2026年1月18日 マルコの福音書10:13~16「神の国の条件」
さて、イエスに触れていただこうと、人々が子どもたちを連れて来た。ところが弟子たちは彼らを叱った。イエスはそれを見て、憤って弟子たちに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。邪魔してはいけません。神の国はこのような者たちのものなのです。まことに、あなたがたに言います。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。」そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。
イエスに触れてもらって祝福して頂こうと、人々が子どもたちをイエスのもとに連れて来ました。しかし弟子たちは、緊迫したエレサレム上りの最中に、子どもたちのために時間も労力も使う必要はない。子どもごときのことでイエスさまの足を止めたくない。子どもたちを連れて来た人々と、子どもたちを叱りました。「叱った」という言葉は、イエスが汚れた霊に対して叱ったと言われた、その言葉と同じ言葉です。とても強いことばです。弟子たちの苛立ちが感じられます。 しかしイエスはそのような弟子たちの姿を見て、憤って弟子たちに言われました。
「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。邪魔してはいけません。神の国はこのような者たちのものなのです。まことに、あなたがたに言います。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。」
イエスご自身が、子どもに、神の国に入るのにふさわしい性質を見出されていることが分かります。そのような子どもの性質、特徴をイエスは、子どもが神の国を「受け入れる」者たちとして紹介されています。 では、子どもはどういった神の国に相応しい特徴を持っているでしょうか。
子ども、幼子の特徴について、ある注解書にはこのように書かれています。「幼子の態度の第一は、ものを平然として受け取る能力、当然のようにして贈り物を受け取る態度である。…第二の特色的態度は、平然と「来る」ことにある。…幼子はたとい親から叱られても夕方には当然のことのように我が家に帰って来るように、親子の関係を疑わない。彼らにはねじれた関係や破れた縁を改善するという考えはなく、関係性への信頼がある。」 なるほど、確かに子どは例え親に怒られても、親子の関係は疑いません。そして親にごめんなさいをすれば、「すぐ、遊ぼう!」と誘って来ます。(私の子どもはそうです)親はいつも食べ物をくれるし、決して自分を見捨てることはないと信頼しています。また彼らは親なり誰かから贈り物があれば、喜んで受け取ります。素直で正直であると言える子どもの姿です。 そして子どもたちの素直な姿だけではなく、12節には、子どもたちの弱さ、弱い立場を感じさせます。それは、子どもたちが両親か誰かに「連れて来られた」存在だからです。自分の力や意志でイエスの下へ来ていません。 子どもたちが親に依存し、親の言うことを聞き、信頼し、従っている素直で正直、そして反面弱い立場、力の弱さを感じさせます。
実際当時のユダヤ社会においては、子どもは人として未熟な存在であり、価値がある存在とは認められていませんでした。目上の者に服従し、世話をされる者であり、尊敬されるべき者ではありませんでした。信仰的なことを悟る知恵もなければ、社会的な身分や地位もないと見なされていた、それが子どもたちでした。 そのため当時の宗教者たちやユダヤ一般の人々は、神の国に入るためには、子どものように功績も取り柄もない者ではなく、賢く知恵ある成熟した大人として、多くの良い行いや功績を持たなければならない!と考えており、弟子たちもその影響を受けていたと思われます。 従って子どものようになって神の国に入るなどということは、ユダヤ人たちにはまったく考えられないことでした。 しかし子どものように単純に何かを「受け入れる」というのは、実は簡単なようで、とても難しいものだと思います。
アダムとエバが善悪の知識の木の実を食べたことで神から離れ、罪の始まりとなってしまいました。それは二人が、神の戒めをそのまま受け入れることができなかった結果です。アダムとエバは自分たちの力で神のようになり、そして神抜きで、自力で生きていくこと願いました。私たち人間は二人の罪だけでなく、性質や性格も受け継いでいます。また特に年齢を重ねていくと、人間は更に自分の知識や経験に頼って生きていきます。 つまり、神に言われることを素直に聞いて、神を信頼して生きていくよりも、自分で納得し、自分が持っている知識に頼り、努力をして(努力は悪いことではありませんが)自分で何かを獲得する、成し遂げようとする性質や性格があるということです。 また加えて、このような知識や経験が邪魔して、当然のようにして贈り物を受け取るといった、子どものような態度を取ることはできません。 贈り物を受けるには自分にそうした資格がなければならないと思ったり、もらうからには何かお返しをしなければと思ってみたり、贈り物をくれるのは何か相手に魂胆があるからだろうと、疑ってしまったりするからです。 子どもたちのように、喜んで素直に平然とは受け取りにくい。 これは神が差し出す恵み、救いを受け取るのを躊躇してしまう態度にも表れています。 自分は神の恵みを受け取るには相応しくない。もっとイエスのこと、聖書のことを知ってからではないといけない。教会がしていることは人集め、布教でしょう。ただイエスを信じるだけで天国にいけるなんて虫が良すぎる。 色々な理由を並べ立て、結局は自分の知識、考え、価値観を優先させてしまいます。 そのように神の恵みすら拒んでしまうのが人間、それも特に、大人の人間の姿であり、態度だと思います。ですから素直で正直、弱く、時に図々しく見える子どもたちを、当時のユダヤ人の大人たちが見下す、下に見るというのは、無理ないことだったかもしれません。
