ルカ

2026/4/12(日)「聖霊の働きをどのように受けることができますか?」ルカ:11:9,13

2026年4月12日 問40 あなたは聖霊のはたらきをどのようにして受けることができますか。聖霊の働きをどのように受けることができますか? 招詞 箴言8:17
答 それは、私たちが聖霊を与えてくださいと祈り求めることによってです。                             
本日の聖書箇所は、祈りと聖霊の関係が記されています。聖霊とは、父なる神、子なるイエス・キリストと並ぶ、三位一体の第三の位格である神ご自身です。また、父と子と聖霊は一つの神です。三位一体の神は、私たち人間が理性的に、また完全に納得して理解することのできない神の深さ、豊かさを表していると言えます。 聖霊は霊ですから形はなく、風や息のように目に見えずに働かれます。また「助け主」や「慰め主」とも呼ばれ、神、すなわちイエスを信じる全ての人々に内住、内に住んで下さり、正しい道へと導く役割を果たします。
それではこれから、本日の聖書箇所の9節と13節を含む、イエスが一連の譬えで語っておられる5節から13節を見てみたいと思いますが、交読、交互に読みたいと思います。私が奇数節、皆さんは偶数節、そして最後の13節は一緒に読みましょう。ルカの福音書11:5~13
当時の旅行は徒歩でした。昼の暑さを避けて、夕方から夜にかけて旅をすることがあったため、旅人が夜中に友人宅に到着することがあったようです。また当時の旅行は空腹や渇きによって倒れたり、盗賊などに出会うこともあり、命がけでした。ですから旅人に食べ物を与えるというのは、歓迎してごちそうすると言うよりも、その人の命を助けるという意味を持っていたようです。しかしながら真夜中に、友人の友人にパンを貸してくれと頼まれても、面倒であり、迷惑な話です。しかししつこく頼めば、必要なものが与えられるだろうと、イエスは譬えを通して語られました。そしてイエスは11節から13節において、仕方なく友人にパンを与えた人の態度と、天の父が求める人に必要なものを与える態度の決定的な違いを、親と子の関係から語られました。 そのことをイエスは11、12節において、子どもが魚を求めているのに、魚の代わりに蛇を与えるような父親がいるでしょうか。卵を求めているのに、サソリを与えるような父親がいるでしょうか。と、言われました。親であれば、魚を欲しがる子供に蛇を与えたり、卵を欲しがるのにさそりを与えたりはしない。子どもに対して恐ろしいもの、害を与えるような親はいないと言われました。イエスは続けて13節において、「あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っています。」と言われました。「あなたがたは悪い者であっても」というのは、罪があり、欠けが多く、弱さをかかえているあなたがた人間は、ということです。確かに私たちは、神をないがしろにし、隣人を自分の利害なしに本当に愛することできない罪人です。しかしそんな私たちですら自分の子どもは愛しており、精一杯自分なりに良い物を与えようとします。
そして13節が注目すべきところです。「それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。」これこそがイエスが言おうとしておられることです。つまりイエスは、欠けのある人間の親でさえ子どもに対する愛を持ち、子どもに良い物を与えようとする。しかしそれよりもはるかに大きく深く広い愛を持っておられる天の父は、ご自分に求める者たちに最高で、最善の物を与えて下さる。それが聖霊だ!ということです。私たち人間は、たとえ友人であっても、損得勘定や利害関係などによって動くような者です。それが、「悪い者である」とイエスが言われる私たちの姿ではないでしょうか。しかしながら悪い者である人間であっても、親は子に、その求める物をできるだけ与える。しかし天の父は、不純な動機や損得勘定などによってではなく、またいやいやながらでもなく、喜んで、求める者に良い物を与えて下さるのだ、と、イエスはここで強調されています。そして注目すべき13節において最も大切なことは、「天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」と言われていることです。                 聖霊を与えてくださるとはどういうことでしょうか。聖霊が与えられることによって私たちはどうなるのでしょうか。そのことが新約聖書、ローマ人への手紙の第8章14、15節に記されています。神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。御霊、即ち聖霊は私たちを「神の子」にして下さるということです。そして私たちは父なる神を自分の霊的な親として、「アバ、父-すなわち、お父ちゃん」と親しく呼びかけ、祈る者とされることができる、また、すでにそのような者にされているということがここに表されています。 聖霊は、イエスを信じる私たちを、救い主イエス・キリストと結びつけ、それによって私たちを神の子とし、神に向かって「父よ」と呼びかけて祈る者として下さるということです。聖霊こそ、神が私たちに与えて下さる最も良いものであり、良いものの中心です。それは神と人間の絆を生み出し、天の父が私たちのお父さんになって下さるということです。 この親子関係以上の関係をもって、私たちは天の父が必要なもの、最も良いものを与えて下さると信頼して祈り求めることができます。