出エジプト

2026/9/27(日)「見限らない主」出エジプト記34:1~10 庄司牧師

2026年9月27日 「見限らない主」出エジプト記34:1~10
主はモーセに言われた。「前のものと同じような二枚の石の板を切り取れ。わたしはその石の板の上に、あなたが砕いたこの前の石の板にあった、あのことばを書き記す。朝までに準備をし、朝シナイ山に登って、その山の頂でわたしの前に立て。だれも、あなたと一緒に登ってはならない。また、だれも、山のどこにも人影があってはならない。また、羊でも牛でも、その山のふもとで草を食べていてはならない。」そこで、モーセは前のものと同じような二枚の石の板を切り取り、翌朝早く、主が命じられたとおりにシナイ山に登った。彼は手に二枚の石の板を持っていた。主は雲の中にあって降りて来られ、彼とともにそこに立って、主の名を宣言された。主は彼の前を通り過ぎるとき、こう宣言された。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す。しかし、罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、三代、四代に報いる者である。」モーセは急いで地にひざまずき、ひれ伏した。彼は言った。「ああ、主よ。もし私がみこころにかなっているのでしたら、どうか主が私たちのただ中にいて、進んでくださいますように。確かに、この民はうなじを固くする民ですが、どうか私たちの咎と罪を赦し、私たちをご自分の所有としてくださいますように。」主は言われた。「今ここで、わたしは契約を結ぼう。わたしは、あなたの民がみないるところで、地のどこにおいても、また、どの国においても、かつてなされたことがない奇しいことを行う。あなたがそのただ中にいるこの民はみな、主のわざを見る。わたしがあなたとともに行うことは恐るべきことである。
新約聖書はマルコの福音書を、そして旧約聖書は出エジプト記を同じく初めから共に見て来ました。出エジプト記は40章で終わりですからいよいよ終盤です。
奴隷とされていたエジプトから主なる神によって救い出され、乳と蜜の流れる約束の地に向けて荒野の旅路を歩んで来たイスラエルの民は、シナイ山において、この主なる神と契約を結びました。それは人間同士の商売の契約のようなものではなく、主なる神がイスラエルの神となり、イスラエルは神の民とされる、そのような特別な関係を、神が恵みによって結んで下さる、というものでした。この契約によってイスラエルの民は、神の民として新たに歩み始めました。しかしモーセとヨシュアが、契約のしるしとなる石の板-十戒が記されたものですが-神から授かるために山に登っている間、麓で待っていたイスラエルの民は金の子牛の像を造り、それを神として拝み始めました。直接的な原因は、石の板を授けられるために山に登ったモーセが中々帰って来ない。そのため不安になったからですが、元々民たちにあった性質-神への不信仰、不従順が露わになった時でもありました。 十戒の第一の戒めは、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」
第二の戒めは「あなたはいかなる像も造ってはならない。それらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない」です。主なる神の民として守るべき基本的なこれらの戒めを、イスラエルの民はそれが与えられたとたんに破ってしまいました。この「金の子牛」の話が32章以下に語られて来ました。山から戻って来てこの様子を見たモーセは激しく怒り、十戒が記された石の板を砕きました。それは主なる神と民との契約が破綻し、壊れてしまったことを表しています。金の子牛という偶像を造り、神として拝んだ罪によって、主なる神とイスラエルの民との契約の関係は失われてしまいました。そのためモーセは神とイスラエルの民との間に立って、彼らの罪を赦して下さるようにと、主なる神に懇願しました。 モーセは、罪を犯して神との契約の関係を失い、もはや神の民として歩むことができなくなったイスラエルの人々の赦しを、主なる神に必死に求めました。その結果、神はイスラエルの民を滅ぼすことを思い留まり、再び彼らをご自分の民とし、彼らと共に歩まれると宣言して下さいました。重大な罪を赦され、一旦は失われた、神と彼らの間の契約がもう一度結び直される。イスラエルの民は再び神の民として歩み出すことができる。その契約の再締結が、本日取り上げられている34章で語られています。
1節には、主はモーセに言われた。「前のものと同じような二枚の石の板を切り取れ。わたしはその石の板の上に、あなたが砕いたこの前の石の板にあった、あのことばを書き記す。とあります。契約の再締結は、モーセが用意した二枚の石の板に、神の指によって十戒が再び書き記され、もう一度与えられるということを通してなされました。イスラエルの契約違反によって失われた契約の関係が、回復されることのしるしとなりました。契約とはすなわち約束を交わすことです。つまり、お互いに守り行うべき義務を負うということです。それは人間側だけでなく、神側にも義務が生じることになります。それは責任とも言い換えることができるかもしれません。 神がイスラエルと契約を結ぶことによって責任を持って下さることとは、神が彼らイスラエルを守り、養い、導き、救うことを義務として引き受けて下さる、責任を持って下さる、ということです。そして同時にイスラエルも神に対して義務を負う者となります。その義務とは、神との契約を守ることによって果たされるものです。そのようにお互いがお互いに対して義務を負い、成すべき責任をしっかりと果していく。それが神と民とが契約で結ばれている証でもありました。従ってイスラエルがなすべき義務、十戒に記されているようなことを行わないならば、神との関係はまた破れ、失われてしまいます。 