2026年7月19日 「恵もうと待ち構えておられる主」出エジプト記33:12~23
さて、モーセは主に言った。「ご覧ください。あなたは私に『この民を連れ上れ』と言われます。しかし、だれを私と一緒に遣わすかを知らせてくださいません。しかも、あなたご自身が、『わたしは、あなたを名指して選び出した。あなたは特にわたしの心にかなっている』と言われました。今、もしも私がみこころにかなっているのでしたら、どうかあなたの道を教えてください。そうすれば、私があなたを知ることができ、みこころにかなうようになれます。この国民があなたの民であることを心に留めてください。」主は言われた。「わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる。」モーセは言った。「もしあなたのご臨在がともに行かないのなら、私たちをここから導き上らないでください。私とあなたの民がみこころにかなっていることは、いったい何によって知られるのでしょう。それは、あなたが私たちと一緒に行き、私とあなたの民が地上のすべての民と異なり、特別に扱われることによるのではないでしょうか。」主はモーセに言われた。「あなたの言ったそのことも、わたしはしよう。あなたはわたしの心にかない、あなたを名指して選び出したのだから。」モーセは言った。「どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」主は言われた。「わたし自身、わたしのあらゆる良きものをあなたの前に通らせ、主の名であなたの前に宣言する。わたしは恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」また言われた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」また主は言われた。「見よ、わたしの傍らに一つの場所がある。あなたは岩の上に立て。わたしの栄光が通り過ぎるときには、わたしはあなたを岩の裂け目に入れる。わたしが通り過ぎるまで、この手であなたをおおっておく。わたしが手をのけると、あなたはわたしのうしろを見るが、わたしの顔は決して見られない。」
出エジプト記を少し振り返ってみたいと思います。神に特別に選ばれたイスラエル民族がエジプトで奴隷にされていましたが、モーセを通して脱出することができました。その後主なる神は、乳と蜜の流れる地と呼ばれる肥沃なカナン、神が約束された地にイスラエルを導いていかれます。 その荒野の旅の途中、シナイ山において、主なる神はイスラエルの民と契約を結んで下さいました。主なる神がイスラエルの神となり、イスラエルは神の民となる、という特別な関係となる契約です。その契約の中身は、十戒を中心とする、イスラエルが守るべき掟、戒めです。エジプトでの奴隷状態からの解放という神による救いを受けたイスラエルの民が、神の民として歩んでいくための指針、ガイドラインが、十戒を中心とする律法によって示されました。イスラエルがシナイ山まで来ると、モーセは十戒が記された石の板を、神から授かるために山に登って行きました。しかしふもとにいた民たちはモーセの帰りが遅いと不安になり、祭司アロンに自分たちを導く目に見える神を造るように要求し、アロンは金の子牛の像を造りました。人々はその金の子牛を神として拝み、その前で不品行の伴う飲めや歌えの騒ぎを始めました。主なる神、イスラエルの神を第一とする、他に像を造って拝んではならない、と言ったことが十戒には記されています。イスラエルの民はそれらの掟を既に聞いており、それを守ると約束し、その約束に基づいて、主なる神は彼らと契約を結んで下さいました。しかし契約のしるしとしての石の板をモーセが神から頂いているまさにその時、彼らは金の子牛の像を造ってそれを拝み、主なる神を裏切ってしまいました。その裏切りであり、神に犯した罪ゆえに、主はイスラエルを怒られました。神は彼らを絶ち滅ぼすとモーセに語られました。しかしモーセは神と民との間に入り、神の怒りを宥めようとします。
怒っておられる主なる神に対してモーセはこのように執り成しました。32章12~14節です。
