そのときに、だれかが、『ご覧なさい。ここにキリストがいる』とか、『あそこにいる』とか言っても、信じてはいけません。偽キリストたち、偽預言者たちが現れて、できれば選ばれた者たちを惑わそうと、しるしや不思議を行います。あなたがたは、気をつけていなさい。わたしは、すべてのことを前もって話しました。 (マルコの福音書 13:21-23 SKY17)
世の終わりに臨む時、天変地異、国同士・人同士の争い、憎しみ、戦争、飢饉、色々な災害、そしてキリスト者への迫害。それらが終わりの日の「その日」に向かって頻度も、また激しさも増して来るということを、この13章で見ています。これら苦難が終わりの日において日常的に起こって来るならば、人はどのようなことを考え、また何を待ち望むでしょうか?それらの状況や現状からもたらされる不安や恐怖、そして実際に起きて来る苦難から救い出されること、その救いを、期待をもって待ち望むようになるのではないでしょうか。本日の聖書箇所は、そのような人々の期待を巧みに利用する、偽キリストたちや偽預言者たちの出現を、イエスは警告されています。
イエスはこのように語られました。22節です。偽キリストたち、偽預言者たちが現れて、できれば選ばれた者たちを惑わそうと、しるしや不思議を行います。イエスはここで彼ら偽キリストや偽預言者が、「できれば選ばれた者たちを惑わそうと、しるしや不思議を行います。」と言われました。選ばれた者たちとは、イエスを信じるキリスト者、私たちクリスチャンです。「できれば」とは、可能であれば、という意味ですから、偽キリストや偽預言者がクリスチャンを惑わすのは難しい、ということです。逆に言えば、偽キリストや偽預言者は、イエスを信じていない人々を惑わしやすい、ということになります。なぜでしょうか?それはイエスを信じない人々や聖書を知らない人々は、イエスがこの13章で語られているような世の終わりがあることや、世の終わりに向かってこの世界がどうなっていくか、そしてその終わりの日に際して何に気を付け、どのように歩んでいったら良いか、などが分からないからです。つまり惑わされやすい人とは、聖書にある神のことば、み言葉を知らず、大切にもしない人々である、ということになるでしょう。
その一つの例が、前回見たユダヤ戦争でした。イエスが旧約聖書のダニエル書を引用しながら預言、警告した、将来起こることになるユダヤ戦争-イエスの時代から見れば40年後に実現することですが-イエスが言われたことを信じなかった人々と、イエスを信じて従った人々の人生が、完全に分けられたのを見ました。イエスは、ローマ軍がエルサレムに責めて来ることを預言された時、同時に逃げなさいと言われました。実際にイエスを信じてペレヤ地方に逃げた人々は助かりました。しかしイエスの警告を信ぜず、エルサレムに残った人々は、ローマ軍からの兵糧攻めに遭い、結果的に全滅してしまいました。
色々な状況や噂、影響力のある人々のことばを信じて、「惑わされて生きるか」、それとも神であるイエスが言われることを信じて「惑わされずに生きるか」は、言い方を変えれば、神を信ぜずに生きるか、それとも神を信じて生きるか、ということになります。神を信じない人々は、偽キリストや偽預言者を信じやすい、そしてある人々は実際に信じ、従って生きるでしょう。 しかし神を信じる人々は、イエスの言われることを信じ、また従って生きることになります。 この選択と決断が、終わりの日における歩みにも大きな影響を与える、ということになります。そして選択と決断に伴う歩みは、ユダヤ戦争で生死が完全に分かれたように、人々の歩みを、人生を、救いを真っ二つに分けることになります。救いか滅びか。平安か不安か。安定か不安定か。イエスを信じて歩むかどうかで、私たち人間の歩みは全く異なってきます。では、イエスが警告された、偽キリストや偽預言者を、私たちはどのように見破っていけるでしょうか。イエスの弟子の一人であったヨハネは、その手紙の中で偽預言者についてこのように記しています。
ヨハネの手紙第一4:1~3です。お読みします。愛する者たち、霊をすべて信じてはいけません。偽預言者がたくさん世に出て来たので、その霊が神からのものかどうか、吟味しなさい。神からの霊は、このようにして分かります。人となって来られたイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。イエスを告白しない霊はみな、神からのものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていましたが、今すでに世に来ているのです。
