2026年5月24日 使徒の働き 1:1~9「世界に浸透して行く御霊」
テオフィロ様。私は前の書で、イエスが行い始め、また教え始められたすべてのことについて書き記しました。それは、お選びになった使徒たちに聖霊によって命じた後、天に上げられた日までのことでした。イエスは苦しみを受けた後、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。四十日にわたって彼らに現れ、神の国のことを語られた。使徒たちと一緒にいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなたがたは間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられるからです。」そこで使徒たちは、一緒に集まったとき、イエスに尋ねた。「主よ。イスラエルのために国を再興してくださるのは、この時なのですか。」イエスは彼らに言われた。「いつとか、どんな時とかいうことは、あなたがたの知るところではありません。それは、父がご自分の権威をもって定めておられることです。しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」こう言ってから、イエスは使徒たちが見ている間に上げられた。そして雲がイエスを包み、彼らの目には見えなくなった。
本日は、イエスを信じる者たちの上に聖霊が注がれ、その使徒たちを中心として教会が誕生するに至った聖霊降臨日、教会の誕生日とも言えるペンテコステです。教会とは、この世からこの世界から神によって呼び出され、取り出されたイエスを信じる人々の群れです。聖霊が降ったのは、イエスが十字架の死から復活されてからは50日目、天に昇られてからは10日目の出来事でした。世界宣教が聖霊を通してどのように前進、成長していったかを、共に見ていきたいと思います。
始めの1節において著者のルカは、テオフィロという人物に向けて挨拶をしています。テオフィロはローマ政府の高官です。ルカは、ルカの福音書においても冒頭で同じような挨拶をしていることから、テオフィロに代表されるユダヤ人以外の異邦人全体を対象として、福音書と使徒の働きを書き記したと言うことができるでしょう。 ルカは1節において、「前の書」と記しました。ルカの福音書のことです。使徒の働きは言わば、ルカの福音書の続編にあたります。すなわち、ルカの福音書に記されている事実、内容が根底にあって、使徒の働きは記されています。ですからルカの福音書と使徒の働きは密接に関わっているばかりでなく、繋がりあっています。そのことを示すために著者のルカは1,2節において、福音書に記されている事実、内容を次のようにまとめました。
私は前の書で、イエスが行い始め、また教え始められたすべてのことについて書き記しました。それは、お選びになった使徒たちに聖霊によって命じた後、天に上げられた日までのことでした。福音書に記された事実、内容とは、イエスの誕生、悪魔の試み、変貌、十字架の死、死からの復活、昇天などです。特に十字架の死と、そこからの復活、そして昇天がなければ、使徒の働きという書簡も、また世界宣教もありません。それはこの続編である使徒の働きが、イエスの復活と昇天が土台になっているからです。そこでルカは、世界宣教の土台ともなった十字架、復活、昇天を、この使徒の働きにおいてもう一度描写しています。1:3にはこのように記されています。イエスは苦しみを受けた後、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。四十日にわたって彼らに現れ、神の国のことを語られた。「イエスは苦しみを受けた」「ご自分が生きていることを使徒たちに示された」とは、イエスの十字架と復活に対応しています。そしてイエスは40日にわたってご自分が生きていることを使徒たちに示された後、「天に上げられた」すなわち昇天されたことが、9節に記されています。著者のルカは、イエスの御業は十字架、復活、昇天において完結したのではなく、その働きが聖霊を通して今もなお続いていることを、使徒の働きの中で描写しています。 ルカは聖霊の力、働きを書き綴って行く前に、復活されたイエスが神の国について語られたことを記しています。3節の後半です。 「四十日にわたって彼らに現れ、神の国のことを語られた。」イエスが復活され、イエスの弟子たちに現れて語られたこととは「神の国」についてでした。神の国とはイエスが統治、統べ治める国のこと、イエスが統治される領域です。今年も神の国を共に見て来ました。