十戒

2026/8/9(日)「第一の戒めは何を教えていますか?」マタイ4:10 庄司牧師

主日礼拝 2026年8月9日(日) 10:40~ 

聖書:マタイの福音書 4章10節

説教:庄司牧師

問43 この第一の戒めは、私たちに何を教えていますか。 答 ”私たちが神さまを愛し、まことの神さまだけを礼拝することです。私たちは、他の神々をおがんではなりません。”イエスは言われた。「下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある。」” マタイの福音書4章10節 月の第二日曜日です。本日も子ども信仰問答からお話をしていきます。前回の箇所を少しおさらいしたいと思います。前回の問42は、「第一の戒めは何ですか?」そして引用されていたのが出エジプト記です。「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない」(出20:3)                                   そしてその具体例として取り上げられていたのが、申命記4:35節、 “あなたにこのことが示されたのは、主だけが神であり、ほかに神はいないことを、あなたが知るためであった。’’です。 「主だけが神であり、ほかに神はいないことを、あなたが知るためであった。」主なる神は、ご自身が唯一、まことの神であるということを、出エジプト記において示されました。イスラエルの叫びに答えて奴隷から解放し、約束の地、カナンに向かう荒野においても同行されました。パンであるマナを降らせ、必要な水や肉なども備えられました。イスラエルの主なる神への不平、不満、不従順を忍耐され、おおよそ40年にわたって彼らを守り、導き、祝福を与え続けられました。 それほどイスラエルのことを愛され、イスラエルを導いて来られた主なる神が、「私だけを神としなさい」と、十戒を中心とした律法をsイスラエルに与えられました。 しかしイスラエルはモーセが十戒の石板を受けにシナイ山にいた時、長い不在から不安になって金の子牛の像を造り、神としてしまいました。偶像礼拝の罪です。神との契約を破り、罪を犯した者たちはこの後、モーセを通して粛清、すなわち神に裁かれました。その罪の根本は、偶像礼拝も含め、主なる神を第一にしなかったからです。主なる神を第一としない者は、裁かれる。自ら滅びを招くということです。この出来事を踏まえて、本日の箇所を見ていきましょう。本日の聖書箇所は、イエスが悪魔、サタンに誘惑された時に宣言されたことばです。この悪魔のイエスへの試み、誘惑が、マタイの福音書4:1節から始まり、本日の聖書箇所である10節まで続きます。一つ目の誘惑は、悪魔が40日の断食を通して空腹の絶頂であったイエスに、この石がパンになるように命じなさい、というものでした。この誘惑は、イエスが神から与えられたカリスマ、賜物だけで父なる神に頼らず、自分の力だけで人々を救いに導いていくよう、すなわち神から離れて自立するようとのサタンの誘惑でした。この誘惑に対してイエスは、「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」申命記8:3節を引用して答えられました。しかし神から離れていること自体が、そして神から離れて自分の力だけで物事を進めていくこと自体が罪ですから、これはサタンからの罪への誘いでもありました。イエスはここで、「人はパン自体で生きるのではない。パンを含め、人間が生きるのに必要なすべては神のことばを通して供給されている。私たちは神のことばによって生かされているのだから、ただ神に依り頼み、自分に与えられた神からの能力を、自分の願望を満たすために用いることはしない!」そのような思いと神への信頼を持ち、神のことばによってサタンの誘惑を退けました。二つ目に悪魔はイエスに、「詩篇に、御使いがあなたの足が石に打ち当たらないように守ると書いてある。-試しに神殿の屋根から飛び降りてみて、神のことばが本当にそうなるか、証明してみよ!」と誘いました。 あなたが神の子であるというしるしを、人々が奇蹟を通して見れば、彼らはあなたを救い主であると信じるだろう、という誘惑でした。サタンは詩篇91:11,12を引用しましたが、「すべての道で」あなたを守られるという「すべての道」ということばを故意に、わざと落としています。悪魔はみ言葉を良く知っており、時にみ言葉を自分の都合の良いように変え、用い、誘惑して来るということです。そしてこの誘惑は、イエスが人間を救うという大きな目的のために、父なる神のことばをただ、自分の働きの保証とするようにとの誘惑でした。この誘惑に対してイエスは「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」と、申命記6:16節を引用して答えられました。一つ目の誘惑に続いて、二つ目の誘惑も、イエスはみ言葉で悪魔に応戦されました。そして三つめ、これが最後の誘惑になりますが、悪魔はこのようにイエスを誘惑しました。8節、9節です。悪魔はまた、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての王国とその栄華を見せて、こう言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これをすべてあなたにあげよう。」イエスが悪魔に妥協して権力を持ち、政治的な王として人々を救いに導くようにとの誘惑でした。これに対してイエスが答えられたのが本日の聖書箇所10節です。そこでイエスは言われた。「下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある。」申命記6:13節の引用です。「主に仕えることを犠牲にしてまでして、使命達成を追求することはしない!」というイエスのご意志です。すると悪魔はイエスから離れていきました。み言葉で悪魔と戦って行く時、悪魔は離れて行くということです。