、終わりの日である「その日」にはまだ到達していないものと思われます。終わりの日に裁きが行われる「その日」まではまだ時間がある。しかし迫害は確実に、そして日増しに強まっていく。
そしてイエスはこの世の終わりにおける迫害に直面する時の心構えとして、本日の聖書箇所の中でこのように語られました。11節です。人々があなたがたを捕らえて引き渡すとき、何を話そうかと、前もって心配するのはやめなさい。ただ、そのときあなたがたに与えられることを話しなさい。話すのはあなたがたではなく、聖霊です。
聖霊が迫害において助けて下さる。聖霊が、迫害の中にあってもその中を導かれ、歩ませて下さる。イエスが11節で語られたこと。まさしくそのことが歴史的に起こったのが、新約聖書、使徒の働き6章と7章に描写されています。イエスの弟子の一人であったステパノが、普段ギリシャ語を話すユダヤ人たちと議論をしたことが記されています。彼らはパレスチナの外の地域(ヘレニズム世界)で生まれ育ったため、日常的にギリシア語を使用し、当時の国際的な教養や思想背景を持っていました。ステパノは彼らに向かって「あなたたちの先祖は主なる神から遣わされた預言者たちを迫害し、今度は神ご自身であるイエスを裏切り、殺す者となった。」と語りました。ステパノはさらに、あなたがたは律法を大切にしているといいながら、守ったことがないではないか、と糾弾しました。「しかし、彼が語る時の知恵と御霊に対抗することはできなかった。」とあるように、知恵と聖霊に満たされて語るステパノの論理に、彼らは議論では勝てず、何も言い返すことが出来ませんでした。しかし最終的にステパノは彼らの怒りを買い、石打ちによって殺されてしまいました。殉教です。この時ステパノは扇動された人々によって、サンヘドリンと呼ばれる、祭司長や長老、律法学者など、約70人の議員で構成されていた議会に連れて行かれました。彼が議論、弁明をした時、何の準備もできませんでした。しかし「彼が語る時の知恵と御霊に対抗することはできなかった。」と記されている通り、敵対者はステパノに何も言い返すことはできませんでした。また、必要な話すべきことばは聖霊が与えて下さいましたが、その結果は殉教でした。 しかしこの迫害、殉教には続きがあります。ステパノの殉教をきっかけにエルサレム教会が大迫害を受け、イエスを信じるキリスト者たちが、ユダヤやサマリヤの諸地域に散らされ、その結果、教会が各地で立ち上がっていきます。 福音はローマ帝国にまで広がって行きましたが、多くの人々が、火あぶりやライオンの餌食などになるといった凄まじい迫害によっていのちを落として行きました。しかし命がけで信仰を守る殉教者たちの姿や、疫病の時に病人を看病するなど、過酷な状況下でも隣人愛を実践する姿を見た周囲の人々が心を動かされ、数百年間続く迫害においても、キリスト者は増え続けました。 その迫害を受けて、2世紀頃のキリスト教の教父、神学者であったテルトゥリアヌスはこのように述べました。「殉教者の血は、教会の種子、種である」古代ローマ帝国によるキリスト教迫害の時代に、テルトゥリアヌスが権力者や迫害者に向けた言葉です。 キリスト者が信仰のために命を落としても、その流された血や耐え忍ぶ姿が「種」となって、その姿を見ていた人々の心に新たな信仰の芽を呼び起こし、結果として信仰者の群れも、またイエスの体なる教会も大きく成長した、という意味が込められています。実際にキリスト者は迫害されればされるほど増え広がって行き、最終的にはローマ皇帝テオドシウスがキリスト教を国教としました。紀元392年でした。近代においては過去、日本の支配の下で、朝鮮のクリスチャンたちは厳しい迫害を受けました。神社への参拝を強制され、抵抗した多くの人々が殉教して行きました。今日、韓国ではクリスチャンが多くいますが、それは、殉教者たちの流した血が種となったからだと言うことができるでしょう。またインドや中国など、政府や過激派組織による迫害が起きている場所でも、キリスト者たちの強い姿勢や奉仕を通じて、かえってキリスト者が増えて行きました。 また現在のイランですが、政府による厳しい監視や制限、投獄などの困難、迫害がある中、近年急激にキリスト者が増えていると言われています。ローマ帝国の下でもそうだったように、迫害によって信仰が強められ、殉教者が出ることによって教会はむしろ強くなり、増え広がっていきました。
この迫害は歴史的にも起きましたが、個人レベルでも起きた、また起きることになるとイエスは言われます。12節です。また、兄弟は兄弟を、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に逆らって立ち、死に至らせます。個人レベルの迫害によって、兄弟、子、両親など、家族から迫害され、死に至る人がいる、ということをイエスは語られました。肉体的ないのちに関しては、時に迫害によって失われる、つまり殺されてしまうこともある、ということです。そしてその迫害の先にあるものをイエスは13節で語られました。「また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。」
色々な迫害が起こって来る。イエスを信じ、従って来るだけで人々に憎まれる。しかし最後まで耐え忍ぶ人は救われるとイエスは言われました。つまり、迫害され、いのちを落とすようなことがあっても救われるということです。ですからここでイエスが言われている救いとは、肉体的な領域を指していないことは明らかです。前回、「終わりの日のしるし」というメッセージの中で、私たちが神以外に頼みにしているすべては滅び、無くなっていくというお話をしました。それは私たちの体も含まれます。一瞬、瞬きに過ぎない私たちの限りある肉体の人生が少し早くなったとしても、その先にある永遠のいのちを神は見据えておられるため、迫害によって肉体的ないのちを失う人の存在を許しておられる。迫害を許されている。そのように思います。そして殉教していったいのちが、種、種子となって、永遠のいのちを獲得していく人々を起こしていくのだと思います。
先程招詞、礼拝への神からの招きのことばをエペソ人への手紙1章14節から読んで頂きました。「聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。」私たちの肉体は滅びるものであるがゆえに、肉体という存在は地上だけに限ったものです。しかしイエスを信じる者たちは、御国を受け継ぐことができる。イエスの支配されておられる神の国、御国を受け継ぐことができる。すなわち私たちの存在そのものである、霊魂が将来御国を受け継ぐことになる。従って聖霊は、私たちの肉体が例え滅びても、私たちの存在そのものである霊魂が御国に行くことができるよう、保証となって下さる、ということがここに約束されています。また聖霊の働きにおいて、このようなみ言葉を共に見たことがありました。「誰も聖霊によらなければイエスを主と告白することはできません。」私たちはみ言葉を読み、あるいは聞くことを通して、ある日、ある時、イエスを自分の主、救い主と信じました。それゆえ私たちはその時から罪赦され、神との関係が回復し、滅びから救われていますが、その救いに導いて下さったのが聖霊、神ご自身でした。この同じ聖霊、神の霊、神ご自身が、私たちクリスチャンが例え迫害によって捕えられるような時が来ても、また、ステパノのように尋問されるような迫害に直面しても、話すべき、また弁明できることばを与えて下さる。その先がそこからの解放なのか、または肉体的な死である殉教であるかは、神のご計画の中にある。それがもし殉教-肉体的な死であったとしても、その死は無駄にならない。必ずその死、言い換えればイエスによるいのちが散るのを見た他の人々が、その姿によってイエスを信じ、従い、救われていく。イエスによるいのちが種子、種として用いられる。そこには神の選びとご計画があることを思います。迫害の歴史的事実とその結果を踏まえ、私たちはイエスが最後に言われことばに希望を持つことができます。13節。「しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。」私たちは自分の力で、迫害に負けずに信仰を貫き、どんな時でも主イエスを証ししていくことはできないでしょう。それを私たちにさせて下さるのは聖霊です。聖霊は、迫害を始めとする様々な苦しみの中にいる私たちに、その先にある神の救いを待ち望むことができるように、その希望によって私たちが支えられるように、導いて下さいます。その聖霊の働きによって私たちは、苦しみの中でも耐え忍んで信仰を守ることができ、主イエスを証ししていく言葉を与えて頂けます。
この聖霊が弟子たちに与えられたのがペンテコステの出来事でした。そしてこのペンテコステを通して、キリストの体なる教会が誕生しました。この同じ聖霊が働いて下さり、迫害においても、イエスを信じる者たちに語るべきことばを与えて下さる。そしてたとえ迫害によっていのちを失うようなことが起きても、そのいのちは種子、種として、イエスを信じる新しい人々を起こして行く。迫害において、何一つ無駄になるものはない。その聖霊が今この教会にも、そして私たち一人一人にも注がれています。また聖霊は私たちの目を開き、この世の終わりに、主イエス・キリストによる救いが完成することを見つめさせて下さいます。その終りの日に至るまでの道には苦しみや悲しみ、迫害がありますが、私たちは耐え忍んで信仰を守り抜き、主イエス・キリストの福音が全ての民に宣べ伝えられるための証しに用いられていくことができます。
イエスは13節において、「最後まで」耐え忍びなさいと語られました。この最後とはイエスを信じる私たち一人一人の肉体におけるいのちの終わりであり、また、終わりの日です。そしてこの耐え忍ぶということばは希望がある忍耐です。それは迫害の先には救いの完成が待っているからです。
出エジプトの時、モーセがイスラエルの民に宣言しました。「恐れてはならない。しっかり立って、今日あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。」前は大海原、後ろからはエジプト軍が迫って来る。絶体絶命の瞬間でした。このような命の危険、また希望が持てなくなった時、モーセはしっかり立っていなさい、耐え忍びなさいと叫びました。それはその先に希望があるからです。主の救いがあるからです。そして実際に主なる神は彼らを絶対的なピンチから救われました。この同じ神が、私たちをも救って下さいます。救って下さる力を持っておられます。
迫害というのは、神に敵対する力が目に見える形として、また現実にこの世界を支配している者たちがいるということを、私たちに知らしめて来るものです。私たちは迫害によって、また、価値観や生き方の違う人々から受ける様々な試練や困難から、自分の姿がさらけ出されて行きます。それらの困難から、持っていると思っていた豊かさ、信仰、主を信頼する力などが打ち砕かれることもあります。しかしその迫害を、困難を、私たちは自分の力でどうすることもできません。
自分の力によって迫害に打ち勝つことはできません。従って迫害の中で私たちは、もはや自分ではなく、目に見えない神に依り頼み、神のご支配が現れることを待ち望むしかありません。
終わりの日に向けて、「その日」に向けて、迫害は強く、大きくなっていきます。そしてそれは必ず起きることであり、すでに起きています。しかし例えそのような状況になっても、私たちが受ける迫害の苦しみが、伝道の前進という実りを生みます。それゆえにこの苦しみをイエスは、「産みの苦しみ」と呼ばれました。それは信仰による新しいいのちを生み出すための苦しみであり、希望のある苦しみです。 弱い私たちを、主なる神が、イエスが、聖霊を通して支え、導き、その先にある救いを思い出させ、見つめさせ、その希望にすがらせて下さいますように。 信仰のゆえに受ける苦しみを私たちはそのように受け止め、共に最後まで耐え忍ぶ者でありたいと思います。
祈ります
「忍耐と救いを与える聖霊の助け」
「また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。」
あなたがたは用心していなさい。人々はあなたがたを地方法院に引き渡します。あなたがたは、会堂で打ちたたかれ、わたしのために、総督たちや王たちの前に立たされます。そのようにして彼らに証しするのです。まず福音が、すべての民族に宣べ伝えられなければなりません。人々があなたがたを捕らえて引き渡すとき、何を話そうかと、前もって心配するのはやめなさい。ただ、そのときあなたがたに与えられることを話しなさい。話すのはあなたがたではなく、聖霊です。また、兄弟は兄弟を、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に逆らって立ち、死に至らせます。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。
「小黙示録」と呼ばれているマルコの福音書14章、「世の終わり」を引き続き見ています。終わりの日が近づくにつれ、色々な前兆が現れて来る。だから「惑わされてはいけません」とイエスは警告されました。そしてイエスは9節において、「用心しなさい」つまり「気をつけなさい」と、終わりの日とどのように向き合ったら良いか、イエスを信じるキリスト者に語っておられます。それは「わたしのために」とあるように、イエスを信じ、イエスに従って行く者に起こって来る「終わりの日」における迫害です。9節をお読みします。
あなたがたは用心していなさい。人々はあなたがたを地方法院に引き渡します。あなたがたは、会堂で打ちたたかれ、わたしのために、総督たちや王たちの前に立たされます。そのようにして彼らに証しするのです。会堂や地方法院-小さな裁判所のようなものですが、そのような場所で迫害されていたのはイエスの弟子たち、ユダヤ人たちでした。 迫害する者たちもユダヤ人たちでした。しかしその迫害はやがて拡大して行き、総督たちや王たちからも迫害されることになる、すなわち迫害の範囲が広がって行く。また迫害される方も、ユダヤ人以外の異邦人にも拡大して行く、ということをイエスは語られましたが、それは現実となって行きます。
イエスは10節においてこのように語られました。「まず福音が、すべての民族に宣べ伝えられなければなりません。平行箇所のマタイの福音書の24章においては、福音の拡大が終わりの日と重なり合っていることが記されています。マタイ24:14 御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます。従ってキリストの体なる教会が全世界に建て上げられている、すなわち福音が全世界に届いている現代は、すでに終わりの日が始まっているということであり、私たちはそのような時代に生きている、生かされている、と言えます。
前回共に見て来ましたが、終わりの日である「その日」が来る前に、天変地異などの異常気象、戦争、迫害などが、頻度も強さも増していくとイエスは語られましたから、終わりの日である「その日」にはまだ到達していないものと思われます。終わりの日に裁きが行われる「その日」まではまだ時間がある。しかし迫害は確実に、そして日増しに強まっていく。
そしてイエスはこの世の終わりにおける迫害に直面する時の心構えとして、本日の聖書箇所の中でこのように語られました。11節です。人々があなたがたを捕らえて引き渡すとき、何を話そうかと、前もって心配するのはやめなさい。ただ、そのときあなたがたに与えられることを話しなさい。話すのはあなたがたではなく、聖霊です。
聖霊が迫害において助けて下さる。聖霊が、迫害の中にあってもその中を導かれ、歩ませて下さる。イエスが11節で語られたこと。まさしくそのことが歴史的に起こったのが、新約聖書、使徒の働き6章と7章に描写されています。イエスの弟子の一人であったステパノが、普段ギリシャ語を話すユダヤ人たちと議論をしたことが記されています。彼らはパレスチナの外の地域(ヘレニズム世界)で生まれ育ったため、日常的にギリシア語を使用し、当時の国際的な教養や思想背景を持っていました。ステパノは彼らに向かって「あなたたちの先祖は主なる神から遣わされた預言者たちを迫害し、今度は神ご自身であるイエスを裏切り、殺す者となった。」と語りました。ステパノはさらに、あなたがたは律法を大切にしているといいながら、守ったことがないではないか、と糾弾しました。「しかし、彼が語る時の知恵と御霊に対抗することはできなかった。」とあるように、知恵と聖霊に満たされて語るステパノの論理に、彼らは議論では勝てず、何も言い返すことが出来ませんでした。しかし最終的にステパノは彼らの怒りを買い、石打ちによって殺されてしまいました。殉教です。この時ステパノは扇動された人々によって、サンヘドリンと呼ばれる、祭司長や長老、律法学者など、約70人の議員で構成されていた議会に連れて行かれました。彼が議論、弁明をした時、何の準備もできませんでした。しかし「彼が語る時の知恵と御霊に対抗することはできなかった。」と記されている通り、敵対者はステパノに何も言い返すことはできませんでした。また、必要な話すべきことばは聖霊が与えて下さいましたが、その結果は殉教でした。 しかしこの迫害、殉教には続きがあります。ステパノの殉教をきっかけにエルサレム教会が大迫害を受け、イエスを信じるキリスト者たちが、ユダヤやサマリヤの諸地域に散らされ、その結果、教会が各地で立ち上がっていきます。 福音はローマ帝国にまで広がって行きましたが、多くの人々が、火あぶりやライオンの餌食などになるといった凄まじい迫害によっていのちを落として行きました。しかし命がけで信仰を守る殉教者たちの姿や、疫病の時に病人を看病するなど、過酷な状況下でも隣人愛を実践する姿を見た周囲の人々が心を動かされ、数百年間続く迫害においても、キリスト者は増え続けました。 その迫害を受けて、2世紀頃のキリスト教の教父、神学者であったテルトゥリアヌスはこのように述べました。「殉教者の血は、教会の種子、種である」古代ローマ帝国によるキリスト教迫害の時代に、テルトゥリアヌスが権力者や迫害者に向けた言葉です。 キリスト者が信仰のために命を落としても、その流された血や耐え忍ぶ姿が「種」となって、その姿を見ていた人々の心に新たな信仰の芽を呼び起こし、結果として信仰者の群れも、またイエスの体なる教会も大きく成長した、という意味が込められています。実際にキリスト者は迫害されればされるほど増え広がって行き、最終的にはローマ皇帝テオドシウスがキリスト教を国教としました。紀元392年でした。近代においては過去、日本の支配の下で、朝鮮のクリスチャンたちは厳しい迫害を受けました。神社への参拝を強制され、抵抗した多くの人々が殉教して行きました。今日、韓国ではクリスチャンが多くいますが、それは、殉教者たちの流した血が種となったからだと言うことができるでしょう。またインドや中国など、政府や過激派組織による迫害が起きている場所でも、キリスト者たちの強い姿勢や奉仕を通じて、かえってキリスト者が増えて行きました。 また現在のイランですが、政府による厳しい監視や制限、投獄などの困難、迫害がある中、近年急激にキリスト者が増えていると言われています。ローマ帝国の下でもそうだったように、迫害によって信仰が強められ、殉教者が出ることによって教会はむしろ強くなり、増え広がっていきました。
