モーセ

2026/8/9(日)「第一の戒めは何を教えていますか?」マタイ4:10 庄司牧師

2026年8月9日 マタイの福音書4:10「第一の戒めは、何を教えていますか?」      
問43 この第一の戒めは、私たちに何を教えていますか。
答 ”私たちが神さまを愛し、まことの神さまだけを礼拝することです。私たちは、他の神々をおがんではなりません。”イエスは言われた。「下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある。」” マタイの福音書4章10節
月の第二日曜日です。本日も子ども信仰問答からお話をしていきます。前回の箇所を少しおさらいしたいと思います。前回の問42は、「第一の戒めは何ですか?」そして引用されていたのが出エジプト記です。「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない」(出20:3)                                   そしてその具体例として取り上げられていたのが、申命記4:35節、 “あなたにこのことが示されたのは、主だけが神であり、ほかに神はいないことを、あなたが知るためであった。’’です。
「主だけが神であり、ほかに神はいないことを、あなたが知るためであった。」主なる神は、ご自身が唯一、まことの神であるということを、出エジプト記において示されました。イスラエルの叫びに答えて奴隷から解放し、約束の地、カナンに向かう荒野においても同行されました。パンであるマナを降らせ、必要な水や肉なども備えられました。イスラエルの主なる神への不平、不満、不従順を忍耐され、おおよそ40年にわたって彼らを守り、導き、祝福を与え続けられました。
それほどイスラエルのことを愛され、イスラエルを導いて来られた主なる神が、「私だけを神としなさい」と、十戒を中心とした律法をsイスラエルに与えられました。 しかしイスラエルはモーセが十戒の石板を受けにシナイ山にいた時、長い不在から不安になって金の子牛の像を造り、神としてしまいました。偶像礼拝の罪です。神との契約を破り、罪を犯した者たちはこの後、モーセを通して粛清、すなわち神に裁かれました。その罪の根本は、偶像礼拝も含め、主なる神を第一にしなかったからです。主なる神を第一としない者は、裁かれる。自ら滅びを招くということです。この出来事を踏まえて、本日の箇所を見ていきましょう。本日の聖書箇所は、イエスが悪魔、サタンに誘惑された時に宣言されたことばです。この悪魔のイエスへの試み、誘惑が、マタイの福音書4:1節から始まり、本日の聖書箇所である10節まで続きます。一つ目の誘惑は、悪魔が40日の断食を通して空腹の絶頂であったイエスに、この石がパンになるように命じなさい、というものでした。この誘惑は、イエスが神から与えられたカリスマ、賜物だけで父なる神に頼らず、自分の力だけで人々を救いに導いていくよう、すなわち神から離れて自立するようとのサタンの誘惑でした。この誘惑に対してイエスは、「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」申命記8:3節を引用して答えられました。しかし神から離れていること自体が、そして神から離れて自分の力だけで物事を進めていくこと自体が罪ですから、これはサタンからの罪への誘いでもありました。イエスはここで、「人はパン自体で生きるのではない。パンを含め、人間が生きるのに必要なすべては神のことばを通して供給されている。私たちは神のことばによって生かされているのだから、ただ神に依り頼み、自分に与えられた神からの能力を、自分の願望を満たすために用いることはしない!」そのような思いと神への信頼を持ち、神のことばによってサタンの誘惑を退けました。二つ目に悪魔はイエスに、「詩篇に、御使いがあなたの足が石に打ち当たらないように守ると書いてある。-試しに神殿の屋根から飛び降りてみて、神のことばが本当にそうなるか、証明してみよ!」