「主よ。あなたが偉大な力と力強い御手をもって、エジプトの地から導き出されたご自分の民に向かって、どうして御怒りを燃やされるのですか。どうしてエジプト人に、『神は、彼らを山地で殺し、地の面から絶ち滅ぼすために、悪意をもって彼らを連れ出したのだ』と言わせてよいでしょうか。どうか、あなたの燃える怒りを収め、ご自身の民へのわざわいを思い直してください。あなたのしもべアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたはご自分にかけて彼らに誓い、そして彼らに、『わたしはあなたがたの子孫を空の星のように増し加え、わたしが約束したこの地すべてをあなたがたの子孫に与え、彼らは永久にこれをゆずりとして受け継ぐ』と言われました。」すると主は、その民に下すと言ったわざわいを思い直された。
神はわざわいを思い直されました。つまりモーセの執り成し、仲裁に免じて、イスラエルを絶ち滅ぼすことはしない、ということです。 イスラエルは全滅からは免れました。しかしモーセはイスラエルの聖さが保たれるために、罪を犯した者たち3000人を粛清しました。 32章の最後にこのように記されています。こうして主は民を打たれた。彼らが子牛を造ったからである。それはアロンが造ったのであった。モーセが罪を犯した人々を粛清しましたが、「こうして主は民を打たれた」とあることから、神が、罪を犯した者たちを、モーセを用いて打った、粛清した-モーセはただ、神の裁きに従ったということが分かります。神との契約を破り、神に反逆し、神を裏切る。その罪を人は刈り取らなければならない、ということがここに表されています。
そして33章に入ります。神はイスラエルを全滅させることはなさいませんでした。しかしイスラエルに対する怒りと不信はまだ収まっていないように見えます。神はこのようにモーセに語られました。33章3節です。乳と蜜の流れる地にあなたがたを行かせる。しかし、わたしは、あなたがたのただ中にあっては上らない。あなたがたはうなじを固くする民なので、わたしが途中であなたがたを絶ち滅ぼしてしまわないようにするためだ。」出エジプトの時から荒野に至るまで、神はここまでずっとイスラエルと共におられました。しかしここで神は「あなたがたのただ中にあっては上らない。」とモーセに語られました。しかし「乳と蜜の流れる地にあなたがたを行かせる。」と語られていますから、矛盾しているように見えます。 前の節、2節には、「ひとりの使いを遣わす」と語られていることから、自分はイスラエルとはもう同行しないが、代わりに御使い、天使を同行させる、とここで主は語られています。 しかしこの神の語りかけは同時に、彼らに対する憐れみと、約束は守るという誠実な態度でもあります。「もうおまえたちとは一緒にいない、うんざりだ!」という宣言のようにも聞こえますが、主なる神は、彼らを続けてカナンへと導く約束をされました。しかし良く見てみますと、このように神は語られています。「あなたがたはうなじを固くする民なので、わたしが途中であなたがたを絶ち滅ぼしてしまわないようにするためだ。」
「うなじが固い」これは、馬や牛などが首を強張らせて手綱に逆らう様子、つまり飼い主の言うことを聞かない家畜の態度から来ている表現です。このうなじが固いという表現をイスラエル民族に当てはめるならば、神に反抗的、神の御心、ご計画に逆らう姿、態度だということです。実際にイスラエルは主なる神に、また主なる神が選んだモーセに対して頑なでした。しかし裏を返せば、このうなじが固いイスラエルを、ずっと忍耐して導いて来られたのが、主なる神です。加えてこの神は、もし不正を彼らに見るならば、滅ぼさないではおられなくなる。主なる神が義なる正しいお方であるというだけでなく、それでも彼らを滅ぼしたくないという、愛と憐れみに満ちている神であることが分かります。また、神がイスラエルをエジプトから脱出させた始まりは、彼らイスラエルが、主なる神に助けて欲しいと叫んだからでした。
主は忍耐だけでなく、義なる正義の神であり、愛と憐れみに満ちた神であるということです。モーセは今までの経験から、主なる神のこのような素晴らしいご性質、また人格を、十分理解していました。また、叫び、求め、依り頼めば、それに応えて下さるということも。 そこでモーセは神の忍耐、愛、憐れみに訴えつつ、何とか自分たちと共に、カナンの地まで同行して下さるようにと訴えている、それが本日の箇所です。
