2026年8月30日 マルコの福音書13:14~20 差し迫る苦難と主の憐れみ
『荒らす忌まわしいもの』が、立ってはならない所に立っているのを見たら──読者はよく理解せよ──ユダヤにいる人たちは山へ逃げなさい。屋上にいる人は、家から何かを持ち出そうと、下に降りたり、中に入ったりしてはいけません。畑にいる人は、上着を取りに戻ってはいけません。それらの日、身重の女たちと乳飲み子を持つ女たちは哀れです。このことが冬に起こらないように祈りなさい。それらの日には、神が創造された被造世界のはじめから今に至るまでなかったような、また、今後も決してないような苦難が起こるからです。もし主が、その日数を少なくしてくださらなかったら、一人も救われないでしょう。しかし、主は、ご自分が選んだ人たちのために、その日数を少なくしてくださいました。
私たちプロテスタント教会が外典と呼んでいる書物群に、マカベヤ書という書物があります。これら外典は、旧新約聖書の間の400年ほどの空白の時代、中間時代と呼ばれている時代に記されたものです。このマカベヤ書に記されている出来事が、本日の14節に描写されています。
14節の背景を少しお話しします。 紀元前167年に、当時ユダヤを支配していたシリアのアンティオコス・エピファネスという王が、エルサレムに攻め込んで来ます。略奪を行っただけでなく、エルサレム神殿に乗り込み、最も神聖なる場所・祭壇に、ギリシャの神ゼウスの像を置き、ユダヤ人たちに拝むことを強要しました。異邦人の神、しかもその偶像が神殿に置かれることは、イスラエルの人々にとっては主なる神への最大の冒瀆であり、神の民であるイスラエルへの、この上ない侮辱でした。その結果彼らの間に激しい反発、そして反乱が起こりました。反乱の中でマカベヤという人物が首謀者になってユダヤ人たちが立ち上がり、いのちを投げ出して戦います。
この反乱に、普段は隠遁生活をしていたエッセネ派ですら参加し、この反乱による戦いは壮絶を極めたと言われます。世界史ではマカベヤ戦争と呼ばれますが、ユダヤ軍が軍事力においては圧倒的に優位なシリア軍を命がけの戦いの末に打ち負かす。その戦いがマカベヤ書に記されています。
この戦いは、既に旧約聖書ダニエル書に預言されていました。それが14節です。『荒らす忌まわしいもの』が、立ってはならない所に立っているのを見たら──読者はよく理解せよ──ユダヤにいる人たちは山へ逃げなさい。この14節はダニエル書11:31節から引用されています。このように記されています。「彼の軍隊は立ち上がり、砦である聖所を冒し、常供のささげ物を取り払い、荒らす忌まわしいものを据える。」アンティオコス王の軍隊が神殿を冒し、普段捧げられているささげ物を取り払い、忌まわしい偶像を据えた。ダニエルが預言を記してからおおよそ300年後に、またイエスの時代から見れば200年ほど前に、この預言は成就、実現しました。このダニエル書11:31節の他、その前後9章や12章に記されている預言は、アンティオコス王のエルサレム侵攻だけにとどまりません。それはイエスが語られた時からは未来となる、別の出来事も指し示しています。それがローマ軍のイスラエル侵攻です。イエスの時代から見ればおおよそ40年後、紀元70年にそれは起きました。ローマ軍のエルサレム侵攻のことを、イエスは平行箇所のルカの福音書21:20節において、このように語られています。しかし、エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、そのときには、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。 イエスは14節でダニエル書11:31節を引用することによって、エピファネス王のエルサレム侵攻と破壊、そして神への冒涜という預言がすでに成就、実現していることを示されました。そしてそれを踏まえ、未来に起こるローマ軍のイスラエル侵攻と破壊という出来事も、同じくダニエル書を引用することによって預言されていました。そしてイエスが預言された約40年後、実際にローマ軍がエルサレムに侵攻して来た時、多くのユダヤ人たちがエルサレムに集結しました。マカベヤ戦争を思い起こしての行動だったに違いありません。「私たちも先代の人々のように団結し、エルサレムを、エルサレム神殿を守るために戦うのだ!」あるいはエルサレムにいれば大丈夫だ、神が絶対に守って下さるはずだ。そのような思いを持って、エルサレムに集まった人々もいたでしょう。しかしローマ軍はエルサレムには直ぐには攻め込まず、まず町の回りを包囲しました。ローマ軍の包囲によって食物が都に入らなくなり、エルサレムの都は激しい飢餓状態に陥ります。そしてついに人食いまでをするような悲惨な状況になり、餓死者が数え切れないほど出ました。弱り果てたユダヤ人たちは、最後はローマ軍の剣によって全滅してしまいました。エルサレムは陥落し、ローマ軍の手に落ちました。エルサレム神殿も完全に破壊され、今は見ることも出来ません。世界史ではユダヤ戦争と呼ばれる出来事です。