実際にイスラエルは第一戒と第二戒を破り、神との関係は破れ、壊れてしまいました。しかしモーセの執り成しによって神は再び契約を通して神が行うべき義務-神を信じ、従って来る者たちを守り、養い、導き、救いの手を伸ばして下さる、という責任を再び持つと約束して下さいました。主なる神と、不信仰であり不従順であるイスラエルの間に入り、彼らイスラエルの罪を赦して下さるようにと神に懇願した人、それがモーセです。そして以前お話しましたが、モーセはイエス・キリストを象徴しています。しかし決定的な違いがモーセとイエスにありました。それはどれだけ真剣で真実なものであっても、モーセはただ祈り、執り成すだけの存在です。しかしイエスはその身をもって、私たち人間の罪が神の御前で赦されるために、その身を捧げて下さいました。それが、モーセが罪の身代わりに架かることはなかった十字架です。
罪を犯した人間は、その罪によって死ぬ存在になってしまいました。そこでイエスは人間の罪を全て背負い、ご自分が人間の代わりに神に呪われる者となって、人間の身代わりに死なれました。
死の原因となった人間の罪を葬り去り、また、人間を罪に誘った悪魔、サタンを打ち破って復活されました。このイエスの十字架が自分の罪のためであった。身代わりの死であると信じる全ての人々の罪は赦され、新しい者とされる。また罪によって断絶していた父なる神との交わりを回復させて頂ける。それがイエスの十字架と復活にありました。
イエスの十字架による罪の贖い、赦しの前までは、すなわち旧約時代は、人間の罪の身代わりとして動物の血が、動物のいのちが捧げられていました。「この血、このいのちを捧げますから、神よ、代わりに私の罪を赦して下さい。」このような方法によって人類は罪の赦しを神に求めました。しかしイエスの十字架の死が自分の罪のためであったことを信じる人は、その信仰によって罪赦され、神の子、神の民として新たな関係、契約の中に入れられる。この十字架による新しい約束が新約、新しい契約です。新約聖書の「約」は契約の「約」を表し、イエスを信じる者と神との関係が結び直される、新しい契約です。以前お話したことがあります。 その契約は、動物の生贄が民の罪の身代わりとして捧げられることによって彼らの罪が赦されるといった古い契約-すなわち旧約ではなく-イエスを信じる全ての者の罪が、ただイエスの身代わりの十字架を信じることによって赦され、新しい者とされる。そのような新しい契約、すなわち新約です。その新しい契約が記されているのが新約聖書であり、その新しい契約に対して、古い契約が記されているのが旧約聖書です。そしてこの旧約聖書には、新約の中心となるイエス・キリストの到来が数多く預言として記されている。そしてこれらの預言は、イエスの到来によって再臨を除いて成就、実現している。今私たちはこの新約、新しい契約の中に生かされている者たちです。感謝です。
旧約において、神とイスラエルの民たちとが結んだ契約は、主に十戒に代表される律法を、イスラエルが守る義務と責任が伴いました。一方神は、その契約関係にあるイスラエルを守り、養い、導き、祝福する義務と責任がありました。しかし新約におけるイエスとイエスを信じる者たちに生じる義務と責任は、このような旧約とは異なります。それはイエスが律法を終わらせたからです。人間はもはや律法を守ることによって救いを得るのではなく、ただイエスの十字架の身代わりが、自分の罪であったと信じる信仰によって罪赦され、新しくされるというものです。それは旧約の時代のように、律法を守ることによって契約関係が保たれるというのではもはやなく、ただ、イエスの御心を求めて生き、イエスに似た者となること目指し、またイエスの言われることを守り、従って行く。そのようなもっと人格的な関係であり、交わりに変えられました。
旧約における神とイスラエルの契約関係は、律法を守ることによって保たれました。しかしイエスの十字架の愛を知り、信じ受け入れた私たちは、イエスの愛と慈しみを日々経験することができます。従ってイエスの御心、イエスが語られること、そしてイエスが命じられたことを自発的に、そして率先して守り、行うことを求めるようになります。 新約聖書、ヨハネの手紙第一5章3節には、このようなことばがあります。「神を愛するとは、神の命令を守ることです。この命令は重荷になることはありません。」大好きな人、尊敬している人、愛している人から言われること、語られること、命じられることは、率先して守りたくなるものです。そしてそれは自発的に守っていきなくなることですから、重荷にならないばかりか、むしろ喜びとなります。自分が大好きな人、尊敬している人、愛している人が私のためを思って命じられることを守り、従うことをその人が喜んで下さるなら、率先して守っていこう、となるのではないでしょうか。ですから新約に生きる私たちは神、すなわちイエスを愛していれば、イエスが言われることを率先して守り、従っていくことが喜びとなっていくでしょう。そしてイエスの命令を率先して守る者は、すなわちイエスを愛する者です。このイエスに対する愛と、イエスの命令を守ることとは、車の両輪の関係に例えることができるかもしれません。
