2026/11/1(日)「目を覚ましていなさい」マルコ13:33~37 庄司牧師

2026年11月1日 マルコの福音書13:33~37「目を覚ましていなさい」
気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたは知らないからです。それはちょうど、旅に出る人のようです。家を離れるとき、しもべたちそれぞれに、仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているように命じます。ですから、目を覚ましていなさい。家の主人がいつ帰って来るのか、夕方なのか、夜中なのか、鶏の鳴くころなのか、明け方なのか、分からないからです。主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見ることがないようにしなさい。わたしがあなたがたに言っていることは、すべての人に言っているのです。目を覚ましていなさい。」
小黙示録と呼ばれる、マルコの福音書13章を共に見て来ました。本日が13章の最後になります。この13章には、世界には終わりがあることが、イエスによって語られて来ました。
終わりがあるということは、始まりがあるということです。「はじめに神が天と地を創造された。」と、天地万物の創造、すなわちこの世界の始まりが、聖書の初めの書簡、旧約聖書、創世記1章1節に記されています。そして聖書の最後の書簡、新約聖書、ヨハネの黙示録をもって、この世界に終わりが来るということが記されています。21:1節にはこのように記されています。   
「また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。」     
新しい天と新しい地の出現をもって、神が初めに造られた天と地、すなわち私たちが今住んでいる世界が「過ぎ去る」、すなわち「終わる」と記されています。このように聖書は、天地万物の始めと終わりを記しています。これは本当に驚くべきことではないでしょうか。そしてこの世の終わりは、すでに始まっています。それは聖霊が下ることによってでした。ペンテコステの日に、イエスの弟子たちが集まり祈っていた時でした。祈っていた弟子たちの上に聖霊が降り、そこにいた皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた、という出来事が、新約聖書の使徒の働きに描写されています。イエスの弟子のペテロは、この現象が聖霊の働きであるとして、集まった群衆に対して説教を行いました。その時の様子が使徒の働きの2章に描写されていますが、ペテロはその17節でこのように述べています。「神は言われる。終わりの日に、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。」これは旧約聖書のヨエル書、2:28節に記されている預言を、ペテロが引用したものです。つまりペテロは、「今まさに聖霊が降ったこの出来事こそ、旧約聖書に預言されていた『終わりの日』の始まりである。」と、明確に位置づけた、ということです。つまりペテロは、聖霊の降臨そのものが「終末の時代」の幕開けを告げる決定的なサイン、しるしであるとしました。そして聖霊が降った人々が中心になって初代教会、エルサレム教会が誕生しました。
ペンテコステの時に起こった聖霊降臨をもって、この世の終わり、すなわち終末が始まったと言えますが、この世の終わりが始まってすでに2000年ほど経っています。私たち人間の目から見ると、とても長く感じられますが、天地万物、全ての被造物を造られただけでなく、時間、空間、そして歴史も形造られた神からすれば、決して長くはありません。同じくペテロは手紙の中で、終わりの日に関してこのように書き記しています。ペテロの手紙第二3章9, 10節です。                          
主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。しかし、主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は大きな響きを立てて消え去り、天の万象は焼けて崩れ去り、地と地にある働きはなくなってしまいます。(ペテロの手紙 第二3:9, 10)
旧新約聖書に預言され、すでに世の終わりが始まっているのに中々、「その日」がやって来ない。その理由は、私たち人類に対する神の愛と忍耐であることが分かります。
しかし終わりの日は必ずやって来ます。イエスは終わりの日に関して、この13章の中で二つのことを強調されています。第一に終わりの日である「その日」、は必ずやって来るということ。そのことを色々な現象や予兆を通して語られていきますが、ユダヤの人々にとって身近な植物である、イチジクの木を実物教育の材料として用いられました。イチジクの木の変化から季節を確実に知ることができるように、終わりの日の前に起きて来る様々な前兆は、それぞれ決して独立した現象ではなく、重なり合って起き、やがてイエスが再臨される。再臨のその前兆としては戦争の噂や実際の戦争、キリスト者への迫害、偽預言者や偽キリストの出現、そして天変地異などの苦難が起きると、イエスは預言しておられます。イエスが引用されたダニエル書の預言も、イエスの時代からすれば約40年後に起きるエルサレム神殿の破壊、崩壊をもって実現しました。これは世の終わりに起きる神の裁きの一つのしるしであり、象徴でもあります。