と誘いました。 あなたが神の子であるというしるしを、人々が奇蹟を通して見れば、彼らはあなたを救い主であると信じるだろう、という誘惑でした。サタンは詩篇91:11,12を引用しましたが、「すべての道で」あなたを守られるという「すべての道」ということばを故意に、わざと落としています。悪魔はみ言葉を良く知っており、時にみ言葉を自分の都合の良いように変え、用い、誘惑して来るということです。そしてこの誘惑は、イエスが人間を救うという大きな目的のために、父なる神のことばをただ、自分の働きの保証とするようにとの誘惑でした。この誘惑に対してイエスは「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」と、申命記6:16節を引用して答えられました。一つ目の誘惑に続いて、二つ目の誘惑も、イエスはみ言葉で悪魔に応戦されました。そして三つめ、これが最後の誘惑になりますが、悪魔はこのようにイエスを誘惑しました。8節、9節です。悪魔はまた、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての王国とその栄華を見せて、こう言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これをすべてあなたにあげよう。」イエスが悪魔に妥協して権力を持ち、政治的な王として人々を救いに導くようにとの誘惑でした。これに対してイエスが答えられたのが本日の聖書箇所10節です。そこでイエスは言われた。「下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある。」申命記6:13節の引用です。「主に仕えることを犠牲にしてまでして、使命達成を追求することはしない!」というイエスのご意志です。すると悪魔はイエスから離れていきました。み言葉で悪魔と戦って行く時、悪魔は離れて行くということです。それはつまり、悪魔の誘惑に打ち勝つことができる、ということです。 悪魔はサタンとも呼ばれていますが、サタンは「試みる者」とか「訴える者」とも呼ばれ、神とその救いの目的とに対する「敵」を意味します。サタンは神を憎んでいます。そしてその憎んでいる神が愛している人間も憎いため、一人でも多くの人間が神から離れるように策略を巡らしているだけでなく、願わくは神の子とされている私たちクリスチャンにも神を疑わせ、日々、信仰を奪おうと働いています。その戦略、策略が表されている箇所があります。それが本日の箇所です。マタイの福音書4:8,9。悪魔はまた、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての王国とその栄華を見せて、こう言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これをすべてあなたにあげよう。」 この箇所を平行箇所のルカの福音書4:6で見たいと思います。第三版の聖書訳でお読みします。ルカの福音書4:6「この国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。 旧約聖書、ヨブ記を見ても分かりますが、神の許可、神の許しがなければ、サタンは働くことができません。つまりサタンの活動も、誘惑や攻撃も、主なる神ご自身が持つ大いなるご計画と主権の中で許されている、ということです。そして実際にサタンはこの世において、この人にならいいという、イエスに反対している人々-特に力のある政治家、独裁者などの権力者を選んで、権力や栄光を与えることができるということです。 繫栄し、栄光を受けている者の背後に、悪魔の働きがあるということです。しかしこの悪魔の誘惑は、国の指導者や政治家など、力や権力を持っている人々に限りません。全ての人類が悪魔の誘惑に日々、晒されています。イエスは新約聖書、マタイの福音書6章24節においてこのように語られています。「だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神と富とに仕えることはできません。」神か富か。私たち人間はどちらかを選んで仕える、すなわちそれを大切にし、それに従い、それによって歩む、ということです。しかしどちらも同じようには愛せない。重んじることはできない。神を選んだ人は、神を大切にし、神に仕え、神に従い、神によって歩みます。一方富を選んだ人は、富を大切にし、富に仕え、富に従い、富によって歩みます。富とはその人を富ませるものですから、お金や財産だけではありません。家や土地、 自分の能力、名誉や名声、健康や趣味などの楽しみ、家族など、色々な物が考えられます。自分を富ませ、自分の気分を良くし、自分を高めてくれるものです。もちろんそのような物は大切ですし、なくてはなりません。しかしそれらがまことの神よりも大切になり、神よりも上になっていく時、人は簡単にそれらの奴隷となってしまいます。そして彼らが頼みにしているそのような神以外のものはやがて崩れ去る、無くなって行く時が来ます。先週も見て来ましたが、神以外のものは有限、限りがあり、それゆえ滅んでいくからです。そしてその先は、イスラエルの人々が偶像礼拝、すなわち神を第一にしなかったことによって裁かれたように、神を第一にしなかった人々は最終的に、神の裁きを経験することになります。なぜなら、富を第一にしていく生き方は、罪が解決せず、罪が残る生き方だからです。神から離れているという罪がずっと続く生き方だからです。ですから富を第一にした人は、その人の持っている罪ゆえに、自ら滅んで行くことになるでしょう。イエスはサタンに誘惑された時、神が与えて下さったみ言葉によって戦い、サタンを退けました。このイエスがなされたこと。それが神を第一にしていることの表れです。すなわち神のことばを第一にするという生き方、歩み、そして時に誘惑と戦い、対処する方法でもあります。「はじめに神が天と地を創造された。」聖書のはじめ、創世記1章1節のことばです。そして創造の経緯が描写されていきますが、神はことばをもって人間を含めた天地万物を創造していきます。神は、神のことばによって人間も含めた全ての被造物を造られ、このことばによって天地万物を保たれ、そしてこのことばを通して私たち人間に語りかけて下さっています。それが神のことば、聖書のことばです。ですからイエスが「聖書にこう書いてある」と言ってサタンの誘惑を退けましたが、それは神のことばを第一にした、すなわち神を第一にされた、ということです。 なぜなら神イコール神のことばだからです。ですからイエスが神のことば、聖書を第一とすることによって神を第一とされたように、私たちも聖書のことばを第一にしていくとき、それはすなわち神を第一にすることであり、神を第一にする生き方であるということです。 父なる神がイスラエルに与えられた十戒の一番目、人間が一番大切にすべき教え、戒めは、「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。」でした。イエスはこの教え、戒めを、神のことば、すなわち聖書に記されているみ言葉を守り、従い、そのことばで戦い、そのことばよって生きることによって、身をもって実践して下さいました。そして罪と罪から来る死とサタンを滅ぼして復活されたイエスは、今、神の右、栄光の座におられます。神のことばを第一にしていく。その先には、神の守り、祝福があり、平安、喜びがあり、罪の赦しと永遠のいのちがあります。私たちもイエスのように神のことばを第一にすることによって、神を第一にしていくことができますように。
祈ります 問43 この第一の戒めは、私たちに何を教えていますか。
答 ”私たちが神さまを愛し、まことの神さまだけを礼拝することです。私たちは、他の神々をおがんではなりません。‘’ ”イエスは言われた。「下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある。」” マタイの福音書4章10節

