2026年7月5日 マルコの福音書12:35~37「ダビデの子か、それともメシアか」
イエスは宮で教えていたとき、こう言われた。「どうして律法学者たちは、キリストをダビデの子だと言うのですか。ダビデ自身が、聖霊によって、こう言っています。『主は、私の主に言われた。「あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで。」』ダビデ自身がキリストを主と呼んでいるのに、どうしてキリストがダビデの子なのでしょう。」大勢の群衆が、イエスの言われることを喜んで聞いていた。 (マルコの福音書 12:35-37 SKY17)

 本日は12章35節から37節を見て行きます。35節の一つ前の節、34節にはこのように記されています。「それから後(あと)は、だれもイエスにあえて尋ねる者はいなかった。」前回見た箇所です。一人の律法学者が正直で真面目な態度でイエスに接し、律法の中でどれが一番大切であるかをイエスに問いました。それまでイエスに敵対する様々な宗教指導者たちが、入れ替わり立ち替わりイエスを陥れるための質問をして来ました。しかしイエスがあまりにも的確に、いやそれ以上の知恵を持って答えられる様子を見て、イエスの言葉尻を捕らえてローマ帝国に訴える、もしくは民衆の人気を失わせようとして来た他の宗教指導者たちが、ギブアップ、諦めた時の様子です。
ルカの福音書20:40には、「彼らはもうそれ以上何も質問する勇気がなかった。」と記されています。悪意ある質問によってイエスを陥れることよりも、その質問によってかえって自分が不利になる、面目を失う、だからもうあえて冒険はしない。彼らを黙らせるほどに、イエスの答えは彼らを驚嘆させたということです。それほどまでに彼らを論破してきイエスですが、今度は自ら彼らに質問されました。 35節。「律法学者たちは、どうしてキリストをダビデの子と言うのですか。」新共同訳ではこのように翻訳されています。「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。」新改訳ではキリストというところを、新共同訳では「メシア」と訳しています。
この35節は、新約聖書の原文のギリシャ語では「クリストス」と記されています。それを新改訳聖書では「キリスト」と訳しています。この「クリストス」もしくは「キリスト」という言葉は、旧約聖書の原語のへブル語、「メシア」という言葉が元になっています。新共同訳はこのヘブル語のメシアをそのままイエスに当てはめたということです。
このメシアということばの意味は、「油注がれた者」であり、救い主を表します。旧約聖書には、神によって王や祭司などの務めに任命された者は、そのしるしとして、油が注がれました。ですからメシアは神によって立てられ、任命された者ということであり、次第に神が遣わして下さった救い主を意味することばになっていきました。ですからイエスの時代、メシア、すなわちキリストと言えばそれは「救い主」という意味でした。それゆえ「イエス・キリスト」という呼び方は、「イエスこそキリスト、すなわち救い主である」という意味であり、それ自体が一つの信仰告白となって行きました。
またイエスという名前自体が、「神は救いである」という意味です。そして先程お話したイエス・キリストの「キリスト」ということばは、タイトル、称号でもあります。従って「イエス」という名前も、「キリスト」という称号も、共に神の救いが込められています。そして名前に込められた意味だけでなく、愛ある業、イエスが語られたことば、そして行った多くの奇蹟から、イエスは救い主、メシアとして、罪と罪から来る死から全人類を解放して下さるお方である。そのように信じるに足る多くの証拠、しるしをイエスは持っておられました。そしてイエスご自身が具体的に、旧約聖書を通して自らがメシアなる救い主であることを、ユダヤの人々が尊敬し、愛して止まないダビデ王を引き合いに出して、示そうとされました。それが36,37節です。ダビデ自身が、聖霊によって、こう言っています。『主は、私の主に言われた。「あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで。」』ダビデ自身がキリストを主と呼んでいるのに、どうしてキリストがダビデの子なのでしょう。」
この36節は、旧約聖書の詩篇110篇1節からの引用です。当時の人々はこの110篇をダビデの作と信じていました。イエスもその当時の共通認識に基づいて引用されています。そしてこの詩篇はメシア詩篇として有名であり、メシアが世界の支配者として君臨する様子を描いています。