ヨハネはここで、偽預言者について言及していますが、その背後には「霊」の存在、すなわち悪霊の存在があると警告しています。先月の始めの礼拝の中で、イエスが公生涯に入られる前、試みに遭われた時のお話をしました。イエスを試みた相手とは、イエスに敵対する悪魔、サタンでした。またサタンだけでなく、その手下である悪霊たちも神を憎んでいます。その神が愛している人間たちも彼らは憎んでいるため、一人でも多くの人間が神から離れるように策略を巡らしています。また願わくは神の子とされている私たちクリスチャンたちにも神を疑わせ、日々、信仰を奪おうと働いています。その戦略、策略が分かる箇所がルカの福音書4:6でした。第三版の聖書訳でお読みします。ルカの福音書4:6「この国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。 サタンは現代においても巧妙に働いていますが、このサタンはこの世において、この人にならいいという、イエスに反対している人々-力のある政治家や独裁者、地位や名誉を持ち、有名な人々などを選んで、権力や栄光を与えることができるということです。 もちろん全ての人々ではありませんが、繫栄し、栄光を受けている者の背後に、悪魔の働きがあるということです。そしてこの悪魔、悪霊は、そのような影響力の強い人、インフルエンサーに働きかけ、イエスも聖書も知らない、または神を信ぜず、イエスに敵対する人々を、人々を惑わす器として用いることができる、ということです。しかし悪魔、悪霊の誘惑、また惑わしは、国の指導者や政治家など、力や権力を持っている人々に限りません。キリスト者、キリスト者でないに限らず、全ての人類が悪魔の誘惑と惑わしに、日々晒されています。
ヨハネはこのような偽預言者、すなわち悪霊の影響を受けている人々の語ることを吟味しなさい、と警告しています。吟味する上でもっとも大切なことが、イエスを告白する霊かどうか。すなわち語りかけている人が聖霊の影響を受け、またイエスの証をしているかどうか、ということが吟味の規準になると、ヨハネは述べています。聖霊の影響を受けている人が語ること、それはイエスの栄光、素晴らしさを称え、表します。またイエスのことば、すなわち聖書にあるみ言葉を通して人々を励まし、慰め、力を与えることが出来ます。つまり、語りかけられた側の考え方や価値観、生活や人生がプラス、上向きの方向になっていくということです。またこの励ましは、世の終わりに人々が臨む時、更に人々を力付けるでしょう。しかし語りかけている者が聖霊ではなく、悪霊の教えや力を受けているとしたら。先々週の礼拝において、ある宗教団体に所属していた方が証をして下さいました。彼はその組織の聖書解釈に矛盾を感じるも、同じ仲間から切り離されることを恐れて、なかなか組織を抜け出せなかった、と語っておられました。組織を抜けると背教扱いされ、仲間から断罪され、捨てられる。それは彼にとって恐怖でした。同じように、この組織から恐怖や混乱がもたらされ、破滅した人たちが他にもたくさんいます。ある人は、組織が特定した終わりの日やイエスの再臨を信じて、大学などに進学することを止めました。ある人は結婚を諦め、ある人は財産を全て使ってしまい、ある人は自死してしまいました。恐怖で束縛され、自由も信仰も奪われた結果でした。そのようになってしまう人々が実であるとするならば、その実をつけさせる木がおかしいことは明らかです。またこの組織は今まで何度も、終わりの日や、イエスの再臨の日、ハルマゲドンなどの日を、何年何月に実現する、と言ったように特定してきました。それが外れると、キリストは目に見えない天において、神の王国の王として即位した、というような弁解や、教義の変更を行ってきました。彼らは終わりの日、すなわちイエスが再臨されることが、自分たちだけに知らされている、と語ってきました。ではイエスご自身は、再びこの世界に来られる、すなわちご自身の再臨についてどのようなことを語っておられるでしょうか。平行箇所のマタイの福音書24:27,28において、イエスはこのように語られています。人の子の到来は、稲妻が東から出て西にひらめくのと同じようにして実現するのです。死体のあるところには、禿鷹が集まります。これはどういう意味でしょうか。
キリストの再臨は、稲妻が東から出て西にひらめくように、一瞬のうちに、しかし誰が見ても分かるように来る、ということです。またそれは、ハゲタカが死体を容易に見つけてそこに集まって来るのと同じような明瞭さを持っている。誰が見ても分かる、という事です。すなわちイエス・キリストの再臨は、全ての人々にとって、容易に見ることができる形で起こるということを意味します。
