テキストメッセージ

2026/10/4(日)「集められる者、残される者」マルコ13:24~27 庄司牧師

2026年10月4日 「マルコの福音書13:24~27」
しかしその日、これらの苦難に続いて、太陽は暗くなり、月は光を放たなくなり、星は天から落ち、天にあるもろもろの力は揺り動かされます。そのとき人々は、人の子が雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見ます。そのとき、人の子は御使いたちを遣わし、地の果てから天の果てまで、選ばれた者たちを四方から集めます。 (マルコの福音書 13:24-27 SKY17)

終末、この世の、この世界の終わりに何が起きるかを、小黙示録と呼ばれるマルコの福音書の十三章から共に見ています。24節にはしかしその日、と記されています。「その日」つまり神が定められた大いなる裁きの時に26節、人の子、神であるイエスがこの世界に再臨、再び来られる、ということが記されています。イエスが再臨される時には特別なことが起こります。それは24節に描写されているように、「太陽は暗くなり、月は光を放たなくなり、」25節、「星は天から落ち、天にあるもろもろの力は揺り動かされます。」このような天体の異常、天変地異が起こることをイエスは預言されておられます。このイエスの預言は旧約聖書にすでに記されています。それを用いて、すなわち引用されて、イエスは将来起こることを語っておられます。イエスはそれらの引用を、イザヤ書やダニエル書、ヨエル書などからされています。
イエスは、ご自身が再び来られる再臨に関して、24節で「これらの苦難に続いて」と言われました。これらの苦難とは、13章の前半に記されていることであり、すでに見て来た苦難です。
従ってイエスは、24節までに語られて来た終わりの日の前兆となる苦難と、24節から起きて来るさらに大きな苦難の前兆を明確に区別された、ということです。
24節までイエスが語られた世の終わりの前兆としては、民族が民族に敵対する。戦争の噂や実際の戦争が起こる。地震や飢饉が起こる。キリスト者への迫害が起こる。また、偽キリスト、偽預言者が多く出現する、などです。しかしそれで終わらない。それらは確かに苦難であるが、世の終わりの確かなしるしにはならない。 それは序章に過ぎない。本当の世の終わり、すなわちイエスが再び来られる再臨の直前には、天体の大変動があり、天変地異が伴う。それが、神が定められた大いなる裁きの「その日」であるとイエスは語っておられます。
「裁き」とは分けられることです。以前お話したことがあります。 何が分けられるのか?それは人類です。 イエスは27節でこのように語られました。そのとき、人の子は御使いたちを遣わし、地の果てから天の果てまで、選ばれた者たちを四方から集めます。選ばれた者とは、イエスを信じるキリスト者、クリスチャンです。「地の果てから天の果てまで」とあるように、歴史と時代を貫き、また全世界のあらゆる国々においてイエスを信じた全ての人々が、イエスの下に集められる。神の選びの民が必ず集められるという強調表現です。しかし選びの民がいるということは、一方イエスの下に集められない人々がいる。選ばれなかった人々がいるということです。それがすなわち「裁き」です。イエスを信じたがゆえにイエスの御元に集められる人々と、そうでない人々がいる。そしてそのように人々はすでにイエスを信じる者たちと信じない者たちとで分けられている。この分けられること、そして分けられていることがすなわち裁きです。この裁きの描写が、マタイの福音書24章にあります。40節から42節をお読みします。

そのとき、男が二人畑にいると一人は取られ、一人は残されます。女が二人臼をひいていると一人は取られ、一人は残されます。ですから、目を覚ましていなさい。あなたがたの主が来られるのがいつの日なのか、あなたがたは知らないのですから。 (マタイの福音書 24:40-42 SKY17)
これはイエスが再臨される時の描写です。イエスが再臨される時は、畑にいる、臼をひいているというように、労働や食事の支度など、日常生活を人々が送っている最中、唐突に、突然イエスがやって来られる。そして一人は取られる。一人は残される。取られた人とはイエスの下に行く人です。イエスが集められる人です。そして残された人はイエスの下に行くことが出来ない人であり、イエスに集められなかった人です。イエスの再臨は突然に、しかし確実にやって来るということです。
またイエスは、再臨が確実に、そして必ず来ることを、ノアの時代にあった洪水を引き合いに出して語られています。ルカの福音書17章です。26節、27節をお読みします。
ちょうど、ノアの日に起こったのと同じことが、人の子の日にも起こります。ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていましたが、洪水が来て、すべての人を滅ぼしてしまいました。人々が食べたり飲んだり、結婚生活を営んでいた時、すなわち日常生活を営んでいた時、神を信じない人々に対して、突然神の裁きが及びました。イエスはさらに、アブラハムの甥であったロトに起こったことを、神の裁きの引き合いとして語られています。続けてルカの福音書17章の28節から30節までをお読みします。
また、ロトの日に起こったことと同じようになります。人々は食べたり飲んだり、売ったり買ったり、植えたり建てたりしていましたが、ロトがソドムから出て行ったその日に、火と硫黄が天から降って来て、すべての人を滅ぼしてしまいました。人の子が現れる日にも、同じことが起こります。
ソドムは悪徳の町とか、背徳の町と呼ばれた悪名高き町です。性的な逸脱、また不道徳から、男性であるロトにも危険が及びそうになったほどの町です。ここに住んでいた人たち-すなわち神を信じない人たちでしたが-食べたり飲んだり、売ったり買ったりと、普段の生活をしている時、突然彼らは滅ぼされました。創世記19章にその時の様子が記されています。これはノアの洪水の時の水の裁きに対して、火の裁きであると言えます。イエスは「人の子が現れる日にも、同じことが起こる」と語られ、イエスが再臨される時の裁きが、火を伴っている火の裁きであることを示しておられます。
ノアの洪水の水の裁きも、また、ソドムに起こった火の裁きも、過去、すでに起こったことです。一方イエスが再臨される時に起こる裁きは、私たちにとっては未来のことですが、神であるイエスが預言されておられるゆえ、確実にそうなります。旧約聖書に記されている預言、すなわち神のことばが、イエスの誕生や生涯、十字架において歴史的に見ても成就、実現している事実からそのように断言できます。また、イエスの弟子であったペテロは、イエスが再臨される時の裁きを、火の裁きと結びつけて預言しています。ペテロの手紙第二3:10節をお読みします。
しかし、主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は大きな響きを立てて消え去り、天の万象は焼けて崩れ去り、地と地にある働きはなくなってしまいます。 イエスが旧約聖書を引用して語られた、再臨の「その日」に起きるであろう天体の異常、天変地異の描写と合致します。そしてそれはイエスが預言され、またペテロも預言しているように、火の裁きが伴います。この終わりの日がいつ来るかは、イエスすら知らないと言っておられますから、私たちはその日を特定することは決して出来ませんし、またどのような天体の異常や天変地異が起きるかも知る由はありません。
ただ一つ言えること。それは、主の日である「その日」「裁きの日」が終わりの日に必ずやって来るということです。
先程、イエスは旧約聖書に預言されていることを引用しながら、ご自身の再臨の前に起こる前兆を示され、また預言されたとお話しました。イザヤ書13:9,10節にはこのように記されています。背景はイスラエルに敵対し、残虐かつ傲慢な国であったバビロニア帝国への神の裁きと陥落ですが、その裁きが天体の異常、すなわち終わりの日に起こることと重ねられて描写されています。
「見よ、主の日が来る。憤りと燃える怒りの、残酷な日が。地は荒廃に帰し、主は罪人どもをそこから根絶やしにする。天の星、天のオリオン座はその光を放たず、太陽は日の出から暗く、月もその光を放たない。(イザヤ書 13:9-10 SKY17)
罪人どもとは、直接的にはバビロニア帝国の人々を指していますが、天変地異の描写が伴っていることから見て、世界の終わりに神が不信仰な人類や悪の世界全体を裁く「終わりの日(最後の審判)」のひな型(予兆)としても解釈できます。つまりこの預言の一次的な対象は古代のバビロンですが、象徴的には神に敵対する高慢な勢力、そして世界全体が裁きの対象となっています。
一方、同じイザヤ書の34:4節にも天体、そして全被造物の異変について記されています。
天の万象は朽ち果て、天は巻物のように巻かれる。その万象は枯れ落ちる。ぶどうの木から葉が枯れ落ちるように。いちじくの木から実がしぼんで落ちるように。 (イザヤ書 34:4 SKY17)
この34章4節のイザヤの預言は、直接的にはエドムに対する神の裁きを表しています。エドム人はエサウの子孫に当たりますが、イスラエルに敵対して来ました。イスラエルがエジプトから脱出した出エジプトの際、領土の通過を拒否するなどしてイスラエルを苦しめました。また紀元前586年にバビロニア帝国によってエルサレムが破壊された際、エドムはその崩壊を喜び、逃げ惑うユダヤ人を捕らえて敵に引き渡しました。このためエドムは、「神の民を迫害し、神に敵対する高慢な人々、また国の代表格」として描かれ、神の裁きの対象とされています。エサウは、一杯の煮物のために長子の権利をヤコブに売ったり、父であるイサクから娶ってはならないと言われていた、先住民族のカナン人の女性と結婚したりしました。カナン人は多神教の偶像礼拝者たちで、性的にも堕落していたからです。つまりエドムとは、神を信ぜず、時に敵対し、肉的で自己中心的な生き方をする人々であり、国の象徴です。そのエドムが裁かれることを通して、神を信ぜず、時に敵対する全ての国々、人々への裁きが象徴的に描写されている。それがこの34:4節です。これは先程引用した13:9、10節に記されている天体の異常と共に、終わりの日、すなわちイエスが再臨される時に、日本や日本人も含む、神を信ぜず、時に敵対し、無視する国々、人々への裁きの預言でもあります。このような天体の異常、天の万象が揺り動かされるという天変地異があり、イエスが裁きのために再臨される。イエスが再びこの世界に来られます。
イエスの初臨、すなわち最初にこの世界に来て下さったクリスマスは、殆どの人がその誕生を知りませんでした。イエスの父ヨセフと母マリア、羊飼いたち、そして東方の博士たちくらいでした。イエスは小さな幼子として家畜小屋で生まれる。へりくだった誕生、ひっそりとした誕生でした。しかしそれとは全く対照的に、再び来られる時は大きな権威を有し、恐るべき審判者として来られる。イエスは26節でこのように語られています。
そのとき人々は、人の子が雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見ます。これはダニエル書からの引用です。その引用されている箇所をお読みします。7:13,14節です。
私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲とともに来られた。その方は『年を経た方』のもとに進み、その前に導かれた。この方に、主権と栄誉と国が与えられ、諸民族、諸国民、諸言語の者たちはみな、この方に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。 (ダニエル書 7:13-14 SKY17)
諸民族、諸国民、諸言語、世界中の人々が仕えることになるイエス・キリスト。それは父なる神から主権と栄誉と国が与えられた王であり、主権者なるお方であることが、ここに記されています。この王であり全ての国々の人々の主権者なるイエスが再びこの世界に来られる。この時はクリスマスの時の誕生の時のように、ひっそりと、また限られた人々しか知らないといったものではなく、神の臨在を表す雲と共に、すなわち神そのものの栄光と、圧倒的な力を持って再臨される。イエスご自身がダニエル書を引用しながら、神としてのご自分の姿を明らかにされました。そしてこの力強い再臨は、イエスに敵対し、イエスを信じないという人々ですら、認めざるを得ない明らかな形で来られます。この王であり、主権者なるイエスが、イエスの選ばれた者たちを集められる。27節をお読みします。
そのとき、人の子は御使いたちを遣わし、地の果てから天の果てまで、選ばれた者たちを四方から集めます。
王であり、全ての国々、また人々への主権者なる神、イエスが、イエスを信じて罪赦され、神の子とされ、神の家族とされている人々、すなわちイエスに選ばれた人たちを、御許に迎え入れて下さる。イエスご自身が言及された再臨の時に起こること-選ばれた人々を集めて下さる-というイエスの預言は、それが将来成就、実現することの約束であり、保証でもあります。従ってイエス・キリストの再臨は、キリストに反逆し、キリストを拒絶する者にとっては後に残されるという嘆き悲しみの日ですが、キリストを信じ、キリストに従う者にとってはイエスの御許に集められ、救いが完成する喜びの日です。