イエスはダニエル書を引用しつつ、このユダヤ戦争を預言するにあたって、次のような警告を人々に与えておられました。それが本日の14節から16節に記されています。「山へ逃げなさい」、「屋上にいる人は、家から何かを持ち出そうと、下に降りたり、中に入ったりしてはいけません。」
当時の家の屋上・屋根は平らでした。そしてそこを色々なことに利用していました。また屋根に上がる為の外階段が付いていました。ですからローマ軍が来るような危急の事が起こったら、部屋の中に降りていってはいけない。外階段からそのまま外に逃げなさいという意味です。加えて彼らの財産となる「上着」も持ち出してはならない。事は一刻を争う。一刻の猶予もない。また、住み慣れたエルサレムを離れることは、季節が良い時であっても困難です。そこでイエスは、身重の女性たちや乳飲み子を抱える女性たちが、さらに逃げることが困難となる冬にならないように祈りなさい、と言われました。実際にイエスを信じていた人々は、イエスの預言であり命令を信じ、従い、ローマ軍が攻めて来ると直ぐにエルサレムを脱出し、ペレヤと呼ばれる地域へ移動し難を免れたと、エウセビオスという歴史家が記しています。
しかしダニエル書の預言は、アンティオコス王とローマ軍隊の2回に及ぶエルサレム侵攻、破壊の成就、実現で終わるのでしょうか。 14節においてこの書を記した著者は、「読者はよく理解せよ」と注意書きを挿入しました。これは勿論イエスのことばではなく、イエスの言葉を後に記した聖書記者の注意書き、著者であるマルコのことばでしょう。マルコはなぜこの注意書きを挿入したのでしょうか。そのヒントが、イエスが語られた19節です。
それらの日には、神が創造された被造世界のはじめから今に至るまでなかったような、また、今後も決してないような苦難が起こるからです。
マカベヤ戦争やユダヤ戦争がどんなに悲惨なものであっても、「神が創造された被造世界のはじめから今に至るまでなかったような、また、今後も決してないような苦難。」では決してありません。19節でイエスが語られたことはもっと規模が大きくて悲惨なもの。混乱と破壊を想像させるに難くないものです。つまり著者のマルコは、イエスが語られた19節の預言が、マカベヤ戦争、ユダヤ戦争の事出来事を超え、終わりの日、それもイエスが再臨される時に世界が裁かれる「その日」である大艱難であることを感じ、見据え、また聖霊の促しもあって、注意書きを入れたのだと思います。
従って著者のマルコによる注意書きは、これから約40年後に起こることになる、ローマ帝国の侵略にユダヤ人たちが備えなければいけないということを超え、この世の終わりに臨んでいる私たち読者に向けられていることばでもあります。
ローマ軍がエルサレムに攻め込んで来たユダヤ戦争において、多くのユダヤ人たちはエルサレムに集結しました。それはエルサレム神殿を守るためでした。神殿を守るということが、自分たちの信仰を守ることとイコールであり、神殿を失うなら自分たちの信仰も失う。 彼らユダヤ人にとってエルサレム神殿というのは、人間が唯一神と交わることを許されている場所でした。人間は罪深く汚れているから、決して神と直接交わりをすることなど許されない。ただ神殿においてだけ、神の憐れみの内に、人間が神と交わりをすることができる。その神殿を失うということは、神との接点を失う。そのように彼らは考えていました。それほど彼らにとってエルサレム神殿は特別なものでした。それゆえ紀元70年のローマ軍のエルサレム侵攻の時、彼らは神殿と運命を共にしました。
しかしイエスは違います。イエスは彼らに逃げなさいとおっしゃいました。これはつまり、神殿を捨てなさいということです。神殿を守る必要は無い。そこで戦ってならない。戦う必要もない。なぜイエスは逃げなさいと言われたのでしょうか?
