2026/9/27(日)「見限らない主」出エジプト記34:1~10 庄司牧師

2026年9月27日 「見限らない主」出エジプト記34:1~10
主はモーセに言われた。「前のものと同じような二枚の石の板を切り取れ。わたしはその石の板の上に、あなたが砕いたこの前の石の板にあった、あのことばを書き記す。朝までに準備をし、朝シナイ山に登って、その山の頂でわたしの前に立て。だれも、あなたと一緒に登ってはならない。また、だれも、山のどこにも人影があってはならない。また、羊でも牛でも、その山のふもとで草を食べていてはならない。」そこで、モーセは前のものと同じような二枚の石の板を切り取り、翌朝早く、主が命じられたとおりにシナイ山に登った。彼は手に二枚の石の板を持っていた。主は雲の中にあって降りて来られ、彼とともにそこに立って、主の名を宣言された。主は彼の前を通り過ぎるとき、こう宣言された。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す。しかし、罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、三代、四代に報いる者である。」モーセは急いで地にひざまずき、ひれ伏した。彼は言った。「ああ、主よ。もし私がみこころにかなっているのでしたら、どうか主が私たちのただ中にいて、進んでくださいますように。確かに、この民はうなじを固くする民ですが、どうか私たちの咎と罪を赦し、私たちをご自分の所有としてくださいますように。」主は言われた。「今ここで、わたしは契約を結ぼう。わたしは、あなたの民がみないるところで、地のどこにおいても、また、どの国においても、かつてなされたことがない奇しいことを行う。あなたがそのただ中にいるこの民はみな、主のわざを見る。わたしがあなたとともに行うことは恐るべきことである。
新約聖書はマルコの福音書を、そして旧約聖書は出エジプト記を同じく初めから共に見て来ました。出エジプト記は40章で終わりですからいよいよ終盤です。
奴隷とされていたエジプトから主なる神によって救い出され、乳と蜜の流れる約束の地に向けて荒野の旅路を歩んで来たイスラエルの民は、シナイ山において、この主なる神と契約を結びました。それは人間同士の商売の契約のようなものではなく、主なる神がイスラエルの神となり、イスラエルは神の民とされる、そのような特別な関係を、神が恵みによって結んで下さる、というものでした。この契約によってイスラエルの民は、神の民として新たに歩み始めました。しかしモーセとヨシュアが、契約のしるしとなる石の板-十戒が記されたものですが-神から授かるために山に登っている間、麓で待っていたイスラエルの民は金の子牛の像を造り、それを神として拝み始めました。直接的な原因は、石の板を授けられるために山に登ったモーセが中々帰って来ない。そのため不安になったからですが、元々民たちにあった性質-神への不信仰、不従順が露わになった時でもありました。 十戒の第一の戒めは、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」
第二の戒めは「あなたはいかなる像も造ってはならない。それらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない」です。主なる神の民として守るべき基本的なこれらの戒めを、イスラエルの民はそれが与えられたとたんに破ってしまいました。この「金の子牛」の話が32章以下に語られて来ました。山から戻って来てこの様子を見たモーセは激しく怒り、十戒が記された石の板を砕きました。それは主なる神と民との契約が破綻し、壊れてしまったことを表しています。金の子牛という偶像を造り、神として拝んだ罪によって、主なる神とイスラエルの民との契約の関係は失われてしまいました。そのためモーセは神とイスラエルの民との間に立って、彼らの罪を赦して下さるようにと、主なる神に懇願しました。 モーセは、罪を犯して神との契約の関係を失い、もはや神の民として歩むことができなくなったイスラエルの人々の赦しを、主なる神に必死に求めました。その結果、神はイスラエルの民を滅ぼすことを思い留まり、再び彼らをご自分の民とし、彼らと共に歩まれると宣言して下さいました。重大な罪を赦され、一旦は失われた、神と彼らの間の契約がもう一度結び直される。イスラエルの民は再び神の民として歩み出すことができる。その契約の再締結が、本日取り上げられている34章で語られています。