最後に、天変地異の中で起こるイエスの再臨が、イエスを信じる人々の救いの完成であることが記されている旧約聖書のヨエル書をお読みして、本日のみ言葉の取り次ぎを終わりたいと思います。
ヨエル書 2:30~32a
わたしは天と地に、しるしを現れさせる。それは血と火と煙の柱。主の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽は闇に、月は血に変わる。しかし、主の御名を呼び求める者はみな救われる。

祈ります
「集められる者、残される者」
今週のみ言葉 「そのとき、人の子は御使いたちを遣わし、地の果てから天の果てまで、選ばれた者たちを四方から集めます。」(マルコの福音書13:27)

2026/9/27(日)「見限らない主」出エジプト記34:1~10 庄司牧師

2026年9月27日 「見限らない主」出エジプト記34:1~10
主はモーセに言われた。「前のものと同じような二枚の石の板を切り取れ。わたしはその石の板の上に、あなたが砕いたこの前の石の板にあった、あのことばを書き記す。朝までに準備をし、朝シナイ山に登って、その山の頂でわたしの前に立て。だれも、あなたと一緒に登ってはならない。また、だれも、山のどこにも人影があってはならない。また、羊でも牛でも、その山のふもとで草を食べていてはならない。」そこで、モーセは前のものと同じような二枚の石の板を切り取り、翌朝早く、主が命じられたとおりにシナイ山に登った。彼は手に二枚の石の板を持っていた。主は雲の中にあって降りて来られ、彼とともにそこに立って、主の名を宣言された。主は彼の前を通り過ぎるとき、こう宣言された。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す。しかし、罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、三代、四代に報いる者である。」モーセは急いで地にひざまずき、ひれ伏した。彼は言った。「ああ、主よ。もし私がみこころにかなっているのでしたら、どうか主が私たちのただ中にいて、進んでくださいますように。確かに、この民はうなじを固くする民ですが、どうか私たちの咎と罪を赦し、私たちをご自分の所有としてくださいますように。」主は言われた。「今ここで、わたしは契約を結ぼう。わたしは、あなたの民がみないるところで、地のどこにおいても、また、どの国においても、かつてなされたことがない奇しいことを行う。あなたがそのただ中にいるこの民はみな、主のわざを見る。わたしがあなたとともに行うことは恐るべきことである。
新約聖書はマルコの福音書を、そして旧約聖書は出エジプト記を同じく初めから共に見て来ました。出エジプト記は40章で終わりですからいよいよ終盤です。
奴隷とされていたエジプトから主なる神によって救い出され、乳と蜜の流れる約束の地に向けて荒野の旅路を歩んで来たイスラエルの民は、シナイ山において、この主なる神と契約を結びました。それは人間同士の商売の契約のようなものではなく、主なる神がイスラエルの神となり、イスラエルは神の民とされる、そのような特別な関係を、神が恵みによって結んで下さる、というものでした。この契約によってイスラエルの民は、神の民として新たに歩み始めました。しかしモーセとヨシュアが、契約のしるしとなる石の板-十戒が記されたものですが-神から授かるために山に登っている間、麓で待っていたイスラエルの民は金の子牛の像を造り、それを神として拝み始めました。直接的な原因は、石の板を授けられるために山に登ったモーセが中々帰って来ない。そのため不安になったからですが、元々民たちにあった性質-神への不信仰、不従順が露わになった時でもありました。 十戒の第一の戒めは、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」
第二の戒めは「あなたはいかなる像も造ってはならない。それらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない」です。主なる神の民として守るべき基本的なこれらの戒めを、イスラエルの民はそれが与えられたとたんに破ってしまいました。この「金の子牛」の話が32章以下に語られて来ました。山から戻って来てこの様子を見たモーセは激しく怒り、十戒が記された石の板を砕きました。それは主なる神と民との契約が破綻し、壊れてしまったことを表しています。金の子牛という偶像を造り、神として拝んだ罪によって、主なる神とイスラエルの民との契約の関係は失われてしまいました。そのためモーセは神とイスラエルの民との間に立って、彼らの罪を赦して下さるようにと、主なる神に懇願しました。 モーセは、罪を犯して神との契約の関係を失い、もはや神の民として歩むことができなくなったイスラエルの人々の赦しを、主なる神に必死に求めました。その結果、神はイスラエルの民を滅ぼすことを思い留まり、再び彼らをご自分の民とし、彼らと共に歩まれると宣言して下さいました。重大な罪を赦され、一旦は失われた、神と彼らの間の契約がもう一度結び直される。イスラエルの民は再び神の民として歩み出すことができる。その契約の再締結が、本日取り上げられている34章で語られています。
1節には、主はモーセに言われた。「前のものと同じような二枚の石の板を切り取れ。わたしはその石の板の上に、あなたが砕いたこの前の石の板にあった、あのことばを書き記す。とあります。契約の再締結は、モーセが用意した二枚の石の板に、神の指によって十戒が再び書き記され、もう一度与えられるということを通してなされました。イスラエルの契約違反によって失われた契約の関係が、回復されることのしるしとなりました。契約とはすなわち約束を交わすことです。つまり、お互いに守り行うべき義務を負うということです。それは人間側だけでなく、神側にも義務が生じることになります。それは責任とも言い換えることができるかもしれません。 神がイスラエルと契約を結ぶことによって責任を持って下さることとは、神が彼らイスラエルを守り、養い、導き、救うことを義務として引き受けて下さる、責任を持って下さる、ということです。そして同時にイスラエルも神に対して義務を負う者となります。その義務とは、神との契約を守ることによって果たされるものです。そのようにお互いがお互いに対して義務を負い、成すべき責任をしっかりと果していく。それが神と民とが契約で結ばれている証でもありました。従ってイスラエルがなすべき義務、十戒に記されているようなことを行わないならば、神との関係はまた破れ、失われてしまいます。 実際にイスラエルは第一戒と第二戒を破り、神との関係は破れ、壊れてしまいました。しかしモーセの執り成しによって神は再び契約を通して神が行うべき義務-神を信じ、従って来る者たちを守り、養い、導き、救いの手を伸ばして下さる、という責任を再び持つと約束して下さいました。主なる神と、不信仰であり不従順であるイスラエルの間に入り、彼らイスラエルの罪を赦して下さるようにと神に懇願した人、それがモーセです。そして以前お話しましたが、モーセはイエス・キリストを象徴しています。しかし決定的な違いがモーセとイエスにありました。それはどれだけ真剣で真実なものであっても、モーセはただ祈り、執り成すだけの存在です。しかしイエスはその身をもって、私たち人間の罪が神の御前で赦されるために、その身を捧げて下さいました。それが、モーセが罪の身代わりに架かることはなかった十字架です。
罪を犯した人間は、その罪によって死ぬ存在になってしまいました。そこでイエスは人間の罪を全て背負い、ご自分が人間の代わりに神に呪われる者となって、人間の身代わりに死なれました。
死の原因となった人間の罪を葬り去り、また、人間を罪に誘った悪魔、サタンを打ち破って復活されました。このイエスの十字架が自分の罪のためであった。身代わりの死であると信じる全ての人々の罪は赦され、新しい者とされる。また罪によって断絶していた父なる神との交わりを回復させて頂ける。それがイエスの十字架と復活にありました。
イエスの十字架による罪の贖い、赦しの前までは、すなわち旧約時代は、人間の罪の身代わりとして動物の血が、動物のいのちが捧げられていました。「この血、このいのちを捧げますから、神よ、代わりに私の罪を赦して下さい。」このような方法によって人類は罪の赦しを神に求めました。しかしイエスの十字架の死が自分の罪のためであったことを信じる人は、その信仰によって罪赦され、神の子、神の民として新たな関係、契約の中に入れられる。この十字架による新しい約束が新約、新しい契約です。新約聖書の「約」は契約の「約」を表し、イエスを信じる者と神との関係が結び直される、新しい契約です。以前お話したことがあります。 その契約は、動物の生贄が民の罪の身代わりとして捧げられることによって彼らの罪が赦されるといった古い契約-すなわち旧約ではなく-イエスを信じる全ての者の罪が、ただイエスの身代わりの十字架を信じることによって赦され、新しい者とされる。そのような新しい契約、すなわち新約です。その新しい契約が記されているのが新約聖書であり、その新しい契約に対して、古い契約が記されているのが旧約聖書です。そしてこの旧約聖書には、新約の中心となるイエス・キリストの到来が数多く預言として記されている。そしてこれらの預言は、イエスの到来によって再臨を除いて成就、実現している。今私たちはこの新約、新しい契約の中に生かされている者たちです。感謝です。
旧約において、神とイスラエルの民たちとが結んだ契約は、主に十戒に代表される律法を、イスラエルが守る義務と責任が伴いました。一方神は、その契約関係にあるイスラエルを守り、養い、導き、祝福する義務と責任がありました。しかし新約におけるイエスとイエスを信じる者たちに生じる義務と責任は、このような旧約とは異なります。それはイエスが律法を終わらせたからです。人間はもはや律法を守ることによって救いを得るのではなく、ただイエスの十字架の身代わりが、自分の罪であったと信じる信仰によって罪赦され、新しくされるというものです。それは旧約の時代のように、律法を守ることによって契約関係が保たれるというのではもはやなく、ただ、イエスの御心を求めて生き、イエスに似た者となること目指し、またイエスの言われることを守り、従って行く。そのようなもっと人格的な関係であり、交わりに変えられました。
旧約における神とイスラエルの契約関係は、律法を守ることによって保たれました。しかしイエスの十字架の愛を知り、信じ受け入れた私たちは、イエスの愛と慈しみを日々経験することができます。従ってイエスの御心、イエスが語られること、そしてイエスが命じられたことを自発的に、そして率先して守り、行うことを求めるようになります。 新約聖書、ヨハネの手紙第一5章3節には、このようなことばがあります。「神を愛するとは、神の命令を守ることです。この命令は重荷になることはありません。」大好きな人、尊敬している人、愛している人から言われること、語られること、命じられることは、率先して守りたくなるものです。そしてそれは自発的に守っていきなくなることですから、重荷にならないばかりか、むしろ喜びとなります。自分が大好きな人、尊敬している人、愛している人が私のためを思って命じられることを守り、従うことをその人が喜んで下さるなら、率先して守っていこう、となるのではないでしょうか。ですから新約に生きる私たちは神、すなわちイエスを愛していれば、イエスが言われることを率先して守り、従っていくことが喜びとなっていくでしょう。そしてイエスの命令を率先して守る者は、すなわちイエスを愛する者です。このイエスに対する愛と、イエスの命令を守ることとは、車の両輪の関係に例えることができるかもしれません。
旧約において律法を守ることによって保たれていた、どちらかと言えば義務的な契約とはもはや異なります。しかしこのような関係、また愛の交わり、また生き方は、結果的に律法を守ることにも繋がります。それはイエスの思い、御心が、律法にも表されているからです。しかし私たち人間は弱いものです。イスラエルを見れば分かります。神から与えられた全ての命令を守ると、24章において誓った彼らは、その舌の根が乾かない内に、その神を捨て、偶像を神として拝み、従ってしまいました。イスラエルの民は人類の代表の側面がありますから、その神への不信仰、不従順は、すなわち私たち全ての人類の罪深さを表していると言えます。しかし神はモーセの執り成しに心動かされ、彼らの罪を赦されました。そしてこのモーセはイエス・キリストを象徴していると先程お話しました。イエスはこのモーセよりももっと大きく、偉大で、尊厳と憐れみ、そして愛に満ちておられる方です。イエスを求めて来る全ての人たちを受け入れられました。目が見えず、口がきけない人。耳が聞こえず、足を動かすことができない人。肉体的な欠陥を抱えながら、それでもイエスの下に憐れみを求めて来た全ての者たちをイエスは受け入れ、憐れみを示され、優しいことばをかけられ、その手でお触れになり、癒されました。また、罪にさいなまれ、罪を告白する者もイエスは受け止められ、その人の罪の赦しを宣言されました。その癒しも、また罪の赦しも、根拠はイエスの十字架にあります。私たち人類が持つ死、死に至る病や痛み、また苦悩など、それら全ての元である罪を、身代わりに負って下さったからです。イエスは人類の罪をその身に負って十字架に架かられるほどに私たち人間をとことん愛され、仕えられ、良きものを与えられ、最善へと導かれるお方です。十字架がその証です。
このイエスの優しさ、共感、憐れみ、愛は、本日の箇所に予表、表されています。それが6節、7節です。主は彼の前を通り過ぎるとき、こう宣言された。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す。しかし、罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、三代、四代に報いる者である。」罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、三代、四代に報いる者とは、神が私たち人間の罪を裁く真実なる神、義なる正義の神のご性質が表されています。またそれは三代、四代と限定的で短い。しかし一方で、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す。と主なる神が語られているように、神を信じる者に示され、また与えられる神の憐れみ、恵み、まことは千代まで続く、つまり永遠に続くということです。その愛はイエスの受肉から始まり、十字架でクライマックスに至りました。罪によって神の祝福を失い、神の守りと養い、導きの下に生きることができなくなったのは、イスラエル民族に限りません。全ての人類も同じです。しかしそのような私たちの救いのために、主なる神は独り子イエス・キリストを、モーセ以上の執り成し手とされ、モーセには決してなれなかった救い主として遣わして下さり、私たちの罪を全てイエスに背負わせました。この主イエス・キリストこそ、「あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦される。」お方そのものです。イエスは主なる神、すなわち父なる神と同質、同じ神でもあるからです。 私たちは、イエスの十字架と復活が自分の罪のためであったと、ある日、ある時信じました。それゆえ私たちは、イエスの十字架を通して結ばれた、新しい契約、新約に一人一人が与っています。
この契約が永遠に続く契約であることを覚え、イエスの愛と慈しみを共に感謝したいと思います。
祈ります。
「見限らない主」
主は彼の前を通り過ぎるとき、こう宣言された。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す。