モーセはこのように主なる神に言いました。「ご覧ください。あなたは私に『この民を連れ上れ』と言われます。しかし、だれを私と一緒に遣わすかを知らせてくださいません。私はあなたたちとは一緒に行かないと、主がイスラエルに対して怒りと不信を表しておられた時、それにも関わらず御使いを送ると主は語られました。しかしこの時点ではまた御使いが送られていませんでした。そこでモーセは御使いなり、誰かイスラエルに同行してくれる存在を、神に確認しました。しかしモーセは次にこのように語りました。しかも、あなたご自身が、『わたしは、あなたを名指して選び出した。あなたは特にわたしの心にかなっている』と言われました。イスラエルに同行してくれる存在を確認する中で主に語った言葉としては、何か不自然な言い回しです。おそらくモーセは、ここでこのような含みを持たせていると思います。「そもそも彼らイスラエルをエジプトから脱出させるために、私をリーダーに任命したのはあなたであり、それがあなたの御心ですよね。私はそのように信じています。」モーセはその確信を持ってさらに主に語りかけている。それが13節です。今、もしも私がみこころにかなっているのでしたら、どうかあなたの道を教えてください。そうすれば、私があなたを知ることができ、みこころにかなうようになれます。この国民があなたの民であることを心に留めてください。」「もしも私がみこころにかなっているのでしたら」とモーセは謙虚に言っていますが、主が自分を選ばれたこと。またイスラエルも神の民として選ばれていることを確信しています。だからこそモーセは、「この国民があなたの民であることを心に留めてください。」と、言うことができました。「イスラエルはあなたの国民です。だから彼らと一緒にカナンの地へと同行して下さい。」これがモーセの本当に言いたいこと、本音です。御使いではなく、主なる神ご自身が自分たちと一緒にいて下さる、すなわち「臨在」されるようにと執り成しています。しかしモーセのこの本当の願いに対して、神はこのように答えられました。主は言われた。「わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる。」これはモーセにとって素晴らしい約束です。モーセはかつて、反逆のイスラエルから何度も不平不満を言われ、挙句の果てには殺されそうになったこともありました。モーセは彼らを率いることに疲れ、「もう十分です。私を殺して下さい!」とまで主に訴えたこともありました。そこで以前のモーセであったならば、主が私と共にいて下さる。休ませて下さる。ありがとう、感謝します、となったでしょう。そこでモーセは、イスラエルを導く働きを終わらせていたかもしれません。しかしモーセはさらに執り成し続けました。
モーセは言った。「もしあなたのご臨在がともに行かないのなら、私たちをここから導き上らないでください。私とあなたの民がみこころにかなっていることは、いったい何によって知られるのでしょう。それは、あなたが私たちと一緒に行き、私とあなたの民が地上のすべての民と異なり、特別に扱われることによるのではないでしょうか。」 「あなたが私たちイスラエル民族を奴隷の地であるエジプトから導き出した時点で、イスラエル民族は特別な民とされています。そして彼らが特別な民とされている証拠が、しるしが、証が、あなたが共にいて下さるという、「臨在」です。だから他の民族とも区別されるように、いや、すでに区別されているイスラエルと共に歩んで下さい。彼らの罪を赦し、これからも導いて下さい。」とモーセは執拗に主に訴えます。その結果が17節です。主はモーセに言われた。「あなたの言ったそのことも、わたしはしよう。あなたはわたしの心にかない、あなたを名指して選び出したのだから。」モーセの執拗な執り成しは実を結びました。イスラエルは偶像を造って拝み、神との契約を破りました。神に対して罪を犯しました。その罪を、咎を、主なる神は赦され、これからもイスラエル民族と共に、約束の地であるカナンに同行すると約束して下さいました。モーセは主なる神が約束されたことを受けて、そのしるし-神の栄光-神だけが持つ主権、尊厳、力、輝き、人格、神が持っておられる素晴らしさの全てを求めました。神がその栄光を見せて下さるのであれば、私たちと共にカナンの地へと同行されることのしるしになる。神はモーセの求めに答えられました。しかし主の栄光を目の当たりにすると人間は死んでしまいます。そこで神の栄光の一部を「後ろ姿」という形でモーセに表すと語って下さいました。この時主はこのように語られました。「わたしは恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」これは主なる神の主権が表されていることばです。神が恵もうと思う者がいる。神が憐れもうと思う者がいる。そのような神の選びが表されています。イスラエルはまさに一方的に神の恵みの中で選ばれました。