2026年8月9日 マタイの福音書4:10「第一の戒めは、何を教えていますか?」
問43 この第一の戒めは、私たちに何を教えていますか。
答 ”私たちが神さまを愛し、まことの神さまだけを礼拝することです。私たちは、他の神々をおがんではなりません。”イエスは言われた。「下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある。」” マタイの福音書4章10節
月の第二日曜日です。本日も子ども信仰問答からお話をしていきます。前回の箇所を少しおさらいしたいと思います。前回の問42は、「第一の戒めは何ですか?」そして引用されていたのが出エジプト記です。「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない」(出20:3) そしてその具体例として取り上げられていたのが、申命記4:35節、 “あなたにこのことが示されたのは、主だけが神であり、ほかに神はいないことを、あなたが知るためであった。’’です。
「主だけが神であり、ほかに神はいないことを、あなたが知るためであった。」主なる神は、ご自身が唯一、まことの神であるということを、出エジプト記において示されました。イスラエルの叫びに答えて奴隷から解放し、約束の地、カナンに向かう荒野においても同行されました。パンであるマナを降らせ、必要な水や肉なども備えられました。イスラエルの主なる神への不平、不満、不従順を忍耐され、おおよそ40年にわたって彼らを守り、導き、祝福を与え続けられました。
それほどイスラエルのことを愛され、イスラエルを導いて来られた主なる神が、「私だけを神としなさい」と、十戒を中心とした律法をsイスラエルに与えられました。 しかしイスラエルはモーセが十戒の石板を受けにシナイ山にいた時、長い不在から不安になって金の子牛の像を造り、神としてしまいました。偶像礼拝の罪です。神との契約を破り、罪を犯した者たちはこの後、モーセを通して粛清、すなわち神に裁かれました。その罪の根本は、偶像礼拝も含め、主なる神を第一にしなかったからです。主なる神を第一としない者は、裁かれる。自ら滅びを招くということです。この出来事を踏まえて、本日の箇所を見ていきましょう。本日の聖書箇所は、イエスが悪魔、サタンに誘惑された時に宣言されたことばです。この悪魔のイエスへの試み、誘惑が、マタイの福音書4:1節から始まり、本日の聖書箇所である10節まで続きます。一つ目の誘惑は、悪魔が40日の断食を通して空腹の絶頂であったイエスに、この石がパンになるように命じなさい、というものでした。この誘惑は、イエスが神から与えられたカリスマ、賜物だけで父なる神に頼らず、自分の力だけで人々を救いに導いていくよう、すなわち神から離れて自立するようとのサタンの誘惑でした。この誘惑に対してイエスは、「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」申命記8:3節を引用して答えられました。しかし神から離れていること自体が、そして神から離れて自分の力だけで物事を進めていくこと自体が罪ですから、これはサタンからの罪への誘いでもありました。イエスはここで、「人はパン自体で生きるのではない。パンを含め、人間が生きるのに必要なすべては神のことばを通して供給されている。私たちは神のことばによって生かされているのだから、ただ神に依り頼み、自分に与えられた神からの能力を、自分の願望を満たすために用いることはしない!」そのような思いと神への信頼を持ち、神のことばによってサタンの誘惑を退けました。二つ目に悪魔はイエスに、「詩篇に、御使いがあなたの足が石に打ち当たらないように守ると書いてある。-試しに神殿の屋根から飛び降りてみて、神のことばが本当にそうなるか、証明してみよ!」と誘いました。 あなたが神の子であるというしるしを、人々が奇蹟を通して見れば、彼らはあなたを救い主であると信じるだろう、という誘惑でした。サタンは詩篇91:11,12を引用しましたが、「すべての道で」あなたを守られるという「すべての道」ということばを故意に、わざと落としています。悪魔はみ言葉を良く知っており、時にみ言葉を自分の都合の良いように変え、用い、誘惑して来るということです。そしてこの誘惑は、イエスが人間を救うという大きな目的のために、父なる神のことばをただ、自分の働きの保証とするようにとの誘惑でした。この誘惑に対してイエスは「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」と、申命記6:16節を引用して答えられました。一つ目の誘惑に続いて、二つ目の誘惑も、イエスはみ言葉で悪魔に応戦されました。