この迫害は歴史的にも起きましたが、個人レベルでも起きた、また起きることになるとイエスは言われます。12節です。また、兄弟は兄弟を、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に逆らって立ち、死に至らせます。個人レベルの迫害によって、兄弟、子、両親など、家族から迫害され、死に至る人がいる、ということをイエスは語られました。肉体的ないのちに関しては、時に迫害によって失われる、つまり殺されてしまうこともある、ということです。そしてその迫害の先にあるものをイエスは13節で語られました。「また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。」
色々な迫害が起こって来る。イエスを信じ、従って来るだけで人々に憎まれる。しかし最後まで耐え忍ぶ人は救われるとイエスは言われました。つまり、迫害され、いのちを落とすようなことがあっても救われるということです。ですからここでイエスが言われている救いとは、肉体的な領域を指していないことは明らかです。前回、「終わりの日のしるし」というメッセージの中で、私たちが神以外に頼みにしているすべては滅び、無くなっていくというお話をしました。それは私たちの体も含まれます。一瞬、瞬きに過ぎない私たちの限りある肉体の人生が少し早くなったとしても、その先にある永遠のいのちを神は見据えておられるため、迫害によって肉体的ないのちを失う人の存在を許しておられる。迫害を許されている。そのように思います。そして殉教していったいのちが、種、種子となって、永遠のいのちを獲得していく人々を起こしていくのだと思います。
先程招詞、礼拝への神からの招きのことばをエペソ人への手紙1章14節から読んで頂きました。「聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。」私たちの肉体は滅びるものであるがゆえに、肉体という存在は地上だけに限ったものです。しかしイエスを信じる者たちは、御国を受け継ぐことができる。イエスの支配されておられる神の国、御国を受け継ぐことができる。すなわち私たちの存在そのものである、霊魂が将来御国を受け継ぐことになる。従って聖霊は、私たちの肉体が例え滅びても、私たちの存在そのものである霊魂が御国に行くことができるよう、保証となって下さる、ということがここに約束されています。また聖霊の働きにおいて、このようなみ言葉を共に見たことがありました。「誰も聖霊によらなければイエスを主と告白することはできません。」私たちはみ言葉を読み、あるいは聞くことを通して、ある日、ある時、イエスを自分の主、救い主と信じました。それゆえ私たちはその時から罪赦され、神との関係が回復し、滅びから救われていますが、その救いに導いて下さったのが聖霊、神ご自身でした。この同じ聖霊、神の霊、神ご自身が、私たちクリスチャンが例え迫害によって捕えられるような時が来ても、また、ステパノのように尋問されるような迫害に直面しても、話すべき、また弁明できることばを与えて下さる。その先がそこからの解放なのか、または肉体的な死である殉教であるかは、神のご計画の中にある。それがもし殉教-肉体的な死であったとしても、その死は無駄にならない。必ずその死、言い換えればイエスによるいのちが散るのを見た他の人々が、その姿によってイエスを信じ、従い、救われていく。イエスによるいのちが種子、種として用いられる。そこには神の選びとご計画があることを思います。迫害の歴史的事実とその結果を踏まえ、私たちはイエスが最後に言われことばに希望を持つことができます。13節。「しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。」私たちは自分の力で、迫害に負けずに信仰を貫き、どんな時でも主イエスを証ししていくことはできないでしょう。それを私たちにさせて下さるのは聖霊です。聖霊は、迫害を始めとする様々な苦しみの中にいる私たちに、その先にある神の救いを待ち望むことができるように、その希望によって私たちが支えられるように、導いて下さいます。その聖霊の働きによって私たちは、苦しみの中でも耐え忍んで信仰を守ることができ、主イエスを証ししていく言葉を与えて頂けます。
この聖霊が弟子たちに与えられたのがペンテコステの出来事でした。そしてこのペンテコステを通して、キリストの体なる教会が誕生しました。この同じ聖霊が働いて下さり、迫害においても、イエスを信じる者たちに語るべきことばを与えて下さる。そしてたとえ迫害によっていのちを失うようなことが起きても、そのいのちは種子、種として、イエスを信じる新しい人々を起こして行く。迫害において、何一つ無駄になるものはない。その聖霊が今この教会にも、そして私たち一人一人にも注がれています。また聖霊は私たちの目を開き、この世の終わりに、主イエス・キリストによる救いが完成することを見つめさせて下さいます。その終りの日に至るまでの道には苦しみや悲しみ、迫害がありますが、私たちは耐え忍んで信仰を守り抜き、主イエス・キリストの福音が全ての民に宣べ伝えられるための証しに用いられていくことができます。
イエスは13節において、「最後まで」耐え忍びなさいと語られました。この最後とはイエスを信じる私たち一人一人の肉体におけるいのちの終わりであり、また、終わりの日です。そしてこの耐え忍ぶということばは希望がある忍耐です。それは迫害の先には救いの完成が待っているからです。
出エジプトの時、モーセがイスラエルの民に宣言しました。「恐れてはならない。しっかり立って、今日あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。」前は大海原、後ろからはエジプト軍が迫って来る。絶体絶命の瞬間でした。このような命の危険、また希望が持てなくなった時、モーセはしっかり立っていなさい、耐え忍びなさいと叫びました。それはその先に希望があるからです。主の救いがあるからです。そして実際に主なる神は彼らを絶対的なピンチから救われました。この同じ神が、私たちをも救って下さいます。救って下さる力を持っておられます。
迫害というのは、神に敵対する力が目に見える形として、また現実にこの世界を支配している者たちがいるということを、私たちに知らしめて来るものです。私たちは迫害によって、また、価値観や生き方の違う人々から受ける様々な試練や困難から、自分の姿がさらけ出されて行きます。それらの困難から、持っていると思っていた豊かさ、信仰、主を信頼する力などが打ち砕かれることもあります。しかしその迫害を、困難を、私たちは自分の力でどうすることもできません。
自分の力によって迫害に打ち勝つことはできません。従って迫害の中で私たちは、もはや自分ではなく、目に見えない神に依り頼み、神のご支配が現れることを待ち望むしかありません。
終わりの日に向けて、「その日」に向けて、迫害は強く、大きくなっていきます。そしてそれは必ず起きることであり、すでに起きています。しかし例えそのような状況になっても、私たちが受ける迫害の苦しみが、伝道の前進という実りを生みます。それゆえにこの苦しみをイエスは、「産みの苦しみ」と呼ばれました。それは信仰による新しいいのちを生み出すための苦しみであり、希望のある苦しみです。 弱い私たちを、主なる神が、イエスが、聖霊を通して支え、導き、その先にある救いを思い出させ、見つめさせ、その希望にすがらせて下さいますように。 信仰のゆえに受ける苦しみを私たちはそのように受け止め、共に最後まで耐え忍ぶ者でありたいと思います。
祈ります
「忍耐と救いを与える聖霊の助け」
「また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。」
2026/8/9(日)「第一の戒めは何を教えていますか?」マタイ4:10 庄司牧師
2026年8月9日 マタイの福音書4:10「第一の戒めは、何を教えていますか?」
問43 この第一の戒めは、私たちに何を教えていますか。
答 ”私たちが神さまを愛し、まことの神さまだけを礼拝することです。私たちは、他の神々をおがんではなりません。”イエスは言われた。「下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある。」” マタイの福音書4章10節
月の第二日曜日です。本日も子ども信仰問答からお話をしていきます。前回の箇所を少しおさらいしたいと思います。前回の問42は、「第一の戒めは何ですか?」そして引用されていたのが出エジプト記です。「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない」(出20:3) そしてその具体例として取り上げられていたのが、申命記4:35節、 “あなたにこのことが示されたのは、主だけが神であり、ほかに神はいないことを、あなたが知るためであった。’’です。
「主だけが神であり、ほかに神はいないことを、あなたが知るためであった。」主なる神は、ご自身が唯一、まことの神であるということを、出エジプト記において示されました。イスラエルの叫びに答えて奴隷から解放し、約束の地、カナンに向かう荒野においても同行されました。パンであるマナを降らせ、必要な水や肉なども備えられました。イスラエルの主なる神への不平、不満、不従順を忍耐され、おおよそ40年にわたって彼らを守り、導き、祝福を与え続けられました。
それほどイスラエルのことを愛され、イスラエルを導いて来られた主なる神が、「私だけを神としなさい」と、十戒を中心とした律法をsイスラエルに与えられました。 しかしイスラエルはモーセが十戒の石板を受けにシナイ山にいた時、長い不在から不安になって金の子牛の像を造り、神としてしまいました。偶像礼拝の罪です。神との契約を破り、罪を犯した者たちはこの後、モーセを通して粛清、すなわち神に裁かれました。その罪の根本は、偶像礼拝も含め、主なる神を第一にしなかったからです。主なる神を第一としない者は、裁かれる。自ら滅びを招くということです。この出来事を踏まえて、本日の箇所を見ていきましょう。本日の聖書箇所は、イエスが悪魔、サタンに誘惑された時に宣言されたことばです。この悪魔のイエスへの試み、誘惑が、マタイの福音書4:1節から始まり、本日の聖書箇所である10節まで続きます。一つ目の誘惑は、悪魔が40日の断食を通して空腹の絶頂であったイエスに、この石がパンになるように命じなさい、というものでした。この誘惑は、イエスが神から与えられたカリスマ、賜物だけで父なる神に頼らず、自分の力だけで人々を救いに導いていくよう、すなわち神から離れて自立するようとのサタンの誘惑でした。この誘惑に対してイエスは、「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」申命記8:3節を引用して答えられました。しかし神から離れていること自体が、そして神から離れて自分の力だけで物事を進めていくこと自体が罪ですから、これはサタンからの罪への誘いでもありました。イエスはここで、「人はパン自体で生きるのではない。パンを含め、人間が生きるのに必要なすべては神のことばを通して供給されている。私たちは神のことばによって生かされているのだから、ただ神に依り頼み、自分に与えられた神からの能力を、自分の願望を満たすために用いることはしない!」そのような思いと神への信頼を持ち、神のことばによってサタンの誘惑を退けました。二つ目に悪魔はイエスに、「詩篇に、御使いがあなたの足が石に打ち当たらないように守ると書いてある。-試しに神殿の屋根から飛び降りてみて、神のことばが本当にそうなるか、証明してみよ!」と誘いました。 あなたが神の子であるというしるしを、人々が奇蹟を通して見れば、彼らはあなたを救い主であると信じるだろう、という誘惑でした。サタンは詩篇91:11,12を引用しましたが、「すべての道で」あなたを守られるという「すべての道」ということばを故意に、わざと落としています。悪魔はみ言葉を良く知っており、時にみ言葉を自分の都合の良いように変え、用い、誘惑して来るということです。そしてこの誘惑は、イエスが人間を救うという大きな目的のために、父なる神のことばをただ、自分の働きの保証とするようにとの誘惑でした。この誘惑に対してイエスは「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」と、申命記6:16節を引用して答えられました。一つ目の誘惑に続いて、二つ目の誘惑も、イエスはみ言葉で悪魔に応戦されました。そして三つめ、これが最後の誘惑になりますが、悪魔はこのようにイエスを誘惑しました。8節、9節です。悪魔はまた、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての王国とその栄華を見せて、こう言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これをすべてあなたにあげよう。」イエスが悪魔に妥協して権力を持ち、政治的な王として人々を救いに導くようにとの誘惑でした。これに対してイエスが答えられたのが本日の聖書箇所10節です。そこでイエスは言われた。「下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある。」申命記6:13節の引用です。「主に仕えることを犠牲にしてまでして、使命達成を追求することはしない!」というイエスのご意志です。すると悪魔はイエスから離れていきました。み言葉で悪魔と戦って行く時、悪魔は離れて行くということです。それはつまり、悪魔の誘惑に打ち勝つことができる、ということです。 悪魔はサタンとも呼ばれていますが、サタンは「試みる者」とか「訴える者」とも呼ばれ、神とその救いの目的とに対する「敵」を意味します。サタンは神を憎んでいます。そしてその憎んでいる神が愛している人間も憎いため、一人でも多くの人間が神から離れるように策略を巡らしているだけでなく、願わくは神の子とされている私たちクリスチャンにも神を疑わせ、日々、信仰を奪おうと働いています。その戦略、策略が表されている箇所があります。それが本日の箇所です。マタイの福音書4:8,9。悪魔はまた、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての王国とその栄華を見せて、こう言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これをすべてあなたにあげよう。」 この箇所を平行箇所のルカの福音書4:6で見たいと思います。第三版の聖書訳でお読みします。ルカの福音書4:6「この国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。 旧約聖書、ヨブ記を見ても分かりますが、神の許可、神の許しがなければ、サタンは働くことができません。つまりサタンの活動も、誘惑や攻撃も、主なる神ご自身が持つ大いなるご計画と主権の中で許されている、ということです。そして実際にサタンはこの世において、この人にならいいという、イエスに反対している人々-特に力のある政治家、独裁者などの権力者を選んで、権力や栄光を与えることができるということです。 繫栄し、栄光を受けている者の背後に、悪魔の働きがあるということです。しかしこの悪魔の誘惑は、国の指導者や政治家など、力や権力を持っている人々に限りません。全ての人類が悪魔の誘惑に日々、晒されています。イエスは新約聖書、マタイの福音書6章24節においてこのように語られています。「だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神と富とに仕えることはできません。」神か富か。私たち人間はどちらかを選んで仕える、すなわちそれを大切にし、それに従い、それによって歩む、ということです。しかしどちらも同じようには愛せない。重んじることはできない。神を選んだ人は、神を大切にし、神に仕え、神に従い、神によって歩みます。一方富を選んだ人は、富を大切にし、富に仕え、富に従い、富によって歩みます。富とはその人を富ませるものですから、お金や財産だけではありません。家や土地、 自分の能力、名誉や名声、健康や趣味などの楽しみ、家族など、色々な物が考えられます。自分を富ませ、自分の気分を良くし、自分を高めてくれるものです。もちろんそのような物は大切ですし、なくてはなりません。しかしそれらがまことの神よりも大切になり、神よりも上になっていく時、人は簡単にそれらの奴隷となってしまいます。そして彼らが頼みにしているそのような神以外のものはやがて崩れ去る、無くなって行く時が来ます。先週も見て来ましたが、神以外のものは有限、限りがあり、それゆえ滅んでいくからです。そしてその先は、イスラエルの人々が偶像礼拝、すなわち神を第一にしなかったことによって裁かれたように、神を第一にしなかった人々は最終的に、神の裁きを経験することになります。なぜなら、富を第一にしていく生き方は、罪が解決せず、罪が残る生き方だからです。神から離れているという罪がずっと続く生き方だからです。ですから富を第一にした人は、その人の持っている罪ゆえに、自ら滅んで行くことになるでしょう。イエスはサタンに誘惑された時、神が与えて下さったみ言葉によって戦い、サタンを退けました。このイエスがなされたこと。それが神を第一にしていることの表れです。すなわち神のことばを第一にするという生き方、歩み、そして時に誘惑と戦い、対処する方法でもあります。「はじめに神が天と地を創造された。」聖書のはじめ、創世記1章1節のことばです。そして創造の経緯が描写されていきますが、神はことばをもって人間を含めた天地万物を創造していきます。神は、神のことばによって人間も含めた全ての被造物を造られ、このことばによって天地万物を保たれ、そしてこのことばを通して私たち人間に語りかけて下さっています。それが神のことば、聖書のことばです。ですからイエスが「聖書にこう書いてある」と言ってサタンの誘惑を退けましたが、それは神のことばを第一にした、すなわち神を第一にされた、ということです。 なぜなら神イコール神のことばだからです。ですからイエスが神のことば、聖書を第一とすることによって神を第一とされたように、私たちも聖書のことばを第一にしていくとき、それはすなわち神を第一にすることであり、神を第一にする生き方であるということです。 父なる神がイスラエルに与えられた十戒の一番目、人間が一番大切にすべき教え、戒めは、「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。」でした。イエスはこの教え、戒めを、神のことば、すなわち聖書に記されているみ言葉を守り、従い、そのことばで戦い、そのことばよって生きることによって、身をもって実践して下さいました。そして罪と罪から来る死とサタンを滅ぼして復活されたイエスは、今、神の右、栄光の座におられます。神のことばを第一にしていく。その先には、神の守り、祝福があり、平安、喜びがあり、罪の赦しと永遠のいのちがあります。私たちもイエスのように神のことばを第一にすることによって、神を第一にしていくことができますように。