神の国とは、物理的な場所でもありますが、イエスとの愛の関係が永遠に続く場所です。イエスは「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」と言う宣言をもって、福音-罪の赦しや体の甦り、永遠のいのちなどと言った人類にとって良き良知らせ、なくてはならない知らせを宣べ伝え始められました。神であるイエスに背を向けて歩んでいた歩みを方向転換し、イエスの方に向き直るという悔い改めをする人は誰でも神の国に入ることができるという良い知らせ、福音、グッドニュースが、イエスによって私たち人類にもたらされました。 この神の国について、弟子たちがイエスに尋ねています。6節です。使徒たちは、一緒に集まったとき、イエスに尋ねた。「主よ。イスラエルのために国を再興してくださるのは、この時なのですか。」弟子たちはイエスに「イスラエルのために国を再興、すなわち建て直して下さるのは、この時ですか」と尋ねています。イスラエルのために国を建て直す、それは旧約聖書に預言されていたメシヤ、救い主が現れる時に実現すると期待されていた救いです。いつか救い主なるメシヤが到来し、敵であるローマ帝国の支配から解放して、かつてダビデ王が統治していた王国のような神の国を確立する、そういう救いをイスラエルの民は待ち望んでいました。その民の望みがイエスでした。しかしイエスが自分たちをローマから解放することがないと分かった時、彼らは失望し、怒り、イエスを十字架につけろと叫び出しました。
しかしイエスは十字架の死から復活され、今も生きておられる。死に勝利して復活されたイエスこそ、まことのメシヤ、救い主であり、このイエスならイスラエルの国を再興することがお出来になる。イエスの弟子たちは再びイエスに期待を抱き、イスラエルはいつ建て直されるのかと質問した訳です。イエスは7節でこのようにお答えになりました。イエスは彼らに言われた。「いつとか、どんな時とかいうことは、あなたがたの知るところではありません。それは、父がご自分の権威をもって定めておられることです。「時や時期は、父なる神がお決めになることであって、あなたがたの知るところではない。」救いの完成の時期は神がお決めになるのだから、それが今すぐにとか、もう間もなく起る、などと考えることは、父なる神の権威を侵害することだ、という答えでした。 イエスが十字架の死から復活され、今も生きておられる。そしてまもなく聖霊を送って下さる。神の救いは完成した。イエスによって建て直される神の国に入ることができる!使徒たちはそう思ったに違いありません。それに対してイエスは、そうではない、と言われるのです。神の救いのみ業は、まだ継続している、先がある。同時にイエスは、使徒たちだけで救いの御業を行うのではない。これからは聖霊、神の霊が助けてくれる。あなたたちは自分の力で神の国を宣べ伝えるのではない。 そしてイエスは励ましと共に、預言的に語られたのが8節です。
1:8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」
神の国が神の霊である聖霊を通して、イエスを信じ、従う使徒たちによって拡大、成長していく。使徒たちは神の国の拡大、成長のために参与、参加することになる。それも聖霊の力によって、ということが語られています。イエスは「聖霊が臨むとき、力を受け、わたしの証人となる。」と語られました。「証人」とは事実を証言する人です。そして事実ほど説得力を持つものは他にありません。この文脈における事実とは、イエスの十字架の死と死からの復活、そして昇天です。使徒たちはこの事実の目撃者であり、証人でした。従って世界宣教のために、すなわち人々が悔い改めて神の国に入ることができるために、イエスは彼ら使徒たちが、イエス・キリストの十字架の死と復活、昇天という事実を語り続ける「証人」として、証し続ける力を、聖霊によって与えると約束されました。 従って彼ら使徒たちは、イエスが私たち人間の罪の身代わりに十字架に架かられたこと、死とサタンに勝利して復活され、聖霊を送るために昇天されたことなどを、自分の損得や感情、迫害に関わらずに力強く人々に証言できるよう、聖霊がその力を与えて下さるということです。
イエスを知らないと見捨て、裏切ったペテロも、聖霊が注がれた後はイエスの十字架と復活の証人となり続け、最後は殉教していきました。このように聖霊が臨むことによって与えられる力とは、キリストの証人となるための力、証人となり続ける力であると言うことができます。