2026/8/16(日)「忍耐と救いを与える聖霊の助け」マルコ13:9~13 庄司牧師

2026年8月16日 マルコの福音書13:9~13「忍耐と救いを与える聖霊の助け」
あなたがたは用心していなさい。人々はあなたがたを地方法院に引き渡します。あなたがたは、会堂で打ちたたかれ、わたしのために、総督たちや王たちの前に立たされます。そのようにして彼らに証しするのです。まず福音が、すべての民族に宣べ伝えられなければなりません。人々があなたがたを捕らえて引き渡すとき、何を話そうかと、前もって心配するのはやめなさい。ただ、そのときあなたがたに与えられることを話しなさい。話すのはあなたがたではなく、聖霊です。また、兄弟は兄弟を、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に逆らって立ち、死に至らせます。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。
「小黙示録」と呼ばれているマルコの福音書14章、「世の終わり」を引き続き見ています。終わりの日が近づくにつれ、色々な前兆が現れて来る。だから「惑わされてはいけません」とイエスは警告されました。そしてイエスは9節において、「用心しなさい」つまり「気をつけなさい」と、終わりの日とどのように向き合ったら良いか、イエスを信じるキリスト者に語っておられます。それは「わたしのために」とあるように、イエスを信じ、イエスに従って行く者に起こって来る「終わりの日」における迫害です。9節をお読みします。
あなたがたは用心していなさい。人々はあなたがたを地方法院に引き渡します。あなたがたは、会堂で打ちたたかれ、わたしのために、総督たちや王たちの前に立たされます。そのようにして彼らに証しするのです。会堂や地方法院-小さな裁判所のようなものですが、そのような場所で迫害されていたのはイエスの弟子たち、ユダヤ人たちでした。 迫害する者たちもユダヤ人たちでした。しかしその迫害はやがて拡大して行き、総督たちや王たちからも迫害されることになる、すなわち迫害の範囲が広がって行く。また迫害される方も、ユダヤ人以外の異邦人にも拡大して行く、ということをイエスは語られましたが、それは現実となって行きます。
イエスは10節においてこのように語られました。「まず福音が、すべての民族に宣べ伝えられなければなりません。平行箇所のマタイの福音書の24章においては、福音の拡大が終わりの日と重なり合っていることが記されています。マタイ24:14 御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます。従ってキリストの体なる教会が全世界に建て上げられている、すなわち福音が全世界に届いている現代は、すでに終わりの日が始まっているということであり、私たちはそのような時代に生きている、生かされている、と言えます。
前回共に見て来ましたが、終わりの日である「その日」が来る前に、天変地異などの異常気象、戦争、迫害などが、頻度も強さも増していくとイエスは語られましたから、終わりの日である「その日」にはまだ到達していないものと思われます。終わりの日に裁きが行われる「その日」まではまだ時間がある。しかし迫害は確実に、そして日増しに強まっていく。
そしてイエスはこの世の終わりにおける迫害に直面する時の心構えとして、本日の聖書箇所の中でこのように語られました。11節です。人々があなたがたを捕らえて引き渡すとき、何を話そうかと、前もって心配するのはやめなさい。ただ、そのときあなたがたに与えられることを話しなさい。話すのはあなたがたではなく、聖霊です。
聖霊が迫害において助けて下さる。聖霊が、迫害の中にあってもその中を導かれ、歩ませて下さる。イエスが11節で語られたこと。まさしくそのことが歴史的に起こったのが、新約聖書、使徒の働き6章と7章に描写されています。イエスの弟子の一人であったステパノが、普段ギリシャ語を話すユダヤ人たちと議論をしたことが記されています。彼らはパレスチナの外の地域(ヘレニズム世界)で生まれ育ったため、日常的にギリシア語を使用し、当時の国際的な教養や思想背景を持っていました。ステパノは彼らに向かって「あなたたちの先祖は主なる神から遣わされた預言者たちを迫害し、今度は神ご自身であるイエスを裏切り、殺す者となった。」と語りました。ステパノはさらに、あなたがたは律法を大切にしているといいながら、守ったことがないではないか、と糾弾しました。「しかし、彼が語る時の知恵と御霊に対抗することはできなかった。」とあるように、知恵と聖霊に満たされて語るステパノの論理に、彼らは議論では勝てず、何も言い返すことが出来ませんでした。しかし最終的にステパノは彼らの怒りを買い、石打ちによって殺されてしまいました。殉教です。この時ステパノは扇動された人々によって、サンヘドリンと呼ばれる、祭司長や長老、律法学者など、約70人の議員で構成されていた議会に連れて行かれました。彼が議論、弁明をした時、何の準備もできませんでした。しかし「彼が語る時の知恵と御霊に対抗することはできなかった。」と記されている通り、敵対者はステパノに何も言い返すことはできませんでした。また、必要な話すべきことばは聖霊が与えて下さいましたが、その結果は殉教でした。 しかしこの迫害、殉教には続きがあります。ステパノの殉教をきっかけにエルサレム教会が大迫害を受け、イエスを信じるキリスト者たちが、ユダヤやサマリヤの諸地域に散らされ、その結果、教会が各地で立ち上がっていきます。 福音はローマ帝国にまで広がって行きましたが、多くの人々が、火あぶりやライオンの餌食などになるといった凄まじい迫害によっていのちを落として行きました。しかし命がけで信仰を守る殉教者たちの姿や、疫病の時に病人を看病するなど、過酷な状況下でも隣人愛を実践する姿を見た周囲の人々が心を動かされ、数百年間続く迫害においても、キリスト者は増え続けました。 その迫害を受けて、2世紀頃のキリスト教の教父、神学者であったテルトゥリアヌスはこのように述べました。「殉教者の血は、教会の種子、種である」古代ローマ帝国によるキリスト教迫害の時代に、テルトゥリアヌスが権力者や迫害者に向けた言葉です。 キリスト者が信仰のために命を落としても、その流された血や耐え忍ぶ姿が「種」となって、その姿を見ていた人々の心に新たな信仰の芽を呼び起こし、結果として信仰者の群れも、またイエスの体なる教会も大きく成長した、という意味が込められています。実際にキリスト者は迫害されればされるほど増え広がって行き、最終的にはローマ皇帝テオドシウスがキリスト教を国教としました。紀元392年でした。近代においては過去、日本の支配の下で、朝鮮のクリスチャンたちは厳しい迫害を受けました。神社への参拝を強制され、抵抗した多くの人々が殉教して行きました。今日、韓国ではクリスチャンが多くいますが、それは、殉教者たちの流した血が種となったからだと言うことができるでしょう。またインドや中国など、政府や過激派組織による迫害が起きている場所でも、キリスト者たちの強い姿勢や奉仕を通じて、かえってキリスト者が増えて行きました。 また現在のイランですが、政府による厳しい監視や制限、投獄などの困難、迫害がある中、近年急激にキリスト者が増えていると言われています。ローマ帝国の下でもそうだったように、迫害によって信仰が強められ、殉教者が出ることによって教会はむしろ強くなり、増え広がっていきました。
この迫害は歴史的にも起きましたが、個人レベルでも起きた、また起きることになるとイエスは言われます。12節です。また、兄弟は兄弟を、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に逆らって立ち、死に至らせます。個人レベルの迫害によって、兄弟、子、両親など、家族から迫害され、死に至る人がいる、ということをイエスは語られました。肉体的ないのちに関しては、時に迫害によって失われる、つまり殺されてしまうこともある、ということです。そしてその迫害の先にあるものをイエスは13節で語られました。「また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。」
色々な迫害が起こって来る。イエスを信じ、従って来るだけで人々に憎まれる。しかし最後まで耐え忍ぶ人は救われるとイエスは言われました。つまり、迫害され、いのちを落とすようなことがあっても救われるということです。ですからここでイエスが言われている救いとは、肉体的な領域を指していないことは明らかです。前回、「終わりの日のしるし」というメッセージの中で、私たちが神以外に頼みにしているすべては滅び、無くなっていくというお話をしました。それは私たちの体も含まれます。一瞬、瞬きに過ぎない私たちの限りある肉体の人生が少し早くなったとしても、その先にある永遠のいのちを神は見据えておられるため、迫害によって肉体的ないのちを失う人の存在を許しておられる。迫害を許されている。そのように思います。そして殉教していったいのちが、種、種子となって、永遠のいのちを獲得していく人々を起こしていくのだと思います。
先程招詞、礼拝への神からの招きのことばをエペソ人への手紙1章14節から読んで頂きました。「聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。」私たちの肉体は滅びるものであるがゆえに、肉体という存在は地上だけに限ったものです。しかしイエスを信じる者たちは、御国を受け継ぐことができる。イエスの支配されておられる神の国、御国を受け継ぐことができる。すなわち私たちの存在そのものである、霊魂が将来御国を受け継ぐことになる。従って聖霊は、私たちの肉体が例え滅びても、私たちの存在そのものである霊魂が御国に行くことができるよう、保証となって下さる、ということがここに約束されています。また聖霊の働きにおいて、このようなみ言葉を共に見たことがありました。「誰も聖霊によらなければイエスを主と告白することはできません。」私たちはみ言葉を読み、あるいは聞くことを通して、ある日、ある時、イエスを自分の主、救い主と信じました。それゆえ私たちはその時から罪赦され、神との関係が回復し、滅びから救われていますが、その救いに導いて下さったのが聖霊、神ご自身でした。この同じ聖霊、神の霊、神ご自身が、私たちクリスチャンが例え迫害によって捕えられるような時が来ても、また、ステパノのように尋問されるような迫害に直面しても、話すべき、また弁明できることばを与えて下さる。その先がそこからの解放なのか、または肉体的な死である殉教であるかは、神のご計画の中にある。それがもし殉教-肉体的な死であったとしても、その死は無駄にならない。必ずその死、言い換えればイエスによるいのちが散るのを見た他の人々が、その姿によってイエスを信じ、従い、救われていく。イエスによるいのちが種子、種として用いられる。そこには神の選びとご計画があることを思います。迫害の歴史的事実とその結果を踏まえ、私たちはイエスが最後に言われことばに希望を持つことができます。13節。「しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。」私たちは自分の力で、迫害に負けずに信仰を貫き、どんな時でも主イエスを証ししていくことはできないでしょう。それを私たちにさせて下さるのは聖霊です。聖霊は、迫害を始めとする様々な苦しみの中にいる私たちに、その先にある神の救いを待ち望むことができるように、その希望によって私たちが支えられるように、導いて下さいます。その聖霊の働きによって私たちは、苦しみの中でも耐え忍んで信仰を守ることができ、主イエスを証ししていく言葉を与えて頂けます。
この聖霊が弟子たちに与えられたのがペンテコステの出来事でした。そしてこのペンテコステを通して、キリストの体なる教会が誕生しました。この同じ聖霊が働いて下さり、迫害においても、イエスを信じる者たちに語るべきことばを与えて下さる。そしてたとえ迫害によっていのちを失うようなことが起きても、そのいのちは種子、種として、イエスを信じる新しい人々を起こして行く。迫害において、何一つ無駄になるものはない。その聖霊が今この教会にも、そして私たち一人一人にも注がれています。また聖霊は私たちの目を開き、この世の終わりに、主イエス・キリストによる救いが完成することを見つめさせて下さいます。その終りの日に至るまでの道には苦しみや悲しみ、迫害がありますが、私たちは耐え忍んで信仰を守り抜き、主イエス・キリストの福音が全ての民に宣べ伝えられるための証しに用いられていくことができます。
イエスは13節において、「最後まで」耐え忍びなさいと語られました。この最後とはイエスを信じる私たち一人一人の肉体におけるいのちの終わりであり、また、終わりの日です。そしてこの耐え忍ぶということばは希望がある忍耐です。それは迫害の先には救いの完成が待っているからです。