それはつまり、悪魔の誘惑に打ち勝つことができる、ということです。 悪魔はサタンとも呼ばれていますが、サタンは「試みる者」とか「訴える者」とも呼ばれ、神とその救いの目的とに対する「敵」を意味します。サタンは神を憎んでいます。そしてその憎んでいる神が愛している人間も憎いため、一人でも多くの人間が神から離れるように策略を巡らしているだけでなく、願わくは神の子とされている私たちクリスチャンにも神を疑わせ、日々、信仰を奪おうと働いています。その戦略、策略が表されている箇所があります。それが本日の箇所です。マタイの福音書4:8,9。悪魔はまた、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての王国とその栄華を見せて、こう言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これをすべてあなたにあげよう。」 この箇所を平行箇所のルカの福音書4:6で見たいと思います。第三版の聖書訳でお読みします。ルカの福音書4:6「この国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。 旧約聖書、ヨブ記を見ても分かりますが、神の許可、神の許しがなければ、サタンは働くことができません。つまりサタンの活動も、誘惑や攻撃も、主なる神ご自身が持つ大いなるご計画と主権の中で許されている、ということです。そして実際にサタンはこの世において、この人にならいいという、イエスに反対している人々-特に力のある政治家、独裁者などの権力者を選んで、権力や栄光を与えることができるということです。 繫栄し、栄光を受けている者の背後に、悪魔の働きがあるということです。しかしこの悪魔の誘惑は、国の指導者や政治家など、力や権力を持っている人々に限りません。全ての人類が悪魔の誘惑に日々、晒されています。イエスは新約聖書、マタイの福音書6章24節においてこのように語られています。「だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神と富とに仕えることはできません。」神か富か。私たち人間はどちらかを選んで仕える、すなわちそれを大切にし、それに従い、それによって歩む、ということです。しかしどちらも同じようには愛せない。重んじることはできない。神を選んだ人は、神を大切にし、神に仕え、神に従い、神によって歩みます。一方富を選んだ人は、富を大切にし、富に仕え、富に従い、富によって歩みます。富とはその人を富ませるものですから、お金や財産だけではありません。家や土地、 自分の能力、名誉や名声、健康や趣味などの楽しみ、家族など、色々な物が考えられます。自分を富ませ、自分の気分を良くし、自分を高めてくれるものです。もちろんそのような物は大切ですし、なくてはなりません。しかしそれらがまことの神よりも大切になり、神よりも上になっていく時、人は簡単にそれらの奴隷となってしまいます。そして彼らが頼みにしているそのような神以外のものはやがて崩れ去る、無くなって行く時が来ます。先週も見て来ましたが、神以外のものは有限、限りがあり、それゆえ滅んでいくからです。そしてその先は、イスラエルの人々が偶像礼拝、すなわち神を第一にしなかったことによって裁かれたように、神を第一にしなかった人々は最終的に、神の裁きを経験することになります。なぜなら、富を第一にしていく生き方は、罪が解決せず、罪が残る生き方だからです。神から離れているという罪がずっと続く生き方だからです。ですから富を第一にした人は、その人の持っている罪ゆえに、自ら滅んで行くことになるでしょう。イエスはサタンに誘惑された時、神が与えて下さったみ言葉によって戦い、サタンを退けました。このイエスがなされたこと。それが神を第一にしていることの表れです。すなわち神のことばを第一にするという生き方、歩み、そして時に誘惑と戦い、対処する方法でもあります。「はじめに神が天と地を創造された。」聖書のはじめ、創世記1章1節のことばです。そして創造の経緯が描写されていきますが、神はことばをもって人間を含めた天地万物を創造していきます。神は、神のことばによって人間も含めた全ての被造物を造られ、このことばによって天地万物を保たれ、そしてこのことばを通して私たち人間に語りかけて下さっています。それが神のことば、聖書のことばです。ですからイエスが「聖書にこう書いてある」と言ってサタンの誘惑を退けましたが、それは神のことばを第一にした、すなわち神を第一にされた、ということです。 なぜなら神イコール神のことばだからです。ですからイエスが神のことば、聖書を第一とすることによって神を第一とされたように、私たちも聖書のことばを第一にしていくとき、それはすなわち神を第一にすることであり、神を第一にする生き方であるということです。 父なる神がイスラエルに与えられた十戒の一番目、人間が一番大切にすべき教え、戒めは、「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。」でした。イエスはこの教え、戒めを、神のことば、すなわち聖書に記されているみ言葉を守り、従い、そのことばで戦い、そのことばよって生きることによって、身をもって実践して下さいました。そして罪と罪から来る死とサタンを滅ぼして復活されたイエスは、今、神の右、栄光の座におられます。神のことばを第一にしていく。その先には、神の守り、祝福があり、平安、喜びがあり、罪の赦しと永遠のいのちがあります。私たちもイエスのように神のことばを第一にすることによって、神を第一にしていくことができますように。祈ります。 問43 この第一の戒めは、私たちに何を教えていますか。 答 ”私たちが神さまを愛し、まことの神さまだけを礼拝することです。私たちは、他の神々をおがんではなりません。‘’ ”イエスは言われた。「下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある。」” マタイの福音書4章10節