祈ります 問43 この第一の戒めは、私たちに何を教えていますか。
答 ”私たちが神さまを愛し、まことの神さまだけを礼拝することです。私たちは、他の神々をおがんではなりません。‘’ ”イエスは言われた。「下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある。」” マタイの福音書4章10節
問43 この第一の戒めは、私たちに何を教えていますか。
答 ”私たちが神さまを愛し、まことの神さまだけを礼拝することです。私たちは、他の神々をおがんではなりません。”イエスは言われた。「下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある。」” マタイの福音書4章10節
月の第二日曜日です。本日も子ども信仰問答からお話をしていきます。前回の箇所を少しおさらいしたいと思います。前回の問42は、「第一の戒めは何ですか?」そして引用されていたのが出エジプト記です。「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない」(出20:3) そしてその具体例として取り上げられていたのが、申命記4:35節、 “あなたにこのことが示されたのは、主だけが神であり、ほかに神はいないことを、あなたが知るためであった。’’です。
「主だけが神であり、ほかに神はいないことを、あなたが知るためであった。」主なる神は、ご自身が唯一、まことの神であるということを、出エジプト記において示されました。イスラエルの叫びに答えて奴隷から解放し、約束の地、カナンに向かう荒野においても同行されました。パンであるマナを降らせ、必要な水や肉なども備えられました。イスラエルの主なる神への不平、不満、不従順を忍耐され、おおよそ40年にわたって彼らを守り、導き、祝福を与え続けられました。
それほどイスラエルのことを愛され、イスラエルを導いて来られた主なる神が、「私だけを神としなさい」と、十戒を中心とした律法をsイスラエルに与えられました。 しかしイスラエルはモーセが十戒の石板を受けにシナイ山にいた時、長い不在から不安になって金の子牛の像を造り、神としてしまいました。偶像礼拝の罪です。神との契約を破り、罪を犯した者たちはこの後、モーセを通して粛清、すなわち神に裁かれました。その罪の根本は、偶像礼拝も含め、主なる神を第一にしなかったからです。主なる神を第一としない者は、裁かれる。自ら滅びを招くということです。この出来事を踏まえて、本日の箇所を見ていきましょう。本日の聖書箇所は、イエスが悪魔、サタンに誘惑された時に宣言されたことばです。この悪魔のイエスへの試み、誘惑が、マタイの福音書4:1節から始まり、本日の聖書箇所である10節まで続きます。一つ目の誘惑は、悪魔が40日の断食を通して空腹の絶頂であったイエスに、この石がパンになるように命じなさい、というものでした。この誘惑は、イエスが神から与えられたカリスマ、賜物だけで父なる神に頼らず、自分の力だけで人々を救いに導いていくよう、すなわち神から離れて自立するようとのサタンの誘惑でした。この誘惑に対してイエスは、「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」申命記8:3節を引用して答えられました。しかし神から離れていること自体が、そして神から離れて自分の力だけで物事を進めていくこと自体が罪ですから、これはサタンからの罪への誘いでもありました。イエスはここで、「人はパン自体で生きるのではない。パンを含め、人間が生きるのに必要なすべては神のことばを通して供給されている。私たちは神のことばによって生かされているのだから、ただ神に依り頼み、自分に与えられた神からの能力を、自分の願望を満たすために用いることはしない!」そのような思いと神への信頼を持ち、神のことばによってサタンの誘惑を退けました。二つ目に悪魔はイエスに、「詩篇に、御使いがあなたの足が石に打ち当たらないように守ると書いてある。-試しに神殿の屋根から飛び降りてみて、神のことばが本当にそうなるか、証明してみよ!」と誘いました。 あなたが神の子であるというしるしを、人々が奇蹟を通して見れば、彼らはあなたを救い主であると信じるだろう、という誘惑でした。サタンは詩篇91:11,12を引用しましたが、「すべての道で」あなたを守られるという「すべての道」ということばを故意に、わざと落としています。悪魔はみ言葉を良く知っており、時にみ言葉を自分の都合の良いように変え、用い、誘惑して来るということです。そしてこの誘惑は、イエスが人間を救うという大きな目的のために、父なる神のことばをただ、自分の働きの保証とするようにとの誘惑でした。この誘惑に対してイエスは「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」と、申命記6:16節を引用して答えられました。一つ目の誘惑に続いて、二つ目の誘惑も、イエスはみ言葉で悪魔に応戦されました。そして三つめ、これが最後の誘惑になりますが、悪魔はこのようにイエスを誘惑しました。8節、9節です。悪魔はまた、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての王国とその栄華を見せて、こう言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これをすべてあなたにあげよう。」イエスが悪魔に妥協して権力を持ち、政治的な王として人々を救いに導くようにとの誘惑でした。これに対してイエスが答えられたのが本日の聖書箇所10節です。そこでイエスは言われた。「下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある。」申命記6:13節の引用です。「主に仕えることを犠牲にしてまでして、使命達成を追求することはしない!」というイエスのご意志です。すると悪魔はイエスから離れていきました。み言葉で悪魔と戦って行く時、悪魔は離れて行くということです。それはつまり、悪魔の誘惑に打ち勝つことができる、ということです。 悪魔はサタンとも呼ばれていますが、サタンは「試みる者」とか「訴える者」とも呼ばれ、神とその救いの目的とに対する「敵」を意味します。サタンは神を憎んでいます。そしてその憎んでいる神が愛している人間も憎いため、一人でも多くの人間が神から離れるように策略を巡らしているだけでなく、願わくは神の子とされている私たちクリスチャンにも神を疑わせ、日々、信仰を奪おうと働いています。その戦略、策略が表されている箇所があります。それが本日の箇所です。マタイの福音書4:8,9。悪魔はまた、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての王国とその栄華を見せて、こう言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これをすべてあなたにあげよう。」 この箇所を平行箇所のルカの福音書4:6で見たいと思います。第三版の聖書訳でお読みします。ルカの福音書4:6「この国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。 旧約聖書、ヨブ記を見ても分かりますが、神の許可、神の許しがなければ、サタンは働くことができません。つまりサタンの活動も、誘惑や攻撃も、主なる神ご自身が持つ大いなるご計画と主権の中で許されている、ということです。そして実際にサタンはこの世において、この人にならいいという、イエスに反対している人々-特に力のある政治家、独裁者などの権力者を選んで、権力や栄光を与えることができるということです。 繫栄し、栄光を受けている者の背後に、悪魔の働きがあるということです。しかしこの悪魔の誘惑は、国の指導者や政治家など、力や権力を持っている人々に限りません。全ての人類が悪魔の誘惑に日々、晒されています。イエスは新約聖書、マタイの福音書6章24節においてこのように語られています。「だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神と富とに仕えることはできません。」神か富か。私たち人間はどちらかを選んで仕える、すなわちそれを大切にし、それに従い、それによって歩む、ということです。しかしどちらも同じようには愛せない。重んじることはできない。神を選んだ人は、神を大切にし、神に仕え、神に従い、神によって歩みます。一方富を選んだ人は、富を大切にし、富に仕え、富に従い、富によって歩みます。富とはその人を富ませるものですから、お金や財産だけではありません。家や土地、 自分の能力、名誉や名声、健康や趣味などの楽しみ、家族など、色々な物が考えられます。自分を富ませ、自分の気分を良くし、自分を高めてくれるものです。もちろんそのような物は大切ですし、なくてはなりません。しかしそれらがまことの神よりも大切になり、神よりも上になっていく時、人は簡単にそれらの奴隷となってしまいます。そして彼らが頼みにしているそのような神以外のものはやがて崩れ去る、無くなって行く時が来ます。先週も見て来ましたが、神以外のものは有限、限りがあり、それゆえ滅んでいくからです。そしてその先は、イスラエルの人々が偶像礼拝、すなわち神を第一にしなかったことによって裁かれたように、神を第一にしなかった人々は最終的に、神の裁きを経験することになります。なぜなら、富を第一にしていく生き方は、罪が解決せず、罪が残る生き方だからです。神から離れているという罪がずっと続く生き方だからです。ですから富を第一にした人は、その人の持っている罪ゆえに、自ら滅んで行くことになるでしょう。イエスはサタンに誘惑された時、神が与えて下さったみ言葉によって戦い、サタンを退けました。このイエスがなされたこと。それが神を第一にしていることの表れです。すなわち神のことばを第一にするという生き方、歩み、そして時に誘惑と戦い、対処する方法でもあります。「はじめに神が天と地を創造された。」聖書のはじめ、創世記1章1節のことばです。そして創造の経緯が描写されていきますが、神はことばをもって人間を含めた天地万物を創造していきます。神は、神のことばによって人間も含めた全ての被造物を造られ、このことばによって天地万物を保たれ、そしてこのことばを通して私たち人間に語りかけて下さっています。それが神のことば、聖書のことばです。ですからイエスが「聖書にこう書いてある」と言ってサタンの誘惑を退けましたが、それは神のことばを第一にした、すなわち神を第一にされた、ということです。 なぜなら神イコール神のことばだからです。ですからイエスが神のことば、聖書を第一とすることによって神を第一とされたように、私たちも聖書のことばを第一にしていくとき、それはすなわち神を第一にすることであり、神を第一にする生き方であるということです。 父なる神がイスラエルに与えられた十戒の一番目、人間が一番大切にすべき教え、戒めは、「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。」でした。イエスはこの教え、戒めを、神のことば、すなわち聖書に記されているみ言葉を守り、従い、そのことばで戦い、そのことばよって生きることによって、身をもって実践して下さいました。そして罪と罪から来る死とサタンを滅ぼして復活されたイエスは、今、神の右、栄光の座におられます。神のことばを第一にしていく。その先には、神の守り、祝福があり、平安、喜びがあり、罪の赦しと永遠のいのちがあります。私たちもイエスのように神のことばを第一にすることによって、神を第一にしていくことができますように。
祈ります 問43 この第一の戒めは、私たちに何を教えていますか。
答 ”私たちが神さまを愛し、まことの神さまだけを礼拝することです。私たちは、他の神々をおがんではなりません。‘’ ”イエスは言われた。「下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある。」” マタイの福音書4章10節
2026/8/2(日)「終わりの日のしるし」マルコ13:1~8 庄司牧師
2026年8月2日 マルコの福音書13:1~8 「終わりの日のしるし」
イエスが宮から出て行かれるとき、弟子の一人がイエスに言った。「先生、ご覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」すると、イエスは彼に言われた。「この大きな建物を見ているのですか。ここで、どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることは決してありません。」イエスがオリーブ山で宮に向かって座っておられると、ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかにイエスに尋ねた。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのですか。また、それらがすべて終わりに近づくときのしるしは、どのようなものですか。」それで、イエスは彼らに話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『私こそ、その者だ』と言って、多くの人を惑わします。また、戦争や戦争のうわさを聞いても、うろたえてはいけません。そういうことは必ず起こりますが、まだ終わりではありません。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、あちこちで地震があり、飢饉も起こるからです。これらのことは産みの苦しみの始まりです。
マルコ福音書の第13章は、イエスの教えをまとめて語っている最後の部分となります。次の14章からは受難、十字架の出来事に入っていきます。この13章は「小黙示録」と呼ばれています。「小さな黙示録」です。そうしますと「大きな黙示録」がある訳ですが、それは私たちが良く耳にする、新約聖書最後の書簡、「ヨハネの黙示録」です。ヨハネの黙示録には、この世の終わりに起る様々な苦難が描写されていますが、小羊として描かれているイエス・キリストが最終的に全ての敵に勝利され、イエスのご支配、すなわち神の国が完成することが記されています。そしてイエスに従って生きた信仰者の救い、永遠のいのちが実現することが語られています。 ヨハネの黙示録と同じように、マルコ13章にもこの世の終わりのことが語られています。ヨハネの黙示録と決定的に異なる点は、イエスご自身が語っておられる、ということです。捕えられ、十字架につけられる直前に、最後の教えとしてイエスが世の終わりのことをお語りになった、それがこの13章です。本日の箇所はこのように始まっています。イエスが宮から出て行かれるとき、弟子の一人がイエスに言った。「先生、ご覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」
弟子たちのほとんどはガリラヤの田舎町出身です。ですから、都エルサレムにある豪華絢爛たる神殿を見て、感嘆の声を上げました。エルサレム神殿は、クリスマスの物語に登場するヘロデ大王が再建した第3神殿と呼ばれる物ですが、おおよそ50年の歳月をかけて建設され、金ぱくで覆われた豪華絢爛の神殿です。現在、ユダヤ人の人々が祈っている姿が時々報道される、いわゆる「嘆きの壁」というのは、このヘロデの神殿の僅かに残っている下の方の壁の一部です。当時の壁は現在のものよりもずっと高くそびえ立っていました。その壮麗な神殿は、正にイスラエルを象徴する場所でした。しかしイエスはこれに対して、「この大きな建物を見ているのですか。ここで、どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることは決してありません。」とおっしゃいました。この壮麗な神殿が徹底的に破壊される時が来る、とイエスは予告されました。この予告、預言は紀元70年に実現します。ローマ帝国によってエルサレム神殿は徹底的に破壊され、神殿の歴史は終わりを告げました。今では「嘆きの壁」など、ごく僅かな遺跡としてしか、その跡を偲ぶことはできません。
