2026年2月15日 マルコの福音書10:32~34「先頭に立つイエス」
さて、一行はエルサレムに上る途上にあった。イエスは弟子たちの先に立って行かれた。弟子たちは驚き、ついて行く人たちは恐れを覚えた。すると、イエスは再び十二人をそばに呼んで、ご自分に起ころうとしていることを話し始められた。「ご覧なさい。わたしたちはエルサレムに上って行きます。そして、人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡されます。彼らは人の子を死刑に定め、異邦人に引き渡します。異邦人は人の子を嘲り、唾をかけ、むちで打ち、殺します。しかし、人の子は三日後によみがえります。」( マルコの福音書 10:32-34 SKY17 )
本日の聖書箇所は、十字架に架けられるということを、イエスが再び語られている箇所です。受難予告と呼ばれているものですが、その三回目の予告です。その予告が成就、実現されるべく、
イエスと弟子たちの一行は、十字架が待っているエルサレムに向かって行きます。一直線に進んで行きます。
それも弟子たちの先頭を切ってです。弟子たちはイエスの緊迫した表情、態度を読み取っていたのでしょうか。驚きと恐れをもってイエスについていきます。本日は三回目の受難予告ですが、では一回目の予告と、二回目の予告はそれぞれどのようなものだったでしょうか。少し振り返ってみたいと思います。 一回目の受難予告は8:31節に記されています。
「それからイエスは、人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。」
二回目は9:31節においてです。
それは、イエスが弟子たちに教えて「人の子は人々の手に引き渡され、殺される。しかし、殺されて三日後によみがえる」と言っておられたからである。
そして三回目の予告が本日の箇所です。
「ご覧なさい。わたしたちはエルサレムに上って行きます。そして、人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡されます。彼らは人の子を死刑に定め、異邦人に引き渡します。異邦人は人の子を嘲り、唾をかけ、むちで打ち、殺します。しかし、人の子は三日後によみがえります。」 三回目の予告にあって、一回目と二回目にないことば、それは「異邦人」ということばです。イエスご自身が異邦人に引き渡されると記されているのは、この三回目だけです。異邦人とは、ユダヤ人以外の民族のことを指しますが、実際にイエスを十字架に架けたのは異邦人であるローマ人です。
イエスにずっと敵対してきた律法学者たちやパリサイ人たちなどはユダヤ人でした。 彼らはずっとイエスを殺したいと願っていましたが、この当時ユダヤはローマ帝国の植民地であり、彼らが誰かを死刑にするというような権限は持っていませんでした。そこで彼らは民衆を扇動してイエスをローマ帝国、もしくはローマ帝国の皇帝に反逆する政治犯に仕立て上げ、ローマ人の手によって殺させようとしました。
それではこれから、本日の受難予告が全て成就、実現していくことを、共に見て行きたいと思っています。 もう一度10:34をお読みします。イエスはこのように語られました。「異邦人は人の子を嘲り、唾をかけ、むちで打ち、殺します。しかし、人の子は三日後によみがえります。」ここに「あざけり」、「唾をかけ」、「むちで打ち」とありますが、この先の15章において全て成就、実現しています。イエスが異邦人であるローマ人に、すなわちローマの兵士たちにあざけられる、かれかわれ、彼らから唾をかけられ、むちで打たれるといった全てが、15章に描写されています。後でお読み下さい。イエスが言われたことがあまりにも事実と合致するので、これは「事後預言」、つまり実際に事が起こった後にそれを見た者たちがその様子を記したのだ、という学者がいるほどです。しかしこのような描写であり預言は、旧約聖書の詩編やイザヤ書などにも見られます。