2026/7/12(日)「第一の戒めは何ですか?」申命記4:35 庄司牧師

問42 第一の戒めは何ですか。 答「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない」ということです。(出エジプト記 20章3節) 聖書 “あなたにこのことが示されたのは、主だけが神であり、ほかに神はいないことを、あなたが知るためであった。” 申命記 4章35節 招詞 申命記7:9  あなたは、あなたの神、主だけが神であることをよく知らなければならない。主は信頼すべき神であり、ご自分を愛し、ご自分の命令を守る者には恵みの契約を千代までも守られる。                              月の第二日曜日です。本日も子ども信仰問答からお話をしていきます。前回の問41から、モーセの十戒に関することを見ています。 第一の戒めは何ですか?という問いの答えとして、出エジプト記20章3節から引用されています。「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。」この問いに対してさらに詳しく語られているのが申命記4:35節です。「あなたにこのことが示されたのは、主だけが神であり、ほかに神はいないことを、あなたが知るためであった。」 神に特別に選ばれた民であるイスラエル民族が、奴隷とされていたエジプトからどのように脱出し、どのように約束の地へと旅をして行くかという、出エジプト記の後の出来事が記されているのが、この申命記です。従って本日見て行く申命記4:35節は、イスラエル民族がエジプトを脱出した時にあった主なる神の介入や奇蹟、また荒野における主の守りと導きなど、出エジプト記に記されている、イスラエル民族の経験が元になっています。そして彼らイスラエルの経験した全ては、「主だけが神であり、ほかに神はいないということを知るための、分かるための、理解するための経験になった。」と、モーセは本日の35節で彼ら、イスラエルに告げています。 出エジプト記に描写されているイスラエル民族の歩みは、決して主なる神の御心に沿ったものではありませんでした。 彼らイスラエルは荒野において食べ物や飲み物のことで主に不平を言い、主を試み、また、主が選び、立てたリーダーであるモーセに反逆することによって、主なる神に逆らって来ました。しかし彼らの主なる神に対する不信仰、また不従順は、彼らに大きな代償を支払わせることになりました。 エジプトを脱出したイスラエルが向かった約束の地、カナンまでの直線距離は、出エジプトした時の場所、ラメセスから約200km〜300 kmです。敵を避けてカナンに向かって旅をしていったことから、実際はもっと長い距離を移動したのは事実ですが、本来であれば10日から数週間、1か月もあれば到着できる距離です。 しかし彼らは40年という長い歳月をかけて荒野をさまよいました。それは偶像礼拝や神への反逆など、彼らの不信仰、不従順に対する神からの罰でした。しかしそれでも主は、イスラエル民族の父祖となるアブラハム、その子孫であるイサク、ヤコブに約束されたように、今のパレスチナにあたる約束の地、カナンに彼らを導いて行かれます。 神は荒野での40年の間、彼らをカナンに導くために、敵から彼らを守り、マナをはじめとした、生きるのに必要な食べ物や飲み水などを与えて来られました。彼らが不信仰、不従順であっても、彼らを見捨てることはありませんでした。神は愛と慈しみに満ちておられるだけでなく、約束に誠実で、また忠実なお方であるということが分かります。このような神の愛と守りの中、彼らは40年をかけて、川を隔てたカナンの東側、すなわちヨルダン川の東にやって来ました。 イスラエル民族は、これからいよいよヨルダン川を渡ってカナンに地に入って行きますが、その前にモーセはもう一度、神が民と結ばれた契約を、改めて彼らに思い起こさせようとしています。申命記の「申」という文字は、もう一度、とか、再びという意味です。文字通りモーセは、神がイスラエルに与えられた生きる上での指針、ガイドラインである教え、掟、すなわち律法を、もう一度イスラエルに語り聞かせた、それが申命記です。 約束の地、カナンには先住民族がいます。また、彼ら先住民族が信じていた偽りの神々の存在もありました。敵を恐れず、また偽りの神々を彼らのように拝む、つまり偶像礼拝などから守られるためには、主だけが神であり、ほかに神はいないということを、カナンに入る前にもう一度イスラエル民族は確認する必要がありました。そのためモーセは、彼らに今まであった、そしてこれからも必ずあるであろう主の守りと導き、主なる神に従う者にある祝福を、カナンに入る前に思い出させようとしています。 