当時、全てのユダヤの人々が、この神殿を誇りにしていました。ここに神の祝福があると信じていました。ところがその意味が次第に逆転していきます。そもそも神殿は、そこで神と出会い、神への礼拝を通して神と交わる場所でした。しかしユダヤの人々は、神殿があるから神は我々と共におられるのだ。神殿がある限り、我々には神の守りがあるのだ、と考えるようになっていきます。本末転倒です。しかしユダヤの人々が誇っていた神殿は滅んでいきます。
このような素晴しい建物が破壊されてしまうなんて、それはもうこの世の終わりだ、と弟子たちは考えました。そこでイエスに質問します。イエスがオリーブ山で宮に向かって座っておられると、ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかにイエスに尋ねた。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのですか。また、それらがすべて終わりに近づくときのしるしは、どのようなものですか。弟子たちの質問は、すなわち私たちの質問でもあります。現代を生きている私たちも、とてつもなく大きな事件や災害などが起こると、もうこの世の終わりか、と思うのです。この世界が破局へと向かっているという恐れを抱くのは、当時の人々も私たちも全く同じです。さらに今日は、環境破壊、それに伴う動植物の危機と絶滅。多発する自然災害や世界戦争勃発への恐れなど、当時よりももっと深刻かもしれません。ですから弟子たちの問いは、そのまま現代を生きる私たちの問いでもあり、イエスの終わりの日に対する答えは、すなわち私たちへの答えでもあるのです。イエスの弟子たちは、終わりの日に関して、いつ起こるのか?またその終わりが起こる前に、どのようなしるし、すなわち兆候や前兆があるのか?という二点を尋ねました。 ところでなぜ彼らは世の終わりに関してイエスに質問をしたのでしょうか。それは世の終わりの破局がいつ訪れるのか、その前兆、しるしを見極めて、前もってその時期を知っておきたいからだと思います。あと百年は起きないのであれば、当面は安心していられます。明日かもしれないし百年後かもしれない、それが分からないから不安なのです。だから「終わりの日」を前もって知ることによって、心を定めたい、そして何かをしたい。またはまだ先だと安心したい。そのような心理が働くのだと思います。それに対してイエスは、世の終わりにはこういうことが起こる、ということをお語りになりますが、開口一番に語られたことが警告です。「人に惑わされないように気をつけなさい。」そして以下、現代を生きる私たちも含め、終わりの日には色々な人々から、また現象などから惑わされることになる、また惑わされるであろう、様々な原因が語られていきます。一つは「人を惑わす者」の出現です。「わたしの名を名乗る者が大勢現れる。つまり偽の救い主、偽キリストが現れて、私こそ救い主だ、と言って人々を集めるようになる。また、「戦争のうわさや実際の戦争」です。これも世の終わりの一つのしるしとされています。しかし偽の救い主はイエスの時代にもいましたし、戦争や戦争のうわさなども、それがなかった時代はありません。ですからイエスの時以来、これらのしるしは常に存在しているのであって、世の終わりを知る手がかりにはなりません。またイエスご自身も、「そういうことは必ず起こりますが、まだ終わりではありません。」と語っておられます。 そしてイエスは次の8節において、民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、あちこちで地震があり、飢饉も起こるからです。と、語られ、私たちに襲いかかってくるこのような大きな苦しみについてイエスは続けて、これらのことは産みの苦しみの始まりです。と言われました。既に世の終わりのしるしは現れており、終わりは始まっているが、いつ終わりが来るのか、それまでにどれだけの苦しみを経なければならないのかは誰も知ることができない、とイエスはおっしゃったのです。つまりイエスは、終わりの時がいつ来るのか、その時期を知りたいという弟子たちの願いに答えることを拒まれました。弟子たちは、そして私たちも、終わりの時がいつ来るのかを知って、それに応じて自分の計画を考えたいと願います。終わりを知って、これからの人生の見通しを立てたいと思います。しかしイエスはそのような見通しを立てることをお許しになりません。私たちは世の終わりが何時来るかを知ることはできないのです。つまり将来のこと、これから起こることを、自分の計画の中に組み入れてしまうことはできないということです。なぜ神は、すなわちイエスは、終わりの日を私たちに示して下さらないのでしょうか。 もちろん父なる神だけが終わりの日をご存知であるということもそうですが、それ以上に、もし私たち人間が世の終わりの日が分かったならば、私たちの生活は途端に秩序を失ってしまうでしょう。終わりの日を逆算しながら財産を使い果たし、終わりの日があるのだから今を精一杯楽しもうと刹那的になる。時々新興宗教が「何月何日に世の終わりが来る」と言ってそれを信じた信徒たちが仕事を止め、結婚を諦め、財産を処分し、時に自殺するということがあります。イエスはそのようなことを私たちに望んでおられません。ですから私たちは与えられ、備えられた一日一日を、精一杯、誠実に、そして忠実に仕えていく必要がありますし、逆に言えば、私たちはそれしかできないのではないでしょうか。私たちは、神を自分の計画や予定の中に組み入れてしまうことはできません。 神の計画を前もって知り、それをコントールしようとするならば、それは神を支配したいという願いであり、人間の傲慢です。神のみ業は、人間が計算したり、自分の計画の中に組み込んだりするべきものではなく、神の計画が最善であると信じ、委ねること。待つこと。私たちはそれしかできません。
そしてイエスは、私たちがどのように終わりの日を待ち望んだら良いか、出産の譬えを通して教えて下さっています。出産の前には母親が苦難、痛みを経験しなければなりませんが、その苦しみの先には子どもの誕生と言う、この上ない喜びが待っています。そのように、終わりの日の前には人間が様々な痛み、苦しみ、苦難を経験しなければなりませんが、同じように、その先には喜びがあり、希望があるということをイエスは示しておられます。 では、この世の終わりの先には何が待っているのでしょうか。マルコの福音書1章で見て来ましたが、イエスがこの世界に飛び込んで来られた時、神の国が近づいた、神の国が到来したと言われました。神の国とはイエスが統治される世界であり、イエスの統治そのものです。神の国はイエスと共に到来しました。しかし人類はアダムが神に反逆して以来、すなわち罪を犯してから、罪と、罪から来る死と、サタン、悪魔の支配下に入ってしまいました。人類はこの罪を受け継ぎ、罪から来る神への不従順と不信仰から神を失い、神を失うことによって自分も失いました。自分は何者なのかという、自分のアイデンティティーも失いました。なぜ生まれ、何のために生きるのかという使命も分からなくなってしまいました。さらに神の絶対的な規準を失うことによって、一人一人が勝手に自分の規準を持つようになり、それが最善であると考えるようになり、違う規準を持つ他の人々と争い、時に殺し合うようになりました。また見えない神に頼れなくなった人間は、家や土地、お金などの財産、そして自分の能力、自分の名誉・名声、健康や趣味などの楽しみ、家族など、目に見えるものに頼るようになりました。それらは素晴らしいこと、大切なことですが、ユダヤの人々が誇りとし、希望としていた神殿が滅び、無くなってしまったように、やがて崩れ去る時がやってきます。なぜなら人間が頼りにするものは永遠には続かない物だからです。一切の物には終わりがある。終わりが来る。自分のいのちも含め、そしてこの世、この世界にすら終りの時が来る、崩れ去る時が訪れます。
平行箇所のマタイの福音書24章3節においては、弟子たちはこのようにイエスに尋ねています。
イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちがひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのですか。あなたが来られ、世が終わる時のしるしは、どのようなものですか。」世の終わりのしるしに関して、マルコの福音書にはない、「あなたが来られ」ということばがあります。これはイエスが再びこの世界に来られる再臨を表しています。イエスご自身も、ご自身が裁き主としてこの世界に再び来られる再臨のことを、旧約聖書の預言から引用されています。後から見ていきますが、先の26節にある「人の子が雲に乗って来る」という表現は、旧約聖書、ダニエル書7章に記されている預言を、イエスが引用されたものです。旧約聖書は、イエスの初臨、すなわちクリスマスにおける誕生やイエスの歩み、そして私たち人間の罪の身代わり、贖いである十字架なども預言していますが、それは全て成就、実現しました。イエスが再びこの世界に戻って来られる再臨とその再臨の時に起こることを除いて、旧約聖書に記されている預言は全て成就、実現していると言っても良いでしょう。従ってイエスが再びこの世界に戻って来る、それも裁き主として来られることも、必ず実現します。そしてイエスが再臨される時、この混乱した世界、痛みと苦しみ、罪と死とサタンの支配にある古い世界は世の終わりと共に終わりを告げ、イエスの愛と調和、平和と平安の中での統治、すなわち完成した神の国の支配が、イエスを信じる者たちと共に始まります。しかしその神の国が完成する前、すなわち終わりの日が訪れる前は、イエスが語られるような「産みの苦しみ」が必ずあります。 出産の時に伴う痛み、陣痛は断続的に起こります。そして出産が近づくにつれて、その間隔が小さくなり、また痛みが激しくなります。そして出産の直前、その痛みは最高潮に達し、子どもが産まれます。 そのように神が定められた終わりの日の前には、そのしるしであり、前兆である、「私こそキリスト、救い主だ」と語り出す偽キリストの出現。また戦争のうわさや実際の戦争の勃発。大きな地震のような自然災害、また飢饉。それらは頻度も、また強さも増していきます。 しかし終わりの日がいつ起こるか、またどのように起こるかは、私たちには分かりません。知るよしもありません。 聖書が、そしてイエスが明確に語っておられることは「世の終わりが必ず来る」ということ。しかし「世の終わりがいつ来るかわからない」ということの二つです。イエスご自身も終わりの日の訪れを父なる神に委ねられ、いつ起こるか分からないとおっしゃいました。そして日々、父なる神に与えられていた使命を全うされました。その最たるものが、そしてとてつもなく大きな使命が、私たち人類のために十字架にかかる、ということでした。 私たちはこの世の終わりにおける苦難を、そして痛みを恐れます。 しかし私たちが終わりの日に関して、どのように心配しても、どんなに不安に思っても、また何か備えようと思っても、それを軽減したり、回避することはできません。
私たちにできる唯一のこと。それはイエスのことばに信頼し、イエスに委ねることだけです。
私たち人間の、「終わりの日」への恐れ、不安、そして時に好奇心に働きかけて、偽キリストや、サタンが私たちを欺いてきます。そこでイエスは言われました。「人に惑わされないようにしなさい」
イエスの警告に耳を傾けつつ、産みの苦しみの先にある、神の救い、永遠のいのち、すなわち神の国の完成があるということを、本日も心に留めたいと思います。そして日々自分にできること、自分に与えられているなすべきこと-使命を忠実に、また誠実に行う者でありたいと願います。
祈ります
「終わりの日のしるし」
それで、イエスは彼らに話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。」
イエスが宮から出て行かれるとき、弟子の一人がイエスに言った。「先生、ご覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」すると、イエスは彼に言われた。「この大きな建物を見ているのですか。ここで、どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることは決してありません。」イエスがオリーブ山で宮に向かって座っておられると、ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかにイエスに尋ねた。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのですか。また、それらがすべて終わりに近づくときのしるしは、どのようなものですか。」それで、イエスは彼らに話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『私こそ、その者だ』と言って、多くの人を惑わします。また、戦争や戦争のうわさを聞いても、うろたえてはいけません。そういうことは必ず起こりますが、まだ終わりではありません。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、あちこちで地震があり、飢饉も起こるからです。これらのことは産みの苦しみの始まりです。
マルコ福音書の第13章は、イエスの教えをまとめて語っている最後の部分となります。次の14章からは受難、十字架の出来事に入っていきます。この13章は「小黙示録」と呼ばれています。「小さな黙示録」です。そうしますと「大きな黙示録」がある訳ですが、それは私たちが良く耳にする、新約聖書最後の書簡、「ヨハネの黙示録」です。ヨハネの黙示録には、この世の終わりに起る様々な苦難が描写されていますが、小羊として描かれているイエス・キリストが最終的に全ての敵に勝利され、イエスのご支配、すなわち神の国が完成することが記されています。そしてイエスに従って生きた信仰者の救い、永遠のいのちが実現することが語られています。 ヨハネの黙示録と同じように、マルコ13章にもこの世の終わりのことが語られています。ヨハネの黙示録と決定的に異なる点は、イエスご自身が語っておられる、ということです。捕えられ、十字架につけられる直前に、最後の教えとしてイエスが世の終わりのことをお語りになった、それがこの13章です。本日の箇所はこのように始まっています。イエスが宮から出て行かれるとき、弟子の一人がイエスに言った。「先生、ご覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」
弟子たちのほとんどはガリラヤの田舎町出身です。ですから、都エルサレムにある豪華絢爛たる神殿を見て、感嘆の声を上げました。エルサレム神殿は、クリスマスの物語に登場するヘロデ大王が再建した第3神殿と呼ばれる物ですが、おおよそ50年の歳月をかけて建設され、金ぱくで覆われた豪華絢爛の神殿です。現在、ユダヤ人の人々が祈っている姿が時々報道される、いわゆる「嘆きの壁」というのは、このヘロデの神殿の僅かに残っている下の方の壁の一部です。当時の壁は現在のものよりもずっと高くそびえ立っていました。その壮麗な神殿は、正にイスラエルを象徴する場所でした。しかしイエスはこれに対して、「この大きな建物を見ているのですか。ここで、どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることは決してありません。」とおっしゃいました。この壮麗な神殿が徹底的に破壊される時が来る、とイエスは予告されました。この予告、預言は紀元70年に実現します。ローマ帝国によってエルサレム神殿は徹底的に破壊され、神殿の歴史は終わりを告げました。今では「嘆きの壁」など、ごく僅かな遺跡としてしか、その跡を偲ぶことはできません。
当時、全てのユダヤの人々が、この神殿を誇りにしていました。ここに神の祝福があると信じていました。ところがその意味が次第に逆転していきます。そもそも神殿は、そこで神と出会い、神への礼拝を通して神と交わる場所でした。しかしユダヤの人々は、神殿があるから神は我々と共におられるのだ。神殿がある限り、我々には神の守りがあるのだ、と考えるようになっていきます。本末転倒です。しかしユダヤの人々が誇っていた神殿は滅んでいきます。