天の父に信頼して祈る態度をイエスは10節で、「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれでも、求める者は手に入れ、探す者は見出し、たたく者には開かれます。」という態度として表されました。また、この時制は現在進行形になっています。すなわち、求め続けなさい。探し続けなさい。たたき続けなさい。と、天の父を信じて祈り求める私たち信仰者のあり方をイエスは示され、また励ましておられます。 また、私たちに人間においても、子どもを本当に愛している親は、今この子に何が必要であるかを考え、必要なものを必要な時に与えようとします。子どもが求めても、今は与えるべきでない、今はその時でないと考えれば、「だめ」と言います。我慢させます。子どもは、自分の願いを聞いてくれないことで親を恨んだりすることもあるかもしれませんが、それは子どもの最善を考え、願っているからです。私たち罪ある人間の親子関係においてさえそういうことであるならば、天の父、まことの父となって下さる神は私たちに、本当に必要なものを、必要な時に与えて下さいます。しかし自分の願い通りに求めているものが与えられず、苦しまなければならないときでも、聖霊はそれが神のみ旨であり、最善であると理解させ、忍耐して待ち望む力も与えて下さいます。                                     また聖霊は私たち人間を滅びから救って下さる働きをして下さいます。神に反逆し、神から離れ、罪を犯してしまった人間の行く先は滅びであると聖書に記されています。神との永遠の別離です。イエスを主と告白する-すなわちイエスが、自分が信じて従っていく神であるという決心であり告白は、聖霊の助け、力がなければ、罪ある人間にはできない、と言うことを前回見ました。救いはイエス・キリストにしかないと聖書に記されていますから、聖霊が人間を滅びから救って下さる働きをされておられるのが分かります。そしてこの滅びから救われた者は、天の父なる神がその人の父となり、神の子となる身分が与えられる。イエスを信じ、罪赦され救われた一人一人が神の子であるという証印、印、保証になって下さるのも聖霊であると、聖書に記され、また約束されています。日々神の御心を知り、悟るためにどうしても必要な聖書の理解も、聖霊が助けて下さいます。 さらに私たちがイエスの体である教会に繋がり、イエスを目指して成長していくことができるための助け、力も聖霊が与えて下さいます。すなわち聖霊とは、私たちが罪から救われる上で最も大切な働きをして下さり、また、神を信じる一人一人がイエスの体である教会に繋がり、イエスを目指して成長していくことができるよう、日々の歩みを支え、助けて下さる存在でもあります。私たちは聖霊を通して神の子とされ、父となって下さった父なる神に信頼し、必要なものを祈り求めることが出来ます。それは罪を犯す前に持っていた、神と人間との麗しい関係が回復されているからこそ、できることでもあります。 神は人間をご自身のかたちに似せて創造されました。(知情意、善悪を判断、三位一体の交わりに生きる-他者と生きる人間も同じ、芸術のような美的センス、創造性など)神と人間は完全な愛と調和を持っていました。しかし人類の祖先であるアダムとエバが罪を犯し、その罪から死が入り、全人類に広がったと聖書は記しています。以前召天者記念礼拝でお話したと思いますが、人間が死を恐れるのは、死が不自然だからだと思います。死が、食べることや眠ることのように人間にとって自然なものであるならば、人間が死を恐れることはないはずだからです。しかし人間は死を恐れる。死が本来人間になかったものであり、不自然なものである。罪から死が入り、全人類に広がったということが真実であり、また聖書が正しいことを、皮肉にも全人類が身をもって証明しているのではないでしょうか。しかしキリスト者、クリスチャンはあまり死を恐れません。それは信仰によって滅びから救われていると確信していることもありますが、死の原因となっている罪の解決が神によってなされていることが本能的に、また霊的に分かり、平安が与えられているからだと思います。そのように死に対しての恐れを取り除き、平安を与えるのも聖霊の働きであると言えます。このように私たち人間が最も必要なもの、必要なことが聖霊と聖霊の働きにあるということです。罪によって神と断絶し、滅びに向かっている私たちの罪が赦され、神との関係を回復させて頂けるのはまさに聖霊の働きです。イエスを信じる私たちは、聖霊を通して神の子とされ、天の父をお父ちゃんと呼べる関係にして頂けました。この素晴らしい聖霊、神ご自身が、イエスを信じる全ての人に与えられる。このような大きな恵みが他にあるでしょうか!? 神の子とされていることを感謝しつつ、日々大胆に、時にしつこく、聖霊を与えて下さいと父なる神に祈り求める者でありたいと願います。最後に、ヨハネの福音書の16:7節を読んで、み言葉の取り次ぎを終わりたいと思います。
しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。 (ヨハネの福音書16:7)
祈ります
問40 あなたは聖霊のはたらきをどのようにして受けることができますか。
答 それは、私たちが聖霊を与えてくださいと祈り求めることによってです。
ですから、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っています。それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。」
身代わりの死である十字架、死、復活(イースター)昇天、神の右に座し、聖霊を送られるイエス。