また、この使徒の働きは未完、まだ完成していないと言われます。それはイエスが始められた宣教の働きは、イエスの弟子である使徒たちに聖霊を通して引き継がれ、またこの同じ聖霊が、現代を生きている私たちキリスト者にも注がれ、働かれ、私たちも福音宣教、世界宣教の働きに参加しているからです。そしてこの宣教を助けて下さる、導いて下さる聖霊は、イエスが昇天されなければ私たちに注がれることはありませんでした。 十字架に架かられる直前、イエスは弟子たちに聖霊を送ると約束して下さっている記事が、ヨハネの福音書にもあります。16:7です。「しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。」この助け主が聖霊です。この助け主なる聖霊が、イエスの十字架、復活、昇天を力強く証する力を使徒たちに、ひいてはイエスを信じる全ての人々に注がれています。与えられています。そして私たちイエスを信じて歩むキリスト者も、この聖霊、すなわち神ご自身と共に福音を宣べ伝えていくことになります。宣べ伝えて行くことができます。
この聖霊なる神が、私たち人間のこと、心、状況すら全て知っておられることが分かる証を、ここで紹介したいと思います。「いのちのことば社の広報誌『たねまき』四月号に載っている記事です。その中に世界189の国と地域で活動をしているEHCという団体の紹介があります。-福音文書(トラクト)を通してすべての家庭に、イエス・キリストを証している団体です。 舞台は中米のコスタリカです。 ある晴れた土曜日、メルビン・モラ牧師と教会の人々が集まり、公園に来てトラクトを配り、祈り、人々と語り合っていました。その時メルビン牧師は、その公園の少し離れたベンチに、一人で座る男性がとても気になりました。まるで聖霊が自分の目をその男性へと向けさせ、彼の下に行くようにと強く促し、また導かれているのを感じたそうです。 その導きに従い、メルビン牧師は男性の隣に座りました。そして神の愛と憐れみ、イエスによる赦しについて語り始めました。すると間もなく、男性は涙を流し始めました。「今、ナイフを持っているんだ。今日、誰かを殺すつもりだった。」彼は怒りと絶望、闇に押しつぶされ、人生を決定的に変えてしまう選択の瀬戸際に立っていました。しかしこの時、聖霊なる神がメルビン牧師を通して介入されました。福音を通して聖霊に触れられたこの男性は悔い改め、イエスに人生を委ねる決断をしました。そして暴力を手放す決意のしるしとして、メルビン牧師にナイフを手渡しました。 彼は破壊ではなくいのちを、絶望ではなく希望を選び取りました。神は彼らの伝道、福音宣教を用いて、彼の人生を永遠に変える瞬間を備えていて下さいました。 この証は、どんな人にも、またどんな心であっても、またどんな境遇であっても、神は求める者に触れて下さるお方であるということを、私たちに思い起こさせてくれます。しかしこの物語はここで終わりませんでした。地元の教会が、彼を愛と交わりを持って受け入れ、寄り添い、弟子訓練と霊的サポートを続けました。 彼は今仕事を持ち、安定と尊厳を取り戻しました。壊れていた夫婦関係も修復され、家族の間に和解が生まれました。また彼は借金をしていましたが、神はその負債を返済する道さえ備えてくださったそうです。神の介入の物語であり、証ですが、そこには聖霊の働き、また導きがありました。その導きに従った人を通して福音が一番必要な時に、一番必要な人に届きました。彼は救われました。
一人の人生が変えられ、家族全体が変えられた素晴らしい証です。そしてこの男性も家族も、社会を変えて行くでしょう。しかしこの素晴らしい証は、イエスが昇天されなければ起きることはありませんでした。
イエスは聖霊の力、また助けによって、宣教の広がりと成長を、「エルサレム、ユダヤとサマリヤ、そして地の果てまで」と表現されました。イエスの宣教の働きはユダヤとガリラヤ、エルサレムなど、物理的には狭い地域に限られていた宣教でした。しかし聖霊を通して使徒たちに引き継がれ、今を生きる私たちキリスト者にも引き継がれている宣教の働きは、イエスの働きよりももっと大きく、そして広いものです。実際に福音は極東、東の果てと言われているこの日本にまで届きました。使徒たちはこの福音宣教、世界宣教のために選ばれ、召されていますが、この同じ聖霊が今を生きる私たち一人一人にも注がれています。私たちもまた、使徒たちと同じようにこの聖霊によって私たちの回りの人々-家族、友人、知人、近所の人から学校や職場、普段買い物をするお店から旅先に至るまで、出会う人たち全てが、私たちが福音を宣べ伝える相手です。そして神である御霊、聖霊は、個人に、個人の心に、状況に、家族に、社会に、あらゆる領域に浸透していかれます。