詩編22:7節にはこのように記されています。「私を見る者はみな 私を嘲ります。口をとがらせ 頭を振ります。」 またイザヤ書50:6節にはこのような描写があります。「打つ者に背中を任せ、ひげを抜く者に頬を任せ、侮辱されても、唾をかけられても、顔を隠さなかった。」 イエスの受難の預言です。 そして有名な、イザヤ書53章があります。こちらもイエスの十字架の苦しみの預言ですが、それは神の計画であり、イエスが神の御心に従順に従われたということが描写、預言されている聖書箇所です。その中の一つの節を引用します。イザヤ書53章10節にはこのように記されています。「彼を砕いて病を負わせることは主のみこころであった。彼が自分のいのちを代償のささげ物とするなら、末長く子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。」 彼、すなわちイエスが、代償のささげ物となった、ということが記されています。
代償とは身代わりであり、ささげ物とは生贄です。 旧約聖書には律法が記されています。神が与えられたものですが、人間が行うべき生活や信仰の指針、言わばガイドラインです。その律法の中に、動物の生贄によって人間の罪が赦されるという掟がありました。それは、人間の罪が赦されるためには、動物の血が流されなければならない。すなわち動物のいのちが人間の罪の身代わりに献げられなければならない。その動物の生贄なしでは人間の罪の赦しはないという掟でした。新約聖書、ヘブル人への手紙の9章には、律法に記されている生贄について、このように説明されています。9章22節「律法によれば、ほとんどすべてのものは血によってきよめられます。血を流すことがなければ、罪の赦しはありません。」
しかしこの先の10章において、動物の血、すなわち動物が人間の罪の身代わりになるには不十分である。ということが記されています。
そこで完全な生贄として、また神への献げ物としてこの世界に飛びこんで来て下さったのが、イエス・キリストでした。へブル人への手紙10章の5節と7節の一部を引用します。ですからキリストは、この世界に来てこう言われました。..『今、わたしはここに来ております。巻物の書にわたしのことが書いてあります。神よ、あなたのみこころを行うために。』」巻物の書とは旧約聖書のことを指します。旧約聖書は巻物に記されていました。 そして先ほど見た旧約聖書に見られる預言の通り、神の御心に従ってこの世界に来たとイエスは言われます。さらにへブル人への手紙の10章の10節には、このように記されています。「このみこころにしたがって、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけ献げられたことにより、私たちは聖なるものとされています。」イエスご自身が一度だけ献げられたとあります。そしてその方法が十字架でした。イエスが自分の罪のために、十字架で身代わりになって下さったと信じることによって、人は聖められる、つまり罪赦されるということが表されています。そしてそれは父なる神の御心でした。
動物の生贄は人間の罪の身代わりとしては不十分でした。しかしイエスは違います。十字架で一度だけ献げられるだけで十分である。動物の生贄と違って、イエスの生贄がいかに完全で完璧で、神の御心に適うものであったかが分かります。
先週「義」についてお話をしました。神の前に正しいとされる、正しいと認められることが聖書に記されている「義」という意味でした。また言い方を変えれば、それは救いです。
人はイエスを信じることによって罪赦され、神の前に正しいと認められます。 そして罪が赦されているということは、永遠のいのちが与えられているということですから、それは救われていると言うことができます。 ですからイエスを信じて義とされることと、滅びから救われているということは、それぞれの持つことばの正確な意味は異なりますが、イコールの関係です。
そして私たち人間が神の前に義、正しい者とみなされ、救われるためには、イエスの十字架がどうしても必要です。なぜなら、イエスは私たち人間がどうしても解決できない罪を全て、十字架で身代わりに背負われたからです。「身代わりに背負われた」とは、難しいことばで言えば「贖い」でした。 このことも先週お話しました。 贖いとは、もともと商業用語、ビジネス用語であり、「買い取る」という意味でした。 (そしてこれは当時における文脈ですが)市場などに行って、他人の所有物である奴隷などを、代価を支払うことによって自分のものにする、というような意味でした。イエスは罪の奴隷となっている私たち人間を、ご自身のいのちをもって買い取られ、私たちを罪の奴隷から解放して下さるお方です。
またイエスの受難の告知は、並行箇所のマタイの福音書とルカの福音書にも記されています。