出エジプトの時、モーセがイスラエルの民に宣言しました。「恐れてはならない。しっかり立って、今日あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。」前は大海原、後ろからはエジプト軍が迫って来る。絶体絶命の瞬間でした。このような命の危険、また希望が持てなくなった時、モーセはしっかり立っていなさい、耐え忍びなさいと叫びました。それはその先に希望があるからです。主の救いがあるからです。そして実際に主なる神は彼らを絶対的なピンチから救われました。この同じ神が、私たちをも救って下さいます。救って下さる力を持っておられます。
迫害というのは、神に敵対する力が目に見える形として、また現実にこの世界を支配している者たちがいるということを、私たちに知らしめて来るものです。私たちは迫害によって、また、価値観や生き方の違う人々から受ける様々な試練や困難から、自分の姿がさらけ出されて行きます。それらの困難から、持っていると思っていた豊かさ、信仰、主を信頼する力などが打ち砕かれることもあります。しかしその迫害を、困難を、私たちは自分の力でどうすることもできません。
自分の力によって迫害に打ち勝つことはできません。従って迫害の中で私たちは、もはや自分ではなく、目に見えない神に依り頼み、神のご支配が現れることを待ち望むしかありません。
終わりの日に向けて、「その日」に向けて、迫害は強く、大きくなっていきます。そしてそれは必ず起きることであり、すでに起きています。しかし例えそのような状況になっても、私たちが受ける迫害の苦しみが、伝道の前進という実りを生みます。それゆえにこの苦しみをイエスは、「産みの苦しみ」と呼ばれました。それは信仰による新しいいのちを生み出すための苦しみであり、希望のある苦しみです。 弱い私たちを、主なる神が、イエスが、聖霊を通して支え、導き、その先にある救いを思い出させ、見つめさせ、その希望にすがらせて下さいますように。 信仰のゆえに受ける苦しみを私たちはそのように受け止め、共に最後まで耐え忍ぶ者でありたいと思います。
祈ります
「忍耐と救いを与える聖霊の助け」
「また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。」

2026/8/9(日)「第一の戒めは何を教えていますか?」マタイ4:10 庄司牧師

2026年8月9日 マタイの福音書4:10「第一の戒めは、何を教えていますか?」      
問43 この第一の戒めは、私たちに何を教えていますか。
答 ”私たちが神さまを愛し、まことの神さまだけを礼拝することです。私たちは、他の神々をおがんではなりません。”イエスは言われた。「下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある。」” マタイの福音書4章10節
月の第二日曜日です。本日も子ども信仰問答からお話をしていきます。前回の箇所を少しおさらいしたいと思います。前回の問42は、「第一の戒めは何ですか?」そして引用されていたのが出エジプト記です。「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない」(出20:3)                                   そしてその具体例として取り上げられていたのが、申命記4:35節、 “あなたにこのことが示されたのは、主だけが神であり、ほかに神はいないことを、あなたが知るためであった。’’です。
「主だけが神であり、ほかに神はいないことを、あなたが知るためであった。」主なる神は、ご自身が唯一、まことの神であるということを、出エジプト記において示されました。イスラエルの叫びに答えて奴隷から解放し、約束の地、カナンに向かう荒野においても同行されました。パンであるマナを降らせ、必要な水や肉なども備えられました。イスラエルの主なる神への不平、不満、不従順を忍耐され、おおよそ40年にわたって彼らを守り、導き、祝福を与え続けられました。
それほどイスラエルのことを愛され、イスラエルを導いて来られた主なる神が、「私だけを神としなさい」と、十戒を中心とした律法をsイスラエルに与えられました。 しかしイスラエルはモーセが十戒の石板を受けにシナイ山にいた時、長い不在から不安になって金の子牛の像を造り、神としてしまいました。偶像礼拝の罪です。神との契約を破り、罪を犯した者たちはこの後、モーセを通して粛清、すなわち神に裁かれました。その罪の根本は、偶像礼拝も含め、主なる神を第一にしなかったからです。主なる神を第一としない者は、裁かれる。自ら滅びを招くということです。この出来事を踏まえて、本日の箇所を見ていきましょう。本日の聖書箇所は、イエスが悪魔、サタンに誘惑された時に宣言されたことばです。この悪魔のイエスへの試み、誘惑が、マタイの福音書4:1節から始まり、本日の聖書箇所である10節まで続きます。一つ目の誘惑は、悪魔が40日の断食を通して空腹の絶頂であったイエスに、この石がパンになるように命じなさい、というものでした。この誘惑は、イエスが神から与えられたカリスマ、賜物だけで父なる神に頼らず、自分の力だけで人々を救いに導いていくよう、すなわち神から離れて自立するようとのサタンの誘惑でした。この誘惑に対してイエスは、「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」申命記8:3節を引用して答えられました。しかし神から離れていること自体が、そして神から離れて自分の力だけで物事を進めていくこと自体が罪ですから、これはサタンからの罪への誘いでもありました。イエスはここで、「人はパン自体で生きるのではない。パンを含め、人間が生きるのに必要なすべては神のことばを通して供給されている。私たちは神のことばによって生かされているのだから、ただ神に依り頼み、自分に与えられた神からの能力を、自分の願望を満たすために用いることはしない!」そのような思いと神への信頼を持ち、神のことばによってサタンの誘惑を退けました。二つ目に悪魔はイエスに、「詩篇に、御使いがあなたの足が石に打ち当たらないように守ると書いてある。-試しに神殿の屋根から飛び降りてみて、神のことばが本当にそうなるか、証明してみよ!」と誘いました。 あなたが神の子であるというしるしを、人々が奇蹟を通して見れば、彼らはあなたを救い主であると信じるだろう、という誘惑でした。サタンは詩篇91:11,12を引用しましたが、「すべての道で」あなたを守られるという「すべての道」ということばを故意に、わざと落としています。悪魔はみ言葉を良く知っており、時にみ言葉を自分の都合の良いように変え、用い、誘惑して来るということです。そしてこの誘惑は、イエスが人間を救うという大きな目的のために、父なる神のことばをただ、自分の働きの保証とするようにとの誘惑でした。この誘惑に対してイエスは「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」と、申命記6:16節を引用して答えられました。一つ目の誘惑に続いて、二つ目の誘惑も、イエスはみ言葉で悪魔に応戦されました。そして三つめ、これが最後の誘惑になりますが、悪魔はこのようにイエスを誘惑しました。8節、9節です。悪魔はまた、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての王国とその栄華を見せて、こう言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これをすべてあなたにあげよう。」イエスが悪魔に妥協して権力を持ち、政治的な王として人々を救いに導くようにとの誘惑でした。これに対してイエスが答えられたのが本日の聖書箇所10節です。そこでイエスは言われた。「下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある。」申命記6:13節の引用です。「主に仕えることを犠牲にしてまでして、使命達成を追求することはしない!」というイエスのご意志です。すると悪魔はイエスから離れていきました。み言葉で悪魔と戦って行く時、悪魔は離れて行くということです。それはつまり、悪魔の誘惑に打ち勝つことができる、ということです。 悪魔はサタンとも呼ばれていますが、サタンは「試みる者」とか「訴える者」とも呼ばれ、神とその救いの目的とに対する「敵」を意味します。サタンは神を憎んでいます。そしてその憎んでいる神が愛している人間も憎いため、一人でも多くの人間が神から離れるように策略を巡らしているだけでなく、願わくは神の子とされている私たちクリスチャンにも神を疑わせ、日々、信仰を奪おうと働いています。その戦略、策略が表されている箇所があります。それが本日の箇所です。マタイの福音書4:8,9。悪魔はまた、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての王国とその栄華を見せて、こう言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これをすべてあなたにあげよう。」 この箇所を平行箇所のルカの福音書4:6で見たいと思います。第三版の聖書訳でお読みします。ルカの福音書4:6「この国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。 旧約聖書、ヨブ記を見ても分かりますが、神の許可、神の許しがなければ、サタンは働くことができません。つまりサタンの活動も、誘惑や攻撃も、主なる神ご自身が持つ大いなるご計画と主権の中で許されている、ということです。そして実際にサタンはこの世において、この人にならいいという、イエスに反対している人々-特に力のある政治家、独裁者などの権力者を選んで、権力や栄光を与えることができるということです。 繫栄し、栄光を受けている者の背後に、悪魔の働きがあるということです。しかしこの悪魔の誘惑は、国の指導者や政治家など、力や権力を持っている人々に限りません。全ての人類が悪魔の誘惑に日々、晒されています。イエスは新約聖書、マタイの福音書6章24節においてこのように語られています。「だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神と富とに仕えることはできません。」神か富か。私たち人間はどちらかを選んで仕える、すなわちそれを大切にし、それに従い、それによって歩む、ということです。しかしどちらも同じようには愛せない。重んじることはできない。神を選んだ人は、神を大切にし、神に仕え、神に従い、神によって歩みます。一方富を選んだ人は、富を大切にし、富に仕え、富に従い、富によって歩みます。富とはその人を富ませるものですから、お金や財産だけではありません。家や土地、 自分の能力、名誉や名声、健康や趣味などの楽しみ、家族など、色々な物が考えられます。自分を富ませ、自分の気分を良くし、自分を高めてくれるものです。もちろんそのような物は大切ですし、なくてはなりません。しかしそれらがまことの神よりも大切になり、神よりも上になっていく時、人は簡単にそれらの奴隷となってしまいます。そして彼らが頼みにしているそのような神以外のものはやがて崩れ去る、無くなって行く時が来ます。先週も見て来ましたが、神以外のものは有限、限りがあり、それゆえ滅んでいくからです。そしてその先は、イスラエルの人々が偶像礼拝、すなわち神を第一にしなかったことによって裁かれたように、神を第一にしなかった人々は最終的に、神の裁きを経験することになります。なぜなら、富を第一にしていく生き方は、罪が解決せず、罪が残る生き方だからです。神から離れているという罪がずっと続く生き方だからです。ですから富を第一にした人は、その人の持っている罪ゆえに、自ら滅んで行くことになるでしょう。イエスはサタンに誘惑された時、神が与えて下さったみ言葉によって戦い、サタンを退けました。このイエスがなされたこと。それが神を第一にしていることの表れです。すなわち神のことばを第一にするという生き方、歩み、そして時に誘惑と戦い、対処する方法でもあります。「はじめに神が天と地を創造された。」聖書のはじめ、創世記1章1節のことばです。そして創造の経緯が描写されていきますが、神はことばをもって人間を含めた天地万物を創造していきます。神は、神のことばによって人間も含めた全ての被造物を造られ、このことばによって天地万物を保たれ、そしてこのことばを通して私たち人間に語りかけて下さっています。それが神のことば、聖書のことばです。ですからイエスが「聖書にこう書いてある」と言ってサタンの誘惑を退けましたが、それは神のことばを第一にした、すなわち神を第一にされた、ということです。 なぜなら神イコール神のことばだからです。ですからイエスが神のことば、聖書を第一とすることによって神を第一とされたように、私たちも聖書のことばを第一にしていくとき、それはすなわち神を第一にすることであり、神を第一にする生き方であるということです。 父なる神がイスラエルに与えられた十戒の一番目、人間が一番大切にすべき教え、戒めは、「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。」でした。イエスはこの教え、戒めを、神のことば、すなわち聖書に記されているみ言葉を守り、従い、そのことばで戦い、そのことばよって生きることによって、身をもって実践して下さいました。そして罪と罪から来る死とサタンを滅ぼして復活されたイエスは、今、神の右、栄光の座におられます。神のことばを第一にしていく。その先には、神の守り、祝福があり、平安、喜びがあり、罪の赦しと永遠のいのちがあります。私たちもイエスのように神のことばを第一にすることによって、神を第一にしていくことができますように。
祈ります 問43 この第一の戒めは、私たちに何を教えていますか。
答 ”私たちが神さまを愛し、まことの神さまだけを礼拝することです。私たちは、他の神々をおがんではなりません。‘’ ”イエスは言われた。「下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある。」” マタイの福音書4章10節