それは神殿が必要なくなるからです。イエスはこの後十字架に架けられることになります。そしてイエスが十字架に架けられることが、イエスが「逃げなさい」と言われた根拠です。
イエスが十字架上で息を引き取られた時、神殿の幕が上から下へと、真っ二つに引き裂かれました。神殿の幕とは、神殿の中で最も神聖な至聖所の幕のことです。至聖所は神が臨在される神聖な場所であり、そこには大祭司が年に一度しか入ることが出来ませんでした。そして神殿の聖所と至聖所を隔てる幕は、そのまま人間と神の隔て、断裂を象徴するものでもありました。しかしその幕は、イエスが死なれた時に上から下に向けて裂かれました。つまり神が一方的にその幕を取り去って下さった訳です。人間の罪から始まった神と人間の間にあった隔てが、そして断裂が、イエスの十字架を通して取り除かれたということです。 神であるイエス・キリストが、神との隔てとなっていた私たちの罪を全て身代わりとして背負われ、死なれました。そのことによって、神殿においてたった一人の大祭司が、神と人々の仲介役として、年に一度神殿で神との交わりを頂く、そのような必要がなくなりました。イエスの身代わりの十字架が自分の罪の為であったと信じる人は誰であっても、神との親しい交わりをすることが許されるようになりました。
この十字架を踏まえイエスは、「あなた方は神殿を命がけで守る必要はもうない。これから私が神と人間の隔ての壁を壊し、取り去る。もはやあなたがたに神殿は必要ない。神殿を捨てて逃げなさい。」
という意味を、「逃げなさい」ということばに込められたのだと感じます。
また聖書には、このように記されているところがあります。「あなたがたは神の神殿です。」私たちイエスを信じる一人一人が、イエスの十字架を通して、神が宿る神殿となる、ということです。つまり神殿にあった神の臨在は、イエスを信じるキリスト者一人一人に移されることになる。だから目に見える神殿のために、いのちを張る必要はもはや無い。
新約聖書、コリント人への手紙第二6:16節にこのようなことばがあります。
私たちは生ける神の宮なのです。神がこう言われるとおりです。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。 (コリント人への手紙 第二 6:16 SKY17)
イエスがこの世界に来たことにより、神はもはや神殿に臨在されることはなくなりました。私たちの内に生きて下さる。そればかりでなく、私たち一人一人が神の宮、生ける神の神殿となる。
かつてのエルサレム神殿に匹敵する価値が、いや、それ以上の価値であり尊さが、イエスを信じる私たち一人一人にある、ということです。私たちが、何かができる、できない、忍耐する、しない、努力をする、しない、などに関わらず、イエスの十字架によってすでに価値のある者とされている。だから神殿を守るような戦いをする必要は、もはやない。戦いや努力、自分の力で神と交わりをし、また救われようとする必要はない。救いはすでにイエスの十字架によって完成されている。私たちはただ、イエスによって価値ある者とされている、ということです。
この神であるイエスが、今も、そしてこの瞬間も聖霊を通して私たちと共にいて下さいます。そして私たちが本当にすべき大切な戦い、断固死守すべき場所、それは神が住まいとされる私たち一人一人の体であり、存在です。私たちイエスを信じる一人一人が、神のご臨在を示し、また表す神殿です。神であり、私たちの主であるイエスが、私たち一人一人を神の霊である聖霊が宿る聖なる、そして価値のある生ける神の宮、神殿として下さった。そしてそのように価値ある者として見つめて下さっている。
最後の20節にはこのように記されています。しかし、主は、ご自分が選んだ人たちのために、その日数を少なくしてくださいました。終わりの日の「その日」に向かって激しくなって行く苦難や迫害に対して、イエスは選んだ人たち、すなわちイエスを信じるキリスト者、クリスチャンが苦難や迫害に耐えることができるように、その日数を少なくして下さったと聖書は告げています。