そしてそのルカの福音書の18章には、受難告知における弟子たちの反応が記されています。そこには弟子たちが霊的に盲目であるという、すなわちそれは私たち人間の姿でもありますが-表されています。弟子たちには、これらのことは何一つ分からなかった。彼らにはこのことばが隠されていて、話されたことが理解できなかった。ルカの福音書18:34 イエスからじきじきにことばを聞いて来た弟子たちさえこうです。 彼らは漁師に必要な舟も、網も、家族も、イエスに付き従い、福音を宣べ伝えるために後に残して来たような信仰者であり、献身的な人間たちです。そのような人間たちですら、イエスの言われた十字架と復活のことが理解できない。 つまり私たち人間が、どれだけ神の真理や霊的な事柄に対して盲目であるか、ということです。 真理も霊的な事柄も分からない人間は、前回見た金持ちの青年のようになってしまう可能性が高いと言えます。すなわち富、財産、名誉など、自分の目に見えるもの、感じることができるものに頼り、いつしかそれらから逆に支配され、奴隷とされてしまう。イエスを信じることによって罪が赦され、神の子、神の家族の特権とされることと比べれば、遥かに価値のないものに執着してしまう。そのような弱さが人間にあるということです。そしてその先は、神との永遠の別離、すなわち滅びです。イエスは本日の10:34節を、これから起こる預言として語られました。異邦人は人の子を嘲り、唾をかけ、むちで打ち、殺します。しかし、人の子は三日後によみがえります。」ここに「しかし」とあります。どんでん返し、大逆転が表されています。イエスは十字架の死で終わりませんでした。イエスの十字架の死の先には復活があります。イエスは三回にわたって弟子たちに死から甦る、復活するということを語って来られましたが、弟子たちの耳にも心にも入りませんでした。私たちも「受難予告」ということばを使います。実際に私も使っています。しかしイエスのことばを見るならば、そこには「しかし」ということばにつづく復活が、確かに、はっきりと示されています。 過去二回の受難予告においてもそうでした。私は苦しめられ、殺され、そして甦る。従って実際は、「受難予告」よりも、「受難と甦りの予告」と言い換えた方が正確な言い回しです。 しかしペテロも弟子たちも、イエスのことばを私たちと同じように「受難予告」として受け取ってしまいました。死んで終わりだということです。しかし人間を罪と死とサタンから解放する十字架の御業は、イエスの勝利の御業です。ですからイエスがエルサレムに向かって行くということは、罪と死と、サタンへの勝利のための、栄光に満ちた行進であると言うことができます。そしてもしイエスを、十字架を通しての勝利者として弟子たちが捉えていたのであれば、イエスが先頭を切って進んで行かれる時に、彼らに驚きや怖れ、不安を覚えることはなかったかもしれません。
本日の出来事の後、イエスの弟子のヤコブとヨハネがイエスに頼み事をします。再来週の聖書箇所です。「あなたが栄光をお受けになるとき、一人があなたの右に、もう一人が左に座るようにしてください。」自分たちが右大臣、左大臣になりたいと願っているということは、イエスを政治的な王として捉えていたということです。しかしこの時、他の弟子たちがこの二人に腹を立てていることから、彼らも同じことを考え、願っていたことが分かります。 霊的に盲目なだけでなく、自分の利益しか考えられないようなイエスの弟子たち。そしてこの姿、態度は、同じく霊的に盲目であり、自己中心的な私たち人間の姿を表していると言えます。 しかしそのような弟子たちの前を、すなわち罪深い私たち人間の先頭を切って、十字架への道を進んで行かれるイエスがおられます。 そしてその栄光の行進は、私たち全ての人間が持つ罪を身代わりに背負うための十字架であり、罪と死とサタンを打ち破って甦る復活のためでした。
最後に、ガラテヤ人の手紙1:4節を引用して、本日のみ言葉の取り次ぎを終わりたいと思います。
キリストは、今の悪の時代から私たちを救い出すために、私たちの罪のためにご自分を与えてくださいました。私たちの父である神のみこころにしたがったのです。
祈ります
「先頭に立つイエス」
さて、一行はエルサレムに上る途上にあった。イエスは弟子たちの先に立って行かれた。弟子たちは驚き、ついて行く人たちは恐れを覚えた。すると、イエスは再び十二人をそばに呼んで、ご自分に起ころうとしていることを話し始められた。