2026/8/2(日)「終わりの日のしるし」マルコ13:1~8 庄司牧師

2026年8月2日 マルコの福音書13:1~8 「終わりの日のしるし」
イエスが宮から出て行かれるとき、弟子の一人がイエスに言った。「先生、ご覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」すると、イエスは彼に言われた。「この大きな建物を見ているのですか。ここで、どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることは決してありません。」イエスがオリーブ山で宮に向かって座っておられると、ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかにイエスに尋ねた。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのですか。また、それらがすべて終わりに近づくときのしるしは、どのようなものですか。」それで、イエスは彼らに話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『私こそ、その者だ』と言って、多くの人を惑わします。また、戦争や戦争のうわさを聞いても、うろたえてはいけません。そういうことは必ず起こりますが、まだ終わりではありません。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、あちこちで地震があり、飢饉も起こるからです。これらのことは産みの苦しみの始まりです。
 マルコ福音書の第13章は、イエスの教えをまとめて語っている最後の部分となります。次の14章からは受難、十字架の出来事に入っていきます。この13章は「小黙示録」と呼ばれています。「小さな黙示録」です。そうしますと「大きな黙示録」がある訳ですが、それは私たちが良く耳にする、新約聖書最後の書簡、「ヨハネの黙示録」です。ヨハネの黙示録には、この世の終わりに起る様々な苦難が描写されていますが、小羊として描かれているイエス・キリストが最終的に全ての敵に勝利され、イエスのご支配、すなわち神の国が完成することが記されています。そしてイエスに従って生きた信仰者の救い、永遠のいのちが実現することが語られています。 ヨハネの黙示録と同じように、マルコ13章にもこの世の終わりのことが語られています。ヨハネの黙示録と決定的に異なる点は、イエスご自身が語っておられる、ということです。捕えられ、十字架につけられる直前に、最後の教えとしてイエスが世の終わりのことをお語りになった、それがこの13章です。本日の箇所はこのように始まっています。イエスが宮から出て行かれるとき、弟子の一人がイエスに言った。「先生、ご覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」
弟子たちのほとんどはガリラヤの田舎町出身です。ですから、都エルサレムにある豪華絢爛たる神殿を見て、感嘆の声を上げました。エルサレム神殿は、クリスマスの物語に登場するヘロデ大王が再建した第3神殿と呼ばれる物ですが、おおよそ50年の歳月をかけて建設され、金ぱくで覆われた豪華絢爛の神殿です。現在、ユダヤ人の人々が祈っている姿が時々報道される、いわゆる「嘆きの壁」というのは、このヘロデの神殿の僅かに残っている下の方の壁の一部です。当時の壁は現在のものよりもずっと高くそびえ立っていました。その壮麗な神殿は、正にイスラエルを象徴する場所でした。しかしイエスはこれに対して、「この大きな建物を見ているのですか。ここで、どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることは決してありません。」とおっしゃいました。この壮麗な神殿が徹底的に破壊される時が来る、とイエスは予告されました。この予告、預言は紀元70年に実現します。ローマ帝国によってエルサレム神殿は徹底的に破壊され、神殿の歴史は終わりを告げました。今では「嘆きの壁」など、ごく僅かな遺跡としてしか、その跡を偲ぶことはできません。
当時、全てのユダヤの人々が、この神殿を誇りにしていました。ここに神の祝福があると信じていました。ところがその意味が次第に逆転していきます。そもそも神殿は、そこで神と出会い、神への礼拝を通して神と交わる場所でした。しかしユダヤの人々は、神殿があるから神は我々と共におられるのだ。神殿がある限り、我々には神の守りがあるのだ、と考えるようになっていきます。本末転倒です。しかしユダヤの人々が誇っていた神殿は滅んでいきます。
このような素晴しい建物が破壊されてしまうなんて、それはもうこの世の終わりだ、と弟子たちは考えました。そこでイエスに質問します。イエスがオリーブ山で宮に向かって座っておられると、ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかにイエスに尋ねた。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのですか。また、それらがすべて終わりに近づくときのしるしは、どのようなものですか。弟子たちの質問は、すなわち私たちの質問でもあります。現代を生きている私たちも、とてつもなく大きな事件や災害などが起こると、もうこの世の終わりか、と思うのです。この世界が破局へと向かっているという恐れを抱くのは、当時の人々も私たちも全く同じです。さらに今日は、環境破壊、それに伴う動植物の危機と絶滅。多発する自然災害や世界戦争勃発への恐れなど、当時よりももっと深刻かもしれません。ですから弟子たちの問いは、そのまま現代を生きる私たちの問いでもあり、イエスの終わりの日に対する答えは、すなわち私たちへの答えでもあるのです。イエスの弟子たちは、終わりの日に関して、いつ起こるのか?またその終わりが起こる前に、どのようなしるし、すなわち兆候や前兆があるのか?という二点を尋ねました。 ところでなぜ彼らは世の終わりに関してイエスに質問をしたのでしょうか。それは世の終わりの破局がいつ訪れるのか、その前兆、しるしを見極めて、前もってその時期を知っておきたいからだと思います。あと百年は起きないのであれば、当面は安心していられます。明日かもしれないし百年後かもしれない、それが分からないから不安なのです。だから「終わりの日」を前もって知ることによって、心を定めたい、そして何かをしたい。またはまだ先だと安心したい。そのような心理が働くのだと思います。それに対してイエスは、世の終わりにはこういうことが起こる、ということをお語りになりますが、開口一番に語られたことが警告です。「人に惑わされないように気をつけなさい。」そして以下、現代を生きる私たちも含め、終わりの日には色々な人々から、また現象などから惑わされることになる、また惑わされるであろう、様々な原因が語られていきます。一つは「人を惑わす者」の出現です。「わたしの名を名乗る者が大勢現れる。つまり偽の救い主、偽キリストが現れて、私こそ救い主だ、と言って人々を集めるようになる。また、「戦争のうわさや実際の戦争」です。これも世の終わりの一つのしるしとされています。しかし偽の救い主はイエスの時代にもいましたし、戦争や戦争のうわさなども、それがなかった時代はありません。ですからイエスの時以来、これらのしるしは常に存在しているのであって、世の終わりを知る手がかりにはなりません。またイエスご自身も、「そういうことは必ず起こりますが、まだ終わりではありません。」と語っておられます。 そしてイエスは次の8節において、民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、あちこちで地震があり、飢饉も起こるからです。と、語られ、私たちに襲いかかってくるこのような大きな苦しみについてイエスは続けて、これらのことは産みの苦しみの始まりです。と言われました。既に世の終わりのしるしは現れており、終わりは始まっているが、いつ終わりが来るのか、それまでにどれだけの苦しみを経なければならないのかは誰も知ることができない、とイエスはおっしゃったのです。つまりイエスは、終わりの時がいつ来るのか、その時期を知りたいという弟子たちの願いに答えることを拒まれました。弟子たちは、そして私たちも、終わりの時がいつ来るのかを知って、それに応じて自分の計画を考えたいと願います。終わりを知って、これからの人生の見通しを立てたいと思います。しかしイエスはそのような見通しを立てることをお許しになりません。私たちは世の終わりが何時来るかを知ることはできないのです。つまり将来のこと、これから起こることを、自分の計画の中に組み入れてしまうことはできないということです。なぜ神は、すなわちイエスは、終わりの日を私たちに示して下さらないのでしょうか。 もちろん父なる神だけが終わりの日をご存知であるということもそうですが、それ以上に、もし私たち人間が世の終わりの日が分かったならば、私たちの生活は途端に秩序を失ってしまうでしょう。終わりの日を逆算しながら財産を使い果たし、終わりの日があるのだから今を精一杯楽しもうと刹那的になる。時々新興宗教が「何月何日に世の終わりが来る」と言ってそれを信じた信徒たちが仕事を止め、結婚を諦め、財産を処分し、時に自殺するということがあります。イエスはそのようなことを私たちに望んでおられません。ですから私たちは与えられ、備えられた一日一日を、精一杯、誠実に、そして忠実に仕えていく必要がありますし、逆に言えば、私たちはそれしかできないのではないでしょうか。私たちは、神を自分の計画や予定の中に組み入れてしまうことはできません。 神の計画を前もって知り、それをコントールしようとするならば、それは神を支配したいという願いであり、人間の傲慢です。神のみ業は、人間が計算したり、自分の計画の中に組み込んだりするべきものではなく、神の計画が最善であると信じ、委ねること。待つこと。私たちはそれしかできません。
そしてイエスは、私たちがどのように終わりの日を待ち望んだら良いか、出産の譬えを通して教えて下さっています。出産の前には母親が苦難、痛みを経験しなければなりませんが、その苦しみの先には子どもの誕生と言う、この上ない喜びが待っています。そのように、終わりの日の前には人間が様々な痛み、苦しみ、苦難を経験しなければなりませんが、同じように、その先には喜びがあり、希望があるということをイエスは示しておられます。 では、この世の終わりの先には何が待っているのでしょうか。マルコの福音書1章で見て来ましたが、イエスがこの世界に飛び込んで来られた時、神の国が近づいた、神の国が到来したと言われました。神の国とはイエスが統治される世界であり、イエスの統治そのものです。神の国はイエスと共に到来しました。しかし人類はアダムが神に反逆して以来、すなわち罪を犯してから、罪と、罪から来る死と、サタン、悪魔の支配下に入ってしまいました。人類はこの罪を受け継ぎ、罪から来る神への不従順と不信仰から神を失い、神を失うことによって自分も失いました。自分は何者なのかという、自分のアイデンティティーも失いました。なぜ生まれ、何のために生きるのかという使命も分からなくなってしまいました。さらに神の絶対的な規準を失うことによって、一人一人が勝手に自分の規準を持つようになり、それが最善であると考えるようになり、違う規準を持つ他の人々と争い、時に殺し合うようになりました。また見えない神に頼れなくなった人間は、家や土地、お金などの財産、そして自分の能力、自分の名誉・名声、健康や趣味などの楽しみ、家族など、目に見えるものに頼るようになりました。それらは素晴らしいこと、大切なことですが、ユダヤの人々が誇りとし、希望としていた神殿が滅び、無くなってしまったように、やがて崩れ去る時がやってきます。なぜなら人間が頼りにするものは永遠には続かない物だからです。一切の物には終わりがある。終わりが来る。自分のいのちも含め、そしてこの世、この世界にすら終りの時が来る、崩れ去る時が訪れます。
平行箇所のマタイの福音書24章3節においては、弟子たちはこのようにイエスに尋ねています。
イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちがひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのですか。あなたが来られ、世が終わる時のしるしは、どのようなものですか。」世の終わりのしるしに関して、マルコの福音書にはない、「あなたが来られ」ということばがあります。これはイエスが再びこの世界に来られる再臨を表しています。イエスご自身も、ご自身が裁き主としてこの世界に再び来られる再臨のことを、旧約聖書の預言から引用されています。後から見ていきますが、先の26節にある「人の子が雲に乗って来る」という表現は、旧約聖書、ダニエル書7章に記されている預言を、イエスが引用されたものです。旧約聖書は、イエスの初臨、すなわちクリスマスにおける誕生やイエスの歩み、そして私たち人間の罪の身代わり、贖いである十字架なども預言していますが、それは全て成就、実現しました。イエスが再びこの世界に戻って来られる再臨とその再臨の時に起こることを除いて、旧約聖書に記されている預言は全て成就、実現していると言っても良いでしょう。従ってイエスが再びこの世界に戻って来る、それも裁き主として来られることも、必ず実現します。そしてイエスが再臨される時、この混乱した世界、痛みと苦しみ、罪と死とサタンの支配にある古い世界は世の終わりと共に終わりを告げ、イエスの愛と調和、平和と平安の中での統治、すなわち完成した神の国の支配が、イエスを信じる者たちと共に始まります。しかしその神の国が完成する前、すなわち終わりの日が訪れる前は、イエスが語られるような「産みの苦しみ」が必ずあります。 出産の時に伴う痛み、陣痛は断続的に起こります。そして出産が近づくにつれて、その間隔が小さくなり、また痛みが激しくなります。そして出産の直前、その痛みは最高潮に達し、子どもが産まれます。 そのように神が定められた終わりの日の前には、そのしるしであり、前兆である、「私こそキリスト、救い主だ」と語り出す偽キリストの出現。また戦争のうわさや実際の戦争の勃発。大きな地震のような自然災害、また飢饉。それらは頻度も、また強さも増していきます。 しかし終わりの日がいつ起こるか、またどのように起こるかは、私たちには分かりません。知るよしもありません。 聖書が、そしてイエスが明確に語っておられることは「世の終わりが必ず来る」ということ。しかし「世の終わりがいつ来るかわからない」ということの二つです。イエスご自身も終わりの日の訪れを父なる神に委ねられ、いつ起こるか分からないとおっしゃいました。そして日々、父なる神に与えられていた使命を全うされました。その最たるものが、そしてとてつもなく大きな使命が、私たち人類のために十字架にかかる、ということでした。 私たちはこの世の終わりにおける苦難を、そして痛みを恐れます。 しかし私たちが終わりの日に関して、どのように心配しても、どんなに不安に思っても、また何か備えようと思っても、それを軽減したり、回避することはできません。
私たちにできる唯一のこと。それはイエスのことばに信頼し、イエスに委ねることだけです。
私たち人間の、「終わりの日」への恐れ、不安、そして時に好奇心に働きかけて、偽キリストや、サタンが私たちを欺いてきます。そこでイエスは言われました。「人に惑わされないようにしなさい」
イエスの警告に耳を傾けつつ、産みの苦しみの先にある、神の救い、永遠のいのち、すなわち神の国の完成があるということを、本日も心に留めたいと思います。そして日々自分にできること、自分に与えられているなすべきこと-使命を忠実に、また誠実に行う者でありたいと願います。
祈ります
「終わりの日のしるし」
それで、イエスは彼らに話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。」