そして三つめ、これが最後の誘惑になりますが、悪魔はこのようにイエスを誘惑しました。8節、9節です。悪魔はまた、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての王国とその栄華を見せて、こう言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これをすべてあなたにあげよう。」イエスが悪魔に妥協して権力を持ち、政治的な王として人々を救いに導くようにとの誘惑でした。これに対してイエスが答えられたのが本日の聖書箇所10節です。そこでイエスは言われた。「下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある。」申命記6:13節の引用です。「主に仕えることを犠牲にしてまでして、使命達成を追求することはしない!」というイエスのご意志です。すると悪魔はイエスから離れていきました。み言葉で悪魔と戦って行く時、悪魔は離れて行くということです。それはつまり、悪魔の誘惑に打ち勝つことができる、ということです。 悪魔はサタンとも呼ばれていますが、サタンは「試みる者」とか「訴える者」とも呼ばれ、神とその救いの目的とに対する「敵」を意味します。サタンは神を憎んでいます。そしてその憎んでいる神が愛している人間も憎いため、一人でも多くの人間が神から離れるように策略を巡らしているだけでなく、願わくは神の子とされている私たちクリスチャンにも神を疑わせ、日々、信仰を奪おうと働いています。その戦略、策略が表されている箇所があります。それが本日の箇所です。マタイの福音書4:8,9。悪魔はまた、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての王国とその栄華を見せて、こう言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これをすべてあなたにあげよう。」 この箇所を平行箇所のルカの福音書4:6で見たいと思います。第三版の聖書訳でお読みします。ルカの福音書4:6「この国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。 旧約聖書、ヨブ記を見ても分かりますが、神の許可、神の許しがなければ、サタンは働くことができません。つまりサタンの活動も、誘惑や攻撃も、主なる神ご自身が持つ大いなるご計画と主権の中で許されている、ということです。そして実際にサタンはこの世において、この人にならいいという、イエスに反対している人々-特に力のある政治家、独裁者などの権力者を選んで、権力や栄光を与えることができるということです。 繫栄し、栄光を受けている者の背後に、悪魔の働きがあるということです。しかしこの悪魔の誘惑は、国の指導者や政治家など、力や権力を持っている人々に限りません。全ての人類が悪魔の誘惑に日々、晒されています。イエスは新約聖書、マタイの福音書6章24節においてこのように語られています。「だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神と富とに仕えることはできません。」神か富か。私たち人間はどちらかを選んで仕える、すなわちそれを大切にし、それに従い、それによって歩む、ということです。しかしどちらも同じようには愛せない。重んじることはできない。神を選んだ人は、神を大切にし、神に仕え、神に従い、神によって歩みます。一方富を選んだ人は、富を大切にし、富に仕え、富に従い、富によって歩みます。富とはその人を富ませるものですから、お金や財産だけではありません。家や土地、 自分の能力、名誉や名声、健康や趣味などの楽しみ、家族など、色々な物が考えられます。自分を富ませ、自分の気分を良くし、自分を高めてくれるものです。もちろんそのような物は大切ですし、なくてはなりません。しかしそれらがまことの神よりも大切になり、神よりも上になっていく時、人は簡単にそれらの奴隷となってしまいます。そして彼らが頼みにしているそのような神以外のものはやがて崩れ去る、無くなって行く時が来ます。先週も見て来ましたが、神以外のものは有限、限りがあり、それゆえ滅んでいくからです。そしてその先は、イスラエルの人々が偶像礼拝、すなわち神を第一にしなかったことによって裁かれたように、神を第一にしなかった人々は最終的に、神の裁きを経験することになります。なぜなら、富を第一にしていく生き方は、罪が解決せず、罪が残る生き方だからです。神から離れているという罪がずっと続く生き方だからです。ですから富を第一にした人は、その人の持っている罪ゆえに、自ら滅んで行くことになるでしょう。