受難日礼拝メッセージ(テキストのみ)

2026年4月2日 ルカの福音書23:33,39~43
タイトル 「わたしはあなたとずっと一緒にいる」
「どくろ」と呼ばれている場所に来ると、そこで彼らはイエスを十字架につけた。また犯罪人たちを、一人は右に、一人は左に十字架につけた。
十字架にかけられていた犯罪人の一人は、イエスをののしり、「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」と言った。すると、もう一人が彼をたしなめて言った。「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。」そして言った。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」
本日は受難日です。罪を犯したことのないお方が、罪ある者として十字架で神に裁かれる。イエスの十字架と、共に十字架に架けられている犯罪人たちに焦点を当てて、お話していきたいと思っています。
ローマ総督ピラトの努力も虚しく、イエスはローマ帝国に反逆する政治犯として、十字架に架けられることになりました。主イエスの他にも、二人の犯罪人がイエスの十字架を中央にして、その右と左で十字架に架けられました。 なぜ二人は十字架刑に処せられたのでしょうか。
ルカの福音書では二人のことを「犯罪人」と記しているだけです。しかしマタイやマルコ福音書では「強盗」としています。 「強盗」という言葉は、単に他人の物を盗む者というより、むしろ反乱を起こす者、革命家を意味します。恐らくこの二人はローマ帝国の支配に抵抗して、暴動ないし反乱を起こして逮捕され、十字架刑に処せられることになった、と思われます。 イエスの十字架を見ながら、イエスを罵っていた群衆がいました。イエスがローマ帝国から自分たちを解放してくれる政治的な王だと期待していた、ユダヤの人々でした。しかし願いが叶わないことが分かり、希望から失望へと、そしてイエスへの怒りへと変わって行きました。 平行箇所を見ると、群衆がイエスを罵っている時に、この二人の強盗も同じようにイエスを罵っていたことが分かります。そのうちの一人はこのようにイエスを罵しりました。「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」従ってもう一人も始めはイエスに対して同じような思いを持っていたようです。二人とも自分はローマ帝国から人々を解放しようと努力した。正しいことを行った。正義を行ったと思っていたはずです。ですから十字架刑に対して、不当な刑罰を受けていると二人とも感じていたはずです。しかし一人の犯罪人はイエスに対する態度が変わっていきます。何があったのでしょうか。
それはイエスの十字架上で語られることばであり、態度であり、そして祈りであったと思います。イエスはまさに十字架に架けられている苦しみの時も、罵る人々に対して不平や不満、怒るといったこともありませんでした。 ヨハネの福音書の19章には、この状況でイエスは、自分の母マリアを心配され、弟子の一人に彼女を託しています。そして何よりこの犯罪人の心の琴線に触れたのが、イエスの祈りだったと思われます。それが34節でイエスが語られたことばであり、祈りです。
23:34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦し下さい。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」彼はこのように思ったと想像します。
「自分を殺そうする者たちに対して、「彼らを赦して下さい」などと祈ることなど人間にはできない。この方こそ神に違いない。そしてこの神が、自分は悪くないと思っているこの私も、そして隣の犯罪人も、そして群衆も、全て自分中心で罪深い人間に対する神の怒りを代わりに受けてくれている。」実際この犯罪人が神に、すなわちイエスに対しての恐れ、畏怖の念を持ったことが分かります。
「おまえは神を恐れないのか。」という、もう一人の犯罪人に対して言ったことば、告白です。裏を返せばこの告白は「おまえと私は違う。私は、神を恐れる。イエスを神として恐れ敬う。」という彼のイエスに対する信仰を感じさせる告白です。そしてもっとイエスに対して踏み込んだ思い、実彼がイエスを神と認め、また信じるという信仰告白が、42節に表されています。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」「あなたが御国に入られるときには」という告白は、この犯罪人が、イエスが御国に行くことだけでなく、御国、すなわち神の国を統べ納める神であることを確信している態度です。そして彼は、神であると信じたイエスに対して、「私を思い出してください」と訴えました。 思い出して下さいとは、忘れないで下さいということです。「自分がしたことは何も悪くないと思っていた。むしろ正しいことをしていたと思っていた。しかしそうではなかった。私はあなたの前に罪ある者。神であるあなたと共に、御国に行くような身分ではない。しかしどうか私が辿った人生を、私の姿を、そして私の存在を、あなたが行かれる神の国においても忘れないで欲しい。頭の片隅でもいいから覚えていて欲しい。」彼の思い出して下さいという告白には、神としてのイエスの前に謙る、一信仰者としての姿勢と信仰を感じさせます。そしてイエスが御国に行くのが相応しい、当然であるという確信を感じさせる告白でもあります。この犯罪者の信仰、そして告白に対してイエスは、「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」と答えられました。
パラダイスとは楽園です。素晴らしい場所であるには違いないですが、大切なのは場所というよりむしろイエスとの「関係」です。この時イエスはこの男に向かって、「わたしと一緒に楽園にいる」と宣言されました。主イエスが一緒にいてくださるところ、そこが楽園であり、パラダイスです。イエスがそこにおられなかったから、そこは楽園でもパラダイスでもありません。イエスは犯罪人に対してこのように答えることによって、彼の信仰告白が本物であること。そして同時に「思い出して下さい」と願った以上のことを約束されたことが分かります。それはこれからもずっと一緒にいるという、いつまでも続くイエスとの関係を約束して下さったからです。

イエスは私たちが激しい苦しみの中で、絶望の中で、すべての人に見捨てられたように思う時ですら、私たちを覚えていてくださり、心に留めて下さいます。また私たちが死を迎える時も、またその後も、ずっと一緒にいて下さるお方です。私たちを見捨てることは決してありません。
「私はあなたのことを覚えている、決して忘れない。そしていつまでも一緒にいる。」この犯罪人だけではなく、イエスを神として、救い主として信じる全ての人に、私たち一人一人に、イエスは同じように約束して下さいます。 そしてイエスは私たちとずっと一緒にいるという約束を守るために、神との妨げとなる私たちの罪を全て、十字架で背負って下さいました。
イエスの十字架を感謝しつつ、共に祈りたいと思います。
「わたしはあなたとずっと一緒にいる」
「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」