詩篇110篇1節にはこのよう記されています。共に開きましょう。詩篇110:1節は、聖書の中ほど、旧約聖書P1053です。この110:1節を共に読んでみましょう。『主は、私の主に言われた。「あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで。」』これは主なる神が、救い主の勝利とそのご支配の確立を告げておられるところです。主は、私の主に言われたと、「主」という言葉が二度使われています。マルコ福音書の原文においては、両者は同じことばが使われていますが、詩篇の原文においてはこの二つは全く別のことば、単語が使われています。初めに記されている「主」は旧約聖書の原語のヘブル語で「ヤーウェ」あるいは「ヤハウェ」と読まれる、イスラエルの神のみ名を指す固有名詞で、太文字で表されています。私たちが父なる神と呼ぶお方でもあります。文語訳聖書ではこれを「エホバ」と訳していましたが、口語訳から「主」と訳されるようになりました。それに対して次に記されている「わたしの主」の方の「主」は、ヘブル語で「アドーン」と表記され、「主人」という意味の普通名詞です。太文字で表されていません。ですから引用元の詩篇を「主」の違いに注意して訳すのであれば、このようになるでしょう。「イスラエルの神ヤハウェが、私のご主人様にこうお告げになった。」この詩を歌ったのがダビデ自身だとすれば、ダビデ自身が、まだ見ぬ子孫、しかも自分からすれば子どもにあたる人物を、来るべき救い主として「わたしの主、わたしのご主人さま」と呼んだということになります。ダビデにとってのご主人となる「主」とは、メシアなる救い主、イエス・キリストです。またイエスは36節で、「ダビデ自身が、聖霊によって、こう言っています。」と語られました。つまりダビデのこのような告白は、聖霊から預言として受け取った告白である、ということをイエスは示しておられます。
系図の上では、イエスは実際にダビデの子孫としてお生まれになりました。新約聖書の始め、マタイの福音書の1章1節を見ると分かります。「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」 イスラエル民族の重要な父祖であるアブラハムから、彼らが愛し尊敬しているダビデ王を経て、イエスに至る系図です。 ルカの福音書3章にも、イエスがダビデ家の子孫であるヨセフの子どもとしてお生まれになったことが、記されています。そして補足するとすれば、このルカの福音書の3章の系図は、イエスから始まり、人類の始祖であるアダムにまで遡っています。
話を戻します。ユダヤの人々は、この詩篇110篇が、将来到来するメシアが預言されているものとして、誰もが知っていたような詩篇でした。そして彼らはこの詩篇が、特に敵に対するメシアの勝利の歌と考え、解放者なるメシアの姿を思い浮かべていました。イエスが人として歩まれた当時、ユダヤの人々にとっての敵とはローマ帝国でした。従って彼らユダヤの人々は、いつか救い主であるメシアが到来し、ローマ帝国を倒し、ローマから自分たちを解放してくれる。このような思い、願い、期待を、イエスの弟子たちも持っていたということを以前お話したことがあります。すなわち人々は、イエスが支配者であるローマから自分たちを解放して下さる、目に見える政治的・軍事的王としての姿を期待していました。しかしイエスはご自身が目に見える王ではなく、目に見えない霊的な領域を司り、また統べ治める者、救い主としてご自身を証されて来ました。つまり今まで間違って解釈されて来た詩篇110篇1節が、イエスによってようやく正しく理解され、説き明かされたということです。そして旧約聖書に記されている救い主到来の預言が、イエスを通して成就、実現した、ということができます。それはイエスを信じる者に与えられる罪の赦しであり、人間と神との関係の回復であり、永遠に続くいのちという霊的なものです。 イスラエル民族だけ、一民族だけに及ぶ回復や解放ではなく、全ての人類に及ぶ普遍的回復、解放です。
詩篇110篇1節は、天地を造り支配しておられる神が、救い主、イエス・キリストを通して全ての敵を打ち破らせ、ご自分の右の座に就けて下さったという、メシアなるイエスの支配が確立されたことを告げるみことばです。敵とはサタン、神に反逆し、人間を罪に陥れた悪魔です。また、人間がアダムとエバから受け継いでいる罪と、罪から来る死です。さらに罪は、私たちを神の恵みから引き離すものです。神から離れるという罪を犯した結果、私たち人間は人生において心配や恐れ、不安、悲しみ、絶望や争いなどが生み出されてしまいました。しかしイエスはそれら人間の不幸であり絶望の元となる罪を全て背負われ、それら罪と共に十字架に架かって下さいました。そしてその死と共に罪を葬りさり、その死から復活されることによって、人類の罪と、罪から来る悲しみ、痛み、絶望、そして死から勝利して下さいました。イエスは復活を通して、私たち人類に肉体の死を越えた新しいいのちを示され、死はもはや私たちを絶望させるものではなくなりました。そして復活された救い主なるイエスが天に昇り、父なる神の右の座に就いて下さったことを通して、イエスを信じる全ての人々が、イエスのご支配、すなわち神の恵みの下に置かれることができる、と言うことができます。