2026/4/5(日)「起死回生」ルカ23:1~12 庄司牧師

2026年4月5日 イースター礼拝 ルカの福音書24:1~12 「起死回生」
24:1 週の初めの日の明け方早く、彼女たちは準備しておいた香料を持って墓に来た。 24:2 見ると、石が墓からわきに転がされていた。24:3 そこで中に入ると、主イエスのからだは見当たらなかった。24:4 そのため途方に暮れていると、見よ、まばゆいばかりの衣を着た人が二人、近くに来た。24:5 彼女たちは恐ろしくなって、地面に顔を伏せた。すると、その人たちはこう言った。「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。 24:6 ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、主がお話しになったことを思い出しなさい。24:7 人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえると言われたでしょう。」24:8 彼女たちはイエスのことばを思い出した。24:9 そして墓から戻って、十一人とほかの人たち全員に、これらのことをすべて報告した。24:10 それは、マグダラのマリア、ヨハンナ、ヤコブの母マリア、そして彼女たちとともにいた、ほかの女たちであった。彼女たちはこれらのことを使徒たちに話したが、24:11 この話はたわごとのように思えたので、使徒たちは彼女たちを信じなかった。24:12 しかしペテロは立ち上がり、走って墓に行った。そして、かがんでのぞき込むと、亜麻布だけが見えた。それで、この出来事に驚きながら自分のところに帰った。
ハッピーイースター!イエスは甦られました。人類最大の敵である死に打ち勝ち、勝利されたイエスを讃美します。また、イエスを信じる者たちにも死への恐怖とそこからの失望、そして死そのものからの解放を与えて下さるお方であることを感謝いたします。
本日の聖書箇所は、人間の常識とそれに伴う絶望と悲しみが表されています。同時に神の非常識とそれに伴う勝利と希望が対比されています。そのことが本日のタイトルである、起死回生です。
「起死回生とは、もとは病気や死にかけた人を生き返らせるという意味から転じて、危機的・絶望的な状況を立て直し、一気に良い方向へ持ち直すことを指して言う。」とあります。従って本日の聖書箇所に示されているイエスの復活は、イエスの死を悲しみ、絶望している女性たちに、また罪から来る死が待ち受けている私たち一人一人の人間にとっても起死回生の出来事です。
イエスを愛し、イエスに付き従ってきた女性たちが登場します。この女性たちは、イエスの体に香料を塗り、もう一度丁寧にお墓に収めようとやって来ました。ここに彼女たちの、そして人間の常識を見ます。彼女たちはイエスが十字架上で死ぬのを見届けています。少し前の23章、49節にはこのように記されています。「イエスの知人たちや、ガリラヤからイエスについて来ていた女たちはみな、離れたところに立ち、これらのことを見ていた。」
「これらのこと」とは、イエスが十字架に至る一連の出来事と、十字架そのものです。彼女たちはイエスがどのように十字架に架かり、また、どのように十字架上で息を引き取られるか、全ての過程を見ていた女性たちです。 それだけではありません。彼女たちはイエスが十字架上で死なれた後、その遺体が墓に運ばれるところまで見届けています。 本日の聖書箇所の直前、23章55節と56節をお読みします。イエスとともにガリラヤから来ていた女たちは、ヨセフの後について行き、墓と、イエスのからだが納められる様子を見届けた。ヨセフとは、イエスを信じる議員の一人でした。彼女たちはイエスの十字架刑を見ただけでなく、ヨセフがイエスの遺体を降ろし、亜麻布で包み、墓に納められる一部始終、全てをその目で見ました。彼女たちはイエスを愛し、イエスにずっと聞き従い、色々な奉仕をして来ました。そして彼女たちが常識と照らし合わせて今、できること。それはただ、イエスの遺体にもう一度丁寧に香料を塗り、丁寧に墓に納めることだけでした。 そのことだけが、彼女たちのイエスへの愛の表明であり、今できる精一杯のことでした。しかし墓に来てみるとイエスの体が見当たりません。彼女たちはどうしようかと途方にくれていました。自分たちのできる最後の、そしてたった一つのことができない。