イエスはサタンに誘惑された時、神が与えて下さったみ言葉によって戦い、サタンを退けました。このイエスがなされたこと。それが神を第一にしていることの表れです。すなわち神のことばを第一にするという生き方、歩み、そして時に誘惑と戦い、対処する方法でもあります。「はじめに神が天と地を創造された。」聖書のはじめ、創世記1章1節のことばです。そして創造の経緯が描写されていきますが、神はことばをもって人間を含めた天地万物を創造していきます。神は、神のことばによって人間も含めた全ての被造物を造られ、このことばによって天地万物を保たれ、そしてこのことばを通して私たち人間に語りかけて下さっています。それが神のことば、聖書のことばです。ですからイエスが「聖書にこう書いてある」と言ってサタンの誘惑を退けましたが、それは神のことばを第一にした、すなわち神を第一にされた、ということです。 なぜなら神イコール神のことばだからです。ですからイエスが神のことば、聖書を第一とすることによって神を第一とされたように、私たちも聖書のことばを第一にしていくとき、それはすなわち神を第一にすることであり、神を第一にする生き方であるということです。 父なる神がイスラエルに与えられた十戒の一番目、人間が一番大切にすべき教え、戒めは、「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。」でした。イエスはこの教え、戒めを、神のことば、すなわち聖書に記されているみ言葉を守り、従い、そのことばで戦い、そのことばよって生きることによって、身をもって実践して下さいました。そして罪と罪から来る死とサタンを滅ぼして復活されたイエスは、今、神の右、栄光の座におられます。神のことばを第一にしていく。その先には、神の守り、祝福があり、平安、喜びがあり、罪の赦しと永遠のいのちがあります。私たちもイエスのように神のことばを第一にすることによって、神を第一にしていくことができますように。
祈ります 問43 この第一の戒めは、私たちに何を教えていますか。
答 ”私たちが神さまを愛し、まことの神さまだけを礼拝することです。私たちは、他の神々をおがんではなりません。‘’ ”イエスは言われた。「下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある。」” マタイの福音書4章10節
問43 この第一の戒めは、私たちに何を教えていますか。
答 ”私たちが神さまを愛し、まことの神さまだけを礼拝することです。私たちは、他の神々をおがんではなりません。”イエスは言われた。「下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある。」” マタイの福音書4章10節
月の第二日曜日です。本日も子ども信仰問答からお話をしていきます。前回の箇所を少しおさらいしたいと思います。前回の問42は、「第一の戒めは何ですか?」そして引用されていたのが出エジプト記です。「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない」(出20:3) そしてその具体例として取り上げられていたのが、申命記4:35節、 “あなたにこのことが示されたのは、主だけが神であり、ほかに神はいないことを、あなたが知るためであった。’’です。
「主だけが神であり、ほかに神はいないことを、あなたが知るためであった。」主なる神は、ご自身が唯一、まことの神であるということを、出エジプト記において示されました。イスラエルの叫びに答えて奴隷から解放し、約束の地、カナンに向かう荒野においても同行されました。パンであるマナを降らせ、必要な水や肉なども備えられました。イスラエルの主なる神への不平、不満、不従順を忍耐され、おおよそ40年にわたって彼らを守り、導き、祝福を与え続けられました。
それほどイスラエルのことを愛され、イスラエルを導いて来られた主なる神が、「私だけを神としなさい」と、十戒を中心とした律法をsイスラエルに与えられました。 しかしイスラエルはモーセが十戒の石板を受けにシナイ山にいた時、長い不在から不安になって金の子牛の像を造り、神としてしまいました。偶像礼拝の罪です。神との契約を破り、罪を犯した者たちはこの後、モーセを通して粛清、すなわち神に裁かれました。その罪の根本は、偶像礼拝も含め、主なる神を第一にしなかったからです。主なる神を第一としない者は、裁かれる。自ら滅びを招くということです。この出来事を踏まえて、本日の箇所を見ていきましょう。本日の聖書箇所は、イエスが悪魔、サタンに誘惑された時に宣言されたことばです。