イエスが語られた終わりの日に関しての第二の強調点は、その日がいつ来るか、天の御使いたちも子も、すなわちイエスご自身も知らないとおっしゃられたことです。
イエスが語られたこの終わりの日における二つの強調点、「再臨は必ず来る」、ということ、「しかしそれがいつ来るかは分からない」という二つの真理の緊張関係の上に、本日の箇所、33節から37節が成り立ちます。イエスは34,35節でこのような譬えを話されました。
それはちょうど、旅に出る人のようです。家を離れるとき、しもべたちそれぞれに、仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているように命じます。ですから、目を覚ましていなさい。家の主人がいつ帰って来るのか、夕方なのか、夜中なのか、鶏の鳴くころなのか、明け方なのか、分からないからです。
イエスがここで語られた譬えは、先ほどこの13章全体に流れている二つの点、「イエスの再臨はかならずある」、という点と、「しかしその再臨がいつかは分からない」という二点と関わりがあるだけでなく、世の終わりにおける、私たちクリスチャンの信仰生活にも関係している譬えとなっています。先ず主人がいて、そのしもべたちがいます。彼らの主人が旅に出て、家を留守にします。主人はイエスを表します。つまり主人であるイエスがいない、不在の中で、その留守を僕たちが守っている、という状況の譬えです。私たちの主人であるイエスは、今私たちのもとにはおられません。十字架で私たちの罪の贖いを成し遂げられた後、肉体をもって復活され、天に昇り、父なる神の右に座わられました。従って目に見える形としては、すなわち私たちの目の前に、肉体をもっては存在しておられません。しかし、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいます。」と、マタイの福音書の最後で約束して下さっているように、聖霊を通して私たちと共にいて下さっています。日々守り、導いて下さっています。しかし私たちの目に、見える形、肉体という存在で言えば、今イエスは私たちの間にはおられません。不在です。従って私たちは今、不在であるイエスを待っている、すなわちイエスが再びこの世界に来られる再臨まで、その帰りを待っている、という状況がこの譬えを通して語られています。そのイエスの不在が、旅に出る主人に譬えられている。しかしこの主人、すなわちイエスは、ただ旅には出られませんでした。僕たちに仕事を割り当てられて旅に出られました。従って主人の留守を守っている僕である私たちには、それぞれになすべき仕事が割り当てられているということです。「責任を持たせ」とありますが、「責任」と訳されていることばは、「権威」とも訳せる言葉です。主イエスは、私たち信仰者一人一人に、果たすべきこと、すなわち使命を全うすることができるよう、権威をお与えになっているということです。 権威が与えるのは、その人がなすべき仕事、使命を全うすることができるためのものです。会社などでも、一人一人にポストが与えられるのは、会社が権威を与え、その人の知恵と裁量で仕事ができるようにするためです。また、仕事を「割り当て」ですから、対象は個人もそうですが、個人だけではありません。先程の会社の例のように、集団に対して、それぞれの違う働き人に権威と責任がそれぞれに委ねられ、仕事が成し遂げられていく。つまりイエスはチームワークにおける仕事、働きを語られていると言えるでしょう。
個人だけでなく、チームワークにおける成すべき仕事を委ねられた。そのことが「門番」の働きにも象徴されています。「門番」とは、悪いものが入って来ないように目を覚まして見張る、という役目を持っています。この門番に対してイエスは、「目を覚ましていなさい。家の主人がいつ帰って来るのか、夕方なのか、夜中なのか、鶏の鳴くころなのか、明け方なのか、分からないからです。」と告げられました。これは夜の軍隊の歩哨、すなわち見張り役の当直交替の区分であると考えられます。つまり交替で起きていなさいということです。ですから「目を覚ましていなさい」という命令は、先程の「割り当て」と共に、個人だけに対する命令ではなく、共同体に対する命令でもあります。先程、聖霊の降臨をもって終わりの日が始まったと、お話しました。そしてその聖霊の降臨をもって、教会が誕生しました。すなわち本日の譬えは、主の再臨を待ち望みつつこの世を歩む一人一人のキリスト者に対する、また、イエスを頭として形造られている、教会に対する命令だと言うことができます。ですから私たちはキリストの体なる教会において、兄弟姉妹と協力しながら、主から与えられている知恵と力を発揮し、与えられた働きを遂行することが、問われています。また同時に、教会を揺るがす教え、主イエス・キリスト以外のものの支配が教会に入って来ないよう、絶えず目を覚まして警戒し、守ることが求められています。