「日数を少なくして下さった」とありますが、文法的には過去形が使われています。それは日数が短くされるという未来における出来事が、既に過去において決定されている、神が既に計画され、予定されているということが、強調されています。つまりこの20節も、終わりの日に臨む私たち、イエスを信じる全てのキリスト者にとって、励ましの預言であるということです。
神は、イエスは、救いに選ばれた者を忘れず、全てのキリスト者、現代を生きる私たち一人一人のキリスト者が、苦難や迫害に耐えることが出来るように、その苦難の時を少なく、短くして下さる。そして既に短くして下さいました。イエスの私たちに対する愛、配慮、恵み、憐れみを感じます。
私たちは自分の中に、救われるべき理由は何もありません。自分が他の人よりも立派であるとか、信仰深いということでもありませんし、忍耐強いわけでもありません。それはただ、私たちを一方的に選び、恵まれ、支えておられる神がおられる、ということです。そのイエスが、「その日」に向かって激しくなって行く苦難においても、また迫害においても、共にいて下さいます。
イエスの十字架を通して、また聖霊を通して、イエスを信じる私たち一人一人を尊い生ける神の宮、神殿として下さったイエスに感謝と讃美を捧げます。そして終わりの日である、「その日」に向かって、与えられた一日一日を、共に、大切に過ごしていきたいと願います。
祈ります
差し迫る苦難と主の憐れみ
しかし、主は、ご自分が選んだ人たちのために、その日数を少なくしてくださいました。
『荒らす忌まわしいもの』が、立ってはならない所に立っているのを見たら──読者はよく理解せよ──ユダヤにいる人たちは山へ逃げなさい。屋上にいる人は、家から何かを持ち出そうと、下に降りたり、中に入ったりしてはいけません。畑にいる人は、上着を取りに戻ってはいけません。それらの日、身重の女たちと乳飲み子を持つ女たちは哀れです。このことが冬に起こらないように祈りなさい。それらの日には、神が創造された被造世界のはじめから今に至るまでなかったような、また、今後も決してないような苦難が起こるからです。もし主が、その日数を少なくしてくださらなかったら、一人も救われないでしょう。しかし、主は、ご自分が選んだ人たちのために、その日数を少なくしてくださいました。
私たちプロテスタント教会が外典と呼んでいる書物群に、マカベヤ書という書物があります。これら外典は、旧新約聖書の間の400年ほどの空白の時代、中間時代と呼ばれている時代に記されたものです。このマカベヤ書に記されている出来事が、本日の14節に描写されています。
14節の背景を少しお話しします。 紀元前167年に、当時ユダヤを支配していたシリアのアンティオコス・エピファネスという王が、エルサレムに攻め込んで来ます。略奪を行っただけでなく、エルサレム神殿に乗り込み、最も神聖なる場所・祭壇に、ギリシャの神ゼウスの像を置き、ユダヤ人たちに拝むことを強要しました。異邦人の神、しかもその偶像が神殿に置かれることは、イスラエルの人々にとっては主なる神への最大の冒瀆であり、神の民であるイスラエルへの、この上ない侮辱でした。その結果彼らの間に激しい反発、そして反乱が起こりました。反乱の中でマカベヤという人物が首謀者になってユダヤ人たちが立ち上がり、いのちを投げ出して戦います。
この反乱に、普段は隠遁生活をしていたエッセネ派ですら参加し、この反乱による戦いは壮絶を極めたと言われます。世界史ではマカベヤ戦争と呼ばれますが、ユダヤ軍が軍事力においては圧倒的に優位なシリア軍を命がけの戦いの末に打ち負かす。その戦いがマカベヤ書に記されています。