旧約において律法を守ることによって保たれていた、どちらかと言えば義務的な契約とはもはや異なります。しかしこのような関係、また愛の交わり、また生き方は、結果的に律法を守ることにも繋がります。それはイエスの思い、御心が、律法にも表されているからです。しかし私たち人間は弱いものです。イスラエルを見れば分かります。神から与えられた全ての命令を守ると、24章において誓った彼らは、その舌の根が乾かない内に、その神を捨て、偶像を神として拝み、従ってしまいました。イスラエルの民は人類の代表の側面がありますから、その神への不信仰、不従順は、すなわち私たち全ての人類の罪深さを表していると言えます。しかし神はモーセの執り成しに心動かされ、彼らの罪を赦されました。そしてこのモーセはイエス・キリストを象徴していると先程お話しました。イエスはこのモーセよりももっと大きく、偉大で、尊厳と憐れみ、そして愛に満ちておられる方です。イエスを求めて来る全ての人たちを受け入れられました。目が見えず、口がきけない人。耳が聞こえず、足を動かすことができない人。肉体的な欠陥を抱えながら、それでもイエスの下に憐れみを求めて来た全ての者たちをイエスは受け入れ、憐れみを示され、優しいことばをかけられ、その手でお触れになり、癒されました。また、罪にさいなまれ、罪を告白する者もイエスは受け止められ、その人の罪の赦しを宣言されました。その癒しも、また罪の赦しも、根拠はイエスの十字架にあります。私たち人類が持つ死、死に至る病や痛み、また苦悩など、それら全ての元である罪を、身代わりに負って下さったからです。イエスは人類の罪をその身に負って十字架に架かられるほどに私たち人間をとことん愛され、仕えられ、良きものを与えられ、最善へと導かれるお方です。十字架がその証です。
このイエスの優しさ、共感、憐れみ、愛は、本日の箇所に予表、表されています。それが6節、7節です。主は彼の前を通り過ぎるとき、こう宣言された。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す。しかし、罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、三代、四代に報いる者である。」罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、三代、四代に報いる者とは、神が私たち人間の罪を裁く真実なる神、義なる正義の神のご性質が表されています。またそれは三代、四代と限定的で短い。しかし一方で、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す。と主なる神が語られているように、神を信じる者に示され、また与えられる神の憐れみ、恵み、まことは千代まで続く、つまり永遠に続くということです。その愛はイエスの受肉から始まり、十字架でクライマックスに至りました。罪によって神の祝福を失い、神の守りと養い、導きの下に生きることができなくなったのは、イスラエル民族に限りません。全ての人類も同じです。しかしそのような私たちの救いのために、主なる神は独り子イエス・キリストを、モーセ以上の執り成し手とされ、モーセには決してなれなかった救い主として遣わして下さり、私たちの罪を全てイエスに背負わせました。この主イエス・キリストこそ、「あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦される。」お方そのものです。イエスは主なる神、すなわち父なる神と同質、同じ神でもあるからです。 私たちは、イエスの十字架と復活が自分の罪のためであったと、ある日、ある時信じました。それゆえ私たちは、イエスの十字架を通して結ばれた、新しい契約、新約に一人一人が与っています。
この契約が永遠に続く契約であることを覚え、イエスの愛と慈しみを共に感謝したいと思います。
祈ります。
「見限らない主」
主は彼の前を通り過ぎるとき、こう宣言された。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す。

2026/7/19(日)「恵もうと待ち構えておられる主」出エジプト記33:12~19 庄司牧師

2026年7月19日 「恵もうと待ち構えておられる主」出エジプト記33:12~23
さて、モーセは主に言った。「ご覧ください。あなたは私に『この民を連れ上れ』と言われます。しかし、だれを私と一緒に遣わすかを知らせてくださいません。しかも、あなたご自身が、『わたしは、あなたを名指して選び出した。あなたは特にわたしの心にかなっている』と言われました。今、もしも私がみこころにかなっているのでしたら、どうかあなたの道を教えてください。そうすれば、私があなたを知ることができ、みこころにかなうようになれます。この国民があなたの民であることを心に留めてください。」主は言われた。「わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる。」モーセは言った。「もしあなたのご臨在がともに行かないのなら、私たちをここから導き上らないでください。私とあなたの民がみこころにかなっていることは、いったい何によって知られるのでしょう。それは、あなたが私たちと一緒に行き、私とあなたの民が地上のすべての民と異なり、特別に扱われることによるのではないでしょうか。」主はモーセに言われた。「あなたの言ったそのことも、わたしはしよう。あなたはわたしの心にかない、あなたを名指して選び出したのだから。」モーセは言った。「どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」主は言われた。「わたし自身、わたしのあらゆる良きものをあなたの前に通らせ、主の名であなたの前に宣言する。わたしは恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」また言われた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」また主は言われた。「見よ、わたしの傍らに一つの場所がある。あなたは岩の上に立て。わたしの栄光が通り過ぎるときには、わたしはあなたを岩の裂け目に入れる。わたしが通り過ぎるまで、この手であなたをおおっておく。わたしが手をのけると、あなたはわたしのうしろを見るが、わたしの顔は決して見られない。」