そして本日の箇所、申命記4:35節です。 あなたにこのことが示されたのは、主だけが神であり、ほかに神はいないことを、あなたが知るためであった。「あなたにこのことが示されたのは」と記されています。これらのこととは、彼らイスラエル民族が40年にわたって体験して来た主の守り、導き、祝福です。神が約束されたカナンの地に、これから入っていこうとしている世代は、40年の荒野の放浪の中で不信仰ゆえに死に絶えてしまった人々の子ども、孫にあたる第二世代、第三世代です。彼らは神がモーセを通して偉大な奇蹟を起こされ、奴隷とされていたエジプトから脱出させて下さったこと。紅海が分かれてイスラエルはその中を進み、エジプト軍は飲み込まれてしまったこと。また荒野でのパン、すなわちマナが毎日降った奇蹟など、若い世代は殆ど経験していません。例え経験していたとしても、それは子どもの時であり、その記憶は定かではなかったでしょう。しかし彼ら若い世代は、両親などから、それらの様子を聞く機会がありました。彼らが語り聞かされて来たことは、神が教えられた掟と定めを守ることによって与えられる祝福と助け、逆に守られない時に起こる不幸、裁き、などだったでしょう。 そのようなイスラエル民族の歩みですが、荒野における主の守りと祝福が強調されている描写が2章にあります。2:7節です。2:7 事実、あなたの神、主は、あなたのしたすべてのことを祝福し、あなたの、この広大な荒野の旅を見守ってくださったのだ。あなたの神、主は、この四十年の間あなたとともにおられ、あなたは、何一つ欠けたものはなかった。イスラエルの荒野の40年の歩みにおける、主の守りと祝福の描写です。その祝福と恵み、主なる神の導きをあなたがた若い世代、次の世代のあなたたちは受け継いでいるのだ。その受け継いだ神の恵みと祝福を忘れず、生涯心から離すことなく歩みなさいとモーセは民に語りかけています。 さきほど、申命記4章は偶像礼拝に巻き込まれる危険性が記されているとお話しました。そしてこの4章には、偶像礼拝を憎悪する主なる神のことが、「ねたむ神」と表現されています。24節です。「あなたの神、主は焼き尽くす火、ねたみの神である。」前の訳では「ねたむ神だからである」と、記されています。主なる神は、主以外の偶像や、太陽、月、星などの被造物をもしイスラエルが拝むことがあれば、つまり偶像礼拝に対しては、焼き尽くす火のように怒りを燃え上がらせ、激しいねたみを覚えられる、ということです。 怒るとかねたむという感情は人間らしく、神にはあまり相応しくないように思いますが、それは主なる神がイスラエルのことを、ひいては私たち一人一人の人間を、本気で愛しておられることのしるしです。 本当に愛しているからこそ、自分の愛する者が、人間が勝手に作り出した神々や、神が造られた被造物を神として礼拝する、心奪われることに対して怒りやねたみを覚えられるということです。 新共同訳聖書、前の版の訳では、この「ねたみの神」または「ねたむ神」という表現に代わって、「熱情の神」と訳しています。神がイスラエルを、ひいては人類一人一人を、熱情をもって、情熱をもって本気で愛して下さっていることが伝わって来る翻訳です。そして主なる神は、イスラエル民族だけでなく、私たち一人一人をねたむほど愛されておられます。このイスラエル民族を導かれた神、ヤハウェなる神を、私たちは父なる神と呼んでいます。ねたむ神、私たちに熱情をもって接して下さる神は、私たちの信じている神と同じ神です。この主なる神、父なる神が、私たちをねたむほど愛するがゆえに、他の神々の下に行って欲しくない、従って欲しくない、そして主なる神の下で本当のいのちを持って生きて欲しいという願い、思い、熱情から、愛する一人子を私たちに与えるという計画をお立てになりました。そしてその計画を実践して下さったのが、私たちの主、イエス・キリストです。このイエスもまた、羊飼いのない羊のように、神を無視し、偶像に向かい、生きる意味や目的、神の愛を知らずに倒れている人々を見て、心から、はらわたがよじれるほどに憐れみを現わして下さる神です。どれほどの憐れみか。どれほどの愛か。その結晶が十字架であり、十字架に表されています。 かつてイスラエル民族が奴隷とされていたエジプトは、私たちが現在生きている世界、そして私たち人間の罪を象徴している世界です。エジプトの王、パロは、ただの人間でしたが、神と見なされ、自分も神のように振舞っていました。また、エジプトでは動物や天体などが神々となり、偶像礼拝が行われていました。権力を持つ者が神となり、また、人々も神以外のものを拝んでいる。 現代を生きる私たちの世界と全く変わりがありません。 しかしエジプトはその高慢なゆえに、また神にそむき、敵対するという罪ゆえに、神に裁かれました。 