またイスラエルを赦してくれるようにモーセが執り成し、神はそれに答えられましたが、それは主なる神の恵み、憐れみでした。神はモーセの願いに応える必要はありませんでしたが、モーセに応えて下さいました。それはモーセもイスラエルも、主が恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思うものを憐れむ、という神の選び、神の主権、神のご計画があったからです。主なる神の主権と選び、恵みと憐みがあって、イスラエル民族は存続することができました。そしてイスラエルが存続し、滅ぼされなかったことを通して、救い主、イエス・キリストがイスラエル民族の中からお生まれになりました。イスラエルが滅ぼされなかったのも主なる神のご計画であり、モーセの執り成しに応えられたことも、主なる神の主権、恵み、計画があったからでした。
モーセはイエス・キリストのひな型、モデルであると言われます。モーセがイスラエルの民たちが滅びないように執り成し、祈り、主の怒りを宥めました。それはすなわち、イエス・キリストがされたことと同じです。神から離れ、反逆し、自己中心的に生きる、すなわち罪に生きる私たち一人一人を、神に赦して頂くように、父なる神に執り成し祈って下さいました。今も祈って下さっています。 しかしモーセと決定的に異なるのは、ご自分の身をもって、堕落してしまった私たち人間のために、人類のために、ご自身の体、また全存在を通して執り成して下さったことです。それが十字架による私たち罪の身代わりであり、贖いです。
わたしは恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。主なる神は、一方的に選んで下さった私たち一人一人に、愛と恵みをもって日々導いて下さっています。そして私たちの主、イエス・キリストから、この恵みと憐れみがいつも私たちに注がれています。主なる神に、そしてイエスに感謝しつつ、神の恵みの中に共に生き、また、共に生かされていきたいと思います。
祈ります。「恵もうと待ち構えておられる主」
主は言われた。「わたし自身、わたしのあらゆる良きものをあなたの前に通らせ、主の名であなたの前に宣言する。わたしは恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」
さて、モーセは主に言った。「ご覧ください。あなたは私に『この民を連れ上れ』と言われます。しかし、だれを私と一緒に遣わすかを知らせてくださいません。しかも、あなたご自身が、『わたしは、あなたを名指して選び出した。あなたは特にわたしの心にかなっている』と言われました。今、もしも私がみこころにかなっているのでしたら、どうかあなたの道を教えてください。そうすれば、私があなたを知ることができ、みこころにかなうようになれます。この国民があなたの民であることを心に留めてください。」主は言われた。「わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる。」モーセは言った。「もしあなたのご臨在がともに行かないのなら、私たちをここから導き上らないでください。私とあなたの民がみこころにかなっていることは、いったい何によって知られるのでしょう。それは、あなたが私たちと一緒に行き、私とあなたの民が地上のすべての民と異なり、特別に扱われることによるのではないでしょうか。」主はモーセに言われた。「あなたの言ったそのことも、わたしはしよう。あなたはわたしの心にかない、あなたを名指して選び出したのだから。」モーセは言った。「どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」主は言われた。「わたし自身、わたしのあらゆる良きものをあなたの前に通らせ、主の名であなたの前に宣言する。わたしは恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」また言われた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」また主は言われた。「見よ、わたしの傍らに一つの場所がある。あなたは岩の上に立て。わたしの栄光が通り過ぎるときには、わたしはあなたを岩の裂け目に入れる。わたしが通り過ぎるまで、この手であなたをおおっておく。わたしが手をのけると、あなたはわたしのうしろを見るが、わたしの顔は決して見られない。」