1節には、主はモーセに言われた。「前のものと同じような二枚の石の板を切り取れ。わたしはその石の板の上に、あなたが砕いたこの前の石の板にあった、あのことばを書き記す。とあります。契約の再締結は、モーセが用意した二枚の石の板に、神の指によって十戒が再び書き記され、もう一度与えられるということを通してなされました。イスラエルの契約違反によって失われた契約の関係が、回復されることのしるしとなりました。契約とはすなわち約束を交わすことです。つまり、お互いに守り行うべき義務を負うということです。それは人間側だけでなく、神側にも義務が生じることになります。それは責任とも言い換えることができるかもしれません。 神がイスラエルと契約を結ぶことによって責任を持って下さることとは、神が彼らイスラエルを守り、養い、導き、救うことを義務として引き受けて下さる、責任を持って下さる、ということです。そして同時にイスラエルも神に対して義務を負う者となります。その義務とは、神との契約を守ることによって果たされるものです。そのようにお互いがお互いに対して義務を負い、成すべき責任をしっかりと果していく。それが神と民とが契約で結ばれている証でもありました。従ってイスラエルがなすべき義務、十戒に記されているようなことを行わないならば、神との関係はまた破れ、失われてしまいます。 実際にイスラエルは第一戒と第二戒を破り、神との関係は破れ、壊れてしまいました。しかしモーセの執り成しによって神は再び契約を通して神が行うべき義務-神を信じ、従って来る者たちを守り、養い、導き、救いの手を伸ばして下さる、という責任を再び持つと約束して下さいました。主なる神と、不信仰であり不従順であるイスラエルの間に入り、彼らイスラエルの罪を赦して下さるようにと神に懇願した人、それがモーセです。そして以前お話しましたが、モーセはイエス・キリストを象徴しています。しかし決定的な違いがモーセとイエスにありました。それはどれだけ真剣で真実なものであっても、モーセはただ祈り、執り成すだけの存在です。しかしイエスはその身をもって、私たち人間の罪が神の御前で赦されるために、その身を捧げて下さいました。それが、モーセが罪の身代わりに架かることはなかった十字架です。
罪を犯した人間は、その罪によって死ぬ存在になってしまいました。そこでイエスは人間の罪を全て背負い、ご自分が人間の代わりに神に呪われる者となって、人間の身代わりに死なれました。
死の原因となった人間の罪を葬り去り、また、人間を罪に誘った悪魔、サタンを打ち破って復活されました。このイエスの十字架が自分の罪のためであった。身代わりの死であると信じる全ての人々の罪は赦され、新しい者とされる。また罪によって断絶していた父なる神との交わりを回復させて頂ける。それがイエスの十字架と復活にありました。
イエスの十字架による罪の贖い、赦しの前までは、すなわち旧約時代は、人間の罪の身代わりとして動物の血が、動物のいのちが捧げられていました。「この血、このいのちを捧げますから、神よ、代わりに私の罪を赦して下さい。」このような方法によって人類は罪の赦しを神に求めました。しかしイエスの十字架の死が自分の罪のためであったことを信じる人は、その信仰によって罪赦され、神の子、神の民として新たな関係、契約の中に入れられる。この十字架による新しい約束が新約、新しい契約です。新約聖書の「約」は契約の「約」を表し、イエスを信じる者と神との関係が結び直される、新しい契約です。以前お話したことがあります。 その契約は、動物の生贄が民の罪の身代わりとして捧げられることによって彼らの罪が赦されるといった古い契約-すなわち旧約ではなく-イエスを信じる全ての者の罪が、ただイエスの身代わりの十字架を信じることによって赦され、新しい者とされる。そのような新しい契約、すなわち新約です。その新しい契約が記されているのが新約聖書であり、その新しい契約に対して、古い契約が記されているのが旧約聖書です。そしてこの旧約聖書には、新約の中心となるイエス・キリストの到来が数多く預言として記されている。そしてこれらの預言は、イエスの到来によって再臨を除いて成就、実現している。今私たちはこの新約、新しい契約の中に生かされている者たちです。感謝です。
旧約において、神とイスラエルの民たちとが結んだ契約は、主に十戒に代表される律法を、イスラエルが守る義務と責任が伴いました。一方神は、その契約関係にあるイスラエルを守り、養い、導き、祝福する義務と責任がありました。しかし新約におけるイエスとイエスを信じる者たちに生じる義務と責任は、このような旧約とは異なります。それはイエスが律法を終わらせたからです。人間はもはや律法を守ることによって救いを得るのではなく、ただイエスの十字架の身代わりが、自分の罪であったと信じる信仰によって罪赦され、新しくされるというものです。それは旧約の時代のように、律法を守ることによって契約関係が保たれるというのではもはやなく、ただ、イエスの御心を求めて生き、イエスに似た者となること目指し、またイエスの言われることを守り、従って行く。そのようなもっと人格的な関係であり、交わりに変えられました。