そしてこれからも浸透して行き、人々を救いへと導いていかれるでしょう。
私たちキリスト者一人一人が達することができる人が、人々が、私たちの回りに置かれています。その身近な人々に聖霊、御霊を通して福音を伝えていく。それが私たち一人一人のキリスト者に委ねられた福音宣教、世界宣教であると言えるでしょう。御霊なる神に信頼して、これからも共に、世界宣教を実践して行く者でありたいと願っています。
祈ります
「世界に浸透して行く御霊」
1:8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」
本日は、イエスを信じる者たちの上に聖霊が注がれ、その使徒たちを中心として教会が誕生するに至った聖霊降臨日、教会の誕生日とも言えるペンテコステです。教会とは、この世からこの世界から神によって呼び出され、取り出されたイエスを信じる人々の群れです。聖霊が降ったのは、イエスが十字架の死から復活されてからは50日目、天に昇られてからは10日目の出来事でした。世界宣教が聖霊を通してどのように前進、成長していったかを、共に見ていきたいと思います。
始めの1節において著者のルカは、テオフィロという人物に向けて挨拶をしています。テオフィロはローマ政府の高官です。ルカは、ルカの福音書においても冒頭で同じような挨拶をしていることから、テオフィロに代表されるユダヤ人以外の異邦人全体を対象として、福音書と使徒の働きを書き記したと言うことができるでしょう。 ルカは1節において、「前の書」と記しました。ルカの福音書のことです。使徒の働きは言わば、ルカの福音書の続編にあたります。すなわち、ルカの福音書に記されている事実、内容が根底にあって、使徒の働きは記されています。ですからルカの福音書と使徒の働きは密接に関わっているばかりでなく、繋がりあっています。そのことを示すために著者のルカは1,2節において、福音書に記されている事実、内容を次のようにまとめました。
私は前の書で、イエスが行い始め、また教え始められたすべてのことについて書き記しました。それは、お選びになった使徒たちに聖霊によって命じた後、天に上げられた日までのことでした。福音書に記された事実、内容とは、イエスの誕生、悪魔の試み、変貌、十字架の死、死からの復活、昇天などです。特に十字架の死と、そこからの復活、そして昇天がなければ、使徒の働きという書簡も、また世界宣教もありません。それはこの続編である使徒の働きが、イエスの復活と昇天が土台になっているからです。そこでルカは、世界宣教の土台ともなった十字架、復活、昇天を、この使徒の働きにおいてもう一度描写しています。1:3にはこのように記されています。イエスは苦しみを受けた後、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。四十日にわたって彼らに現れ、神の国のことを語られた。「イエスは苦しみを受けた」「ご自分が生きていることを使徒たちに示された」とは、イエスの十字架と復活に対応しています。そしてイエスは40日にわたってご自分が生きていることを使徒たちに示された後、「天に上げられた」すなわち昇天されたことが、9節に記されています。著者のルカは、イエスの御業は十字架、復活、昇天において完結したのではなく、その働きが聖霊を通して今もなお続いていることを、使徒の働きの中で描写しています。 ルカは聖霊の力、働きを書き綴って行く前に、復活されたイエスが神の国について語られたことを記しています。3節の後半です。 「四十日にわたって彼らに現れ、神の国のことを語られた。」イエスが復活され、イエスの弟子たちに現れて語られたこととは「神の国」についてでした。神の国とはイエスが統治、統べ治める国のこと、イエスが統治される領域です。今年も神の国を共に見て来ました。神の国とは、物理的な場所でもありますが、イエスとの愛の関係が永遠に続く場所です。イエスは「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」と言う宣言をもって、福音-罪の赦しや体の甦り、永遠のいのちなどと言った人類にとって良き良知らせ、なくてはならない知らせを宣べ伝え始められました。神であるイエスに背を向けて歩んでいた歩みを方向転換し、イエスの方に向き直るという悔い改めをする人は誰でも神の国に入ることができるという良い知らせ、福音、グッドニュースが、イエスによって私たち人類にもたらされました。 この神の国について、弟子たちがイエスに尋ねています。