出エジプト記を少し振り返ってみたいと思います。神に特別に選ばれたイスラエル民族がエジプトで奴隷にされていましたが、モーセを通して脱出することができました。その後主なる神は、乳と蜜の流れる地と呼ばれる肥沃なカナン、神が約束された地にイスラエルを導いていかれます。 その荒野の旅の途中、シナイ山において、主なる神はイスラエルの民と契約を結んで下さいました。主なる神がイスラエルの神となり、イスラエルは神の民となる、という特別な関係となる契約です。その契約の中身は、十戒を中心とする、イスラエルが守るべき掟、戒めです。エジプトでの奴隷状態からの解放という神による救いを受けたイスラエルの民が、神の民として歩んでいくための指針、ガイドラインが、十戒を中心とする律法によって示されました。イスラエルがシナイ山まで来ると、モーセは十戒が記された石の板を、神から授かるために山に登って行きました。しかしふもとにいた民たちはモーセの帰りが遅いと不安になり、祭司アロンに自分たちを導く目に見える神を造るように要求し、アロンは金の子牛の像を造りました。人々はその金の子牛を神として拝み、その前で不品行の伴う飲めや歌えの騒ぎを始めました。主なる神、イスラエルの神を第一とする、他に像を造って拝んではならない、と言ったことが十戒には記されています。イスラエルの民はそれらの掟を既に聞いており、それを守ると約束し、その約束に基づいて、主なる神は彼らと契約を結んで下さいました。しかし契約のしるしとしての石の板をモーセが神から頂いているまさにその時、彼らは金の子牛の像を造ってそれを拝み、主なる神を裏切ってしまいました。その裏切りであり、神に犯した罪ゆえに、主はイスラエルを怒られました。神は彼らを絶ち滅ぼすとモーセに語られました。しかしモーセは神と民との間に入り、神の怒りを宥めようとします。
怒っておられる主なる神に対してモーセはこのように執り成しました。32章12~14節です。
「主よ。あなたが偉大な力と力強い御手をもって、エジプトの地から導き出されたご自分の民に向かって、どうして御怒りを燃やされるのですか。どうしてエジプト人に、『神は、彼らを山地で殺し、地の面から絶ち滅ぼすために、悪意をもって彼らを連れ出したのだ』と言わせてよいでしょうか。どうか、あなたの燃える怒りを収め、ご自身の民へのわざわいを思い直してください。あなたのしもべアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたはご自分にかけて彼らに誓い、そして彼らに、『わたしはあなたがたの子孫を空の星のように増し加え、わたしが約束したこの地すべてをあなたがたの子孫に与え、彼らは永久にこれをゆずりとして受け継ぐ』と言われました。」すると主は、その民に下すと言ったわざわいを思い直された。
神はわざわいを思い直されました。つまりモーセの執り成し、仲裁に免じて、イスラエルを絶ち滅ぼすことはしない、ということです。 イスラエルは全滅からは免れました。しかしモーセはイスラエルの聖さが保たれるために、罪を犯した者たち3000人を粛清しました。 32章の最後にこのように記されています。こうして主は民を打たれた。彼らが子牛を造ったからである。それはアロンが造ったのであった。モーセが罪を犯した人々を粛清しましたが、「こうして主は民を打たれた」とあることから、神が、罪を犯した者たちを、モーセを用いて打った、粛清した-モーセはただ、神の裁きに従ったということが分かります。神との契約を破り、神に反逆し、神を裏切る。その罪を人は刈り取らなければならない、ということがここに表されています。
そして33章に入ります。神はイスラエルを全滅させることはなさいませんでした。しかしイスラエルに対する怒りと不信はまだ収まっていないように見えます。神はこのようにモーセに語られました。33章3節です。乳と蜜の流れる地にあなたがたを行かせる。しかし、わたしは、あなたがたのただ中にあっては上らない。あなたがたはうなじを固くする民なので、わたしが途中であなたがたを絶ち滅ぼしてしまわないようにするためだ。」出エジプトの時から荒野に至るまで、神はここまでずっとイスラエルと共におられました。しかしここで神は「あなたがたのただ中にあっては上らない。」とモーセに語られました。しかし「乳と蜜の流れる地にあなたがたを行かせる。」と語られていますから、矛盾しているように見えます。 前の節、2節には、「ひとりの使いを遣わす」と語られていることから、自分はイスラエルとはもう同行しないが、代わりに御使い、天使を同行させる、とここで主は語られています。 しかしこの神の語りかけは同時に、彼らに対する憐れみと、約束は守るという誠実な態度でもあります。「もうおまえたちとは一緒にいない、うんざりだ!」という宣言のようにも聞こえますが、主なる神は、彼らを続けてカナンへと導く約束をされました。しかし良く見てみますと、このように神は語られています。「あなたがたはうなじを固くする民なので、わたしが途中であなたがたを絶ち滅ぼしてしまわないようにするためだ。」