このような素晴しい建物が破壊されてしまうなんて、それはもうこの世の終わりだ、と弟子たちは考えました。そこでイエスに質問します。イエスがオリーブ山で宮に向かって座っておられると、ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかにイエスに尋ねた。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのですか。また、それらがすべて終わりに近づくときのしるしは、どのようなものですか。弟子たちの質問は、すなわち私たちの質問でもあります。現代を生きている私たちも、とてつもなく大きな事件や災害などが起こると、もうこの世の終わりか、と思うのです。この世界が破局へと向かっているという恐れを抱くのは、当時の人々も私たちも全く同じです。さらに今日は、環境破壊、それに伴う動植物の危機と絶滅。多発する自然災害や世界戦争勃発への恐れなど、当時よりももっと深刻かもしれません。ですから弟子たちの問いは、そのまま現代を生きる私たちの問いでもあり、イエスの終わりの日に対する答えは、すなわち私たちへの答えでもあるのです。イエスの弟子たちは、終わりの日に関して、いつ起こるのか?またその終わりが起こる前に、どのようなしるし、すなわち兆候や前兆があるのか?という二点を尋ねました。 ところでなぜ彼らは世の終わりに関してイエスに質問をしたのでしょうか。それは世の終わりの破局がいつ訪れるのか、その前兆、しるしを見極めて、前もってその時期を知っておきたいからだと思います。あと百年は起きないのであれば、当面は安心していられます。明日かもしれないし百年後かもしれない、それが分からないから不安なのです。だから「終わりの日」を前もって知ることによって、心を定めたい、そして何かをしたい。またはまだ先だと安心したい。そのような心理が働くのだと思います。それに対してイエスは、世の終わりにはこういうことが起こる、ということをお語りになりますが、開口一番に語られたことが警告です。「人に惑わされないように気をつけなさい。」そして以下、現代を生きる私たちも含め、終わりの日には色々な人々から、また現象などから惑わされることになる、また惑わされるであろう、様々な原因が語られていきます。一つは「人を惑わす者」の出現です。「わたしの名を名乗る者が大勢現れる。つまり偽の救い主、偽キリストが現れて、私こそ救い主だ、と言って人々を集めるようになる。また、「戦争のうわさや実際の戦争」です。これも世の終わりの一つのしるしとされています。しかし偽の救い主はイエスの時代にもいましたし、戦争や戦争のうわさなども、それがなかった時代はありません。ですからイエスの時以来、これらのしるしは常に存在しているのであって、世の終わりを知る手がかりにはなりません。またイエスご自身も、「そういうことは必ず起こりますが、まだ終わりではありません。」と語っておられます。 そしてイエスは次の8節において、民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、あちこちで地震があり、飢饉も起こるからです。と、語られ、私たちに襲いかかってくるこのような大きな苦しみについてイエスは続けて、これらのことは産みの苦しみの始まりです。と言われました。既に世の終わりのしるしは現れており、終わりは始まっているが、いつ終わりが来るのか、それまでにどれだけの苦しみを経なければならないのかは誰も知ることができない、とイエスはおっしゃったのです。つまりイエスは、終わりの時がいつ来るのか、その時期を知りたいという弟子たちの願いに答えることを拒まれました。弟子たちは、そして私たちも、終わりの時がいつ来るのかを知って、それに応じて自分の計画を考えたいと願います。終わりを知って、これからの人生の見通しを立てたいと思います。しかしイエスはそのような見通しを立てることをお許しになりません。私たちは世の終わりが何時来るかを知ることはできないのです。つまり将来のこと、これから起こることを、自分の計画の中に組み入れてしまうことはできないということです。なぜ神は、すなわちイエスは、終わりの日を私たちに示して下さらないのでしょうか。 もちろん父なる神だけが終わりの日をご存知であるということもそうですが、それ以上に、もし私たち人間が世の終わりの日が分かったならば、私たちの生活は途端に秩序を失ってしまうでしょう。終わりの日を逆算しながら財産を使い果たし、終わりの日があるのだから今を精一杯楽しもうと刹那的になる。時々新興宗教が「何月何日に世の終わりが来る」と言ってそれを信じた信徒たちが仕事を止め、結婚を諦め、財産を処分し、時に自殺するということがあります。イエスはそのようなことを私たちに望んでおられません。ですから私たちは与えられ、備えられた一日一日を、精一杯、誠実に、そして忠実に仕えていく必要がありますし、逆に言えば、私たちはそれしかできないのではないでしょうか。私たちは、神を自分の計画や予定の中に組み入れてしまうことはできません。 神の計画を前もって知り、それをコントールしようとするならば、それは神を支配したいという願いであり、人間の傲慢です。神のみ業は、人間が計算したり、自分の計画の中に組み込んだりするべきものではなく、神の計画が最善であると信じ、委ねること。待つこと。私たちはそれしかできません。
そしてイエスは、私たちがどのように終わりの日を待ち望んだら良いか、出産の譬えを通して教えて下さっています。出産の前には母親が苦難、痛みを経験しなければなりませんが、その苦しみの先には子どもの誕生と言う、この上ない喜びが待っています。そのように、終わりの日の前には人間が様々な痛み、苦しみ、苦難を経験しなければなりませんが、同じように、その先には喜びがあり、希望があるということをイエスは示しておられます。 では、この世の終わりの先には何が待っているのでしょうか。マルコの福音書1章で見て来ましたが、イエスがこの世界に飛び込んで来られた時、神の国が近づいた、神の国が到来したと言われました。神の国とはイエスが統治される世界であり、イエスの統治そのものです。神の国はイエスと共に到来しました。しかし人類はアダムが神に反逆して以来、すなわち罪を犯してから、罪と、罪から来る死と、サタン、悪魔の支配下に入ってしまいました。人類はこの罪を受け継ぎ、罪から来る神への不従順と不信仰から神を失い、神を失うことによって自分も失いました。自分は何者なのかという、自分のアイデンティティーも失いました。なぜ生まれ、何のために生きるのかという使命も分からなくなってしまいました。さらに神の絶対的な規準を失うことによって、一人一人が勝手に自分の規準を持つようになり、それが最善であると考えるようになり、違う規準を持つ他の人々と争い、時に殺し合うようになりました。また見えない神に頼れなくなった人間は、家や土地、お金などの財産、そして自分の能力、自分の名誉・名声、健康や趣味などの楽しみ、家族など、目に見えるものに頼るようになりました。それらは素晴らしいこと、大切なことですが、ユダヤの人々が誇りとし、希望としていた神殿が滅び、無くなってしまったように、やがて崩れ去る時がやってきます。なぜなら人間が頼りにするものは永遠には続かない物だからです。一切の物には終わりがある。終わりが来る。自分のいのちも含め、そしてこの世、この世界にすら終りの時が来る、崩れ去る時が訪れます。
平行箇所のマタイの福音書24章3節においては、弟子たちはこのようにイエスに尋ねています。
イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちがひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのですか。あなたが来られ、世が終わる時のしるしは、どのようなものですか。」世の終わりのしるしに関して、マルコの福音書にはない、「あなたが来られ」ということばがあります。これはイエスが再びこの世界に来られる再臨を表しています。イエスご自身も、ご自身が裁き主としてこの世界に再び来られる再臨のことを、旧約聖書の預言から引用されています。後から見ていきますが、先の26節にある「人の子が雲に乗って来る」という表現は、旧約聖書、ダニエル書7章に記されている預言を、イエスが引用されたものです。旧約聖書は、イエスの初臨、すなわちクリスマスにおける誕生やイエスの歩み、そして私たち人間の罪の身代わり、贖いである十字架なども預言していますが、それは全て成就、実現しました。イエスが再びこの世界に戻って来られる再臨とその再臨の時に起こることを除いて、旧約聖書に記されている預言は全て成就、実現していると言っても良いでしょう。従ってイエスが再びこの世界に戻って来る、それも裁き主として来られることも、必ず実現します。そしてイエスが再臨される時、この混乱した世界、痛みと苦しみ、罪と死とサタンの支配にある古い世界は世の終わりと共に終わりを告げ、イエスの愛と調和、平和と平安の中での統治、すなわち完成した神の国の支配が、イエスを信じる者たちと共に始まります。しかしその神の国が完成する前、すなわち終わりの日が訪れる前は、イエスが語られるような「産みの苦しみ」が必ずあります。 出産の時に伴う痛み、陣痛は断続的に起こります。そして出産が近づくにつれて、その間隔が小さくなり、また痛みが激しくなります。そして出産の直前、その痛みは最高潮に達し、子どもが産まれます。 そのように神が定められた終わりの日の前には、そのしるしであり、前兆である、「私こそキリスト、救い主だ」と語り出す偽キリストの出現。また戦争のうわさや実際の戦争の勃発。大きな地震のような自然災害、また飢饉。それらは頻度も、また強さも増していきます。 しかし終わりの日がいつ起こるか、またどのように起こるかは、私たちには分かりません。知るよしもありません。 聖書が、そしてイエスが明確に語っておられることは「世の終わりが必ず来る」ということ。しかし「世の終わりがいつ来るかわからない」ということの二つです。イエスご自身も終わりの日の訪れを父なる神に委ねられ、いつ起こるか分からないとおっしゃいました。そして日々、父なる神に与えられていた使命を全うされました。その最たるものが、そしてとてつもなく大きな使命が、私たち人類のために十字架にかかる、ということでした。 私たちはこの世の終わりにおける苦難を、そして痛みを恐れます。 しかし私たちが終わりの日に関して、どのように心配しても、どんなに不安に思っても、また何か備えようと思っても、それを軽減したり、回避することはできません。
私たちにできる唯一のこと。それはイエスのことばに信頼し、イエスに委ねることだけです。
私たち人間の、「終わりの日」への恐れ、不安、そして時に好奇心に働きかけて、偽キリストや、サタンが私たちを欺いてきます。そこでイエスは言われました。「人に惑わされないようにしなさい」
イエスの警告に耳を傾けつつ、産みの苦しみの先にある、神の救い、永遠のいのち、すなわち神の国の完成があるということを、本日も心に留めたいと思います。そして日々自分にできること、自分に与えられているなすべきこと-使命を忠実に、また誠実に行う者でありたいと願います。
祈ります
「終わりの日のしるし」
それで、イエスは彼らに話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。」
2026/7/26(日) 「誰よりも多く投げ入れた人」マルコ12:38~44 庄司牧師
2026年7月26日 マルコの福音書12:38~44「誰よりも多く投げ入れた人」
イエスはその教えの中でこう言われた。「律法学者たちに気をつけなさい。彼らが願うのは、長い衣を着て歩き回ること、広場であいさつされること、会堂で上席に、宴会で上座に座ることです。また、やもめたちの家を食い尽くし、見栄を張って長く祈ります。こういう人たちは、より厳しい罰を受けます。」それから、イエスは献金箱の向かい側に座り、群衆がお金を献金箱へ投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持ちがたくさん投げ入れていた。そこに一人の貧しいやもめが来て、レプタ銅貨二枚を投げ入れた。それは一コドラントに当たる。イエスは弟子たちを呼んで言われた。「まことに、あなたがたに言います。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れている人々の中で、だれよりも多くを投げ入れました。皆はあり余る中から投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っているすべてを、生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから。」
本日の箇所はイエスの警告から始まっています。「律法学者たちに気をつけなさい!」その問題点をイエスは指摘されていきます。彼らは長い衣を着て歩き回ること、そして人々から広場であいさつされることを好みました。 長い衣は彼らが律法学者であることを示すシンボルです。その衣をまとっていると、人々が尊敬して頭を下げるのです。また「広場で挨拶される」ことも彼らが願うことでした。町の広場は市、市場が立つ所でもあり、様々な市民生活が営まれる場です。そこに集まる多くの人々から特別な人として尊敬され、みんなに「先生」と呼ばれて挨拶されることを、律法学者たちは好みました。 彼らは、会堂で上席に座ること、そして宴会で上座に座ることも好きでした。「会堂の上席」というのは、ユダヤ人たちの礼拝の場であるシナゴーグと呼ばれる会堂において、聖書を納めた箱の前の席のようです。 一般の人々の席と向かい合っており、礼拝を司る人の席です。 現在の教会、また礼拝堂で言えば、講壇の上の説教者や司式者の席と思えばよいでしょう。 律法学者たちは常にその席に座ることを望みました。彼らは宴会の場でも上座を求めました。結婚式の披露宴で言えば、主賓のテーブルに席を求めるようなものです。
人々が神への信仰を持っていれば、その神のことばを取り扱っている律法学者たちが尊敬されるのは自然なことであり、当然のことだったかもしれません。しかしいつのまにか人々の尊敬から傲慢になり、人々からの尊敬を得ることを重んじ、求めるようになっていった。始めは彼らも神を信じ、神に喜ばれ、人にも喜ばれるように律法を教えていたかもしません。しかしいつしか「先生、先生」と呼ばれるようになり、神からの見えない、また感じない評価よりも、人からの見える、また感じる評価を求めるようになっていったと思われます。
またイエスは律法学者たちに対して、彼らはやもめたちの家を食い尽くし、見栄を張って長く祈ると指摘されました。 「やもめ」は多くの場合、「みなしご」と並んで社会的弱者、貧しい者の代表として聖書に出てきますが、この場合の「やもめ」は、夫の遺産を受け継いだ金持ちのやもめ、未亡人たちのことです。律法学者たちはそういうやもめたちに寄付をさせる-いわゆる慈善の行為をさせて金を出させていたようです。そのような行為はユダヤの人々にとって大変立派なこととして尊ばれ、尊敬されることでした。そしてやもめだけでなく、そのように彼女たちを指導した律法学者たちの名声も高まりました。そのことを受けてイエスは、彼らはやもめたちの財産を食い尽くしている、と言われたのだと思います。 また律法学者たちの祈りは、深さより長さを特徴としていました。人前で長い祈りをすることで、あの人は敬虔な人、信仰深い立派な人だという評判を得ようとしました。祈りの対象は神です。しかし彼らは自分を立てるために言わば神を利用したのと同じです。彼らは最後にその刈り取りをしなければならないでしょう。イエスは平行箇所のマタイの福音書23章の中で、彼らのことを「白く塗った墓」などと言われました。外見は綺麗にしているが、中は汚れでいっぱいであるとの皮肉であり、批判です。そしてこの23章の中において、イエスが繰り返し使われたことばがありました。「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。」23章の中で7,8回使われています。 彼ら律法学者たちは、見た目には私たちが驚くほどに厳格な、正しい、聖い生き方をしていました。しかしそういう彼らの聖さ、正しさとは、自分自身を誤魔化すための行いであり、演技であり、偽善だ、とイエスはおっしゃるのです。
一方、人の目を意識し、人の目を気遣い、人の目によって自分を評価していた律法学者たちとは異なる、人の評価に全く左右されずに生きている一人の女性が登場します。 エルサレム神殿の内庭には献金箱が設置されていました。宮に出入りする礼拝者が任意、自分の意志をもって自由にお金を投げ入れました。神に献げるお金を入れる箱です。 一説によればこの献金箱の傍らには祭司がいて、人々がそこに入れる献金を記録に留め、そして周囲の人々に聞こえるように、「誰々さんがいくら献金なさいました」と告げていたのではないかと言われています。
この時イエスは、その献金箱の向かいに座って、人々がそれにお金を入れる様子を見ておられました。「多くの金持ちがたくさん投げ入れていた。」とあります。祭司がその人たちの名前と献金額を読み上げる、すると人々の間から「おお」と感嘆の声が上がる。そのようにして金持ちたちは大いに面目を施していました。そのような中、一人の貧しいやもめがやって来ました。この人は先程の、律法学者たちに食い物にされるような金持ちのやもめではなく、「貧しいやもめ」です。そのやもめが献金箱に、「レプタ銅貨二枚、すなわち一コドラント」を投げ入れました。一レプタは一デナリの128分の一です。一人の労働者が一日働いてもらう賃金が一デナリでした。ですからこの献金がかなり小額だったことが分かります。 献金の記録係がこの献金を人々に告げた時、金持ちたちの献金を報告するのとは、全く違ったのではないかと想像します。恐らく冷めた、冷たい声だったのではないでしょうか。また、回りの人々は軽蔑の目で彼女を見、またことばに出したかもしれません。「それだけか!」「そんなはした金を捧げるなんて、何を考えているんだ!」「あきれた」「よく恥ずかしくないね」
もし彼女が人目を気にしていたとしたら、とてもこの額を献げることはできなかったでしょう。逆に言えば彼女は人目を気にしなかったからこそ、人からの評価によって自分を量ることをしなかったからこそ、この献金を献げることができたと言うことができるのではないでしょうか。 つまり彼女は人との比較から解放されていた、ということです。金持ちたちが多額の献金をしている中でレプタ銅貨二枚を差し出すことは、人の目を気にして、人と自分を見比べて生きている者には到底出来ないことです。「あの人のあんな立派な献げ物の後で、こんなみすぼらしい、ちっぽけなものを献げるなんて恥ずかしい」と思ってしまうでしょう。しかし彼女は周囲の冷たい目や軽蔑のまなざしに関わらず、レプタ二枚を献げました。それは彼女が人の目、人からの評価、評判によってではなく、ただ神を見つめ、ただ神に認められる、神に喜んで頂ければそれでいい、そのように「神中心」に生きていたからに他なりません。彼女はただ、神を見つめていた人でした。人の目を気にすることや、人と自分を見比べて喜んだり悲しんだりすることから解放されている彼女は、乏しい生活費を全部、全て、神に献げてしまいました。それは、自分の生活を全て神の恵み、養い、導きにお委ねしたということです。人と自分を比べて、自分は全てを神に献げているといった、誇るような思いは少しもありません。もしそのような思いが少しでもあったならば、このような献げ物はできなかったでしょう。ですから彼女が生活費も含めた全部を献げたということは、彼女が人の目から自由であるだけでなく、自分で自分の安心を確保しようという思いからも完全に自由であった、ということができるでしょう。だからこそ、神の恵みに、神の支えに、神の備えに全てをお委ねすることができました。このやもめは、翌日からどのようにして生きていくかという思い煩いはありませんでした。ここまで神を信頼し、全てを委ねる生き方ができるとしたら、それはどれほど平安であり、豊かで、幸せな人生ではないでしょうか。