さて、一行はエルサレムに上る途上にあった。イエスは弟子たちの先に立って行かれた。弟子たちは驚き、ついて行く人たちは恐れを覚えた。すると、イエスは再び十二人をそばに呼んで、ご自分に起ころうとしていることを話し始められた。「ご覧なさい。わたしたちはエルサレムに上って行きます。そして、人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡されます。彼らは人の子を死刑に定め、異邦人に引き渡します。異邦人は人の子を嘲り、唾をかけ、むちで打ち、殺します。しかし、人の子は三日後によみがえります。」( マルコの福音書 10:32-34 SKY17 )
本日の聖書箇所は、十字架に架けられるということを、イエスが再び語られている箇所です。受難予告と呼ばれているものですが、その三回目の予告です。その予告が成就、実現されるべく、
イエスと弟子たちの一行は、十字架が待っているエルサレムに向かって行きます。一直線に進んで行きます。
それも弟子たちの先頭を切ってです。弟子たちはイエスの緊迫した表情、態度を読み取っていたのでしょうか。驚きと恐れをもってイエスについていきます。本日は三回目の受難予告ですが、では一回目の予告と、二回目の予告はそれぞれどのようなものだったでしょうか。少し振り返ってみたいと思います。 一回目の受難予告は8:31節に記されています。
「それからイエスは、人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。」
二回目は9:31節においてです。
それは、イエスが弟子たちに教えて「人の子は人々の手に引き渡され、殺される。しかし、殺されて三日後によみがえる」と言っておられたからである。
そして三回目の予告が本日の箇所です。
「ご覧なさい。わたしたちはエルサレムに上って行きます。そして、人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡されます。彼らは人の子を死刑に定め、異邦人に引き渡します。異邦人は人の子を嘲り、唾をかけ、むちで打ち、殺します。しかし、人の子は三日後によみがえります。」 三回目の予告にあって、一回目と二回目にないことば、それは「異邦人」ということばです。イエスご自身が異邦人に引き渡されると記されているのは、この三回目だけです。異邦人とは、ユダヤ人以外の民族のことを指しますが、実際にイエスを十字架に架けたのは異邦人であるローマ人です。
イエスにずっと敵対してきた律法学者たちやパリサイ人たちなどはユダヤ人でした。 彼らはずっとイエスを殺したいと願っていましたが、この当時ユダヤはローマ帝国の植民地であり、彼らが誰かを死刑にするというような権限は持っていませんでした。そこで彼らは民衆を扇動してイエスをローマ帝国、もしくはローマ帝国の皇帝に反逆する政治犯に仕立て上げ、ローマ人の手によって殺させようとしました。
それではこれから、本日の受難予告が全て成就、実現していくことを、共に見て行きたいと思っています。 もう一度10:34をお読みします。イエスはこのように語られました。「異邦人は人の子を嘲り、唾をかけ、むちで打ち、殺します。しかし、人の子は三日後によみがえります。」ここに「あざけり」、「唾をかけ」、「むちで打ち」とありますが、この先の15章において全て成就、実現しています。イエスが異邦人であるローマ人に、すなわちローマの兵士たちにあざけられる、かれかわれ、彼らから唾をかけられ、むちで打たれるといった全てが、15章に描写されています。後でお読み下さい。イエスが言われたことがあまりにも事実と合致するので、これは「事後預言」、つまり実際に事が起こった後にそれを見た者たちがその様子を記したのだ、という学者がいるほどです。しかしこのような描写であり預言は、旧約聖書の詩編やイザヤ書などにも見られます。