そのような女性たちの前にイエスのことを伝える者が現れました。他の福音書にはそれが御使い、天使であったと書き記されています。その御使いが彼女たちに語りかけました。24:5b「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。24:6 ここにはおられません。よみがえられたのです。これは事実に基づいた証言であると言えます。「事実」とは、客観的に確認できる「実際に起こった事柄」であり、1つしか存在しないものです。御使いは私たち人間よりも知識、知性、力など、全て人間よりも上の存在です。従ってイエスが甦られたのを実際に起こった事実として、何らかの方法で既に知っていた、認識していたということです。しかし女性たちはその事実を知りません。この嬉しい、また喜ばしい事実に対して、今女性たちが出来ることは、それを信じるか、それとも信じないか、でした。
私たちは聖書を知っています。この後どうなるかも知っています。しかし彼女たちは、十字架に架けられ、死なれ、葬られたイエスがその後どうなるかを知りません。 従って人間の常識からすれば、死んだ人が復活するという話は非常識であり、思いつくことも、また想像すらできないことです。そのため彼女たちは、イエスが復活されたという素晴らしい知らせを信じるための助けが必要でした。その必要、イエスの復活を信じるために必要なこと、助けでありヒントを、御使いが彼女たちに語り、また与えてくれました。それが6節の後半と、7節で語られています。24:6b まだガリラヤにおられたころ、主がお話しになったことを思い出しなさい。24:7 人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえると言われたでしょう。」
何気に読むと気付きませんが、この御使いが語られたことは驚くべきことです。 それは御使いがイエスの復活を知っているということだけではなく、イエスが過去に彼女たちに語られたこと、その内容も知っていた、ということです。ここに御使いが人間の知性や能力を超える存在であることが示されています。 この御使いが、彼女たちがイエスの復活を信じることができるように助けてくれました。それはイエスが彼女たちに語られた「ことば」であり、「約束」を思い出させるということでした。御使いはこのように彼女たちに語りました。「人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえると言われたでしょう。」彼女たちは御使いのことばをヒントに、そして語りかけられたことによって助けられた結果、8節に至ります。
24:8 彼女たちはイエスのことばを思い出した。それは以前イエスが言われた三つのことでした。人の子、すなわちイエスが罪人たちの手に引き渡されること。十字架につけられること。そして三日目に甦ること、です。 彼女たちはイエスのことばを思い出して、イエスの復活、イエスが死から甦ってここにいないことを信じました。彼女たちがイエスの復活を信じた時の様子が、別の著者であり、違う角度からイエスの復活について触れている、マタイの福音書に描写されています。
28章5節から8節をお読みします。お聞き下さい。
御使いは女たちに言った。「あなたがたは、恐れることはありません。十字架につけられたイエスを捜しているのは分かっています。ここにはおられません。前から言っておられたとおり、よみがえられたのです。さあ、納められていた場所を見なさい。そして、急いで行って弟子たちに伝えなさい。『イエスは死人の中からよみがえられました。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれます。そこでお会いできます』と。いいですか、私は確かにあなたがたに伝えました。」彼女たちは恐ろしくはあったが大いに喜んで、急いで墓から立ち去り、弟子たちに知らせようと走って行った。