この悪魔のイエスへの試み、誘惑が、マタイの福音書4:1節から始まり、本日の聖書箇所である10節まで続きます。一つ目の誘惑は、悪魔が40日の断食を通して空腹の絶頂であったイエスに、この石がパンになるように命じなさい、というものでした。この誘惑は、イエスが神から与えられたカリスマ、賜物だけで父なる神に頼らず、自分の力だけで人々を救いに導いていくよう、すなわち神から離れて自立するようとのサタンの誘惑でした。この誘惑に対してイエスは、「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」申命記8:3節を引用して答えられました。しかし神から離れていること自体が、そして神から離れて自分の力だけで物事を進めていくこと自体が罪ですから、これはサタンからの罪への誘いでもありました。イエスはここで、「人はパン自体で生きるのではない。パンを含め、人間が生きるのに必要なすべては神のことばを通して供給されている。私たちは神のことばによって生かされているのだから、ただ神に依り頼み、自分に与えられた神からの能力を、自分の願望を満たすために用いることはしない!」そのような思いと神への信頼を持ち、神のことばによってサタンの誘惑を退けました。二つ目に悪魔はイエスに、「詩篇に、御使いがあなたの足が石に打ち当たらないように守ると書いてある。-試しに神殿の屋根から飛び降りてみて、神のことばが本当にそうなるか、証明してみよ!」と誘いました。 あなたが神の子であるというしるしを、人々が奇蹟を通して見れば、彼らはあなたを救い主であると信じるだろう、という誘惑でした。サタンは詩篇91:11,12を引用しましたが、「すべての道で」あなたを守られるという「すべての道」ということばを故意に、わざと落としています。悪魔はみ言葉を良く知っており、時にみ言葉を自分の都合の良いように変え、用い、誘惑して来るということです。そしてこの誘惑は、イエスが人間を救うという大きな目的のために、父なる神のことばをただ、自分の働きの保証とするようにとの誘惑でした。この誘惑に対してイエスは「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」と、申命記6:16節を引用して答えられました。一つ目の誘惑に続いて、二つ目の誘惑も、イエスはみ言葉で悪魔に応戦されました。そして三つめ、これが最後の誘惑になりますが、悪魔はこのようにイエスを誘惑しました。8節、9節です。悪魔はまた、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての王国とその栄華を見せて、こう言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これをすべてあなたにあげよう。」イエスが悪魔に妥協して権力を持ち、政治的な王として人々を救いに導くようにとの誘惑でした。これに対してイエスが答えられたのが本日の聖書箇所10節です。そこでイエスは言われた。「下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある。」申命記6:13節の引用です。「主に仕えることを犠牲にしてまでして、使命達成を追求することはしない!」というイエスのご意志です。すると悪魔はイエスから離れていきました。み言葉で悪魔と戦って行く時、悪魔は離れて行くということです。それはつまり、悪魔の誘惑に打ち勝つことができる、ということです。 悪魔はサタンとも呼ばれていますが、サタンは「試みる者」とか「訴える者」とも呼ばれ、神とその救いの目的とに対する「敵」を意味します。サタンは神を憎んでいます。そしてその憎んでいる神が愛している人間も憎いため、一人でも多くの人間が神から離れるように策略を巡らしているだけでなく、願わくは神の子とされている私たちクリスチャンにも神を疑わせ、日々、信仰を奪おうと働いています。その戦略、策略が表されている箇所があります。それが本日の箇所です。マタイの福音書4:8,9。悪魔はまた、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての王国とその栄華を見せて、こう言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これをすべてあなたにあげよう。」 この箇所を平行箇所のルカの福音書4:6で見たいと思います。第三版の聖書訳でお読みします。ルカの福音書4:6「この国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。 旧約聖書、ヨブ記を見ても分かりますが、神の許可、神の許しがなければ、サタンは働くことができません。