詩編22:7節にはこのように記されています。「私を見る者はみな 私を嘲ります。口をとがらせ 頭を振ります。」 またイザヤ書50:6節にはこのような描写があります。「打つ者に背中を任せ、ひげを抜く者に頬を任せ、侮辱されても、唾をかけられても、顔を隠さなかった。」 イエスの受難の預言です。 そして有名な、イザヤ書53章があります。こちらもイエスの十字架の苦しみの預言ですが、それは神の計画であり、イエスが神の御心に従順に従われたということが描写、預言されている聖書箇所です。その中の一つの節を引用します。イザヤ書53章10節にはこのように記されています。「彼を砕いて病を負わせることは主のみこころであった。彼が自分のいのちを代償のささげ物とするなら、末長く子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。」 彼、すなわちイエスが、代償のささげ物となった、ということが記されています。
代償とは身代わりであり、ささげ物とは生贄です。 旧約聖書には律法が記されています。神が与えられたものですが、人間が行うべき生活や信仰の指針、言わばガイドラインです。その律法の中に、動物の生贄によって人間の罪が赦されるという掟がありました。それは、人間の罪が赦されるためには、動物の血が流されなければならない。すなわち動物のいのちが人間の罪の身代わりに献げられなければならない。その動物の生贄なしでは人間の罪の赦しはないという掟でした。新約聖書、ヘブル人への手紙の9章には、律法に記されている生贄について、このように説明されています。9章22節「律法によれば、ほとんどすべてのものは血によってきよめられます。血を流すことがなければ、罪の赦しはありません。」
しかしこの先の10章において、動物の血、すなわち動物が人間の罪の身代わりになるには不十分である。ということが記されています。
そこで完全な生贄として、また神への献げ物としてこの世界に飛びこんで来て下さったのが、イエス・キリストでした。へブル人への手紙10章の5節と7節の一部を引用します。ですからキリストは、この世界に来てこう言われました。..『今、わたしはここに来ております。巻物の書にわたしのことが書いてあります。神よ、あなたのみこころを行うために。』」巻物の書とは旧約聖書のことを指します。旧約聖書は巻物に記されていました。 そして先ほど見た旧約聖書に見られる預言の通り、神の御心に従ってこの世界に来たとイエスは言われます。さらにへブル人への手紙の10章の10節には、このように記されています。「このみこころにしたがって、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけ献げられたことにより、私たちは聖なるものとされています。」イエスご自身が一度だけ献げられたとあります。そしてその方法が十字架でした。イエスが自分の罪のために、十字架で身代わりになって下さったと信じることによって、人は聖められる、つまり罪赦されるということが表されています。そしてそれは父なる神の御心でした。
動物の生贄は人間の罪の身代わりとしては不十分でした。しかしイエスは違います。十字架で一度だけ献げられるだけで十分である。動物の生贄と違って、イエスの生贄がいかに完全で完璧で、神の御心に適うものであったかが分かります。
先週「義」についてお話をしました。神の前に正しいとされる、正しいと認められることが聖書に記されている「義」という意味でした。また言い方を変えれば、それは救いです。
人はイエスを信じることによって罪赦され、神の前に正しいと認められます。 そして罪が赦されているということは、永遠のいのちが与えられているということですから、それは救われていると言うことができます。 ですからイエスを信じて義とされることと、滅びから救われているということは、それぞれの持つことばの正確な意味は異なりますが、イコールの関係です。
そして私たち人間が神の前に義、正しい者とみなされ、救われるためには、イエスの十字架がどうしても必要です。なぜなら、イエスは私たち人間がどうしても解決できない罪を全て、十字架で身代わりに背負われたからです。「身代わりに背負われた」とは、難しいことばで言えば「贖い」でした。 このことも先週お話しました。 贖いとは、もともと商業用語、ビジネス用語であり、「買い取る」という意味でした。 (そしてこれは当時における文脈ですが)市場などに行って、他人の所有物である奴隷などを、代価を支払うことによって自分のものにする、というような意味でした。イエスは罪の奴隷となっている私たち人間を、ご自身のいのちをもって買い取られ、私たちを罪の奴隷から解放して下さるお方です。
またイエスの受難の告知は、並行箇所のマタイの福音書とルカの福音書にも記されています。