すなわち、神を無視し、神に背を向けて自分が生きたいように生きる先には、裁きが待っているということです。そしてそれは、現代を生きる私たちも同じです。 裁きとは、神から永遠に引き離されるという滅びです。 しかしこの罪、滅び、裁き、そこから来る死から脱出させて頂けたのが、私たちキリスト者、クリスチャンです。それはただ、イエス・キリストを救い主として信じた結果です。私たちが救われるために何か善行を積んだり、何か努力したという訳ではありません。それはただ、イエス・キリストにある恵みです。そして私たちはこの恵みのゆえに、エジプトに象徴されるこの罪深い世から、罪深い世界から脱出させて頂けました。そしてそれはただ、イエス・キリスト、私たちの主が成し遂げて下さった十字架の業、十字架を通しての贖いです。イエスが私たちの罪を全て背負って十字架につかれ、死なれ、葬られ、三日目に罪と罪から来る死を滅ぼして復活して下さいました。その復活されたイエスと私たちは一つにされています。前回、新約聖書、ヘブル人への手紙を引用しました。イエス・キリストは復活されて生きているだけでなく、その存在は永遠であるということです。「イエス・キリストは昨日も今日もとこしえに変わることがない」私たちの主、イエス・キリストは今も生きておられます。それも永遠に生きておられます。この永遠に存在されているイエスを信じるということは、永遠のイエスと一つにされることです。それは私たちキリスト者、イエスを主と信じた者が受けるバプテスマ、洗礼に表されています。このバプテスマは、イエスを信じる全ての者が、イエスと一つにされた、また、されていることを象徴的に表すものです。 洗礼の時、洗礼に与る者は、水に沈められます。それはイエスと共に罪に死ぬことの象徴です。そして水から上がることは、イエスが罪を滅ぼして復活されたその復活のいのちと一つにされる、復活のいのちに与ることを象徴しています。 従ってイエスが成し遂げられた罪と罪から来る死への勝利は、私たちイエスを信じる者たちにとっても勝利です。つまりイエスにあって私たちは、罪と、罪から来る死に勝利しています。そして永遠に生きておられるイエスと一つにされるということは、イエスを信じて歩む一人一人が、永遠に生きるということです。そして永遠に生きる歩みは、イエスを主と信じた時からすでに始まっています。イエスと共に永遠を生きる-別の言い方をすれば、それは神の子、神の家族とされることであり、神の国に入ることができるということでもあります。      礼拝の冒頭で、神からの礼拝への招きのことば、証詞を読んで頂きました。           申命記7:9 あなたは、あなたの神、主だけが神であることをよく知らなければならない。主は信頼すべき神であり、ご自分を愛し、ご自分の命令を守る者には恵みの契約を千代までも守られる。   私たちキリスト者にとっての主とは、イエス・キリストです。つまりイエスを自分の主人として信頼し、愛し、イエスの命令を率先して、自発的に、また喜んで守り従う者には、恵みの契約が千代、つまり永遠に続くという約束が、すでに旧約聖書に予表され、約束されています。そしてそれは私たちの行いや努力、善行を積むことなどに全く関係がない、ただ、神の、私たちの主、イエス・キリストにある恵みです。        旧約聖書、申命記に描写されている「ねたむ神、すなわち熱情の神」は、新約聖書において、私たちの主、イエス・キリスト、愛と憐みに満ちた神とイコール、同じ神です。私たちはこれからも旧約聖書と新約聖書の繋がりを意識していきたいと思います。そしてこの生きて働いておられる永遠の神と、人格的な交わりを持つことができるようになったこと、そしてこの神を通して救われていることを感謝し、神の愛、愛の神に日々応答していく者でありたいと願います。                                                             祈ります                                         問42「第一の戒めは何ですか?」                              答「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない」ということです。(出エジプト記 20章3節) 聖書 “あなたにこのことが示されたのは、主だけが神であり、ほかに神はいないことを、あなたが知るためであった。” 申命記 4章35節 申命記7:9 あなたは、あなたの神、主だけが神であることをよく知らなければならない。主は信頼すべき神であり、ご自分を愛し、ご自分の命令を守る者には恵みの契約を千代までも守られる。

