ゴスペル

ゴスペルカフェ可児 2027/8/7(金)

この日のゴスペルカフェ可児は、ピアニストのエバ(櫛田真理子)さんとギタリストのトム兼松さんによるデュオでした。ご来場くださった皆さま、ありがとうございました。

次回の開催予定日は 9月4日金曜日 14:00~ です。
素敵な雰囲気のアトリエ・カフェでミュージシャンの生演奏を聴きながら、まったりと金曜日の午後を過ごしてみませんか?

2026/5/10(日)「だれのてこのて」ヨハネ20:24~29 庄司牧師

2026年5月10日「だれのてこのて」ヨハネの福音書20:24~29
さきほど「だれのてこのて」の絵本を一緒に見ました。 赤ちゃんの手を見たら、赤ちゃんとわかる。フライパンで料理をしている人の手を見たらコックさん、料理人だとわかる。聴診器を持っている人の手を見たら、お医者さんだとわかる。お手紙を持っている人の手を見たら、郵便屋さんだとわかる。では、手の傷跡を見たら?それも両手に傷の跡を見たら?それは優しい優しいイエスさまだとわかる。人間の手は、その人がどういう人かを表していると言えるでしょう。
この絵本を描いた人は、イエスさまの両手に傷跡があるのを、絵に描きました。そしてその傷跡があるイエスさまを指して、イエスさまは優しいお方である描きました。そうしますと、イエスさまが優しいお方であるとこの絵本の作者が言っているのは、この傷跡と関係がありそうです。
イエスさまは神さまであり、また人間であることが聖書に記されています。そしてこのイエスさまは、実際に傷ついたお方であり、とても優しいお方です。それは十字架を見ると分かります。それでは、本日の聖書の箇所を読んでみたいと思います。
十二弟子の一人で、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちは彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」と言った。八日後、弟子たちは再び家の中におり、トマスも彼らと一緒にいた。戸には鍵がかけられていたが、イエスがやって来て、彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスはイエスに答えた。「私の主、私の神よ。」イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」
今日のお話の前に、大きな大きな出来事がありました。 それは、イエスさまが人々に憎まれ、十字架にかけられて殺されてしまったことです。しかしイエスさまは三日目に死から甦られました。そして甦ったイエスさまは、イエスさまを信じて従ってきた弟子たちのもとに現われてくれました。しかしこの時、イエスさまの弟子の一人、トマスがその場にいませんでした。今日の聖書箇所にはこのように記されていました。
十二弟子の一人で、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
それでほかの弟子たちはトマスに「私たちは主を見た」と言った。とあります。「私たちは復活されたイエスさまを見たよ。復活されたイエスさまに会ったよ。」と弟子たちがトマスに告げた訳です。この時トマスはこのように言いました。「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」
トマスはイエスさまが死から甦られたことを信じることができませんでした。だから実際にイエスさまが十字架に釘付けられたその釘の跡に指を入れ、またイエスさまは十字架上で脇腹を槍で刺されていましたから、その脇腹の穴に手を入れてみなければ信じない、と他の弟子たちに言いました。

他の弟子たちがイエスさまは復活されたと言って、イエスさまの復活を信じている中で、「私は信じることができない」と言うのは、すごく勇気がいることだと思います。トマスは、「信じることはできない」と、他の弟子たちに言わないで、黙っていることもできました。そしてもし黙っていれば、他の弟子たちから何も言われずに済んだでしょう。 でもトマスは、自分の心に、自分自身に嘘をつくことができませんでした。だからトマスは正直な人だったと思います。そしてトマス自身も、イエスさまの復活を信じたかったのではないでしょうか。イエスさまが大好きで、イエスさまを愛して、ずっと一緒に過ごして来ました。そのイエスさまが十字架で殺されてしまった。でも甦った。またお会いできる。こんなに嬉しいことはないからです。でも信じることができませんでした。それからしばらく時間が経ちました。このように聖書に記されていました。
八日後、弟子たちは再び家の中におり、トマスも彼らと一緒にいた。戸には鍵がかけられていたが、イエスがやって来て、彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