この戦いは、既に旧約聖書ダニエル書に預言されていました。それが14節です。『荒らす忌まわしいもの』が、立ってはならない所に立っているのを見たら──読者はよく理解せよ──ユダヤにいる人たちは山へ逃げなさい。この14節はダニエル書11:31節から引用されています。このように記されています。「彼の軍隊は立ち上がり、砦である聖所を冒し、常供のささげ物を取り払い、荒らす忌まわしいものを据える。」アンティオコス王の軍隊が神殿を冒し、普段捧げられているささげ物を取り払い、忌まわしい偶像を据えた。ダニエルが預言を記してからおおよそ300年後に、またイエスの時代から見れば200年ほど前に、この預言は成就、実現しました。このダニエル書11:31節の他、その前後9章や12章に記されている預言は、アンティオコス王のエルサレム侵攻だけにとどまりません。それはイエスが語られた時からは未来となる、別の出来事も指し示しています。それがローマ軍のイスラエル侵攻です。イエスの時代から見ればおおよそ40年後、紀元70年にそれは起きました。ローマ軍のエルサレム侵攻のことを、イエスは平行箇所のルカの福音書21:20節において、このように語られています。しかし、エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、そのときには、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。 イエスは14節でダニエル書11:31節を引用することによって、エピファネス王のエルサレム侵攻と破壊、そして神への冒涜という預言がすでに成就、実現していることを示されました。そしてそれを踏まえ、未来に起こるローマ軍のイスラエル侵攻と破壊という出来事も、同じくダニエル書を引用することによって預言されていました。そしてイエスが預言された約40年後、実際にローマ軍がエルサレムに侵攻して来た時、多くのユダヤ人たちがエルサレムに集結しました。マカベヤ戦争を思い起こしての行動だったに違いありません。「私たちも先代の人々のように団結し、エルサレムを、エルサレム神殿を守るために戦うのだ!」あるいはエルサレムにいれば大丈夫だ、神が絶対に守って下さるはずだ。そのような思いを持って、エルサレムに集まった人々もいたでしょう。しかしローマ軍はエルサレムには直ぐには攻め込まず、まず町の回りを包囲しました。ローマ軍の包囲によって食物が都に入らなくなり、エルサレムの都は激しい飢餓状態に陥ります。そしてついに人食いまでをするような悲惨な状況になり、餓死者が数え切れないほど出ました。弱り果てたユダヤ人たちは、最後はローマ軍の剣によって全滅してしまいました。エルサレムは陥落し、ローマ軍の手に落ちました。エルサレム神殿も完全に破壊され、今は見ることも出来ません。世界史ではユダヤ戦争と呼ばれる出来事です。
イエスはダニエル書を引用しつつ、このユダヤ戦争を預言するにあたって、次のような警告を人々に与えておられました。それが本日の14節から16節に記されています。「山へ逃げなさい」、「屋上にいる人は、家から何かを持ち出そうと、下に降りたり、中に入ったりしてはいけません。」
当時の家の屋上・屋根は平らでした。そしてそこを色々なことに利用していました。また屋根に上がる為の外階段が付いていました。ですからローマ軍が来るような危急の事が起こったら、部屋の中に降りていってはいけない。外階段からそのまま外に逃げなさいという意味です。加えて彼らの財産となる「上着」も持ち出してはならない。事は一刻を争う。一刻の猶予もない。また、住み慣れたエルサレムを離れることは、季節が良い時であっても困難です。そこでイエスは、身重の女性たちや乳飲み子を抱える女性たちが、さらに逃げることが困難となる冬にならないように祈りなさい、と言われました。実際にイエスを信じていた人々は、イエスの預言であり命令を信じ、従い、ローマ軍が攻めて来ると直ぐにエルサレムを脱出し、ペレヤと呼ばれる地域へ移動し難を免れたと、エウセビオスという歴史家が記しています。