では、子どもたちを下に見ていたイエスの弟子たちは、どういう人間だったでしょうか。「イエス様に軽軽しく近づくな!」そう叱った弟子たちの姿、態度がありました。自分たちはイエスの重みが分かり、イエスにお仕えする資格があると思っていました。しかし彼らは十字架の直前でイエスを裏切り、イエスを見捨てて逃げ出し、「イエスなどそんな男を知らない」と呪いをかけてまで誓う、弱い人間たちでした。 そして本当は弱い弟子たちが、さらに弱いと思われていた子どもたちを下に見ている。このような弟子たちがイエスに近づき、またお仕えする資格が、本当はあるのでしょうか?ないと思います。 彼らは決してイエスの弟子として相応しい者たちではありませんでした。しかしそういう弟子たちを、イエスはあえてご自身の直弟子として選んで下さいました。
私たちには決して分からない、神の一方的な選びでした。物事に無頓着、計算高くないと思われ、イエスに相応しくないと思われている子どもたちよりも、さら相応しくない弟子たちの姿。それはまさに私たち弱い人間であり、人間本来の姿でもあると思います。
そのような弱く愚かな弟子たちに、また群衆にイエスは、「神の国は子どものような者たちのものなのです。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。」
と語りかけられました。それも子どもたちを抱き寄せ、祝福しながらです。 一方見下されている、人々に下に見られている子どもたちは喜んで、イエスの祝福を受け止めました。子どもたちは、自分たちにはイエスの祝福を受ける資格がないなどとは思いません。私は悪い子なのでダメです、などとも言いません。さっきまで悪さをしていたかもしれません。 弱いと思われ、時に図々しいと思われているような子どもたちが、平然とイエスの懐で祝福を受けています。
私は最近、神から語られることを受け入れるということがどういうことか、神の愛、恵み、祝福をそのまま受け入れることがどういうことかを、体験しました。 それは本日の箇所でイエスが語られている、イエスのことばをそのまま受け入れる時にある祝福に通じるものだと思います。
つい最近、先週ですが、気持ちが落ち込んで、まるで自分が穴に陥っていると感じるような時がありました。自分の弱さ、欠点に向き合わなければならない時がありました。 怒りや不安がコントールできず、自分に腹が立ちました。自分が嫌にもなりました。そして自分の非を認めることよりも、他の人のせいにして、自分の立場、思い、プライドを守りたくもなった、時でした。 祈りつつ、神に助けを求めました。そしてある瞬間、主は私に、ヨハネの福音書の8章を示して下さいました。ここには姦淫の現場で捕らえられた女性が登場します。 例のごとく、パリサイ人たちがイエスを罠にかけようとイエスに質問しました。「姦淫をした者は、モーセの律法によれば死刑です。あなたはこの女性をどう思われますか?」彼女が律法を違反していると認めれば、彼女が石打ちの刑を受けても私は文句はない、と認めることになり、この女性がいのちを失うばかりか、イエスは憐れみがないと人々から烙印を押されるにことになります。 また一方、律法に違反していないと言えば、それは嘘になってしまいます。今度はイエスが律法を違反する者として訴えられてしまいます。どちらを答えてもイエスは不利になる状況でした。イエスはこの問いに対して、「この中で罪の無い者が先ず石を投げなさい」と言われました。すると年長の人からイエスの下を去っていきました。(かっこいい!場面です)そしてイエスはこの女性に対して「わたしもあなたにさばきを下さない。(前の訳では罪に定めない・共同訳では罰しない)行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」と言われました。この宣言が先週、「私」に向けて語られていると感じました。イエスが罪を犯してしまった女性をそのまま受け入れたように、弱い私、葛藤している私、困っている私もそのまま受け入れて下さっているということを、私はこの時再び確信し、喜びと感謝、そして平安に満たされた瞬間でした。今も平安と喜びがあります。
「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。」とイエスは言われました。神の国、神が支配され、統治されている国、御国、天国です。その神の国に入り、永遠のいのちを持つための妨げとなる罪を、イエスは十字架を通して、私たちのために取り除いて下さいました。そのことをただ子どものように信じる。イエスを信頼して受け取る。 自分がその愛に値するために何か努力や善行を積むといったことは必要ない。ということです。
本日の最後の聖書箇所にはこのように記されています。
そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。
イエスは実際に子どもたちだけでなく、子どものように神に、イエスに信頼して近づく者たちすべてを抱きしめ、祝福して下さり、神の国へと導いて下さるお方です。 イエスに感謝しつつ、
お祈りします。
「神の国の条件」(神の国に入る条件)
まことに、あなたがたに言います。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。」