そしてそのルカの福音書の18章には、受難告知における弟子たちの反応が記されています。そこには弟子たちが霊的に盲目であるという、すなわちそれは私たち人間の姿でもありますが-表されています。弟子たちには、これらのことは何一つ分からなかった。彼らにはこのことばが隠されていて、話されたことが理解できなかった。ルカの福音書18:34 イエスからじきじきにことばを聞いて来た弟子たちさえこうです。 彼らは漁師に必要な舟も、網も、家族も、イエスに付き従い、福音を宣べ伝えるために後に残して来たような信仰者であり、献身的な人間たちです。そのような人間たちですら、イエスの言われた十字架と復活のことが理解できない。 つまり私たち人間が、どれだけ神の真理や霊的な事柄に対して盲目であるか、ということです。 真理も霊的な事柄も分からない人間は、前回見た金持ちの青年のようになってしまう可能性が高いと言えます。すなわち富、財産、名誉など、自分の目に見えるもの、感じることができるものに頼り、いつしかそれらから逆に支配され、奴隷とされてしまう。イエスを信じることによって罪が赦され、神の子、神の家族の特権とされることと比べれば、遥かに価値のないものに執着してしまう。そのような弱さが人間にあるということです。そしてその先は、神との永遠の別離、すなわち滅びです。イエスは本日の10:34節を、これから起こる預言として語られました。異邦人は人の子を嘲り、唾をかけ、むちで打ち、殺します。しかし、人の子は三日後によみがえります。」ここに「しかし」とあります。どんでん返し、大逆転が表されています。イエスは十字架の死で終わりませんでした。イエスの十字架の死の先には復活があります。イエスは三回にわたって弟子たちに死から甦る、復活するということを語って来られましたが、弟子たちの耳にも心にも入りませんでした。私たちも「受難予告」ということばを使います。実際に私も使っています。しかしイエスのことばを見るならば、そこには「しかし」ということばにつづく復活が、確かに、はっきりと示されています。 過去二回の受難予告においてもそうでした。私は苦しめられ、殺され、そして甦る。従って実際は、「受難予告」よりも、「受難と甦りの予告」と言い換えた方が正確な言い回しです。 しかしペテロも弟子たちも、イエスのことばを私たちと同じように「受難予告」として受け取ってしまいました。死んで終わりだということです。しかし人間を罪と死とサタンから解放する十字架の御業は、イエスの勝利の御業です。ですからイエスがエルサレムに向かって行くということは、罪と死と、サタンへの勝利のための、栄光に満ちた行進であると言うことができます。そしてもしイエスを、十字架を通しての勝利者として弟子たちが捉えていたのであれば、イエスが先頭を切って進んで行かれる時に、彼らに驚きや怖れ、不安を覚えることはなかったかもしれません。
本日の出来事の後、イエスの弟子のヤコブとヨハネがイエスに頼み事をします。再来週の聖書箇所です。「あなたが栄光をお受けになるとき、一人があなたの右に、もう一人が左に座るようにしてください。」自分たちが右大臣、左大臣になりたいと願っているということは、イエスを政治的な王として捉えていたということです。しかしこの時、他の弟子たちがこの二人に腹を立てていることから、彼らも同じことを考え、願っていたことが分かります。 霊的に盲目なだけでなく、自分の利益しか考えられないようなイエスの弟子たち。そしてこの姿、態度は、同じく霊的に盲目であり、自己中心的な私たち人間の姿を表していると言えます。 しかしそのような弟子たちの前を、すなわち罪深い私たち人間の先頭を切って、十字架への道を進んで行かれるイエスがおられます。 そしてその栄光の行進は、私たち全ての人間が持つ罪を身代わりに背負うための十字架であり、罪と死とサタンを打ち破って甦る復活のためでした。
最後に、ガラテヤ人の手紙1:4節を引用して、本日のみ言葉の取り次ぎを終わりたいと思います。
キリストは、今の悪の時代から私たちを救い出すために、私たちの罪のためにご自分を与えてくださいました。私たちの父である神のみこころにしたがったのです。
祈ります
「先頭に立つイエス」
さて、一行はエルサレムに上る途上にあった。イエスは弟子たちの先に立って行かれた。弟子たちは驚き、ついて行く人たちは恐れを覚えた。すると、イエスは再び十二人をそばに呼んで、ご自分に起ころうとしていることを話し始められた。