しかしダニエル書の預言は、アンティオコス王とローマ軍隊の2回に及ぶエルサレム侵攻、破壊の成就、実現で終わるのでしょうか。 14節においてこの書を記した著者は、「読者はよく理解せよ」と注意書きを挿入しました。これは勿論イエスのことばではなく、イエスの言葉を後に記した聖書記者の注意書き、著者であるマルコのことばでしょう。マルコはなぜこの注意書きを挿入したのでしょうか。そのヒントが、イエスが語られた19節です。
それらの日には、神が創造された被造世界のはじめから今に至るまでなかったような、また、今後も決してないような苦難が起こるからです。
マカベヤ戦争やユダヤ戦争がどんなに悲惨なものであっても、「神が創造された被造世界のはじめから今に至るまでなかったような、また、今後も決してないような苦難。」では決してありません。19節でイエスが語られたことはもっと規模が大きくて悲惨なもの。混乱と破壊を想像させるに難くないものです。つまり著者のマルコは、イエスが語られた19節の預言が、マカベヤ戦争、ユダヤ戦争の事出来事を超え、終わりの日、それもイエスが再臨される時に世界が裁かれる「その日」である大艱難であることを感じ、見据え、また聖霊の促しもあって、注意書きを入れたのだと思います。
従って著者のマルコによる注意書きは、これから約40年後に起こることになる、ローマ帝国の侵略にユダヤ人たちが備えなければいけないということを超え、この世の終わりに臨んでいる私たち読者に向けられていることばでもあります。
ローマ軍がエルサレムに攻め込んで来たユダヤ戦争において、多くのユダヤ人たちはエルサレムに集結しました。それはエルサレム神殿を守るためでした。神殿を守るということが、自分たちの信仰を守ることとイコールであり、神殿を失うなら自分たちの信仰も失う。 彼らユダヤ人にとってエルサレム神殿というのは、人間が唯一神と交わることを許されている場所でした。人間は罪深く汚れているから、決して神と直接交わりをすることなど許されない。ただ神殿においてだけ、神の憐れみの内に、人間が神と交わりをすることができる。その神殿を失うということは、神との接点を失う。そのように彼らは考えていました。それほど彼らにとってエルサレム神殿は特別なものでした。それゆえ紀元70年のローマ軍のエルサレム侵攻の時、彼らは神殿と運命を共にしました。
しかしイエスは違います。イエスは彼らに逃げなさいとおっしゃいました。これはつまり、神殿を捨てなさいということです。神殿を守る必要は無い。そこで戦ってならない。戦う必要もない。なぜイエスは逃げなさいと言われたのでしょうか?
それは神殿が必要なくなるからです。イエスはこの後十字架に架けられることになります。そしてイエスが十字架に架けられることが、イエスが「逃げなさい」と言われた根拠です。
イエスが十字架上で息を引き取られた時、神殿の幕が上から下へと、真っ二つに引き裂かれました。神殿の幕とは、神殿の中で最も神聖な至聖所の幕のことです。至聖所は神が臨在される神聖な場所であり、そこには大祭司が年に一度しか入ることが出来ませんでした。そして神殿の聖所と至聖所を隔てる幕は、そのまま人間と神の隔て、断裂を象徴するものでもありました。しかしその幕は、イエスが死なれた時に上から下に向けて裂かれました。つまり神が一方的にその幕を取り去って下さった訳です。人間の罪から始まった神と人間の間にあった隔てが、そして断裂が、イエスの十字架を通して取り除かれたということです。 神であるイエス・キリストが、神との隔てとなっていた私たちの罪を全て身代わりとして背負われ、死なれました。そのことによって、神殿においてたった一人の大祭司が、神と人々の仲介役として、年に一度神殿で神との交わりを頂く、そのような必要がなくなりました。イエスの身代わりの十字架が自分の罪の為であったと信じる人は誰であっても、神との親しい交わりをすることが許されるようになりました。
この十字架を踏まえイエスは、「あなた方は神殿を命がけで守る必要はもうない。これから私が神と人間の隔ての壁を壊し、取り去る。もはやあなたがたに神殿は必要ない。神殿を捨てて逃げなさい。」
という意味を、「逃げなさい」ということばに込められたのだと感じます。