2026/6/14(日)「神はいくつの戒めを私たちに与えられましたか?」出エジプト34:28 庄司牧師

主日礼拝 2026年6月14日(日) 10:40~ 

聖書:出エジプト記 34章28節

説教:庄司牧師

🌈聖書引用
 新日本聖書刊行会 聖書 新改訳2017 (新改訳聖書センター)

 

問41 神さまはシナイ山でいくつの戒めを私たちに与えてくださいましたか?
答 十の戒めです。
それは「モーセの十戒」と呼ばれています。 モーセはそこに四十日四十夜、主とともにいた。彼はパンも食べず、水も飲まなかった。そして、石の板に契約のことば、十のことばを書き記した。 (出エジプト記 34:28 SKY17) 招詞 こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認められるためです。 (ガラテヤ人への手紙 3:24 SKY17) 月の第二日曜日ですので、いつものように子ども信仰問答からお話をしていきます。 本日は、旧約聖書、出エジプト記の中に記されている箇所です。ここに登場する民族は、イスラエル民族であり、神に特別に選ばれた民ですが、彼らイスラエルがエジプトで奴隷とされているところから、出エジプト記の話が展開していきます。奴隷という身分と苛酷な労働を彼らは憂い、泣き、叫び、神に助けを求めました。神は彼らの涙に応え、モーセをエジプトからの解放者として遣わします。モーセは神から授かった力によって様々な奇蹟を行い、彼らをエジプトから脱出させます。神はその後、イスラエルの人々をご自分の特別な民として契約を結ばれました。その契約の中身が十戒です。十戒は神が彼らに与えられた教え、戒めである律法の中心となる大切な戒めです。 神は、イスラエル民族を通して全人類を祝福する計画をお立てになりました。 全人類ですから、日本人もイスラエル民族と関係があることが分かります。もちろんモーセの十戒も同じです。この十戒は別の言い方をすれば、人間が生きる上での「ルール」、「規則やきまり」です。 もし人間の世界に「ルール」がなかったらどうなるでしょうか。 昔流行ったアニメ、「北斗の拳」の世界になるということです。地域や社会、国など、私たちの生活の舞台が、力や自己中心的な行動が優先される「無法地帯」になるということです。盗んだり、盗まれたり。暴力を振るったり、振るわれたり。殺したり殺されたり。その全てがOKになる恐ろしい世界です。(現在も) 神はそのような世界になることを望んでおられません。そこで人間が秩序や公正を保つためにルールを設けられた。そのルールの具体的な教え、戒めが十戒だと言えます。 その内容は大きく二つに分けられます。人間が神に対して行うべき4つのルールと、人間が人間に対して行うべき6つのルールです。神に対しての4つのルールとは、人間は、聖書の神である、唯一まことの神を信じること。偶像を造って拝んではならない。神の名をみだりに唱えてはならない。安息日(休息の日)を守ること。これら4つが、人間が神に対して行うべきルールです。 一方人間が人間に行うべきルールが、父母を敬うこと。殺してはならない。姦淫してはならない。この姦淫ですが、ある訳には、配偶者以外と性行為をしない。と訳されています。盗んではならない。偽証をしてはならない。隣人の妻や財産を欲してはならない。という6つの教え、戒めとなっています。 しかし人間がこの十戒を知らない時、すなわち神が願っていることを知らない時、どのような歩みになるでしょうか。それはイスラエルを奴隷としていたエジプトの人々を見ると分かります。 エジプトの人々は動物や太陽などの天体を拝み、王であるパロは自分を神であると自称していました。これはさきほど十戒の中で神を神としなさい、偶像を造って拝んではならない、この二つの戒めを破っていることが分かります。権力を持つ者が神となり、また他の人々も神以外のものを拝んでいる。