「うなじが固い」これは、馬や牛などが首を強張らせて手綱に逆らう様子、つまり飼い主の言うことを聞かない家畜の態度から来ている表現です。このうなじが固いという表現をイスラエル民族に当てはめるならば、神に反抗的、神の御心、ご計画に逆らう姿、態度だということです。実際にイスラエルは主なる神に、また主なる神が選んだモーセに対して頑なでした。しかし裏を返せば、このうなじが固いイスラエルを、ずっと忍耐して導いて来られたのが、主なる神です。加えてこの神は、もし不正を彼らに見るならば、滅ぼさないではおられなくなる。主なる神が義なる正しいお方であるというだけでなく、それでも彼らを滅ぼしたくないという、愛と憐れみに満ちている神であることが分かります。また、神がイスラエルをエジプトから脱出させた始まりは、彼らイスラエルが、主なる神に助けて欲しいと叫んだからでした。
主は忍耐だけでなく、義なる正義の神であり、愛と憐れみに満ちた神であるということです。モーセは今までの経験から、主なる神のこのような素晴らしいご性質、また人格を、十分理解していました。また、叫び、求め、依り頼めば、それに応えて下さるということも。 そこでモーセは神の忍耐、愛、憐れみに訴えつつ、何とか自分たちと共に、カナンの地まで同行して下さるようにと訴えている、それが本日の箇所です。
モーセはこのように主なる神に言いました。「ご覧ください。あなたは私に『この民を連れ上れ』と言われます。しかし、だれを私と一緒に遣わすかを知らせてくださいません。私はあなたたちとは一緒に行かないと、主がイスラエルに対して怒りと不信を表しておられた時、それにも関わらず御使いを送ると主は語られました。しかしこの時点ではまた御使いが送られていませんでした。そこでモーセは御使いなり、誰かイスラエルに同行してくれる存在を、神に確認しました。しかしモーセは次にこのように語りました。しかも、あなたご自身が、『わたしは、あなたを名指して選び出した。あなたは特にわたしの心にかなっている』と言われました。イスラエルに同行してくれる存在を確認する中で主に語った言葉としては、何か不自然な言い回しです。おそらくモーセは、ここでこのような含みを持たせていると思います。「そもそも彼らイスラエルをエジプトから脱出させるために、私をリーダーに任命したのはあなたであり、それがあなたの御心ですよね。私はそのように信じています。」モーセはその確信を持ってさらに主に語りかけている。それが13節です。今、もしも私がみこころにかなっているのでしたら、どうかあなたの道を教えてください。そうすれば、私があなたを知ることができ、みこころにかなうようになれます。この国民があなたの民であることを心に留めてください。」「もしも私がみこころにかなっているのでしたら」とモーセは謙虚に言っていますが、主が自分を選ばれたこと。またイスラエルも神の民として選ばれていることを確信しています。だからこそモーセは、「この国民があなたの民であることを心に留めてください。」と、言うことができました。「イスラエルはあなたの国民です。だから彼らと一緒にカナンの地へと同行して下さい。」これがモーセの本当に言いたいこと、本音です。御使いではなく、主なる神ご自身が自分たちと一緒にいて下さる、すなわち「臨在」されるようにと執り成しています。しかしモーセのこの本当の願いに対して、神はこのように答えられました。主は言われた。「わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる。」これはモーセにとって素晴らしい約束です。モーセはかつて、反逆のイスラエルから何度も不平不満を言われ、挙句の果てには殺されそうになったこともありました。モーセは彼らを率いることに疲れ、「もう十分です。私を殺して下さい!」とまで主に訴えたこともありました。そこで以前のモーセであったならば、主が私と共にいて下さる。休ませて下さる。ありがとう、感謝します、となったでしょう。そこでモーセは、イスラエルを導く働きを終わらせていたかもしれません。しかしモーセはさらに執り成し続けました。