「彼女たちは恐ろしくはあったが」-当然の反応だと思います。イエスの誕生が御使いによって知らされた時、羊飼いたちも恐れています。しかし彼女たちは「大いに喜んで、急いで墓から立ち去り、弟子たちに知らせようと走って行った。」
彼女たちがイエスの復活という喜びの知らせを信じたゆえに、他の弟子たちに早く伝えようと急いで走って行きました。彼女たちがイエスの復活、甦りを信じなければ、このように行動することはなかったでしょう。 御使いは女性たちに、イエスが復活されたという助け、ヒントをくれました。それは実際に復活されたイエスの体を指し示すというようなものではなく、すでにイエスが女性たちに語られたみ言葉、そして約束を思い出させるというものでした。
イエスの復活を信じた彼女たちにとって、空の墓はどのように映ったでしょうか?イエスの復活を信じる前は、イエスの遺体に香料を塗ることができない。どうしよう。悲しい。空の墓は悲しみの象徴でした。 しかしイエスの復活を信じてから見る空の墓は、もはや悲しみの象徴ではありませんで。 それは逆にイエスの復活という動かぬ証拠であり、大きな喜びの象徴、証になりました。以前イエスに語られていたこと、イエスのことばと約束を信じることによって、彼女たちは絶望と悲しみから、今度は励ましと希望を持つに至る力となりました。
先々週、語られたことばが、その状況を変えるヒントになる、励ましになるこという体験をしました。家族と散歩をしていた時のことです。ホームに入って来る電車を見ようと、駅に向かって歩いていました。途中、いつもと少し違う道を通りました。そこは狭い路地で車通りが少なく、安全な場所だったからです。しばらく歩いていると、道路の先が行き止まりになっているように見えました。私は妻に、「大丈夫かな、このまま駅の方に行けるかな?」と問いかけたところ、「大丈夫ですよ。行けますよ!」という声が別のところから返って来ました。「あれ、今の声は!?」と一瞬思いましたが、それは丁度歩いている道路に面していた家の女性が、私の問いに答えてくれたのでした。私は笑いながら、安心して家族と歩き続けることができました。 しかし殆ど道路が終わりというところまで来た時、その先の道が見えません。本当にメインの道路に戻れるかな?と少し心配になりましたが、細いあぜ道があり、駅に通じる道に戻ることができました。駅に着くと丁度、三つの路線の電車がホームに到着するタイミングでした。異なる三つの車両が入って来るのを、同時に見ることができました。とても嬉しい体験でした。もし女性が私たちに声をかけてくれなかったら、私たちは道を引き返し、三つの車両が入って来るタイミングを逃していたかもしれません。
御使いは、イエスの復活を女性たちに指し示しました。御使いにとってはイエスの復活が事実であっても、復活を見ていない、知らない、想像もつかない女性たちにとっては、イエスの復活を信じることはできませんでした。しかし女性たちはイエスの復活をその目で見なくとも、イエスの復活を信じることができました。それはイエスが以前女性たちに語りかけて下さっていたこと、すなわちイエスが語られたみ言葉であり、約束でした。「人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえる」 イエスはこの女性たちだけでなく、私たちもイエスを信じることができるように、イエスの復活を信じることができるように、イエスが罪からの救い主であることを信じることができるように、ヒントや助けを私たち一人一人にも与えて下さっています。それが聖書であり、イエスを信じるために私たちを導いて下さる聖霊の存在でもあります。次回、三位一体の神の第三位格である、聖霊についてお話をする予定です。
実は今日のメッセージ、今お話していますが、とても苦しいものでした。「どうしよう。何をお話したら良いか分からない!」 ルカの福音書を選んだことを後悔するほどでした。しかしイエスは、私が語ることができるように助けて下さいました。散歩の時の語りかけが今日、この時、メッセージを語る上で大きなヒントになりました。本当にちょっとした出来事でしたが、私にとっては大きな出来事でした。 イエスが生きておられ、働かれ、助けて下さったと私は確信しています。