今度はトマスの前に、復活されたイエスさまが直接現れてくれました。ここからイエスさまは凄いな、と分かることがあります。それは、イエスさまが十字架の死から本当に甦られたということです。人間で、死から甦ることができる人はいません。イエスさまは人間でしたが、同時に神さまであったことが、この復活を通して分かります。イエスさまは凄いお方です。またイエスさまは、何でも知っているということです。始めにイエスさまが甦られた時、トマスはその場にいませんでした。そこでトマスは他の弟子たちに、「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」と言いましたが、イエスさまは、トマスがそのように語ったことを御存知だったということです。それはイエスさまがトマスが言っていたことを繰り返していることから分かります。イエスさまは何でも知っておられる凄いお方です。
そしてイエスさまは優しいお方です。イエスさまが始めに復活された時、他の弟子たちがその場に10人いました。しかし今回現れてくれたのは、トマスのためだけだったと思います。
イエスさまの復活を信じたいけど信じることができない。トマスの心の苦しみや悲しみ、もどかしさなどを知って、イエスさまはトマスだけのために現れて下さった。とても優しいお方です。

この時トマスは、「私の主、私の神よ。」とイエスさまに告げました。あなたは私の神です。もう一度、また改めて信じます。というトマスの信仰の告白でした。またこの告白には、あなたのことを愛し続けます、とか、これからも従っていきます、といった気持ちもあったと思います。
この時イエスさまは、「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」 と、トマスに告げられました。
トマスは他の弟子たちからイエスさまの復活のことを告げられた時、信じることができませんでした。イエスさまの復活を実際に見ていなかったからです。しかしイエスさまは、ご自分のことを実際に見なくても、信じることができるよ、とトマスに語りかけてくれました。そしてこのイエスさまが言われたことば、「見ないで信じる人たちは幸いです。」ということばは、今の僕たち、私たちにも語られていることばだと思います。

このヨハネの福音書を書いた、イエスさまの弟子の一人であるヨハネは、イエスさまが語られた、「見ないで信じる人たちは幸いです。」ということばの後、このように書き記しています。
このことばは今日の朝、丁度、日曜学校でお話したことばでもあります。
これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。

これらのこと-それは聖書に記されていることです。イエスさまが語られたこと、たくさんの奇蹟を行われたこと、そして十字架の死と、死からの復活などです。私たちは今、この目でイエスさまを見ることも、また会うこともできません。しかし見ないでイエスさまを信じることができます。それはイエスさまご自身が、「見ないで信じる者は幸い、幸せな人だよ。」と、今を生きる僕たち私たちにも語りかけて下さっているからです。イエスはさまは、僕たちにできないことを、決して言われません。 そしてイエスさまの両手の傷跡は、僕たち私たちのための傷跡でもあります。僕たちの悪い心-嘘を言うこと。盗んだり、悪口や陰口などで人を傷つけること。神さまなんていない、イエスなんて信じないと、えばってしまうこと、など。このような悪い心や気持ち、神さまを信じないで自分勝手に生きることなどを、聖書では罪と呼んでいます。 イエスさまは僕たち全ての人間が持っている罪を全部背負われて、十字架に架かって僕たちの代わりに死んでくれました。それは僕たち、私たちの罪を赦すためでした。そしてイエスさまを信じる者は、死んでも終わらない。その先-永遠があるよ、ということを、死から復活したことで、僕たち私たちにも知らせてくれました。また、今も教えてくれています。

今日の絵本の最後は、「わたしのて いえすさまと いつもいっしょ」で終わっています。(スライド見せる)イエスさまを見れなくても、実際に会えなくても、僕たち私たちは、聖書に書いてあること-イエスさまがお話したこと、教えてくれたことを通してイエスさまを知り、信じることができます。 そしてイエスさまを信じる人は誰でも、死から甦って今も生きておられるイエスさまと、ずっとずっと一緒にいることができます。一緒に過ごすことができます。イエスさまが聖書で約束してくれています。 僕たち私たちを愛してくれているイエスさまが、神さまが、ただイエスさまを信じるだけでずっとずっと一緒にいてくれる。それは僕たち人間にとって、一番幸せなことです。嬉しくて嬉しくて仕方がない。喜びと感謝、そして今日たくさん神さまに讃美を歌いましたが、讃美が溢れます。