出エジプト記を少し振り返ってみたいと思います。神に特別に選ばれたイスラエル民族がエジプトで奴隷にされていましたが、モーセを通して脱出することができました。その後主なる神は、乳と蜜の流れる地と呼ばれる肥沃なカナン、神が約束された地にイスラエルを導いていかれます。 その荒野の旅の途中、シナイ山において、主なる神はイスラエルの民と契約を結んで下さいました。主なる神がイスラエルの神となり、イスラエルは神の民となる、という特別な関係となる契約です。その契約の中身は、十戒を中心とする、イスラエルが守るべき掟、戒めです。エジプトでの奴隷状態からの解放という神による救いを受けたイスラエルの民が、神の民として歩んでいくための指針、ガイドラインが、十戒を中心とする律法によって示されました。イスラエルがシナイ山まで来ると、モーセは十戒が記された石の板を、神から授かるために山に登って行きました。しかしふもとにいた民たちはモーセの帰りが遅いと不安になり、祭司アロンに自分たちを導く目に見える神を造るように要求し、アロンは金の子牛の像を造りました。人々はその金の子牛を神として拝み、その前で不品行の伴う飲めや歌えの騒ぎを始めました。主なる神、イスラエルの神を第一とする、他に像を造って拝んではならない、と言ったことが十戒には記されています。イスラエルの民はそれらの掟を既に聞いており、それを守ると約束し、その約束に基づいて、主なる神は彼らと契約を結んで下さいました。しかし契約のしるしとしての石の板をモーセが神から頂いているまさにその時、彼らは金の子牛の像を造ってそれを拝み、主なる神を裏切ってしまいました。その裏切りであり、神に犯した罪ゆえに、主はイスラエルを怒られました。神は彼らを絶ち滅ぼすとモーセに語られました。しかしモーセは神と民との間に入り、神の怒りを宥めようとします。
怒っておられる主なる神に対してモーセはこのように執り成しました。32章12~14節です。
「主よ。あなたが偉大な力と力強い御手をもって、エジプトの地から導き出されたご自分の民に向かって、どうして御怒りを燃やされるのですか。どうしてエジプト人に、『神は、彼らを山地で殺し、地の面から絶ち滅ぼすために、悪意をもって彼らを連れ出したのだ』と言わせてよいでしょうか。どうか、あなたの燃える怒りを収め、ご自身の民へのわざわいを思い直してください。あなたのしもべアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたはご自分にかけて彼らに誓い、そして彼らに、『わたしはあなたがたの子孫を空の星のように増し加え、わたしが約束したこの地すべてをあなたがたの子孫に与え、彼らは永久にこれをゆずりとして受け継ぐ』と言われました。」すると主は、その民に下すと言ったわざわいを思い直された。
神はわざわいを思い直されました。つまりモーセの執り成し、仲裁に免じて、イスラエルを絶ち滅ぼすことはしない、ということです。 イスラエルは全滅からは免れました。しかしモーセはイスラエルの聖さが保たれるために、罪を犯した者たち3000人を粛清しました。 32章の最後にこのように記されています。こうして主は民を打たれた。彼らが子牛を造ったからである。それはアロンが造ったのであった。モーセが罪を犯した人々を粛清しましたが、「こうして主は民を打たれた」とあることから、神が、罪を犯した者たちを、モーセを用いて打った、粛清した-モーセはただ、神の裁きに従ったということが分かります。神との契約を破り、神に反逆し、神を裏切る。その罪を人は刈り取らなければならない、ということがここに表されています。
そして33章に入ります。神はイスラエルを全滅させることはなさいませんでした。しかしイスラエルに対する怒りと不信はまだ収まっていないように見えます。神はこのようにモーセに語られました。33章3節です。乳と蜜の流れる地にあなたがたを行かせる。しかし、わたしは、あなたがたのただ中にあっては上らない。あなたがたはうなじを固くする民なので、わたしが途中であなたがたを絶ち滅ぼしてしまわないようにするためだ。」出エジプトの時から荒野に至るまで、神はここまでずっとイスラエルと共におられました。しかしここで神は「あなたがたのただ中にあっては上らない。」とモーセに語られました。しかし「乳と蜜の流れる地にあなたがたを行かせる。」と語られていますから、矛盾しているように見えます。 前の節、2節には、「ひとりの使いを遣わす」と語られていることから、自分はイスラエルとはもう同行しないが、代わりに御使い、天使を同行させる、とここで主は語られています。 しかしこの神の語りかけは同時に、彼らに対する憐れみと、約束は守るという誠実な態度でもあります。「もうおまえたちとは一緒にいない、うんざりだ!」という宣言のようにも聞こえますが、主なる神は、彼らを続けてカナンへと導く約束をされました。しかし良く見てみますと、このように神は語られています。「あなたがたはうなじを固くする民なので、わたしが途中であなたがたを絶ち滅ぼしてしまわないようにするためだ。」
「うなじが固い」これは、馬や牛などが首を強張らせて手綱に逆らう様子、つまり飼い主の言うことを聞かない家畜の態度から来ている表現です。このうなじが固いという表現をイスラエル民族に当てはめるならば、神に反抗的、神の御心、ご計画に逆らう姿、態度だということです。実際にイスラエルは主なる神に、また主なる神が選んだモーセに対して頑なでした。しかし裏を返せば、このうなじが固いイスラエルを、ずっと忍耐して導いて来られたのが、主なる神です。加えてこの神は、もし不正を彼らに見るならば、滅ぼさないではおられなくなる。主なる神が義なる正しいお方であるというだけでなく、それでも彼らを滅ぼしたくないという、愛と憐れみに満ちている神であることが分かります。また、神がイスラエルをエジプトから脱出させた始まりは、彼らイスラエルが、主なる神に助けて欲しいと叫んだからでした。