このような姿は、現代を生きている日本人も含め、多くの国々で今もなお、行われています。エジプトの姿と、日本を含めた私たちの世界とは全く変わりがないことが分かります。 ある姉妹からこのようなお話を聞きました。その姉妹の友達で、ある宗教を信じていた人がいたそうです。早起きを含めた修行、また善行を積むなどをモットーとしていた宗教だと思いますが、自分がした様々な良いことなどを発表する場があったそうです。そこでは参加者が、「私はこのような良いことをした。」「私はこのような素晴らしいことをした。」などと言って、自分のした良いことをアピールというか、自慢する場であったということです。結局その人は、「自分にはそのような良い行いはできない」と感じ、その宗教から遠ざかったということでした。 また新約聖書、コロサイ人の手紙の2章の中には、好き勝手な礼拝、自己卑下、肉体の苦行などを通して神を知り、神に近づこうとする人間の姿が描写されています。また別の聖書箇所には、禁欲的な生活によって、神を知ろうとする、神に近づこうとする人々の存在が描写されている。 逆に、死んだら終わりだからただ今を楽しもうと、神を信ぜず欲望のままに生きる生き方をする人々の存在なども、聖書に書き記されています。そのような人間の姿を、新約聖書を約半分書き記したパウロは、「自己満足」であるとしました。自己満足的に、そして自己流に自分の良いと思うことを通して神を礼拝する、神に受け入れてもらおうと努力する。彼らがそのような振る舞いをする一つの原因に、律法、神のルールを知らないということが挙げられます。しかし私たち人間は例え神の教え、戒めである律法を知っていたとしても、誰一人として律法を完全に守ることによって神を満足させることができる人は、誰もいません。それほど神の規準は人間の規準よりも遥かに高く、また厳しいからです。ではなぜ、神は人間が守ることができないルールである十戒、律法を、モーセを通してイスラエル民族に与えられたのでしょうか? 先程紹介したコロサイ人の手紙の著者であるパウロは、ローマ人への手紙7:7節で、人間には完全に守ることができない律法の効果、働きをこのように具体的に挙げています。 ローマ人への手紙7:7 それでは、どのように言うべきでしょうか。律法は罪なのでしょうか。決してそんなことはありません。むしろ、律法によらなければ、私は罪を知ることはなかったでしょう。実際、律法が「隣人のものを欲してはならない」と言わなければ、私は欲望を知らなかったでしょう。前の訳である新改訳第三版ではこのように訳されていました。律法が、「むさぼってはならない」と言われなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。 子どもが親に、「あれ欲しい。みんな持ってるもん。」というセリフを皆さんも聞いたことがあると思います。しかしそれは子どもだけではありません。あれも欲しい。これも欲しい。他の人の持っているもの、全て欲しい。いやそれ以上に欲しい。私たち人間の欲望は限りがありません。 しかし例えそれを手に入れたとしても、もっとたくさんのもの、もっと面白い物、もっと刺激的なもの、もっと欲しい。もっともっともっと。これが人間のむさぼりです。そしてこのような個人的なむさぼりから争いが生じ、国同士のむさぼりからの争いは、戦争にまで発展します。 パウロは人間の持つむさぼり、もっともっと欲しいという欲望は、律法がなければ分からなかった。律法がなければ、神の教え、戒め、ルールが示されなければ、自分も含め、人間は自分にそのような欲望があることすら分からないだろうと、ここで述べている訳です。そしてパウロはこのむさぼりの原因を罪だとしています。何度もお話して来ましたが、罪とは神から離れていることです。人間が愛と義である神を無視し、時に敵対し、離れてしまっている。