その彼女の姿勢を、態度を、お金を通して自分を献げるという献身を、イエスが感動をもって弟子たちに語られています。イエスは弟子たちを呼んで言われた。「まことに、あなたがたに言います。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れている人々の中で、だれよりも多くを投げ入れました。皆はあり余る中から投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っているすべてを、生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから。」イエスは、このやもめが誰よりも多く投げ入れたと語られました。「まことに」とは、原語のギリシャ語で「アーメン」です。真実です、本当です、という意味であり、私たちが日々の祈りでも用いていることばです。イエスは「アーメン、真実を告げる」と言ってから、彼女は誰よりも多く投げ入れたと語られました。生活費を全て献げるほどに彼女は主なる神を愛し、また日々の生活を支えて下さるという絶対的な信頼、神への揺るぎない信頼を持って生きていました。
ところで本日の箇所は誰に語られているのでしょうか。12章の37節の後半には、「大勢の群衆が、イエスの言われることを喜んで聞いていた。」とあります。この直前には、律法学者たちをはじめとした宗教指導者たちが、イエスとの論争に完全に敗北した姿が描写されています。律法学者たちの姿をいつも見ていた当時の人々は、彼らの鼻持ちならない姿にうんざりさせられながらも、しかし律法の教師である彼らを尊重しないわけにはいかない、という思いでいたようです。 ですから人々にとって、イエスが律法学者たちの悪意ある問いに真正面から答え、完全に論破する姿は、本当に胸のすくものだったでしょう。しかしイエスはその群衆に向かって「律法学者に気をつけなさい」とおっしゃったのです。「気をつけなさい」ということは、あなたがたも律法学者たちと同じようになってしまわないように注意しなさい、ということです。そしてこれは現代における私たち一人一人も同じ、イエスからの警告であると思います。
私たちはこの社会の中で、人々と共に生きている存在です。一人で生きていくことはできません。人と共に生きている以上、人の目が気になり、人が自分をどう評価しているかを気にすることも、また人に評価され、褒められることを求めていくことも、自然なことです。つまりこの律法学者たちの姿は、人間の自然な姿を描き出していると言うことができます。そしてそのような生まれつきの、すなわち罪深い私たちの自然な姿、ありのままの私たち人間の姿というのは、人の目を気にして生き、その中において優越感と劣等感、誇りや妬みが分ち難く存在している、偽善に満ちた、決して幸せとは言えない姿だと思います。しかしそのような本来の自然な人間の姿から解放されている人がいました。それがこの貧しいやもめです。人々から蔑まれるような、馬鹿にされるような額の献金しかしなかった、またはできなかった彼女は、人の目を気にするというところから解放され、人の目によって自分が評価されるということからも解放され、ただ、神に喜ばれたいという一心で、自分の持っている精一杯を献げるような女性でした。彼女が人の目を気にすることから解放され、優越感と劣等感、誇りと妬みの狭間で苦しむことから解放されているのは、主なる神を信じていたからです。神を知る-神がどういうお方であるかということを知り、神との交わりの中で神の人格を知り、経験していく中で培われていった信仰、信頼から来ています。 そして彼女は人ではなく、神が喜ばれること、すなわち神の御心を求め、また神への感謝、神が自分を支えて下さるという確信、保証、安心、平安などを持つに至りました。それらがなければ、自分の生活費全部を献げることはできません。神なら自分を支えて下さる。日々養って下さる。神に対する信仰と信頼が、生活費全てを献げるという、目に見えるにかたちになりました。そしてこの献金の場面にイエスが来られました。イエスは彼女が貧しいということ。二レブタが彼女の全財産だということを知っておられました。そして彼女の心、献身の思いを知っておられ、感心されました。
この一連の出来事-やもめの心、信仰、神に対する信頼、行動は聖書に記されました。 名前も出て来ない一人のとても貧しい女性が、神を信じ、信頼する素晴らしい信仰者として、素晴らしい生き方の模範として、また神は全てを知っておられるという例として、そしてイエスがそのような人を愛しておられるという証として、聖書に記されることになりました。 イエスがこれから十字架に架かっていくという時に、イエスがこの献金箱の前におられたこと。この女性が現れ、持っているものを全て献げたこと。その場面をイエスが見、イエスが語られ、そして聖書に記されていること。これら全ては決して偶然ではないと思います。それは現代を生きる私たちも含め、全て聖書を読む一人一人に語られている出来事です。
イエスはこの数日後、私たち人間の罪を全て背負って、十字架にかかって死なれようとしています。それは律法学者のように自分の能力や財産に頼り、時に誇り、人の目を気にして生きていく私たち人間のために、またそのような歪みの元となった罪のため、罪の身代わりのためでした。
イエスは、このやもめがレブタ銅貨二枚を、心を込めて神に献げるその姿を、じっと見つめておられました。そのまなざしは愛と慈しみに満ちていたでしょう。その同じ温かな眼差しが、イエスを信じる私たち一人一人にも注がれています。
私たちが献げる小さな祈り。私たちの献げもの。隣人に対する、また会ったことも、話をしたこともない人々のために祈る小さな執り成し。そして神への感謝と讃美。 それがどんなにちっぽけであっても、私たちはこのやもめのように、人の目、人の評価から自由になって、人からの誉れを越えて、自分の力、自分の持っているものを、心をこめて神にお献げして生きることができます。そのように私たちを変えて下さるイエスに、またその愛の眼差しに、今日も感謝しつつ、イエスと共に歩んでいきたいと思います。
祈ります
「誰よりも多く投げ入れた人」
この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れている人々の中で、だれよりも多くを投げ入れました。皆はあり余る中から投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っているすべてを、生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから。
イエスはその教えの中でこう言われた。「律法学者たちに気をつけなさい。彼らが願うのは、長い衣を着て歩き回ること、広場であいさつされること、会堂で上席に、宴会で上座に座ることです。また、やもめたちの家を食い尽くし、見栄を張って長く祈ります。こういう人たちは、より厳しい罰を受けます。」それから、イエスは献金箱の向かい側に座り、群衆がお金を献金箱へ投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持ちがたくさん投げ入れていた。そこに一人の貧しいやもめが来て、レプタ銅貨二枚を投げ入れた。それは一コドラントに当たる。イエスは弟子たちを呼んで言われた。「まことに、あなたがたに言います。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れている人々の中で、だれよりも多くを投げ入れました。皆はあり余る中から投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っているすべてを、生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから。」
本日の箇所はイエスの警告から始まっています。「律法学者たちに気をつけなさい!」その問題点をイエスは指摘されていきます。彼らは長い衣を着て歩き回ること、そして人々から広場であいさつされることを好みました。 長い衣は彼らが律法学者であることを示すシンボルです。その衣をまとっていると、人々が尊敬して頭を下げるのです。また「広場で挨拶される」ことも彼らが願うことでした。町の広場は市、市場が立つ所でもあり、様々な市民生活が営まれる場です。そこに集まる多くの人々から特別な人として尊敬され、みんなに「先生」と呼ばれて挨拶されることを、律法学者たちは好みました。 彼らは、会堂で上席に座ること、そして宴会で上座に座ることも好きでした。「会堂の上席」というのは、ユダヤ人たちの礼拝の場であるシナゴーグと呼ばれる会堂において、聖書を納めた箱の前の席のようです。 一般の人々の席と向かい合っており、礼拝を司る人の席です。 現在の教会、また礼拝堂で言えば、講壇の上の説教者や司式者の席と思えばよいでしょう。 律法学者たちは常にその席に座ることを望みました。彼らは宴会の場でも上座を求めました。結婚式の披露宴で言えば、主賓のテーブルに席を求めるようなものです。
人々が神への信仰を持っていれば、その神のことばを取り扱っている律法学者たちが尊敬されるのは自然なことであり、当然のことだったかもしれません。しかしいつのまにか人々の尊敬から傲慢になり、人々からの尊敬を得ることを重んじ、求めるようになっていった。始めは彼らも神を信じ、神に喜ばれ、人にも喜ばれるように律法を教えていたかもしません。しかしいつしか「先生、先生」と呼ばれるようになり、神からの見えない、また感じない評価よりも、人からの見える、また感じる評価を求めるようになっていったと思われます。
またイエスは律法学者たちに対して、彼らはやもめたちの家を食い尽くし、見栄を張って長く祈ると指摘されました。 「やもめ」は多くの場合、「みなしご」と並んで社会的弱者、貧しい者の代表として聖書に出てきますが、この場合の「やもめ」は、夫の遺産を受け継いだ金持ちのやもめ、未亡人たちのことです。律法学者たちはそういうやもめたちに寄付をさせる-いわゆる慈善の行為をさせて金を出させていたようです。そのような行為はユダヤの人々にとって大変立派なこととして尊ばれ、尊敬されることでした。そしてやもめだけでなく、そのように彼女たちを指導した律法学者たちの名声も高まりました。そのことを受けてイエスは、彼らはやもめたちの財産を食い尽くしている、と言われたのだと思います。 また律法学者たちの祈りは、深さより長さを特徴としていました。人前で長い祈りをすることで、あの人は敬虔な人、信仰深い立派な人だという評判を得ようとしました。祈りの対象は神です。しかし彼らは自分を立てるために言わば神を利用したのと同じです。彼らは最後にその刈り取りをしなければならないでしょう。イエスは平行箇所のマタイの福音書23章の中で、彼らのことを「白く塗った墓」などと言われました。外見は綺麗にしているが、中は汚れでいっぱいであるとの皮肉であり、批判です。そしてこの23章の中において、イエスが繰り返し使われたことばがありました。「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。」23章の中で7,8回使われています。 彼ら律法学者たちは、見た目には私たちが驚くほどに厳格な、正しい、聖い生き方をしていました。しかしそういう彼らの聖さ、正しさとは、自分自身を誤魔化すための行いであり、演技であり、偽善だ、とイエスはおっしゃるのです。
一方、人の目を意識し、人の目を気遣い、人の目によって自分を評価していた律法学者たちとは異なる、人の評価に全く左右されずに生きている一人の女性が登場します。 エルサレム神殿の内庭には献金箱が設置されていました。宮に出入りする礼拝者が任意、自分の意志をもって自由にお金を投げ入れました。神に献げるお金を入れる箱です。 一説によればこの献金箱の傍らには祭司がいて、人々がそこに入れる献金を記録に留め、そして周囲の人々に聞こえるように、「誰々さんがいくら献金なさいました」と告げていたのではないかと言われています。
この時イエスは、その献金箱の向かいに座って、人々がそれにお金を入れる様子を見ておられました。「多くの金持ちがたくさん投げ入れていた。」とあります。祭司がその人たちの名前と献金額を読み上げる、すると人々の間から「おお」と感嘆の声が上がる。そのようにして金持ちたちは大いに面目を施していました。そのような中、一人の貧しいやもめがやって来ました。この人は先程の、律法学者たちに食い物にされるような金持ちのやもめではなく、「貧しいやもめ」です。そのやもめが献金箱に、「レプタ銅貨二枚、すなわち一コドラント」を投げ入れました。一レプタは一デナリの128分の一です。一人の労働者が一日働いてもらう賃金が一デナリでした。ですからこの献金がかなり小額だったことが分かります。 献金の記録係がこの献金を人々に告げた時、金持ちたちの献金を報告するのとは、全く違ったのではないかと想像します。恐らく冷めた、冷たい声だったのではないでしょうか。また、回りの人々は軽蔑の目で彼女を見、またことばに出したかもしれません。「それだけか!」「そんなはした金を捧げるなんて、何を考えているんだ!」「あきれた」「よく恥ずかしくないね」
もし彼女が人目を気にしていたとしたら、とてもこの額を献げることはできなかったでしょう。逆に言えば彼女は人目を気にしなかったからこそ、人からの評価によって自分を量ることをしなかったからこそ、この献金を献げることができたと言うことができるのではないでしょうか。 つまり彼女は人との比較から解放されていた、ということです。金持ちたちが多額の献金をしている中でレプタ銅貨二枚を差し出すことは、人の目を気にして、人と自分を見比べて生きている者には到底出来ないことです。「あの人のあんな立派な献げ物の後で、こんなみすぼらしい、ちっぽけなものを献げるなんて恥ずかしい」と思ってしまうでしょう。しかし彼女は周囲の冷たい目や軽蔑のまなざしに関わらず、レプタ二枚を献げました。それは彼女が人の目、人からの評価、評判によってではなく、ただ神を見つめ、ただ神に認められる、神に喜んで頂ければそれでいい、そのように「神中心」に生きていたからに他なりません。彼女はただ、神を見つめていた人でした。人の目を気にすることや、人と自分を見比べて喜んだり悲しんだりすることから解放されている彼女は、乏しい生活費を全部、全て、神に献げてしまいました。それは、自分の生活を全て神の恵み、養い、導きにお委ねしたということです。人と自分を比べて、自分は全てを神に献げているといった、誇るような思いは少しもありません。もしそのような思いが少しでもあったならば、このような献げ物はできなかったでしょう。ですから彼女が生活費も含めた全部を献げたということは、彼女が人の目から自由であるだけでなく、自分で自分の安心を確保しようという思いからも完全に自由であった、ということができるでしょう。だからこそ、神の恵みに、神の支えに、神の備えに全てをお委ねすることができました。このやもめは、翌日からどのようにして生きていくかという思い煩いはありませんでした。ここまで神を信頼し、全てを委ねる生き方ができるとしたら、それはどれほど平安であり、豊かで、幸せな人生ではないでしょうか。
その彼女の姿勢を、態度を、お金を通して自分を献げるという献身を、イエスが感動をもって弟子たちに語られています。イエスは弟子たちを呼んで言われた。「まことに、あなたがたに言います。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れている人々の中で、だれよりも多くを投げ入れました。皆はあり余る中から投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っているすべてを、生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから。」イエスは、このやもめが誰よりも多く投げ入れたと語られました。「まことに」とは、原語のギリシャ語で「アーメン」です。真実です、本当です、という意味であり、私たちが日々の祈りでも用いていることばです。イエスは「アーメン、真実を告げる」と言ってから、彼女は誰よりも多く投げ入れたと語られました。生活費を全て献げるほどに彼女は主なる神を愛し、また日々の生活を支えて下さるという絶対的な信頼、神への揺るぎない信頼を持って生きていました。
ところで本日の箇所は誰に語られているのでしょうか。12章の37節の後半には、「大勢の群衆が、イエスの言われることを喜んで聞いていた。」とあります。この直前には、律法学者たちをはじめとした宗教指導者たちが、イエスとの論争に完全に敗北した姿が描写されています。律法学者たちの姿をいつも見ていた当時の人々は、彼らの鼻持ちならない姿にうんざりさせられながらも、しかし律法の教師である彼らを尊重しないわけにはいかない、という思いでいたようです。 ですから人々にとって、イエスが律法学者たちの悪意ある問いに真正面から答え、完全に論破する姿は、本当に胸のすくものだったでしょう。しかしイエスはその群衆に向かって「律法学者に気をつけなさい」とおっしゃったのです。「気をつけなさい」ということは、あなたがたも律法学者たちと同じようになってしまわないように注意しなさい、ということです。そしてこれは現代における私たち一人一人も同じ、イエスからの警告であると思います。