ところで皆さんは、バルティマイを覚えておられるでしょうか。このマルコの福音書10章の46節に登場する盲人、目が見えず、物乞いをしていた人です。当時のユダヤ人たちは、障害や重い病気などを患っている人は、本人か先祖が罪を犯した結果、その罪に対する神からの罰(呪い)を受けた者であると考えていました。ですからバルティマイのような盲人は、神から呪われた者として、人々から嫌悪されるような存在であり、誰も近寄って来ることはありませんでした。そのような彼ですが、人々がイエスのことを話していることを通して、イエスが自分の目を癒して下さると、イエスに望みを置きました。彼は道ばたから叫びます。「ダビデの子のイエス様、私をあわれんでください」と叫び始めた。多くの人たちが彼を黙らせようとたしなめたが、「ダビデの子よ、私をあわれんでください」と、ますます叫んだ。この時バルティマイはイエスをダビデの子と呼んでいます。バルティマイもまた、イエスのことをダビデの子孫と見なしていることが、この叫びにも表されています。そしてイエスは立ち止まり、他の人に彼を連れて来るように命じられました。イエスはバルティマイにお尋ねになりました。「わたしに何をしてほしいのですか。」並行箇所のルカの福音書によれば彼はこのように答えています。「主よ、目が見えるようにしてください。」
ダビデの子と叫んでいたバルティマイでしたが、イエスが自分の下に来られた時、「主よ、」という呼びかけに変わっています。バルティマイにとってイエスは、自分に全く関わりがない一支配者、一解放者である「ダビデの子」という世間一般に言われていた遠い存在でした。しかし彼は「主よ、」と呼びかけた時、イエスを個人的な神として、個人的なメシア、救い主として信じる、受け入れた瞬間でした。 そのバルティマイに対してイエスはこのように宣言されました。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救いました。」
イエスの宣言の後、このようなことが起こりました。その人はただちに見えるようになり、神をあがめながらイエスについて行った。これを見て、民はみな神を賛美した。これはルカの福音書の記述ですが、イエスは誰にも見向きもされないバルティマイに近寄られ、声をかけられ、実際に彼に手を触れられました。そして実際に彼を癒すことによって、イエスは夢も希望もない、半ば死んでいたような人を生き返らせ、新たに力と生きる希望を与えられました。それを見た回りの人々は神の愛、力、栄光を賛美しました。一人の人の癒やし、人生の回復は、他の人々にも及んでいくということが現わされている出来事です。この目が見えない人の人生の再生、回復は、イエスに信頼を置く、すなわちイエスを自分の主、救い主なるメシアとして信じ、受け入れた時から始まりました。加えて罪の赦しという永遠に関わる救いをも手にしたのが、バルティマイでした。
現代を生きる私たち一人一人も、このバルティマイのように盲目です。目に見えない神、目に見えない悪魔、目に見えない罪、目に見えない神の裁き、目に見えない永遠のいのちなど、霊的な事柄に対してです。そのことに気付くか。そのことを認めることができるか。私たちの永遠を分ける大きな気付きです。
ダビデは将来自分の家系から生まれて来ることになるメシア、イエス・キリストが救い主であることを、聖霊の働きを通してイエスがお生まれになる前から、すでに予知、預言していました。そして人々に蔑まれていたようなバルティマイもまた、イエスをメシアなる救い主として信じ、肉体的な目だけでなく、霊的な目も開かれ、永遠の救いを手にしました。私たちはどうでしょうか。

新約聖書、ヘブル人への手紙に、「イエス・キリストは昨日も今日もとこしえに変わることがない」と記されています。メシアなる救い主イエス・キリストは今も生きておられます。このイエスをダビデの子、聖書に記されている一支配者、一解放者、またはキリスト教を始めた始祖、倫理的に偉大な指導者などと取るか、それとも自分の主、「私の救い主」と取るか。現代を生きる私たちにの大きな違い、永遠に至る違いをもたらします。罪が赦され、神との関係の回復に至るか。そして神との関係の回復を通して、自分自身と他の人々との回復にも影響を与えるか。その違いはただ、イエスに信頼を置くか。イエスを信じて生きていくか。という決心、決断の違いだけです。
私たち人間に最も大切な決断-イエスを信じて歩んで行くという歩みを-今も生きておられるイエス・キリスト、メシアなるイエスが、日々導いて下さいますように。
祈ります
「ダビデの子か、それともメシアか」
ダビデ自身がキリストを主と呼んでいるのに、どうしてキリストがダビデの子なのでしょう。」大勢の群衆が、イエスの言われることを喜んで聞いていた。