2026/6/14(日)「神はいくつの戒めを私たちに与えられましたか?」出エジプト34:28 庄司牧師

2026年6月14日 出エジプト記34:28「神はいくつの戒めを私たちに与えられましたか?」
問41 神さまはシナイ山でいくつの戒めを私たちに与えてくださいましたか?
答 十の戒めです。それは「モーセの十戒」と呼ばれています。
モーセはそこに四十日四十夜、主とともにいた。彼はパンも食べず、水も飲まなかった。そして、石の板に契約のことば、十のことばを書き記した。 (出エジプト記 34:28 SKY17)
招詞 こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認められるためです。 (ガラテヤ人への手紙 3:24 SKY17)
月の第二日曜日ですので、いつものように子ども信仰問答からお話をしていきます。
本日は、旧約聖書、出エジプト記の中に記されている箇所です。ここに登場する民族は、イスラエル民族であり、神に特別に選ばれた民ですが、彼らイスラエルがエジプトで奴隷とされているところから、出エジプト記の話が展開していきます。奴隷という身分と苛酷な労働を彼らは憂い、泣き、叫び、神に助けを求めました。神は彼らの涙に応え、モーセをエジプトからの解放者として遣わします。モーセは神から授かった力によって様々な奇蹟を行い、彼らをエジプトから脱出させます。神はその後、イスラエルの人々をご自分の特別な民として契約を結ばれました。その契約の中身が十戒です。十戒は神が彼らに与えられた教え、戒めである律法の中心となる大切な戒めです。
神は、イスラエル民族を通して全人類を祝福する計画をお立てになりました。 全人類ですから、日本人もイスラエル民族と関係があることが分かります。もちろんモーセの十戒も同じです。この十戒は別の言い方をすれば、人間が生きる上での「ルール」、「規則やきまり」です。
もし人間の世界に「ルール」がなかったらどうなるでしょうか。 昔流行ったアニメ、「北斗の拳」の世界になるということです。地域や社会、国など、私たちの生活の舞台が、力や自己中心的な行動が優先される「無法地帯」になるということです。盗んだり、盗まれたり。暴力を振るったり、振るわれたり。殺したり殺されたり。その全てがOKになる恐ろしい世界です。(現在も)
神はそのような世界になることを望んでおられません。そこで人間が秩序や公正を保つためにルールを設けられた。そのルールの具体的な教え、戒めが十戒だと言えます。 その内容は大きく二つに分けられます。人間が神に対して行うべき4つのルールと、人間が人間に対して行うべき6つのルールです。神に対しての4つのルールとは、人間は、聖書の神である、唯一まことの神を信じること。偶像を造って拝んではならない。神の名をみだりに唱えてはならない。安息日(休息の日)を守ること。これら4つが、人間が神に対して行うべきルールです。
一方人間が人間に行うべきルールが、父母を敬うこと。殺してはならない。姦淫してはならない。この姦淫ですが、ある訳には、配偶者以外と性行為をしない。と訳されています。盗んではならない。偽証をしてはならない。隣人の妻や財産を欲してはならない。という6つの教え、戒めとなっています。
しかし人間がこの十戒を知らない時、すなわち神が願っていることを知らない時、どのような歩みになるでしょうか。それはイスラエルを奴隷としていたエジプトの人々を見ると分かります。
エジプトの人々は動物や太陽などの天体を拝み、王であるパロは自分を神であると自称していました。これはさきほど十戒の中で神を神としなさい、偶像を造って拝んではならない、この二つの戒めを破っていることが分かります。権力を持つ者が神となり、また他の人々も神以外のものを拝んでいる。このような姿は、現代を生きている日本人も含め、多くの国々で今もなお、行われています。エジプトの姿と、日本を含めた私たちの世界とは全く変わりがないことが分かります。
ある姉妹からこのようなお話を聞きました。その姉妹の友達で、ある宗教を信じていた人がいたそうです。早起きを含めた修行、また善行を積むなどをモットーとしていた宗教だと思いますが、自分がした様々な良いことなどを発表する場があったそうです。そこでは参加者が、「私はこのような良いことをした。」「私はこのような素晴らしいことをした。」などと言って、自分のした良いことをアピールというか、自慢する場であったということです。結局その人は、「自分にはそのような良い行いはできない」と感じ、その宗教から遠ざかったということでした。
また新約聖書、コロサイ人の手紙の2章の中には、好き勝手な礼拝、自己卑下、肉体の苦行などを通して神を知り、神に近づこうとする人間の姿が描写されています。また別の聖書箇所には、禁欲的な生活によって、神を知ろうとする、神に近づこうとする人々の存在が描写されている。
逆に、死んだら終わりだからただ今を楽しもうと、神を信ぜず欲望のままに生きる生き方をする人々の存在なども、聖書に書き記されています。そのような人間の姿を、新約聖書を約半分書き記したパウロは、「自己満足」であるとしました。自己満足的に、そして自己流に自分の良いと思うことを通して神を礼拝する、神に受け入れてもらおうと努力する。彼らがそのような振る舞いをする一つの原因に、律法、神のルールを知らないということが挙げられます。しかし私たち人間は例え神の教え、戒めである律法を知っていたとしても、誰一人として律法を完全に守ることによって神を満足させることができる人は、誰もいません。それほど神の規準は人間の規準よりも遥かに高く、また厳しいからです。ではなぜ、神は人間が守ることができないルールである十戒、律法を、モーセを通してイスラエル民族に与えられたのでしょうか?