御使いは、女性たちがまだイエスの復活を信じる前、このように彼女たちに語りかけました。
「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。」メッセージの冒頭、始めの方で、私はこのようにお話しました。「本日の聖書箇所は、人間の常識とそれに伴う絶望と悲しみ。神の非常識とそれに伴う勝利と希望が対比されている。」 私は家族と散歩をしている時、語られたことばによって励まされ、その道を引き返すことなく、進み続けることができました。しかしその先で道がなくなってしまうように見え、不安になりました。しかし語られた通り、そこには道がありました。 この女性たちにとって、イエスの死は、イエスと共に歩いて来た道が終わってしまった。その先にもう道はないという絶望と悲しみをもたらしました。しかしイエスは御使いが語ったように、そして彼女たちが信じたように実際に復活され、この後マグダラのマリアやイエスの弟子たちに現れることになります。
私たちもこの目でイエスを見ることはできませんが、女性たちにように、イエスが語られたことば、約束を信じることができます。人間にとってイエスの復活は非常識ですが、神にとって不可能なことはありません。預言も含め、聖書に指し示されているイエスの復活を、聖霊の助けを頂きながら私たちも信じることができます。 そしてイエスは約束通り復活され、今も生きておられます。この道は終わりではないか。この先には何の喜びも希望もないのではないか。私たちはそのような道を通ることがあります。しかしイエスは私たちと神との関係を妨げている罪を十字架で全て背負われ、復活を通して罪と、罪から来る死に勝利して下さいました。イエスを信じる全ての者は、このイエスの復活の力に与ることができます。私たちは「死」で終わりではありません。それが聖書に記されている神の約束、「起死回生」の約束です。そしてそれは永遠に続く約束です。
復活され、今も生きておられ、私たちと共に歩んで下さり、私たちを助け、恵みで満たし、最善の道へと導いて下さる私たちの主、復活された素晴らしいイエスを、これからも信じ続けることができますように。
祈ります
「起死回生」
「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。」