6節です。使徒たちは、一緒に集まったとき、イエスに尋ねた。「主よ。イスラエルのために国を再興してくださるのは、この時なのですか。」弟子たちはイエスに「イスラエルのために国を再興、すなわち建て直して下さるのは、この時ですか」と尋ねています。イスラエルのために国を建て直す、それは旧約聖書に預言されていたメシヤ、救い主が現れる時に実現すると期待されていた救いです。いつか救い主なるメシヤが到来し、敵であるローマ帝国の支配から解放して、かつてダビデ王が統治していた王国のような神の国を確立する、そういう救いをイスラエルの民は待ち望んでいました。その民の望みがイエスでした。しかしイエスが自分たちをローマから解放することがないと分かった時、彼らは失望し、怒り、イエスを十字架につけろと叫び出しました。
しかしイエスは十字架の死から復活され、今も生きておられる。死に勝利して復活されたイエスこそ、まことのメシヤ、救い主であり、このイエスならイスラエルの国を再興することがお出来になる。イエスの弟子たちは再びイエスに期待を抱き、イスラエルはいつ建て直されるのかと質問した訳です。イエスは7節でこのようにお答えになりました。イエスは彼らに言われた。「いつとか、どんな時とかいうことは、あなたがたの知るところではありません。それは、父がご自分の権威をもって定めておられることです。「時や時期は、父なる神がお決めになることであって、あなたがたの知るところではない。」救いの完成の時期は神がお決めになるのだから、それが今すぐにとか、もう間もなく起る、などと考えることは、父なる神の権威を侵害することだ、という答えでした。 イエスが十字架の死から復活され、今も生きておられる。そしてまもなく聖霊を送って下さる。神の救いは完成した。イエスによって建て直される神の国に入ることができる!使徒たちはそう思ったに違いありません。それに対してイエスは、そうではない、と言われるのです。神の救いのみ業は、まだ継続している、先がある。同時にイエスは、使徒たちだけで救いの御業を行うのではない。これからは聖霊、神の霊が助けてくれる。あなたたちは自分の力で神の国を宣べ伝えるのではない。 そしてイエスは励ましと共に、預言的に語られたのが8節です。
1:8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」
神の国が神の霊である聖霊を通して、イエスを信じ、従う使徒たちによって拡大、成長していく。使徒たちは神の国の拡大、成長のために参与、参加することになる。それも聖霊の力によって、ということが語られています。イエスは「聖霊が臨むとき、力を受け、わたしの証人となる。」と語られました。「証人」とは事実を証言する人です。そして事実ほど説得力を持つものは他にありません。この文脈における事実とは、イエスの十字架の死と死からの復活、そして昇天です。使徒たちはこの事実の目撃者であり、証人でした。従って世界宣教のために、すなわち人々が悔い改めて神の国に入ることができるために、イエスは彼ら使徒たちが、イエス・キリストの十字架の死と復活、昇天という事実を語り続ける「証人」として、証し続ける力を、聖霊によって与えると約束されました。 従って彼ら使徒たちは、イエスが私たち人間の罪の身代わりに十字架に架かられたこと、死とサタンに勝利して復活され、聖霊を送るために昇天されたことなどを、自分の損得や感情、迫害に関わらずに力強く人々に証言できるよう、聖霊がその力を与えて下さるということです。
イエスを知らないと見捨て、裏切ったペテロも、聖霊が注がれた後はイエスの十字架と復活の証人となり続け、最後は殉教していきました。このように聖霊が臨むことによって与えられる力とは、キリストの証人となるための力、証人となり続ける力であると言うことができます。
また、この使徒の働きは未完、まだ完成していないと言われます。それはイエスが始められた宣教の働きは、イエスの弟子である使徒たちに聖霊を通して引き継がれ、またこの同じ聖霊が、現代を生きている私たちキリスト者にも注がれ、働かれ、私たちも福音宣教、世界宣教の働きに参加しているからです。そしてこの宣教を助けて下さる、導いて下さる聖霊は、イエスが昇天されなければ私たちに注がれることはありませんでした。 十字架に架かられる直前、イエスは弟子たちに聖霊を送ると約束して下さっている記事が、ヨハネの福音書にもあります。16:7です。「しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。」この助け主が聖霊です。この助け主なる聖霊が、イエスの十字架、復活、昇天を力強く証する力を使徒たちに、ひいてはイエスを信じる全ての人々に注がれています。与えられています。そして私たちイエスを信じて歩むキリスト者も、この聖霊、すなわち神ご自身と共に福音を宣べ伝えていくことになります。宣べ伝えて行くことができます。