先程紹介したコロサイ人の手紙の著者であるパウロは、ローマ人への手紙7:7節で、人間には完全に守ることができない律法の効果、働きをこのように具体的に挙げています。
ローマ人への手紙7:7 それでは、どのように言うべきでしょうか。律法は罪なのでしょうか。決してそんなことはありません。むしろ、律法によらなければ、私は罪を知ることはなかったでしょう。実際、律法が「隣人のものを欲してはならない」と言わなければ、私は欲望を知らなかったでしょう。前の訳である新改訳第三版ではこのように訳されていました。律法が、「むさぼってはならない」と言われなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。
子どもが親に、「あれ欲しい。みんな持ってるもん。」というセリフを皆さんも聞いたことがあると思います。しかしそれは子どもだけではありません。あれも欲しい。これも欲しい。他の人の持っているもの、全て欲しい。いやそれ以上に欲しい。私たち人間の欲望は限りがありません。
しかし例えそれを手に入れたとしても、もっとたくさんのもの、もっと面白い物、もっと刺激的なもの、もっと欲しい。もっともっともっと。これが人間のむさぼりです。そしてこのような個人的なむさぼりから争いが生じ、国同士のむさぼりからの争いは、戦争にまで発展します。
パウロは人間の持つむさぼり、もっともっと欲しいという欲望は、律法がなければ分からなかった。律法がなければ、神の教え、戒め、ルールが示されなければ、自分も含め、人間は自分にそのような欲望があることすら分からないだろうと、ここで述べている訳です。そしてパウロはこのむさぼりの原因を罪だとしています。何度もお話して来ましたが、罪とは神から離れていることです。人間が愛と義である神を無視し、時に敵対し、離れてしまっている。神の愛から離れているので、人は自分や家族、友人など、自分に関わる者だけを愛する性質を持つようになりました。そして義である神から離れていることによって、自分の規準が絶対正しいと信じ行動することによって、他の規準を持つ人々とぶつかり、争い、時に人殺しまで発展してしまう。それが罪ある人間の姿です。
著者のパウロは自分の罪と戦った人です。そして最終的にこのような結論に至りました。同じローマ人への手紙の7章です。「私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています。」「私は本当にみじめな人間です。」パウロは罪と戦い、自分の力では打ち勝つことができないことを告白しています。しかしパウロは罪との戦いの中で、神の大きな恵みに気付くことができました。それはパウロが書いた別の手紙であるガラテヤ人への手紙に記されています。礼拝の冒頭で、神から礼拝への招きのことば、招詞で読んで頂いた、ガラテヤ人への手紙3:24節です。
こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認められるためです。律法によって神の思い、また完全さを教えられ、その神の完全な規準を満たすことが出来ないと悟った者は、キリストに向かうことになる。律法によって罪を教えられた人は、律法がその人をイエス・キリストへと導く養育係になるとパウロは語ります。そして子どもは成人すれば養育係が必要なくなるのと同じように、イエスがこの世界に救いをもたらすために来て下さったことにより、律法は必要がなくなったということです。 そしてパウロは続けます。
ガラテヤ人への手紙3:25 しかし、信仰が現れたので、私たちはもはや養育係の下にはいません。
3:26 あなたがたはみな、信仰により、キリストイエスにあって神の子どもです。
神の子どもになる条件とは、罪の解決がなされている人です。つまり神から離れているという罪が赦され、神との関係が回復した人々だけが、神の子となることができます。それが聖書の約束です。そのために私たち人間に必要なことが、イエスに信頼を寄せる、イエスを信じて歩む信仰です。こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認められるためです。イエスへの信仰によって、イエスの信仰のみによって私たち人間は神の前に義と認められる。神の前に正しい者と認められることができる。
神は、古い約束である旧約聖書にある十戒、律法を通して私たちに神の御心を示され、それを守ることができない私たち人間の為に、すなわち罪を解決できない私たち人間の代わりに、愛する一人子、イエス・キリストを、私たちの罪の身代わりとして十字架につけられました。
イエスを信じる者は、イエスの贖いによって神の子とされることができるという、新しい約束、新約聖書に記されている神の約束に私たちが生かされていることを感謝しつつ、今週も共にイエスを見上げて歩みたいと願っています。
祈ります。
「神はいくつの戒めを私たちに与えられましたか?」
答 十の戒めです。それは「モーセの十戒」と呼ばれています。
モーセはそこに四十日四十夜、主とともにいた。彼はパンも食べず、水も飲まなかった。そして、石の板に契約のことば、十のことばを書き記した。
こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認められるためです。