教会の兄弟姉妹にはそれぞれ成すべきこと、その使命を行うための責任、そして権威が与えられています。また教会の構成や働きを考えると、責任や権威だけではなく、賜物、能力、人脈、経験、その経験を得るための様々な機会などが、教会の兄弟姉妹に与えられています。つまり「その人」しかできない働きがあり、使命があり、「その人」しか接することができない人脈、関わりがある人々が、キリストの体なる教会の一人一人に与えられているということです。
私たちの主人なるイエスは譬えの中で、いつ戻るかということを、僕である私たちに伝えられませんでした。ですからイエスは譬えを通して、ご自分がこの世界に帰って来る再臨まで「待っていなさい」と言っておられるということです。従って私たちは、イエスから委ねられた責任と権威が伴うなすべきこと、個人個人がそれぞれに与えられた使命に忠実に生き、働きながら、イエスの帰りを待ち望む、信仰生活を送る必要があります。
この13章の二つのテーマは、再臨が必ずあるということと、それがいつであるか分からないという、二つでした。主の再臨がいつかを知ることは誰にもできない。そのことによって私たちは不安を覚えます。これから先のことをあらかじめ知って安心したいという思いが、私たち人間にあるからです。占いやニュース、著名な人が語る未来の予測を聞き、そこに安心を求めることもあります。しかし聖書は、またイエスは、終わりの日を私たちが予め知ることを許しておられません。聖書がすなわちイエスが教える信仰は、私たちが色々なことを知ることによって安心するという信仰ではなく、目を覚まして、忍耐と希望をもって待ち望みつつ生きる信仰です。その信仰の歩みは、これから将来がどうなってしまうのか分からない、「知らない」という、ある緊張感の中に忍耐して留まり続けることになります。
しかし終わりの日、すなわちイエスが再臨されるその日、その時を知らないのは私たちだけではありません。天使たちも子も知らない、つまりイエスご自身も、ご自分の再臨の日を知らないのです。これは考えたら不思議なことではないでしょうか。なぜなら、再臨されるのはイエスご自身だからです。しかしその日、その時を知っておられるのは、「父なる神だけ」、です。
父なる神が知っておられることを、子である主イエスが知らない。それは、イエスが神ではないとか、父より劣る者だということではありません。イエスが、父なる神を心から信頼して生きておられるというしるし、証です。父なる神を信頼し、全てを委ねておられるからこそ、「その日、その時」を知る必要がないのです。つまり「知らない」「知る必要がない」という信仰の歩みは、神を信頼して歩むということと、イコールであるということです。その信頼、そして信仰の歩みの模範を、イエスはご自分の姿勢と態度をもって、私たちに示して下さっています。
ですから私たちは、知らないこと、分からないことがあって良いのです。また、全てのことを知っている必要もありません。父なる神が、そして私たちの主人なるイエスが全てを知っておられ、私たちに必要な救いを与えて下さる、ということで十分だと思います。そのことを信じて、神に信頼して生きるところには、自分がいろいろなことを知っていることによって得られる安心とは全く別の、それよりもはるかに尊く、また深い、そして確かな安心があります。
私たちは、イエスがいつ帰って来られるのかを知ることができないのと同じように、私たちの人生においても、また、将来起きることも知ることはできません。理解できないこと、理不尽なこと、意味が分からないことが起こります。なぜ神はそのようなことが起こるのを許されたのか。神であればそれを留めることができたはず-できるはずなのに。私はそれを回避できたかもしれないのに。なぜ?というような経験をすることもあります—また、これからしていくかもしれません。  
しかしそれら全てを、父なる神も、また子であるイエスも知っておられます。
私たちにただ一つ知らされていること。それは、将来私たちの主人なるイエスが、必ずこの地に、この世界に帰って来られる、ということです。今は目に見えず、また、信仰と聖霊を通してでしか私たちと共にいて下さらないイエスですが、イエスの再臨の日には、目に見えるお方として、相まみえる時が来ます。「その日、その時」、それは、今は隠されている主イエスのご支配があらわになる時です。イエスのご支配が誰の目にも明らかになる時です。全ての者が王であり、審判者であるイエスに服するようになる時です。そして「その日、その時」は、イエスを信じる者たち、すなわち私たちの救いが完成する時です。主の再臨を待ちつつ、主が今私たちに委ねて下さっている務めを、目を覚まし、忍耐と希望をもって、そして忠実に果していきたいと思います。
祈ります。
「目を覚ましていなさい」
気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたは知らないからです。