2026/4/2㈮「わたしはあなたとずっと一緒にいる」ルカ23:33,39~43 庄司牧師

受難日礼拝メッセージ(テキストのみ)

2026年4月2日 ルカの福音書23:33,39~43
タイトル 「わたしはあなたとずっと一緒にいる」
「どくろ」と呼ばれている場所に来ると、そこで彼らはイエスを十字架につけた。また犯罪人たちを、一人は右に、一人は左に十字架につけた。
十字架にかけられていた犯罪人の一人は、イエスをののしり、「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」と言った。すると、もう一人が彼をたしなめて言った。「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。」そして言った。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」
本日は受難日です。罪を犯したことのないお方が、罪ある者として十字架で神に裁かれる。イエスの十字架と、共に十字架に架けられている犯罪人たちに焦点を当てて、お話していきたいと思っています。
ローマ総督ピラトの努力も虚しく、イエスはローマ帝国に反逆する政治犯として、十字架に架けられることになりました。主イエスの他にも、二人の犯罪人がイエスの十字架を中央にして、その右と左で十字架に架けられました。 なぜ二人は十字架刑に処せられたのでしょうか。
ルカの福音書では二人のことを「犯罪人」と記しているだけです。しかしマタイやマルコ福音書では「強盗」としています。 「強盗」という言葉は、単に他人の物を盗む者というより、むしろ反乱を起こす者、革命家を意味します。恐らくこの二人はローマ帝国の支配に抵抗して、暴動ないし反乱を起こして逮捕され、十字架刑に処せられることになった、と思われます。 イエスの十字架を見ながら、イエスを罵っていた群衆がいました。イエスがローマ帝国から自分たちを解放してくれる政治的な王だと期待していた、ユダヤの人々でした。しかし願いが叶わないことが分かり、希望から失望へと、そしてイエスへの怒りへと変わって行きました。 平行箇所を見ると、群衆がイエスを罵っている時に、この二人の強盗も同じようにイエスを罵っていたことが分かります。そのうちの一人はこのようにイエスを罵しりました。「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」従ってもう一人も始めはイエスに対して同じような思いを持っていたようです。二人とも自分はローマ帝国から人々を解放しようと努力した。正しいことを行った。正義を行ったと思っていたはずです。ですから十字架刑に対して、不当な刑罰を受けていると二人とも感じていたはずです。しかし一人の犯罪人はイエスに対する態度が変わっていきます。何があったのでしょうか。
それはイエスの十字架上で語られることばであり、態度であり、そして祈りであったと思います。イエスはまさに十字架に架けられている苦しみの時も、罵る人々に対して不平や不満、怒るといったこともありませんでした。 ヨハネの福音書の19章には、この状況でイエスは、自分の母マリアを心配され、弟子の一人に彼女を託しています。そして何よりこの犯罪人の心の琴線に触れたのが、イエスの祈りだったと思われます。それが34節でイエスが語られたことばであり、祈りです。
23:34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦し下さい。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」彼はこのように思ったと想像します。
「自分を殺そうする者たちに対して、「彼らを赦して下さい」などと祈ることなど人間にはできない。この方こそ神に違いない。そしてこの神が、自分は悪くないと思っているこの私も、そして隣の犯罪人も、そして群衆も、全て自分中心で罪深い人間に対する神の怒りを代わりに受けてくれている。」実際この犯罪人が神に、すなわちイエスに対しての恐れ、畏怖の念を持ったことが分かります。
「おまえは神を恐れないのか。」という、もう一人の犯罪人に対して言ったことば、告白です。裏を返せばこの告白は「おまえと私は違う。私は、神を恐れる。イエスを神として恐れ敬う。」という彼のイエスに対する信仰を感じさせる告白です。そしてもっとイエスに対して踏み込んだ思い、実彼がイエスを神と認め、また信じるという信仰告白が、42節に表されています。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」「あなたが御国に入られるときには」という告白は、この犯罪人が、イエスが御国に行くことだけでなく、御国、すなわち神の国を統べ納める神であることを確信している態度です。そして彼は、神であると信じたイエスに対して、「私を思い出してください」と訴えました。 思い出して下さいとは、忘れないで下さいということです。「自分がしたことは何も悪くないと思っていた。むしろ正しいことをしていたと思っていた。しかしそうではなかった。私はあなたの前に罪ある者。神であるあなたと共に、御国に行くような身分ではない。しかしどうか私が辿った人生を、私の姿を、そして私の存在を、あなたが行かれる神の国においても忘れないで欲しい。頭の片隅でもいいから覚えていて欲しい。」彼の思い出して下さいという告白には、神としてのイエスの前に謙る、一信仰者としての姿勢と信仰を感じさせます。そしてイエスが御国に行くのが相応しい、当然であるという確信を感じさせる告白でもあります。この犯罪者の信仰、そして告白に対してイエスは、「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」と答えられました。
パラダイスとは楽園です。素晴らしい場所であるには違いないですが、大切なのは場所というよりむしろイエスとの「関係」です。この時イエスはこの男に向かって、「わたしと一緒に楽園にいる」と宣言されました。主イエスが一緒にいてくださるところ、そこが楽園であり、パラダイスです。イエスがそこにおられなかったから、そこは楽園でもパラダイスでもありません。イエスは犯罪人に対してこのように答えることによって、彼の信仰告白が本物であること。そして同時に「思い出して下さい」と願った以上のことを約束されたことが分かります。それはこれからもずっと一緒にいるという、いつまでも続くイエスとの関係を約束して下さったからです。