2026/4/2㈮「わたしはあなたとずっと一緒にいる」ルカ23:33,39~43 庄司牧師

受難日礼拝メッセージ(テキストのみ)

2026年4月2日 ルカの福音書23:33,39~43
タイトル 「わたしはあなたとずっと一緒にいる」
「どくろ」と呼ばれている場所に来ると、そこで彼らはイエスを十字架につけた。また犯罪人たちを、一人は右に、一人は左に十字架につけた。
十字架にかけられていた犯罪人の一人は、イエスをののしり、「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」と言った。すると、もう一人が彼をたしなめて言った。「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。」そして言った。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」
本日は受難日です。罪を犯したことのないお方が、罪ある者として十字架で神に裁かれる。イエスの十字架と、共に十字架に架けられている犯罪人たちに焦点を当てて、お話していきたいと思っています。
ローマ総督ピラトの努力も虚しく、イエスはローマ帝国に反逆する政治犯として、十字架に架けられることになりました。主イエスの他にも、二人の犯罪人がイエスの十字架を中央にして、その右と左で十字架に架けられました。 なぜ二人は十字架刑に処せられたのでしょうか。
ルカの福音書では二人のことを「犯罪人」と記しているだけです。しかしマタイやマルコ福音書では「強盗」としています。 「強盗」という言葉は、単に他人の物を盗む者というより、むしろ反乱を起こす者、革命家を意味します。恐らくこの二人はローマ帝国の支配に抵抗して、暴動ないし反乱を起こして逮捕され、十字架刑に処せられることになった、と思われます。 イエスの十字架を見ながら、イエスを罵っていた群衆がいました。イエスがローマ帝国から自分たちを解放してくれる政治的な王だと期待していた、ユダヤの人々でした。しかし願いが叶わないことが分かり、希望から失望へと、そしてイエスへの怒りへと変わって行きました。 平行箇所を見ると、群衆がイエスを罵っている時に、この二人の強盗も同じようにイエスを罵っていたことが分かります。そのうちの一人はこのようにイエスを罵しりました。「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」従ってもう一人も始めはイエスに対して同じような思いを持っていたようです。二人とも自分はローマ帝国から人々を解放しようと努力した。正しいことを行った。正義を行ったと思っていたはずです。ですから十字架刑に対して、不当な刑罰を受けていると二人とも感じていたはずです。しかし一人の犯罪人はイエスに対する態度が変わっていきます。何があったのでしょうか。
それはイエスの十字架上で語られることばであり、態度であり、そして祈りであったと思います。イエスはまさに十字架に架けられている苦しみの時も、罵る人々に対して不平や不満、怒るといったこともありませんでした。 ヨハネの福音書の19章には、この状況でイエスは、自分の母マリアを心配され、弟子の一人に彼女を託しています。そして何よりこの犯罪人の心の琴線に触れたのが、イエスの祈りだったと思われます。それが34節でイエスが語られたことばであり、祈りです。
23:34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦し下さい。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」彼はこのように思ったと想像します。
「自分を殺そうする者たちに対して、「彼らを赦して下さい」などと祈ることなど人間にはできない。この方こそ神に違いない。そしてこの神が、自分は悪くないと思っているこの私も、そして隣の犯罪人も、そして群衆も、全て自分中心で罪深い人間に対する神の怒りを代わりに受けてくれている。」実際この犯罪人が神に、すなわちイエスに対しての恐れ、畏怖の念を持ったことが分かります。
「おまえは神を恐れないのか。」という、もう一人の犯罪人に対して言ったことば、告白です。裏を返せばこの告白は「おまえと私は違う。私は、神を恐れる。イエスを神として恐れ敬う。」という彼のイエスに対する信仰を感じさせる告白です。そしてもっとイエスに対して踏み込んだ思い、実彼がイエスを神と認め、また信じるという信仰告白が、42節に表されています。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」「あなたが御国に入られるときには」という告白は、この犯罪人が、イエスが御国に行くことだけでなく、御国、すなわち神の国を統べ納める神であることを確信している態度です。そして彼は、神であると信じたイエスに対して、「私を思い出してください」と訴えました。 思い出して下さいとは、忘れないで下さいということです。「自分がしたことは何も悪くないと思っていた。むしろ正しいことをしていたと思っていた。しかしそうではなかった。私はあなたの前に罪ある者。神であるあなたと共に、御国に行くような身分ではない。しかしどうか私が辿った人生を、私の姿を、そして私の存在を、あなたが行かれる神の国においても忘れないで欲しい。頭の片隅でもいいから覚えていて欲しい。」彼の思い出して下さいという告白には、神としてのイエスの前に謙る、一信仰者としての姿勢と信仰を感じさせます。そしてイエスが御国に行くのが相応しい、当然であるという確信を感じさせる告白でもあります。この犯罪者の信仰、そして告白に対してイエスは、「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」と答えられました。
パラダイスとは楽園です。素晴らしい場所であるには違いないですが、大切なのは場所というよりむしろイエスとの「関係」です。この時イエスはこの男に向かって、「わたしと一緒に楽園にいる」と宣言されました。主イエスが一緒にいてくださるところ、そこが楽園であり、パラダイスです。イエスがそこにおられなかったから、そこは楽園でもパラダイスでもありません。イエスは犯罪人に対してこのように答えることによって、彼の信仰告白が本物であること。そして同時に「思い出して下さい」と願った以上のことを約束されたことが分かります。それはこれからもずっと一緒にいるという、いつまでも続くイエスとの関係を約束して下さったからです。

イエスは私たちが激しい苦しみの中で、絶望の中で、すべての人に見捨てられたように思う時ですら、私たちを覚えていてくださり、心に留めて下さいます。また私たちが死を迎える時も、またその後も、ずっと一緒にいて下さるお方です。私たちを見捨てることは決してありません。
「私はあなたのことを覚えている、決して忘れない。そしていつまでも一緒にいる。」この犯罪人だけではなく、イエスを神として、救い主として信じる全ての人に、私たち一人一人に、イエスは同じように約束して下さいます。 そしてイエスは私たちとずっと一緒にいるという約束を守るために、神との妨げとなる私たちの罪を全て、十字架で背負って下さいました。
イエスの十字架を感謝しつつ、共に祈りたいと思います。
「わたしはあなたとずっと一緒にいる」
「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」

2026/2/15(日)「先頭に立つイエス」マルコ10:32~34 庄司牧師

2026年2月15日 マルコの福音書10:32~34「先頭に立つイエス」
さて、一行はエルサレムに上る途上にあった。イエスは弟子たちの先に立って行かれた。弟子たちは驚き、ついて行く人たちは恐れを覚えた。すると、イエスは再び十二人をそばに呼んで、ご自分に起ころうとしていることを話し始められた。「ご覧なさい。わたしたちはエルサレムに上って行きます。そして、人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡されます。彼らは人の子を死刑に定め、異邦人に引き渡します。異邦人は人の子を嘲り、唾をかけ、むちで打ち、殺します。しかし、人の子は三日後によみがえります。」( マルコの福音書 10:32-34 SKY17 )