2026/3/15(日)「癒しよりも大切なこと」マルコ10:46~52 庄司牧師

2026年3月15日 マルコの福音書10:46~52 「癒しより大切なこと」
さて、一行はエリコに着いた。そしてイエスが、弟子たちや多くの群衆と一緒にエリコを出て行かれると、ティマイの子のバルティマイという目の見えない物乞いが、道端に座っていた。彼は、ナザレのイエスがおられると聞いて、「ダビデの子のイエス様、私をあわれんでください」と叫び始めた。多くの人たちが彼を黙らせようとたしなめたが、「ダビデの子よ、私をあわれんでください」と、ますます叫んだ。イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい」と言われた。そこで、彼らはその目の見えない人を呼んで、「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたを呼んでおられる」と言った。その人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。イエスは彼に言われた。「わたしに何をしてほしいのですか。」すると、その目の見えない人は言った。「先生、目が見えるようにしてください。」そこでイエスは言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救いました。」すると、すぐに彼は見えるようになり、道を進むイエスについて行った。

 マルコの福音書、10章の最後に記されている出来事です。本日の箇所において著者のマルコは、二つの大切なことを理解するようと、読み手に願っているように思います。 その一つは、イエスが私たち人間に仕えるためにこの世界に来て下さったこと。もう一つは、バルティマイのように霊の目が開かれ、大切なことを悟り、救われることです。 人に仕える大切さは、先週取り挙げたマルコの福音書10章45節において、イエスご自身が語られたことでした。
人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。
神の一人子であり、神そのものであるイエスが、「人間」となってこの世界に飛びこんで来て下さいました。イエスは父なる神の御心に100%、完全に従われました。それは贖いのためでした。
罪と死と、サタンの奴隷になっている私たち人間のために、イエスはご自分のいのちを、十字架で代価として支払って下さいました。しもべとして、徹底的に私たち人間に仕えて下さったのがイエスですが、そのしもべとして姿勢、姿・態度が、本日の聖書の箇所である、バルティマイの癒しにも表されています。

当時、宗教指導者であったラビなどは、歩きながら人々に教えていました。おそらくイエスもエリコの町において、歩きながら人々を教え、福音を語っておられたと思います。そんな中、盲目であるバルティマイが叫んでいます。 48節に、「多くの人たちが彼を黙らせようとたしなめた」とありますが、たしなめるということばは、「厳しく言う」とか、「非難する」という意味が含まれている強いことばです。「うるさい、邪魔だ!イエスが言っていることが聞こえないじゃないか!イエスが盲人のお前なんかを相手をする訳ないだろ!どうせお前の目は癒されない!」バルティマイに対して汚いことば、誹謗中傷などが飛び交っていたと想像します。当時のユダヤ人たちは、障害や重い病気などを患っている人は、本人か先祖が罪を犯したゆえに、その罪に対する神からの罰(呪い)であると考えられていました。ですからバルティマイのような盲人は、神から呪われた者として、人々から嫌悪されるような存在であり、誰も近寄って来ることはなかったでしょう。
誰も見向きもしない存在。誰も近寄って来ない存在。それがバルティマイでした。
バルティマイが叫んでいる騒然としている最中、イエスはどういう状況にあったでしょうか。
イエスご自身、緊迫している状況にありました。 イエスとイエスの弟子の一行がエリコの町までやって来ました。これからイエスが十字架に架けられるために向かって行くエルサレムから、わずか3,40キロほどしか離れていません。エリコの町から歩いて1日から2日かかかるというくらい、エルサレムに近づいて来ました。これから全人類の罪を十字架で全て背負って死ぬという、神からの、途方もない使命を全うする時が近づいて来ました。 イエスが一人の盲人に関わり合っている余裕は、肉体的にも、また精神的にもないような場面です。しかしイエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい」と、言われました。彼の叫びがイエスの足を止めました。彼の熱心が、イエスの足を止め、イエスを振り向かせました。そしてイエスは彼を癒されました。
このマルコの福音書では、信仰を通して彼が癒されたことが記されています。平行箇所のルカの福音書の18章においては、イエスがことばで命じることによってバルティマイは癒されています。また同じく平行箇所のマタイの福音書の20章においては、イエスが実際に彼の目に触れて癒しておられます。生きるための力も希望も喜びもなく、社会から排除されていたバルティマイのために、イエスは立ち止まり、声をかけ、体に触れられ、癒されました。
またマタイの福音書の20章には、「イエスは深くあわれんで」という、バルティマイに対するイエスの深い同情が描写されています。イエスは深く憐れみつつ、バルティマイに声をかけ、手で触れて癒されました。「私は仕えられるためではなく、仕えるために来た」とイエスは言われました。社会の底辺にいたようなバルティマイに対してもイエスは誠実に、また優しく振舞われました。ですからイエスのバルティマイへの対応は、イエスが仕えるために来たと言われたことが本当であり、偽りではないことの試金石、証となっています。 全ての人類、私たち全ての人間に仕えるために私たちの世界に来て下さった、それが私たちの主、イエス・キリストです。