また聖書には、このように記されているところがあります。「あなたがたは神の神殿です。」私たちイエスを信じる一人一人が、イエスの十字架を通して、神が宿る神殿となる、ということです。つまり神殿にあった神の臨在は、イエスを信じるキリスト者一人一人に移されることになる。だから目に見える神殿のために、いのちを張る必要はもはや無い。
新約聖書、コリント人への手紙第二6:16節にこのようなことばがあります。
私たちは生ける神の宮なのです。神がこう言われるとおりです。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。 (コリント人への手紙 第二 6:16 SKY17)
イエスがこの世界に来たことにより、神はもはや神殿に臨在されることはなくなりました。私たちの内に生きて下さる。そればかりでなく、私たち一人一人が神の宮、生ける神の神殿となる。
かつてのエルサレム神殿に匹敵する価値が、いや、それ以上の価値であり尊さが、イエスを信じる私たち一人一人にある、ということです。私たちが、何かができる、できない、忍耐する、しない、努力をする、しない、などに関わらず、イエスの十字架によってすでに価値のある者とされている。だから神殿を守るような戦いをする必要は、もはやない。戦いや努力、自分の力で神と交わりをし、また救われようとする必要はない。救いはすでにイエスの十字架によって完成されている。私たちはただ、イエスによって価値ある者とされている、ということです。
この神であるイエスが、今も、そしてこの瞬間も聖霊を通して私たちと共にいて下さいます。そして私たちが本当にすべき大切な戦い、断固死守すべき場所、それは神が住まいとされる私たち一人一人の体であり、存在です。私たちイエスを信じる一人一人が、神のご臨在を示し、また表す神殿です。神であり、私たちの主であるイエスが、私たち一人一人を神の霊である聖霊が宿る聖なる、そして価値のある生ける神の宮、神殿として下さった。そしてそのように価値ある者として見つめて下さっている。
最後の20節にはこのように記されています。しかし、主は、ご自分が選んだ人たちのために、その日数を少なくしてくださいました。終わりの日の「その日」に向かって激しくなって行く苦難や迫害に対して、イエスは選んだ人たち、すなわちイエスを信じるキリスト者、クリスチャンが苦難や迫害に耐えることができるように、その日数を少なくして下さったと聖書は告げています。
「日数を少なくして下さった」とありますが、文法的には過去形が使われています。それは日数が短くされるという未来における出来事が、既に過去において決定されている、神が既に計画され、予定されているということが、強調されています。つまりこの20節も、終わりの日に臨む私たち、イエスを信じる全てのキリスト者にとって、励ましの預言であるということです。
神は、イエスは、救いに選ばれた者を忘れず、全てのキリスト者、現代を生きる私たち一人一人のキリスト者が、苦難や迫害に耐えることが出来るように、その苦難の時を少なく、短くして下さる。そして既に短くして下さいました。イエスの私たちに対する愛、配慮、恵み、憐れみを感じます。
私たちは自分の中に、救われるべき理由は何もありません。自分が他の人よりも立派であるとか、信仰深いということでもありませんし、忍耐強いわけでもありません。それはただ、私たちを一方的に選び、恵まれ、支えておられる神がおられる、ということです。そのイエスが、「その日」に向かって激しくなって行く苦難においても、また迫害においても、共にいて下さいます。
イエスの十字架を通して、また聖霊を通して、イエスを信じる私たち一人一人を尊い生ける神の宮、神殿として下さったイエスに感謝と讃美を捧げます。そして終わりの日である、「その日」に向かって、与えられた一日一日を、共に、大切に過ごしていきたいと願います。
祈ります
差し迫る苦難と主の憐れみ
しかし、主は、ご自分が選んだ人たちのために、その日数を少なくしてくださいました。