本日の聖書箇所は、十字架に架けられるということを、イエスが再び語られている箇所です。受難予告と呼ばれているものですが、その三回目の予告です。その予告が成就、実現されるべく、
イエスと弟子たちの一行は、十字架が待っているエルサレムに向かって行きます。一直線に進んで行きます。
それも弟子たちの先頭を切ってです。弟子たちはイエスの緊迫した表情、態度を読み取っていたのでしょうか。驚きと恐れをもってイエスについていきます。本日は三回目の受難予告ですが、では一回目の予告と、二回目の予告はそれぞれどのようなものだったでしょうか。少し振り返ってみたいと思います。 一回目の受難予告は8:31節に記されています。
「それからイエスは、人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。」
二回目は9:31節においてです。
それは、イエスが弟子たちに教えて「人の子は人々の手に引き渡され、殺される。しかし、殺されて三日後によみがえる」と言っておられたからである。
そして三回目の予告が本日の箇所です。
「ご覧なさい。わたしたちはエルサレムに上って行きます。そして、人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡されます。彼らは人の子を死刑に定め、異邦人に引き渡します。異邦人は人の子を嘲り、唾をかけ、むちで打ち、殺します。しかし、人の子は三日後によみがえります。」 三回目の予告にあって、一回目と二回目にないことば、それは「異邦人」ということばです。イエスご自身が異邦人に引き渡されると記されているのは、この三回目だけです。異邦人とは、ユダヤ人以外の民族のことを指しますが、実際にイエスを十字架に架けたのは異邦人であるローマ人です。
イエスにずっと敵対してきた律法学者たちやパリサイ人たちなどはユダヤ人でした。 彼らはずっとイエスを殺したいと願っていましたが、この当時ユダヤはローマ帝国の植民地であり、彼らが誰かを死刑にするというような権限は持っていませんでした。そこで彼らは民衆を扇動してイエスをローマ帝国、もしくはローマ帝国の皇帝に反逆する政治犯に仕立て上げ、ローマ人の手によって殺させようとしました。
それではこれから、本日の受難予告が全て成就、実現していくことを、共に見て行きたいと思っています。 もう一度10:34をお読みします。イエスはこのように語られました。「異邦人は人の子を嘲り、唾をかけ、むちで打ち、殺します。しかし、人の子は三日後によみがえります。」ここに「あざけり」、「唾をかけ」、「むちで打ち」とありますが、この先の15章において全て成就、実現しています。イエスが異邦人であるローマ人に、すなわちローマの兵士たちにあざけられる、かれかわれ、彼らから唾をかけられ、むちで打たれるといった全てが、15章に描写されています。後でお読み下さい。イエスが言われたことがあまりにも事実と合致するので、これは「事後預言」、つまり実際に事が起こった後にそれを見た者たちがその様子を記したのだ、という学者がいるほどです。しかしこのような描写であり預言は、旧約聖書の詩編やイザヤ書などにも見られます。

詩編22:7節にはこのように記されています。「私を見る者はみな 私を嘲ります。口をとがらせ 頭を振ります。」 またイザヤ書50:6節にはこのような描写があります。「打つ者に背中を任せ、ひげを抜く者に頬を任せ、侮辱されても、唾をかけられても、顔を隠さなかった。」 イエスの受難の預言です。 そして有名な、イザヤ書53章があります。こちらもイエスの十字架の苦しみの預言ですが、それは神の計画であり、イエスが神の御心に従順に従われたということが描写、預言されている聖書箇所です。その中の一つの節を引用します。イザヤ書53章10節にはこのように記されています。「彼を砕いて病を負わせることは主のみこころであった。彼が自分のいのちを代償のささげ物とするなら、末長く子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。」 彼、すなわちイエスが、代償のささげ物となった、ということが記されています。
代償とは身代わりであり、ささげ物とは生贄です。 旧約聖書には律法が記されています。神が与えられたものですが、人間が行うべき生活や信仰の指針、言わばガイドラインです。その律法の中に、動物の生贄によって人間の罪が赦されるという掟がありました。それは、人間の罪が赦されるためには、動物の血が流されなければならない。すなわち動物のいのちが人間の罪の身代わりに献げられなければならない。その動物の生贄なしでは人間の罪の赦しはないという掟でした。新約聖書、ヘブル人への手紙の9章には、律法に記されている生贄について、このように説明されています。9章22節「律法によれば、ほとんどすべてのものは血によってきよめられます。血を流すことがなければ、罪の赦しはありません。」
しかしこの先の10章において、動物の血、すなわち動物が人間の罪の身代わりになるには不十分である。ということが記されています。

そこで完全な生贄として、また神への献げ物としてこの世界に飛びこんで来て下さったのが、イエス・キリストでした。へブル人への手紙10章の5節と7節の一部を引用します。ですからキリストは、この世界に来てこう言われました。..『今、わたしはここに来ております。巻物の書にわたしのことが書いてあります。神よ、あなたのみこころを行うために。』」巻物の書とは旧約聖書のことを指します。旧約聖書は巻物に記されていました。 そして先ほど見た旧約聖書に見られる預言の通り、神の御心に従ってこの世界に来たとイエスは言われます。さらにへブル人への手紙の10章の10節には、このように記されています。「このみこころにしたがって、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけ献げられたことにより、私たちは聖なるものとされています。」イエスご自身が一度だけ献げられたとあります。そしてその方法が十字架でした。イエスが自分の罪のために、十字架で身代わりになって下さったと信じることによって、人は聖められる、つまり罪赦されるということが表されています。そしてそれは父なる神の御心でした。
動物の生贄は人間の罪の身代わりとしては不十分でした。しかしイエスは違います。十字架で一度だけ献げられるだけで十分である。動物の生贄と違って、イエスの生贄がいかに完全で完璧で、神の御心に適うものであったかが分かります。

先週「義」についてお話をしました。神の前に正しいとされる、正しいと認められることが聖書に記されている「義」という意味でした。また言い方を変えれば、それは救いです。
人はイエスを信じることによって罪赦され、神の前に正しいと認められます。 そして罪が赦されているということは、永遠のいのちが与えられているということですから、それは救われていると言うことができます。 ですからイエスを信じて義とされることと、滅びから救われているということは、それぞれの持つことばの正確な意味は異なりますが、イコールの関係です。

そして私たち人間が神の前に義、正しい者とみなされ、救われるためには、イエスの十字架がどうしても必要です。なぜなら、イエスは私たち人間がどうしても解決できない罪を全て、十字架で身代わりに背負われたからです。「身代わりに背負われた」とは、難しいことばで言えば「贖い」でした。 このことも先週お話しました。 贖いとは、もともと商業用語、ビジネス用語であり、「買い取る」という意味でした。 (そしてこれは当時における文脈ですが)市場などに行って、他人の所有物である奴隷などを、代価を支払うことによって自分のものにする、というような意味でした。イエスは罪の奴隷となっている私たち人間を、ご自身のいのちをもって買い取られ、私たちを罪の奴隷から解放して下さるお方です。

またイエスの受難の告知は、並行箇所のマタイの福音書とルカの福音書にも記されています。
そしてそのルカの福音書の18章には、受難告知における弟子たちの反応が記されています。そこには弟子たちが霊的に盲目であるという、すなわちそれは私たち人間の姿でもありますが-表されています。弟子たちには、これらのことは何一つ分からなかった。彼らにはこのことばが隠されていて、話されたことが理解できなかった。ルカの福音書18:34 イエスからじきじきにことばを聞いて来た弟子たちさえこうです。 彼らは漁師に必要な舟も、網も、家族も、イエスに付き従い、福音を宣べ伝えるために後に残して来たような信仰者であり、献身的な人間たちです。そのような人間たちですら、イエスの言われた十字架と復活のことが理解できない。 つまり私たち人間が、どれだけ神の真理や霊的な事柄に対して盲目であるか、ということです。 真理も霊的な事柄も分からない人間は、前回見た金持ちの青年のようになってしまう可能性が高いと言えます。すなわち富、財産、名誉など、自分の目に見えるもの、感じることができるものに頼り、いつしかそれらから逆に支配され、奴隷とされてしまう。イエスを信じることによって罪が赦され、神の子、神の家族の特権とされることと比べれば、遥かに価値のないものに執着してしまう。そのような弱さが人間にあるということです。そしてその先は、神との永遠の別離、すなわち滅びです。イエスは本日の10:34節を、これから起こる預言として語られました。異邦人は人の子を嘲り、唾をかけ、むちで打ち、殺します。しかし、人の子は三日後によみがえります。」ここに「しかし」とあります。どんでん返し、大逆転が表されています。イエスは十字架の死で終わりませんでした。イエスの十字架の死の先には復活があります。イエスは三回にわたって弟子たちに死から甦る、復活するということを語って来られましたが、弟子たちの耳にも心にも入りませんでした。私たちも「受難予告」ということばを使います。実際に私も使っています。しかしイエスのことばを見るならば、そこには「しかし」ということばにつづく復活が、確かに、はっきりと示されています。 過去二回の受難予告においてもそうでした。私は苦しめられ、殺され、そして甦る。従って実際は、「受難予告」よりも、「受難と甦りの予告」と言い換えた方が正確な言い回しです。 しかしペテロも弟子たちも、イエスのことばを私たちと同じように「受難予告」として受け取ってしまいました。死んで終わりだということです。しかし人間を罪と死とサタンから解放する十字架の御業は、イエスの勝利の御業です。ですからイエスがエルサレムに向かって行くということは、罪と死と、サタンへの勝利のための、栄光に満ちた行進であると言うことができます。そしてもしイエスを、十字架を通しての勝利者として弟子たちが捉えていたのであれば、イエスが先頭を切って進んで行かれる時に、彼らに驚きや怖れ、不安を覚えることはなかったかもしれません。

本日の出来事の後、イエスの弟子のヤコブとヨハネがイエスに頼み事をします。再来週の聖書箇所です。「あなたが栄光をお受けになるとき、一人があなたの右に、もう一人が左に座るようにしてください。」自分たちが右大臣、左大臣になりたいと願っているということは、イエスを政治的な王として捉えていたということです。しかしこの時、他の弟子たちがこの二人に腹を立てていることから、彼らも同じことを考え、願っていたことが分かります。 霊的に盲目なだけでなく、自分の利益しか考えられないようなイエスの弟子たち。そしてこの姿、態度は、同じく霊的に盲目であり、自己中心的な私たち人間の姿を表していると言えます。 しかしそのような弟子たちの前を、すなわち罪深い私たち人間の先頭を切って、十字架への道を進んで行かれるイエスがおられます。 そしてその栄光の行進は、私たち全ての人間が持つ罪を身代わりに背負うための十字架であり、罪と死とサタンを打ち破って甦る復活のためでした。

最後に、ガラテヤ人の手紙1:4節を引用して、本日のみ言葉の取り次ぎを終わりたいと思います。
キリストは、今の悪の時代から私たちを救い出すために、私たちの罪のためにご自分を与えてくださいました。私たちの父である神のみこころにしたがったのです。
祈ります
「先頭に立つイエス」
さて、一行はエルサレムに上る途上にあった。イエスは弟子たちの先に立って行かれた。弟子たちは驚き、ついて行く人たちは恐れを覚えた。すると、イエスは再び十二人をそばに呼んで、ご自分に起ころうとしていることを話し始められた。

2026/1/1(木)「神の一方的な恵みの契約」創世記15:7~21 庄司牧師

元旦礼拝(テキストメッセージのみ)