著者のマルコが本日の箇所で強調したのは二つでした。イエスが仕えるために来たと語られたことが本当であったこと。そしてもう一つは、私たちの霊的な目が開かれ、救われることです。
なぜバルティマイが救われていると言えるのか。すなわち罪が赦され、神との関係が回復したのが分かるのか。 それはバルティマイが、癒された後にイエスについて行ったからです。バルティマイは目が癒された後、「道を進むイエスについて行った」と、最後の節である52節に記されています。 前の聖書訳は、「イエスの行かれるところについて行った」と訳されています。そのどちらの翻訳においても、バルティマイはイエスが行かれるところにはどこにでもついて行く、ついて行ったという含みがある表現です。イエスの後について行く、従って行くというバルティマイの意志、決意、イエスに対する強い信頼を感じさせる表現が使われています。バルティマイがイエスを自分の主、救い主であると信じなければできない行動であり、あり方です。また著者のマルコは彼の名前を記しました。彼の名前が聖書に載るということは、おそらく初代教会において、彼がキリストの弟子として活躍した可能性を示しています。この後聖書の中に彼の名前は出て来ませんが、名前が載っているということで、彼の活躍が暗示されていると言えるでしょう。
バルティマイは盲目であり46節を見ると、道端に座っていたと記されています。座っていたという時制を見ると、バルティマイはそこにずっと座っていたことが分かる時制です。つまり彼は長い間盲目であったため、物乞いをせざるを得ない状況だったということです。 もしかすると生まれつき盲目であり、彼の家族はすでに亡くなったか、または家族に捨てられてしまったということも考えられます。いずれにせよ彼が孤独だったことには変わりありません。しかしイエスに出会い、彼は肉体的な目だけでなく、イエスを知り、信じるという霊的な目も開かれました。それゆえイエスが神であり、救い主であるということを信じることが出来ました。 家族も、仕事も、地位も名誉も何も持っていなかったバルティマイは、神との関係が回復し、神の子とされ、神の家族に迎え入れられ、更にイエスの弟子としてイエスについていきました。彼の人生は大きく変わりました。人々に見下され、価値があるとは見なされない、何も持っていないような者が救いを受ける。イエスを信じることによる大転換、大逆転劇がバルティマイに起こりました。

イエスがこの世界におられた時、他にもイエスを知る機会があり、実際にイエスと接することができた人は、バルティマイだけではありません-大勢いました、
イエスに敵対していましたが、旧約聖書を教えていた民の指導者でもあった律法学者やパリサイ人たち。イエスに悪霊を追い出してもらった人々。病を癒してもらった人々。イエスの奇蹟を見、あるいは経験した多くの群衆などです。 その中にはバルティマイとは正反対の立場にあった、金持ちの青年も含まれます。彼は財産も高い地位も名誉も、人がうらやむ全てを持っていました。しかしイエスの下から立ち去っていきました。この青年をはじめ、多くの人々がイエスと接点がありました。もっとイエスを知ることも、さらに一歩踏み込んでイエスを信じることもできました。しかしイエスから立ち去って行きました。
聖書によれば、またイエスご自身が言われることばによれば、イエスと信仰によって繋がらなかった者は、イエスの贖いの代価に伴う罪の赦しや神の子とされる特権、永遠のいのちなどに与ることができません。神の国に入れる者と入れない者は、イエスを信じるか信じないかで決まります。