つまりサタンの活動も、誘惑や攻撃も、主なる神ご自身が持つ大いなるご計画と主権の中で許されている、ということです。そして実際にサタンはこの世において、この人にならいいという、イエスに反対している人々-特に力のある政治家、独裁者などの権力者を選んで、権力や栄光を与えることができるということです。 繫栄し、栄光を受けている者の背後に、悪魔の働きがあるということです。しかしこの悪魔の誘惑は、国の指導者や政治家など、力や権力を持っている人々に限りません。全ての人類が悪魔の誘惑に日々、晒されています。イエスは新約聖書、マタイの福音書6章24節においてこのように語られています。「だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神と富とに仕えることはできません。」神か富か。私たち人間はどちらかを選んで仕える、すなわちそれを大切にし、それに従い、それによって歩む、ということです。しかしどちらも同じようには愛せない。重んじることはできない。神を選んだ人は、神を大切にし、神に仕え、神に従い、神によって歩みます。一方富を選んだ人は、富を大切にし、富に仕え、富に従い、富によって歩みます。富とはその人を富ませるものですから、お金や財産だけではありません。家や土地、 自分の能力、名誉や名声、健康や趣味などの楽しみ、家族など、色々な物が考えられます。自分を富ませ、自分の気分を良くし、自分を高めてくれるものです。もちろんそのような物は大切ですし、なくてはなりません。しかしそれらがまことの神よりも大切になり、神よりも上になっていく時、人は簡単にそれらの奴隷となってしまいます。そして彼らが頼みにしているそのような神以外のものはやがて崩れ去る、無くなって行く時が来ます。先週も見て来ましたが、神以外のものは有限、限りがあり、それゆえ滅んでいくからです。そしてその先は、イスラエルの人々が偶像礼拝、すなわち神を第一にしなかったことによって裁かれたように、神を第一にしなかった人々は最終的に、神の裁きを経験することになります。なぜなら、富を第一にしていく生き方は、罪が解決せず、罪が残る生き方だからです。神から離れているという罪がずっと続く生き方だからです。ですから富を第一にした人は、その人の持っている罪ゆえに、自ら滅んで行くことになるでしょう。イエスはサタンに誘惑された時、神が与えて下さったみ言葉によって戦い、サタンを退けました。このイエスがなされたこと。それが神を第一にしていることの表れです。すなわち神のことばを第一にするという生き方、歩み、そして時に誘惑と戦い、対処する方法でもあります。「はじめに神が天と地を創造された。」聖書のはじめ、創世記1章1節のことばです。そして創造の経緯が描写されていきますが、神はことばをもって人間を含めた天地万物を創造していきます。神は、神のことばによって人間も含めた全ての被造物を造られ、このことばによって天地万物を保たれ、そしてこのことばを通して私たち人間に語りかけて下さっています。それが神のことば、聖書のことばです。ですからイエスが「聖書にこう書いてある」と言ってサタンの誘惑を退けましたが、それは神のことばを第一にした、すなわち神を第一にされた、ということです。 なぜなら神イコール神のことばだからです。ですからイエスが神のことば、聖書を第一とすることによって神を第一とされたように、私たちも聖書のことばを第一にしていくとき、それはすなわち神を第一にすることであり、神を第一にする生き方であるということです。 父なる神がイスラエルに与えられた十戒の一番目、人間が一番大切にすべき教え、戒めは、「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。」でした。イエスはこの教え、戒めを、神のことば、すなわち聖書に記されているみ言葉を守り、従い、そのことばで戦い、そのことばよって生きることによって、身をもって実践して下さいました。そして罪と罪から来る死とサタンを滅ぼして復活されたイエスは、今、神の右、栄光の座におられます。神のことばを第一にしていく。その先には、神の守り、祝福があり、平安、喜びがあり、罪の赦しと永遠のいのちがあります。私たちもイエスのように神のことばを第一にすることによって、神を第一にしていくことができますように。
祈ります 問43 この第一の戒めは、私たちに何を教えていますか。
答 ”私たちが神さまを愛し、まことの神さまだけを礼拝することです。私たちは、他の神々をおがんではなりません。‘’ ”イエスは言われた。「下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある。」” マタイの福音書4章10節