主は忍耐だけでなく、義なる正義の神であり、愛と憐れみに満ちた神であるということです。モーセは今までの経験から、主なる神のこのような素晴らしいご性質、また人格を、十分理解していました。また、叫び、求め、依り頼めば、それに応えて下さるということも。 そこでモーセは神の忍耐、愛、憐れみに訴えつつ、何とか自分たちと共に、カナンの地まで同行して下さるようにと訴えている、それが本日の箇所です。
モーセはこのように主なる神に言いました。「ご覧ください。あなたは私に『この民を連れ上れ』と言われます。しかし、だれを私と一緒に遣わすかを知らせてくださいません。私はあなたたちとは一緒に行かないと、主がイスラエルに対して怒りと不信を表しておられた時、それにも関わらず御使いを送ると主は語られました。しかしこの時点ではまた御使いが送られていませんでした。そこでモーセは御使いなり、誰かイスラエルに同行してくれる存在を、神に確認しました。しかしモーセは次にこのように語りました。しかも、あなたご自身が、『わたしは、あなたを名指して選び出した。あなたは特にわたしの心にかなっている』と言われました。イスラエルに同行してくれる存在を確認する中で主に語った言葉としては、何か不自然な言い回しです。おそらくモーセは、ここでこのような含みを持たせていると思います。「そもそも彼らイスラエルをエジプトから脱出させるために、私をリーダーに任命したのはあなたであり、それがあなたの御心ですよね。私はそのように信じています。」モーセはその確信を持ってさらに主に語りかけている。それが13節です。今、もしも私がみこころにかなっているのでしたら、どうかあなたの道を教えてください。そうすれば、私があなたを知ることができ、みこころにかなうようになれます。この国民があなたの民であることを心に留めてください。」「もしも私がみこころにかなっているのでしたら」とモーセは謙虚に言っていますが、主が自分を選ばれたこと。またイスラエルも神の民として選ばれていることを確信しています。だからこそモーセは、「この国民があなたの民であることを心に留めてください。」と、言うことができました。「イスラエルはあなたの国民です。だから彼らと一緒にカナンの地へと同行して下さい。」これがモーセの本当に言いたいこと、本音です。御使いではなく、主なる神ご自身が自分たちと一緒にいて下さる、すなわち「臨在」されるようにと執り成しています。しかしモーセのこの本当の願いに対して、神はこのように答えられました。主は言われた。「わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる。」これはモーセにとって素晴らしい約束です。モーセはかつて、反逆のイスラエルから何度も不平不満を言われ、挙句の果てには殺されそうになったこともありました。モーセは彼らを率いることに疲れ、「もう十分です。私を殺して下さい!」とまで主に訴えたこともありました。そこで以前のモーセであったならば、主が私と共にいて下さる。休ませて下さる。ありがとう、感謝します、となったでしょう。そこでモーセは、イスラエルを導く働きを終わらせていたかもしれません。しかしモーセはさらに執り成し続けました。
モーセは言った。「もしあなたのご臨在がともに行かないのなら、私たちをここから導き上らないでください。私とあなたの民がみこころにかなっていることは、いったい何によって知られるのでしょう。それは、あなたが私たちと一緒に行き、私とあなたの民が地上のすべての民と異なり、特別に扱われることによるのではないでしょうか。」 「あなたが私たちイスラエル民族を奴隷の地であるエジプトから導き出した時点で、イスラエル民族は特別な民とされています。そして彼らが特別な民とされている証拠が、しるしが、証が、あなたが共にいて下さるという、「臨在」です。だから他の民族とも区別されるように、いや、すでに区別されているイスラエルと共に歩んで下さい。彼らの罪を赦し、これからも導いて下さい。」とモーセは執拗に主に訴えます。その結果が17節です。主はモーセに言われた。「あなたの言ったそのことも、わたしはしよう。あなたはわたしの心にかない、あなたを名指して選び出したのだから。」モーセの執拗な執り成しは実を結びました。イスラエルは偶像を造って拝み、神との契約を破りました。神に対して罪を犯しました。その罪を、咎を、主なる神は赦され、これからもイスラエル民族と共に、約束の地であるカナンに同行すると約束して下さいました。モーセは主なる神が約束されたことを受けて、そのしるし-神の栄光-神だけが持つ主権、尊厳、力、輝き、人格、神が持っておられる素晴らしさの全てを求めました。神がその栄光を見せて下さるのであれば、私たちと共にカナンの地へと同行されることのしるしになる。神はモーセの求めに答えられました。しかし主の栄光を目の当たりにすると人間は死んでしまいます。そこで神の栄光の一部を「後ろ姿」という形でモーセに表すと語って下さいました。この時主はこのように語られました。「わたしは恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」これは主なる神の主権が表されていることばです。神が恵もうと思う者がいる。神が憐れもうと思う者がいる。そのような神の選びが表されています。イスラエルはまさに一方的に神の恵みの中で選ばれました。またイスラエルを赦してくれるようにモーセが執り成し、神はそれに答えられましたが、それは主なる神の恵み、憐れみでした。神はモーセの願いに応える必要はありませんでしたが、モーセに応えて下さいました。それはモーセもイスラエルも、主が恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思うものを憐れむ、という神の選び、神の主権、神のご計画があったからです。主なる神の主権と選び、恵みと憐みがあって、イスラエル民族は存続することができました。そしてイスラエルが存続し、滅ぼされなかったことを通して、救い主、イエス・キリストがイスラエル民族の中からお生まれになりました。イスラエルが滅ぼされなかったのも主なる神のご計画であり、モーセの執り成しに応えられたことも、主なる神の主権、恵み、計画があったからでした。