旧約における神とイスラエルの契約関係は、律法を守ることによって保たれました。しかしイエスの十字架の愛を知り、信じ受け入れた私たちは、イエスの愛と慈しみを日々経験することができます。従ってイエスの御心、イエスが語られること、そしてイエスが命じられたことを自発的に、そして率先して守り、行うことを求めるようになります。 新約聖書、ヨハネの手紙第一5章3節には、このようなことばがあります。「神を愛するとは、神の命令を守ることです。この命令は重荷になることはありません。」大好きな人、尊敬している人、愛している人から言われること、語られること、命じられることは、率先して守りたくなるものです。そしてそれは自発的に守っていきなくなることですから、重荷にならないばかりか、むしろ喜びとなります。自分が大好きな人、尊敬している人、愛している人が私のためを思って命じられることを守り、従うことをその人が喜んで下さるなら、率先して守っていこう、となるのではないでしょうか。ですから新約に生きる私たちは神、すなわちイエスを愛していれば、イエスが言われることを率先して守り、従っていくことが喜びとなっていくでしょう。そしてイエスの命令を率先して守る者は、すなわちイエスを愛する者です。このイエスに対する愛と、イエスの命令を守ることとは、車の両輪の関係に例えることができるかもしれません。
旧約において律法を守ることによって保たれていた、どちらかと言えば義務的な契約とはもはや異なります。しかしこのような関係、また愛の交わり、また生き方は、結果的に律法を守ることにも繋がります。それはイエスの思い、御心が、律法にも表されているからです。しかし私たち人間は弱いものです。イスラエルを見れば分かります。神から与えられた全ての命令を守ると、24章において誓った彼らは、その舌の根が乾かない内に、その神を捨て、偶像を神として拝み、従ってしまいました。イスラエルの民は人類の代表の側面がありますから、その神への不信仰、不従順は、すなわち私たち全ての人類の罪深さを表していると言えます。しかし神はモーセの執り成しに心動かされ、彼らの罪を赦されました。そしてこのモーセはイエス・キリストを象徴していると先程お話しました。イエスはこのモーセよりももっと大きく、偉大で、尊厳と憐れみ、そして愛に満ちておられる方です。イエスを求めて来る全ての人たちを受け入れられました。目が見えず、口がきけない人。耳が聞こえず、足を動かすことができない人。肉体的な欠陥を抱えながら、それでもイエスの下に憐れみを求めて来た全ての者たちをイエスは受け入れ、憐れみを示され、優しいことばをかけられ、その手でお触れになり、癒されました。また、罪にさいなまれ、罪を告白する者もイエスは受け止められ、その人の罪の赦しを宣言されました。その癒しも、また罪の赦しも、根拠はイエスの十字架にあります。私たち人類が持つ死、死に至る病や痛み、また苦悩など、それら全ての元である罪を、身代わりに負って下さったからです。イエスは人類の罪をその身に負って十字架に架かられるほどに私たち人間をとことん愛され、仕えられ、良きものを与えられ、最善へと導かれるお方です。十字架がその証です。
このイエスの優しさ、共感、憐れみ、愛は、本日の箇所に予表、表されています。それが6節、7節です。主は彼の前を通り過ぎるとき、こう宣言された。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す。しかし、罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、三代、四代に報いる者である。」罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、三代、四代に報いる者とは、神が私たち人間の罪を裁く真実なる神、義なる正義の神のご性質が表されています。またそれは三代、四代と限定的で短い。しかし一方で、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す。と主なる神が語られているように、神を信じる者に示され、また与えられる神の憐れみ、恵み、まことは千代まで続く、つまり永遠に続くということです。その愛はイエスの受肉から始まり、十字架でクライマックスに至りました。罪によって神の祝福を失い、神の守りと養い、導きの下に生きることができなくなったのは、イスラエル民族に限りません。全ての人類も同じです。しかしそのような私たちの救いのために、主なる神は独り子イエス・キリストを、モーセ以上の執り成し手とされ、モーセには決してなれなかった救い主として遣わして下さり、私たちの罪を全てイエスに背負わせました。この主イエス・キリストこそ、「あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦される。」お方そのものです。イエスは主なる神、すなわち父なる神と同質、同じ神でもあるからです。 私たちは、イエスの十字架と復活が自分の罪のためであったと、ある日、ある時信じました。それゆえ私たちは、イエスの十字架を通して結ばれた、新しい契約、新約に一人一人が与っています。
この契約が永遠に続く契約であることを覚え、イエスの愛と慈しみを共に感謝したいと思います。
祈ります。
「見限らない主」
主は彼の前を通り過ぎるとき、こう宣言された。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す。