イエスは私たちが激しい苦しみの中で、絶望の中で、すべての人に見捨てられたように思う時ですら、私たちを覚えていてくださり、心に留めて下さいます。また私たちが死を迎える時も、またその後も、ずっと一緒にいて下さるお方です。私たちを見捨てることは決してありません。
「私はあなたのことを覚えている、決して忘れない。そしていつまでも一緒にいる。」この犯罪人だけではなく、イエスを神として、救い主として信じる全ての人に、私たち一人一人に、イエスは同じように約束して下さいます。 そしてイエスは私たちとずっと一緒にいるという約束を守るために、神との妨げとなる私たちの罪を全て、十字架で背負って下さいました。
イエスの十字架を感謝しつつ、共に祈りたいと思います。
「わたしはあなたとずっと一緒にいる」
「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」

「マリアの賛歌」

2025年12月14日(日) アドベント第三礼拝

聖書:ルカの福音書 1章39~56節

説教:庄司牧師

♪♪ 賛美 ♪♪

馬槽のかたえに  新聖歌 83番

わが心は 新聖歌 67番

父 御子 御霊の  新聖歌 63番

♪♪ 今月のワーシップソング ♪♪

アイ ワーシップ ユー

🌈 聖書引用 🌈
 新日本聖書刊行会 聖書 新改訳2017 (新改訳聖書センター)

 

「喜びのおとずれ」

2025年12月7日(日) アドベント第二礼拝

聖書:ルカの福音書 1章5~25節

説教:庄司牧師

♪♪ 賛美 ♪♪

牧人羊を  新聖歌 82番

エサイの根より 新聖歌 69番

しみも咎も  新聖歌 49番

父 御子 御霊の  新聖歌 63番

♪♪ 今月のワーシップソング ♪♪
どんな時でも 作詞作曲:中山 有太

🌈 聖書引用 🌈
 新日本聖書刊行会 聖書 新改訳2017 (新改訳聖書センター)

 

「私の居場所、私のホーム」

2025年10月19日(日) 主日礼拝

聖書:ルカの福音書 15章11~24節
   
説教:高松牧師

♪♪ 賛美 ♪♪

天地の御神をば  新聖歌 3番

イエスは汝を呼び給う  新聖歌 176番

御恵みあふるる  新聖歌 61番

♪♪ 今月のワーシップソング ♪♪
どんな時でも 作詞作曲:中山 有太

🌈 聖書引用 🌈
 新日本聖書刊行会 聖書 新改訳2017 (新改訳聖書センター)

 

「大切な君」

2025年6月8日(日) ペンテコステ賛美礼拝
 ※ペンテコステ・・・聖霊降臨

聖書:ルカの福音書 15章8~10節
   
説教:庄司牧師

賛美♪

この日は主が造られた

心に感謝を持ちながら

Again I Say Rejoice

どんな時でも

君はあいされるために生まれた

愛する我が主

父・子・聖霊の 讃美歌21 27番

🌈聖書引用
 新日本聖書刊行会 聖書 新改訳2017 (新改訳聖書センター)

 

「あなたのために生まれた救い主」

2024年12月22日(日) クリスマス礼拝

聖書:ルカの福音書 2章8~20節

説教:庄司牧師

賛美♪
 諸人こぞりて 新聖歌 76番

応答の賛美♰
 きよしこの夜 新聖歌 77番

頌栄🌞 
 天地こぞりて 新聖歌 60番

🌈聖書引用
 新日本聖書刊行会 聖書 新改訳2017 (新改訳聖書センター)

「イエスの個別指導」

2024年3月31日(日) イースター礼拝

聖書:ルカの福音書 24章13~27節

説教:庄司牧師

賛美♪(曲名をクリックするとYoutubeで視聴できます)  
🌈聖書引用
 新日本聖書刊行会 聖書 新改訳2017 (新改訳聖書センター)