このイエスさまを、「私の主、私の神」と、ここにいるみんなが信じることができますように。そのように願っています。
お祈りします
「だれのてこのて」
イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」

ゴスペルカフェ可児 2026/4/3

ゴスペルカフェ可児 第6回の様子です。多くの方が足を運んでくださいました。

来月の開催日は、5月13日金曜日です(第一金曜日ではありません)。

ゴスペルカフェ可児 2026/3/6

ゴスペルカフェ可児 第5回は、川鰭さん(vo)、トム兼松さん(gt)のコラボでした。

来月、4月3日金曜日も楽しみですね!

2026/3/8(日)「自分の力でイエスを信じることができますか?」Ⅰコリント12:3b 庄司牧師

2026年3月8日 問39 あなたは自分で罪を悔い改め、イエスさまを信じることができますか。
「自分の力でイエスを信じることができますか?」
答 いいえ。聖霊が私たちの心にはたらいて、イエスさまを信じるようにしてくださるのです。
招詞Ⅰ ヨハネ4:3イエスを告白しない霊はみな、神からのものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていましたが、今すでに世に来ているのです。                                       
今週のみ言葉 コリント人への手紙第一12章3節b
聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。          
月の第二日曜日です。いつものように子ども信仰問答からお話をしていきます。本日はコリントにある(今のギリシャ)に向けて書かれた手紙です。著者はかつてキリスト者を迫害していたパウロです。彼はイエスを信じてから大きく変えられました。パウロは他の手紙で、自分のことを  「キリスト・イエスのしもべ、パウロ」と紹介していることからも分かります。イエスを自分の主人、自分はそのしもべ、奴隷であると認識している挨拶です。本日の聖書箇所も、主人としもべの関係が記されています。それは「イエスは主」と記されているからです。イエスを主と、自分の主人と呼ぶことが出来るのは、パウロを始めとして、イエスを信じる人々、つまり私たちも含まれます。本日の信仰問答の質問には、「自分で罪を悔い改め、イエスさまを信じることができますか。」とありました。悔い改めとは方向転換です。何からの方向転換と言えば、罪からの方向転換。 罪とは、言い換えれば自分中心です。神を無視し、時に神に敵対し、ただ自分だけに焦点を合わせて生きることです。自分の思い、願い、欲求など、自分のしたいことだけをする、自分が人生の主であるという生き方です。そこからの方向転換ですから、自分中心に生き、神から離れて生きているという罪に背を向け、イエスの方に向き直る。目を向ける。イエスの方に焦点を合わせていく姿勢、態度、そして生き方が、罪を悔い改める者に起こる、方向転換です。従って悔い改めとは、自分の罪を認め、イエスの愛と救いを受け入れ、新しい生き方へと踏み出す、深い決心、決意が込められていることばです。この宣言を心からするには、つまりイエスを自分の主と心から信じて告白することは、普通人間にはできません。それは、人間は自分が主、主人であるという生き方をしているからです。自分の生きたいように生きる。私たち生まれつきの人間は、そのような権利があり、そのような自由があると思っています。それは自分という存在が自分のものであり、自分自身に所属するものであると思っているからです。これは自分が「生きている」という状態です。しかしイエスが主という生き方は、主権が神に移ります。自分のいのちが、人生が、権利が、自由が…、神にある。自分の人生の主権を神が持っていると信じ、委ねて行く生き方です。ですからその生き方は、自分が生きるのではなく、神に、「生かされている」と言う歩みになっていきます。 人間はアダムとエバから続く罪を持っていますから、自分の力でそのような変化を生み出すことはできません。その力と転換をもたらすのはただ、神のみ、聖霊の力と導きです。また「イエスは主です」と言う告白は、イエスの33年間の公生涯において成された御業が、「私のためであった」と信じる告白でもあります。イエスが罪の身代わりに十字架で死なれた、それは私のためであった。