また、バルティマイが救われているという根拠は、彼の叫びにも表れています。彼はイエスのことを「ダビデの子」と叫びました。当時のユダヤの人々は、救い主、メシヤがダビデの子孫から出ると信じていました。バルティマイは、目は見えませんでしたが、耳は聞こえていました。彼は他の人々からイエスの噂や色々な御業を聞いてきた結果、イエスをすでに救い主であると信じました。彼の叫びから、また、イエスに呼ばれて踊り上がってイエスの下に来た、と言う描写からも明らかです。 イエスが自分のところに来て下さるだけで自分は癒される。そのような強い確信をバルティマイが持っていたことが分かります。そして彼はイエスを信じているがゆえに、癒しのチャンスを絶対に自分のものにしようとしました。しかし彼ができることは叫ぶことだけでした。それゆえ彼は自分の出来ること、イエスを信じる信仰を、叫ぶことを通して表明しました。 加えて彼の信仰とその確信は、上着を投げ捨てたことにも表されています。 この上着とは、普段着の上に羽織る厚手の布やマントのようなものです。多機能でした。昼間は寒さを防ぎ、夜は寒さを防ぐだけでなく、毛布の代わりになるような、特に貧しいに人にとっては命を守るほどに大切なものでした。それゆえ、バルティマイの持っていた唯一の財産であったと言えるものです。 この上着はバルティマイにとって、ただの上着ではありませんでした。生活の基盤であり、自分の全て、でした。これを投げ捨てる。まるでこれまでの自分を捨て、自分の持っているものをイエスに差し出す。
イエスに対する献身の現れにも見えます。

バルティマイのイエスに対する信仰、信頼、意志、決意、決断、献身の思いに、イエスはしっかりと応答して下さいました。イエスは52節においてこのようにバルティマイに語られました。
「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救いました。」この後すぐにバルティマイは癒されました。実際にバルティマイを癒されたのはイエスご自身です。実際に彼を癒し、同時に永遠のいのちを与え、滅びから救われたのはイエスご自身でした。しかしイエスは、彼自身の信仰が彼を、バルティマイ自身を救った-救いを彼の手柄としているほどに、彼の信仰を高く評価されています。イエスはバルティマイの信仰、決心、決断、意志、献身の思いに応えるだけではなく、彼の信仰を尊んでおられます。自分の持っている全てをかけてイエスの下にきたバルティマイに対する、イエスの愛と憐れみ、優しさが、バルティマイへの応答を通して豊かに表されています。

そしてバルティマイはイエスの行くところにはどこにでも、進まれるところにはどんな場所でもついて行くことになります。 こうしてバルティマイは数日後、十字架上で叫び声を上げられるイエスの姿を見ることになります。イエスに開いて頂いたその目で、自分の目を開いて下さったお方が十字架につけられる光景をしっかりと見たのです。自分のために足を留め、立ち止って下さったイエス。自分という存在を認め、肉体的な目を開いて下さったイエス。霊的な目も開き、永遠のいのちも与えて下さったイエス。 その愛すべきイエスが自分の罪の身代わりのために、人々の罪の身代わりのために十字架に架けられている。
この時バルティマイは、自分の存在の重みを感じたはずです。私のためにイエスは十字架に架かって下さるほど私を愛しておられる。私をそれほどまでに価値のある者なのだ。 感謝と痛みが、バルティマイの胸にあったと思います。

バルティマイだけではありません。私たちの信仰に応えて下さったイエス。私たちを高価で尊いと言って下さり、認めて下さったイエス。罪人である私たちを、私を憐れみ、愛され、ご自分を献げ尽くして下さったイエス。

この神の子、救い主であるイエス・キリストが、私たちの神、私の主になって下さったことを感謝しつつ、これからもイエスについて行く者、足跡に従う者でありたいと願います。
祈ります
「癒しより大切なこと」
そこでイエスは言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救いました。」すると、すぐに彼は見えるようになり、道を進むイエスについて行った。

「時に適った助け」

2024年6月16日(日) 主日礼拝

聖書:出エジプト記 18章12~27節

説教:庄司牧師

🌈聖書引用
 新日本聖書刊行会 聖書 新改訳2017 (新改訳聖書センター)

 

「主が私のために戦われる」

2023年2月26日 主日礼拝

聖書:出エジプト記 14章13、14、30、31節

説教:庄司牧師

♪賛美
 みつかいとともに     讃美歌21  13番
 今日まで守られ      新聖歌   171番
 父・子・聖霊に      讃美歌21  25番

🌈聖書引用
 新日本聖書刊行会 聖書 新改訳2017 (新改訳聖書センター)

「永遠の掟」

2022年 7月3日 主日礼拝<聖餐式>

聖書:出エジプト記12章21~30節

説教:庄司牧師

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