モーセはイエス・キリストのひな型、モデルであると言われます。モーセがイスラエルの民たちが滅びないように執り成し、祈り、主の怒りを宥めました。それはすなわち、イエス・キリストがされたことと同じです。神から離れ、反逆し、自己中心的に生きる、すなわち罪に生きる私たち一人一人を、神に赦して頂くように、父なる神に執り成し祈って下さいました。今も祈って下さっています。 しかしモーセと決定的に異なるのは、ご自分の身をもって、堕落してしまった私たち人間のために、人類のために、ご自身の体、また全存在を通して執り成して下さったことです。それが十字架による私たち罪の身代わりであり、贖いです。
わたしは恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。主なる神は、一方的に選んで下さった私たち一人一人に、愛と恵みをもって日々導いて下さっています。そして私たちの主、イエス・キリストから、この恵みと憐れみがいつも私たちに注がれています。主なる神に、そしてイエスに感謝しつつ、神の恵みの中に共に生き、また、共に生かされていきたいと思います。
祈ります。「恵もうと待ち構えておられる主」
主は言われた。「わたし自身、わたしのあらゆる良きものをあなたの前に通らせ、主の名であなたの前に宣言する。わたしは恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」

2026/2/22(日)「取り戻すために捨てる」出エジプト33:1~5 庄司牧師

2026年2月22日 「取り戻すために捨てる」 出エジプト33:1~6
主はモーセに言われた。「あなたも、あなたがエジプトの地から連れ上った民も、ここから上って行って、わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓って、『これをあなたの子孫に与える』と言った地に行け。わたしはあなたがたの前に一人の使いを遣わし、カナン人、アモリ人、ヒッタイト人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人を追い払い、乳と蜜の流れる地にあなたがたを行かせる。しかし、わたしは、あなたがたのただ中にあっては上らない。あなたがたはうなじを固くする民なので、わたしが途中であなたがたを絶ち滅ぼしてしまわないようにするためだ。」民はこの悪い知らせを聞いて嘆き悲しみ、一人も飾り物を身に着ける者はいなかった。主はモーセに次のように命じておられた。「イスラエルの子らに言え。『あなたがたは、うなじを固くする民だ。一時でも、あなたがたのただ中にあって上って行こうものなら、わたしはあなたがたを絶ち滅ぼしてしまうだろう。今、飾り物を身から取り外しなさい。そうすれば、あなたがたのために何をするべきかを考えよう。』」それでイスラエルの子らは、ホレブの山以後、自分の飾り物を外した。
今までの経緯を少し振り返ってみたいと思います。 イスラエルがまだエジプトで奴隷とされていた時に、主はモーセにこのように語られました。3:7,8をお読みします。後でお開き下さい。
主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみを確かに見、追い立てる者たちの前での彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを確かに知っている。わたしが下って来たのは、エジプトの手から彼らを救い出し、その地から、広く良い地、乳と蜜の流れる地に、カナン人、ヒッタイト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる場所に、彼らを導き上るためである。
神が約束された素晴らしい地であるカナン、現在のパレスチナと、そこに住んでいる民族が列挙されていますが、本日の聖書の箇所と同じです。 神はこの約束を守るためにリーダーとしてモーセを立て、実際に奴隷となっていたエジプトから、イスラエル民族を脱出させました。 神はまた、カナンの地にイスラエルを導き入れるために、この後彼らと契約を結ばれました。 その時の様子が以前共に見て来ましたが、24章に描写されています。「私の他に神があってはならない。偶像を造って拝んではならない。父と母を敬え、殺してはならない。犯してはならない。」など、10の教え戒めである十戒を中心とする教え、戒めがモーセを通じて伝えられ、彼らがそれを理解し、同意し、従うと決心してから結ばれた契約でした。この契約をもって神がイスラエルの神となり、イスラエルは神の民となるという特別な関係が結ばれた契約でもありました。
神と民の契約が結ばれた後、神はモーセをシナイ山に登らせました。さらにモーセに契約の細かい内容を伝えるためでした。それが25章から31章に記されています。 主なる神はモーセに全ての契約の内容を伝えると、最後に、契約のしるしとなる神の教えや戒めが記されている石の板を、モーセに授けました。その時の様子が31章の最後、18節に描写されています。
こうして主は、シナイ山でモーセと語り終えたとき、さとしの板を二枚、すなわち神の指で書き記された石の板をモーセにお授けになった。