私たちはこの社会の中で、人々と共に生きている存在です。一人で生きていくことはできません。人と共に生きている以上、人の目が気になり、人が自分をどう評価しているかを気にすることも、また人に評価され、褒められることを求めていくことも、自然なことです。つまりこの律法学者たちの姿は、人間の自然な姿を描き出していると言うことができます。そしてそのような生まれつきの、すなわち罪深い私たちの自然な姿、ありのままの私たち人間の姿というのは、人の目を気にして生き、その中において優越感と劣等感、誇りや妬みが分ち難く存在している、偽善に満ちた、決して幸せとは言えない姿だと思います。しかしそのような本来の自然な人間の姿から解放されている人がいました。それがこの貧しいやもめです。人々から蔑まれるような、馬鹿にされるような額の献金しかしなかった、またはできなかった彼女は、人の目を気にするというところから解放され、人の目によって自分が評価されるということからも解放され、ただ、神に喜ばれたいという一心で、自分の持っている精一杯を献げるような女性でした。彼女が人の目を気にすることから解放され、優越感と劣等感、誇りと妬みの狭間で苦しむことから解放されているのは、主なる神を信じていたからです。神を知る-神がどういうお方であるかということを知り、神との交わりの中で神の人格を知り、経験していく中で培われていった信仰、信頼から来ています。 そして彼女は人ではなく、神が喜ばれること、すなわち神の御心を求め、また神への感謝、神が自分を支えて下さるという確信、保証、安心、平安などを持つに至りました。それらがなければ、自分の生活費全部を献げることはできません。神なら自分を支えて下さる。日々養って下さる。神に対する信仰と信頼が、生活費全てを献げるという、目に見えるにかたちになりました。そしてこの献金の場面にイエスが来られました。イエスは彼女が貧しいということ。二レブタが彼女の全財産だということを知っておられました。そして彼女の心、献身の思いを知っておられ、感心されました。
この一連の出来事-やもめの心、信仰、神に対する信頼、行動は聖書に記されました。 名前も出て来ない一人のとても貧しい女性が、神を信じ、信頼する素晴らしい信仰者として、素晴らしい生き方の模範として、また神は全てを知っておられるという例として、そしてイエスがそのような人を愛しておられるという証として、聖書に記されることになりました。 イエスがこれから十字架に架かっていくという時に、イエスがこの献金箱の前におられたこと。この女性が現れ、持っているものを全て献げたこと。その場面をイエスが見、イエスが語られ、そして聖書に記されていること。これら全ては決して偶然ではないと思います。それは現代を生きる私たちも含め、全て聖書を読む一人一人に語られている出来事です。
イエスはこの数日後、私たち人間の罪を全て背負って、十字架にかかって死なれようとしています。それは律法学者のように自分の能力や財産に頼り、時に誇り、人の目を気にして生きていく私たち人間のために、またそのような歪みの元となった罪のため、罪の身代わりのためでした。
イエスは、このやもめがレブタ銅貨二枚を、心を込めて神に献げるその姿を、じっと見つめておられました。そのまなざしは愛と慈しみに満ちていたでしょう。その同じ温かな眼差しが、イエスを信じる私たち一人一人にも注がれています。
私たちが献げる小さな祈り。私たちの献げもの。隣人に対する、また会ったことも、話をしたこともない人々のために祈る小さな執り成し。そして神への感謝と讃美。 それがどんなにちっぽけであっても、私たちはこのやもめのように、人の目、人の評価から自由になって、人からの誉れを越えて、自分の力、自分の持っているものを、心をこめて神にお献げして生きることができます。そのように私たちを変えて下さるイエスに、またその愛の眼差しに、今日も感謝しつつ、イエスと共に歩んでいきたいと思います。
祈ります
「誰よりも多く投げ入れた人」
この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れている人々の中で、だれよりも多くを投げ入れました。皆はあり余る中から投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っているすべてを、生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから。
2026/7/19(日)「恵もうと待ち構えておられる主」出エジプト記33:12~19 庄司牧師
2026年7月19日 「恵もうと待ち構えておられる主」出エジプト記33:12~23
さて、モーセは主に言った。「ご覧ください。あなたは私に『この民を連れ上れ』と言われます。しかし、だれを私と一緒に遣わすかを知らせてくださいません。しかも、あなたご自身が、『わたしは、あなたを名指して選び出した。あなたは特にわたしの心にかなっている』と言われました。今、もしも私がみこころにかなっているのでしたら、どうかあなたの道を教えてください。そうすれば、私があなたを知ることができ、みこころにかなうようになれます。この国民があなたの民であることを心に留めてください。」主は言われた。「わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる。」モーセは言った。「もしあなたのご臨在がともに行かないのなら、私たちをここから導き上らないでください。私とあなたの民がみこころにかなっていることは、いったい何によって知られるのでしょう。それは、あなたが私たちと一緒に行き、私とあなたの民が地上のすべての民と異なり、特別に扱われることによるのではないでしょうか。」主はモーセに言われた。「あなたの言ったそのことも、わたしはしよう。あなたはわたしの心にかない、あなたを名指して選び出したのだから。」モーセは言った。「どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」主は言われた。「わたし自身、わたしのあらゆる良きものをあなたの前に通らせ、主の名であなたの前に宣言する。わたしは恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」また言われた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」また主は言われた。「見よ、わたしの傍らに一つの場所がある。あなたは岩の上に立て。わたしの栄光が通り過ぎるときには、わたしはあなたを岩の裂け目に入れる。わたしが通り過ぎるまで、この手であなたをおおっておく。わたしが手をのけると、あなたはわたしのうしろを見るが、わたしの顔は決して見られない。」
出エジプト記を少し振り返ってみたいと思います。神に特別に選ばれたイスラエル民族がエジプトで奴隷にされていましたが、モーセを通して脱出することができました。その後主なる神は、乳と蜜の流れる地と呼ばれる肥沃なカナン、神が約束された地にイスラエルを導いていかれます。 その荒野の旅の途中、シナイ山において、主なる神はイスラエルの民と契約を結んで下さいました。主なる神がイスラエルの神となり、イスラエルは神の民となる、という特別な関係となる契約です。その契約の中身は、十戒を中心とする、イスラエルが守るべき掟、戒めです。エジプトでの奴隷状態からの解放という神による救いを受けたイスラエルの民が、神の民として歩んでいくための指針、ガイドラインが、十戒を中心とする律法によって示されました。イスラエルがシナイ山まで来ると、モーセは十戒が記された石の板を、神から授かるために山に登って行きました。しかしふもとにいた民たちはモーセの帰りが遅いと不安になり、祭司アロンに自分たちを導く目に見える神を造るように要求し、アロンは金の子牛の像を造りました。人々はその金の子牛を神として拝み、その前で不品行の伴う飲めや歌えの騒ぎを始めました。主なる神、イスラエルの神を第一とする、他に像を造って拝んではならない、と言ったことが十戒には記されています。イスラエルの民はそれらの掟を既に聞いており、それを守ると約束し、その約束に基づいて、主なる神は彼らと契約を結んで下さいました。しかし契約のしるしとしての石の板をモーセが神から頂いているまさにその時、彼らは金の子牛の像を造ってそれを拝み、主なる神を裏切ってしまいました。その裏切りであり、神に犯した罪ゆえに、主はイスラエルを怒られました。神は彼らを絶ち滅ぼすとモーセに語られました。しかしモーセは神と民との間に入り、神の怒りを宥めようとします。
怒っておられる主なる神に対してモーセはこのように執り成しました。32章12~14節です。
「主よ。あなたが偉大な力と力強い御手をもって、エジプトの地から導き出されたご自分の民に向かって、どうして御怒りを燃やされるのですか。どうしてエジプト人に、『神は、彼らを山地で殺し、地の面から絶ち滅ぼすために、悪意をもって彼らを連れ出したのだ』と言わせてよいでしょうか。どうか、あなたの燃える怒りを収め、ご自身の民へのわざわいを思い直してください。あなたのしもべアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたはご自分にかけて彼らに誓い、そして彼らに、『わたしはあなたがたの子孫を空の星のように増し加え、わたしが約束したこの地すべてをあなたがたの子孫に与え、彼らは永久にこれをゆずりとして受け継ぐ』と言われました。」すると主は、その民に下すと言ったわざわいを思い直された。
神はわざわいを思い直されました。つまりモーセの執り成し、仲裁に免じて、イスラエルを絶ち滅ぼすことはしない、ということです。 イスラエルは全滅からは免れました。しかしモーセはイスラエルの聖さが保たれるために、罪を犯した者たち3000人を粛清しました。 32章の最後にこのように記されています。こうして主は民を打たれた。彼らが子牛を造ったからである。それはアロンが造ったのであった。モーセが罪を犯した人々を粛清しましたが、「こうして主は民を打たれた」とあることから、神が、罪を犯した者たちを、モーセを用いて打った、粛清した-モーセはただ、神の裁きに従ったということが分かります。神との契約を破り、神に反逆し、神を裏切る。その罪を人は刈り取らなければならない、ということがここに表されています。
そして33章に入ります。神はイスラエルを全滅させることはなさいませんでした。しかしイスラエルに対する怒りと不信はまだ収まっていないように見えます。神はこのようにモーセに語られました。33章3節です。乳と蜜の流れる地にあなたがたを行かせる。しかし、わたしは、あなたがたのただ中にあっては上らない。あなたがたはうなじを固くする民なので、わたしが途中であなたがたを絶ち滅ぼしてしまわないようにするためだ。」出エジプトの時から荒野に至るまで、神はここまでずっとイスラエルと共におられました。しかしここで神は「あなたがたのただ中にあっては上らない。」とモーセに語られました。しかし「乳と蜜の流れる地にあなたがたを行かせる。」と語られていますから、矛盾しているように見えます。 前の節、2節には、「ひとりの使いを遣わす」と語られていることから、自分はイスラエルとはもう同行しないが、代わりに御使い、天使を同行させる、とここで主は語られています。 しかしこの神の語りかけは同時に、彼らに対する憐れみと、約束は守るという誠実な態度でもあります。「もうおまえたちとは一緒にいない、うんざりだ!」という宣言のようにも聞こえますが、主なる神は、彼らを続けてカナンへと導く約束をされました。しかし良く見てみますと、このように神は語られています。「あなたがたはうなじを固くする民なので、わたしが途中であなたがたを絶ち滅ぼしてしまわないようにするためだ。」
「うなじが固い」これは、馬や牛などが首を強張らせて手綱に逆らう様子、つまり飼い主の言うことを聞かない家畜の態度から来ている表現です。このうなじが固いという表現をイスラエル民族に当てはめるならば、神に反抗的、神の御心、ご計画に逆らう姿、態度だということです。実際にイスラエルは主なる神に、また主なる神が選んだモーセに対して頑なでした。しかし裏を返せば、このうなじが固いイスラエルを、ずっと忍耐して導いて来られたのが、主なる神です。加えてこの神は、もし不正を彼らに見るならば、滅ぼさないではおられなくなる。主なる神が義なる正しいお方であるというだけでなく、それでも彼らを滅ぼしたくないという、愛と憐れみに満ちている神であることが分かります。また、神がイスラエルをエジプトから脱出させた始まりは、彼らイスラエルが、主なる神に助けて欲しいと叫んだからでした。
主は忍耐だけでなく、義なる正義の神であり、愛と憐れみに満ちた神であるということです。モーセは今までの経験から、主なる神のこのような素晴らしいご性質、また人格を、十分理解していました。また、叫び、求め、依り頼めば、それに応えて下さるということも。 そこでモーセは神の忍耐、愛、憐れみに訴えつつ、何とか自分たちと共に、カナンの地まで同行して下さるようにと訴えている、それが本日の箇所です。
モーセはこのように主なる神に言いました。「ご覧ください。あなたは私に『この民を連れ上れ』と言われます。しかし、だれを私と一緒に遣わすかを知らせてくださいません。私はあなたたちとは一緒に行かないと、主がイスラエルに対して怒りと不信を表しておられた時、それにも関わらず御使いを送ると主は語られました。しかしこの時点ではまた御使いが送られていませんでした。そこでモーセは御使いなり、誰かイスラエルに同行してくれる存在を、神に確認しました。しかしモーセは次にこのように語りました。しかも、あなたご自身が、『わたしは、あなたを名指して選び出した。あなたは特にわたしの心にかなっている』と言われました。イスラエルに同行してくれる存在を確認する中で主に語った言葉としては、何か不自然な言い回しです。おそらくモーセは、ここでこのような含みを持たせていると思います。「そもそも彼らイスラエルをエジプトから脱出させるために、私をリーダーに任命したのはあなたであり、それがあなたの御心ですよね。私はそのように信じています。」モーセはその確信を持ってさらに主に語りかけている。それが13節です。今、もしも私がみこころにかなっているのでしたら、どうかあなたの道を教えてください。そうすれば、私があなたを知ることができ、みこころにかなうようになれます。この国民があなたの民であることを心に留めてください。」「もしも私がみこころにかなっているのでしたら」とモーセは謙虚に言っていますが、主が自分を選ばれたこと。またイスラエルも神の民として選ばれていることを確信しています。だからこそモーセは、「この国民があなたの民であることを心に留めてください。」と、言うことができました。「イスラエルはあなたの国民です。だから彼らと一緒にカナンの地へと同行して下さい。」これがモーセの本当に言いたいこと、本音です。御使いではなく、主なる神ご自身が自分たちと一緒にいて下さる、すなわち「臨在」されるようにと執り成しています。しかしモーセのこの本当の願いに対して、神はこのように答えられました。主は言われた。「わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる。」これはモーセにとって素晴らしい約束です。モーセはかつて、反逆のイスラエルから何度も不平不満を言われ、挙句の果てには殺されそうになったこともありました。モーセは彼らを率いることに疲れ、「もう十分です。私を殺して下さい!」とまで主に訴えたこともありました。そこで以前のモーセであったならば、主が私と共にいて下さる。休ませて下さる。ありがとう、感謝します、となったでしょう。そこでモーセは、イスラエルを導く働きを終わらせていたかもしれません。しかしモーセはさらに執り成し続けました。
モーセは言った。「もしあなたのご臨在がともに行かないのなら、私たちをここから導き上らないでください。私とあなたの民がみこころにかなっていることは、いったい何によって知られるのでしょう。それは、あなたが私たちと一緒に行き、私とあなたの民が地上のすべての民と異なり、特別に扱われることによるのではないでしょうか。」 「あなたが私たちイスラエル民族を奴隷の地であるエジプトから導き出した時点で、イスラエル民族は特別な民とされています。そして彼らが特別な民とされている証拠が、しるしが、証が、あなたが共にいて下さるという、「臨在」です。だから他の民族とも区別されるように、いや、すでに区別されているイスラエルと共に歩んで下さい。彼らの罪を赦し、これからも導いて下さい。」とモーセは執拗に主に訴えます。その結果が17節です。主はモーセに言われた。「あなたの言ったそのことも、わたしはしよう。あなたはわたしの心にかない、あなたを名指して選び出したのだから。」モーセの執拗な執り成しは実を結びました。イスラエルは偶像を造って拝み、神との契約を破りました。神に対して罪を犯しました。その罪を、咎を、主なる神は赦され、これからもイスラエル民族と共に、約束の地であるカナンに同行すると約束して下さいました。モーセは主なる神が約束されたことを受けて、そのしるし-神の栄光-神だけが持つ主権、尊厳、力、輝き、人格、神が持っておられる素晴らしさの全てを求めました。神がその栄光を見せて下さるのであれば、私たちと共にカナンの地へと同行されることのしるしになる。神はモーセの求めに答えられました。しかし主の栄光を目の当たりにすると人間は死んでしまいます。そこで神の栄光の一部を「後ろ姿」という形でモーセに表すと語って下さいました。この時主はこのように語られました。「わたしは恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」これは主なる神の主権が表されていることばです。神が恵もうと思う者がいる。神が憐れもうと思う者がいる。そのような神の選びが表されています。イスラエルはまさに一方的に神の恵みの中で選ばれました。またイスラエルを赦してくれるようにモーセが執り成し、神はそれに答えられましたが、それは主なる神の恵み、憐れみでした。神はモーセの願いに応える必要はありませんでしたが、モーセに応えて下さいました。それはモーセもイスラエルも、主が恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思うものを憐れむ、という神の選び、神の主権、神のご計画があったからです。主なる神の主権と選び、恵みと憐みがあって、イスラエル民族は存続することができました。そしてイスラエルが存続し、滅ぼされなかったことを通して、救い主、イエス・キリストがイスラエル民族の中からお生まれになりました。イスラエルが滅ぼされなかったのも主なる神のご計画であり、モーセの執り成しに応えられたことも、主なる神の主権、恵み、計画があったからでした。