神の愛から離れているので、人は自分や家族、友人など、自分に関わる者だけを愛する性質を持つようになりました。そして義である神から離れていることによって、自分の規準が絶対正しいと信じ行動することによって、他の規準を持つ人々とぶつかり、争い、時に人殺しまで発展してしまう。それが罪ある人間の姿です。 著者のパウロは自分の罪と戦った人です。そして最終的にこのような結論に至りました。同じローマ人への手紙の7章です。「私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています。」「私は本当にみじめな人間です。」パウロは罪と戦い、自分の力では打ち勝つことができないことを告白しています。しかしパウロは罪との戦いの中で、神の大きな恵みに気付くことができました。それはパウロが書いた別の手紙であるガラテヤ人への手紙に記されています。礼拝の冒頭で、神から礼拝への招きのことば、招詞で読んで頂いた、ガラテヤ人への手紙3:24節です。 こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認められるためです。律法によって神の思い、また完全さを教えられ、その神の完全な規準を満たすことが出来ないと悟った者は、キリストに向かうことになる。律法によって罪を教えられた人は、律法がその人をイエス・キリストへと導く養育係になるとパウロは語ります。そして子どもは成人すれば養育係が必要なくなるのと同じように、イエスがこの世界に救いをもたらすために来て下さったことにより、律法は必要がなくなったということです。 そしてパウロは続けます。 ガラテヤ人への手紙3:25 しかし、信仰が現れたので、私たちはもはや養育係の下にはいません。 3:26 あなたがたはみな、信仰により、キリストイエスにあって神の子どもです。 神の子どもになる条件とは、罪の解決がなされている人です。つまり神から離れているという罪が赦され、神との関係が回復した人々だけが、神の子となることができます。それが聖書の約束です。そのために私たち人間に必要なことが、イエスに信頼を寄せる、イエスを信じて歩む信仰です。こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認められるためです。イエスへの信仰によって、イエスの信仰のみによって私たち人間は神の前に義と認められる。神の前に正しい者と認められることができる。 神は、古い約束である旧約聖書にある十戒、律法を通して私たちに神の御心を示され、それを守ることができない私たち人間の為に、すなわち罪を解決できない私たち人間の代わりに、愛する一人子、イエス・キリストを、私たちの罪の身代わりとして十字架につけられました。 イエスを信じる者は、イエスの贖いによって神の子とされることができるという、新しい約束、新約聖書に記されている神の約束に私たちが生かされていることを感謝しつつ、今週も共にイエスを見上げて歩みたいと願っています。 祈ります。 「神はいくつの戒めを私たちに与えられましたか?」 答 十の戒めです。それは「モーセの十戒」と呼ばれています。 モーセはそこに四十日四十夜、主とともにいた。彼はパンも食べず、水も飲まなかった。そして、石の板に契約のことば、十のことばを書き記した。 こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認められるためです。

「癒しよりも大切なこと」

2026年3月15日(日) 主日礼拝

聖書:マルコの福音書 10章46~52節

説教:庄司牧師

♪♪ 賛美 ♪♪
今こそ人みな  讃美歌21 10番

救い主は待っておられる 新聖歌 188番

父・子・聖霊の 讃美歌21 27番

♪♪ 今月のワーシップソング ♪♪

御名を掲げて

🌈 聖書引用 🌈
 新日本聖書刊行会 聖書 新改訳2017 (新改訳聖書センター)