従ってイエスが再びこの世界に来られる終わりの日には、その力と栄光とを全ての人が見るということです。そしてイエスの再臨と共に世の終わりが来ます。つまり21節にあるように、誰かが「ここにいる、あそこにいる」と、教えてもらわなければならないような仕方でイエスは来られるのではない、ということです。ですから特定の組織、団体だけにそのような預言のことばが与えられている、ということ自体がすでに間違っています。 もう一つの組織を挙げます。この宗教団体の教祖は韓国人でしたが、自分を再臨のキリストと宣言していました。彼は偽キリストです。なぜ断言できるか。それは、彼がすでに死んでいるからです。もし神であれば死ぬことはありません。彼が死んでいる、という事実から、彼が偽キリストであることは明白です。従って彼の「後継者」という存在も矛盾しています。 他にも自分をキリストと名乗る教祖がいます。まだ生きている者もありますが、同じく亡くなっている者もいます。偽キリストたちが私たちの回りに実際に存在します。
また聖書においても、偽預言者が登場します。背景は、パウロとバルナバが行った、第一回伝道旅行の時です。新約聖書、使徒の働きの13:6節にはこのように記されています。バルイエスという名のユダヤ人で、偽預言者であった。魔術師であったともこの6節にありますが、彼は偽預言者でした。この男はパウロとバルナバに反対して、総督を信仰から遠ざけようとした、とこの6節の後に記されています。ローマ帝国の総督を信仰から遠ざける、すなわちイエスとイエスの福音を総督から遠ざける働きをしていたことが分かります。イエスの福音が伝わらないように、人を通して、また偽預言者を通して邪魔をする力、悪魔、サタンの働きがあることが分かります。
また見た目や人格的にも魅力があり、人々から人気があり、地位や名声がある人であっても、福音に反している、反キリストのような人々が世の中にたくさんいます。そのような人々の中で、悪魔、サタンから力を受けて、イエスから人々を引き離そうとする存在があることを忘れてはいけません。そしてこの妨害は、世が終わりの日に向かっていくに連れ、激しくなっていくことでしょう。また新約聖書だけでなく、旧約聖書においても、偽預言者について記されているところがあります。またこれは同時に警告でもあります。申命記13:1~3節です。このように警告されています。あなたがたのうちに預言者または夢見る者が現れ、あなたに何かのしるしや不思議を示し、あなたに告げたそのしるしと不思議が実現して、「さあ、あなたが知らなかったほかの神々に従い、これに仕えよう」と言っても、その預言者、夢見る者のことばに聞き従ってはならない。奇蹟が行われるだけでは、真の預言者であることの証拠にはならない、と明確に警告されています。
旧新約聖書を通して、偽預言者、偽キリスト者に注意しなければならないとありますが、それら全てを踏まえてイエスは最後の23節において、「気をつけていなさい」と言われました。これは文法的には現在進行形の命令です。すなわち、このような偽者に対して絶えず警戒していなさい、という意味が込められています。 最後にイエスは「すべてのことを前もって話しました。」と言われました。これは終末、終わりの日に関することを具体的に、そして全て漏らさず示されたというよりは、終わりの日において起きて来る色々な現象や、偽キリスト、偽預言者に惑わされることないように、そのような危険に対してあらゆる面から注意を与えた。という意味でしょう。イエスは多くの奇蹟や不思議、力あるしるしを行われましたが、それら目に見える現象によって人を引きつけ、またそれによって従わせようとはなさいませんでした。それよりももっと地味に、謙虚に、そして恥と苦痛に満ちている-本来ならば犯罪人がかけられる十字架-において、私たち人間の罪全てを背負って、十字架にかかって死んで下さいました。しかしイエスは十字架の死から復活され、再び私たちの世界に王として、イエスの十字架による贖い、救いを信じた一人一人のキリスト者、私たちを迎えに来て下さいます。
戦争、地震、飢饉などの苦難や、キリスト者への迫害という、終わりの日に向かって起きて来る様々な前兆が現れ、世の中が騒然としても、また偽キリスト、偽預言者が登場しても、終わりの日が訪れたわけではありません。また神からの啓示を受けた、という人、人々、組織や団体が、現代においても増々増えて行くでしょう。しかしイエスが再臨されるまでは、その全てが偽者です。私たちは惑わされてはなりません。
イエスの勝利はすでに復活に表されています。イエスは復活を通して悪魔、サタンやその手下の悪霊どもに勝利されています。また人類を縛って来た罪と、罪から来る死にも勝利して下さっています。終わりの日、そしてイエスが再臨される「その日」においても、復活された力ある神、イエスの助けと守り、そして勝利があることを、私たちはいつも心に留めたいと思います。そして迫害や患難の中にあっても絶望し、倒れることなく、すでに終わりの日にある今を、一歩一歩、忠実に、共に歩んで行きたいと願います。
祈ります。
偽キリストと偽預言者
あなたがたは、気をつけていなさい。わたしは、すべてのことを前もって話しました。