モーセはイエス・キリストのひな型、モデルであると言われます。モーセがイスラエルの民たちが滅びないように執り成し、祈り、主の怒りを宥めました。それはすなわち、イエス・キリストがされたことと同じです。神から離れ、反逆し、自己中心的に生きる、すなわち罪に生きる私たち一人一人を、神に赦して頂くように、父なる神に執り成し祈って下さいました。今も祈って下さっています。 しかしモーセと決定的に異なるのは、ご自分の身をもって、堕落してしまった私たち人間のために、人類のために、ご自身の体、また全存在を通して執り成して下さったことです。それが十字架による私たち罪の身代わりであり、贖いです。
わたしは恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。主なる神は、一方的に選んで下さった私たち一人一人に、愛と恵みをもって日々導いて下さっています。そして私たちの主、イエス・キリストから、この恵みと憐れみがいつも私たちに注がれています。主なる神に、そしてイエスに感謝しつつ、神の恵みの中に共に生き、また、共に生かされていきたいと思います。
祈ります。「恵もうと待ち構えておられる主」
主は言われた。「わたし自身、わたしのあらゆる良きものをあなたの前に通らせ、主の名であなたの前に宣言する。わたしは恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」
さて、モーセは主に言った。「ご覧ください。あなたは私に『この民を連れ上れ』と言われます。しかし、だれを私と一緒に遣わすかを知らせてくださいません。しかも、あなたご自身が、『わたしは、あなたを名指して選び出した。あなたは特にわたしの心にかなっている』と言われました。今、もしも私がみこころにかなっているのでしたら、どうかあなたの道を教えてください。そうすれば、私があなたを知ることができ、みこころにかなうようになれます。この国民があなたの民であることを心に留めてください。」主は言われた。「わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる。」モーセは言った。「もしあなたのご臨在がともに行かないのなら、私たちをここから導き上らないでください。私とあなたの民がみこころにかなっていることは、いったい何によって知られるのでしょう。それは、あなたが私たちと一緒に行き、私とあなたの民が地上のすべての民と異なり、特別に扱われることによるのではないでしょうか。」主はモーセに言われた。「あなたの言ったそのことも、わたしはしよう。あなたはわたしの心にかない、あなたを名指して選び出したのだから。」モーセは言った。「どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」主は言われた。「わたし自身、わたしのあらゆる良きものをあなたの前に通らせ、主の名であなたの前に宣言する。わたしは恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」また言われた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」また主は言われた。「見よ、わたしの傍らに一つの場所がある。あなたは岩の上に立て。わたしの栄光が通り過ぎるときには、わたしはあなたを岩の裂け目に入れる。わたしが通り過ぎるまで、この手であなたをおおっておく。わたしが手をのけると、あなたはわたしのうしろを見るが、わたしの顔は決して見られない。」
出エジプト記を少し振り返ってみたいと思います。神に特別に選ばれたイスラエル民族がエジプトで奴隷にされていましたが、モーセを通して脱出することができました。その後主なる神は、乳と蜜の流れる地と呼ばれる肥沃なカナン、神が約束された地にイスラエルを導いていかれます。 その荒野の旅の途中、シナイ山において、主なる神はイスラエルの民と契約を結んで下さいました。主なる神がイスラエルの神となり、イスラエルは神の民となる、という特別な関係となる契約です。その契約の中身は、十戒を中心とする、イスラエルが守るべき掟、戒めです。エジプトでの奴隷状態からの解放という神による救いを受けたイスラエルの民が、神の民として歩んでいくための指針、ガイドラインが、十戒を中心とする律法によって示されました。イスラエルがシナイ山まで来ると、モーセは十戒が記された石の板を、神から授かるために山に登って行きました。しかしふもとにいた民たちはモーセの帰りが遅いと不安になり、祭司アロンに自分たちを導く目に見える神を造るように要求し、アロンは金の子牛の像を造りました。人々はその金の子牛を神として拝み、その前で不品行の伴う飲めや歌えの騒ぎを始めました。主なる神、イスラエルの神を第一とする、他に像を造って拝んではならない、と言ったことが十戒には記されています。イスラエルの民はそれらの掟を既に聞いており、それを守ると約束し、その約束に基づいて、主なる神は彼らと契約を結んで下さいました。しかし契約のしるしとしての石の板をモーセが神から頂いているまさにその時、彼らは金の子牛の像を造ってそれを拝み、主なる神を裏切ってしまいました。その裏切りであり、神に犯した罪ゆえに、主はイスラエルを怒られました。神は彼らを絶ち滅ぼすとモーセに語られました。しかしモーセは神と民との間に入り、神の怒りを宥めようとします。
怒っておられる主なる神に対してモーセはこのように執り成しました。32章12~14節です。
「主よ。あなたが偉大な力と力強い御手をもって、エジプトの地から導き出されたご自分の民に向かって、どうして御怒りを燃やされるのですか。どうしてエジプト人に、『神は、彼らを山地で殺し、地の面から絶ち滅ぼすために、悪意をもって彼らを連れ出したのだ』と言わせてよいでしょうか。どうか、あなたの燃える怒りを収め、ご自身の民へのわざわいを思い直してください。あなたのしもべアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたはご自分にかけて彼らに誓い、そして彼らに、『わたしはあなたがたの子孫を空の星のように増し加え、わたしが約束したこの地すべてをあなたがたの子孫に与え、彼らは永久にこれをゆずりとして受け継ぐ』と言われました。」すると主は、その民に下すと言ったわざわいを思い直された。
神はわざわいを思い直されました。つまりモーセの執り成し、仲裁に免じて、イスラエルを絶ち滅ぼすことはしない、ということです。 イスラエルは全滅からは免れました。しかしモーセはイスラエルの聖さが保たれるために、罪を犯した者たち3000人を粛清しました。 32章の最後にこのように記されています。こうして主は民を打たれた。彼らが子牛を造ったからである。それはアロンが造ったのであった。モーセが罪を犯した人々を粛清しましたが、「こうして主は民を打たれた」とあることから、神が、罪を犯した者たちを、モーセを用いて打った、粛清した-モーセはただ、神の裁きに従ったということが分かります。神との契約を破り、神に反逆し、神を裏切る。その罪を人は刈り取らなければならない、ということがここに表されています。
そして33章に入ります。神はイスラエルを全滅させることはなさいませんでした。しかしイスラエルに対する怒りと不信はまだ収まっていないように見えます。神はこのようにモーセに語られました。33章3節です。乳と蜜の流れる地にあなたがたを行かせる。しかし、わたしは、あなたがたのただ中にあっては上らない。あなたがたはうなじを固くする民なので、わたしが途中であなたがたを絶ち滅ぼしてしまわないようにするためだ。」出エジプトの時から荒野に至るまで、神はここまでずっとイスラエルと共におられました。しかしここで神は「あなたがたのただ中にあっては上らない。」とモーセに語られました。しかし「乳と蜜の流れる地にあなたがたを行かせる。」と語られていますから、矛盾しているように見えます。 前の節、2節には、「ひとりの使いを遣わす」と語られていることから、自分はイスラエルとはもう同行しないが、代わりに御使い、天使を同行させる、とここで主は語られています。 しかしこの神の語りかけは同時に、彼らに対する憐れみと、約束は守るという誠実な態度でもあります。「もうおまえたちとは一緒にいない、うんざりだ!」という宣言のようにも聞こえますが、主なる神は、彼らを続けてカナンへと導く約束をされました。しかし良く見てみますと、このように神は語られています。「あなたがたはうなじを固くする民なので、わたしが途中であなたがたを絶ち滅ぼしてしまわないようにするためだ。」
「うなじが固い」これは、馬や牛などが首を強張らせて手綱に逆らう様子、つまり飼い主の言うことを聞かない家畜の態度から来ている表現です。このうなじが固いという表現をイスラエル民族に当てはめるならば、神に反抗的、神の御心、ご計画に逆らう姿、態度だということです。実際にイスラエルは主なる神に、また主なる神が選んだモーセに対して頑なでした。しかし裏を返せば、このうなじが固いイスラエルを、ずっと忍耐して導いて来られたのが、主なる神です。加えてこの神は、もし不正を彼らに見るならば、滅ぼさないではおられなくなる。主なる神が義なる正しいお方であるというだけでなく、それでも彼らを滅ぼしたくないという、愛と憐れみに満ちている神であることが分かります。また、神がイスラエルをエジプトから脱出させた始まりは、彼らイスラエルが、主なる神に助けて欲しいと叫んだからでした。
主は忍耐だけでなく、義なる正義の神であり、愛と憐れみに満ちた神であるということです。モーセは今までの経験から、主なる神のこのような素晴らしいご性質、また人格を、十分理解していました。また、叫び、求め、依り頼めば、それに応えて下さるということも。 そこでモーセは神の忍耐、愛、憐れみに訴えつつ、何とか自分たちと共に、カナンの地まで同行して下さるようにと訴えている、それが本日の箇所です。
モーセはこのように主なる神に言いました。「ご覧ください。あなたは私に『この民を連れ上れ』と言われます。しかし、だれを私と一緒に遣わすかを知らせてくださいません。私はあなたたちとは一緒に行かないと、主がイスラエルに対して怒りと不信を表しておられた時、それにも関わらず御使いを送ると主は語られました。しかしこの時点ではまた御使いが送られていませんでした。そこでモーセは御使いなり、誰かイスラエルに同行してくれる存在を、神に確認しました。しかしモーセは次にこのように語りました。しかも、あなたご自身が、『わたしは、あなたを名指して選び出した。あなたは特にわたしの心にかなっている』と言われました。イスラエルに同行してくれる存在を確認する中で主に語った言葉としては、何か不自然な言い回しです。おそらくモーセは、ここでこのような含みを持たせていると思います。「そもそも彼らイスラエルをエジプトから脱出させるために、私をリーダーに任命したのはあなたであり、それがあなたの御心ですよね。私はそのように信じています。」モーセはその確信を持ってさらに主に語りかけている。それが13節です。今、もしも私がみこころにかなっているのでしたら、どうかあなたの道を教えてください。そうすれば、私があなたを知ることができ、みこころにかなうようになれます。この国民があなたの民であることを心に留めてください。」「もしも私がみこころにかなっているのでしたら」とモーセは謙虚に言っていますが、主が自分を選ばれたこと。またイスラエルも神の民として選ばれていることを確信しています。だからこそモーセは、「この国民があなたの民であることを心に留めてください。」と、言うことができました。「イスラエルはあなたの国民です。だから彼らと一緒にカナンの地へと同行して下さい。」これがモーセの本当に言いたいこと、本音です。御使いではなく、主なる神ご自身が自分たちと一緒にいて下さる、すなわち「臨在」されるようにと執り成しています。しかしモーセのこの本当の願いに対して、神はこのように答えられました。主は言われた。「わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる。」これはモーセにとって素晴らしい約束です。モーセはかつて、反逆のイスラエルから何度も不平不満を言われ、挙句の果てには殺されそうになったこともありました。モーセは彼らを率いることに疲れ、「もう十分です。私を殺して下さい!」とまで主に訴えたこともありました。そこで以前のモーセであったならば、主が私と共にいて下さる。休ませて下さる。ありがとう、感謝します、となったでしょう。そこでモーセは、イスラエルを導く働きを終わらせていたかもしれません。しかしモーセはさらに執り成し続けました。
モーセは言った。「もしあなたのご臨在がともに行かないのなら、私たちをここから導き上らないでください。私とあなたの民がみこころにかなっていることは、いったい何によって知られるのでしょう。それは、あなたが私たちと一緒に行き、私とあなたの民が地上のすべての民と異なり、特別に扱われることによるのではないでしょうか。」 「あなたが私たちイスラエル民族を奴隷の地であるエジプトから導き出した時点で、イスラエル民族は特別な民とされています。そして彼らが特別な民とされている証拠が、しるしが、証が、あなたが共にいて下さるという、「臨在」です。だから他の民族とも区別されるように、いや、すでに区別されているイスラエルと共に歩んで下さい。彼らの罪を赦し、これからも導いて下さい。」とモーセは執拗に主に訴えます。その結果が17節です。主はモーセに言われた。「あなたの言ったそのことも、わたしはしよう。あなたはわたしの心にかない、あなたを名指して選び出したのだから。」モーセの執拗な執り成しは実を結びました。イスラエルは偶像を造って拝み、神との契約を破りました。神に対して罪を犯しました。その罪を、咎を、主なる神は赦され、これからもイスラエル民族と共に、約束の地であるカナンに同行すると約束して下さいました。モーセは主なる神が約束されたことを受けて、そのしるし-神の栄光-神だけが持つ主権、尊厳、力、輝き、人格、神が持っておられる素晴らしさの全てを求めました。神がその栄光を見せて下さるのであれば、私たちと共にカナンの地へと同行されることのしるしになる。神はモーセの求めに答えられました。しかし主の栄光を目の当たりにすると人間は死んでしまいます。そこで神の栄光の一部を「後ろ姿」という形でモーセに表すと語って下さいました。この時主はこのように語られました。「わたしは恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」これは主なる神の主権が表されていることばです。神が恵もうと思う者がいる。神が憐れもうと思う者がいる。そのような神の選びが表されています。イスラエルはまさに一方的に神の恵みの中で選ばれました。またイスラエルを赦してくれるようにモーセが執り成し、神はそれに答えられましたが、それは主なる神の恵み、憐れみでした。神はモーセの願いに応える必要はありませんでしたが、モーセに応えて下さいました。それはモーセもイスラエルも、主が恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思うものを憐れむ、という神の選び、神の主権、神のご計画があったからです。主なる神の主権と選び、恵みと憐みがあって、イスラエル民族は存続することができました。そしてイスラエルが存続し、滅ぼされなかったことを通して、救い主、イエス・キリストがイスラエル民族の中からお生まれになりました。イスラエルが滅ぼされなかったのも主なる神のご計画であり、モーセの執り成しに応えられたことも、主なる神の主権、恵み、計画があったからでした。
モーセはイエス・キリストのひな型、モデルであると言われます。モーセがイスラエルの民たちが滅びないように執り成し、祈り、主の怒りを宥めました。それはすなわち、イエス・キリストがされたことと同じです。神から離れ、反逆し、自己中心的に生きる、すなわち罪に生きる私たち一人一人を、神に赦して頂くように、父なる神に執り成し祈って下さいました。今も祈って下さっています。 しかしモーセと決定的に異なるのは、ご自分の身をもって、堕落してしまった私たち人間のために、人類のために、ご自身の体、また全存在を通して執り成して下さったことです。それが十字架による私たち罪の身代わりであり、贖いです。
わたしは恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。主なる神は、一方的に選んで下さった私たち一人一人に、愛と恵みをもって日々導いて下さっています。そして私たちの主、イエス・キリストから、この恵みと憐れみがいつも私たちに注がれています。主なる神に、そしてイエスに感謝しつつ、神の恵みの中に共に生き、また、共に生かされていきたいと思います。
祈ります。「恵もうと待ち構えておられる主」
主は言われた。「わたし自身、わたしのあらゆる良きものをあなたの前に通らせ、主の名であなたの前に宣言する。わたしは恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」