そしてイエスが死者の中から甦られたのは、復活のいのちを私に与えるためであった。そのように信じ、受け入れるという信仰告白でもあります。 ですからイエスを主と告白する者は、すなわちイエスを自分の救い主であると信じ、イエスに従っていきたいと願う者は、おのずと生き方が変わっていきます。 これまで自分が自分の人生の主人として生きてきたことを止め、イエスの教えに従い、イエスが自分の人生を導いて下さると信じ、委ねていく人生となっていきます。従って「イエスは主です」という告白は、自らの全生活、全人生をイエスに委ねる、私たちキリスト者の根本的かつ最も短い宣言であり、信仰告白であると言えるでしょう。そしてこれは私たちの努力や行いにはよらず、神からのギフト、プレゼントであるということを、パウロは12章1節で述べています。さて、兄弟たち。御霊の賜物については、私はあなたがたに知らずにいてほしくありません。つまりイエスを主と告白できるのは、御霊、聖霊の働きであるのと同時に、これは私たちにとって賜物であるということです。賜物とは「贈り物」を意味します。受けるに値しない者に与えられる、神の一方的な好意です。神が、すなわちイエス・キリストが私たち人間に御霊を贈られたのは、私たちが御霊を通して救われて欲しいという願いからでもありますが、他にも理由、目的があります。そのことが7節に記されています。
皆の益となるために、一人ひとりに御霊の現れが与えられているのです。」 本日見ている12章には、具体的な御霊の現れが記されています。 ある人には信仰、癒し、預言などが、御霊の実際的な現れとして記されています。 コリントの教会は賜物が豊かに与えられている教会であったと、パウロはこの手紙に記しています。一方同時に、これらの賜物を誇っていた人々がいました。その結果、コリント教会に分裂、分派などといった問題が起こりました。コリント人への手紙は、そのような問題を起こしている人々に宛てた手紙でもあります。しかし本来賜物は、その賜物が与えられた人が自分を誇るためのものではなく、7節に記されているように、皆の益となるためだということを、私たちも心に留めておく必要があります。 これは霊的な賜物に限りません。その人の持っている能力、持ち物、経験、生まれから人格や性格などの違いも、皆が益となるためだと言うことです。
つまりキリストの体である教会が多様性に富み、豊かで、キリストの素晴らしさが表されるために、私たちはそれぞれが異なる能力や賜物が与えられ、教会に置かれている、合わされていると言うことです。そして教会が励まされ、徳が高められ、キリストの体が一致して建て上げられるためには、私たち一人一人が必要です。そのために神は、キリストの体である教会が建て上げられるために、私たち一人一人を招いて下さっています。 それゆえここにおられるお一人一人は、イエスに招かれ、イエスの体、可児キリスト教会を建て上げるために必要なお一人一人です。
この後、益田兄弟姉妹の転入会式が行われます。お二人にそれぞれ証をして頂きますが、この教会に来られるきっかけがいくつかありました。それは御霊、聖霊の導きであっただけでなく、イエスがお二人を-益田さん家族を-可児キリスト教会を建て上げるために招いて下さったと言うことができます。 感謝です。 キリストの体である可児キリスト教会を、これからも皆さんと共に、建て上げていきたいと願っています。
祈ります(聖霊、信仰、み言葉、イエスの十字架、復活、教会への招き、神のご計画)
あなたは自分で罪を悔い改め、イエスさまを信じることができますか。            
答 いいえ。聖霊が私たちの心にはたらいて、イエスさまを信じるようにしてくださるのです。
今週のみ言葉 コリント人への手紙第一12章3節b
聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。 

ゴスペルカフェ可児 2026/2/6

ゴスペルカフェ可児 第4回のゲストは、勝野さん(sax)、伊佐治さん(ds)、トム兼松さん(gt)のコラボでした。

来月、3月6日金曜日も楽しみですね!

ゴスペルカフェ可児 2025/11/7(金)

ゴスペルカフェ可児の様子です。トム兼松さんのソロ演奏と絶妙なトークで時間はあっという間に過ぎていきました。みんなで歌う時間もあり、「上を向いて歩こう」「ふるさと」を歌いました。そして、初回ゲストはソプラノ歌手のオードリーさん。お二人で「アメイジンググレイス」を演奏してくださいました。