2026年1月1日 元旦礼拝 創世記15:7~21「神の一方的な恵みの契約」
主は彼に言われた。「わたしは、この地をあなたの所有としてあなたに与えるために、カルデア人のウルからあなたを導き出した主である。」アブラムは言った。「神、主よ。私がそれを所有することが、何によって分かるでしょうか。」すると主は彼に言われた。「わたしのところに、三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊と、山鳩と、鳩のひなを持って来なさい。」彼はそれらすべてを持って来て、真っ二つに切り裂き、その半分を互いに向かい合わせにした。ただし、鳥は切り裂かなかった。猛禽がそれらの死体の上に降りて来た。アブラムはそれらを追い払った。日が沈みかけたころ、深い眠りがアブラムを襲った。そして、見よ、大いなる暗闇の恐怖が彼を襲った。主はアブラムに言われた。「あなたは、このことをよく知っておきなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない地で寄留者となり、四百年の間、奴隷となって苦しめられる。しかし、彼らが奴隷として仕えるその国を、わたしはさばく。その後、彼らは多くの財産とともに、そこから出て来る。あなた自身は、平安のうちに先祖のもとに行く。あなたは幸せな晩年を過ごして葬られる。そして、四代目の者たちがここに帰って来る。それは、アモリ人の咎が、その時までに満ちることがないからである。」日が沈んで暗くなったとき、見よ、煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、切り裂かれた物の間を通り過ぎた。その日、主はアブラムと契約を結んで言われた。「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。エジプトの川から、あの大河ユーフラテス川まで。ケニ人、ケナズ人、カデモニ人、ヒッタイト人、ペリジ人、レファイム人、アモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人の地を。」
明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。本日の箇所は、神の恵みついて記されている箇所です。私たちに注がれている神の恵みを共に心に留めつつ、新しい年を共に歩んで行きたいと願っています。「神の一方的な恵みの契約」と題してお話していきます。人間は神のご性質や能力、人格に似せて造られた「神のかたち」ですが、早くも創世記の3章において神に反逆し、神から離れてしまいました。神から離れてしまった、すなわち「罪」から死が入り、全人類に広がり、全ての人類が死ぬ者、死に行く存在となってしまいました。しかし主なる神は、イスラエル民族を通して全人類を罪から救うという、壮大な計画を立てられました。その重要なイスラエル民族の始祖となったのがアブラムです。(17章で名前が変わってアブラハムとなります。)神とアブラムが結ばれた契約について記されているのが本日の箇所ですが、それは罪からの救いが予表、雛形として表されている箇所でもあります。 従ってこの契約は、イエスを信じる信仰者である私たちとも、深い関係があります。 それではこれから神がアブラハムと契約した契約に至る経緯と、その内容に焦点を当てて、お話したいと思います。 創世記12章にこのようなことが記されています。主なる神がアブラムに呼びかけられた時のものです。 主はアブラムに言われた。「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」アブラムは、主が告げられたとおりに出て行った。アブラムは主が告げられたとおりに、その時住んでいたハラン(現在のトルコ東部)から主が示される地へと出て行きました。主なる神はこの約束を徐々に、そして具体的にアブラムに示していかれます。そして本日の具体的な契約に至る直前、 神からの語りかけに対してアブラムはこのように応答しています。この応答は、私たちイエスを信じる信仰者にとっても関係がある、とても大切な応答です。それは本日見ているこの15章、その6節です。 主は6節の直前の5節において、「あなたの子孫は星のよう増え広がる」とアブラムに語られました。この神の語りかけに対してアブラムはこのように応答しました。15章6節。「アブラムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた。」いわゆる信仰義認です。信仰によって神の前に正しいとされることです。私たちもイエスを信じて神に義と認められた、正しいと認められていますが、その雛形、予型がアブラムの応答、主なる神に対する信仰です。 人は信仰によって神の前に義、正しい者と認められ、救われる。重要な救いの兆し、芽生えが、本日のアブラムの信仰にあります。

神の約束を信じたアブラムですが、その内容は主に三つです。一つ目は子孫の約束です。アブラムを通してその子孫は数えきれないほど増え、大いなる国民となる。二つ目は土地の約束です。カナン(約束の地とも呼ばれている・現在のパレスチナ)ですが、アブラムとその子孫に与えられる。そして三つ目が祝福の約束です。アブラムを通して人類が祝福される。 実際にアブラムの子孫からメシア(救い主)であるイエス・キリストがお生まれになり、全人類が祝福されています。
この三つのことを神はアブラムに必ずそうなるという約束をされましたが、その約束はすでに成就、実現しています。 そして神は、約束の実現の前に、アブラムと契約を結ばれました。この契約には動物、その動物が流される血、すなわちいのちが必要な契約でした。 アブラムは主が言われた通りの動物を準備し、真っ二つに切り裂き、向かい合わせにしました。そして17節、「煙の立つかまどと、燃えているたいまつ」が切り裂かれた物の間を通り過ぎました。これは出エジプト記に登場する雲の柱、火の柱のように、神の臨在が表されています。 この当時、契約を結ぶ者同士は「切り裂かれた動物の間を通り過ぎる」ことによって契約を結ぶ慣習があったようです。「切り裂かれたものの間を通り過ぎる」という行為は、もし約束を破ったならば、この動物のように身を裂かれても文句はありません、というほどの堅い約束を示しています。
神とアブラムが交わした契約でしたが、切り裂かれたものの間を通り過ぎたのは、神だけでした。つまり主なる神(ヤハウェ)が一方的に約束され、その約束を必ず守るということが表されています。これは契約の当事者の片方だけが結ばれたので、片務契約とも呼ばれています。従って例えアブラムが契約を違反する、守れなくとも、その責任は神のみが背負う、というものです。ですから無条件に与えられる恵み、無条件契約とも言え、神の誠実さが表されています。
アブラムはこの後、実際に失敗しています。 主なる神は、「あなたから子孫が生まれる」と約束されましたが、神の約束がなかなか実現しないことを受けて、アブラムは奴隷のハガルから自分の子孫を得ようとしました。そこからイシュマエルが生まれましたが、今のアラブ-イスラエル紛争の元になった人物です。 アブラムは神が約束されたことをただ信じ、待ち望むだけで良かったのですが、待ちきれませんでした。結局は契約違反をしてしまいました。しかしアブラムの契約違反にも関わらず、神は約束通りにアブラムとその妻サライ(サラ)を通してイサクを与えられました。イサクからヤコブ、12部族と広がっていきました。 アドベントの時に系図の表をお見せしましたが、そこからイエスがお生まれになっています。つまりアブラム(アブラハム)を通してイエス・キリストが誕生されたということです。 全人類がアブラムを通して、そしてイエスによって祝福されました。そして今なお祝福されています。神はアブラムの不信仰や失敗によって約束を無効にしたり、撤回したりはしない、ということが分かります。
さきほど、神とアブラムが結んだ契約は片務契約であり、恵みの契約、無条件契約であるとお話しました。この片務契約が、新約の時代に入ってイエス・キリストと、イエスを信じる者と結ばれることになりました。 無条件な恵みの契約であり、永遠に続く契約でもあります。
深い眠りに落ちたアブラムの代わりに、神が独りで切り裂かれた動物の間を通られました。 契約違反の責めを、神自身が引き受けられたことを示しています。 そして新約の時代に入り、神は実際に人類の契約違反の責めを、イエス・キリストを通してお受けになりました。 なぜでしょうか。 それは現代を生きる私たちもまた、アブラムと同じように、神との契約を破っている者たちだからです。アダムとエバが神との約束、契約を破って罪を犯して以来、すなわち創世記3章に記されている出来事以来、私たち人類はその罪をそのまま受け継いでいます。 私たちに罪があるということは、私たち人類の歩み、歴史そして私たちの心や態度、行動を見れば明らかです。神に敵対し、神を無視し、時に神を憎んでいる私たちの姿は、神との契約に違反している者たちであり、その契約違反が今もなお続いていることを証しています。 そして私たち人類の契約違反、すなわち罪を一方的に背負って下さったのが、イエス・キリストです。 本来であれば切り裂かれた動物たちのように、私たちは契約違反の責めを、罪を、いのちをもって償わなければならない者たちです。しかしイエスは、私たちの契約違反であり、また罪を一方的に背負われ、十字架で血を流して私たちの罪を、いのちをもって代わりに償って下さいました。 新約聖書、コリント人の手紙第二5:19,21節にはこのように記されています。すなわち、神はキリストにあって、この世をご自分と和解させ、背きの責任を人々に負わせず、和解のことばを私たちに委ねられました。…神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。アブラムは神に約束を語られた時、その約束を信じ、受け入れ、ハランの地、慣れ親しんでいる世界から出て行きました。この世における考え、価値観、自分の計画を捨て、神の考え、神の価値観、神の計画を信じて行動をもって応答しました。 新約の時代、すなわちイエスがこの世界に来られてから、イエスによって神の無条件の愛と恵みが、片務契約として私たちに差し出されました。イエス・キリストが私たちの契約違反から生じた罪を背負われ、十字架で死に、死を滅ぼして復活されたことにより、神は一方的に罪の赦しと永遠のいのちを約束して下さっています。
神の愛、イエスの愛と恵みに対して、私たちは感謝と共に信じて従っていくという、「応答」をして行きたいと願います。 それは、アブラムが神に語りかけられた時の応答、「信じて、従い出て行った」と同じ、信仰の応答です。
新しいこの年も神の恵みに応答し、神の御心、ご計画に従い、神を喜び、神に喜んで頂けるような歩みを、私たち一人一人がして行けますように。
祈ります
「神の一方的な恵みの契約」
創世記12:3b~4a 地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」アブラムは、主が告げられたとおりに出て行った。
創世記15:6 アブラムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた。

「主イエスは よみがえられた!」

(ルカの福音書24章1〜12節)

可児キリスト教会・イースター礼拝 説教要旨(2020年4月12日)

「あなたがたは、どうして生きている方(キリスト)を 死人の中に捜すのですか。

ここにはおられません。よみがえられたのです。」 

(新約聖書 ルカの福音書24章5〜6節)

 人間はだれでも、必ず死ぬ存在です。しかし、死を打ち破って、死者の中から復活された主イエスは、信じるすべての人に、永遠のいのちを与えてくださいます。それゆえ、イースターはあらゆる悲しみを打ち破った、勝利の日なのです。

 1.人間は死んだらどうなるのか?

 つい今まで生きていたその人が、死んだらどうなるのだろう?どこへ行くのだろう? 多くの人は思います。聖書は教えます。「人はちりだから、ちりに帰る」(創世記2:7、3:19)。肉体はちりに帰り、霊はそれを与えた創造主である神のもとに帰る、と。イエス・キリストを信じて死んだ者は、キリストの再臨の時に、復活のからだ、栄光のからだに変えられる、と保証されているのです。

 2.主イエスの復活の朝のできごと。

 イエスの遺体を丁重に葬るために、墓に行った女たち。しかし、イエスの遺体が葬られた墓は空っぽで、天使が「ここにはいない。よみがえられたのだ。前から話していたとおりに!」と告げる。新約聖書の中に、死人が生き返らされた6回の記述がある(マタイ9章、ルカ7章、ヨハネ11章、マタイ27:52,使徒9章、20章)。しかし皆、限界ある肉体で生き返ったに過ぎず、やがて死んだのです。しかし主イエスは、栄光のからだによみがえり、永遠に生きておられます。信じる者を、主イエスと同じ永遠のいのちに生かし(第一コリント15:20)、朽ちていく体を、キリストと同じ栄光のかたちに、姿を変えてくださる救い主なのです!(第二コリント3:18)。

 3.もしキリストがよみがえらなかったのなら・・・

 キリスト者の信仰はむなしく、信仰は実質がなく、キリスト教会は大ウソつきの集まりとなります。また、すべての人の中で、最も哀れな者となるでしょう(第一コリント15:14〜19)。

 4.しかし、事実キリストは よみがえられたのです!

 すべての人の罪を背負い、十字架の上で身代わりの死を遂げ、三日目に復活された主イエスの復活のメッセージを、あなたはどう受け止めますか。疑いや不信仰ではなく、復活の主イエスを信じて、あなたも永遠のいのちを受け取りましょう!

  主イエスは よみがって、今も生きておられ、いつもとりなし、助けてくださる方(ヘブル7:24〜25)。たとえこの世が暗闇で満ちていても、どれほど試練や困難が大きくても、決して恐れることなく、希望を失う必要はありません。主イエスの復活による勝利は、信じるすべての人にも与えられる。その保証として、主イエスは墓の中から復活されたのですから!