この聖霊なる神が、私たち人間のこと、心、状況すら全て知っておられることが分かる証を、ここで紹介したいと思います。「いのちのことば社の広報誌『たねまき』四月号に載っている記事です。その中に世界189の国と地域で活動をしているEHCという団体の紹介があります。-福音文書(トラクト)を通してすべての家庭に、イエス・キリストを証している団体です。 舞台は中米のコスタリカです。 ある晴れた土曜日、メルビン・モラ牧師と教会の人々が集まり、公園に来てトラクトを配り、祈り、人々と語り合っていました。その時メルビン牧師は、その公園の少し離れたベンチに、一人で座る男性がとても気になりました。まるで聖霊が自分の目をその男性へと向けさせ、彼の下に行くようにと強く促し、また導かれているのを感じたそうです。 その導きに従い、メルビン牧師は男性の隣に座りました。そして神の愛と憐れみ、イエスによる赦しについて語り始めました。すると間もなく、男性は涙を流し始めました。「今、ナイフを持っているんだ。今日、誰かを殺すつもりだった。」彼は怒りと絶望、闇に押しつぶされ、人生を決定的に変えてしまう選択の瀬戸際に立っていました。しかしこの時、聖霊なる神がメルビン牧師を通して介入されました。福音を通して聖霊に触れられたこの男性は悔い改め、イエスに人生を委ねる決断をしました。そして暴力を手放す決意のしるしとして、メルビン牧師にナイフを手渡しました。 彼は破壊ではなくいのちを、絶望ではなく希望を選び取りました。神は彼らの伝道、福音宣教を用いて、彼の人生を永遠に変える瞬間を備えていて下さいました。 この証は、どんな人にも、またどんな心であっても、またどんな境遇であっても、神は求める者に触れて下さるお方であるということを、私たちに思い起こさせてくれます。しかしこの物語はここで終わりませんでした。地元の教会が、彼を愛と交わりを持って受け入れ、寄り添い、弟子訓練と霊的サポートを続けました。 彼は今仕事を持ち、安定と尊厳を取り戻しました。壊れていた夫婦関係も修復され、家族の間に和解が生まれました。また彼は借金をしていましたが、神はその負債を返済する道さえ備えてくださったそうです。神の介入の物語であり、証ですが、そこには聖霊の働き、また導きがありました。その導きに従った人を通して福音が一番必要な時に、一番必要な人に届きました。彼は救われました。
一人の人生が変えられ、家族全体が変えられた素晴らしい証です。そしてこの男性も家族も、社会を変えて行くでしょう。しかしこの素晴らしい証は、イエスが昇天されなければ起きることはありませんでした。
イエスは聖霊の力、また助けによって、宣教の広がりと成長を、「エルサレム、ユダヤとサマリヤ、そして地の果てまで」と表現されました。イエスの宣教の働きはユダヤとガリラヤ、エルサレムなど、物理的には狭い地域に限られていた宣教でした。しかし聖霊を通して使徒たちに引き継がれ、今を生きる私たちキリスト者にも引き継がれている宣教の働きは、イエスの働きよりももっと大きく、そして広いものです。実際に福音は極東、東の果てと言われているこの日本にまで届きました。使徒たちはこの福音宣教、世界宣教のために選ばれ、召されていますが、この同じ聖霊が今を生きる私たち一人一人にも注がれています。私たちもまた、使徒たちと同じようにこの聖霊によって私たちの回りの人々-家族、友人、知人、近所の人から学校や職場、普段買い物をするお店から旅先に至るまで、出会う人たち全てが、私たちが福音を宣べ伝える相手です。そして神である御霊、聖霊は、個人に、個人の心に、状況に、家族に、社会に、あらゆる領域に浸透していかれます。
そしてこれからも浸透して行き、人々を救いへと導いていかれるでしょう。
私たちキリスト者一人一人が達することができる人が、人々が、私たちの回りに置かれています。その身近な人々に聖霊、御霊を通して福音を伝えていく。それが私たち一人一人のキリスト者に委ねられた福音宣教、世界宣教であると言えるでしょう。御霊なる神に信頼して、これからも共に、世界宣教を実践して行く者でありたいと願っています。
祈ります
「世界に浸透して行く御霊」
1:8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」