モーセがシナイ山で主なる神から契約の内容を聞かされている時、山のふもとにいるイスラエルの民に起こった出来事が32章に記されています。悲惨な内容です。その出来事の結果、主なる神がイスラエルに決断されたこと、それも良くない、悲しい決断-が本日の聖書の箇所です。神がイスラエルにとって悲しい決断をされた背景は、イスラエルの民たちが犯した偶像礼拝でした。
モーセの帰りが遅い、どうかなってしまったのかと不安になったイスラエルの民は、自分たちを導く目に見える神を造るように祭司アロンに要求し、アロンは金の子牛の像を造りました。 人々はその金の子牛を神として拝み、その前で飲めや歌えの祭りを始めました。その最中にモーセが戻り、その様子を見て激しく怒りました。先ほど触れましたが、モーセが手にしていた石の板に記されている十戒には、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。あなたはいかなる像も造ってはならない。それらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない」と書かれています。 イスラエルの民はそれらの掟を既に聞いており、それを守ると約束しました。それゆえ神はイスラエルと契約を結んで下さったのです。しかしモーセが契約の印として石の板を神からいただいているまさにその時、イスラエルは金の子牛の像を造ってそれを拝むという、主なる神を裏切る罪を犯してしまいました。 この時モーセは、手にしていた石の板を砕きました。民が犯してしまった罪のために、神との契約が破綻-壊れ、台無しになってしまったということを表しています。この時神の怒りがイスラエルに向かって燃え上がり、彼らを絶ち滅ぼすとまで言われました。そこでモーセは神に執り成しました。罪を犯した民たちに代わって彼らのために祈り、神が下そうとしていた裁きが留められるように、神の憐れみを求めました。
神はモーセの執り成しの祈りに応えられ、金の子牛を拝んで、神に罪を犯した約三千人が主に打たれましたが、イスラエル民族全てが絶ち滅ぼされるという裁きは留められました。神は、罪は罪として本人に刈り取らせる義なる神であると同時に、情け深く、憐れみに富み、怒るに遅いお方であるということが表されています。
金の子牛を作って拝むというのは偶像礼拝であり、神との契約、約束を破る大きな罪でした。しかしイスラエルはそれまでにもずっと神を忍耐させて来ました。主なる神は、彼らイスラエル民族を、かつて奴隷とされていたエジプトからモーセを通して連れ出されましたが、その後、荒野におけるイスラエルの人々は、まさに主への不平、不満のオンパレードでした。しかし神はそのような彼らに対しても真実で誠実でした。 彼らイスラエルが、水がない!と言えば岩から水を出され、お腹が減ったと言えばうずらやマナ-天からのパンを降らせ、敵に攻撃されれば、その敵からも守って下さいました。 しかし彼らは神の真実、誠実さを裏切って金の子牛を作って拝むという、大きな罪を犯してしまう。彼らの自己中心的な身勝手さ、頑なで自分の思いに固執し、それを通そうと我を張る。神の御心をなかなか受け入れず、信じようとせず、従おうとしない、神からすればまことに扱いにくい、不従順な民であり、それは今に始まったことではない、ということです。 しかしそれでもモーセがいる間はモーセが神と民の間に立ち、仲介者、仲立ちをしてくれました。つまり彼らは神の御心を自ら求めるというよりも、モーセが言ったことに条件反射的に、もしくは仕方がなく従って来たという態度だったということです。その姿勢、態度が、モーセ不在の時に明らかになりました。 彼らに元々ある不信仰、不従順、自己中心性が、金の子牛を勝手に作り、神として礼拝するという偶像礼拝という形で露わにされ、明らかにされたに過ぎません。 そこで神は、彼らにショック療法を施されます。それが本日の聖書箇所です。
本日の聖書箇所の内容をまとめるならば、このようになるかもしれません。「私はあなたがたとは共に約束の地には行かない。もし一緒にいけば、あなたがたを滅ぼしてしまうかもしれない。私の代わりにあなたがたを導く御使い、天使は送る。しかし自分たち勝手にやりなさい。」
つまり本日の聖書箇所はある意味、イスラエルの民たちに対して愛想を尽かしている神がおられる、そのような場面です。 「民はこの悪い知らせを聞いて嘆き悲しみ」とありますから、主からの宣告はイスラエルにとってかなりのショックとなりました。
本日の出来事を、私たちが待ち望んでいる御国、神の国と関連させて想像して見て下さい。私たちクリスチャンが神の国に入ることができるのは、イエスが神であり、私たちの罪を赦し、神との関係を回復させて下さる救い主だと信じたからでした。 しかし私たちが自分の生涯を終えて神の国に復活の体を持って入る時、そこにイエスがおられなかったら。つまり神の気配も臨在もなかったならば。どんなに神の国が素晴らしくても神の国自身の意味も必要性も、価値もありません。
確かにイスラエルの民は不信仰で不従順でした。しかし神が共におられるということを経験してきました。出エジプトの時も、敵から守られた時も、必要な全てが与えられて来たことも。 彼らは神の臨在を肌で感じ、また経験して来ました。そしてそのショックは良い結果をもたらすことになります。 本日の聖書箇所において主なる神は、彼らに愛想を尽かしながらも、イスラエルの民を滅ぼすのではなく、以前約束されたように、彼らの祖先であるアブラハム、イサク、ヤコブに約束された土地に民を導こうとされています。しかし主ご自身はともに行かない、と言われました。その理由は神が聖なるお方であり、イスラエルの民の頑なさを見逃すことができないからです。もし彼らとカナンの地へと一緒にいて不正を見るならば、滅ぼさないではおられなくなる。神は民たちの罪を見逃すことはできない。そこで主なる神の代わりに、主の使いすなわち御使いが彼らを導くことになりました。しかし約束の地に導いてくれる御使いがどんなに偉大であり、また例え大きな力があっても、今までイスラエル民族を導いて来られた主なる神とは全く異なります。 神が自分たちとは共におられない-この時のイスラエルの人々の反応が4節に描写されています。民はこの悪い知らせを聞いて嘆き悲しみ、一人も飾り物を身に着ける者はいなかった。