モーセは言った。「もしあなたのご臨在がともに行かないのなら、私たちをここから導き上らないでください。私とあなたの民がみこころにかなっていることは、いったい何によって知られるのでしょう。それは、あなたが私たちと一緒に行き、私とあなたの民が地上のすべての民と異なり、特別に扱われることによるのではないでしょうか。」 「あなたが私たちイスラエル民族を奴隷の地であるエジプトから導き出した時点で、イスラエル民族は特別な民とされています。そして彼らが特別な民とされている証拠が、しるしが、証が、あなたが共にいて下さるという、「臨在」です。だから他の民族とも区別されるように、いや、すでに区別されているイスラエルと共に歩んで下さい。彼らの罪を赦し、これからも導いて下さい。」とモーセは執拗に主に訴えます。その結果が17節です。主はモーセに言われた。「あなたの言ったそのことも、わたしはしよう。あなたはわたしの心にかない、あなたを名指して選び出したのだから。」モーセの執拗な執り成しは実を結びました。イスラエルは偶像を造って拝み、神との契約を破りました。神に対して罪を犯しました。その罪を、咎を、主なる神は赦され、これからもイスラエル民族と共に、約束の地であるカナンに同行すると約束して下さいました。モーセは主なる神が約束されたことを受けて、そのしるし-神の栄光-神だけが持つ主権、尊厳、力、輝き、人格、神が持っておられる素晴らしさの全てを求めました。神がその栄光を見せて下さるのであれば、私たちと共にカナンの地へと同行されることのしるしになる。神はモーセの求めに答えられました。しかし主の栄光を目の当たりにすると人間は死んでしまいます。そこで神の栄光の一部を「後ろ姿」という形でモーセに表すと語って下さいました。この時主はこのように語られました。「わたしは恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」これは主なる神の主権が表されていることばです。神が恵もうと思う者がいる。神が憐れもうと思う者がいる。そのような神の選びが表されています。イスラエルはまさに一方的に神の恵みの中で選ばれました。またイスラエルを赦してくれるようにモーセが執り成し、神はそれに答えられましたが、それは主なる神の恵み、憐れみでした。神はモーセの願いに応える必要はありませんでしたが、モーセに応えて下さいました。それはモーセもイスラエルも、主が恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思うものを憐れむ、という神の選び、神の主権、神のご計画があったからです。主なる神の主権と選び、恵みと憐みがあって、イスラエル民族は存続することができました。そしてイスラエルが存続し、滅ぼされなかったことを通して、救い主、イエス・キリストがイスラエル民族の中からお生まれになりました。イスラエルが滅ぼされなかったのも主なる神のご計画であり、モーセの執り成しに応えられたことも、主なる神の主権、恵み、計画があったからでした。
モーセはイエス・キリストのひな型、モデルであると言われます。モーセがイスラエルの民たちが滅びないように執り成し、祈り、主の怒りを宥めました。それはすなわち、イエス・キリストがされたことと同じです。神から離れ、反逆し、自己中心的に生きる、すなわち罪に生きる私たち一人一人を、神に赦して頂くように、父なる神に執り成し祈って下さいました。今も祈って下さっています。 しかしモーセと決定的に異なるのは、ご自分の身をもって、堕落してしまった私たち人間のために、人類のために、ご自身の体、また全存在を通して執り成して下さったことです。それが十字架による私たち罪の身代わりであり、贖いです。
わたしは恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。主なる神は、一方的に選んで下さった私たち一人一人に、愛と恵みをもって日々導いて下さっています。そして私たちの主、イエス・キリストから、この恵みと憐れみがいつも私たちに注がれています。主なる神に、そしてイエスに感謝しつつ、神の恵みの中に共に生き、また、共に生かされていきたいと思います。
祈ります。「恵もうと待ち構えておられる主」
主は言われた。「わたし自身、わたしのあらゆる良きものをあなたの前に通らせ、主の名であなたの前に宣言する。わたしは恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」