彼らイスラエル民族は、これらの飾り物をどこから手にいれたのでしょうか。 この財産はイスラエルがまだエジプトで奴隷にされていた時、それも出エジプトの直前に得たものです。 神に言われた方法で、羊の血を家の鴨居と門柱に塗った者たち、すなわちイスラエル民族だけ、滅ぼす者が過ぎ去ってくれました。しかしそのことを知らなかったエジプトは、初子、すなわち初めに生まれた長男や長女、家畜に最初に生まれた子どもも含め、全て死んでしまいました。そして全エジプトで激しい泣き叫びが起こっている時に、彼らイスラエルはこのように行動しました。12章35節、36節にはこのように記されています。イスラエルの子らはモーセのことばどおりに行い、エジプトに銀の飾り、金の飾り、そして衣服を求めた。主はエジプトがこの民に好意を持つようにされたので、エジプト人は彼らの求めを聞き入れた。こうして彼らはエジプトからはぎ取った。
はぎとったとありますから、エジプト人は自分の思いを遥かに超えて、イスラエルの人々に自分の金品を与えた、与えてしまったわけです。そしてそれは主なる神から出たものでした。しかしこれらイスラエルの人々の財産となった金銀、装飾品などの財産が、金の子牛の像を作る材料になり、礼拝の対象、つまり偶像礼拝に繋がってしまいました。そこで神は、彼らの偶像礼拝の元となった財産を手放すように命じられた。それが5節です。
4節において、イスラエルの民たちは自発的に装飾品を外しました。しかしそれはあくまで神が共におられないということに対する悲しみであり、神の怒りに対する恐れなどといった感情でした。従ってこれらの行為は、神を信じ、受け入れ、従順に従っていくという信仰から出ているものではありません。あくまでも感情のレベルです。 そこで神は信仰の伴う悔い改め、すなわち神に立ち返るという方向転換を、目に見える行動を通して求められました。それが5節です。主はモーセに次のように命じておられた。「イスラエルの子らに言え。『あなたがたは、うなじを固くする民だ。一時でも、あなたがたのただ中にあって上って行こうものなら、わたしはあなたがたを絶ち滅ぼしてしまうだろう。今、飾り物を身から取り外しなさい。そうすれば、あなたがたのために何をするべきかを考えよう。』」あなたがたを絶ち滅ぼしてしまうかもしれないから、と、主はイスラエルの人々と共に行かない理由も述べておられますが、ここには同時に主の憐れみがあります。
今、飾り物を身から取り外しなさい。そうすれば、あなたがたのために何をするべきかを考えよう。
この彼らに対する主からの命令は「神のみ言葉への従順」を求めるものであり、自分たちの持っていた金や銀などが偶像礼拝の元になったことをしっかりと認識し、罪と認め、その元となった金銀、財産を自分から切り離して神に献げなさい、という命令でした。神から与えられたものですから本来は神のものであり、神にお返しすることになりますが、財産との決別という意志・決心を、行動をもって、神への献身を見える形で表しなさい、というものでした。彼らイスラエル民族は、神の悔い改めへの招きに、チャレンジ-挑戦に、憐れみと恵みに応答しました。さらにはモーセの執り成しの祈りもあり、神は「幕屋」と呼ばれるところに臨在され、モーセを介して会って下さり、イスラエル民族から離れたり、見捨てることはなされませんでした。 この幕屋は移動式のテントのようなものですが、神がイスラエルと出会う場所として、この33章に記されています。
そしてこの幕屋は、イスラエルの民たちが外し、献げた装飾品、つまり彼らの金、銀、銅などの財産が、神が住まわれる「幕屋」を作るための材料として、自発的に献げられたものから造られました。 つまり神が彼らに向けて悔い改めを命じられ、彼らイエスエルはその悔い改めへの招きに応答した結果だと言うことです。 イスラエルの不信仰、不従順、高慢の源になった金品を、神は罪の悔い改めの証としただけでなく、神が臨在される幕屋、すなわち、神のために、神の栄光のために、神が聖なる物へと変えて下さったということです。神の愛、忍耐、憐れみなど、神の素晴らしさが表されています。
神が共に行かないと言われた時、イスラエルは悲しみました。 私たちも神が自分から離れてしまっている、神が遠くに感じられるような時があります。しかし神は私たちを決して見捨てることはなさいません。 神は私たちが立ち直ることができるように、また、神に立ち返ることができる機会、チャンスを与えて下さるお方です。また同時に、私たちが神の御心からそれていかないように、いつも見守り、また実際的な導きをして下さるお方でもあります。
神がどんな時にも共にいて下さっていることを感謝し、今週も共に信仰の歩みをして行きたいと願っています。
祈ります。
「取り戻すために捨てる」(神との関係を取り戻すために、自分の執着しているものを捨てる)
それでイスラエルの子らは、ホレブの山以後、自分の飾り物を外した。
招詞 詩篇51:17
神へのいけにえは 砕かれた霊。打たれ 砕かれた心。神よ あなたはそれを蔑まれません。

「最優先事項」

2024年11月24日(日) 主日礼拝

聖書:出エジプト記 20章1~11節

説教:庄司牧師

賛美♪
 刈り入れの主を  讃美歌21 387番

応答の賛美♪
 わが主イエスよ、ひたすら  讃美歌21 483番

頌栄🌈
 天のみ民も  讃美歌21 29番

🌈聖書引用
 新日本聖書刊行会 聖書 新改訳2017 (新改訳聖書センター)